《いつか見た夢》第41章

おかしい。どういうわけかがとても重く、りつけられているような覚がする。いや、を締め付けられているような覚に近い。同時に、布がれるような耳障りな音もしていた。

「ん、お兄ちゃ……」

どことなく鼻にかかったような聲が聞こえた。もちろん、俺をそう呼ぶのは一人しかいない。

「……沙彌佳か?」

「えっ? あ、ちょっ、ちょっと待って!」

「良いから早くどいてくれ。重い……」

うっすらと目を開けようとすると、沙彌佳によって目を塞がれた。

「うっ……何するんだ」

「ご、ごめん、しの間だけ目、つむっててっ」

「あー……分かった」

焦ったように早口になった沙彌佳に、適當な相槌をうった。寢起きのためか、なんでだと聞き返すのも面倒だ。いっそこのまま、二度寢したい気分になる。

沙彌佳はその隙に、そそくさと服がれるような音とともに、何かをしているようだ。

「ご、ごめんね。もう良いよ」

沙彌佳のやつが何を焦っているのか知らないが、俺はこの心地良さに負けて、寢てしまいそうになっていた。

「……」

「お兄ちゃん?」

返事をするのも煩わしく、俺の意識はすでに半ば夢の中だった。

今日は土曜日ということもあって、駅にはそこらかしこに若者であふれていた。當然、その中に自分も含まれているが。

「あー、電車行ったばかりか」

ホームに表示されている時間を見ると、前の電車が行ってからほんの一、二分しか経っていない。まぁ、後ものの五分もすれば來るので、さほどのことではない。それよりも……。

「なぁ、おまえ、いつまでブーたれてる気だ?」

「私ブーたれてなんかないもん」

それを世間はそう呼ぶんだがな。

「ちゃんと起きたんだから、もう良いじゃぁないか。たかだか五分や十分遅れたくらい」

「ふんっ」

沙彌佳は口を尖らせながら、そっぽを向いた。

「それに私、そのことで怒ってるわけじゃないから」

結局、怒ってるのかよ。

俺はため息一つ、そばにある備え付けの椅子に腰を下ろした。松葉杖に寄り掛かる続けるのも、決して楽ではない。 朝、何をしていたのかは知らないが、沙彌佳に目をつむっていてほしいと言われた俺は、それをいいことにそのまま二度寢してしまったのだ。

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沙彌佳の機嫌が悪いのはてっきりそのことが原因と思ったのだが、違ったようだった。そもそも俺の部屋で、一何をしてたんだ、おまえは。

「じゃぁ、何がそんなに気にらないんだ」

「そ、それはお兄ちゃんが朝、き、急に目を……」

「俺が朝、なんだって?」

最後の方は、ゴニョゴニョと何を言っているのか分からなかった。綾子ちゃんも俺と同じだったようで、首をかしげている。

「と、とにかくお兄ちゃんのせいなんだからね」

「はぁ? なんだそりゃあ。……おまえ、最近なんか変じゃぁないか?」

「変じゃないよ」

そう言う奴はたいてい、どこかおかしいものだが……。

「あー、もしかしておまえ……」

なるほど。もしかすると、それが一番ありえそうだ。

「あの日か」

「……なっ!? お、お兄ちゃんの馬鹿っ!」

一瞬何を言われたのか分からないといったような顔になった沙彌佳は、みるみるうちに顔を赤くし、聲をあらげた。つまり態度から察するに、俺の予想は當たっているのだろう。もし辛いなら無理はしなくてもいい、そう言うと、なおのこと喚きだしたのだった。

行きの電車の中、沙彌佳は思いの外ご立腹だったようで、目的の駅に著いてからもしばらくの間、口を聞いてくれなかった。もちろん、あんなのは半ば冗談みたいなもので本気にしてほしくないところだが、今の沙彌佳には何を言っても無駄だろう。

俺は、何があんなに沙彌佳をご機嫌ななめにしたのか分からなかったので綾子ちゃんに聞いてみたところ、今回ばかりは綾子ちゃんもただただ苦笑するだけだった。

「本當、デリカシーがないんだから」

そんなことをつぶやきながら、俺のことを見ている沙彌佳に肩をすくめて見せた。

まぁ、沙彌佳が変に機嫌が悪くなることは今に始まったわけではないので、あまり気にしないでおこう。どのみち、今日も夕方になる頃には、機嫌も良くなっているはずだ。そう、こんなのは毎度のことなのだ。

「ところで今日はこれからどうするんだ? 言っておくが、俺はなんも計畫はしてないぞ」

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「今日は私たちからのお禮を兼ねてるので、あまり気にしないでくださいね」

「お禮?」

「はい。その……あの人のことで」

綾子ちゃんが言うあの人とは、北條のことだろう。綾子ちゃんは、北條と名乗る男にストーカー行為をけていた。禮というのはそれに対してだとは思うが、沙彌佳からの禮となると一なんだろう。特別これといったことをした覚えはないが。

「深く考えないでください。私たちがやりたくてやるんですから」

「ああ。まぁ、そこまで言うのであれば、気にしないようにするよ」

「はい、気にしないでください」

綾子ちゃんにしては珍しく、茶目っ気たっぷりの言い方と笑顔だ。こんな顔もできるんだな、君は……。

とたんに顔が熱くなるのをじた俺は、それを悟られぬよう、そっぽを向いて鼻をかいた。背けた先に、沙彌佳が俺を見ている。その顔は何か言いたげだがすぐに目を泳がせて、結局はうつむいてしまった。

「おい、沙」

「ね、お兄ちゃん。お腹すかない?」

俺が言うが早いか、沙彌佳はすぐに頭を上げて聞いてきた。

「え、あ、まぁ、し……」

あまり朝は食べていないので、確かに腹が減っていないわけではないが、なんだか不自然な切り返しだ。

「じゃあさ、ここの近くに、結構味しいって評判のお店があるから行ってみようよ」

「さやちゃん。それって」

「そうそう。あやちゃんも一度行ってみたいって言ってたよね」

「うん。九鬼さん、どうですか?」

「ああ、俺は構わんぜ。どうせ今日は君らの仕切りだしな」

「じゃあ決まり。早速行こう」

そうと決まると沙彌佳は、はしゃぐように先頭を陣取って行った。綾子ちゃんは俺を気遣いながらも、ゆっくりと沙彌佳の後をついて行っている。

同じ十五歳でもこうしてみると、沙彌佳は隨分と子供じみて思える。いや、単に綾子ちゃんが大人じみて見えるだけかもしれないが。

「おい沙彌佳。し落ち著けよ」

「落ち著いてるよ」

落ち著いてる奴が、そんなにそそくさと進んで行くはずもないが、まぁいい。それだけ楽しみにしているという裏返しなのだ。

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松葉杖をつきながら休日で人通りのある道をゆっくりと進む。普段ならこれだけ人が多いと、自分の思うように道を歩けないため、ついジグザグに人と人の間を蛇行しながら進んでいくが、今日はそういうわけにもいかない。むしろ、このゆっくりとした流れのほうが、今の俺にはちょうど良くもある。

「んと、確かこの辺りのはずなんだけど」

「次の角を曲がったところじゃなかった?」

「あ、そうだったっけ」

二人して俺を連れて行こうとしているのを見ると、とてま微笑ましい。というよりも、いつかも思ったが絵になっている。

「あった。ここだよ、ここ。お兄ちゃん早く」

「やれやれ、早くったってな」

「仕方ないですよ。さやちゃん、すごく張り切ってるみたいですから」

一人ぼやいていたところ、いつの間にか沙彌佳と一緒にいた綾子ちゃんが、俺の隣についていた。いつものように、微笑をその顔に浮かべながら。

「ああ、どうもそうみたいだな。ま、仕方ないのかもしれないけどな。久しぶりに出かけるから」

「そう、でしょうか」

「ん?」

「いえ……それより、あとしですから急ぎましょう」

「ああ」

に松葉杖をついて、俺は歩を進めた。

はまだ晝前ということもあって、かなり空いていた。それでも後三十分か一時間もする頃には大勢の客で溢れることだろう。まぁ、店にるのが楽であるにこしたことはない。

すでに沙彌佳が一足先に中にって、席を確保してくれていた。店も、なかなかに俺好みの落ち著いた雰囲気の店だ。それを強調するように、BGMにはジャズが流れている。どちらかと言うとランチタイムに來るよりも、ディナーの時間に來る方があっているとは思うが、まぁそこは置いておくとしよう。

「お、この曲は」

メニューに目を通していたら、そこに最近聞き馴染んだメロディーが流れてきた。それは以前、綾子ちゃんに勧められて買った、CDの中に収められていた曲だ。

教えてくれた綾子ちゃんは當然それに気付いて、こちらを見てきた。俺もそれに答えるように、ニヤリとして見せる。

「え、何。お兄ちゃん、この曲知ってるの?」

「ああ。最近、ジャズなんてのを聞いてみるようになってな。それでそのCDの中に、今流れてる曲がってるんだ」

「へぇ。でも、お兄ちゃんがジャズなんて、ちょっと信じられないけど」

「おい、そりゃどういうこった」

「そのままの意味だよ。だってお兄ちゃん、今までロックだけだったじゃん」

「ロックだけってわけじゃぁないけどな。まぁ、確かにジャズは聞いたことはなかったが、前々から興味はあったんだよ」

俺がそう説明すれば、沙彌佳はどこか疑わしげに、綾子ちゃんは口元に手をやって、それぞれ笑っている。

「まぁ、いいさ。とにかく今はなかなかに気にったジャンルであることには変わりないしな。それよりもメニューを決めよう」

まだ何か言ってきそう沙彌佳に、もうその話は終わりと言わんばかりにメニューを手渡した。

一時間ほどして食事を終えた俺達は、人が増えてごった返しになった店から逆流して店を出た。ここは人気店だったようで、店の外には數組の客達が席が空くのを待っている。

「後もうし來るのが遅かったら、店の外で待たなきゃならないところだったかもな」

「うん、そうだったかも」

こんななりで寒い中、外にいるのは々酷かもしれないと思うと、運が良かった。

それに、まだ朝食をとってたかだか三、四時間だと言うのに、思ったよりも腹は減っていたのか、運ばれたランチメニューを瞬く間に平らげてしまった。しかも、それを見た沙彌佳が、自分の分をしばかりすそ分けするというほどだった。がっつきすぎるみたいだと思ったので、怪我していると腹が減るみたいだと、適當に言い訳しておいた。

「腹も満たされたところで、次はどうするんだ?」

「次はねぇ、ここからし歩いたところなんだけど」

「そうか。ならそこに行ってみよう」

「あ、でも電車で行った方がいいかな」

「どこなんだ?」

「一駅しか離れてないけど……」

「だったら歩こう。こんなでもゆっくり行けば、そう大した距離じゃぁないだろ」

「そうだけど……いいの?」

そう言われても俺は、ただ肩をすくめるだけだ。そこまで気を遣う必要はないのだ。気を遣ってもらうのは嬉しいが、電車だと、乗り降りや階段なんかが逆に面倒くさい。沙彌佳と綾子ちゃんもそれを悟ったのか、それ以上は何も言うことはなかった。

晝時ということもあってか、通りにはさらに人が溢れていて、俺達は、その通りからし外れた道を歩いた。表通りと比べ、はるかに人がない。人通りのある道を行くよりも、こちらの方が賢明と言えよう。

ただ年頃のの子であれば、表通りの華やかな道を歩いてみたくなるものだろうが、この二人はそんなことなど気にしないのか、即座に裏道へとっていったのだ。単に俺への気遣いなのかもしれないが、俺としては気楽なのは間違いない。

「やっぱり休日は人が多いな。寒いのに皆元気だ」

「クリスマスが近いからね。皆気分が盛り上がってきてるんだよ」

「ああ、そういえばもうそんな時期か。一年ってのは、あっという間だな」

やはり一ヶ月の院というのはなからず、季節というのを狂わせてしまっているらしい。つまるところ、もう今年も後、三週間かそこらしかない。

まぁ、クリスマスの予定なんざ全くない。あるのは去年までと同じく、家族と過ごすことになるのだろう。けれど、今年はもしかしたら例年とは違って、し変化があるかもしれない。というのも、綾子ちゃんがいるからだ。

今年のクリスマスは週末にぶち當たっているため、綾子ちゃんがまた泊まりに來るかもしれないのだ。そう考えてみると、決して悪くはない話だ。いくらそういう世俗的なものに頓著しないとはいえ、彼も全く何も思わないはずはない。

「お兄ちゃん?」

「なんだ?」

「何考えてるの?」

俺が何か考えていたのが分かったらしく、単刀直に問うてきた。本當のことなので何も言い返さず、苦笑しながらつぶやいた。

「いや、もうすぐクリスマスだなと思ってな」

「そうだよね、もう後二週間だもん」

「ああ。ところで、綾子ちゃんは何か予定あるか?」

「クリスマスのですか?」

「そうだ。何もないなら、良ければうちにきなよ。幸い、今年は週末だし、泊まって行けば良いよ」

「え、でも……良いんですか?」

「俺は全然構わないさ。両親もそれにいちいち文句は言わないだろうし。どうだ」

「は、はい、それは嬉しいですけど」

綾子ちゃんは俺と沙彌佳を互に見やりながら言う。

「お二人やご両親が良いというなら、お邪魔させていただきますけど……」

綾子ちゃんは俺にというより、沙彌佳に気を遣っているかのようで、やたらと沙彌佳のほうを気にしている。

「うん、私は別に良いよ……あやちゃんなら」

「決まりだな。楽しみにしてるよ」

「……はい」

顔をほのかに染めて、綾子ちゃんは頷いた。そんな男心をぐっと摑むような態度をとられると、思わずくらりときてしまうのでやめてくれ、綾子ちゃん。

そんなことに華を咲かせているうちに、次の場所に著いていた。

「ここは植園か」

「うん。ここだったらあまり人もたくさんいないだろうし、落ち著けるかなって」

「そうか。まぁ、あまり人込みは好きじゃぁないしな。それにこういう所は、一度ってみたいとは思ってたし、ちょうど良い」

「良かったね、さやちゃん」

「えへへ」

沙彌佳は綾子ちゃんに褒められ、満面の笑みをこぼす。きっと、今日のことは昨日のうちに綿に計畫していたのだろう。いや、もしかするともっと前からかもしれない。まぁ、なんにしてもこっちも悪い気はしない。

「しかし、植園なんて初めて來るな」

「私も植園は初めてですね」

「そうなの? 私はこれで二度目だよ」

券を買い、中にると、気のある空間にったのがじとることができる。外の冬の乾燥した寒さに対して、この空間は植による、獨特な匂いと暖かさがあるのだ。

これは人工的な空調による暖かさと違って、もっと穏やかな、自然な暖かさだ。どうしても空調だけの暖かさだと、無駄に暑くじたり、逆に溫度が足りなくて寒くじることがあるが、ここはそれらをうまくカバーし合うことができているのだろう。そのため、この空間においてはとても居心地が良い。

「お兄ちゃんってさ、意外とこういうところ好きでしょ?」

「ああ。なんていうのか、落ち著くからな。しかしこんな街中に、こんな植園があるなんて知らなかったな」

「そうですね、私も知りませんでした」

そんな俺と綾子ちゃんに、沙彌佳は得意げになりながら笑った。

俺は所謂、孤獨癖を持った人間だ。そういう人間にとってこういう場所は、とても居心地が良いのだ。

「ここは、この辺りの屋型の植園じゃ最大級の広さあるらしいから、わりとたくさんの種類の植があるみたいなの。どんなのがあるのか楽しみだね」

俺達はまず建の一階フロアにあるランの花のコーナーへ出た。ここでは一年中、各國の様々なランの花が見れるのだと沙彌佳は説明する。フロアにはランの花特有の匂いが充満していて、まさに植園に來たという気になってくる。

「本當にたくさん種類があるみたいだな」

「でしょ? 今あるだけで百種類以上あるみたいだよ。でも、これでもまだない方らしいから」

「百でもないなんて、多い時はどれくらいになるんだ?」

「倍以上になるって聞いたから、二百とか二百五十種以上になるんじゃないかな?」

「すごいな。それもこんな、限られたスペースで」

そんな話をしながら、俺達は進んでいく。

それにしても、ここは本當にすごい。こんな街中にあるのだから、もっとこじんまりしていて、數もあまり多くないと思ったのに、中にってみると意外なほど、その種類も多かったのだ。

ランとは一言でいっても々なものがあって、中には人の背丈にもなるようなもあれば、逆にほんの數センチくらいの高さしかないものもある。まさにピンからキリだ。

「次はなんだ」

「バラみたいですね」

「バラってのは五月くらいじゃなかったか?」

「一般的にはそれくらいに咲くものが多いですが、十一月にも花をつけるものも結構多いですよ。それに私は十一月頃に咲くバラは、個的なものが多いのでどちらかと言えば、この時期に咲くバラの方が好きですね」

「なるほど。言われてみると、確かに俺が知っているバラとは一味違いそうなのが多そうだ」

綾子ちゃんが言ったように、これがバラなのかと思ってしまうような花の形をしたものがなくない。

「それとこの時期のバラは、よく香水なんかに使われるものも多いから、匂いも変わったのが多いんだよ」

「そうなのか」

俺は沙彌佳の説明に頷きながら、相槌をうった。バラは香水の原料として使われるようになって、非常に歴史があるのだという。古くは、古代ギリシャや古代ローマの頃にまで及ぶらしい。

それだけでなく、原種自はそれよりもさらに古い時代、つまりエジプト文明の頃にすら、それに近いものが香水の原料になっていたというのだから驚きだ。

そうやって歴史を重ねていくうえで、いくつものバラが作られていき、ルネッサンスにる頃にはバラの品種改良をするための、専門家ともいうべき職人もでてきたというのだからわからないものだ。

そうすることで新しく品種を作りだし、または新しいベースの香りを使って発展してきたのだから、數が増えていったのは當然といえば當然だ。

いや、発展というのとは違う。作る上で技的に発展した部分もあるだろうが、香水というのはあくまで香りなんであって、そこに発展というのは全く関係のない話だ。言うならば、蕓みたいなものだ。影響はけても、それそのものが発展したものとは言い難い。

前に作られたものが、それ以降に作られたものに劣っているというわけでもなく、また新たに改良を加えたものが、必ずしもそれ以前のものより優れているわけではない。

バラのフロアも最後になろうという頃、一本のバラに目がいった。不思議なをしたバラで、ここにあるバラはもとより、俺が知りうる全てのバラとは、明らかに違うものだった。

「青い……青いバラだ」

そのバラを見た時、思わず呟いていた。正確には、青というほどの青さはないが、うっすらと青みがかっているのだ。

「本當だ、すごい。でも青いバラなんて造られてたたんだ……」

俺のつぶやきに反応した沙彌佳が、その青いバラに寄っていく。

「ブルーローズなんて……」

つぶやく綾子ちゃんとともに、沙彌佳と同じようにバラに近寄った。青いバラというのはバラ職人達にとって、永遠の夢であり、

悲願だと聞いたことがある。今日のバラの種類ほとんどは、その過程で生み出されてきたもので、同時にバラ職人たちの手によって、

品種改良されてきたものであるらしい。今日のような青いバラを作るための品種改良が、正確にいつ頃から行われ始めたのかは分かっていないという。

紀元前の中東ではすでに、王公貴族たちの間で香水は使われていたというが、そのための花の授の研究が行われていたという記録もあるそうだ。一説には、青いバラの品種改良が行われ始めたのは、その頃からではないかとも囁かれているらしい。

ただ沙彌佳と綾子ちゃんの説明によれば、現在のバラ職人が誕生したのはなくとも、香水作りがとりわけ盛んになった十七世紀頃から、バラが人気の香水の原料として使われるようになってからで、それだけを専門とする人々が誕生してからだという。

そう考えると、すでに三百年も四百年も、もしかすると二千數百年以上も前から職人達の夢であり続けているブルーローズがこうして目の前にあるのは、なんだか不思議な気分だ。

青いとは言っても、目の前のバラはまだ青みがなく、近くで見てみるとどことなく紫がかっているようにも見えるだが、。そのは本當に淡い。バラの木の札を見てみると、半世紀以上も改良されてようやくこのになったと書かれている。

やはり青いバラはこれからも、まだまだ職人たちにとっての夢であり続けるのだろう。人々に、幸福を運ぶものであるという青いバラを造ることができたら、それだけで造った人は一躍、時の人になるに違いない。

なんせ、未だ世界中のバラ職人たちが挑み続けてなお達されないのだ。そんなものが造られた日には、ノーベル賞ものだ。

それでも、ようやくなんとか青みがかったバラができただけでも、何百年以上の歴史の中で畫期的なことであることは変わらない。

俺は、淡く紫がかったの青いバラを前に、人の歴史なんてものを慨深くじていた。

園を出るとすでに外は暗く、時刻も午後四時半になろうとしているところだった。確か植園にったのが一時をし過ぎた頃だったので、概算して三時間半ほどいたことになる。

十二月も半ばになると、日が落ちるのもよりいっそう早くなり、午後四時半頃には沈んでしまう。つまり、今太は地平線の向こうに沈もうとしているのだ。

「はあ、結構長くいちゃったね」

「だな。それに中と外じゃぁ、溫度差が半端じゃないな」

「ほんとう。日が出てるうちは良かったけど、なんか一気に寒くなっちゃったね」

「ああ。だけど、いていればあったまるからな」

「九鬼さん、大丈夫ですか? 中でもほとんど休まなかったようですけど……」

「大丈夫だ。それに植園の中だけど、思ったよりも疲れなかったよ。不思議とね」

俺がそう言って歩き出した時だった。

「あれ〜? 九鬼じゃん」

俺達の後ろから聲をかけられた。このどこか間延びするような聲は確認しなくても分かる。うちのクラスのイケメン野郎、斑鳩だ。

くそ、こいつはいつも嫌なタイミングで現れやがる。しかも、なんだって今なんだ。

「よ〜九鬼ぃ、の子二人も伴ってデート?」

「斑鳩か。こんなところで何してるんだ?」

ため息をつきながら振り向いた。

「開口一番ご挨拶だね。別に何もしてないよ、今は」

「つまり、今から何かするつもりってことか」

斑鳩は俺のラフな恰好と違い、まさにの子けを狙った恰好をしている。その服はどちらかと言えば、著る人を選ぶようなもので、普通であれば敬遠されそうなものだがこの男は、それを見事に著こなしていた。斑鳩が天のプレイボーイというのを、実に見事に表現できている。

それに+アルファとベータの男が付き添っていた。歳も俺や斑鳩と変わらなさそうだ。もしかしたら二人は、斑鳩の中學時代の友達なのかもしれない。その二人も、斑鳩同様になかなかの著こなしだ。

「んー、まぁ、気が向いたら、かな?」

「そうか。ところで何か用か? 俺達、これから行くところがあるんだが」

俺は二人をかばうような形で、すっと一歩前へ出た。

「そんなに邪険にしないでよ、九鬼。たださ、もし良ければ俺らもぜてくれない?」

「なに?」

相変わらずこいつはストレートに言ってくる奴だ。普段なら、それはこいつの良いところと捉えるところだが、いかんせん、今のこいつには用心深くなってしまう。

「お兄ちゃん……」

沙彌佳がどことなく不安げに寄りそってくる。考えるまでもなく、沙彌佳は斑鳩みたいなタイプは嫌いだし、綾子ちゃんも、かなりの苦手意識を持っている。綾子ちゃんに至っては斑鳩の橫の二人に、完全に畏してしまっていた。

どうするか……斑鳩には前の件もあって、悪い意味で貸しを作ってしまったように思えてならない。気の良いやつだったら、そんなの気にするなの一言で済ましてくれるところだが、こいつにはそれは通用しない。それどころか、おそらくそんな気の良さそうなことなど、思ってもいないだろう。

「悪いな、斑鳩。今日は俺にとっちゃぁスペシャルデイってやつでね、楽しみにしてたんだ。今回は一緒というわけにはいかないんだ」

「スペシャルデイ? そっか、それは殘念だな」

「すまないな。また今度にしてくれ」

今度と言わず、できれば次がないことに越したことはない。

そんな、これ以上相手をしたくないのと、できるだけ沙彌佳達から離したいという気持ちが焦りを生んだのか、それを敏じとった斑鳩は、俺を呼び止めた。

「まぁ待てって。実はさ、俺たち再來週パーティーやるんだ。ほら再來週、クリスマスじゃん? それに沙彌佳ちゃんと綾子ちゃんも呼んでほしいんだ」

「クリスマスパーティーか?」

「そうそう。あ、もちろん九鬼も同伴でオッケー。それに」

そこでわざと區切った斑鳩は、チラリと綾子ちゃんの方を見て、俺の方へと近づいて小聲で言った。

「おまえだって綾子ちゃんと一緒にいたいだろ?」

「なっ」

「ま、そういうことなんで頼むわ。二人とも良い? 良いよね? 大丈夫だよ、當日はちゃんと迎えに行くからさ」

沙彌佳と綾子ちゃんに向かって、有無を言わせないかのような態度をとったのち、斑鳩たちは去っていく。

「お、おい! 俺はまだ行くとは言ってないぞっ」

「じゃあね〜」

ヒラヒラと手を振って、斑鳩たちは人込みに紛れて消えていった。

「九鬼さん……」

「……何がパーティーだ。人の予定も聞かないで」

なんだっていうんだ、斑鳩の奴。一何を考えてるんだ。一方的に斑鳩に言いくるめられたような気分になり、むしゃくしゃする。

「お兄ちゃん。あんまり気にしないで。ね? 私たち返事してないし、それに行く気もないから」

沙彌佳が宥めながら、俺の手を軽く摑む。綾子ちゃんも沙彌佳に同意しているようで、二度三度頷いている。

「……ああ、そうだな。そうだった」

そうだ。別にあの男が勝手に言っただけで、二人を連れていくだなんて言ってない。奴に一方的に言われただけだ。なのになんで俺はこんなにイラツいてるんだ。

そんな俺を、沙彌佳たちは不安げに見つめている。ため息を一つついて、小さくかぶりを振った。

「すまなかったな。どうも最近の俺は、頭にが上りやすくなってるみたいだ」

おどけて見せながら、肩をすくめる。なぜ自分が苛立ったのか、その理由がなんであるかは分からないが明後日學校に行った時にちゃんと斷りをれればいいだけだ。そう心に決め、俺は二人を促した。

「うん、大分経過も良いみたいだね。まだ走ったりはできないけど、ゆっくり歩くのなら、もう松葉杖はいらないだろう」

「本當ですか? ようやくだな」

「いやいや、大分早い方だよ。若いというのもあるがかなり早い。君の回復力には、こちらが驚かされるよ」

醫者にそう言われながら、俺は松葉杖なしで歩いてみせた。まだどことなく本調子でないのが分かるが、それでも杖なしで歩けるというのがこんなにも素晴らしいものとは思わなかった。

今俺は週に一度、経過を見るための病院に通うことを義務付けられている。先々週退院し、今回二回目の検診で、早くも松葉杖がとれた。後は心置きなく自由に走れるようになることができれば完璧だ。

「念のため、もう一週間分の痛み止めを出しておこう。ズキズキという痛みが続く時にだけ飲みなさい。いいね?」

俺の擔當だった醫者に會釈し、診察室を出た。

「あ、お兄ちゃん、どうだったって……松葉杖とれたんだ」

待合室で待っていた沙彌佳が聲をかけてくる。全く、病院くらい一人でも行けるのに、わざわざ著いてきたのだ。

「ああ。経過はかなり良好らしい。走ったりしなければ大丈夫だそうだ。念のため痛み止めが出るみたいだけどな」

「そっかぁ。だけど案外早かったね、とれるの」

「醫者も回復力の高さに驚いたんだとよ。まぁ、遅いよりは早いに越したことはないけどな」

「でも良かったよ。クリスマスまでは松葉杖のままだろうなって思ってたから」

「実を言うと俺もだ」

ニヤリとの端を吊り上げて、病院を出た。最近は醫者の薬をもらうのに、醫者に渡された処方箋を持って薬局に行かないと、薬を処方してもらえない仕組みになっているらしい。まともに病気をしたことがなく、醫者にかかったことがない俺としては、ちょっとしたトリビアだ。

薬局で処方された薬を手に、俺と沙彌佳は帰路につく。

「それでお兄ちゃん。あの人、斑鳩さんだっけ。どうなったの?」

「さぁな。とにかく俺は奴のやるパーティーなんぞに行く気はないし、おまえたちも行く気はないんだろ? だったら行かないと言うだけだよ。ま、最悪、當日になるかもしれんがな」

沙彌佳が唐突に聞いてきた。當然の疑問だろう。俺、沙彌佳、綾子ちゃんで街に繰り出したところ、斑鳩と會った時のことを言っているのだ。それが今から十日ほど前のことだ。

しかし斷ろうとしたのに、斑鳩はなぜだか翌週から學校に姿を現していない。どうしたのかと連絡を取ってみたものの、一向に繋がる気配がなく、斑鳩の取り巻き連中にも聞いても、やはり同じ狀態だという。

頭の痛い話だが、連絡をとろうにもとれないので、仕方なく小町ちゃんに住所を聞いて奴の家に行ってみたのだ。

奴はアパートで一人暮しをしているようで、呼び鈴を鳴らしても出ることはなかった。運良く隣の住人に出くわしたので斑鳩はどうしているのか聞いてみたが、ここ數日の間、帰ったような気配がなかったという。

結局、それ以上は手の打ちようもなくなり、ドタキャンになるが當日にでも無理だと言おうと思っていたのだ。

とは言っても、斑鳩が一方的に約束を取り付けようとしただけなので、元より行く気もないのだが。

しかし、もう一月半以上前のことだが、今井の件もあってか、こうして人一人が連絡を取れずにいなくなるというのは、あまり良い気持ちがしない。たとえそれが斑鳩のような奴であってもだ。

俺は漠然とした不快じながらも、後二日と迫ったクリスマスイヴに、期待をに膨らませていた。

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