《夢見まくら》第二十七話 逃避の果てに
――海斗が、わたしをけれてくれた。
幸せにするって、言ってくれた。
いつまでも一緒にいるって、言ってくれた。
嬉しかった。
こんな姿になったわたしをけれてくれたことが。
どうしようもないほど、嬉しかった。
どこまででも、海斗と一緒に逃げればいい。
わたしが本気で隠れれば、いくら高峰でもわたしを見つけられないだろう。
どこでもいい。
海斗がいるのなら、海斗さえいれば、わたしは他に何もいらない。
そして、今度こそ海斗と一緒に、いつまでも幸せに暮らすのだ。
そう信じて疑わなかった。
だから、
ぐちゃり。
その瞬間、何が起こったのか、わからなかった。
海斗が、ゆっくりと後ろに倒れる。
わたしはそれを、ただ呆然と眺めていた。
「――えっ?」
右腕――わたしの、化の右腕がわたしのお腹から突き出し、海斗のお腹を貫いていた。
海斗のお腹からが溢れ、周りの地面に赤が広がっていく。
……それはまさしく、わたしが數日前に夢に見た景で――
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その意味を、理解した瞬間。
「きゃああああああああああっ!!」
自らの手にじる生溫かいを意識しないようにしながら、わたしは必死で海斗に呼びかけた。
「海斗! 海斗っ! しっかりして!! 海斗ぉ!!」
「――ぁ……く…………ぅ………………」
海斗は、腹部の痛みに苦悶の表を浮かべている。
腹部からの出が止まる様子はなかった。
呼吸は荒く、目の焦點も合っていない。
……一目見ただけで、危険だとわかる狀態だ。
どうしよう。
どうしたらいい。
とにかく、救急車を――
『――ああ。やはりワタシは、罪にされている』
聲が聴こえた。
……それは、この二年間で聞きなれた、あいつの聲によく似ていて。
「――――――ッ!?」
が、かない。
わたしの中で、化のと人間のを繋いでいた、細い糸が切れる。
それと同時に、自分が自分ではなくなっていく覚を味わっていた。
ぬぷり、と。
わたしのお腹を突き破り、大量のを垂れ流しながら、それは現れた。
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『しばらくぶりだねェ。サツキ』
「……ああ…………っ」
笑顔が見えた。
心の底から楽しそうな、笑顔が。
この二年間で幾度となく見てきた、笑顔が。
「……なんで?」
到底直視できないほどの醜悪な顔面はに濡れ、元々の赤紫をより深い赤に染めている。
「ヨーゼフ、カレンベルク!」
わたしの腹部から、化の姿をしたヨーゼフが出現した。
……わけがわからない。
どうして、わたしの中からヨーゼフが出てくるのか。
「……あなたは、皐月様に殺されたはずじゃ?」
やっとわたしの口から出てきたのは、そんな疑問の言葉だった。
『あのは破壊されたとも。だが、アレはワタシであってワタシではない』
「……どういうことですか?」
『一から説明するのも面倒なのだがねェ……』とヨーゼフは呟く。
『ワタシは、ワタシが創造した魔獣を自由にることができるのだよ』
……は?
「なにを、言って……」
『前提がそもそも誤っていると言っているのだ』
ヨーゼフは、淡々と述べる。
『キミたちがワタシの本だと思っていたものは、ワタシの創りだした魔獣の一匹に過ぎない』
……信じられなかった。
『死んだも何も、はじめからワタシ自はこの國にいない』
そんなことが可能なのか?
『つまり、ワタシが創造した・・・・・・・・魔獣の一であるキミ・・・・・・・・・・からワタシが現れることは、何も不思議なことではないのだよ』
ヨーゼフの話を聞いて、わたしは呆然としていた。
それはつまり、皐月様から逃れることができたとしても、どうあがいてもヨーゼフからは逃れられないということだ。
『それにしても、まさかここまでワタシの描いたシナリオ通りに事が進むとは。罪がワタシを祝福しているのをじるねェ』
ヨーゼフはいつものように朗らかに笑いながら、
『――さぁ。死のうか』
化の手を振り上げた。
その視線の先には、蟲の息の海斗がいる。
……何をするつもりか、など、言うまでもなかった。
「嫌ぁ! やめて! やめてよぉ! なんでこんな、こんなことをするためにわたしは戻ってきたんじゃないっ!!」
これじゃあ、何のために戻ってきたのかわからない。
わたしが戻ってこなければ、海斗が傷つくこともなかったのだから。
『…………』
ヨーゼフの歩みは止まらない。
「お願いだからもうやめてっ! お願いします……お願い………………」
涙を流しながら、わたしはヨーゼフに訴えかける。
それはまごうことなき、懇願だった。
『……わかった。キミを解放してあげよう、前橋皐月』
「……え?」
その言葉と同時に、ヨーゼフの気配が消える。
再び、化のと人間のが繋がる覚があった。
ヨーゼフの気配はない。
「……な、何で?」
いや、そんなことはどうでもいい。
今度こそ、わたしは自由を手にれたのだ。
……とにかく、海斗の止をしなければならない。
「海斗っ!」
わたしは自分のの出を無視し、海斗のもとへ駆け寄った。
「…………」
「……海斗?」
反応はない。
だが、息はある。
急いで救急車を呼べば、まだなんとかなるかもしれない。
「……よひ」
わたしは口をもぐもぐとかしながら考える。
「……はれ?」
そういえば、わたしは今、何を食べているのだろうか。
……言い知れない恐怖を覚え、わたしは咀嚼していたものを吐き出した。
「ううっ…………」
海斗のき聲が遠い。
「……ああ……ああああ…………」
海斗の右手の小指が、無かった。
『――――新鮮な生を食さない理由など、存在するのかね?』
いつの間にか、ヨーゼフが再び現れていた。
『キミは確かに、彼をしていたのだろうねェ。――共に人生を歩んでゆくパートナーとしてではなく、食として・・・・・、だが』
「――ッ!?」
そんな。
そんなわけがない。
だって、だってわたしは……。
『キミは自分の意思で彼の指を口に含み、噛み千切ったのだよ。これの意味するところがわからないキミではないだろう?』
知らない。
そんなことをやった記憶などない。
これは何かの間違いだ。
「わたしは……わたしは……っ……」
『――いいんだよ、サツキ』
「え……?」
『キミは何も悪くない。悪いのは、キミを化にしたワタシや、キミのことなど微塵も考えていなかった高峰皐月――』
ヨーゼフはその視線を足元の海斗に向ける。
『――そして、今、キミの目の前に転がっている……あまりにも怠惰過ぎたキミの想い人なのだからねェ』
「あ……ああ……っ……」
『食べたいのだろう?』
「――っ!」
それは、だめだ。
『肯定しなさい、サツキ』
「……い、いや、だ……嫌……いや!」
『今のキミには、その権利がある。力がある』
違うと言いたかった。
そんなことはんでいないと言いたかった。
……じゃあ、なんではっきりとそう言えないのだろう。
『――想像してみなさい』
ヨーゼフの聲は、聖職者と間違うほどに優しかった。
『彼の指を口に含み、じっくりと舐ねぶり……そして骨ごと噛み砕く』
ヨーゼフの聲が、自然とわたしの中に染み込んでいく。
『彼のを咀嚼し、管を噛み千切り、嚥下えんげする』
その景を、その食を、容易に想像することができてしまう。
「……?」
ふと。
口から何かが溢れ出て、口元を濡らしているのに気付いた。
「……は」
唾だった。
『認めなさい。サツキ』
わたしは今、何を思ったのだ?
……わたしは今、こう思ったのではないのか。
――味しそうだ、と。
「……………………あはっ」
わかった。わかってしまった。理解してしまった。
何もかも、手遅れなのだと。
わたしが、人間としての価値観や倫理観を取り戻すのは、もう不可能なのだと。
海斗と一緒に生きていきたいというわたしの“意思”は、海斗を食べたいという化わたしの“食”に負けたのだ。
「……あはっ、あははははっ」
笑える。
どうして、笑わずにいられようか。
こんな唾棄すべき醜い姿になり下がっても、心は人間のものだと。
理的な思考能力は失われていないと。
海斗を助けてあげたいという気持ちは本だと。
……海斗をしているという気持ちは本だと。
そんなことは、なかった。
わたしは正真正銘の化だった。
人を食らって。
人間に寄生して。
海斗の家に棲みついて。
これが、人間のすることか?
――否。
そんなわけがない。
わたしがだと思っていたものは、ただの食だったのだ。
海斗の命を助けたかった?
……違うだろう。
自分のためだ。
より良質な食材を食べて、空腹を満たすためだ。
「……ああ」
頬を、熱いものが伝った。
……そしてこの涙さえも、目の前の瀕死の海斗を悲しむものではなく、ただの自己によるものではないのか。
「――――っ」
なんて、醜い。
『それが、キミの本だよ。サツキ』
ヨーゼフは笑顔のまま、思い切り海斗を蹴り飛ばした。
「――――がぁっ!?」
海斗のから、カエルが潰されたような聲がれる。
そのまま、ヨーゼフは海斗のもとに向かって歩き出した。
……いや、だ。
死なせたくない。
海斗を死なせたくない。
ただの食べなんかじゃない。
海斗は、わたしの最の人だ。
それは、それだけは譲れない。
止めなければならない。
……わたしは、どうなってもいい。
どうせ、わたしが化である限り、海斗と結ばれることなどありえない。
「――っ」
余計なことは考えるな。
とにかく、海斗を助けるんだ。
「いて……お願い……っ……」
そのとき、わたしと前田玲子のが、僅かにではあるが、確かに繋がった。
「――!」
左腕が、く。
躊躇はなかった。
その辺に落ちていた木の枝を、思いっきり自分の腹部――前橋皐月としての本である化が巣食っている部分――に突き刺した。
「――っ!」
熱と錯覚するほどの痛みが走る。
『己の無力を嘆きなさい』
だが、消えない。
『サツキ』
耳障りな聲が消えない。
意図したものではない歩みも止まらない。
もう一度、同じところを突き刺した。
「――ぁ」
痛い。
苦しい。
『この世の理不盡を嘆きなさい』
まだ消えない。止まらない。
再び木の枝を突き刺そうと振り上げた左腕が、もはや自分のものではない右腕に抑えつけられた。
『サツキ』
……左腕の覚が、もう。
『――しい男が死にゆくのを、指を咥えて見ていなさい』
ヨーゼフの聲から、抑えきれない愉悅がにじみ出ているのがじられた。
その聲がわたしのから発せられているという事実に、言葉にできないほどの嫌悪を覚える。
ついに海斗の前に到達したヨーゼフは、化のから手をばした。
不必要なほどに鋭いその手の先端は、海斗の左に標準を合わせていた。
「……どうしてなの?」
無意識だった。
「どうして……こんなことをするの……?」
涙が溢れる。
「どうして、わたしたちがこんな目に遭わなくちゃいけないの!?」
必死で抑えつけてきた思いが、溢れる。
それは今まで、ヨーゼフの犠牲者たちが言ってきた言葉だった。
ヨーゼフが、こちらを見る。
『キミはキミの想い人を――兼家海斗を殺すことで完するのだよ。サツキ』
「……かん、せい?」
ああ、とヨーゼフは頷き、
『兼家海斗への思慕。高峰皐月への憎悪。――ワタシへの、憤怒。それらの激をそのに宿し、キミは永遠の存在――ワタシのミューズとなるのだよ』
「……そんなことの、ために?」
『高峰皐月を無力化し、ワタシの手駒も増える。……こういうのを日本のことわざで何というんだったか――』
ヨーゼフはし考えたものの、すぐに思い出したように口を開いた。
『――ああ、一石二鳥というやつだねェ』
「……返してよ」
『うん?』
「わたしの! 返してよぉぉっ!!」
『だから前に言ったじゃないかね。キミのは火葬されていて、既にないと』
……悔しい。
わたしは、こいつに負けるのか。
『さぁ、サツキ。そのも、その心も、その魂も、すべてワタシに捧げなさい』
「やめて……やめてよぉ…………」
ヨーゼフが海斗の首に手をあてた。
ヨーゼフは、その顔を歓喜のに染めながら、告げる。
『その魂を震わせ、極上の音を奏でなさい! サツキィィィィ!!』
「やめてぇぇぇえええええええええええっ!!!!」
わたしは目を閉じた。
――ごめんなさい。
ごめんなさい。海斗。
ごめんなさい。
ごめん、なさい。
……だが、いつまで経っても、覚悟していた海斗の斷末魔のびは聞こえてこない。
「……?」
わたしは、おそるおそる目を開けた。
「な――」
化の手が、途中で切斷されていた。
そして。
「……なんとか、間に合ったようですね」
その顔には見覚えがあった。
先ほどまでとの違いは、右腕が、だらんと垂れ下っているところか。
満創痍。
そう形容するのがふさわしいほどボロボロな男が、海斗をおぶさって手のリーチから遠ざけていた。
……いや。
正確に言えば、男ではない。
「さぁ。時間もあまりないですし、さっさと終わらせてしまいましょうか」
高峰皐月。
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