《輝の一等星》寒い溫泉
「……ねえ、本當に急がなくても良いの?」
「先ほど説明したじゃろうが、涼なら大丈夫じゃ。妾を信じよ」
「でもさ、いくらなんでも気、抜き過ぎじゃない?」
「英気を養っているのじゃよ……それに、機を張り詰めるとろくなことにならぬからな」
そんなもんかなぁ、と不安と不満がり混じったような言い方で呟く詠と共に、黎は、本日の宿である『雪見館』の廊下を歩いていた。
二人とも浴に著替えており、その手には手ぬぐいとバスタオルなど、浴道を持っているのを見れば彼たちがどこへ向かっているのかは自明だろう。
ちなみに、宿代は鬼神隊の『軍資金』から出ているものなので、第11バーンの中でも中々良いところを取っていたりする。
獅子神信一は部屋が違うので何をやっているのかわからないが、馬場水仙はというと「自分はちょっと、やることがあるっすから」とか言って、部屋を出て行ってしまった(もちろん、請求書は貰ってくるなとは言っておいた)ので、こうして二人で館自慢の溫泉にりに來たわけだ。
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ここのお湯は怪我の治療にも効くらしく、詠の傷の手當にもなると考え、嫌がっても強引に連れてこようと思ったのだが、案外、彼も溫泉が好きらしく拒絶はしなかった。
ちなみにさっきまでは、4人で明日の作戦會議――というか、まあ、ほとんど黎が3人に一方的に指示しただけで、そもそも『作戦』と呼べるものかも定かではなのだが――をしており、すでに準備は整っていた。
準備萬端、他にやっておかなければならないこともないし、というわけで、せっかく良い宿をとったのだから溫泉につからなければ、と言うわけで、詠と共に來たわけだ。
と書かれた赤い暖簾をくぐり、所に來ると、どうやら先客がいるようで、籠の一つだけ使われていた。宿泊客のようで同じ浴だった。
獨り占め……とはいかないようだが、銭湯と比べると明らかに人の數はないため、煩わしさをじることなくゆっくりとることができるだろう。
「『れーちゃん』ってさ、溫泉隙なんてちょっとババくさいよね」
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「妾の勝手じゃろう……『れーちゃん』?」
「いいじゃん、偉そうだけどまだ小學生なんだし。私のほうが年上でしょ?」
「それは……まあ、そうなるかもしれぬが……」
「私も前から妹ほしかったんだよね~」
ちゃん付けでなんて呼ばれたことがなかったので、どうもしっくりこない。これならまだ、シノノのように様付けで呼ばれた方が、引っ掛かりがない。
しかし、詠の言う通り、このは小學生。ゆえに、どう呼ばれるかなど彼にゆだねるしかなかった。
それにしてもさ、と続ける詠は、が止まっている頭の包帯を取り、いだ浴をたたみながら、黎を見る。
「れーちゃんさ、見る人なんていないし、第一、上から下までぺったんこなんだから隠さなくてもいいんじゃない?」
「気分の問題じゃ、これも妾の勝手じゃろう」
ふうん、と言った詠は、たたんだ浴を棚のカゴにれると、「よし、なら……」と、ぎらついた眼を向けてきた。
なんだか、凄く嫌な予がする……。
「お姉ちゃんが測定してあげようか?」
じりじりと詰め寄ってくる詠に対して、黎は後退する。彼が飛びかかってきたとして、簡単に避けられる自信はあるが、ここは狹い、何かにぶつかり、明日を前にしょうもない傷を負うのは嫌だし、負わせるのもごめんだ。
「しょっ、小學校でやっておるから、別にいらぬ」
「あっ、ちょっと!」
というわけで、一瞬で判斷した黎は、所から浴室へと駆けだした。
中はかなり湯気が立っているが、どうやら、先客は天風呂にいるらしく、中風呂には誰もいなかった。
「もう、お風呂場で走っちゃいけないんだよ?」
「誰のせいじゃ、誰の!」
やれやれ、とため息じりで吐き出した黎は、木で作られたバスチェアに座り、まずは、と自分のその長い髪と格闘を始める。トンネルの戦闘では一撃で倒し、切り口も自は汚れぬようにと気を付けていたのだが、やはり若干のしぶきが飛んでおり、洗い流すのに苦労する。
いっそのこと切ってしまえば楽なのだろうが、にとって命と云われる髪はその者の出す威厳に繋がるので、切ってしまうと子供っぽさが増して、不本意な待遇をけねばならなくなるため、そうするわけにはいかないのだ。
そういえば詠は自分のことを妹とか言っていたことを思い出して、言葉通り自分が詠の義妹になってしまうと、ちょっと意味わからない複雑な関係になってしまうのう、なんてことを考えながら、染みついた不快な匂いを消臭すべくシャンプーでよく洗っていく。
塗られた道を進む黎は多くの人を切ってきた、しかし、未だの匂いというのには慣れておらず、その不快からすることができずにいた。
(……いや、このままで良いのじゃろう)
もしも、の匂いに慣れてしまえば、きっと自分は本當に戻れなくなる。どうやら自分は、何百もの命を切るよりも、切ることに慣れることの方が怖いらしい。
當たり前のことなのかもしれないが、し意外に思えた。それは自分がまだ、靜かな日常の中に生きたいと願っていることの証拠であり、つまり、許されたいと思っているということだ。
人生を最も大切な二人の人間の幸せのために、とうの昔に捨てたと思っていた平穏をしていることに、我ながら、甘い考えだとじた。
「れ・え・ちゃん!」
「……っ!」
ぼー、と考えていた黎は背後から迫ってくる気配をじて反的に立ち上がって振り返ったのだが、床が石鹸のせいか思った以上にってしまい「ひゃっ」なんて、間抜けな聲を出しながら転んでしまう。
転んで打った頭を抱えながら痛みのあまりにゴロゴロと転がっていると、詠が心配そうに見下ろしていた。
「えーと、お姉ちゃんが背中流してあげようと思ったんだけど……大丈夫?」
「もっ、問題ない……が、背中はよい」
「……ごめん」
謝らずともよい、と返した黎はシャワーを頭から浴びて髪についた泡をすべて洗い流した。
いつも命のやり取りをしているせいか、誰かわかっていれば良いものの、今みたいにぼんやりしていて、急に接近に気付くと、反的に構えてしまう癖がついてしまっていた。
これは詠が悪いのではなく、変なことを考えていた自分が悪いのだ。
気を取り直して、を洗い、一度桶でお湯を頭からかぶった黎は長い髪のを頭に巻いてから、ようやく溫泉へと浸かった。
日々酷使しているがお湯に包まれた直後から、喜んでいるようにじ、疲れが解けていく覚を味わう。
流石地下世界なだけあって、溫泉の數自は地上よりも遙かに多いのだが、ここまで良いお湯は中々ないと思った。
彼の住む第9バーンにも溫泉はいくつかあり、彼もよく行くのだが、お湯の質が違うというか、分が違うというか、疲れの取り方が段違いだ。
これは良いと思いながら、真っ白なお湯にを任せながら一息ついていると、そういえば、と詠の姿がないことに気付く。どうやら、先に天の方へと行ってしまったらしい。
「妾も行くか……」
ここの溫泉は風呂より天の方が良いと評判で、なぜなら、目の前に館の庭が広がるからだ。
今の季節は夏らしい緑あふれた景に、池には鯉がいて、蟲の聲も聞こえてくるので、のぼせるまでっていてしまうとかで評判の天へと黎は向かう。
ガラガラ、と橫戸を引いて外に出ると、目の前には綺麗な景が広がっていた。
これはいい、と思いながら、お湯の中にって詠の姿を探したのだが、彼は先客の隣で何やら話しているようだった。誰ともすぐに仲良くなれるのは彼の凄いところだ。
「れーちゃん、こっちだよ!」
手をひらひらとさせながら、呼んでくる詠。
湯煙のせいでその相手の姿が見えなかったが、とにかく彼の傍にいこうと歩いて行ったのだが、近づくにつれて彼の隣にいる人の姿が見えてきて、その姿を完全に確認した直後、黎足は止まる。
たとえ半だけであってもお湯につかっているはずなのに、の中を通っているが一気に冷たくなったような気がした。それなのに、心臓の速度は急速に上がっており、痛いくらいだ。
「こいつがお前の言っていた小生意気な妹分か?」
「お前じゃなくて、詠よみだよ」
「すまないな、詠」
はっはっは、と凜々しく笑っているのは異様に白い。その顔、、全てのパーツがまるでに設計されたように整っており、一つの作品のような姿はとても人のものとは思えなかった。
詠がわかっているのかは定かではないが、彼は人間ではない。
(ウェヌス……なぜ、奴がここに……?)
彼はウェヌスと呼ばれるこの地下の支配者オルクスと同じ『十二天將』の階級を持つプレフュードであり、同時に、『四天上王』と呼ばれるデネブの配下の中で、最強とされている4人の中の一人である。本來ならば、間違っても正面から戦おうとは思えない相手だ。
『しき豪弓兵』の異名を持つ彼は最強の弓兵として、地下地上含めて名をとどろかせているものの、弓以外であっても誰かに敗北したということは聞かない。たとえ、黎がここへ刀を持ってきたとしても、丸腰の彼には敵わないだろう。
「? なぜ立っている。が冷えてしまうぞ?」
何も言えずに、コクリ、と頭だけかして、その場に座る。これは本當にお湯なのか、と疑わしくなるくらいには冷たいのに、汗はダラダラと出てくる。
今の黎は完全なる丸腰、服すらない。この狀況で彼と戦うことになれば、勝負は瞬く間に決まるだろう。いや、彼が戦う気を出した瞬間の気迫だけで気を失うかもしれない。
だが、幸いなことに、彼は黎たちのことはわかっていないようで、ただの人間の小娘だと認識してくれているようだ。
この様子からして地下へは戦うつもりで來たわけではないようだが、彼の気が変わればこの町が一夜にして消えてしまう。ここは穏便に、怒らせることなく、刺激を與えずに、やり過ごさなければ。
「ねえ、ウェヌスさんってどこから來たの?」
「あそこからだ」
そう言ってウェヌスは指を上に向けたが、質問した詠にはその意味が分からなかったらしく、
「天からね……確かに空から舞い降りた天使みたいに綺麗だけど、それじゃあ、まるで人間じゃないみたいじゃん」
「確かに人間では、ないのだが……」
またまた、とウェヌスにツッコミをれている詠に、おい、と、思わずツッコミたくなる。
刺激を與えるな、と目で彼に訴えかけてみるが、いつも無駄に勘が良いはずの詠にこの時に限って通じてくれず、「どうしたの、れーちゃん。トイレ?」とか言われる始末。
いっそのこと本當にトイレだとか、適當に噓をついてこの場から抜け出したかったが、詠を殘しておくわけにはいかなかったので、「天から、なんの用があってきたのかなと思ったのじゃ」とか適當なことを言ってみる。
ウェヌスが黎の方を見てきて、震えそうになるが、揺をじ取られれば、彼の正を知るものとして殺されると思い、なんとか平穏を裝ってぎこちない笑いを作る。
「ここの溫泉へりに來た――と言いたいところだが、頼まれごとをしてな、屆けだ、お遣いってやつだな」
「へー、仕事か何か?」
そんなところだ、というウェヌスは、靜かに目を閉じたので、ホッと息をつく。見られているだけで生きた心地がしない……。
「詠たちはここへ何しに來たのだ?」
「リョウちゃん……お姉ちゃんに會いに來たんだよ」
流石に助けに來た、とは言わなかったものの、涼の名前を出してしまった詠の発言に肝が冷え、がすくむ。
涼……、と呟いたウェヌスが自の主と同じ舊王の筋である飛鷲涼のことを知っていてもおかしくはなかったため、黎は張で呼吸ができなかった。
しかし、ウェヌスは「そうか」と、わずかに笑っただけだった。
その後も、何度か詠の怖い発言があったものの、ウェヌスが出ていくまで、なんとか彼の機嫌を損ねずにやり過ごすことができた。泡を吹いて倒れなかった自分に黎は拍手を送りたいくらいだ。
死ぬかもしれない思いはこの短い人生ですでに何度かあったが、今日が一番危なかったと、黎はじたのであった。
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