《いつか見た夢》第8章
俺は今何故んでいるのか分からない。だがばなければ、どうしようもできなかったような気がした。 
振り下ろされてきたナイフは、相変わらずスローモーションで、俺の目前に迫っていた。 
その瞬間、今の今まで指先一つかせなかったは途端にき始め、相手のきはスローモーションなのに、こちらのきだけはやたららかにいて、右手で奴の左手の手首を、間一髪で摑む。 
「!?」 
奴は、一瞬だけ驚いたようできが止まったものの、直ぐさま右足で蹴り飛ばしてきた。 
「ぐっ!?」
俺の腹に思いきり奴の膝がめり込み、廊下に背中から飛ばされてしまう。 
「がっ……」 
盛大に倒れたため、けもとることができずに、背中を打ち付けてしまった。 
「かはっ……はっ、はっ……」 
呼吸がうまくできない。そんなことはお構いなしに、なおも奴は倒れた俺に向かってくる。 
その時、青山が何事かと顔を出したのが視界に映る。 
「馬鹿……早く逃げ」 
倒れた俺に向かってきた奴のために、くように搾り出した聲は、全て紡がれず、次の行へと移していた。
一杯の抵抗として、倒れたまま蹴りを放つ。攻撃のためというより、ただのめくらましに過ぎない。
いとも簡単に防がれてしまうが、今はしでも逃げるための時間稼ぎが必要だ。 
「ぁ……九鬼くん……これは一?」 
青山は、もはやどうしていいか分からないといった風で、ただ茫然と出てきた部屋の前に立っている。
下からドタドタと音を立てて、織田と徳川の二人が駆け上がってきた。 
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「どうした!?」
さすがの奴も、これだけの人間がいるとは思わなかったのだろう、俺への注意がそれた。 
(今だ!) 
このチャンスを逃さず、俺は素早く起き上がり、力の限り當たりする。もちろん、左手に持っているナイフは使わせない。 
當たりしたまま、ドアのふちにこの野郎の背中をぶち當てる。 
「ぐ……!?」 
奴が低くき聲をあげた。さすがのこいつも多はダメージはあるはずだ。
この頃には、俺の頭は妙に落ち著いていて、周りの一挙一が手にとるようにじられる。 
「九鬼君!」 
誰かがぶ。 その聲が、一瞬俺の脳裏に、織田が移中に語っていたことを蘇らせた。
『九というのは、すごく強いとか、最上といった意味が含まれていることがある。』 
(そうだ、やらなくてはやられるんだ! 戸うな! 一度ならずとも今も殺されかけたんだ!) 
自分の中のもう一人の自分がんでいる。 
右手で、ナイフを持った奴の左手首を摑んだまま、左手を思いきり握りしめ、渾の力で奴の脇腹に叩き込んだ。 
「うぐっ」 
奴は再びき聲をあげるが、お構いなしに再度脇腹に拳を叩き込む。 
しかし、奴も黙ってはいなかった。 ら空きになっている俺のに、再び膝蹴りを食らわしてきたのだ。 
「げっ!?」 
こちらの勢が悪かったのだろう、奴の膝は、俺の鳩尾にったのだ。瞬間、息が止まった。 
(まずい……今のは、まずい) 
俺は、ズルリとその場に膝をついてしまった。
このまま、こいつに殺されてしまうのか? こんなところで俺の人生は、終わってしまうのか……。 
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くそっ……終ってたまるか……こんなところで死んでしまってなるものかっ! 
どれほどの時間が経ったかは分からない。 
おそらくはほんの二秒か三秒がせいぜいいうところだろうが、奴は何もしてこない。 
なぜだと顔をあげると、奴は俺を見下ろしておらず、青山達三人の方へと向いていた。 
そして、三人ともその手には警棒のようなものが握られていた。それはいつぞやに、青山が俺に渡してくれただ。 
しかし、三人はこの全黒ずくめのこいつに対し、明らかに怯えている様子だった。 
けれど、俺には巡り巡ってきたチャンスだった。
(喰らえっ!) 
俺は、今度は右の拳で奴の臑を毆る。 
「がぁっ!?」 
さすがの奴にも、この不意打ちはかなりのものだったらしい。ただ、それでもナイフは手から落とすことはなかった。
立ち上がりざまに、そのまま奴の間に頭突きを食らわした。 普段なら、そんな攻撃はしたいとも思わないが、今はそんなことを言っている場合ではない。 
「これでしの間は時間が……ぐあっ!?」 
三人に逃げようと言おうとした瞬間、俺の右腕になんとも言えない、鋭くも熱い痛みが走った。 
見れば、奴がそのナイフで俺の右腕を切り付けたのだ。 
ナイフは相當鋭いのか、裂けた服の隙間から見える上腕部分のに線がっていた。その不自然にった線から、し間をおいてプツプツと赤いが流れでてきた。 
「ぅぐっ……あぁっ……!?」
……なんと言う痛みだ。今まで味わったことのない痛みだった。 
もちろん、怪我なんてのはこの十數年しか生きていない人生の中でも、數え切れないほどしてきた。 
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しかし、この痛みは今までのものと比べものにならないほど、形容しがたい痛みだった。 
今までの事故による怪我と違い、これは人為的なものだ。ただそれだけの差なのに、こんなにも違いがあるのか。 
この様子を見ていた青山達は、もはや完全に竦み上がって逃げることすらできないでいた。 
傷は相當深いのか、傷口からはとめどなくの雫が滴り落ちて、廊下に小さな池を作っていった。 
あまりのことに、俺は傷口を押さえることすら忘れていた。
「………殺す」 
ふいに聲が聞こえた。低く、くぐもった聲でたった一言、呟くように。 
「なん、だと………?」 
俺はしだけ驚いた。 まさかこの野郎が、喋るなんざ思いもしなかったからだ。 
「……邪魔するなら……邪魔する奴らは全員殺す!」 
俺は先ほどよりも足がすくんでしまった。 
それほど奴の言い放った言葉には、強烈な怨嗟が込められていた。 
だが、奴は俺に攻撃を加える事なく、唐突に苦しみだした。 
「うっ、ぐぅっ……あぐ……うぐあぁっ……」 
突然苦しみだした奴は一歩二歩と後退し、頭を押さえながら片膝をついた。 
「な、なんだってんだ……」 
「ぐ、ぐぉおおおっ……」 
突然の事態に、俺も他の三人も呆気に取られていたが奴は立ち上がり、俺に向かって走り込んできた。 
「ぐぅぅ、どけぇっ!」 
不覚にも當たりを食らわされ、またもそのまま床に突き飛ばされてしまった。 
しかし、奴はそんな俺など見向きもせずに、階段まで行き、勢いそのままに階段を駆け降りていった。 
そして、ガチャガチャとドアの開ける音が聞こえ、外に出て行ったことが窺えた。 
三人もあまりの勢いで走り込んできた奴に、恐怖のをみせていたが一階に降りていった奴を見送ると、へなへなと、下半から力が抜けてしまったようだった。 
徳川にいたっては、呼吸することすら忘れていたようで、床に腰付けてからというもの、呼吸困難の患者のような、荒い呼吸を何度も繰り返していた。
「あ……い、今のがもしかして……?」 
織田が、やっとのことで喋る。 
「ええ……この家にった時じた違和は、きっとあいつがいたからでしょうね」  事実、さっきまでの違和がまるでなくなり、この家は再びただの空き家になってしまったかのようだ。
俺がそう返したものの、織田はそれ以上のことは言わなかった。いや、言いたくとも、まだ混した頭では言うことがままならないのだろう。 
先程、俺が奴と出會った瞬間も同じようなものだったのだ。それも仕方ないと言えた。 
「とにかく今は……くっ」
必死だったためか、最初に痛みをじて以來あまりじていなかった腕の痛みが、安心して張の糸が切れてしまったところで、急激な熱さと痛みを訴えだしたのだ。 
當たり前のことだが、まだは流れていて、俺はドクドクと流れ出ている、熱いの脈をじていた。 
それを見た青山が、顔を引き攣らせながらも、心配そうに駆け寄ってきた。 
「く、九鬼くん、大丈夫?」 
普通に生活していれば、あまりお目にかかることもない出量に、半ば青ざめた顔をしている。 
もちろん當の本人ですら、こんな大量のが流れ出ているところなど、見たことはない。ましてや自分のなのだ。
「ああ、大丈夫だ……と思いたいがな。とにかく今は止しないと……」
「そ、そうだね。何かを拭いたりできそうなもの……」 
ついさっきまでへたれ込んでいた織田が、俺のところまで歩み寄り、自のTシャツをいで、腕に巻きつけていく。
その表は青山に比べると、いくらか落ち著いているように見えた。
「こ、これだけの騒ぎがあったんだ、近所の人が警察を呼んだかもしれない。すまないが、今はこいつで我慢してくれ」 
確かに、今ここでは応急手當ての道もなさそうだ。 
「すみません。お借りします」 
「何、気にしなくていいよ」
織田は、しバツの悪そうな表で、鼻の頭をかく。武を攜帯しながらも、何もできなかった自分を責めているのかもしれない。 
「とりあえず、これでよし。……だけどここを出る前に、一度、この部屋を調べてみないと」 
織田の言葉に、俺は頷いた。元々俺はこの部屋を探索するつもりだったのだ。
「そうですね。奴がこの部屋にいたのは、何かしら用があったからのはずだし……」 
俺達は、急いで部屋の中を調べる。そう、何故奴がここにいたのかは、謎だ。だが、ここに何かしらの目的があって、訪れていたのは間違いないはずなのだ。そのおかげで俺はまたしても殺されかけたのだが。 
全員で手分けして6坪ほでの部屋を調べていく。この部屋には、比較的多くが置いてあり、二つも三つも機や椅子、クローゼットなどがある。 
ここに置いてあるいくつかは、俺や青山が調べた部屋に置いてあったものかもしれない。
先ほど調べた部屋は、畳がしかれた和風の部屋だったが、明らかにが置かれていた跡がくっきりと殘っていたからだ。
「うーん、特にここにも何かあるわけじゃなさそうだな」 
「ですねぇ……さっきの人が持ち去ったのかもしれませんし」 
織田の呟きに徳川が相槌をうつ。俺も全くの同で、何かあったとしても奴が持ち去ってしまっているに違いない。
「あれ? ねぇ九鬼くん、それ何?」 
青山が俺の足元を指さし、尋ねてきた。正確には、足元近くに落ちているをだ。指差した方を見ると、そこには小瓶が転がっていて、俺はそれを拾い上げた。 
「何かのようながっているな。いや、量から考えるとっていた、か」 
小瓶の中には、微量の白いがっていた。よくよく見ると、小さいが固形のものもある。俺は瓶の蓋を開け、そっと匂いを嗅いでみた。 
「……特に匂いはじないな。味は……」 
「やめた方がいい」 
俺の行を見ていた織田が制止する。 
「無臭でも、無味な毒だってある。それに、劇薬の大半は無味なものの方が多いと聞く」
そこまで言われると、さすがに口にするのは躊躇った。 
「徳川さん、そいつを調べられないですか?」 
織田が、徳川に問いかける。 
「うん、やってみよう。ごめん、借りるよ」 
小瓶を徳川に手渡し、お願いしますと頭をたれた。徳川に小瓶を渡し、俺が調べようとしていたアンティークと思われるテーブルから、一枚の紙が音も無く床に落ちた。 
「……これは」 
やや古ぼけ始めていたその紙を拾い上げ、それに印刷された文字を読む。 
「取引先一覧……?」 
そこには、おそらく生が生前に仕事上必要であったろう、取引先企業の名がずらりと並んでいた。青山達も寄って來て、紙を覗く。 
「ふーむ。何かヒントに……なるかもね。見てみなよ、この名前」
織田が、ある企業名を指差した橫に、確かにどこかで聞いた覚えのある名前があった。 
今井克利いまい かつとし。最近、どこかで聞いたことがあったはずだったが、思い出せない。 
俺が記憶の引き出しを漁っている時、青山が何かに気付いたようだった。 
「あれ? 確かこの名前って……」 
「気付いたみたいだね。そう、この名は首を切られて殺された人だ」
織田に指摘され、やっと思い出すことができた。つい昨日言われたことだったのに、忘れていたとは……。 
「やはり、あいつがこの人を殺したんだろうか……」 
「どうだろう? 早計に決め付けるのは早いけど、可能は高いかもしれないね。
まぁ、とりあえずここを出よう。まだ十分も経っていないけど、そろそろ時間的に限界だと思うから」 
織田に促されて、俺達は早々と生宅……いや、元生宅を出た。もちろん、出る時は裏からではなく、普通に玄関から出た。
奴がここを開けて出ていったためだ。とはいえ、鍵は暴に扱われたため、壊れかけていたが。
俺達は、來た時と同じく喋らず、あまり音をたてないよう足早に車のある場所へ向かった。
移する車中で、俺は相変わらず先の出來事について考えていた。
織田はああは言っていたが、俺は今井という人や他の関係者を亡き者にしたのは、間違いなく奴だとなぜかこの時、強く思っていた。そう思わざるをえないのだ。
的証拠ではないが、奴がナイフで攻撃してきたのはその何よりの証拠ではないのか? 
わざわざ、もう一年も前に死んでしまった生の家に來ていたのだってそうだ。不思議と傷の痛みによって、俺の頭はクリアになっていく。
確たる証拠なんてものは何もなく、ただ何かあるかもしれないと言う理由だけで訪れた生の家に、奴が現れた(正確には、最初からいたのだが)のも、奴が生や今井と何らかの関係があったから、そうではないのか? 
奴は、この二人の人と不可解な死を遂げた人達とも、何かしら関係がある人であることは間違いないはずだ。とにかく、この紙に名のある人達を徹底的に調べねばならないのは、もはや避けては通れない。そして、これらの人達と差する人間こそ、奴なのだと直で理解した。
奴に切られたおかげで巻かなくてはならなくなった織田のTシャツは、すでに元のが分からないほどに変しており、に飢えよってべったりと凝固しているが、流れ出たは、今はなんとか小康狀態だ。
痛みはまだ鋭いものの、思ったより傷は淺いのかもしれない。
車中で俺は、傷の手當てをしながら先程から同じことばかり考えていた。しかし、どうにもそれらが上手いこと、一つにまとまらない。 
背後の事実関係を解き明かすまでは、この靄に包まれている今回の事件は、全を見ることは出來ない。 
俺はため息を一つつき、今は焦っても仕方ないと自分に言い聞かせた。 
あれほど出ていた腕からの出は、今はかさなければ出ることはなくなった。
簡単な応急手當をするべく、高速のサービスエリアへる。べったりと張り付き、渇き固まったを四苦八苦しながら洗い流し、買ってきた包帯や傷薬などで手當すると、やっと一息つけた。
手當てをしてくれた織田は、意外なほど手當てが上手く、安心して任すことができたというのもある。今はフリーのライターをしている彼だが、それ以前は、病院で働いていたのだという。
手當てを終えた俺と織田は、服を買うべく、サービスエリアにあるショップへとった。俺は服を選びながら、沙彌佳や家族へなんて言い訳するべきか、頭を悩ませながら、またため息をついた。 
「ただいま」 
「おかえりっお兄ちゃん!」 
沙彌佳は、相変わらず俺が一人で出かけ、帰ってきた時には犬みたいに飛んでくる。 
抱き著いてきた沙彌佳が、犬になったところを想像してしまい、かぶりをふった。 
「俺にそんな趣味はないぞ」 
「え? 何が?」
沙彌佳がにうずめていた顔をあげながら聞いてきた。 
「いいや、なんでもない」 
俺は苦笑しながら、リビングへと歩きだした。沙彌佳はありがたいことに、怪我した右腕ではなく左腕にしがみついていた。
「おかえりなさい。九鬼さん」 
「ああ、ただいま」
俺が帰ってくる今の今まで沙彌佳とささやかなティータイムであったようで、ティーカップをテーブルに置いて、綾子ちゃんが挨拶をしてきた。もちろん、家にった時からすでに、匂いでそれには気付いていたが。
「見たとこティータイムだったみたいだな。俺にもいいか?」 
「はい。準備しますから、ちょっと待っていて下さいね」 
「あ、私も手伝うよー」
俺は、リビングのソファーにゆっくりと腰を下ろした。別にしたくて作をゆっくりにしたわけではないが、無意識のうちに、傷をかばっての行だった。右腕上腕部分を中心に、包帯が巻かれているということもあるかもしれない。
二人は、リビングに置いてあるガラス戸から、新しいティーカップとけ皿を出し、新たにお茶けも取り出していく。 
前にも思ったが、この二人は何をやっていても絵になるな。そう、まるでとても仲の良い姉妹のようにも見える。
長こそ沙彌佳の方がわずかに、二、三センチほど高いのだが、姉のような綾子ちゃんに、妹のような沙彌佳。そんな二人を見ていると、なんでか、とてもほほえましい気分になってくる。 
「なぁに、お兄ちゃん。私たちそんなにおかしい?」
俺は、気持ちがすぐ表となって出てくるタイプらしい。 
「いや、なんでもないさ。それよりも今日の茶はなんだ? 普段飲んでいるのとは違うな」 
指摘されたのが恥ずかしくて、話をそらした。気付かなくていい時に限って、こいつは気付いてくれる。
「あのね、今日のはトルコティーだよ。それもし値の張るお茶っ葉らしいの」 
「らしい? 誰かから貰ったのか?」 
「そうなんです。以前父がトルコに行った時、わざわざ買ってきてくれたんですよ」 
「それでちょうど前のお茶っ葉が切れたから、今回使ってみようってことになったの。それに結構味しいよ。お兄ちゃん好みかも」 
「俺好みの茶か。トルコティーは初めてだからな、それはちょいと楽しみだ」
どうも俺と沙彌佳が、初めて綾子ちゃんの家に行った時に、こいつを持ってきたらしい。 
全く、自分が大変な狀況に陥ったというのに、の子は図太い神経があるのやらないのやら……。
「ふぅ……なるほど、こいつは確かに味いな」 
「うふふっ、でしょう?」 
「喜んで頂けてなによりです」 
二人は自分達の気にったものが、俺も気にったことにご満悅といった顔をしている。
実際、その茶葉の出す味は俺好みのもので、舌にわずかに渋みを殘しながらも、かすかにシナモンを思わせるような香りが上品だ。
ここで一息ついたところで、沙彌佳が聞いてきた。
「ところでお兄ちゃん。その服どうしたの?」 
「え? あ、ああ、この服はちょっと気にったんで買ったんだ。それに安かったしな」
半分噓、半分本當だ。いつもならこんな派手な使いの服は買わないが、仕方ない。 
最近の高速のサービスエリアでは、ちょっとした買いができたり、ちょっとした観スポットになっていたりと、目まぐるしく様変わりしてきている。この服もそういったサービスエリアで買ったものだ。
使いは派手だが、なるべく俺に似合ったものを見繕ってきたつもりではあるが。 
朝と著ているものがが違えば、誰だって気になるものだが、特に怪しまれはしないはずだ。それに今日は、友達と街に繰り出して遊んでくるという、尤もらしい理由をつけて出ていったのだ。そういう意味でも、良いカムフラージュになったはずだ。 
まさか、前の服が切られてしまって、もう著ることができないとは言えるわけはない。
「ふーん。ちょっといつもの服とは違うけど、悪くないと思うよ」 
「そ、そうか……俺もいつもの服とは違うからどうかと思っちゃいたんだが」
ギリギリ合格ラインのようだった。沙彌佳は俺の著る服一つとっても、あれやこれやとうるさいので、ホッとした。
しかし、そのおかげか知らないが、周りからはそれなりにオシャレだという評価をもらったこともある。
だというのに、沙彌佳は何かが気にらないのか、し不機嫌そうな態度で続けた。 
「それで、朝著て行った服はどうしたの?」 
「ああ、帰りに友達のとこに寄ってな、そいつのとこに忘れてきちまった。気付いた時にはもう家の前だ」 
こいつは変なところでやたらと鋭いので、何かあった時は、いつもこうして言い訳を考えなければならない。それに季節はすでに、長袖を必要としている時期なので、怪我を隠せるのは助かった。 
沙彌佳は一応は納得したようだったものの、やはりどこか不機嫌なままであった。とはいえ、俺としてもいつまでも沙彌佳のご機嫌取りに付き合うつもりはない。 
「ところで今日の晩飯はなんなんだ?」 
「今日は、おば様の希もあってビーフストロガノフですよ」
「お、中々豪勢だな。綾子ちゃんが作るのか?」 
「はい。とはいっても、さやちゃんと共同作業ですけど」 
「そうか。俺もビーフストロガノフは好だからな、楽しみにしてるぜ」 
「はい、楽しみにしていて下さいね」
こうして綾子ちゃんと何気ない會話をしていると、ふと昨日の朝のことが思い出されてきた。 
何気なく沙彌佳の方を見れば、頭をたれているおかげで前髪が顔を隠し、表を読み取ることができなかった。 
ただ、その両手は力いっぱいに握られ、小刻みに震えていた。 
「どう? お兄ちゃん。初めて作ってみたけど……」
「おお、こいつはイケるぞ。母さんも顔負けの味さだな」
「ふふ。九鬼さんってお世辭が上手ですね」
いや、本気で言ってるんだがな……。
「ふん、だったらあんたにはもう二度とご飯は作ってあげないわよ」
母はそんなことをぼやいていたが、俺はそんなことなど、なんのそのだ。それに、母が作る料理がまずいと言っているわけではない。それよりも娘とその友人の方が、料理の腕がいいというだけの話だ。
なにより特筆すべきなのは、まだ十五という若さで、主婦歴十八年の母と同格以上ということであろう。
あの後、料理ができる寸前のタイミングで、両親が帰ってきた。うちの両親は、齢四十をとうに過ぎているのにも関わらず、
休日となれば二人仲睦まじく、どこかへでかけている。
綾子ちゃんいわく、うちの両親は理想の夫婦像なのだと言っていた。まぁ、仲が悪く、夫婦間が冷え切ってしまうよりは、遙かにいいのは間違いないが。
父さんは相変わらず會話に參加せず、一人黙々と食べているが、これは味いという時のサインだ。
そんな父は、最初に二口三口食べた後、
「これなら、店を出しても問題なさそうだな」
と、たった一言だけだった。
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『氷の王子』と呼ばれるザヴァンニ王國第一王子ウィリアム・ザヴァンニ。 自分より弱い者に護られるなど考えられないと、実力で近衛騎士団副団長まで登り詰め、育成を始めた彼には浮いた噂一つなく。それによって心配した國王と王妃によって、ザヴァンニ王國の適齢期である伯爵家以上の令嬢達が集められ……。 視線を合わせることなく『コレでいい』と言われた伯爵令嬢は、いきなり第一王子の婚約者にされてしまいましたとさ。 ……って、そんなの納得出來ません。 何で私なんですか〜(泣) 【書籍化】ビーズログ文庫様にて 2020年5月15日、1巻発売 2020年11月14日、2巻発売 2021年6月15日、3巻発売 2022年1月15日、4巻発売 【コミカライズ】フロースコミック様にて 2022年1月17日、1巻発売 【金曜日更新】 ComicWalker https://comic-walker.com/contents/detail/KDCW_FL00202221010000_68/ 【金曜日更新】 ニコニコ靜畫https://seiga.nicovideo.jp/comic/52924
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