《いつか見た夢》第21章

今俺が向かっているのは、都市の郊外にある住宅街だった。

アジトを出たときに、車で來ていた田神は俺を送ると言ってくれたが、辭退しておいた。普段なら、ありがたくその好意に甘えるところだが、今日はなぜかそういう気分にはなれなかったのだ。

今日の俺は、本當にどうかしているのかもしれない。朝はあんなに気分が良かったはずなのに。

目的の場所から1キロほど離れたところでタクシーを乗り捨て、そこからは歩いていった。

(ここはいつ來ても変わらない……)

目の前には、かつて俺が通っていた中學校があり、グラウンドでは野球部とサッカー部が練習しているところだ。

この中から、いずれはプロの選手として活躍するような者が出るだろうか、そんなことを考えていると、サッカー部で指揮をとっていた教師と思われる男が、こちらによって來ていた。

「九鬼……おまえ、九鬼じゃないかっ」

突然呼ばれて眉をひそめると、その人は中學校の時に俺の擔任だった。

「先生……か。久しぶり」

「ああ、ああ、本當に久しぶりだな。今日はどうしたんだ?」

「ああ、卒業以來だな。まさか、まだここで教鞭とっているとは思わなかったよ。

まぁ、ここに來た意味はないよ。ただ、なんとなくってやつかな」

「こういう時は、お世辭でも俺に會いに來たっていうもんだぞ、九鬼」

八年ぶりに會うというのに、この教師は説教してきたがその顔には、懐かしの生徒が訪ねてくれたことに綻ばせている。

「いつだったか、誰かにも同じようなことを言われた気がするよ。やっぱり、まだサッカー部の顧問、していたんだな」

くっくっくと肩で笑った。この先生は全く変わってない。それが妙にくすぐったくもあり、嬉しくもじたのだ。

「ああ、今年のやつらは良い選手が揃ってるからな。もしかしたら全國だって夢じゃない」

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「ほう、俺たちの頃とは大違いだな。俺たちの頃は、この地區じゃぁ最弱だったと思ったが」

「まあ、俺もあの頃はまだ顧問として、まだまだだったということもあったしな……というか、良くそんなの覚えてるな」

「まぁな。確か最後の夏、一勝もできなかったんだよな。関係のない俺だって覚えてるさ」

ニヤリと笑いながら、擔任を抜く。

「古傷をえぐってくるのは相変わらずだな、おまえは。……しかし、おまえ今どこに住んでるんだ? もしかしてまだこの近くか?」

「街の方に住んでる。戻って來たのは一年くらい前だ」

「そうか……おまえも、あの頃は大変だっただろうからな……あ、すまん。失言だったな……」

「いいや、構わないさ。事実だしね。ま、本當のところは思い出の地巡り、みたいなものかな」

「なんだったら、上がっていくか? まだ、おまえ達が世話になった時の先生方もいるぞ?」

バツの悪いような顔をして、俺は首を振った。ここに來たのだって偶然に過ぎないし、ただ単に目的地の通り道だっただけなのだ。

「そうか、分かった。……だが、九鬼。もうおまえとは直接関係があるわけではないが、なにもかもしょい込むものじゃないぞ。

何年経とうが、おまえは俺の教え子だ。何かあった時は俺を頼れ。おまえは昔からなんでも一人で突っ走るんだから」

「ああ、分かってるよ先生。それより、そろそろ行った方がいいんじゃぁないか? 後輩達がこっち見てんぜ」

「おっと。どうする? もう行くか」

「ああ、時間も限られているからな」

「そうか……分かった。じゃあ、おまえも気をつけてな」

「ああ。先生も全國行ってくれよ」

そういって俺はこの場を離れた。擔任は、俺が見えなくなるまで見送ってくれていた。

し小高い丘の上を線路沿いに道がのびている。かつては、この道を三年間行き來していたのだ。

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最後の一年は、沙彌佳とともに歩いたのを思い出す。丘を降りきると、今度は駅のロータリーへと続いていくのだ。

ここでは、良く沙彌佳が駅が近づくにつれ、寂しげな表をしていたのが思い出される。

そして駅を過ぎると、道はかつて住んでいた家へと続く。

々な話をしながら、登下校していたのだ。容は他もないものばかりで、その日何があっただとか、明日はあれがあるだとか、今日の夕飯はなんだとか……。この數年間、沙彌佳とそんな話をしていたことすら忘れていた。

思いに耽っているうちに、いつの間にか家の前についていた。敷地にる前、やや遠目にかつての我が家を見據えた。

現在は、うちの遠い親戚がこの家の管理人になっているため、鍵やなんかはまだそのままのはずだ。門には錠が下りていたが、俺は気にせず門を乗り越えた。

管理人が変わってはいても元は自分の家であり、名義もまだ親父のままになっているはずだ。

「鍵も変えられてなけりゃぁいいんだが……」

ポケットから鍵を取り出して、鍵に差し込んだ。そのまま捻るとカチャリと音をたて、鍵が開いたのが分かる。

約四年ぶりに我が家のドアを開くと、むわっと埃っぽい臭いが鼻孔をつく。俺は構わず中にり、ドアを閉めた。

引越しに伴い、中には一切は置かれていない。靴をいであがろうとしたが、その埃のためにそれはためらわれたので、そのままあがった。その足でリビング……かつての居間へ足を向けた。埃の上をそのまま踏み締めているため、足跡がうっすらと出來ている。

かつてのリビングにって、何もない部屋の真ん中まで行き、部屋の中をぐるりと見渡す。家が何も置かれていない我が家は、とても我が家とは思えず、何の慨も沸かなかった。

俺は何も考えずに二階へと向かう。途中、階段の踴り場の壁に、カッターで切ったような傷が目にった。かつてガキの頃に、俺がいたずらをして切ったものだ。しゃがみ込んで、それを懐かしむようにその切れ目にれた。

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確かこいつを作った時、後で親にこっぴどく怒られて、それを見ていた沙彌佳がなぜだか泣き出してしまったのだ。

(懐かしい)

もう一度、その切れ目をさすって二階へとあがった。まず手前にあるのが、俺の部屋だった。ノブを廻してドアを開ける。どうやら二階は、一階ほど埃はたまっていないようだ。

部屋の中には一階同様なにもない。中にることはせずに、そのまま隣の部屋の前に移した。

隣の部屋の前にきてノブを摑みはしたが、廻すのにしためらった。部屋の主はもういないのだから、ためらう必要などないのに、おかしな話だ。

思い切って、ドアを開ける。やはり同様にほとんど何も置かれてはいない。だが、一つだけ置かれているものがあった。

沙彌佳が使っていた機……これただ一つだけが置かれていた。もう使う者がいないのだから、置いておく必要はないのだが、俺がどうしても置いておきたいと親父に懇願して、そのままになっているのだ。

その機とワンセットで置かれている椅子。俺はその椅子のところまで行き、埃が溜まっていることなど、お構いなしに座った。

機にれていると、やはり記憶の中から沙彌佳のことが奔流となって次々に思い出されてくる。

この機を買ってもらって喜んでいたこと。

この機に座って勉強していた姿。

分からないことがあった時、わざわざ俺をここに呼んで勉強の面倒を見させたこと。

時には、俺の部屋に來て教えを乞いにきたこともあったな。

この機で一緒に互いの宿題をしていた時、手を上げた拍子に沙彌佳の目の付近に當たって、泣かせてしまったこともあった。

勉強に疲れたのか、機に伏せたまま寢ていたこともあった。

そんな忘れていた些細なことが次から次へと記憶の彼方から甦ってくる。そうこうしているうちに、大分日が傾き始めていた。

部屋の中を行ったり來たり、椅子から立ったり座ったりを繰り返していたのだ。多分、二時間かそこらはいたのだと思う。

思えば、まともに食事をとっておらず、腹も空かしていたのだ。明後日までまだ時間はあるが、やっておけることがあれば、やっておくべきだろう。時間など、あっという間なのだから。

「……じゃぁ、また來れたら來る」

俺は目を細めながら誰もいない部屋を一瞥し、一人ごちた。

一日明け、明日のための準備をした。

尤も今回の作戦は海外というわけでもない。持っていくのは代えの下著や服くらいなので、ほとんどないのだ。

も數日前に手にれた拳銃があるし、今回は組織からの支給品もある。今回ばかりはあまり支給品を使わない主義の俺も、使わざるをえないだろう。

真紀は明日の午後までには來いと言ってはいたが、できれば今日の夜には出た方がいい。作戦とは言え敵の本拠に乗り込もうとするのに、悠長なことはしたくはない。何があるか分からないのだ。

いつものように晝近くまで寢ていた俺だったが、起きてからはすぐに出発の準備に取り掛かったのだ。

さて、持っていくはたいしてないのだから、出発するとしよう。俺は、N市までは久しぶりに車で行くことにした。高速を使えば、ものの數時間で著くはずだ。それまで適當なところで時間を潰すとしよう。

最低限の所持品を詰めたサックを持って、部屋を出た。まぁ、暇潰しといってもやることなどほとんどない。やはり、酒しか俺には思い浮かばなかった。

またあの狐にあれこれ言われそうなのが釈然としないが、まぁ、いい。まだ早い時間だが、サバカ・コシュカに行ってみよう。夕方からのはずだが、もう開いているかもしれない。

なぜあんなに早くから人がたくさんになるのかも、なんとなくだが気にはなる。どうでも良いことなのだが気になることというのは、まさに暇潰しには持ってこいだろう。

開いていなくても瑣末な問題だし、場合によってはジュリオの店に……と行きたいところではあったが、これからしばらくは、あそこには行けなくなったのをすっかり忘れていた。

地下鉄から降りて、サバカ・コシュカに向かう。晝下がりの時間も過ぎて、そろそろ店支度を始めている頃かもしれない。

その時、攜帯の著信音が鳴った。

誰だ。俺はどことなく不機嫌になりながら、電話を取り出して晶に表示されている文字に目をやった。

「……?」

手の中で鳴り続けている攜帯を見ながら、俺は考えた。表示されている番號は全く知らない番號だった。080から始まる番號なので、攜帯であることは間違いないようだが……。

誰だろう……。昨日尾行されていたことを思いだし、取るべきか取らざるべきか思案していたところ、著信がおさまった。

俺はここ數日、々とあったせいでより慎重になっているみたいだ。いかんせんこの番號の主に心當たりがありすぎるのだ。

そういう時は出ない方がいい。知らぬが仏という諺があるように、知らずに事が過ぎていれば仕方なかったと思えるだろう。

まぁ、そうでなくなればなくなればだ。もし、俺の知り合いであればまたかけ直してくるだろう。

そう思い、俺は番號にかけ直すことはなかった。仕事ならあのから連絡がくるし、もし別の奴からにしろ、出なければ面倒に巻き込まれることもないだろう。俺なりの防衛策というやつだ。

気を取り直し、サバカ・コシュカへと歩みを早めた俺は、またとんでもないものと遭遇した。あのたまり場の前に、店主のロシア人とジュリオとともに綾子ちゃんがいたのだ。

……なぜ君がここにいるんだ。

「あ……」

俺を見た綾子ちゃんは、嬉しそうに顔を綻ばせて頬を紅させていた。

「……どういうことだ」

「いきなりご挨拶だな、クキ。こんな人を待たせてるなんて、おまえも隅におけないな」

親父がニヤリとを歪めながら、冗談を言ってきた。

「おークキさーん、あやこさーんがお待ちかねよ」

「……別に待っててくれなんて言った覚えはないがな」

「なんでぇなんでぇ、クキ。せっかくこんな人がおまえを待ってたってのに、そいつは酷いと思うぜ」

「そんなことより、なんで綾子ちゃんをここに連れて來たんだ?」

不機嫌そうに口調を尖らせて、ジュリオに詰問した。大方、昨日俺が連絡しなかったために、綾子ちゃんがジュリオに問い詰めたんだろう。元々、この店を俺に紹介したのも外ならぬジュリオだったのだ。

そうだと分かってはいても、問い詰めずにはいられなかった。

「クキさーん怒らないでよ。仕方なかったのよ、不可能力よ」

……ちっ、それをいうなら不可抗力だ。心毒づくようにツッコミをれて、綾子ちゃんに詰め寄った。

俺には、この子の考えていることが判らない。もちろん、彼が俺を想ってくれているのは分かる。

だが、そうだとしても迂闊に綾子ちゃんに連絡をとるのはまずい。そう判斷したからこそ連絡しなかったのだ。それが分からないほど、この子は馬鹿ではないはずだ。もう俺の出した答えが分かっているはずだろう?

「……なんできた」

顔を紅させている綾子ちゃんとは逆に、俺の気持ちは冷ややかになっていくばかりだ。

それをじとったのだろう、綾子ちゃんはわずかではあったが怯えたような顔をしてみせながら、しどろもどろに言う。

「……え、えと……き、昨日連絡待っていたんですけどなかったから、それで……」

「それでジュリオに頼んで、ここを教えてもらったってわけだ」

「はい……」

俺の呆れているとも怒っているとも取れる問答に、綾子ちゃんは申し訳なさそうな表になっていった。

さすがに親父やジュリオも、俺のそんな態度に悪気をじているようだった。あるいは、なぜこんなにまで怒るのか分からずに、困しているといったところのようだ。

俺がここまでの態度を見せるとは思わなかったんだろう。

「あ、あの、ごめんなさい……突然來てしまって……」

「……まぁ、いい。來てしまったものは仕方ない……」

「……九鬼さん、あの本當に」

「いい。昔も言ったろう、そう何度も謝らなくていい」

ぶっきらぼうに言い放ち、彼から視線を外した。

だが當然というべきなのだろうが、綾子ちゃんの表が元に戻ることはなかった。

(くそっ、苛立ってやがる)

「ま、まぁ、なんだ。一度中にれよ」

この空気に耐え兼ねた親父は、俺達を店の中に招きれた。

直あまり中にりたいとは思わなかったが、なんとなくそれに従ってしまった自分に、心で舌打ちする。

「……」

「……」

綾子ちゃんと俺は親父に勧められ、店の端にあるボックス席に座った。相対するような狀態で座ったため、互いの些細な変化などが良く分かる。

しかし、何を話せばいいか分からない俺はなんとなく不機嫌そうに、開店準備をしている親父を遠目に観察していた。

ジュリオも手持ち無沙汰なこともあって、親父を手伝っている。いや、きっと俺達二人のことが気になっているのだろう。

綾子ちゃんも同じようなものなんだろう、落ち著きなくそわそわと俺の顔を一瞥しては俯き、一瞥しては俯くという行為を繰り返している。時折、何かを話そうと口を開きかけるが、次の瞬間にはその可らしい口を閉じた。

しかし、どれほどそうしていただろうか。綾子ちゃんは、意を決して話しかけてきた。

「あの、九鬼さん……」

「なんだ」

「……怒ってますよね。……本當は、分かっていたんです……きっと連絡してこなかったのは、そういうことなんだって」

「だったらなぜ來たんだ。俺が連絡しなかったことが分かるというなら、その意味も判るだろう? だったら」

「だって!」

綾子ちゃんは俺の言葉を遮り、唐突に聲を荒げた。

そのまま綾子ちゃんは一旦言葉を止め、一拍おいてからまた口を開いた。俺の目をしっかりと見據えて。

「だって、九鬼さんに逢いたかったんだもの。ずっと、ずっと探してた……。

九鬼さんがいなくなって、九鬼さんが行きそうな場所、九鬼さんを見かけたって聞いた時にはそこまで行ってやっぱり探して。でもやっぱりダメで……探偵さんまで雇ったんですよ?

  もし探偵さんが駄目だったら諦めようって思ってた。でも、結局見つからなくて……。だからもう諦めるしかないって言い聞かせてた!」

綾子ちゃんは一気にまくし立て、気付けば席を立っていた。

「だけど……だけどやっぱり無理だった! 諦めるなんて無理だったの! 寢ても覚めても、いつも考えるのは九鬼さんのことばかり。もう、自分がどうかしちゃったんじゃないかって思うくらいにっ。

苦しくて……哀しくて……辛いから他の男の人を好きになろうともしたっ。

……でもね、無理だったの……どうしても九鬼さんと比べてしまうんです。その人と九鬼さんの差を、違いを探してしまうんです。

自分でも分かってますよ? そんなのおかしいって。全く違う人を比べるなんていけないことだって。でも、でも……」

「綾子ちゃん……」

大きく見開かれた目には、涙が浮かんでいる。それを見た俺は、何も言えずにただ彼を見つめているだけだった。

「だから……だから一昨日九鬼さんと再會できて本當に嬉しかったの……」

「……」

くそっ、こういう時なんて言えばいい……言葉なんていらないのか? 抱きしめてやればいいのか?

分からない。俺はどうすればいいんだ。

俺は君の好意を一度ならず、二度も無下にしたような男なんだぞ。なんでそんなことが言えるんだ……。

思えば俺は、今まで一度だってこんなをぶつけられたことがない。せいぜい、どうしようもない殺意くらいだ。

そのうちに綾子ちゃんは席に座った。しかし、涙をにじませたその目だけはしっかりと俺に向けられている。俺はその視線に耐え切れず、顔を背け誰もいなくなっていたフロアを見た。親父もジュリオも奧に引っ込んでいるのだろう。

だが、いつまでもそうしているわけにもいかずに、綾子ちゃんの方に向き直った。ふと、その視界にどこか見覚えのあるが映ったのだ。

「……綾子ちゃん、それは……」

「え?」

俺の見たもの……それは、綾子ちゃんの前髪を留めるためにつけられていた髪留めだった。そのデザインに見覚えがあったのだ。

「……その髪留め……。まだ持っていたのか」

「ぁ……はい」

綾子ちゃんは指摘され、手でその髪留めにそっとれた。今まで全く忘れていた。そのせいか、そんなものが髪に留められていたことなど、気にも留めなかったのだ。

(なんで君はそんな顔ができるんだ)

綾子ちゃんはどことなく懐かしそうに、嬉しそうに髪留めにれていた。

「……俺の……俺の中では君との関係は、もうとっくの昔に終わっていたものだと思っていたんだがな」

「そう、ですか……」

髪留めを見せれば、自分の想いに気付いてくれると思ったのだろうか。そんなの、再會した時から分かってるのに……。

俺の言葉を聞いた綾子ちゃんは、哀しみの表を浮かばせ顔を俯かせる。頼むからそんな顔をしないでくれ。今更君とやり直したいだなんて言えるわけがないんだ。

それに……俺は、君のその純粋な想いには応えられないんだ。俺達はあの時、あの事件のせいでもう戻れなくなってしまったんだ。

だから、頼むから、そんなにまで俺を引きずらないでくれ。

くそっ。なんで、なんで君はまた俺の前に現れたんだ……君の、俺を想う気持ちがそうさせたのか?

第一、俺は君を幸せにできるような奴じゃないんだ。俺と一緒にいれば、君はもうこの暗い世界からは抜け出せないんだ。

「……迷、ですか?」

「……」

何を迷ってる。迷だと言え。そうすれば、彼も諦めるだろう。

「……私じゃ九鬼さんの心の隙間を埋められませんか?」

「……」

そうだ。言うんだ。君なんかには無理だと。そうすれば、きっと彼も、もう俺に縛られることもないはずだ。

綾子ちゃんはふいに席を立って俺の橫までくると、その手でこちらの右手を摑んだ。俺は驚いて彼の顔を見る。

そこにあったのは、慈神のように優しくも哀しい微笑みを稱えた綾子ちゃんがいた。

「迷ってるんですか?」

「……お、俺は……」

言うんだ。迷だと。君に心の隙間を埋められるわけがないと。

何を迷うことがある。何をためらう必要がある。はっきりと拒絶してしまえばいい。それだけで、彼との想いが斷ち切れるはずだろう。

俺は君の側にはいれない訳があるんだ。俺といれば君は必ず傷つくことになるんだ。

だから、俺に優しくなんてするな。君が余計に辛くなるだけなんだ。

「……あ、綾子ちゃん……俺は」

拒絶の言葉を告げようとしたその時、頭がふわりと何かに包まれた。包まれた瞬間、とても優しい匂いが鼻孔をくすぐる。

頭だけじゃない。綾子ちゃんによってし傾くように、抱き込まれていたのだ。

「……九鬼さん、無理なんてしないで……。ずっと見てたんですから……そんな顔しないで」

そんな顔? 俺はそんなに酷い顔をしているのだろうか。この優しさに包まれていると、ずっとこのままでいたくなる。

綾子ちゃんの優しさが、匂いが、が、溫が、全てが俺に注がれているということがわかるのだ。

いっそ、このままでも良いんじゃないかと思えてきて仕方ないのだ。

抱きしめてくれている綾子ちゃんを、俺も抱きしめようと手を綾子ちゃんの後ろに廻そうとした時、頭蓋の中でもう一人の俺が、俺達の目的を忘れたのかと叱咤した。

「……っ!」

背中に廻そうとした手を、勢いよく綾子ちゃんのを摑んで引きはがした。その勢いのまま、俺は席を立つ。

言え。言うんだ。そうすれば、もう悩まなくたっていいじゃないか。

「……あ、綾子ちゃん。俺は……」

綾子ちゃんの顔を見るのが辛くて、俺は顔を橫に背けながら言った。

「……君が俺の心の隙間を埋めるだって? 笑わせるぜ、自惚れないでくれ。

四年も経っているのに、未だに俺のことが忘れられない? そういうのやめてほしいね。欝陶しいだけだし、その髪留めにしたって、俺を傷に浸らせるための演技なんだろう? 分かりやすすぎだ。

もう君は、俺にとっちゃぁ過去の人なんだよ。そんな人間が今更でてきて、ごちゃごちゃとわけのわからんことを言われたって、迷この上ない」

気付けば俺は、綾子ちゃんの顔を見ながら喋っていた。綾子ちゃんは何を言われているのか分からないといった顔をしている。

だが俺の口からは、依然として思ってもいないことが次から次へと出て來る。

「いいか、綾子ちゃん。この際はっきり言わせてもらうがな、俺は元から君のことなんざ、なんとも思っちゃぁいないんだ。

それを君が勝手に勘違いしちまっただけにすぎない。

確かに君のことは嫌いじゃぁなかったぜ? だが、それはあくまで妹の友人としてだ。

君がストーカーに遭っていた時も、沙彌佳に頼まれて手伝ったにすぎないし、勘違いした君は、あの後も図々しくも家に泊まりに來てたよな。まぁ、君は一人っ子で、おまけに家には両親もほとんど寄り付かなかったわけで勘違いを起こしたのも仕方ないとは思うがな。

だが、そんな勘違いした気持ちをいまだ引きずって、今度は君がそんなストーカーじみたことをやるだなんて、世話ないぜ」

さきほどまでと打って変わって、綾子ちゃんはみるみるうちに顔面を蒼白させている。ぶるぶると震えだし、泣きそうな顔になっていた。

俺は、なぜかとても冷靜にそれらを見ていた。きっと、顔もなんてものはじさせないほどの冷靜さを見せていることだろう。

「ぁ……わ、私、そんなつもりじゃ」

「じゃぁ、どんなつもりだったんだ? 相手が迷だって思ってるんだ、こいつは十分なストーカー行為と見なすこともできるんだ。

君は以前も俺が放っておいてくれと言ったのに、家にずかずかとりこんで俺をめようとしていたよな。あれ、本當に嫌だったんだがな?

このどうしようもない奴だな、なんて思ったものさ。で、また君はそんなことをやらかそうとしているわけだ。まぁ、あの時は俺も誰かそばにいてほしいと思ったし、仕方ないといえばそうなのだろうが。

しかし、たかだか妹の友人ってだけでそんなことをやられた日にゃぁ、こっちもうんざりするぜ」

もう綾子ちゃんは涙を流して泣いていた。それでも、まだ信じられないと、目を大きく開かせている。

「君は昔も良く泣いていたよな。だが、泣きたいのはこっちだ。

……全く、もう付き纏うのはやめてくれ。俺はもう君のことなんて、なんとも思っちゃぁいないんだしな。いいな?」

俺は言うだけ言うとサックを摑んで綾子ちゃんの橫をすり抜け、店を出ようとした。

「ま、待ってください!」

後ろから聲がかけられる。そこには、なんとも言えない必死さがじられる。

「……まだ、何か言いたいことがあるのか?」

俺は心底、うんざりしたような態度で振り向いた。綾子ちゃんがんだことで、奧にいた親父とジュリオが顔を覗かせた。

綾子ちゃんはその涙を見せまいと、両手を使って何度も拭っている。

「……う、噓ですよね……? 今言ったこと……。私のことを思って、心にもないことを言ったんですよね……?

ううん、絶対そう。あの優しい九鬼さんがそんなこと言うはずないもの」

チクリとの奧が痛む。

(変わっていないな。そんな風に、芯が強いところは)

心、そんなことに懐かしみながらも嬉しかった。やはりこの子は分かってくれている。だからこそ、こっちの世界に引き込んではいけない。

「君は俺のこの態度が、そんな風に見えるのか?」

努めて冷靜に、他の殺し屋と対峙する時のような態度で、綾子ちゃんをみた。

こんな俺を見たことがないはずの綾子ちゃんは、さすがにたじろいでいる。

「で、でも、さっきは……」

「あれは君がどうしようもないだったから、うんざりしていただけだ。勘違いするなよ」

「そんな……」

「まぁ、今度こそ本當に會うこともないだろうが、もし見かけたとしても話しかけてこないでくれ」

俺は今度こそ店を出た。

……きっと彼は泣いているだろう。それとも、泣くことすらできずに、茫然としているだろうか……。あれだけ、悲しく辛そうに泣いていたのだ。これでもう俺に近づくこともないだろう。

俺なりの迫真の演技というやつだ。君は、俺なんかにいつまでも縛られていてはいけないんだ……。

「……この世界から足を洗った後は、演技の世界にでもってみるのもいいかもな」

一人馬鹿なことを呟きながら、俺は明日の仕事のためにN市に行くことにした。

言い訳だというのは分かっている。とにかく、俺は一刻も早くこの場から離れたかった。

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