《夢見まくら》第十四話 服部翔太の

雨が、降っていた。

小さな街の空はどこまでも灰に濁り、に絡みつくようなねっとりとした空気は俺の苛立ちを増幅させ、空から降ってきた雨水は道に溜まったあらゆる穢れたものと共に流れていく。

天気予報では、たしか今日は晴れると言っていたのだが、雨が止む気配はまったくなかった。傘を持っていない生徒も多いようだ。彼らはだいたい學校で雨宿りするか、鞄を傘代わりにして帰る。

俺は傘もささず、ずぶ濡れになって帰宅していた。前髪が額に張り付いて気持ち悪い。そして、が重い。服が水を吸って重くなっているだけ、というわけではないだろう。心理的要因も影響しているのは明らかだった。

雨に濡れたら多はマシになるかと期待したが、気分は最悪のまま。それどころか、かな自慢だった茶髪も雨のせいで悲慘なことになっていた。

……気に食わない。

意味もなく、道端に停めてあった自転車を蹴り倒す。

がしゃん! という音と共に、右足に鈍い痛みを覚えた。

「ああ、クソ……」

完全な八つ當たり。

後に殘ったのは、僅かな痛みと、先程までよりもさらに大きくなった苛立たしさだけ。

さっき學校で彼にフられた俺の心は、ささくれ立っていた。

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『好きな男ひとができたの。別れて』

あまりにも真っ直ぐなその拒絶の言葉に、俺は何と答えたのだろうか。漠然としか思い出せない。

俺がどう答えていようが結果は変わらない。あいつと別れて、それで終わりだ。

ああ、まったく、腹立たしい。

「なんで俺より先に言うかなぁ……」

あのと別れることについては、問題なかった。というか、明日にでも別れることを切り出そうと思っていたのだ。

アレは、相當我儘なだった。欠點など、いくらでも挙げられる。顔が多良いだけの能無しにずっと付き合ってやれるほど、俺は安くなった覚えはない。

問題なのは、先に向こうが別れを告げてきたこと。

これではまるで、俺が捨てられたみたいではないか。

そこだけが不満だった。

……それだけが不満だったはずなのに、何で俺はこんなにイラついているのか。

「……考えても、埒が明かないな」

この虛無も倦怠も、一時的なものだろう。すぐに消える。

そんなことを、考えていたせいだろうか。

俺は、前方から猛スピードでこちらに向かってくる車に気付かなかった。

それは一瞬の出來事だった。

俺のが、宙を飛んだ。

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最初にじたのは、気持ち悪い浮遊

をとらなければ、なんてことを考えている暇すらなかった。

何も出來ないまま、俺のは鈍い音と共に雨に濡れた冷たいアスファルトに打ち付けられた。

周りで悲鳴が上がる。

次いで、耐え難い激痛が俺を襲った。

車が激突したと思われる部分、ポロシャツの腹の辺りが、から湧き出るでどんどん汚れていく。と、同時に、から力が抜けていく。が妙に冷たい。手足の覚が無くなってきた。

……ああ、死ぬのか。俺。

あまりにあっけない。

特に、何の慨もなかった。

今までの人生への後悔も、ぶつかってきた車の運転手への怒りも、死ぬことへの恐怖も、何も、ない。

確かにじるのは、自分の腹部の痛みだけ。

その痛みさえも鈍くなってきた俺は、意識を手放した。

……もしかしたら、俺はこのとき、一度死んだのかもしれない。

あの事故から一ヶ月後。俺は退院した。

俺の知ったことではないが、驚異的な早さの回復だったらしい。加えて、後癥の一つも殘っていない。

事故の原因は、ドライバーの居眠り運転だった。詳しくは知らないが、俺の両親は相手からかなりの額の示談金を搾り取ったようだ。

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めでたしめでたし、である。

……そして、この事故は俺にとって、確かに人生の大きな転機となった。

最初にそれ・・をじたのは、病狀の経過について、同じ部屋で隣のベッドに橫たわる患者が、若いの看護師と話していた時だった。

自由にくこともままならなかった俺はすることもなく退屈で、珍しく英語の単語帳を眺めていた。

「順調ですね、綾部あやべさん。このままいけば來月には退院できますよ」

そう患者に伝えるのは、若いの看護師。

「本當ですか? それはよかった」

満面の笑みでそれに答えたのは、患者の綾部だ。

綾部は一言で言えば、スケベなじじいだった。俺は心の中では、綾部のことをじじいと呼んでいた。

じじいは、擔當する看護師が若いのときは、いつでもばかり舐めるように見ていた。

俺はじじいが嫌いだった。

じじいは何かにつけて俺に絡んできた。

勉強のことや、家族のことや、のことなど。

紳士を気取ってはいるが、俺にはただのウザいエロジジイにしか見えなかった。

「……早く、家に帰りたいものですなぁ」

じじいの、その言葉を聞いた瞬間、軽い頭痛と共に、俺の視界がブレた。

「……ん?」

なんだろう、これは。

何かのフィルムのように、それは俺の脳で再生される。

見覚えのない、家だった。

そわそわとして落ち著かない様子のじじいが、おばあさんに窘められている。

その両腕に抱えられているのは、男の子だった。

まだかなり小さい。三歳ぐらいだろうか。どうやら、じじいの孫のようだ。

その小さな手が、じじいの頬を軽く叩いた。

じじいとおばあさんは、とても幸せそうな笑顔を浮かべていた。

視界がまた元に戻る。

看護師とじじいは、さっきまでと同じように話を続けている。

……何だったのだろうか、今のは。

疑問に思いながらも、俺はすぐに単語帳とのにらめっこに戻った。

この時の俺にはまだ、それがどういうものなのか理解できていなかった。

綾部が死んだ。

突然、容が急変したらしい。

俺の退院予定日から、ちょうど一週間前の出來事だった。

生前、よくいやらしい視線を送られていた看護師が、し悲しそうな顔をしていた。

なぜか、俺まで無に悲しくなったのを憶えている。

誰もいなくなったベッドを眺めながら、俺はその看護師と俺の怪我の経過について話していた。

「……っ、また……」

あの覚だ。

じじいとおばあさんの、仲睦まじい様子を寫した映像を見たときと、同じ覚。

軽い頭痛と共に、視界がブレた。

俺の脳で、それは再生される。

今度は、病室だった。

今、俺と一緒にいる看護師と、じじいが楽しそうに話していた。

……それだけだった。

今回は、前回よりもさらに短かった。

「どうかしたの?」

看護師が、俺の様子が若干おかしいことに気付いたのか、聲をかけてきた。

「……いえ、なんでもありません」

「そう? 調が悪くなったらちゃんと言わなきゃダメよ?」

「ありがとうございます。でも本當に大丈夫ですから」

……俺は、なんとなくこの現象の正を摑みつつあった。

こうして、俺は不思議な力を手にれた。

じじいが死んでから、退院するまでの一週間で、俺はできるだけ沢山の人間に々なことを試した。

そして俺は、自分の特殊な能力を理解した。

限定的にだが、他人が今現在考えていることを、覗き見ることができる力。

そういう解釈でほぼ間違いないだろう。

最初の二回こそ、発條件がわからず、かなり斷片的な報しか與えられなかったが、三度目以降は能的に発することが可能になった。

そして驚くべきことに、おぼろげではあったものの、相手ののようなものまでじ取ることができるようになった。

使えば使うほど、この力の度は上がっていった。

対象の顔が直接見えていないと発しない、対象に選択できるのは一人のみ、など、々と細かい制約は見つかったものの、強力な力であることに変わりはない。

この力を、事故の後癥と呼んでいいのか俺には判斷がつかなかったが、こんなことを誰かに相談できるはずもなかった。

このことは絶対ににするべきだ。

それに、原因が何であれ、俺はこの力のことを非常に気にっていた。

これは間違いなく超常の力、超能力と呼んで差し支えないものだ。

そう、俺は超能力者になったのだ。

心が躍った。

學校に復帰して數日後、俺は、この前別れを切り出してきたに、育館の裏に呼び出された。

天気は良かったものの、木々が鬱蒼と生い茂る育館の裏はうす暗く、じめじめとした空気が俺にまとわりついてくるようだった。

は、育館の外壁にもたれるようにして、俺を待っていた。その表は暗い。

「どうしたんだよ、こんなところに呼び出したりして」

は答えなかった。

しばらく、お互いに無言の時間が続く。

気まずい沈黙だった。

……その沈黙を先に破ったのは、彼のほうだった。

「……もう一回、私と付き合ってくれない?」

そして、その口から出た言葉も、予想通りのもの。

當然だ。

俺は心の中で笑っていた。

「無理だよ。他に好きなひとができたから」

そう答えてやった。

俺にはもう、しっかりと見えるのだ。

――お前の心の、どす黒い汚れが。

お前の心の中の葛藤も、俺には全部筒抜けだ。

俺をフって好きな男に告白したのはよかったものの、そいつにフられたんだろう?

それでまた俺の元に戻ってきたのだ。

しかも、このはまだ諦めていない。隙あらばその男にアタックする気満々であった。

蟲がいいにもほどがある。キープなんて誰がさせるか。

泣きじゃくる彼を殘して、俺はその場を後にした。

超能力を手にれた今となっては、このの涙に隠された汚泥のように澱んだもしっかりとじ取ることができる。

心など欠片も湧いてこなかった。

俺の心は、どこまでも晴れ渡っていた。

學校に復帰した俺の趣味は、専ら人間観察だった。

……超能力を使用して、というのは言うまでもない。

元々、かなり人付き合いは得意な方だ。友人はかなり多いと自負している。

友人達を観察していると、表面と面のギャップに驚かされることが多々あった。

もちろん、だからといって俺が友人達への態度を変えることはなかった。

人間に裏表があるのは當然だ。それ自、俺は悪いことだとは思わない。

「翔太、何ボケっとしてんだよ? 早く行こうぜ!」

「ん? あ、ああ」

いけない。しボーッとしていたようだ。

最近、こういうことが多くなったような気がする。

気をつけなければ。

俺は、地元の大學に進學した。

はっきり言って、的な目標などはなかった。

それなりに頭のいい人間が多く、家に近いという理由だけで選んだ大學だった。

実際、アホの心を覗くより、頭のいい人間の心を覗くほうが面白いのだ。

それに超能力があれば、大抵のことはどうにでもなると思っていた。

そして、講義の初日。俺は中央のほうの席に著席していた。

初めての講義だが、張などは全くない。

の子と、特に頭の良さそうな奴を探して、心を覗こうと思っていた。

まあ、その前に隣に座っているこのひょろ長い男を友人にするとしよう。

ふむ。

佐原、太、か。派手な名前の割には大人しい。名前とキャラのギャップで、若干コンプレックスになってるみたいだな。

元々コミュ力はそれなりにあった俺が、講義の初日から友人を作ることなど造作もなかった。

講義が始まってから數日後のことだった。

その男を目の當たりにして、俺は大きな衝撃をけた。

何も、見えない。

心やといったものが何も見えないのだ。

そこにいるのは、新しく友人となった海斗と太から紹介された、二條琢という男。

的な顔立ちのイケメンである。

こんなことは初めてだった。

眠っている人間ですら、ぼんやりとしたらしきものをじるというのに。

半年ほど前だっただろうか。

一度、興味本位で犬に向けて超能力を使ったことがある。

その時は、何も見えなかった。

それで、人間以外には俺の超能力は通じないことを知ったのだ。

ちなみに、死んだ人間には試したことはなかったが、何も見えないだろうと考えている。

つまり、今分かっている範囲で俺の超能力が通じない、もしくは通じない可能が高いのは、死んだ人間と、人間以外の生と、そもそも生ではないもの。

この三つだ。

だがこの男、二條琢はこのどれにも當てはまらない。

見たじは普通の人間だ。

「服部翔太だ。よろしくな、琢」

だから、友人にすることにした。

今のところ、俺の超能力から逃れられる唯一の例外だ。

俺がまだ知らない超能力の特を発見するのに役に立つかもしれない。

俺は初めて出會ったその時に、二條琢という人間に非常に強い興味を抱いたのだった。

こうして、俺の日々は流れていく。

一日に、何百という人間の心を覗きながら。

いつしか、俺は他人の心を覗かずにはいられなくなっていた。

今日も、俺は見ず知らずの他人の心を覗く。

「ん?」

視界の隅に、見慣れないが映った。

神妙な顔で、三分ほど同じところを行ったり來たりしている。

はっとした。

流れるような黒髪。

整った顔立ち。

はっきり言って、かなり好みのタイプだった。

早速覗いて・・・みる。

「……なるほど」

どうやら、財布を落としてしまったらしい。

「彼氏は……いないな、よし」

……これを確認できるのが、さりげなく一番便利なのかもしれない。

おっと、急がないと他の奴に先に話しかけられてしまうかもしれない。

さっさと行こう。

超能力という、あまりに過ぎた力を手にしてしまった俺の心は、気付かない間にしずつ、だが確実に壊れ始めていた。

そう。破綻はすぐそこまで來ていた。

間違いなく俺の心は壊れていただろう。

俺が彼、谷坂涼子に出會っていなければ。

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