紅の貓に住み込みでウルドの訓練をけ始めて三日目。

地下の修練所で薫は涼し気な格好で倒れていた。

全から噴き出る汗がシャツを濡らし、荒い呼吸音と共に心臓の音がはっきりと聞こえる。天井の輝石が照らすは、瞼を通過して橙の世界を薫に見せる。

「まだ経験の淺さが目立つが、この短期間なら十分すぎる呑み込みだ。君は筋が良い」

「ありがとう……ございます」

息を吸い、吐いた時に言葉を発する薫。まだ殺気をぶつけられるという覚に恐怖を覚えるが、何とか理を保ち冷靜に行できるほどになっていた。

ウルドから剣と、各恩恵の恵についてなど戦闘に必要な基礎知識を叩き込まれ、薫は久々に筋痛に襲われていた。

「さて、し休憩してから次の段階に進もうか」

「次の段階ですか？」

を起こすと薫の髪から汗が滴り落ちる。

半袖のシャツからびる腕はしっかりと鍛えられ逞しくなっている。

実質たった二日の訓練でに変化が見られるほどの急長。勇者の素質は単に練度のみならず、にも影響を與えているようだ。

不思議そうに見つめる薫に、ウルドは汗をぬぐって、

「何を言っているんだい？　むしろこれからが本番じゃないか」

「本番ですか？」

ウルドはり口に並ぶ武の數々から、一本の槍を手に取り、そこから部屋の中心まで歩くと、その槍の先端を、目地に突き刺した。

一なにをしているんだと様子を見る薫。だが數秒後、薫の疲れ切っていたは即座に立ち上がり、警戒態勢を整えさせた。

ウルドが槍を指した場所から、石煉瓦は數か所浮かび上がり、空いた隙間に煉瓦は移、石と石がれる音が空間に響き、その音が止む頃には、床に通路のような正方形のが出來ていた。

「案しよう。歩けるかい」

正直、足が棒になって休みたい気がないわけでもないが、それ以上にその通路の先にあるものが知りたくなった。

薫は酸が溜まる足をかしてウルドの元へ。ぽっかりと空いたを覗くと、更に下へと続く階段があった。

は巨漢のウルドでもすんなりれる程度の大きさで、燈がないその階段は、天井の輝石が注ぐが照らす最初の五段程度しか視認できず、それ以上先は暗闇に包まれていた。

「では行こうか」

薫に確認を取ったウルドは階段を下る。薫は一度深呼吸してれていた呼吸のリズムを元へと戻し、不安と好奇心が混在するを抱いて階段を降り始めた。

中はやはり一切の源がなく、一歩一歩足元を確認しないと降りれないほどに、石を積み上げただけの段差、広さ共に不規則な階段。

魔導士がいれば【魄燈】で燈を確保できるし、弓兵なら暗闇でも晝間のように明るく景を捉えることが出來る【夜視】を使えば、こんな階段スムーズに降りることが出來る。

だが、薫の恩恵は剣士。殘念ながら燈を確保することは出來ない。と、薫は思っていたのだが、

「ウルドさんそれは……」

前方を行くウルドの足が蛍のような淡いを纏っていた。

僅かだが足元を照らしていた。

革靴の軽快な音を響かせて歩くウルドは一度立ち止まり振り返った。

「やっていることは【堅護】だけだよ。マナのが僅かだが源として役に立つ。まぁ【魄燈】や【夜視】と比べると気休め程度にしかならないがね」

ウルドに言われて試しに薫もやってみる。

【堅護】は本來マナをの一部、もしくは全に纏い、防力を向上させる恵だ。だが、その時に生じるマナの壁は、ほんの僅かだがとして存在していた。

その僅かなは、薫の足取りを確実に早めた。

しかし、照らすのは足元だけで、この階段がどこまで下に続いているのかは分からなかった。

修練所までの螺旋階段とは違い、この階段はまっすぐ下へと続いていた。

そして、その階段が終わると數メートルだけ廊下がびていた。両手を広げれば指先が壁にれられる程度の幅がある廊下。

その奧には鉄格子の扉。ようやく慣れてきた目を凝らしてさらに奧を凝視すると、奧には六畳ほどの部屋が広がるのが見えた。だが、眼で見た限りこれと言って特徴はない。

「ここから先は私にも何が起ころか分からない。だが、神狀態に支障をきたすほどのトラウマや悪夢を刻み込まれるのは確かだ。どうするカオル君？」

どうすると言われても、カオルにはこの部屋が何なのか一切理解出來ていない。何の説明もなく連れてこられたのだ。唯一分かっているのは、なくとも良いことは起こらないということ。

「ここは何なんですか？」

「『聖域のり口』『悪夢の間』『冥界の狹間』……うちでは當人によって呼び方が変わる。この部屋に一足踏みれば、迎えるのは君にとって絶の景。だが、その苦しみを乗り越えた先に君のむものが手にる」

「むもの……」

鉄格子の扉はウルドによって開かれる。

あとは前へ進むだけ。それだけなのに、なかなか足がかない。この先で待ちけるであろう悪夢が、薫を恐怖心で縛り上げていた。

「まだ時間はある。何なら明日でも――」

ウルドが逃げ道を用意した時、薫の足はようやく進んだ。ウルドが逃げ道を作ったことで、薫の心に余裕が生まれたからだ。

正直、ウルドは心配だった。覚悟を決めている薫を引き止めたい気持ちはあったが、今止めてしまうと折角固まった意志にひずみを與えてしまう。

ウルドは見守るしかできなかった。

そして、薫のが悪夢へとう広間に侵したとき、薫の視界は現実世界と隔絶された。

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薫が立っていたのは、漆黒に包まれた空間だった。

アルカトラに來る前にいた、エンスベルが即席で創った盤上の世界のように、空や周囲は暗闇しか広がっていなかった。

當時と違うのは、今自分が立っている場所も真っ暗且つ、足元には冷気のようなものが漂っている。もし空が暗闇ではなく晴天なら、薫としては雲の上に立っている気分だ。

「ここは…………」

視認できない地面を踏みしめて、薫は方角も分からないまま適當に歩く。

冷たく乾いた空気が、汗ばんだ薫のシャツを乾かしていく。

遅れて、この世界に來る前のことを思い出した。

ウルドは、ここは神に支障をきたすほどのトラウマを植え付けると言っていた。

魔導士の恩恵【移空】によるものという推測を立てるが、ここに來る瞬間は一切マナをじなかった。つまり、恵によるものではなさそうだ。

だが、恵以外の力で夢や幻覚を見せているのだとすれば、にじる寒気、張によるの渇き、靴越しに伝わるい地面、すべての覚が現実と區別がつかないくらいリアルだった。

「ここで僕は一――ッ！？」

突然、何かに躓いてよろけながら數歩進む。

バランスを保って転倒を回避した薫は、すぐさま躓いたであろう場所を見た。

膝あたりまで広がる冷気が、薫のバラン図を崩した正を隠していたが、波打つ冷気の隙間に見えた何かに、心臓の鼓を跳ね上げた。

薫が一瞬視界にれたのは、誰かの足のように見えた。あまりはっきりとは見えていないが、爪先が天を向くように転がっているように見えて、

「…………」

薫の足は完全に止まり、ただ一點、僅かに足が見えたその場所を凝視した。

そこに何が広がっているのか確認したいが、無意識にそれを拒んでいる自分がいて、中々足を踏み出せずにいた。

だが、このままでは進展しない。薫は深呼吸してから、しずつ近づいて、冷気に隠されたその正を確認する。

「――――――！」

言葉が出なかった。薫には視界に馴染んでいる顔。セミロングの茶髪は激しくれ、口から大量のを吹き出している馴染の姿。

「ちー……ちゃん……ちーちゃん！」

何事か分からないまま、薫は馴染を抱きかかえ、その顔を間近で確認する。

確かに茅原だった。は冷気で冷え、普段の健康的なは青ざめており、抱える腕には溫かいが、じわじわと腕に絡みつく。

「うっうぁぁぁああああああああ！！」

薫は彼を支えたまま、溫かいを確認する。

べっとりと付著した糊が薫の手を覆い、視線をずらすと馴染の腹部は何かに貫かれたような跡があり、がはち切れるほどのびが空間を反響して、薫自の鼓を揺らす。

「なんだよ……これは……」

ふと、違う場所を見る。どこでもよかった。現実から、彼の無殘なから目をそらすことが出來れば。

だが、その行為は無駄だった。いつの間にか冷気の高さは下がり踝あたりの高さまで下がっていた。

そこに転がる複數の死。

その場所からでも分かる。しい桃の髪のは額に抜かれたようながあり、ブロンドの鬣の青年は、元に深い十字傷が刻まれ、ショートヘアーの親友は強い衝撃に打たれたように全からを吹き出している。

「姫！　ウィリアム！　和樹ィ！」

名前をぶも、彼らは反応しない。そしてまた一つ、また一つと増えていく死。

トラウマを植え付ける幻覚。だが、支える馴染のものも鮮明なために、現実との區別がつかない。

「うっ……」

漂う腐臭と視界から得る衝撃にが拒絶反応を起こして嘔吐しそうになる。

が付著し朱に染まった手で口元を覆う。茅原のをそっとおろして、増えていく死を一一確認していく。

猛烈な吐き気と倦怠を我慢しながら出口を探す。

ここに長居するとどうにかなりそうだ。これはまだ薫の中で幻覚という考えが殘っているからこその行。ウルドの前置きがなければ、今頃薫の心は折れ、正気ではいられなかっただろう。

「出口、出口はどこだよ！」

それでも薫の気は冷靜ではなく、いつもの溫厚な口調は消えて、出口を探すことの躍起になっていた。

最初は小さかった歩幅も、広く速くなっていく。だが、そこにあるのは出口ではない。まだ出會ったことのない人の死、原形が無くなっている死、良く知った友人の死。

「なんだよ、なんなんだよここは！」

數分間走り回っても一向に姿を見せない出口、どこに行っても広がる死の數々。

暗闇による閉塞的な張と嗅覚を破壊するような腐臭との匂い。荒れる呼吸と徐々に早く鳴る鼓。足元の冷気がしずつだが、薫の溫を奪っていく。

目的も、何をすればいいのかも分からない。明確化できない狀況に、薫のどうにか保っていた心をすり減らしていく。

変化が目的がしい。なんでもいい、この負のループから抜け出せれば。

「…………」

薫の言葉無き願いは葉えられた。

薫の目の前に現れた一人の年。他とは違い仁王立ちで立っている。

フードをかぶり、漆黒のロングコートには飛沫で朱の柄が出來上がっている。

普通なら突如現れた年に警戒心を抱くところだが、今の薫にそんな判斷力など皆無だ。

「おいお前！」

ようやく訪れた変化に、薫は深く考えることもなく年の肩を摑む。

年は無言のまま振り向く。手からが重力によって地面に滴り落ち、振り向くことによって年の足元の冷気が霧散する。

煉獄の業火の如き赤眼が薫を映す。その瞳にはウルドのような溫かみなど一切じない、背筋が凍えてしまいそうなほど冷酷な瞳だった。

「君は……」

フードに隠れている雪のようにし白い前髪が、彼の視線の冷たさをよりじさせる。

薫は肩を強く摑んでいたことに気が付き、咄嗟に離してし距離をとる。

年が完全に振り返り、薫はつい年の裝備を確かめる。

服裝は背後からも確認できた黒のフード付きロングコート。カーゴパンツらしき灰の下に、革製のブーツ。武らしい裝備はないが、腰、仙骨あたりというフードに隠れている所には、良く見えないが拳銃のグリップらしきものが見えていた。

「ここはどこなんだ？」

薫の問いに年は何も返さない。ただ無言で薫を凝視し不敵に笑う。

そんな年に薫は異様な何かを相手にしているようで、恐怖心すらじるようになった。

だが、無言の年はようやく口を開いた。

「……ない……ま……りない……」

その聲は反響しているものの、はっきりと聞こえず、それでも同じ臺詞を連呼しているようで、薫は耳を傾ける。

「まだ足りない……」

「足りない？」

ようやく會話が立して、薫は年の言う足りないことに関して疑問に思う。

勿論薫自足りない部分などいくつも自覚しているが、この場この狀況において、何が必要なのか分からなかった。

「足りないって何のことだ？　君はい一誰だ？　僕にどうしろって言うんだ！」

報が足りず、複數の疑問を一気にぶつける。

だが年は、壊れた機械のように同じことを繰り返すだけだ。

「まだ足りない、まだ足りない、まだ足りない………………まだ、お前には早い」

その言葉を最後に、薫の意識は朦朧としていき、年の歪んだ笑みを目に焼き付けながら、この世界から解放されるのをじていた。