《夢見まくら》第二十話 演奏會
あの日以降、ヨーゼフは、ほとんどわたしのところに來なくなった。
……最初の頃は、よかった。
ヨーゼフに反抗する意思が強かったし、自分の弱っているところを見られたくなかったから、あいつが來ないのは好都合だと、そう思っていた。
――それ・・は、小さな腹部の違和から始まった。
「……ん」
空腹。
このは人間よりもはるかに低燃費らしく、數日間飲まず食わずでも、まったく問題ないようだった。
「…………ん」
だが。
「………………」
胃の中に、なにもがない狀態が、一週間、二週間、三週間、一ヶ月と続けば、どうなるか。
「……………………っ」
……ヨーゼフが來なくなって、およそ一ヶ月。
「…………っ……あ……ぁ……」
わたしは異常なまでの飢に苦しんでいた。
そもそも、一ヶ月飲まず食わずで生きていること自が異常なのだ。
頭の回転も鈍い。
尤もっとも、そのおかげで空腹の苦しみが多和らいでいる気がするが。
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「――そろそろかねェ」
……いつの間に、部屋にってきていたのだろうか。
ヨーゼフが、わたしの隣に立っていた。
「演奏會をしてあげよう。サツキ」
「……演奏會?」
確かに、だいぶ前に楽を演奏するとか何とか、そんな約束をした覚えはあるが……。
「……遠慮……しとき、ます」
正直、どうでもよかった。
「本當にやらなくていいのかね? キミのお腹も膨れると思うのだがねェ」
「……おなか?」
「そうとも。久しぶりに、お腹いっぱい食べたくはないかね?」
演奏會で、お腹が膨れる意味はよくわからない。
……でも、さすがにもう空腹の限界が近かった。
「じゃあ……して、ください」
ほとんど思考停止した狀態で、わたしはそう言った。
「――それでいい。いい子だねェ、サツキ」
大きな手がわたしの頭をでたが、わたしは完全にそれを無視した。
「し待っていなさい」
ヨーゼフが退室する。
そして、すぐに戻ってきた。
「クソ……ッ! 何だよ! 何なんだよこれ!?」
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「わけわかんない……わけわかんない……」
見覚えのない、男とを引き摺りながら。
「誰、ですか?」
二人とも、大學生くらいだろうか。
目立った外傷などはなく、両手両足を何か紐のようなもので拘束されていた。
「ん? ああ。これは楽・・だよ」
……もう、嫌な予しか、しなかった。
「しゃ、喋った……?」
男のほうが、わたしを見て「信じられない」とでも言うかのような聲を出した。
……そりゃそうか。
今のわたしの姿は、まさに化そのものなんだから。
「…………」
のほうは目を閉じて押し黙ったまま、微だにしない。
現実をけれられずに、できるだけ何も見ないようにしているようだった。
「さて。それじゃあ、始めようかねェ」
そう言って、ヨーゼフは懐から何かを取り出した。
「……おい…………」
それを見た男の口から聲がれる。
ヨーゼフの右手に握られていたのは、かなり大きなナイフだった。
見たところ、刃渡りは恐らく二十センチは下らない。
刃の部分は若干黒ずんでおり、鈍く銀に輝いている。
ヨーゼフは、そのナイフをまるで寶であるかのように大事そうにでる。
その手つきは、かつてわたしをでていたときのそれと、よく似ているような気がした。
「おい……何を……」
男はヨーゼフが握るナイフを見て、明らかに揺している。
「何って、こうするのだよ」
ヨーゼフは、を暴に床に押し倒した。
「ひゃあっ!?」
押し倒したにり、左手で倉を摑み、右手に持っているナイフをのに突き立てる。
「や、やめろっ! 彼にるな!」
ヨーゼフは男の言葉を聞き流し、いつものように微笑を浮かべながら、ナイフを振るった。
「きゃあああああっ!!」
からお腹にかけて、の服が縦に切り裂かれ、白いがわになる。
それを見て、男の顔が赤くなった。
「さて。まずは前奏だ」
ヨーゼフのナイフの先端が、のに軽く當てられる。
そこから僅かに滲み出したが、ナイフの先端を濡らしていた。
「や、やめてよ……。お願いだからやめて……」
「ん? 何か言ったかね?」
當たり前だが、ヨーゼフが刃を止める気配は一切ない。
「ちょ……っ、噓でしょ!? ……やめてよっ! 本當にやめてっ!!」
ヨーゼフの微塵も躊躇いをじさせない様子を見て、さすがにマズイと思ったのか、の聲が大きくなった。
「ふむ」
ヨーゼフは、そのの聲に不思議そうな表を浮かべ、首を捻ると、
「いやぁぁぁぁぁあああ!!」
のに、ナイフをゆっくりとめり込ませた。
「痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛いっ!!」
傷口から決してなくない量のが溢れ、の泣きぶ聲が部屋に響く。
「――ああ。弾力のあるを引き裂くほど素晴らしいものは他にないねェ」
「やめて、やめてっ! が! が出てるから! 死んじゃう!」
が大騒ぎしているものの、傷自は、そこまで深くないように見える。
……しかし。
「もうやめてください!」
わたしは制止の聲を上げた。
見ていられなかった。
やっぱり、ヨーゼフの頭はおかしい。イカれている。
「……サツキ」
ヨーゼフが、わたしを見る。
「ワタシの演奏を、途中で妨げようというのかね?」
ヨーゼフの聲は、ほんのしだけ、いつもわたしに話しかけるときよりもかった。
「……演奏?」
これのどこが、演奏だというのだろうか。
「そう。演奏だ」
ヨーゼフはから両手を離し、わたしのほうを向きながら話を続ける。
「ワタシは“人間”という楽を奏でる奏者なのだよ」
「…………」
「どんなに高級な楽を持つ奏者でも、どんなに優れた歌い手でも、それらが奏でる音は人間の苦痛が込められていない、唾棄すべき偽りの音に過ぎない。本の人間の魂の嘆きの音には、絶対に敵わないのだよ」
ヨーゼフが何を言っているのか、よくわからなかった。
「……とにかく、やめてください」
音楽を何だと思っているのだろうか、こいつは。
ヨーゼフがやっていることは、ただの傷害であり、決して演奏などという高尚なことではない。
理解できなかった。
……いや。
狂人の思考を理解しようとすること自が、間違っているのだろう。
だから――
「ならどうして、キミはそんなにイイ笑顔を浮かべているのかね?」
――そのヨーゼフの質問は、わたしの心を大きく揺さぶった。
「……え?」
ヨーゼフは左手で暴にわたしの頭を鷲摑みにして、鏡の前に突き出した。
「痛……っ」
「ほら。笑っているじゃないかね」
わたしは、鏡に映っている醜悪な顔面を見る。
……その顔の口元は、わずかに歪んでいた。
「そんな、うそだよ……だってわたしは……」
わたし……笑ってる?
そんな。
そんなこと。
そんなこと、ない。
「キミは他人の不幸を愉しみ、悅びを味わったのだよ」
……そうなのだろうか。
わたしは、わたし自が知らない間に、そこまで墮ちてしまっていたのだろうか。
「わたし、わたしは……」
「それでいいんだよ。サツキ」
ヨーゼフは、わたしの頭をでながら言った。
「キミは正しい。最高の快楽は、他人をげることでしか得ることができないのだからねェ」
優しげにわたしに語りかけるヨーゼフは、まるで聖職者のようで。
「自分を偽る必要などない、サツキ。――ここにはワタシしかいない。ワタシ以外の誰も、キミの醜い側面を見ることはないのだよ」
ヨーゼフは笑顔で、拘束されているの腕を摑み、
「ほら。朝食だよ、サツキ」
その指の先端を、わたしのに押し當てた。
「は……? 何言ってんの……? 意味わかんない……いみ、わかんないよぉ……」
が何やらブツブツ呟いているが聞き取れない。
聞き取ろうとも思わなかった。
「さあ、早く食べなさい」
……仕方、ない。
ここでヨーゼフに逆らうより、ヨーゼフに従って力をしでも回復したほうがいい。
自分の中でそう結論づけたわたしは、の人差し指を口に含んだ。
「――は?」
の惚けたような聲が聞こえる。
そしてわたしは、の指を奧歯ですり潰した。
「――――ぎゃああぁぁああああ!!」
のび聲を無視して、それを咀嚼する。
口の中にたしかにじる固形のに、僅かな塩味に、口にからむ水分に、わたしは歓喜した。
の皮が、のが、の爪が、の骨が、の管が、のが――わたしの渇きを満たしていく。
わたしが、満たされていく。
「いだいいだいいだいいだいいだいいいい!!」
の泣きぶ聲が、室に響いている。
「――――素晴らしい――ッ!」
それを聞いて、ヨーゼフが嘆の聲をらした。
「そう! 心の苦痛によって人間かられ出す極上の音! 悲鳴! 慟哭! それこそがワタシの心を! 魂を震わせるッ! さぁあ! もっともっともっともっともっともっと良質な音を奏でなさいッ!!」
ヨーゼフは恍惚とした表を浮かべ、興した様子で、暴にの髪を摑む。
再びを床に押し倒すと、今度は下腹部の布に手をかけた。
「ひっ……やだ! やだぁあっ!!」
「ああ、やはり音楽はこうでなければならない」
そう小さく囁くヨーゼフの手に握られたナイフによって、の下半を覆っている布が剝ぎ取られていく。
「――! やめろ! それだけはやめてくれ!」
何かを察したのか、男が今までにない大聲を出してヨーゼフに懇願した。
「……何か、勘違いをしていないかね?」
男にそう尋ねるヨーゼフの聲は、わたしに同じ言葉を語りかけたときと比べて、明らかに低い。
「ワタシが猿にするとでも思っているのかね? の程をわきまえたまえよ」
ヨーゼフは再び懐から何かを取り出した。
「まあ、これ・・を使った方が彼により良質な痛みを與えることができるというだけの話だねェ」
そう口にするヨーゼフの手の中で、棒狀の赤紫の塊がぬるぬるといている。
形だけを見るならば、が的な快楽を満たすために使用されるアレに見えなくもないが、ヨーゼフが持っているそれは、いささか攻撃的過ぎる形狀だった。
先端部分から手に持つ部分の際まで、小さな銀の刃の突起が余すところなく生え出ている。
それを目にした瞬間、の表が凍りついた。
「……や、だぁ……いやぁ……やめてよぉ……」
は、震えて泣いていた。
「なんでこんなことすんのよぉ……っ……意味わかんない……いみわかんない……っ……」
「ああああああああああああああッ!!! 殺すっ! 殺してやる!!」
ヨーゼフは、そうぶ男に向かって、にっこりと微笑み、
「いいねェ、その聲。――でも、足りない。もっと、もっともっともっともっともっともっともっともっともっといい聲で鳴けるはずだよキミは」
「…………」
わたしはこのとき、理解した。
わたしは、わたし達は、ヨーゼフに同じ人間として見られてはいないのだということを。
男の一杯の威嚇も、ヨーゼフにとっては自らの奏でる音の一部に過ぎないのだということを。
……この演奏會を、この悲劇を止められる者は、この場にはいないのだということを。
「……やめろ」
男の口かられたそれを耳にしたらしいヨーゼフは、笑った。
それは、わたしがかつて見た、獲を前にした食獣のような笑みで。
「――ひっ」
ヨーゼフがの棒を彼の部に近づける。
ゆっくりと、ゆっくりと。
だが、確実に。
「……やめろ…………やめろぉぉぉおおおお!!」
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい。なんでも、何でもしますからぁ……お願いだから許して、許してください……お願いします、お願い、やめてぇ……っ」
男は怒り狂いながらび聲を上げ、は泣きながら懇願する。
やがて、の棒の先端が彼にれ、
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさ――」
「さぁ、奏でなさい」
次の瞬間、の斷末魔のびが部屋の中に響いた。
◇
……そこから先のことは、思い出したくもない。
ヨーゼフの、演奏會という名の凌辱劇は延々と続いた。
彼らだったもの・・・・・・・は今、部屋の片隅に転がっている。
『ワタシは慈悲深いからねェ。キミたちがずっと一緒にいられるように加工してあげよう』
ヨーゼフのその発言のあと、文字通り彼らは加工された。
ひとつに。
ヨーゼフ曰く、あのひとつの赤紫の塊の中に、凌辱されていた男との魂がっているらしい。
あんな姿にしておいて、永遠に結ばれた、と笑顔で豪語するヨーゼフは、やはり、わたしには理解できない存在なのだろう。
――その様子を、人間だった頃に比べれば考えられないほどに達観していた自分自には、気付かないふりをした。
◇
ヨーゼフの演奏會は、その後、何度も何度も行われた。
絶食させられ、狂った凌辱劇を延々と見せられ、その犠牲者のの一部を與えられる。
わたしに人間以外の食べが與えられることは、ただの一度もなかった。
神が耗し、心が麻痺する。
人間としての価値観が、倫理観が、ゆるやかに死んでいくのをじていた。
そして。
……わたしがヨーゼフと出會ってから、およそ二年後。
罪と狂気に塗れたわたしとヨーゼフの日々は、突然、終わりを告げることになる。
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