《》第21話 終焉の魔

「は……?」

聞き間違いかと思った。

聞き間違いであってほしいと思ってしまった。

それほど、『憤怒』の口から出てきた人の名前は常軌を逸していた。

――アリス。

それはこの世界において、最も忌避されている名前の一つだ。

この國で、いや、この世界の大人なら、その名を知らない者はいないだろう。

アリスとは、百年ほど前にこの大陸に存在していた魔師の名前だ。

それも、ただの魔師ではない。

曰く、なくとも霊級程度の力を持っていたとされる強大な魔師であった。

曰く、大人も子供も、男もも、無差別に殺し盡くした殺戮者であった。

曰く、殺戮と破壊の果てに、國を一つ滅ぼした天災であった。

そのあまりに殘な所業の數々と、アリス自がこの世界の消滅をんでいたことから、『終焉の魔』の異名をつけられ、世界中で恐れられているのだ。百年経った今でも。

『終焉の魔』アリスの蠻行は、彼が當時のエノレコート王に討たれるまで続いたという。

そういうことがあったせいか、この世界ではその名を語ること自が半ばタブーとされている。

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「あぁ、いったいどれほどこの日を待ちわびたことでしょうか。あなたと共に過ごした日々が、まるで昨日のことのように思い出せますよ。とても懐かしいです」

に手を當てて、目を閉じながら『憤怒』は語る。

今、その瞼まぶたの裏には、アリスと過ごした日々が映っているのだろうか。

それにしても、『終焉の魔』アリスは、百年ほど前に生きていた人のはず。

しかし、目の前の狂人はその名を呼んだ。

それはまるで、思いがけずに再會した舊友の名前を呼ぶときのように。

まさか、『終焉の魔』が今、ここにいるというのか?

僕はチラリと後ろを見る。

だが、そこにいるのは、し離れたところでこちらを心配そうに見るクレア様と、遠くのほうでこまりながら遠巻きにこちらを見ている生徒たちだけだ。

アリスらしき人間はいない。

「しかし、どうしてその子どもを庇うのです? あなたはそんな人間ではないでしょうに……」

僕が、庇われた? アリスに?

もしかして、先ほど『憤怒』のばした手が、僕の目の前で突然消滅したことを言っているのだろうか。

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クソ、報がなすぎて何が何やらわからない。

『憤怒』は、まるでアリスが自分の目の前にいるかのように話を続けている。

はっきり言って異様な景だ。

しかし、時間が経つにつれて、『憤怒』の表はみるみるうちに曇っていった。

それはまるで、アリスが『憤怒』にとって想定外の言葉を発しているかのような……。

「……本當にどうしてしまったのですかアリス。かつてのあなたは、この世界への憎しみに満ちていた。する人を世界に奪われたあなたの『憤怒』にワタシは大いに共し、親にも似たを抱いていたというのに。この世界のすべてに、あらん限りの憎悪を向けていたあなたが、どうしてそんな……」

するような表を見せる『憤怒』。

アリスが、世界にする人を世界に奪われた、とはどういうことなのだろうか。

もちろん、そんなことは書に記されていなかった。

いくら歴史書の作者でも、その人まで知り得ないないのは仕方ないことなのかもしれないが。

「ワタシたちに無斷で姿を消してしまったことを悔やんでいるのなら、気に病むことはありませんよ。あの呪われた一族に敗北したのは仕方のないこと。『始祖』に抗える者など、この世界のどこにも存在しないのですから」

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『憤怒』は混した様子で、言葉を紡ぎ続けている。

アリスを引き留めるような口調だ。

呪われた一族、というのは、文脈から推察するにエノレコートの王族のことと見て間違いない。

だが、呪われた、という言葉の意味はよくわからない。

やがて、何を言っても無駄だと悟ったのか、『憤怒』の顔に暗い影が落ちた。

「……どうしても、ワタシと敵対しようと言うのですか、アリス」

その様子を見て、背中に冷や汗をかく。

今の『憤怒』は、何をしてもおかしくないような危うさがある。

次の瞬間にでも、『憤怒』からびている手すべてがこちらに襲いかかってくるかもしれない。

「仕方がありませんね……。あなたにその気がないのなら、ワタシたちだけでこの世界を崩壊させましょう。ワタシたちは歩みを止めるわけにはいかないのですから」

「世界を、崩壊させる……?」

僕の呟きが耳にってきたのか、『憤怒』は穏やかな表を浮かべた。

「そうです。今のこの世界は穢れに満ちている。ゆえに一度リセットして、新しい世界を始める必要があるのですよ」

自分の主張を欠片も疑っていないのだろう。

『憤怒』は、まるで出來の悪い子供に事を教えるかのような様子で、僕にそう語りかける。

「そんなことは、させない」

気付いたら、そんな言葉を口にしていた。

この世界には、僕にとって大切な人たちがたくさんいる。

たとえ、『憤怒』が世界を滅ぼそうとして目の前に立ちはだかったとしても、僕は戦うだろう。

「あぁ、とてもしく強い意思ですね。仲間を想う心。する心。目の前に立ちはだかる困難に、正面から立ち向かっていこうとするその姿勢。なんと気高く、素晴らしいことでしょうか。――ですが、あなたはまだ知らないでしょう? この世界の罪を」

この世界の、罪?

「……なにを」

「いずれ、あなたにもわかる時が來ますよ。この世界がいったいどれほどの罪と汚穢に塗れているのか。それを知ったとき、もう一度考えてみてください。本當に正しいのはワタシ達なのか、それともこの世界なのか。將來、知識をに付け、大きな挫折を味わったあなたなら、きっと公平な判斷が下せることでしょう」

わからない。

『憤怒』が何を言っているのか、僕にはわからない。

先程までと同じ、特に意味のない狂言なのだろうか。

「欠如して、初めて気付くこともあるということですよ。霊の寵を一けているラル君には言っても無駄なことなのかもしれませんが、あなたならあるいは……」

『憤怒』は一度そこで言葉を切って、

「……今日のところは、この辺で引くことにします。アリスが復活をまない以上、クレアちゃんを頂く意味も薄くなってしまいましたしね」

し疲れたような息を吐いて、『憤怒』が僕に背を向ける。

僕はそれを、ただ呆然と見送ることしかできない。

さっきまでの戦いで理解している。

今の僕では、間違いなく『憤怒』には勝てない。どう足掻いても力不足なのだ。

だからこそ、悔しかった。

絶対的な差を理解しているからこそ、學院の皆や王城の貴族たちを殺したこいつを、みすみす見逃してしまうことになるのが、悔しくてたまらない。

……こんなとき、ラル君ならどうするだろうか。

不思議と、逃げ出す姿は想像できなかった。

ラル君なら、どんな敵を目の前にしても、正面から立ち向かっていくような気がする。

だから、

「……待てよ」

こちらに背を向け、ずるずると足を引きずりながら歩いていた『憤怒』が足を止めた。

「何ですか。人が帰ろうとしているところを無理矢理に引き止めるなんて。それ相応の理由がなければ許されることではありませんよ」

緩慢な作でこちらを振り向き、ぎょろりとした目玉が二つ、こちらを見據える。

怖い。

どうしようもないほど怖い。

心は折れかけ、は恐怖で震えている。

戦って勝てる未來など、やっぱりどうしても思い浮かばない。

……でも。

「これだけ好き勝手やって、用が無くなったら、はいさようなら? ふざけるのも大概にしろよ!!」

「まあ、なんて悪い言葉遣いでしょう。目上の人は敬いなさいと、あなたはお父さんやお母さんから教わらなかったのですか? どうやらワタシが一から教育し直す必要があるようですね」

『憤怒』の腹部から生えている手が蠢する。

そのおぞましい景に吐き気を覚えつつも、僕は正面から『憤怒』を見據えた。

心まで負けちゃダメなんだ。

心まで負けてしまったら、心まで折れてしまったら、絶対にもう二度と、『憤怒』には勝てない。

「言っておきますが、さっきまであなたのことを守っていたアリスはもういませんよ? つまり、あなたのを守るものはもう何もない」

そんなわけのわからないもの、最初からアテになどしていない。

僕が頼るのは仲間と、自分自の力だけだ。

「我が名の元に集え、『風霊シルフ』!! ――」

「そんな攻撃に、魔を使うまでもありませんね」

防刃用の手を用意しながら、嘲るように、『憤怒』が僕を見て笑う。

さらに數本、こちらへの攻撃用の手をばしてきた。

「だから、無駄なんですよ。あなたにワタシは殺せない」

「いいや、お前はここで死ぬんだよ」

聞き慣れた聲が聞こえた。

だが、いつもの飄々(ひょうひょう)としたじは全くなく、その聲は怒りに満ちていた。

次の瞬間、『憤怒』の腹部が『巖弾ロックブリット』によってぶち抜かれていた。

「ぐぉお……っ」

先生の腹部から飛び出した何か・・がものすごい勢いで僕の橫を通り抜け、苦しげな聲をらしながら廊下を転がっていく。

やがて壁に叩きつけられたそれは、そのままきを止めた。

「ロード、無事か?」

こんなことをできる人間に、そう何人も心當たりはない。

「ラル君! よかった。無事だったんだね!」

倒れた先生のの後ろに、ラル君が立っていた。

「ああ。それよりも、さっさとアレを殺しちまおう」

ラル君は目で、転がっていった塊を示す。その視線は鋭い。

「……アレ、とはなんとも失禮な言いですね。目上の人に対する態度とは思えません」

「目上の人じゃないから何も問題ない」

ラル君の言葉を聞いて、僕はし驚いた。

僕の知る限り、目上の人相手にはそれ相応の態度をとっていたはずのラル君が、『憤怒』に対して雑な言いで接している。

それはつまり、ラル君が『憤怒』を、敬う価値のない人間とみなしたということだ。

「やっぱり、手が異常に集してる腹が本だったか」

それも、さっきラル君に指摘されるまで気付かなかったことだった。

先ほどの『憤怒』の聲は、転がっていった塊から発せられていた。

つまり『憤怒』の魔獣の本はあの塊で、アレが人間の中にって、その人間を乗っ取っていたと見て間違いない。

「まあいいや。とりあえず死ね」

「――こっ、殺さないで!」

「……は?」

よく見ると、その塊には顔があった。

さらにと、腕らしきものと足らしきものもある。

もっとも、どちらも手だったが。

人間を限りなく醜悪にすれば、こんな形狀になるのではないかと思わせるほど生理的嫌悪を沸き立たせる造型だ。

まさに、化けと呼ぶのがふさわしい。

「私はマスターにられていただけなんです! やりたくてやっていたわけじゃないんです! まして、こんなひどいことをするつもりなんて全くなかったんですよぉ! ゆるしてっ、許してください!」

その化けが、目に涙を浮かべながら懇願している。

異様な景だった。

そうだ、思い出した。

『憤怒』は、その能力で自が創り出した魔獣をることができる。そこに魔獣の意思は考慮されない。

おそらく目の前の魔獣は、全て『憤怒』がやったことで、自分は何もしていないから見逃してほしい、と言っているのだろう。

「うるさい」

だが、ラル君はそれを一蹴して、その化けに特大の『巖弾ロックブリット』を放った。

ぐちゃり、という、が潰れる嫌な音が辺りに響く。

魔獣は逃げる隙すらなく、『巖弾ロックブリット』と壁に挾まれてぐちゃぐちゃになって死んだ。

「……クソっ」

その死骸を見て、ラル君が悪態をつく。

無理はない。

『憤怒』を倒したというのに、爽快も何もあったものではない。

しかし、やっぱりラル君はすごいな。

僕じゃ手も足も出なかった『憤怒』を、いとも簡単に倒してしまった。

やはりラル君は、僕よりも數歩先を歩いているんだ。

「ラル君。他にも『憤怒』と戦中の人達がいるんだ。ラル君ほどの実力があれば、先生たちの力にもなってあげられると思うんだ。だから……」

「そうだな。もうアミラ様もこちらに戻ってきているから心配いらないとは思うけど、先生のがある程度治ったら、他のところの様子を見に行こう」

「先生のが治ったら、ってどういう…………!?」

先生の姿を確認しようと後ろを振り返って、ようやく気付いた。

先生のが、に包まれていた。

まるで、そのを癒そうとしているかのように、黃金が先生の全を包み込んでいる。

「……なんだい、これは?」

「ああ、って言ってね。霊たちの力を借りて、々なことができるんだ。今は霊アルテミスたちに、先生のの治癒をお願いしてるところ」

「……そっか」

なんでもない事のようにそう語るラル君の姿を見て、僕は悟った。

ラル君はもう、僕とは次元の違う世界にいるのだと。

「ラル! ロードくん! 二人とも大丈夫!?」

戦いが終わったのを見屆けたのだろう。

クレア様が、僕とラル君がいるほうへ駆け寄ってきた。

「クレア! 無事だったか?」

「うん。ロードくんが守ってくれたから大丈夫だったよ」

「そうか。……よかった」

そこでやっと、ラル君は表を崩した。

ラル君の安心した表を見て、とりあえず、僕たちの大切なものは守り通せたことを実したのだった。

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