「シィィイ……」

「なんだ……」

竜崎の背後、樹木のから姿を現したそいつは、鋭い眼で竜崎を睥睨していた。

そして竜崎はそいつにを向けて、しっか

黃土のに赤い瞳、右目には深い傷跡があり、発達した手足と腹元の袋、その姿はまるで、

「カン……ガルーか？」

竜崎から冷や汗が頬を伝って地に落ちる。

水上や葉倉はその存在に吐き気をじる。初めて會った魔界の魔族、魔境の魔族とはけた違いの圧力に、さすがの三人も恐怖というが植え付けられる。

「チッ、引き返すぞ」

舌打ちしながら、竜崎は踵を返し、引き続いて水上と葉倉も引き返す。

しかし――

「シャアァア！！」

「なっ――ぐおぁっ！！」

とっさに振り向いて顔を庇った両腕に衝撃、走る。

竜崎はそのまま引き返す水上と葉倉を追い抜いて、何本もの木々をその全でへし折りながら吹き飛んだ。背後から稲妻の如く追い抜いた竜崎に、二人の目は釘付けになる。そして、吹き飛ぶが最終的に大巖にぶつかり勢いを殺した。倒れる竜崎の右腕はへし折れ、左腕はも真っ青に変している。頭を打ったのか、り傷から出たが竜崎の金髪のをし赤が染め上げる。

「ぐっ、あぁ、くそっ！」

竜崎はすぐに起き上がり、激痛が走る左手で覚がなくなりそうな右腕を抑える。立ち上がるのもままならないのか、竜崎をけ止めた大巖に重をかけて、が滴る鋭い眼でこの狀況を作り出した相手を睨みつける。

真っ赤になりつつある視界の中で映った世界は、自分の実力に自信があった竜崎の心にじたことのない覚を植え付けた。

驚きのあまり走る速度が落ちている水上と葉倉。そのさらに奧、へし折られた何本もの木々を超えた先に映る存在。

黃土のに、傷跡のある釣った目に宿した深紅の瞳、発達した手足。さっきと違うのは両手にはボクシンググローブをはめていること。

シャドーボクシングをしながら、奴もまた竜崎を睥睨する。

「弾丸鼠ガンガル―か！」

竜崎はその存在を知っていた。その足は最高三十メートルの跳躍を可能にし、戦闘時に著けるグローブは鋼の如き度を誇り、一撃の威力がまるで弾丸のようなことからその名がつけられた。

「くっ、これのどこが弾丸だよ。大砲……いや、ミサイルの方が合ってんじゃねぇのか？　まぁ銃なんてないこの世界からすれば弾丸でも十分な威力だけどな」

これが格下の、片手でも倒せる相手なら、銃の無いこの世界で弾丸鼠ガンガル―という発想になるのか疑問に思うとこだが、今の竜崎にそんな余裕は殘念ながら無い。

そして、剎那の記憶の中で竜崎はいくつか驚愕したことがある。一つは、竜崎はマナを纏って防力を上げる共通恵【堅護】を使用したこと。竜崎の練度なら、無名の刀ならけ止め砕くことができる防力を誇るが、それを上回りダメージを與えるどころか、両腕を使いにしなくするだけでなく、數十メートル先まで吹き飛ばしたのだ。それは、魔界と魔境の魔族の差が予想をはるかに凌駕するものだったことを竜崎に伝えた。

もう一つは、吹き飛ばされる直後、両腕に今までけたことのない衝撃が走った時、掲げた両腕の隙間からわずかに見えた赤、そしてじりじりと伝わるマナの覚。

――魔界の魔族は魄籠はくろうを宿している？

その仮説が竜崎に思い浮かぶ。

恩恵者が持つ魄籠はくろうを弾丸鼠ガンガル―が持ってるとすれば、恵が使える可能も十分ありえる。そして、その考えが正しければ非常に危険な狀況に陥っていることになる。

両方ともマナを有しているのなら、単純に考えて練度の差がを言う。魔族に練度という概念があるかわ知らないが、それはこの際関係ない。要は竜崎の両腕がすべてを語っているのだ。

戦えば確実に――死ぬ。

ただ、それは戦えばということ。幸い竜崎は飛ばされたおかげで魔境にかなり近づいている。水上と葉倉も瘴気で大分消耗していても、【迅腳】を使えるだけはある。優希に至っては、ほぼ魔境にいると思ってもいいくらい魔界の端にいる。逃げようと思えば逃げられる。

しかしそれは、竜崎の心に深い傷を刻むことになる。

負ける可能があるという想像による撤退が、敗北を確実にした逃走になるのだ。今までどんな奴だろうと上に立っていた竜崎が、両腕を砕かれただけでなく、おめおめと逃げ帰るのだから。

久しくじた屈辱に竜崎は下をが出るほどに強く噛む。

しかし、ここで一泡吹かせようと思うほど、竜崎は馬鹿ではない。

強者には二つのタイプがある。一つは、弱者だけをげ、自分は強者だと錯覚した偽りの強者。プライドが高く、自分の縄張りでは態度がでかくなるが、自分よりも上の奴には怯えて自分の下の奴を盾にする者。

もう一つは、強者の上に立つ真の強者。人の上に立つことに対しては天才的な強者。狡猾で、慎重で、引き際と攻め時を弁え、自信はあっても過信は作らない者。

竜崎は後者にあたる。その彼が取る行は苦渋の決斷だが――逃走だ。

しかし、逃走だけでは終わらない。この屈辱や痛みを糧に、彼は強くなるのだ。誰よりも強く、誰にも負けないほどに。

竜崎は引き返す。共通恵に回復系のものは無い。回復は魔導士の専用恵になるのだ。そして、今この場に魔導士の恩恵者はいない。回復道も存在するが、必要ないと考え手元には無いのだ。

竜崎は自分の力を過信していた。この愚行をここまで示されると、認めざるを得ない。

今の竜崎は偽りの強者だと。

「見てろよ、俺は……お前を簡単に殺せるぐらい強くなるからな」

自分に言い聞かせるように呟きながら、竜崎はふらつきながらも足を進める。逃げる三人は【迅腳】で走力を上げて、疲れ果てた優希を追い越して魔境へと走った。

息を切らし、樹木に背を任せて座り込んでいた優希は通り過ぎて走っていく竜崎達に気付かない。それほどまでに優希は衰退していた。そして、休んでいるというのに瘴気によって力が落ちる一方の優希の視界、今にも閉じてしまいそうになっている優希の視界の端っこに、黃土のを纏う足が映り込む。

「はぁ……ぁ」

優希は今にも閉じてしまいそうな瞳に、支えるので手一杯になるほど重い頭を持ち上げて、その存在を映し出す。

最初は何が現れたのかよく分からなかった。何が起こったのかよく分からなかった。しかし、優希の記憶が、本能がまだ新鮮な覚を生み出した。が、心臓が、脳が、あらゆるが最大限の警笛を鳴らす

あの覚。

――死を前にした圧倒的恐怖を

「ぁ……ぁあ……うぁあわああああ！！」

優希は走る。どこに余っていたか分からない力を振り絞り、途切れそうな意識を繋ぎとめて、鉛のように足を持ち上げて走る、走る。

気付けば竜崎たちは魔境へとっていた。魔界の魔族は基本的に魔境へはってこない。自分の縄張りテリトリーが存在するのだろう。

そこまで行けば大丈夫……なのだが、優希は目の前の景、腕を壊した竜崎を見て不安が募る。

今までは竜崎という強者がいたからこそ、心の奧底では安心があった。しかし、今の竜崎からして、優希を追いかける敵はこの場で誰よりも強いということ。そして、竜崎たちは疲れて休んでいる優希をほったらかして逃げていったこと。

今も尚、【迅腳】で走り続ける竜崎達。今の優希には【迅腳】を使えるほどのマナは無い。むしろ、今の狀態で走って逃げていることが不思議なくらいマナの消費は激しい。だが、弾丸鼠ガンガル―は思ったよりも足が遅い。カンガルーは時速七十キロのスピードが出せるらしいが、弾丸鼠ガンガル―はおそらく時速十五キロ程。ないマナでも強化されている優希の全速力と同じくらいの速さだ。竜崎たちは倍近くの速さで、優希と弾丸鼠ガンガルーを置き去りにする。

「はぁはぁ……ここまでくれば……なんとか」

肩で息をする優希。先を行っていた三人も同じように息を切らしている。優希がいる場所でも魔境にって數十メートルほどの場所。恐る恐る振り返ってみると、案の定弾丸鼠ガンガルーは魔界の端、魔境との境界線を超えないように佇んでいる――

「え……？」

弾丸鼠ガンガルーの両足を赤が包み込む。マナの気配が見て取れて、その気配は徐々に存在を高めていく。それと比例して、優希達の安心は恐怖心と不安に変わっていく。

そして――

「シャィイッ！！」

その名の如く弾丸のような速度で死は迫る。一瞬の加速、弾け飛ぶように前方に跳躍した弾丸鼠ガンガルーは、さっきまでの走りが噓のように、瞬く間に優希に迫った。

脳の整理が追い付かない。魔境に侵した魔界の魔族、先ほどまでは手を抜いていたのか、視界から消えたように錯覚する程の変化、魔界の魔族は得が知れなかった。

「ぉぁあ！」

優希は走って逃げれるほど距離があった。おそらく一歩の跳躍が強化されたのだろう。早いのは一瞬だけで速度は徐々に落ち、著地するとピタリと足を止めると、再度赤が両足を包む。

またあの超跳躍が繰り出される。追いつくのは時間の問題だろう。現狀、弾丸鼠ガンガルーに一番近いのは優希だ。他三人は【迅腳】で弾丸鼠ガンガルーとの距離をしずつだが延ばす。

近づいてくる敵を背後に、優希は必死に三人の背中を追いかけていた。置いていかれる、追いつけない、追いつかれる、死ぬ、殺される。

「まっ、待ってぇ、ま……」

助けを呼ぼうにも、息がうまくできず、聲が出ない。神的力的疲労、死の恐怖、いくつもの要素が重なって、優希の聲は元で聲を失う。

魔境に出れば弾丸鼠ガンガル―は追ってこない……はずだ。魔境にってまでも追いかけるのを見た後で、それが確実という保証はないが、おそらくは敵が視界にまだ居るから追ってきているのだろう。つまり、弾丸鼠ガンガル―の視界から消えれば、それほどに距離を開ければ助かるが、距離を開けられ中れば、魔境を出ても助かる保証はない。逃げ切る以外に確実な方法は無いのだ。

しかし、四人でかかれば倒せないまでも、全員逃げ切れることは可能だ。わずかな可能だが、ゼロではない。

竜崎達だけでなく、優希すらもその考えに辿り著いていた。

竜崎達は考える。後ろで死ぬ狂いで逃げる優希を、どうやって足止めするか。その答えが先に出た。全員で助かるわずかな確率よりも、確実に助かるが一人が犠牲になる方法を選んだのだ。

引き返せば自分たちも危ない。かといって優希は諦める気配を見せない。優希と弾丸鼠ガンガル―との距離は一瞬だけ埋まるが、次の跳躍までの時間が優希との距離を再びばす。このままこの狀態が続けば魔境を出ても危ないかもしれない。木々が視界をくらませる魔境の中で逃げ切りたいのだ。魔境を出ても逃げ切れなければ確実に終わる。実のところ竜崎達も必死なのだ。竜崎は弾丸鼠ガンガル―にやられたダメージで、水上と葉倉は瘴気による力の低下で、長時間の【迅腳】は使えないのだ。

僅かな可能に縋りたい優希と、自分たちは確実に助かりたい竜崎達。矛盾する選択の中で、運命は片方の味方に付いた。

「うわぁっ！？　……な、何だこれ、解けない！？」

優希の足に突然絡みつく、數本のツル。複雑に絡まったツルは、優希ががむしゃらに引き千切ろうと試みるも、チェーンかと錯覚するくらいく、解こうとしても、迫りくる弾丸鼠ガンガル―が優希を焦らせ、冷靜さを失わせる。そして、何とかしようとすればするほどツルは強く優希を縛る。

優希は來た方向をそのまま引き返したのだ。一度通った時はこんなツルなどなかった、それは周囲に散らばる竜崎が殺した魔族の死骸で道を間違えたことはあり得ない。

ツルがびる先は木々に隠れて確認できない。まるで、この世界が優希を殺すかのように、未知の場所からツルはびる。

「た、たすけっ――」

嘲笑うように木々の騒めきが優希を囲う。カラカラに乾いたを震わせて、助けの言葉を舌にのせて、外に吐き出す。

しかし、優希が必死に吐き出した助けの言葉を途中で黙らせたその景は、あまりにも殘酷で――