フウカを王宮から連れ戻してプリヴェーラへ戻り、ようやく落ち著けるかと思っていたら街は大変な騒ぎになっていた。

ちなみに俺が、翠樹の迷宮から持ち帰ったフィル結晶を売って得た金貨と銀貨を預けているプリヴェーラ銀行南支店は、數日前に起きた取り付け騒ぎによって封鎖されてしまっていた。

大暴走に街が押し流されれば晴れて一文無し。……とんだ災難だ。今に始まったことじゃないかもしれないけど。

金は失くしてもまた頑張って稼げばいい。それはプリヴェーラの街にだって言えることなのかもしれない。だが、簡単に捨てられるほどこの街の人間は聞き分けがよくはない。そこに付く歴史や文化が華々しいものならば尚更に。

故郷を見捨てられない。この街に住む人間の多くはそういったタイプの者達なんだろう。俺は故郷に対する著はさほど無いが、この街に対してはそこまで突き放せない。

なに、どうにもならなくなったらマリアンヌを連れて死に狂いで逃げ切るさ。一番大事なのはやっぱり命だからな。

大暴走の防衛戦に參加することを決めた俺たちは、マリアンヌの屋敷で一晩過ごした後久しぶりに南區の部屋に帰宅した。そして荷解きをする間もなくフウカとリッカを連れてすぐにバベル支部へ向かう。

バベルの無骨な建の扉を開き付へ向かうと、早速俺たちに気がついた付嬢のトレイシーと目が合った。彼の座るカウンターへ寄っていく。

「ランドウォーカー様！　このところ姿が見えなかったので心配していたんですよ。お二人もお元気そうでなによりです！」

「ちょっと街から離れていたもので。それより——」

會話しながらバベルを見回すと、やはりここも普段以上に騒がしい。狩人(ニムロド)たちはもちろんだが、カウンターの奧に働くバベルの職員達はいずれも慌ただしそうに行き來している。

「ここは相変わらず活気がありますよね」

「ええ。普段以上にの気が多くて愉快なじです。先日のエイヴス王國の厄災騒なんて誰も気にしてないくらいに」

一瞬だけうんざりとした顔を見せると彼はすぐに表を引き締めた。

「ここへいらっしゃったということは、ア(・)ル(・)テ(・)ミ(・)ス(・)も防衛戦に參加されるんですね」

「はい」

クロウニーとエルマーがいない今、勝手にアルテミスを名乗ることに抵抗がないわけじゃない。

「……心強いです。では早速、先日発布された大規模討伐要請、『プリヴェーラ防衛作戦』の概要についてご説明させていただきます」

「よろしくお願いします」

彼によればトレト運河を進行中のモンスターの群れは、早ければもう明日には街へ到達する予定らしい。観測されたモンスターの數は萬を軽く超え、大型やスターレベルの高いものも混じっているそうだ。

大暴走なんてものは大方そうなのだろうが、あまりにも準備の時間が足りない。

その中でバベルは、プリヴェーラ市との協力制の元獨自の報伝達ネットワークを駆使し、できうる限りの戦力を街に集結させつつ準備を進めている最中なのだという。

「過去、大暴走に立ち向かいそれを退けた例はたったの一つ」

「——エイヴス・エアブレイド」

「ええ。かつての連合軍大將エイヴス・エアブレイドが、強國グレゴリア帝國が差し向けた大暴走を、無敵のアイン・ソピアル『三つの寶』(トリニティ・ブレイド)を振るいたった一人で撥ね除けたというアレですね」

エイヴス王國建國前、舊世紀末の出來事で、真実味がなさすぎて逆に有名な逸話だ。

そんな半ば伝説に近い極端な例しかないということは、基本的に人間は大暴走に太刀打ちできないというのは歴史が示す事実でもある。

それでも人は大暴走に挑む。きっと今まで大暴走に散った者達も、守りたいものを抱えていたに違いない。

「それでも私は、勝算はあると考えます」

「そう……なんですか」

「はい。バベルの総力を上げて、『東部三大賢者』全員の協力を取り付けましたから」

「！」

「それってガルガンティア様のことだよね？」

「ええ。波導師としても戦闘力としてもイストミル最強と謳われる三賢者、『銀嶺』『風掌』『影紡』がついにこの地に集まるんです。彼らの力を借りることができればきっと————」

きまぐれな東部三大賢者達についてトレイシーが熱を込めて語るのを聞きながら、俺は奇妙な覚を覚えていた。なんだか急に室のが強くなったような……。いや、逆に影が濃くなった？　気のせいだろうか。

「ナトリさん、何か変なじがしませんか」

俺の後ろにいるリッカが囁く。彼も何か異変をじているようだ。やっぱり気のせいじゃない。

「うおっ！！！」

突如後ろで上がった聲に振り向くと、そこには異様な景が広がっていた。

バベルロビーの中央、その床に真っ黒な渦が出現していた。影のようなそれはぐるぐると渦巻きながら徐々に広がっていく。そして、そこから浮かび上がってくるかのように人影が現れた。

「ここがバベルか」

そう呟きながら影の渦から出てきたのは、漆黒の長い髪をしただった。登場の仕方も異様だが、彼の格好もなかなかに奇抜だった。

真っ白くの気のじられない四肢をあられもなく衆目に曬し、ほとんど最低限の部分しか隠さない黒い布狀の何かをに巻き付けているだけの裝い。いくらなんでも出度が高すぎる。

彼はカウンターに向かって、こちらに歩いて來る。

騒がしかったバベルは水を打ったように靜まり返っていた。誰かがらした呟きが、異様に靜かなロビーに響く。

「影の、魔……」

「あ？」

その言葉を耳にれるやいなや、の様子が急変した。目を見開き、周囲を見渡す。同時に周囲の影も一層深さを増したような気がした。

「誰だ、今わたしのことを魔と言った奴は」

俺は彼から一瞬たりとも目を離さなかったが、次の瞬間にはの姿はその場から掻き消えていた。ロビーのソファで寛いでいたネコの狩人の前に影が口を開け、そこからの上半が這い出す。

「お前か？」

「ヒッ……」

言うが早いか再びその姿は消え、今度はカウンター向こうの職員の前に現れる。

「お前か？」

「い、いえっ……」

目の前に影が滲みだしたと思った瞬間、今度はは俺の前に立っていた。

「お前だな？」

「……俺はそんなこと言ってません」

下から俺を覗き込むように見上げる白い顔が間近にあった。両目は見開かれ、黒目がちで冷徹そうな瞳がギョロギョロと俺を舐めるように見回す。

「生意気な小僧だ。だったら全員縛り上げてやろうか」

「まっ……」

トレイシーの上げかけた靜止の言葉を気にも留めず、は詠唱を始めた。

「影よ、我が手足となりて不遜なる輩共を縛り上げよ——、『影の抱擁(スカイクラッド)』」

の詠唱に呼応するように、俺のから黒いもや、影のようなものが染み出し始める。影は寄り合い、紡がれ、植のツタや木ののように形をしていく。

自分のからそんなものが涌き出しているのを見るのはかなり気持ち悪く、嫌悪を催さずにはいられない。

「きゃっ！」

「なにこれっ！？」

「う、うわぁぁぁ！」

そこら中で驚愕の聲が上がった。周囲を見回すと、俺だけでなくフウカやリッカ、ロビーにいる人間全員のから影の手が生え始めていた。

それはまるで意志を持つかのようにき始めると、に巻き付いて締め上げてきた。払いのけようにも腕をかすこともできない。すぐに全にまとわりつく影によって完全にきを封じられた。

「わたしを魔と読んだヤツ。名乗り出ろ。さもなければ」

影の拘束が首筋を這う。ぐるりと首に巻き付き、を作るのがわかった。これは……まずいぞ。

「……っ！」

覚悟を決めて、リベリオンを呼び出そうとした時俺の五は別の異常を検知した。

頬が冷たい。次第にが震え始める。急速に熱を奪われていく覚。室の気溫がどんどん下がっている？

すぐに吐き出す息が白くなり、耐えられないほどの寒さになる。今度は一なんだってんだ——。

「なんだこれは？」

「白皙なる口縄よ。『霜薊《ニーズヘィグ》』」

の橫合いから巨大な霜の柱がびてきて彼を飲み込んだ。あまりに突然の出來事に一瞬思考が停止する。

これは、前に見たことがある。そう、氷のアイン・ソピアルだ。

『影裂(オイフェ)』

霜まみれになり、きできなくなったと思われたのいた場所が、突如として球狀の真っ黒な影に飲み込まれる。霜を影で削り取って現れたは、霜柱の飛んできた方を鋭く睨む。

「その辺にしておけ『影紡(かげつむぎ)』よ」

の丈以上の大錫杖を突きながら、ロビーの奧から現れたのはやはりガルガンティア老師だった。

「『銀嶺』……」

「隨分と久しいのう。それにしても派手に暴れたものじゃ。あの頃と全く変わっておらんと見える」

ガルガンティアはのことを「影紡」と呼んだ。と、いうことはまさか。

「あの人が東部三大賢者の一人、『影紡のバルタザレア』？！」

どう見ても歳下にしか見えない族のは、大層機嫌が悪そうに鼻を鳴らした。