３

引き戸を開けると、カレーのいい香りが彼の鼻孔を擽った。

「いらっしゃい！　空いているところに座ってね！」

店主――白い割烹著にを包んでいる――はぐつぐつ煮えたぎる鍋から目線をそらすことなく、そういった。

彼はそれを聞いて、一番近い席に腰掛ける。

壁には有名人と思われる人間が描いたサインが所せましと並べられている。現にこの時間になっても店は満員となっていた。

將さんと思われるが水のったコップを持ってきたと同時に、彼は人差し指を立てて言った。

「煮込みカレーうどん一つ、卵追加で」

「はい、煮込みカレー一丁」

將さんは奧に居る店主に言う。

店主は無言で頷き、空いているコンロに土鍋を置いた。

このカレーうどん屋は彼がこの辺りを散策しているときに偶然発見した隠れた名店であった。雑居ビルの一階にあるのだが、道路から奧まった場所にある為、見つけるのが大変だった。それと同時に歓喜のすら浮かんだ。

そもそも、このお店は深夜までやっている。飲み會の後に食べにくるサラリーマンで賑わうためだ。何でもカレーにはウコンが含まれているためで、次の日にお酒が響かないためなのだとか。

「まあ、次の日まで響く程飲まなければいいのにねえ……」

そう呟きながら、彼はスマートフォンを作する。

しして、カレーの匂いが強くなる。

それを合図として、彼はスマートフォンをポケットに仕舞った。

「はい、お待たせ。煮込みカレーうどん、卵二つね」

土鍋一面に満たされているのはカレーの海だ。そのカレーの海には細めの麺とかまぼこ、それに淺蜊の一部が沈んでいた。

そしてその海の真ん中には生卵が二つ。あまりの熱さに若干半染みているが、それがこの店のカレーうどんなのだ。

右手に蓮華、左手に箸を取り、麺を摑む。

カレーの海に浸っていた麺はカレーがいい合に絡みつき、湯気が立ち込めていた。

蓮華にある程度の量の麺を乗せ、息をかけて冷ましていく。貓舌、というわけでもないのだが、このお店の麺はとても熱い。油斷していると、たとえ貓舌でなくても舌を火傷してしまうことだろう。

そして彼は意を決しその麺を口の中に放り込む。

その麺は熱くなくなったとは言えないが、それでも充分食べることの出來る溫度にはなっている。

麺を噛み締めるごとにカレーの味が口の中に広がる。

「ああ……味い……！」

にカレーの味がしみこんでいくのをじる。

次に蓮華を使ってスープを飲む。

カレースープは非常にドロドロしていて、濃厚さをじさせる。分的にはカレーが多めになっているのだろう。

スープを一口啜る。カレーの風味が、麺を食べた時よりもさらに濃く広がる。いや、スープを飲んだのだから當然と言えるが、このスープは一味違う。どこか味噌の味がするのである。普通、カレーに味噌をれることは無いかもしれない。だが、この店は隠し味に味噌をれている。香りと味がするので隠し味とは言えないが、それを無視してもいいくらい味噌とカレーがマッチしている。

次に麺以外の構について。

そこで彼は卵の黃が半を通り過ぎて固まりつつあることに気付いた。

急いで黃を崩す。カレーの海に広がる黃の溶巖はすぐに固まっていく。

ちょうど黃とカレースープが混じり合ったところを蓮華で掬って、そのまま一口啜る。

「くうーっ！　味い！」

思わずナナは唸ってしまった。

だが、裏を返せば。

衆目を気にすることなく、そう唸るほどの味さだということだ。

そして改めて彼はカレーの海に沈むものを箸で取り出した。

エビ。

エビである。

カレーうどんにエビがっていることに、彼はあまり違和を抱くことは無かった。

普通に考えれば珍しい話なのかもしれない。普通、カレーうどんには豚か牛がっているものだ。それ以外はあまりっていない――普通のカレーとは違うものになっているからだ。

だが、これはどうだろうか？

エビがったカレーうどん。

彼がこのお店を初めて利用したときは、姉に連れられてのことだった。

姉が注文したものと同じものを注文して、出てきたのがこれだった。

いろんなことに驚いたが、それよりも。

――そのカレーうどんはとてもおいしかった。

こんなカレーうどん食べたことない。そう思うくらいの味だった。

それから彼はこのお店のカレーうどんの虜になってしまった――そういうことである。

そんな回想を彼がしているのかはさておき、彼は箸で挾んだエビをそのまま口へ放り込んだ。

プリプリとした食のエビは、カレーに良く合った。シーフードカレーがあるのだから、案外當然なのかもしれないが。

エビに淺蜊、海鮮系が多くっているのは木崎灣が近いことが由來なのかもしれない。海が近いため、新鮮な海鮮が手にる。だからこのようにシーフードカレーのようなカレーうどんになっているのだ。

スープまで飲み干して、彼は漸く一息吐いた。

店の様子は相変わらず満員だったが、しかし客は半分くらい変わっていた。このお店が繁盛していることを示していた。

「そろそろ出ようかしらね……」

水を飲み干し、伝票をもって、レジカウンターへと向かう。

お金を払い、外に出る。

時刻は午後十一時を回った辺り。そろそろ電車の運行間隔も疎らになりつつある時間帯である。

「そろそろ帰ろうかしらね」

時計代わりに確認したスマートフォンを仕舞い、彼が歩こうとした――その時だった。

彼の目の前に、が立っていた。

金髪のだった。

セーラー服を著た彼は、微笑をナナに見せていた。

「……あなた、まさか」

ナナはそれが誰だかすぐに解った。

は口を開く。

そして、言った。

「いかにも。――私は、皆から四谷さんと呼ばれている」