「月くん、久しぶりっ」

いくつかの街燈が薄っすらと照らすだけの夜の公園に、2人の男の姿があった。

は先程やってきた、ガタイの良い長の年――月康介に、人懐こい表で笑いかける。

一方で康介の方は、そんなの姿を見て驚いた様子だった。

「マジかよ……本當に、行方不明になってた秋空なのか？」

秋空桜奈。

それが、數ヶ月前に複數人のクラスメイトと共に行方不明になったの名前だった。

集団失蹤か、あるいは拐か――彼たちのニュースは世間を賑わせたが、あまりに手がかりが出てこないため、謎を殘したまま騒ぎは沈靜化。

捜査は続けられているが、最近起きている大量殺人に人員を割かれ、まともに進んでは居ない。

今では、一部のオカルト好きな人間が都市伝説めいた噂を囁き合うだけで、親しい友人や家族以外は事件への興味をほとんど失っていた。

「何それ、別人に見えるっての？　どっからどう見ても私にしか見えないでしょ」

そんなが、突然姿を表した。

康介の攜帯端末に連絡がったのは、20分ほど前のこと。

桜奈の名前を使ったそのメッセージが、特別親しいわけでもなかった自分の元になぜ屆いたのか。

真っ先に彼はイタズラを疑ったが、しかし連絡先を知っていると言うことは、おそらくクラスメイトからの呼び出しだ。

どうせ男友達あたりがふざけて送ったのだろう、だったら怒鳴りつけてやらなければ――と家を出てきたのだが。

まさか本人がそこに居るとは、全く想像もしていなかった。

「えっと……前に見たときより、人になってるような気がしたんだ」

「あははっ、まさか口説いてる？　気持ちはわからないでもないけどねー、こんな夜に急に公園に呼び出されたんだもん、健全な男子なら期待するよね」

口説いているわけではない。

確かに彼は、康介の知る桜奈だったが、しかし以前とは何かが違うような気がしたのだ。

冬だからだろうか、夜だからだろうか、それとも自分が期待して、自然と彼を見る目に補正をかけてしまっているのだろうか。

両手を後ろに回して足をぷらぷらと揺らす彼を前に、なぜか康介は、張からうまく喋れないでいた。

「ま、元々そんなに話す関係でも無かったもんね、いきなり呼び出されても困るか。じゃあ早速、本題にるね」

「あ、ああ……」

「ちょっと月くんに見せたいものがあるんだ、ついてきてくれる？」

「わかった」

康介は桜奈に導かれるままに、彼の後ろについて歩いていった。

公園を奧へと進み、道を外れ、雑木林の中にっていく。

落ち葉が積み重なった腐葉土は足場が悪い、そんな中でもひょいひょいと軽に進む桜奈に、康介は時折バランスを崩しながらもついていった。

「桜奈ちゃん」

「あれ、冬花。待ってるんじゃなかったの？」

林を進んでいる途中、別のが姿を表した。

佐藤冬花、彼もまた桜奈と共に姿を消したクラスメイトのうちの1人だ。

「佐藤まで……お前ら、今までどこに行ってたんだ」

冬花に話しかける康介だったが、彼は彼を一瞥しただけで、すぐに興味なさげに視線を外した。

まあ、元々桜奈以上に接點の薄い相手だったので仕方ないことではあるのだが、無視に近い反応に康介は1人傷つく。

「1人で待ってるのが寂しくなっちゃって」

「ちょっとの間じゃない、ほんと冬花は甘えんぼね」

「うん……桜奈か千草様が傍に居ないとダメなの。そういう風に変えられちゃったから」

そう言って冬花は桜奈に顔を近づける。

桜奈の方も自然に目を閉じ、彼からのキスをけれた。

「んふ……ふぅっ、ちゅ……っ」

「はむっ、れる……じゅっ、ちゅぷ……んはぁっ……」

そして、突然舌を絡め始める2人。

「は……？　な、ちょ、お前ら、何やって……」

突如繰り広げられるたちの癡態に、康介は唖然とするしか無かった。

桜奈と冬花が親しかったのは確かだが、そんな関係では無かったはず。

それとも行方不明の間に距離をめたのだろうか。

だとしても――他人が居る前でやるようなことじゃない。

「ぷはっ……ぁ、ん……もう、月くん見てるんだから。臺無しになっちゃうじゃない」

「ごめんね桜奈、我慢できなかったの」

桜奈にたしなめられ、落ち込んだ表を見せる冬花。

しかしその右手はしっかりと桜奈の後ろに回され、部をで回していた。

「んぁ……もう、盛りすぎだっての。後で用事が終わってから。ね？」

「う……わかった」

さらにしょんぼりとしながら、桜奈から離れる冬花。

桜奈は一応・・申し訳無さそうな顔を作り、康介に頭を下げた。

「ごめんねぇ、待たせちゃって。さ、早く行こっか、待ってる人もいるから」

「……あぁ」

これは異常だ。

康介はそれに気づいていたし、逃げられるのなら逃げてしまいたかったが、なぜだかそんな気も起きなかった。

逃げられる気がしなかったのだ。

だから、彼はとにかく、用事を終わらせて早く帰ろう。

そればかりを考えていた。

道なき道を進むと、やがて広場が見えてくる。

そこだけは、他の場所と違ってライトに照らされ、やけに明るかった。

いや――そんな場所に明かりなどあるわけがない。

源はどうなっているのか、と康介が広場の上あたりに視線を向けると、そこには浮かぶの珠があった。

それも1つだけではない、4つもだ。

何かに支えられているわけでもなく、吊られているわけでもなく、ふわふわとその場に浮かんでいる。

「なんだ、あれ……」

に気を取られていた彼は、上を見上げたまま広場に足を踏みれた。

瞬間、異様な匂いを嗅ぎ取る。

「うっ」と思わずうめき聲を上げ、口元を覆ってしまうほどの異臭。

「ついたよ、月くん」

桜奈の聲と同時に視線を下げる。

そこで彼が見たものは――

「……は？」

見覚えのある顔だった。

「言葉に意味は無くて、行に価値は無くて、命が在るだけで罪になるなら、彼らはどうやって償うべきだろうか」

冬花がポエムのような言葉を紡ぐ。

しかし康介の耳にそれはってこない。

それよりも、目の前の、彼のクラスメイトの顔・がずらりと並ぶこの狀況が。

その中には親しい友人の姿もあったが、康介は「よう」と気楽に聲をかける気にもならなかった。

だってそれは、顔だけだったから。

正確には、頭だけ。それがちょうど康介の視線の高さと同じぐらいの場所に、悪趣味なモニュメントを囲むように飾られている。

「生として償えない、ならばとして償うしか無い。謝意を表現するために、彼らの贖いのために、私たちはその手助けをしてた」

冬花はその、死で作られた塔を見上げながら、語り続けている。

「ほら、私たちは幸運にもだったから、こうして人を辭めることで千草様に償うことが出來たじゃない？　けど――月くんみたいに男だと、形・で”ごめんなさい”って言うしか無いのよ」

桜奈は冬花の言葉を補足するように、康介に向かって言った。

だが、理解は出來ない。

できるわけがなかった。

知人が殺され、バラバラに解されて、ご丁寧に積み木のように組み上げられている様を見て、思考がまともにくわけがない。

「要するに、月くんにもパーツになってしいんだ。いいよね？　って言うか、そもそも斷る権利も無いんだけどさ」

「まさか……お前ら、なのか？　最近、クラスの奴らが何人も死んでるの。あれは、お前らが……！」

返答はない。

桜奈と冬花は表を変えずに康介に近づいた。

それが答え代わりだ、聞かずとも理解はできる。

年は後ずさり、たちはにじり寄る。

そして、康介の足が広場のエリアを出ようとしたその時、彼の髪を微かな風がさっとでた。

背後に誰かの気配をじ、振り向いた瞬間。

彼の顔は何者かの手のひらに鷲摑みにされ、そのままふわりと視線が高度を上げたかと思うと、すぐさま急降下して、腰ほどの高さにまで墮ちた。

その奇妙なを境に、が一切の命令を聞かなくなった。

うまく喋ることすら出來ない、首がぞわぞわする。

「（どうなってんだ、これ……）」

まるで振り子の先端に括り付けられたように、ふらふらと揺れる視界。

自分の意思と関係なく移ろう景に、康介は酷い車酔いのような覚に陥り、頭を締め付けるような頭痛に眉間に皺を寄せた。

しかし移時間はさほど長くなかった。

康介は何者かの手によってもう一度持ち上げられ、そして何かに挿し込まれ・・・・・、固定される。

両脇には友人の生首、桜奈と冬花は自分ではなく、自分の前に立つ誰かに対し、頬を赤く染めてびたような笑みを向けている。

し離れた地面には、首の無い誰かの死が倒れていた。

「千草さま！　來てくれたんですねっ！」

「千草様のお手を煩わせるほどのことでは無かったのに……」

「これは私の復讐ですから、やはり自分で手を下さないと味気ないと思いまして。月さんだって、理由もわからず殺されるより、なぜ、どうして、誰に――それぐらいわかった方がいいでしょう？」

康介の視界に笑う白のの姿が寫り込んだ。

異論なしに”しい”と形容できるそのに、記憶に殘る誰かの面影が被る。

日向千草。

クラスメイトで、行方不明になった風岡たちを中心としたグループに酷いいじめをけていた。

康介自も、何度か彼に手を上げたことがあった。

だがあれは、風岡にわれたからで仕方なく――と思考で自己弁護を展開するものの、喋ることも出來ない以上、それが千草に伝わることはない。

それに、仮に伝わったとして、千草が彼を許すかと言えば、答えはノーだ。

なぜなら康介が彼を傷つけたのは事実だし、それになにより彼は男だから。

その時點で、生きる権利など存在していなかった。

「とぼけた顔をしているので一応言っておくと、今あなたは、首から上だけ引っこ抜かれてモニュメントの一部になってるんですよ。ほら、あそこに死があるでしょう？　あれは月さんのです」

言われても、なお理解できない。

なぜなら彼は生きていたから。

首から上を引っこ抜かれて生きている人間など居るはず無いのである。

「まだわかりませんか？　仕方ありませんね、なら――なけなしの優しさであなたから奪っていた”痛み”を、返してあげましょう」

千草がそう告げた途端、康介の頭に、今まで彼の優しさ・・・によって免除されてきた痛みが一気に流れ込んだ。

「――！」

康介は口を大きく開け、眼球が飛び出るほど目を見開き、聲にならないびをあげた。

だが音は何も聞こえてこない。

吐き出されるのは、ピンクの混じりの唾だけだ。

脳が焼ききれるほどの痛みに、次第に彼の顔は変し、目を上を向いていき――痛覚が解されてから十秒もたたないうちに、友人たちと同じように命なき塊にり下がる。

これにてモニュメントは完し、彼らの償いも完了する。

「お姉さま、どうかしましたか？」

珍しくアンニュイな表でそれを見つめる千草に、桜奈が心配そうに聲をかけた。

「やはりこれは必要な復讐だったのだと、改めて噛み締めていた所です。私自が幸せを摑むためにも、そして誰かを心の底から淀み無くするためにも」

憤怒も憎悪も、不幸に溺れていると同化して見失ってしまうが、幸福に浸っていると視界の端で邪魔をする。

ならば取り除かねばなるまい。

クラスメイトは今宵で全て排除できたが、千草にはまだ、景観を汚す不純が殘っている。

「つまり、千草様は昨日よりもさらに私達のことをしてくれるってことだよ。そうですよね、千草様？」

ハードルを上げるような冬花の発言に、思わず苦笑いをする千草。

実際それは事実だし、彼たちは昨日よりもさらに働いてくれたわけで、褒を與えねばならない。

「ええ、その通りです。昨日よりもうんと酷くしてあげます」

千草がそう言うと、冬花と桜奈は目をキラキラと輝かせた。

特に桜奈の方はガッツポーズをしながら「よっしゃあ！」と聲にまで出している。

ここまでストレートに喜ばれると、主人冥利に盡きるというもの。

否が応でも張り切ってしまう。

「さあ、私の気は十分晴れましたから、私たちの家に帰りましょう」

「はーいっ！」

「ふふふっ、はぁい」

大げさに手を上げて返事をする桜奈に、今度は冬花までも呆れたように笑った。

並べられた死の首たちは、恨めしそうに自らを殺した半吸鬼デミヴァンプたちを睨みつけているようにも見えたが――彼らには何も出來ない。

人殺し共は実に楽しそうに腕を絡めながら、公園を後にした。

◆◆◆

『H県A市の公園で男2人のを発見　不明の高校生か』

『XX日午前10時半ごろ、H県A市F町の公園で、切斷された男の指が見つかった』

『さらに県警が公園の捜索を行ったところ、男2人のが発見された。は切斷され、組み上げられた狀態で棄されていたという』

男はベッドの上に膝立ちして壁面にられたその記事を指でなぞると、口元を歪め、「はあぁ」と熱い息を吐き出した。

そのまま崩れ落ち、うずくまった狀態で荒い呼吸を繰り返す。

興が収まってくると、また立ち上がり、今度は別の記事を食いるように見つめた。

『H県A市で新たに男のが発見』

『XX日に2が発見されているH県A市でYY日、新たに男のが発見された』

『男の元は、先日発見された2と同じ高校に通う男子學生と見られている。また、の狀態も2と酷似しており、警察は同一犯の犯行である可能も視野にれて捜査を行っている――』

匂いを鼻腔が知する。

『は損壊が激しく、元の判別が困難』

溫をでじる。

『切斷された頭部は公園の遊に棄されていたという』

呼吸音に至っては、まるで耳元に吹きかけられているようではないか。

『また別の場所で発見された腕が別人のであることから、さらに別の被害者が居ると考えられ、警察は元の判別を急いでいる』

その記事を見終えると、今度は次の記事へ、また次の記事へ――と、薄暗い部屋の中で、中年男は自行為の代用品として記事を読み、我が娘の存在がすぐそばまで近づきつつあるという現実を、噛み締めていた。

「ああぁ……千草ちゃん、やっと帰ってきてくれたんだね。わかるよ、パパにはわかるよ、千草ちゃんが僕を求めてここに向かっていることが」

千草の行方不明から數ヶ月。

千秋との離婚以降、順調に壊れ続けていた日向良太郎の狂気は、孤獨になったことで急速に深度を増した。

外出もほとんどせず、仕事の無斷欠勤を繰り返すようになり、最近になって解雇されたようだ。

娘の將來のことを考えてある程度の貯金はあったが、それも現狀の生活を続けていればそう遠くないうちに底をつくだろう。

彼には、今後の生活に対する危機が必要だった。

だが、彼の頭の中には、する娘以外のことを思考する余裕は殘されていなかった。

「例えが繋がっていないとしても、僕と千草ちゃんは心で繋がってる。心が繋がってるってことはで繋がってるってことと同じさ。ずっと一緒なんだ、離れられないんだ、どこに居たって、何をしてたって、僕たちは親子なんだから」

言うまでもなく、良太郎の千草に対する執著は異常である。

全ての悲劇の原因は、彼があまりに一途に1人のをしてしまったがゆえに始まった。

千草の両親である千秋と良太郎が出會ったのは、高校生のころ。

2人は2年生の時に千秋の告白によって際を始め、健全にを育み、そして『社會人になったら結婚しよう』と約束し、千秋は短大へ、良太郎は大學へと進學した。

同じ高校に通っていた頃に比べれば多の距離は出來たものの、同棲していたため距離はさらにまっていった。

誠実で真面目な良太郎と、想も量も良い千秋。

周囲から『絶対にいい夫婦になるよ』と茶化されるほど、理想的な人だった。

そんな2人の関係に変化が生じたのは、千秋が短大を卒業し社會人になった頃。

良太郎は千秋にわれ、いつものように彼と行為を行おうとした。

この時點で2人は相當に盛り上がっており、とっくに互いが可能な狀態になっているはずだった。

しかし、困ったことに良太郎はたなかったのだ。

彼の想いは紛れもなく彼に向いており、をして、して、そして的興を覚えていたはずなのに、なぜかたない。

千秋は焦った様子で様々な手段を講じたものの、一向に行為が出來る様子はない。

その日は”調が悪いのだろう”と結論づけ、休んだのだったが、以降、良太郎が千秋に対して的にすることは無くなってしまった。

理由はわからない。

良太郎は苦悩し、病院への通院も始めた。

千秋も獻的にそんな彼を勵まし、支えた――が、彼には心當たりがあった。

それは、よくある気の迷い。

社會人になった彼は、會社の同僚に比べて大學生である良太郎が子供っぽく見えるようになってしまった。

運悪く、同時期に癖の悪い男が彼に近づき、口説こうとしていた。

理のある彼なら、浮気などという愚かな結論には至らなかっただろうが――酒がその理を溶かしてしまった。

たった一度の過ち。

けれどその”一度”が、取り返しのつかない悲劇を生んでしまった。

それでも、良太郎は人を疑うことなど無かった。

原因は自分にあると考え、浮気など全く想像すらせず、悩み続ける。

その間も擬似的な行為は幾度となく試したものの、やはり彼に変化はなく。

そして、彼が大學を卒業する間際――千秋は千草を妊娠した。

無論、宿った命は良太郎の子ではない。

中々自分を抱いてくれないことに求不満を募らせ、その後も數回、浮気を繰り返していたのである。

産まれた千草は千秋によく似ていたが、良太郎にはあまり似ていなかった。

それでも彼は千草を溺した。

果たしてあの疑似的行為で子供が本當に出來るのか、という疑問はあったが、それよりも何よりも産まれた最の娘が可すぎたから。

千秋は後ろめたさからかし引いた立場ではあったが、それでもいころは母として頑張っていたように思える。

表面上は平和な家族だった。

短大時代からの千秋の友人も、『理想的な家族ね』と笑いながら3人を賞賛した。

千草が3歳になる頃には、千秋も”誰も真実を知らなければこのまま幸せになれる”と確信し、ようやく憂いなく母らしい行が取れるようになった。

しかし、罪がそう簡単に消えるわけがない。

罰が下ったのは、千草が4歳の頃、良太郎と一緒にお風呂にった時のことだ。

――娘のを見て、父はした。

あれほど、千秋がどんな手を講じても湧き上がらなかったが、突如溢れ出したのである。

その瞬間、良太郎は全てを認めるしか無かった。

『これは親に対して抱くじゃない、やっぱり千草ちゃんと僕はが繋がっていないんだ』

同時に、それは千秋の浮気も認めることでもある。

一途にをし続けた彼の神が、妻の浮気を許容できるはずもなく。

その時、狂気の種が良太郎の心に宿ったのだった。

そして種は順調に長を続け、日向良太郎という良識ある人間は、時間の経過と共に破綻した。

「はぁっ、はぁっ、はあぁっ、ああぁぁぁっ……！　匂いがする、千草ちゃんの匂いがするよぅ！　そうか、そうだったんだ、昨日のアレ・・はサインだったんだ！　あの死たちは千草ちゃんが僕に送ったのメッセージだったんだぁ！　僕としたことがなんて気が利かない！　どうしよう、部屋は散らかりっぱなしだし臭いし汚いしッ！　あぁ、でも千草ちゃんなら僕の匂いも好きになってくれるかな。そうか、そうだよね、だったら良い、それでいい。迎えよう。千草ちゃんの好きな料理は作り置きして冷凍してあるし、レンジでチンするだけだからキッチンが汚れてたって問題はないし。2人で食卓を囲んで、談笑して、再會を喜んで、抱き合って、一緒に風呂にろう。そしてを確かめあったら、次は、次は、次は――っ！」

娘にして以降、良太郎の言にしずつ奇妙なものが混じり始める。

千秋が離婚を決めたのは、彼自がその言に、加えてその原因が自分にあるという罪悪に耐えきれなくなったからだ。

それでも良太郎への心を捨てきれなかった彼は、離婚後に自分を”悪役”に設定することで、『彼とが出來ないのは自分がクズだからだ』と言い聞かせてきた。

「來た、來た來た來た來た來たあぁぁぁぁあっ！　足音がっ！　そう、階段を登る足音があぁっ！　千草ちゃんっ、千草ちゃあぁんっ！」

良太郎はベッドの上でゴロゴロと転げ、床に落ちる。

落ちた衝撃を利用して跳ねるように立ち上がると、奇聲をあげ、何度も壁にをぶつけながら玄関へと走った。

そして彼がドアの前にたどり著くのとほぼ同時に、インターフォンの音が鳴る。

ガチャガチャと落ち著きのない様子で鍵を開け、勢い良く開く良太郎。

そこに待っていたのは、もはや目で確認する必要もなく、千草であった。

「ぢぐさじゃああァァァあああんっ！　よがっだぁ、よがっだよぼぉおお……っ！　がえってきでぇ、ぐれだんだねえぇえ……うぇ、うえぇぇええええっ……！」

良太郎はすぐさま娘の腰に抱きつき、號泣した。

中年の男とは思えないほど、くしゃくしゃの顔を涙で濡らし、それを娘の下腹部に押し付ける。

ぐりぐりと顔をかしていた彼はふいにぴたりときを止めると、その場で大きく深呼吸を繰り返す。

「んすううぅぅぅ……んっ、はあぁぁぁ……あぁ、千草ちゃん、甘いよ？　甘い匂いがするよぉ？　小さい頃はミルクみたいな匂いだったけど、今はのあまぁい匂いをさせてるんだね。千秋もそうだったんだ、千秋のここはとてもいい匂いでねぇ……あぁ、千秋、千秋ぃ……」

千草は無言のまま、冷たい目でそんな父親を見下す。

間を空ければしはまともになっている可能も考えたが、そんな都合のいいことがあるわけもない。

壊れたものは、元には戻らない。

「さあ、ちあ……千草ちゃん、家にろう。こんな場所に居たら寒い寒いになっちゃうからね、大事なの子のは溫かい場所に居なきゃならないからね。行こう行こう」

良太郎は立ち上がると、強引に千草の手を引いて家の中に引き込んだ。

そして早足で居間――ではなく、先程まで居た彼の自室へと向かい、部屋にるなり娘のをベッドに向けて突き飛ばす。

千草は全く表を変えずに布団の上に倒れ込み、うつむきがちに何もない場所を見つめていた。

そんな彼にのしかかり、ぐいぐいとを押し付けていく良太郎。

「あんまり抵抗しないんだ。良かった、約束覚えててくれたんだ。今度帰ってきたら、千草ちゃんのを僕の好きなようにしていいって指切りげんまんしたもんね。した……あれ、したっけ、想像？　ああ、まあいいや、したんだよ、したんだからいいんだよね？　してなくても、ほら、いいよね千草ちゃん。君は僕を見捨てない、君は僕をけれてくれるよね？」

そんな約束など存在しない。

千草が不在の間、それは妄想に耽っていた彼が描いた理想のシナリオのうちの一つに過ぎないのだから。

すでに、現実と空想の境界すらわからなくなってしまっているのだ。

「ほら、お父さんも期待でこんなに興してるんだぞ。千草ちゃんのだって熱くなってるはずだ、だって千秋は僕のことが好きなんだから、當然だよ。親子でおそろいだね」

良太郎は千草のに間を押し付ける。

さすがにこれには、千草も不快そうに顔をしかめた。

言葉だけなら、聲だけなら、娘に語りかける男親そのものなのだ。

その容さえ鑑みなければ。

自分に対してを一切隠そうとしない父を前に、千草は取りすこと無く、落ち著いた様子で口を開く。

「は繋がってませんけど」

父と再會して、最初の言葉がそれである。

親に襲われるという異常な狀況下において、あまりに無な一言に、良太郎は不気味な笑みをたたえたまま固まってしまう。

が繋がっていない、それは紛れもない事実だ。

しかし、良太郎が目を背けたい現実でもあった。

次第に彼のは震えだし、どもりながら、言い訳めいた言葉を吐き出す。

「ち、は……繋がって、ない。確かに、そう、だよね。そう、だ。だって、千秋は、僕以外の誰かと寢たから。寢たって、一緒に橫になっただけじゃない、わったんだって。僕の千秋の中に、他の男がっていったんだ。ああぁ、汚らわしい汚らわしい汚らわしいいいぃぃいっ！　いいぃ……い……で、でも、だけど、そうだよ、そうだった！　だから、僕と千草ちゃんはが繋がってないから、わったって問題ないんだよ？　千秋は僕のことをしているから、千草ちゃんが僕を拒むわけはないんだし、安心して――」

「嫌です。と言うかお父さん、実の娘にそういうの、気持ち悪いですよ」

二度目の衝撃が、良太郎の心臓を撃ち抜く。

「あ……あ、あ……気持ち、悪い？　僕が、千草ちゃんから見て、気持ち、悪いだって？」

そんなことはありえない、なぜなら千秋は自分のことをしているから、それならその娘である千草も自分のことをしているはずなのだから。

本人の意思を聞いたわけでもないのに、良太郎の中でそれは確定した事実になっていた。

だから、論理矛盾を起こす。

「ない、な、ない、ありえ、ない。千草ちゃんは、僕が好きなんだ。してるんだ。わるべきなんだ。そのために帰ってきたんだ。なのに、なのに、なのにいぃ！　なんでっ！？　なんでぇ！？　ちくしょう、ちくしょう、ちくしょおぉぉおおおおおお！」

以前、良太郎が千草を傷つけた時もそうだった。

ふとした言葉が彼の思考を壊し、理を奪い去るのだ。

結果、彼に殘るのは――暴力的な怒り、妻を奪った理不盡に対する憎悪。

気づけばその両手は千草の細い首に向かっている。

両腕でそこにれると、力を込め、ベッドの上に押し倒す。

そのまま良太郎は馬乗りの狀態になって、千草の首を締めた。

「お、お、おかしいだろっ？　おかしいだろぉぉぉおお！？　なんでっ、なんでえぇっ、僕をせよぉおおおおお！　抱かれろっ、挿れさせろっ、こっちは、もう、限界なんだよ！　千秋とわりたくてしかたないんだよぉおおおお！」

だから、である。

父にしろ、母にしろ、ふたりとも――千草のことを見ていないのだ。

良太郎と千秋のの結晶であって、結果であって、果であって、日向千草という個人としては認められていない。

すなわち、親になれなかった人たち。

「知ってるよ！　わかってんだよ！　気持ち悪いことぐらい誰よりも何よりも千秋に言われなくても僕がっ、一番っ、わかってんだぁぁあああ！　わかるか！？　わかんねえだろ！？　娘にっ、4歳の娘のを見て興した親の気持ちがっ！　どれだけあの時に僕が絶したか、何もかもを、今まで積み上げてきた人生のありとあらゆる全てを喪ったことを――わかんねぇんだよぉ……千秋もおぉ、お前もおぉ……ぉぉおお、おおおおおおおっ！」

確かに、彼にとっては絶的な出來事だったのだろう。

だからといって、それが千草を傷つけていい理由にはなりえない。

「膨らみとも言えない膨らみとか、男けれるための部分とかさ、見るんだよ、見たくなるんだよ！　なんでなんだ……なんでっ、なんで僕はこんな……なんでえぇぇ……あぁ、千秋ぃ、千秋ぃ、どうして……ぇ、僕を裏切ったんだよおぉ。僕はっ、ぼぐはぁっ、どおじだらいいんだよぉぉおおお！」

ぐっと両腕に重を込めながら、涙を流し、恨みを吐き出す良太郎。

無論、その程度で千草が死ぬはずもなかったが――普通の人間なら間違いなく殺されているだろう。

つまり、彼には殺意があったのだ。

――ああ、やっぱり。

わかっていたことではあったが、千草は改めて失した。

所詮、彼は千秋の代用品でしかなかった。

忌み子として産み落とされ、人形として育てられ、道として殺されようとして。

リリィや白金巫里は人間だった頃、半吸鬼デミヴァンプのあり方を否定したが――もし彼たちが本當の正義の味方だったとして、人間だった頃の千草を救えただろうか。

否、不可能だ。

どんなヒーローも彼を救えない。

彼を救えるのは、結局、傲慢で、勝手で、殘酷で、けれど溫かい、に溢れた、人ならざるものだけ。

千草は自分の首を締める良太郎の手を摑み、剝がした。

いくら最近は外に出ていなかったからと言って、高校生の娘に負けるほど彼も非力ではない。

以前の彼とは明らかに異なる力強さに、ここで彼は初めて、人間らしい戸いを表に浮かべた。

「今日、私が何をしにきたのか、お父さんはわかっていますか？」

「ぼ、僕に會いに……あ……いや、違うな。こんな父親の元に戻って來たいと思うわけがない」

首を締めることで暴走するを吐き出すことに功したのか、今の良太郎は珍しく理を取り戻していた。

壊れた彼の心にわずかに殘った、正常な一部分。

それが表に出てきているのだろう。

「お別れ、かい？」

「はい、正しくは”算”ですが。一応、今日まで育ててきてくれたことには謝していますから、直接言っておかないとと思いまして」

酷く弱々しい表になった良太郎は、ゆっくりと千草のの上から退いた。

彼はベッドから降り、彼のった部分を、汚れを落すように叩く。

それが終わると、改めて父と向き合い、相変わらずの無表で淡々と告げた。

「選んでください。自分で死ぬか、私に殺されるか」

面と向かって言われたにも関わらず、良太郎に驚いた様子はない。

彼は笑みすら浮かべながら、うつむき、「そうか」と呟いた。

「実はね、僕もそろそろ頃合いかと思って」

良太郎は部屋の隅に移すると、そこに置いてあったホームセンターの袋を手に取った。

中には、茶いロープがっている。

何のために使うものかなど聞くまでもないが、良太郎の説明を千草は黙って聞いた。

「買っておいたんだ、首を吊るのにちょうど良さそうなのを」

そう言って、準備を始めた。

何度か練習でもしていたのか、手際よくロープを結ぶと、あらかじめ天井に取り付けてあったフックに引っ掛ける。

そこで彼はきを止め、思い出したように言った。

「あ、ごめんね、死ぬ準備をするからし待ってて貰ってもいいかな」

千草は無言である。

それを承諾とけ取った彼は、粛々と作業を続けた。

彼が本棚に視線を向けると、自殺に関する本が幾つか並んでいる。

中には古いものもあり、彼の自殺願は最近ではなく、割と昔から存在していたものなのだと初めて知った。

……父親という人格に興味が無かったのだから仕方ない。

いくら良太郎に、娘にすることに対する罪悪があったとしても、千草にとってみればそんなものは後付の理由に過ぎない。

ロープがぶら下がったのは、ベッドから一歩分離れた場所だった。

準備を終えた良太郎はベッドに上がり、大きめに作ってあるっかに首をかけると、大きく深呼吸をする。

「千秋が短大を卒業するまでは、何もかもがうまく行ってたんだ」

思い出が、走馬燈のように蘇る。

記憶の殆どは千秋に埋め盡くされ、千草のことなどほとんど殘っていなかった。

「高校の頃、千秋と付き合いだしてから、よく”將來はどうするか”って話をしてたんだよ。どんな職業について、どんな家に住んで、子供は何人作って、ペットはどうするかとか、老後の貯金どうしようかなんて話までしててさぁ……」

幸福な思い出など、想起するだけ虛しいだけだ。

聲が震える、視界が滲む。

「あの頃は……幸せだったなぁ。このままずっと幸せになれるって、確信してたんだけどなぁ……」

締め付けられるの痛みは吐き気にも似ている。

記憶に押しつぶされて、苦しくなって潰れる前に、良太郎は飛び立つことに決めた。

「何で、こんな風になっちゃったんだろう」

死を前にして、後悔と未練しかない。

それでも、このまま千秋の居ない世界で生きていくぐらいなら、死んだ方がマシだと思った。

諦めはついた。

あとはほんのしの勇気で――ほら、足に力を込めて、一歩前に踏み出して――が宙を舞えば、次の瞬間には首に全重がかかって、呼吸ができなくなって、意識が遠ざかっていって。

宙ぶらりんになった良太郎は、しの間だけ苦しそうに首元を摑んでもがき苦しんで、やがてかなくなって、凄慘に歪んだ顔をしたまま、息絶えた。

その様を見ていた千草は、彼の死の前に立つと、右手の爪を鋭くばす。

「何でこんな風に、ですか。最期の最期まで、どこまでも自分本位なんですね、あなたは――！」

そして腕を振り下ろし、良太郎の亡骸を切り裂いた。

肩から左斜めに袈裟斬りにされた彼のは、下半分が床に落ち、軽くなった上半分は、切斷の衝撃から振り子のように揺れる。

「こんな死でも、気は晴れている。私が自分で思っている以上に、私はこの人のことを……憎んでいたのかもしれませんね」

無こそが好意の裏返しだとするのなら、千草が彼に抱いていたは、ある意味では親のと呼べるものだったのかもしれない。

とはいえそれは――目の前に死がぶら下がっているのを見て、思わず微笑んでしまう程度のものでしかないのだが。

千草は踵を返し、部屋を出た。

ここにやってきた時よりも、心が軽い。

かつてのクラスメイトを1人殺した/墮とした時よりも、その効果はずっと大きかった。

やはりこれは、自分にとって必要なことだった。

そう再確認した千草は、殘る1人――母親である千秋に思いを馳せる。

――彼が千秋のマンションを訪れたのは、その翌日のことである。