《いつか見た夢》第35章

『助けて、お兄ちゃん……』

まるでどこか別の世界の出來事かのように、俺は呆けながらそいつを見つめていた。

沙彌佳が一人苦しんでいる姿だ。分かっている。これはただのイメージに過ぎない。

『なんで助けに來てくれないの? いつも助けに來てくれたじゃない……助けに來てよ。助けに來てくれないと私……』

ひどく濁った目で、まるで誰かを睨むように沙彌佳は虛空を見つめている。

沙彌佳……おまえはなんでそんなにまで……いや、なんでそんな恰好をしてるんだ。

沙彌佳は服を著ていない。一糸纏わぬ姿のまま呪詛のような譫言を繰り返し、俺への助けを求めている沙彌佳の姿だけがあった。

けれど、その姿がだんだん遠ざかっていく。

いつもなら、抵抗の一つもするところだが、あの姿の沙彌佳にはどうにもこうとしない。

そして、こう締め括られるのだ。

『……お兄ちゃん、私を裏切るの……』

ひどく重く、のしかかってくるようなのある言葉で締め括られるのだ。

違う、俺はおまえを――――

不快な気分で目を覚ました。大して暑くもないのに、えらく汗をかいている。原因は分かっているのだ、あの夢を見たから……そのためだ。

年に一度見るか見ないかの夢だが、あの糞みたいな夢から覚めると、いつもこうなのだ。

ひどい気分になっている俺は、ため息混じりにベッドから這いでた。シャワーを浴びるためだ。あの夢の後にとる行も、もはや習慣になったといってもいいかもしれない。

あの夢の中の沙彌佳は、俺を怨みに怨んで呪うかのようだった。いつだったか、そういう夢を見るのは、自分の中の罪悪が、その対象に対してそうじさせているためだと聞いたことがあったが、本當だろうか。

だとすれば、沙彌佳と……沙彌佳が本當に生きていて、沙彌佳と出會うことがあれば、そんな気持ちもなくなるのだろうか。シャワーを浴びながら、そんなことをぼんやりと考えていた。

ピリリリリリリ――

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攜帯の鳴る音が、締め切ったバスルームの中にまで聞こえてきた。最上の親父から拝借してきた攜帯だ。昨日帰ってきてから、ジャケットの中にそのままになったままだった。音が聞こえるということは、キッチンあたりに置いてあるのだろう。

俺はけだるい気分でシャワーを終え、バスタオルで頭を拭きながら、バスルームを出た。當然、攜帯はまだ鳴っている。

キッチンに投げ出されたスーツから攜帯を取り出し、いつぞやのように手ぶらにして出た。

「もしもし」

『九鬼か? 田神だ』

「ああ。作戦は今晩かな」

『そういうことになる。十六時に指定の場所で落ち合おう』

「分かった。田神……すまないな、手伝ってもらって」

『なんだ、君らしくないな。それに気にすることはない、り行きだ。今回の件、まんざら自分と無関係というわけでもない』

そう言うのは、田神の謙遜なのかどうかまでは分からないが、この男に手伝ってもらえるのは、俺には百人力といってもいい。

「そうか……なら、こっちも遠慮なくいくとするよ」

『九鬼、何かあったのか?』

怪訝な様子で田神が聞いてくる。相変わらず勘の鋭いやつだ。

「いいや、特にないさ。あまり睡できなくてね」

『ならいいんだが……。とにかく、十六時だ』

「ああ、後でな」

どちらからとも言わず、電話を切った。

本當なら一昨日の夜、松下薫との事の後に研究所に乗り込む気だった。しかし、それを田神に伝えたところ、止められたのだ。いや、今にして思えばそれが當たり前だろう。俺は妹が絡むと、どうも後先考えられなくなっていけない。

それに今、自分の裝備を考えれば當然だ。拳銃が二丁に、マシンガンが一梃。これだけでは、あまりに無謀だろう。

作戦を遂行する時であるなら構わないが、俺は最終的に、研究所そのものを々にしてやるつもりなのだ。そうするつもりなら、とてもではないが、こんな裝備では無理なのだ。

最上の親父が生きていればなんとかなったかもしれないが、もう死んでしまった今、そのコネクションもなくなってしまった。そこで田神が、自分の知り合いに話をつけてみよう、ということになったのである。全く、あの男には本當に頭が下がる思いだ。

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となると、田神も行くということになり、同時にエリナも行くことになるわけだ。

向こうに著いてから必要になることは、松下に一任してある。しかし、それにはどうしても一日はかかるということもあって、今日まで暴れるのはお預けということになったわけだ。

攜帯のディスプレイは、今が十一時になったことを告げている。時間までまだ余裕はあるが、かと言って寢るわけにもいかない。

何もすることがないといっても、なにかしらできることがないだろうか。気持ちが高ぶっているせいか、やけに行を起こしたくてたまらないといったじだ。こういう日のコンディションは悪くない。むしろ、歓迎すべきコンディションと言えるだろう。

だが、ある程度のガス抜きをしておかなければ、本番で危うくなる。経験上、そうしたほうが良いと知っている俺だから、今回もそうした方がいいのだ。

とはいえ、どうしたものか……。しばらく考えはしたものの、良いアイディアは浮かんでこない。俺はため息をついた。仕方ない、適當に街に繰り出してみるとしよう。何か発見があるだろう。そうすれば、何か良いアイディアも浮かぶかもしれない。

そうと決まれば即行だ。さっきの夢のせいもあるからか、無かしたい気分だ。

俺は服を著て、颯爽と外へ出た。いつものジャケットを羽織って、適當にぶらぶらすることに決めたのだ。何か思い浮かべば、その時に行を起こせばいい。こういう時は、どこか適當に何かネタの摑めそうな場所に行くとしよう。それにそういう時の方が、思わぬ収穫があったりするものだ。

適當に街中を歩いていたとき、後ろから聲をかけられた。振り向けば、そこにはあの売春婦であるレイミが、私服姿で立っていたのだ。レイミは左右を確認して、小走りにやってくる。

「誰かと思えば、お兄さんじゃない」

「よう。今日はどうしたんだ?」

隣にきたレイミは、俺の腕に自の腕を絡ませてきた。

「まだ時間じゃないもの。それに、學校も行ってないしね」

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「やっぱり、君は學生だったのか」

「元學生、かな? 辭めちゃったから」

「そうなのか」

となると、二十歳前後といったところなのだろうが、以前も思ったようにいくらか若く見える。

「で、今日はどうしたんだ?」

「な〜んにも。やることなくて、暇してたとこ。お兄さんは?」

「俺も同じもんだ。後數時間は暇してる」

「そう。だったら食事にでも行きましょうよ。私、まだなの」

「そうだな、それもいい」

「それじゃあ決まりね。私、味しいお店知っているから、連れてったげる」

そういってレイミは、俺の手を引いていく。俺は抵抗もせず、なすがままにされていた。何日か前に會った時もそうだったが、結構強引な娘だ。まぁ、そんなところがなかなかに好がもてるところなのだが。

俺は今躊躇っていた。こんなことがあるのだろうか。もちろん、そんなことがないなんてことは必ずしもではないだろう。しかし、こうも偶然が重なるものなのか。もしかしたら、レイミは回し者だったんじゃあるまいな、そんな風にすら邪推してしまう。

「まさか、よりによってここか……」

「あれ、もしかして、ここ知ってた? うー殘念だなー」

「いや、そいつはいいんだが、ここはちょっとな……」

レイミが連れてきた店は、あろうことか、ジュリオの店だった。タクシーに乗って、どことなく見知った風景だと思った矢先、レイミに促され降りた場所がジュリオの店の裏だったのだ。

他意はないはずだが、生きている世界が違うためか勘繰ってしまう。そんなこと考えすぎだというのは、分かってはいてもだ。

「ここの店長さん、すごく面白いよね。私、すごく好きなんだぁ」

そんなことを言うレイミに、俺はただ、そうかとしか言えなかった。

(何事もなければいいが)

しかし、そんな俺の願いは聞き屆けられることはなかった。思い戸っている俺に、レイミが早くろうと言って急かせる。

「あ〜ここが、先輩の働いてるお店なんだー。結構いい雰囲気〜」

「ふふ、でしょう? だから私も働いてみたくなったんだ」

店にろうとした時、反対側から四人の子大生と思われるのグループがやってきた。そして、その中に俺の見知った顔……忘れたくても忘れられない顔があった。

「じゃあ、早速……」

達がろうとした時、その人と目が合った。そのグループの中でも、一際目立つ容姿をした彼と。

目があった俺達は、互いに歩く足が止まった。

「……綾子ちゃん」

「……」

呟く俺に、彼は微だにしない。その顔には驚きと、戸いのが見てとれる。かくいう俺も、きっと似たようなものだろう。

手を引っ張っているレイミも、店にろうとしていた彼の取り巻き達も、そんな俺達につられてきを止める。

「あれークキさーんじゃない! ちゃんと戻って」

店の中から俺を見たのだろう、出てきたジュリオがただならぬ雰囲気を悟ったのか、臺詞も途中で俺達を見た。

なんとも落ち著かない雰囲気の中に、俺はいた。ジュリオの計らいで、し離れた場所にそれぞれテーブルを宛がわれたが、どう見たって、彼も俺も意識しているのが分かる。いや、意識しないほうがおかしいというもので、取り巻きの連中も、明らかに俺と彼の関係に興味津々といったところだろう。

まして、向こうはそういうのに敏なお年頃だ。そして俺の目の前で、明らかに先ほどまでと比べ、ご機嫌ななめなレイミもだ。

グループの方は、きっと綾子ちゃんにあれやこれやと聞いているかもしれないが、俺達はつい何十分か前とは比べられないほど、冷え冷えとした雰囲気になっている。

「……ふーん、あんな娘が好みだったんだ」

“あんな”という部分を強調しながら、レイミが言う。しかも、わざわざ人に聞こえるような大きな聲でだ。

「そういうわけじゃぁない」

「じゃあ、どういうわけ?」

「なんだっていいだろう。昔馴染みなだけだ」

あまり勘繰られたくない俺は、強制的にこの話題を終わらせようとするが、レイミはそうとはしなかった。

「本當にただの昔馴染みなだけ? 私には全然そんな風には見えなかったけど」

お次は語尾を強調した。かなりお冠らしいが、大、このは何を怒っているんだ。俺と人同士というのならまだ分かるが、別にそういうわけでもない。そもそも、今の俺は特定の人などは、いりはしないのだ。

「そんな風に見えなくとも、そうなんだよ」

「……そうやって無理に言う時って、大噓なんだよね」

「大はそうかもしれんが、そうじゃない時だってあるだろう」

「……そうかもね」

レイミはそういいつつも、明らかに信じていない。やれやれ、ってのはなんだってこうなんだ……。俺はため息をついて、何か別の話題を考えようとした時だった。

「……なによ」

俺は何も言ってない。そう口を開きかけたとき、背後から聲がした。

「あの……」

振り向かなくても分かる。綾子ちゃんだ。

「……」

「……なに? さっさと用件言ったら?」

「えと……その」

「言うこともないのにわざわざ來たの? 昔馴染みだかなんだか知らないけど、昔の男が自分じゃないと話してるのが気にらないから、わざわざ咎めにきたの? それともヨリ戻したいとか?」

レイミはさらに刺々しい口調で綾子ちゃんを罵倒し、まくし立てる。

「お、おい」

「お兄さんは黙っててよ。私はそのに言ってるの。ねぇ、綾子先輩?」

綾子先輩? その単語に俺は綾子ちゃんの方を振り向いた。綾子ちゃんは、明らかにバツの悪そうな顔をしている。

「君らは……知り合いだったのか」

「そうよ? 同じ學校で同じ學部の、先輩と後輩。ね、先輩」

「……ええ、そうね。北條さん」

レイミの言っていることは間違いではないにしても、敵にしているかのようなその口ぶりには、疑問を持たざるを得ない。それに北條……この名前は、どこかで聞き覚えのある名前だった。一どこでだったか……。

俺は記憶の中から北條という名前を引きずり出そうとするが、一向に出てくる気配はない。

「でも、驚きだな。先輩がお兄さんと知り合いだったなんて。ていうか、先輩って男嫌いなんでしょ?」

「なんでそう思うの?」

「だって、今まで男とほとんど付き合ったことなかったじゃん。あんなに何人にも言い寄られてるのにさー」

「それは……」

なるほど。やはり綾子ちゃんは大學でもモテているらしい。まぁ、當然といえば當然だろう。俺がこんな分でなければ、間違いなく口説いてしまいたくなるに決まっている。

そもそも俺達は……いや、よそう。そんなのは、もう過去のことだ。過去がどうあれ、綾子ちゃんのことはN市に行く前日に終わったことではないか。いまさらそれを掘り起こすこともない。

何か言いかけながら、綾子ちゃんは俺の方を一瞥する。

「あ、あなたには関係ないでしょう?」

「そうだね、このことには関係ない。でも、人のものに手を出そうとする人には、きちんと釘うっておかないと、さ」

「え……人のものって、九鬼さんと……?」

「そうよ、付き合ってるの。だから今更、先輩に出てきてほしくないんですよ」

「おい、勝手に話を進めるな」

「私、気分悪くなっちゃった。もう行きましょ?」

レイミが席を立ち、俺の手をとって店を出るよう促した。つられて俺も席を立ったものの、足はこうとしない。

「ま、待って」

「まだ何か? 先輩」

「……」

レイミに睨まれた綾子ちゃんは、一度は顔を伏せたものの、に置かれた手をにぎりしめ、顔をあげた。

「……し、話がしたいんです」

「私は別に話なんてありませんけど」

「おい、レイミ。さっきからなんなんだ、その言い草は」

さすがにいたたまれなくなった俺は、つい綾子ちゃんに助け舟を出してしまった。庇護するように俺がし強く言ったためか、レイミは俺にもその睨むような視線を向けてきたが、どこか諦めたように、好きにすればとだけ言った。

それを聞いた綾子ちゃんも、どことなく安堵したようだった。終わりにするはずが、俺は何をしてるんだ……。

「……その本當に、お二人はお付き合いなさってるんですか?」

「だから今言ったでしょ! 私とこの人は付き合ってるの!」

一度は黙ったレイミが、今まで以上に語気を強めてまくし立てる。しかし、綾子ちゃんはもはやそんなことなど気にしていないのか、悠然たる態度ではっきりと口にした。

「北條さんには聞いてません。私は九鬼さんに聞いてるんです」

その臺詞を聞いたレイミは、瞳を大きくし、わなわなと全を震わせ始めた次の瞬間、手を振り上げた。

「放してよっ! この、どこまで私をっ」

振り上げられた手を、俺は咄嗟に摑んだ。レイミは、俺と綾子ちゃんを睨みながらわめき立てた。

「本當のことです。あなたに聞いたわけではありません」

おいおい勘弁してくれ。今、その臺詞は売り言葉に買い言葉だ……。

そういえば、綾子ちゃんは昔も一度そうだと決めると、それを貫くタイプの子だったな。昔から何も変わっちゃいないんだな、君は……。それがどうしようもなく嬉しくじるが、今はそんな傷に浸っているわけにはいかない。

「レイミっ、落ち著け」

今にも綾子ちゃんに毆り掛かりそうな勢いのレイミを、押さえ付けながらいった。

「綾子ちゃん、君は話をしたいんだろう。君も冷靜になれ」

そうは言うものの、二人は一向に睨み合うのをやめない。いや、一方的に睨んでいるのはレイミだけで、一方の綾子ちゃんは、それを鼻にもかけずにレイミを眺めているといったところだろうか。

しかし、レイミにはそれがまた気に食わないのだろう、火に油を注ぐような形になるのだ。

しているレイミを窘める。そのに、レイミもしは落ち著きを見せ始めた。

「……それで、付き合っているか、だったな」

「はい」

參ったな、こういう時はなんて言やぁいいんだ……。ストレートに本當のことを言うか、それともレイミに合わせた方がいいのか。俺個人としては、綾子ちゃんもレイミも巻き込みたくはないので、本當のことを言って両敗ということにしたいところだが。

しの間考えてみたものの、それ以上に良い案が浮かばなかった俺は、小さくため息をついて、レイミと綾子ちゃんを見た。気付けば、俺達以外誰も喋っておらず、誰もがこちらに注目ないし、聞き耳を立てているようだった。

「俺は……俺は、別にレイミと付き合っているわけじゃない」

綾子ちゃんの目を見ながら、はっきりといった。それを聞いた両者の反応は、面白いほど極端だった。片やホッとするように微笑み、片やみるみるうちに、怒るような泣いてしまいそうな顔になる。

レイミとしては噓でも良いから、肯定してもらいたかったのだろうが、そういうわけにもいかない。

「というよりも、俺は最初から誰とも付き合うつもりはないんだ。誰ともな」

俺は二人を互に見て言った。しばしの間、俺達に沈黙がおりたが、その沈黙を破ったのはレイミだった。

「なによそれ……」

「……」

「ほんの四、五日前に抱いてくれたの……あれ、噓だったの……」

「あれは」

そう言いかけた時、今度は綾子ちゃんが口を開いた。

「どういうことですか……?」

「どういうことも何もそういうことよ。この人と私は寢たの。もしかして、そんなことも分からないくらいウブだなんて言わないわよね」

先ほどとはうって代わり、綾子ちゃんが驚愕した表でレイミを見ている。レイミはと言えば、まるで勝ち誇っているような表をしていただ。

「そ、それも噓なんですよね……?」

綾子ちゃんが驚愕したその表のまま、俺へと視線を向けてくる。だが、こればかりは噓とは言えない。俺は良かれと思って本當のことを言ったまでだったが、今更レイミと寢たことだけ噓でしたと言えるはずもない。ましてや、本人の目の前でだ。

「……」

俺は苦い顔をしながら伏せた。綾子ちゃんは、それが真実であると悟ったのだろう、一転、泣き出してしまいそうになっていた。

「これで分かったでしょうっ、付き合ってなくても私達はもう繋がりあってるのよっ。今更先輩が出てくる幕なんてないのよっ」

喚くのを通り越し、すでにがなり立てるかのようにレイミは綾子ちゃんを罵倒していく。

「もういい。やめろ」

がなり立てていくうちに、だんだんと綾子ちゃんの方へと近付き始めていたレイミを引き離す。綾子ちゃんは何も言わず、瞳に涙をためながらも流すのだけは堪え、俺を上目使いに見ていた。

それを察したレイミはまたもうるさく喚く。

「……このっ……あんた何様だ! 人の男に目使うなっ。あんたこそ売じゃないかっ」

「もうやめろと言ってるだろう!」

怒聲をあげてレイミを黙らせる。この二人に何があったのかは知らないが、とにかくさっさとここを出た方がいい。それに、これ以上綾子ちゃんを傷つけるのは嫌だった。

「何よ! あなたまでこの売の味方する――っ!?」

渇いた音が響いた。手がしだけ熱いような気がする。俺がレイミの頬を張ったのだ。とは言っても手加減したつもりなので、そこまで痛みはないはずだ。

「……ぁ」

「……」

レイミは今の今まで喚きちらしていたのが噓かのように靜まり、張られた左頬を手で押さえながら小さくいた。綾子ちゃんも、まさか俺が手をあげるとは思わなかったのか、びっくりしている。

だが、綾子ちゃんを売と呼ばれて嫌な気持ちしかしなかった俺は、仕方なく彼の頬を張ったのだった。

「……もうやめろと言ったろう」

「……」

「あ……なんで……」

呆けたように、なぜ自分がといいたそうだった。しかし狀況が整理できたのか、途端に嫉妬まじりの形相へと変化していき、

わなわなとをわななかせる。

「……あなたまで……なんだ」

レイミは聞き取るのも難しいくらいの小さな聲でつぶやいた。

「あなたまでそのの味方、するんだ……なんで? なんで皆……なんで皆そうなのっ。なんで皆そののことばかり! なんでよっ

なんでいつも私だけなのっ!」

今度は俺が揺する番だった。レイミが突然泣きだしたのだ。いや、その言葉からは、ただ泣くのではなく、まさしく號泣だった。心からの絶と言った方がいいのだろうか。

レイミは心底哀しげな表で俺を見た。何かいいたげにしていたが、下を噛み、言葉を飲み込んだ。

「……レイミ」

るなっ」

その拒絶の一言の後、レイミは大で店から出て行き、瞬く間に視界から消えた。確かに頬を張ったのは悪かったとは思うが、別にそれは拒絶の意味だったわけではない。俺はあくまで、あの罵ることをやめてほしかっただけだ。だと言うのにそれがまさか、こんなことになるなんて思いもしなかった。

「……あの九鬼さん」

「ん……」

全く、バツの悪いことこの上ない。本當ならば、俺はすぐにでもレイミの後を追えば良かったのかもしれない。しかし、そのタイミングを逃がしてしまった。

それに、もう綾子ちゃんとも會うつもりはなかったはずなのに、なぜか今ここを離れるのは躊躇われたのだ。なんの因果か、こうしてまた會ってしまった。綾子ちゃんにはもう関わるのはよそう、そう決めたはずなのにだ。

「とりあえず一旦外に出よう。今更だが、目立っていけない」

綾子ちゃんがそれに頷き、二人して店の外に出た。

「……すまなかったな、まさかあんなことになるなんて思わなかった」

「いえ……私がお二人に話しかけたのも悪かったと思ってますから……。こちらこそ、すみませんでした」

だったら、とは言わなかった。あの日も、こちらの獨りよがりと言っていい後味の悪い別れ方をしたのだ。仕方のない話だ。

むしろ、俺は綾子ちゃんに罵られたって文句の言えない立場だ。にも関わらず、俺は相変わらず君を哀しませてばかりだ。

「謝らないでくれ。俺は君にそんなこと言われるような立場じゃぁない」

(本當なら、こっちが謝らないといけないはずなんだ)

申し訳ないと思いつつも、なんで口に出せないのか不思議だ。エゴからか? それとも、取るに足らないプライドからなのか? そんなことを考えているうちに、綾子ちゃんが先に口を開いた。

「……北條さん」

「ああ」

「北條さんと……その……寢た、んですか?」

「……ああ」

なんて答えようか迷いはしたが、今更下手に言い訳などしようもないだろう。俺は素直に肯定した。

「レイミは本當に君の後輩なのか?」

「はい……。北條玲さん、あの子は私と同じ大學で一つ下なんです。初めて會ったのは二年前、大學のサークル募集の時だったなぁ」

綾子ちゃんは過去を懐かしむように、ゆっくりと語り始めた。

「最初はね、すごく素直でいい子だったんですよ? 人懐っこくて皆に慕われて……私とは大違いだったなぁ」

「そうだったのか」

イメージとはし違うが、分かる気がする。付き合いがたった數日という、短い俺でも、レイミの人懐っこさは認めるところだ。

そもそも、今にして思えばあの格もそうだが、明らかになりきれていない、娼婦として作っている態度、そしてその素地には、教養の良さが見え隠れしているように思えるのだ。

「特に私とは仲良くて、いつも先輩先輩って慕ってくれて。良く遊びにも行ったっけ……。でも」

綾子ちゃんはそこで一度區切った。楽しい出來事も、ある日突然どうしようもなく悲しい思い出に変わってしまうことがある。

「去年の夏休みのし前くらいだったかな。あの子、突然學校に來なくなったんです。今までは、一日だって休んだことなかったのに。

毎日話してたのに、本當に突然だった。それから一日も學校に來ることなく夏休みになって。さすがに心配であの子の家に行ったんです。でも、その家にもいる様子がなかった……。休みの間、時間がある限り家に行ったけど、相変わらずで……。

そうしているうちに、休みも終わりに近づいたある日、空き家になっちゃってたんですよ。もう訳が分からなくなっちゃって。

私、九鬼さんみたいに行力ないから、それ以上は何もできなかった」

「當然、電話にもでなかったんだろう」

辛そうに綾子ちゃんは頷いた。この子は今も自的なところも変わっていないようだ。

「學校が始まってからも、當然來ることはなかったんです。それどころか、學校辭めてたんですよ。もうびっくりしちゃって……。

頭が真っ白になっちゃって……またあの時みたいに、自分の好きな人がいなくなっちゃったのって思ったら私……」

あの時みたいに……その言葉を聞いてはっとした。そうだった。まるで他人事のように聞いていたが、俺も綾子ちゃんの前から消えた人間の一人だった。そして、沙彌佳もまたその一人だ。

「……ねぇ九鬼さん。北條って名前、聞き覚えないですか?」

「え? ああ、君の口からその名前が出てきた時、どこかで聞いた記憶があると思ったんだが、いかんせん思い出せなかったよ」

「……昔、ストーカーをしていた……彼ですよ。あの北條さんの妹さんなんです、レイミちゃんは」

「あの時の、か……」

そうか、思い出した。俺と綾子ちゃんが知り合うきっかけになったあの事件。あの時の犯人の一人が、確かに北條という名だった。

「そうか。レイミはあの男の妹だったのか……」

「ええ。私もそれを知った時は驚きました。けれど、その時はもうあの子は消えた後だった……。私と北條さんの関係を知ったから、だから私のことを嫌いになっちゃって、いなくなったのかとか、もうそんな考えばかり……。

だけど違った。違ったんです。あの子がいなくなってしまった理由……それは私と北條さんとのことじゃなかった」

目を閉じて、ひとつひとつゆっくりと言葉を紡いでいく。

「北條さんが當時されていたお仕事のプロジェクトに、父が出資していたのですけど、そのプロジェクトが失敗してしまったんです。

怒りに怒った父は、北條さんと一方的に手を切り、最終的に圧力すらかけるようになったと聞きました」

「親父さんにかけあってみなかったのか?」

そう問うと、綾子ちゃんは首を振った。

「聞く耳持たないって、ああいうことを言うんだなって思ったくらいですよ。子供が口だしするようなことじゃないの一點張り」

「執念で知ることができたわけだ」

綾子ちゃんはそれにも首を振った。

「違うんです。レイミちゃんが學校を辭めたのを知って二ヶ月くらいした時、それこそ半年位前に偶然あの子と會ったんです。その時には、もう今みたいな恰好で……私が知っている彼とは別人みたいになってて、最初、誰か分からなかったくらい。

でも、恰好もそうでしたけど、人が変わったみたいに罵られちゃって……」

「そうか、レイミの口からその話を聞いたのか……」

「そうです」

綾子ちゃんはその時のことを思い出したのか、苦渋に満ちた目をして虛空へ向けた。

「辛かった……でも、あの子はもっと辛かったはずなんです。……北條さんが亡くなったから」

「あの男が?」

綾子ちゃんをストーキングしていた男は、すでにこの世にいないらしい。あの男に関して、あまりいい思い出のない俺としては、死んだからといってどうという問題でもないが、死んでいるとは思わなかった。

「自殺として処理されたらしいんですが、あの子、お兄ちゃんが自殺なんて絶対するわけないって。あんたの父親が殺したんだって。

それで私自……あまりしたくなかったけど、父の近辺を」

「洗ってみたのか」

「……はい。そしたら、父のやってきたことがたくさん出てきて……最初は信じられなかった。父がそんなことしていたなんて……。

でもそれと同時に、父は人に恨まれて當然なんだって思えたりもして……だけど私、どうすればいいか分からなくなったんです……。

だから、私、しでも父から距離を置きたくなって、一人暮らししてみたりとか當然、アルバイトもしないとって思ったんです。もちろん、そんなことしたって、今まで父が人にしてきたことの罪滅ぼしになるわけじゃないと思ってます。北條さんに対しても、レイミちゃんに対しても」

「……過去はもう変えられない。だけど、君は気付いてからは、しでも自立しようと頑張ろうとしたんだろう? なら良いことじゃぁないか」

「でも……」

「第一、君自が北條を死においやったわけじゃぁないだろ? 君の親父さんがどんな悪どいことをしていたのかは分からないが、一つだけ俺がこの二十數年で學んだことがある。金持ちになるってことは、大なり小なり汚いことをしないと駄目なのさ。まぁ、かといってやってきたことが帳消しになるわけでもないがな。

親父さんは恨まれて當然だとしても、そいつが君を恨む理由だなんて、俺は違うと思うぜ。なくとも、君は親父さんに代わって、げられてきた人達にすまないと思ってるんだろう? だったら、その気持ちだけで十分じゃぁないのか?

レイミも、多分心のどこかでそいつは分かってるはずさ。しかし、親の死ってのは、どうしてもそんな気持ちを曇らせるからな。

一度は仲良くしていたんだろう。だったら、大丈夫さ。そのうちに、君を許そうという気持ちも芽生えるはずだ。

それにな、人を憎み続けるというのは、思いの外疲れることだからな。というのは、正のものであれ負のものであれ、保ち続けることは、ほぼ不可能に近い。

まぁ、好きでい続けることの方は、憎み続けることよりはまだしも楽なことで、可能なことなんだろうけどな」

最後の方は、綾子ちゃんに言うのでもなく、自分に言い聞かせているようにも思えた。しかし、いったことに間違いはない。人を思い続けるというのは、どんなであれ難しいものだ。

綾子ちゃんとレイミには、まだまだ冷卻期間が必要だろうが、生き続けている限り、前のように仲良くとまではいかなくとも、また話せる日が來るだろう。人間関係なんて、ちょっとしたことでこじれも、修復もできるものなのだ。

そんな俺の話を真面目に聞いてくれていた綾子ちゃんが、不意に微笑んだ。

「……ふふ、そういうところ、全然変わってないですね。お人よし……って言うのかな」

「……そうでもないさ」

本當にお人よしなら、人殺しなんてするはずがないだろう。以前、誰かに対しても思ったような気がするが。

「九鬼さん」

「ん?」

「ありがとうございます。九鬼さんに聞いてもらえて、し気が楽になりました」

「そうか……ま、本當にただ聞いただけだが、それくらいならお安い用だ」

「それに……また九鬼さんとこんなに話せるなんて、思いもしなかった。

レイミちゃんのことがあって以來、なんで私の周りからはいつも大切な人がいなくなるんだろうって思ってたんです、ずっと。

レイミちゃんも、お母さんも、さやちゃんも……皆、ある日突然いなくなっちゃって……それと」

ちらりと上目使いにこちらに視線を向ける。

「九鬼さんも……。だけど、九鬼さんとレイミちゃんは、またこうして會うことができたんです。だから九鬼さんの言葉、信じてみます。

今はまだ無理でもいずれはまた、レイミちゃんと他もないお喋りができるようになる日がくるのを信じます」

「……そうか」

俺は、君のそういうところに惚れたんだったっけな……。綾子ちゃんの話を聞きながら、ぼんやりと昔のことを思い出した。

田神が想いの力とは、実現させるための力だと言っていたが、そうかもしれない。なくとも、今の綾子ちゃんを見ていると、なんとなくだが、そんな風に思えてしまう。

「あ……」

「どうした?」

「いえ……九鬼さん、やっと笑ってくれたなっと思って」

「笑う?」

「はい。今、確かに笑ってましたよ? ……本當、昔に戻ったみたいに」

笑ったつもりなどなかったが、つい笑みがこぼれていたらしい。やれやれ、俺はを隠すことができないと言うのは、本當のことらしい。

ぶっきらぼうにそんなはずはないと強がってはみせたが、昔のよしみだ。多分こちらのことなど、お見通しだろう。

「ねぇ、九鬼さん」

「なん――!?」

綾子ちゃんは俺がそっぽを向いたのを機に、そっと口づけしてきたのだ。俺のに、綾子ちゃんのらかいとともに、綾子ちゃんから漂う甘い香りが俺の脳髄を刺激する。突然のことに、俺はそれ以上考えることができないでいた。

「……ん」

「……」

突然の口づけは、やはり突然に終わりを迎えた。見れば、綾子ちゃんは顔を朱く染め、目を合わせないように言った。

「……この前、あんなこと言われてショックでしたけど……私、まだ諦めたつもり、ないですから」

そういうと、深くお辭儀して小走りに店の中に戻っていった。

俺はそんな綾子ちゃんを、阿呆のようにただ見送ることしかできなかった。

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