「…………」

建國祭まで時間がない。だが、今の薫に焦燥というものは一切ない。

思いふけるような顔で、震える手で夕食を口にする。

數時間前、修練所の更に地下の部屋で、薫は恐怖を知った。

雪のような真っ白な髪の下に宿す緋の瞳を持った年。

彼と出會い、意味深な言葉を聞くと決まって現実世界へと戻される。目が覚めると乾いていた服は冷や汗によって再び服を濡らし、荒い呼吸と揺れる瞳。揺と恐怖が心を犯され、あの悪夢が再び脳裏をかすめて、ついに我慢できず空っぽの胃から胃を絞り出して床へと吐き出した。

そしてのすべてを吐き出し、呼吸に余裕が戻ると再び思い出す。

鋭い腐臭、染み付くの、直接脳に焼き付けるほどの衝撃を持った知人の死が転がる世界。

焼き付けられて、思い出して、そして――

「――――――ッッァ！！」

ぶ。忘れようとんで、忘れることなくんで、が張り裂けても尚、絶を部屋中に響かせる。

これ以上はまずいとウルドは判斷し、薫の脳天を慈の拳がマナを纏って叩かれる。

武闘家の恵【衝酔拳】。相手を無害で気絶させるこの恵は、れた神の薫には効果が大きく、気を失うまでに時間はかからなかった。

そして、落ち著いた頃合いに夕食の席についていた。

娯楽がないこの世界で、食事は薫の楽しみの一つであったが、今の薫に味をじ、それを幸福に思える神狀態ではなかった。

瞳孔が開く瞳は揺れき、手は震え続ける。

気を抜くと、薫の見える世界は一変する。スープは、は臓に見え、レトロ調なギルドの裝は、飛沫に彩られる。

一口。薫は食べるとスプーンを置く。

薫と同じ卓に著くウルドはそんな薫を憂慮の視線で見守る。マリンは気にせず大量のご飯を腹に流し込む。

そんな彼の素直で明るい姿にしだけ心を救われながら、薫は馳走様ですと言い殘して、部屋に戻った。

「ん、あおるおうしたんへふカオルどうしたんですか？」

「マリン、飲み込んでから話しなさい」

ウルドの注意に、マリンは口に含む食べを胃に送り込み、口周りの汚れを拭ってから言い直す。

何も知らないマリンに、ウルドは二階へと上がっていた薫の幻影を見つめて、

「そっとしておいてあげなさい。私達にはどうすることも出來ないからね」

めようにも、薫の見た景はウルドには分からず、たとえ知っていたとしても下手なめは逆効果だ。

これは薫にしか解決できない。

「カオル君が自分でにつけなければ意味がない」

そう言ってウルドは階段から視線を外した。

＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

部屋を照らす輝石を布で覆い、部屋は月明りで照らされて、き通る藍で彩られる。

靜かな部屋と、自然からなる藍の世界が、海底にいるような覚を薫に與える。

ふかふかのベッドでを休ませて、楽な勢で月浴をしながら深呼吸。瞳を閉じて、眼裏に浮かぶあの悪夢を思い出す。

鼓が早くなり、胃が締め上げられ、猛烈な不快を抱きながら、白髪の年に言われた言葉を考えていた。

薫に足りないもの。いや、足りないものと考えるのではなく、あの世界で必要なものを考える。

千思萬考する薫。だが、答えは見つからない。そもそも手がかりがなさすぎるのだ。

あの場所は何が目的で、何をすることが正解なのか、一切知らされておらず、験した今でも分からない。

だが、ウィリアムが紹介し、ウルドが連れて行ったあの地下室。鉄格子の扉が部屋全を閉塞的なものへと変え、苔の香りが鼻腔をくすぐり、い地面と床の冷たい覚が異様な空気を漂わせる。

そこへ足を踏みれると、あの悪夢へとわれる。

あれは未來を映しているのだろうか、それとも薫が恐れているものを映し出しているのだろうか。

そして、そこで出會った年。

の香りを染み付かせ、を失ったかのような冷徹な表と、敵を見據え殺気立つ緋の瞳。

あの世界で唯一生きていた年。

「あいつは一……」

死の中には見慣れない顔もあった。

もしあれが未來の世界なら、後々あの年とも出會うことになる。そして、

「――ぅ、おぇ」

未來の世界なら、あの世界で死んでいた人は全員死ぬということになる。

その中には、親友と馴染までいた。

そこまで考えると、薫は再び茅原の死を思い出し、再びが締め付けられる。

まだ覚えている。抱きかかえた時、細胞の一つ一つに浸するような鮮、彼の腹には貫かれたようながあり、そこから見えるは骨と臓。

そして、閉じることを忘れた瞼の奧に、を失った瞳が薫を映す。

その茅原の表は、何度も何度も薫の脳裏に浮かびあがる。

それだけではない。あの時は余裕がなくなり茅原しか見ていなかったが、和樹、クラリス、ウィリアム……全員の表を窺っていたら、今頃薫はふさぎ込んでいたかもしれない。

周りの評価と自己評価の格差が生み出した不安、責任の重さからなる圧迫、そして、今まで恐れ、避けてきた『死』という概念を、親な人々で験した絶。

次々と襲い掛かるプレッシャーに薫の中は張り裂けそうな痛みを発していた。

そして、薫が落ち著く頃には、月が輝く藍の空に金の輝きをえたコントラストが、朝の時間であることを視覚的に知らせていた。

一睡もできなかった薫はいち早くなりを整える。

鍛錬の時間だ。汗を流して頭をはっきりさせてから考えよう。時間はまだ早いが、薫はきやすい服裝に著替え、冷たく新鮮な空気が蔓延している外に走り込みに向かった。

＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

暗い場所は苦手だ。

何も見えず、得のしれない恐怖と、閉塞的な圧力がいつも気分を悪くさせる。

中でもこの場所は最悪だ。視界は暗順応したとしても、不吉な鉄格子がうっすら暗闇に影を生む程度にしか見えず、気臭い苔の香りが早朝に取りれた新鮮な空気を侵食していく。

閉じられた鉄格子。そこから先は悪夢と化している。

本來ならウルドに見守られた上で向かうべくだが、薫は今一人。

誰がにも頼ることのできない狀況で自分を追い込み、一人で解決しようと躍起人あっていた。

「すぅ……ふぅ…………行くか」

深呼吸で心を落ち著かせ、薫は鉄格子を開ける。

錆び付いた音が部屋に響き、不快な音に鼓を弄られて、薫の肩に力がる。

震える手をもう一度呼吸を整えて靜まらせ、行くことを拒む足に無理やり喝をれて一歩を踏み出させる。

すると昨日同様に薫の視界は瞬時に変わる。自分の姿はやけにくっきりと見えるが、それ以外は漆黒に包まれ、足元に膝くらいの高さで漂う冷気が溫を奪っていく。

その世界へ著た途端、薫にはあの地獄がフラッシュバックされ、から何かがこみ上げる。

口を手で覆い、その何かを吐き出すことを拒む薫は、ゆっくりと自分のペースで歩き始める。

そして、何も起こらない世界に変化が起きる。

だが、昨日とは違う。昨日は死が散らばる世界で、白髪の年とであう形だったが、今回は、いきなりその年が姿を現していた。

鼓が異様なリズムを刻んでいるが、一回もより冷靜な薫は、勢いに任せるのではなく、著実に年との距離を詰め、

「君は、誰だ？」

「…………」

返答はない。

燃えるような緋の眼に見つめられ、が沸騰しそうなプレッシャーをじながら、高揚しそうになる自分を抑え込む。

「あれは、君がやったのか？」

一つ考えていたことがある。もし仮に昨日見たあの地獄が未來を映しているなら、唯一の生存者である白髪の年が引き起こしたのものであるかどうか。

ウルドが薫に戦い方を教えたのもこの世界の攻略に関係があるとするなら。

今、目の前で異様な雰囲気を漂わせるこの年の言葉。

まだ足りないというのは、実力の事を言うのではないだろうか。

この未來を変える為、薫はこの世界で目前で不敵に佇むこの年に勝たなくてはならない。

「…………」

そうなればやることは単純明快。薫は背中に攜えた剣を抜く。

ウルドとの打ち合いで、それなりの風貌を見せるようになった剣の切っ先を、白髪の年に向ける。

昨日のような死が転がる世界でなくてよかったと安心している薫。もし昨日と同じなら今頃薫は四つん這いになりながら全てを吐き出し、激のままに突っ込んでいただろう。

だが今の薫は落ち著いて、敵を考察する余裕があった。

「――――ッ！」

昨日同様、年に武という武はない。腰に攜えていたものが何かで攻め方が変わるが、まずは牽制と言わんばかりに距離を詰めた。

以前の薫なら力任せの高速度で距離を詰めるが、今の薫は勢いに緩急をつけ、直線ではなく鋸刃のような軌跡を描く。

緋の瞳はタイミングをずらそうとする薫を見據える。

相手は素手、薫は剣。間合いの広さは薫の方が勝り、先に攻撃を仕掛けられるのは薫だ。

薫は目前、自分の間合いに年をれてた瞬間、紫電の如き刺突を額に放つ。年は見據えた顔でその一閃をかわす。

空気が切り裂かれるのをでじた年は、すかさず勢い余る薫の距離をゼロにして、薫の側頭を拳が穿つ――

「――ッッ！」

だが、薫もこの攻撃は後ろに飛び退いて回避する。以前なら勢い余る薫の一歩は大きく、攻撃をかわされれば相手のカウンターの対処に余裕が持てず、紙一重で頬を掠めるのだが今は違う。

寄せ足による移で、回避と方向転換が可能になり、重も乗せやすい為、刺突の速度もはるかに向上した。

一度距離をとる薫は制を整え、自らの刀を年との間に壁を作るように構える。

今の一瞬で、薫は年との実力差を計る。現在分かっているのは年は徒手格闘に長けている。

近づけば近づくほど、間合いは年のテリトリーに変わる。

投擲武を警戒しつつ、薫はじりじりと距離を詰めていく。

変わらず、年は自分から迫る様子を見せない。構えるわけでもなく直立する年の瞳は、すり足で近づいてくる薫を見據えていた。

そして、薫はじりじりとにじり寄るきから、急加速で間合いを詰める。

薫が殘像を刻んだそこは、冷気が外へと吹き飛ばされ再び収束する。

風を切る薫は、剣を橫に構えて刀に左手を添える。

「【剣輝《けんき》】」

白刃が輝き、漆黒の空間を白が占領し、年の視界を奪っていく。

が収束された時、年の視界に薫が消え、年の緋の瞳は周辺を探す。

だが、隠れる場所などないこの場所で、視界にいないということは居場所はすぐに確定する。

年は踵を振り上げ背後にいるであろう薫を攻撃する。年の縦に弧を描く軌道を冷気が追尾し、竜が天に上る姿を彷彿とさせる。

手応えがなく年はすぐさま、振り上げた足を斜めに振り下ろし、自分の周囲を払うように爪先が円を描く。

年が足を払ったとき、草むらに潛む虎が飛び出したかのように冷気から姿を現した薫。

跳躍した薫は上段で剣を構え、落下の力を加えた斬撃を叩きつける。

刀が年にあたる寸前、すべての勢いが消失した。

そして、跳躍して両足が宙に浮いたままの薫を年は見上げて、

「――まだ、足りない」

冷たく訴えかけるように言った。

その時、薫は全のが逆立つ覚に陥った。刻み込まれた恐怖が再び薫を襲う。

著地した瞬間飛びのいて、荒れる呼吸をどうにか抑えようと努力する。

勢いが消えた薫に、年は初めて自分から襲い掛かる。薫よりも素早く目を凝らしてようやく追いつける速度で年は薫に迫る。

そして年が間合いにった時、薫は思わず剣を橫に振りぬいた。筋はれ、その一閃は容易にかわされ、年の突きが薫を襲う。

「…………ぇ？」

思わず聲がれた。

が滴り冷気が霧散する。腹部を穿たれ口からを吐き出した見慣れた後ろ姿の。

茶じりに黒髪と力を無くしたか細い。

「ちぃ……ちゃん？」

庇うようにして腹部を貫かれた馴染は、年がに染まる手を抜いた時、崩れ落ちるように倒れる。

あの悪夢が脳裏をよぎり、薫は倒れる馴染のを抱きかかえる。

呼吸はない。は何故か冷え切り、は止まることを知らず、薫の服を汚していく。

生気のじない瞳は薫を見據え、で汚れた口元が僅かにいた。彼の聲は掠れているものの、薫の鼓を揺さぶる。

「あなたのせい……」

馴染の発言に薫は心臓が締め上げられる覚に陥った。全のが逆流し、空気が上手く吸えない。

過呼吸に陥る薫に畳みかけるようにに覚えのない言葉の刃が薫を襲う。

「守るっておっしゃったのに……」

桃の髪のが言った。額に傷跡を殘して茅原同様に瞳にはなく、亡霊のように力なき佇まいで薫の傍に立っている。

「何とかするって言ったのに……」

足元に倒れる親友の姿。強い衝撃に襲われたかのように、全からが噴き出して倒れる親友は、薫の震える瞳を見據える。

「最善を盡くすと言っていたのに……」

白を基調にした気高き騎士服に深い十字傷で朱に染め、獅子の鬣を連想させるブロンドの髪はれた青年。翡翠の眼に輝きはなく、幻滅した表で薫を見る。

順々に言葉のナイフが薫を襲う。に覚えがない。だが、その言葉も薫が理想とし、いつか伝えられるよう願い努力していた言葉。

言わずとも言っていたと錯覚してしまう。

「全部全部薫のせい……」

――違う

「無責任な言葉で……」

――――違う

「守れない者は見捨てて……」

――――――もうやめてくれ

「見殺しにして……」

――――――――やめてくれ！

「薫がみんなを殺すの」

すり減った魂がり切れる。繋ぎとめていた心が壊れる。何もかもが瓦解していく。

それぞれの言葉が心のひびからり込み木霊する。理想と現実の軋轢が薫の心を破壊していく。

逃げたい、逃げ出したい。だけど、

「私達を見捨てるの」

逃げれない。

守りたい、守り抜きたい。だけど

「薫に私達は…………救えない」

守れない。

全に反響する言葉をかき消すように、んだ。

が切れ口にの味が染みるが構わない。しでもこの苦しみが紛れるのなら。

そして自暴自棄にぶ薫に、を滴らせる年は冷酷に無に言い放つのだ。

――まだ足りない。と。