《いつか見た夢》第45章

最近の俺はおかしかった。なぜか。理由は二つあった。

一つは、綾子ちゃんと二人で訪れた縁日での事故現場で見た、生々しい死だ。あの死に様は未だ消え去ることなく、俺の脳裏に焼き付いている。もう一つはその同じ日に、妹である沙彌佳のれてしまってからだ。

れたというのも、ただの家族へのコミュニケーションとしてのボディタッチではない。というのを意識してしまったうえでのボディタッチだった。いや、ボディタッチという生易しいものではなく、完全に劣というのを抱いてしまっていた。今まで、妹にほんのしでも劣というのをじることなどありえないと考えていただけに、妙な息苦しさを覚えていたのだ。

當の沙彌佳本人はそんなこと知りもせず(當たり前ではあるが)、相変わらず俺にべったりだった。俺にしがみついてくる沙彌佳に、あの覚を思い出し、つい、そっけない態度をとってしうことがあった。そのつど、沙彌佳はなんで?というようなきょとんとした顔をしていたが、俺がすまんと謝ればそれを気にすることなく、またがっしりとしがみついてくる、そんなことが度々起こるようになっていたのだ。

俺が無駄に意識しすぎだというのは分かっているつもりなのだが、意識しないようにすると、逆に意識してしまうもののようで、普通にしようと思えば思うほど、ぎくしゃくとした態度になってしまう。

きっとあんなことをしてしまったのは、あの縁日の景のせいで頭がどうかしていたに違いない。そう思うようにしているが、殘念ながら、そう思えていないのが現実だった。

そんな風に數日過ごしているうちに三月になり、あっという間に最上級生は卒業していった。俺達在校生は、やけに靜かでもの寂しくじるようになった學校で、學年末テストをけた。それが終わったのがつい一昨日のことだ。

しかし俺の周辺、沙彌佳と綾子ちゃんにとってはここからが本番で、明日行われる試に向けて、追い込み中といった狀態だった。まぁ、沙彌佳は相変わらずマイペースに、時折、綺麗な歌聲を響かせながらではあるが。

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問題は綾子ちゃんで、彼はやや切羽詰まったような雰囲気で明日に臨もうといったじだ。人間、あまり気負い過ぎてしまうと、逆に結果が出ないということもあると思い、今日は総仕上げとしてテスト形式のものにして、気を落ち著かせることにしたのだ。俺としても綾子ちゃんがいると、沙彌佳に対して抱いたも打ち消せるというもので、一緒にいると気分が落ち著いた。

「はい、終了」

時計を見ながら時間を計っていた俺は、時間になったのを見計らい、宣言した。

「はぁ、張した」

「あやちゃん、どうだった?」

そんなことを言い合う二人を目に、俺は二人の解答を答合わせする。問題は俺が過去に経験した問題と、參考書などからの二種類を組み合わせたものだ。

「……うし、終わり。うん。沙彌佳も綾子ちゃんもこれなら問題なさそうだ。綾子ちゃんも十分、合格ラインに屆いてると思う」

「本當ですか?」

「ああ。あえて難しい問題を作ってみたが、これなら大丈夫だと思うな。良く頑張ったな」

「はい……あの、わざわざここまで付き合ってくれて、ありがとうございます」

丁寧に頭を下げ、禮を言われるのにも慣れてきた。ちょっと前までの俺だったら、いつまでも他人行儀はやめてくれと言いそうなものだが、今ではこれも綾子ちゃんの個だと捉えている。

「沙彌佳はムカつくくらいに言うことなしだ」

「ムカつくくらいって何よ」

「気にするなよ、言葉のあやってやつだ。とにかく、これで明日への準備は萬全だと思う」

テーブル脇に置いたコーヒーのったカップに口をつけ、一口すすった。これで俺もできうる限りのことはやった。後は二人、特に綾子ちゃん次第だろう。こればかりは、俺にも誰にもなんとかできるものではない。

「しかし、もう明日か。季節が過ぎるのは早いな」

暗くなった窓の外を見ながら、ぽつりとつぶやいた。何気なくつぶやいたつもりだったが、目の前の二人は、それに食いついてきて相槌を打っている。

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「ところで綾子ちゃんは、今日泊まっていくのか?」

「はい。一応そのつもりで來たつもりです。なんていうか……変に張しちゃうと、なぜか寢坊してしまいそうになるので」

たまに見せる、ペロリと一瞬舌を覗かせる仕種が実に可らしい。

「そうか。まぁ何かあったとしても、最悪、起こしにくるだろうから問題はないと思うけどな、そこらへんは。

それと、今晩は二人のためにカツにすると母さんが言ってたよ」

「そういえば、お兄ちゃんの試の前の日も確かカツ丼作ってたよね、お母さん」

「言われてみればそうだったな」

二年前の試前日の夕食は、確かにカツ丼だった。うちに限らず、験に勝つという意味で、そんな験擔ぎをする家庭もあることだろう。それが効いたかは分からないが、結果としては合格して現在にいたるわけだ。

「ま、やれることはやったんだ。心配しなくても、二人なら必ず合格するさ」

俺は二人の目を見つめ、確かな手応えをじながらそう言った。

翌朝、何やら慌ただしい気配をじて目が覚めた。時間は七時半を過ぎたところだ。いつもならもう起きている時間だが、今日は妹達の試のため、學校は休みなのでこうしてのんびりすることができる。

それもあって昨晩は沙彌佳に、今朝は起こしに來なくて良いと伝えたのだが、なんで?と妙な剣幕で言い返されてしまった。理由を言うと、渋々ながらも了承してくれた。

下では主役二人と両親が何か言っているようだが、寢ぼけているのと部屋が閉め切っていることもあって、何を言っているかまでは聞こえてこない。しかし大方、忘れはないかとでも言っているのだろう。それに父も、いつも通りに出勤の時間だ。

その喋っている聲が聞こえなくなり、俺は二度寢しようとしたところ、カチャリという控えめな音を立ててドアが開いた。

「お兄ちゃん、いってくるね」

俺を起こさないような小さな聲で言う沙彌佳に、俺はどことなく嬉しい気持ちになった。なんだかんだで、朝に沙彌佳が起こしにこないと、変な違和があったからかもしれない。

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しの間だけそのまま寢ている俺を見ていたようだが、下からの聲でドアを閉めて、下へと降りていった。

「……」

俺は枕元に置いてある攜帯を手探りで摑み、メール作フォルダを開いた。寢ぼけ気味ではあるが、なんとか文字を打っていく。

『頑張れよ』

一言だけだが、これで十分だ。それを送信し、俺は再び眠りに落ちていった。

「さみぃ……」

三月にったからといって格段気溫が上がるものでもなく、まだまだ真冬の裝備でいつもの通學路を歩いていた。今日は特に寒く、卒業式のあった日の方がまだ暖かかったほどだ。こういう日には、家でのんびりと火燵こたつなんかにって暖かくしているのがベストだと考えているが、今日は夕方から雨が降るらしく、朝から急激に気溫が低くなっているのだ。おまけに明日まで雨が続くようで、明日はもっと寒くなりそうだ。

まぁ、この雨が過ぎれば気溫が上がりはじめ、本格的に暖かくなっていくわけだが、そんな中俺は休日だというのに何が悲しいのか學校へ行くことになっていた。傘を忘れていった二人のために、傘を持って行くというためだ。

晝になるかならないかという時間まで寢ていた俺に、いい加減起きなさいと母さんにたたき起こされたのだ。その後に夕方から雨が降るというのを聞かされ、こういうことになった次第だ。

しかし、確かに空はどんよりと曇っていて、今にも雨が降りそうになっている。こういう時、車があれば楽なのだろうがそんなものはないし、なにより免許もない。まぁ、一度だけ中學時代に悪友の連れに促されて、所謂、無免許運転というのはしたことがあるので、なんとかなりそうなものではあるが。

そんなことをぼんやりと考えながら歩いていると、あっという間に學校に著いた。校門の橫には、金城高校學試験會場という文字が書かれた張り紙がられている。確か、二年前にもこんなじのものがられていたような気がする。

それを一瞥し校門をくぐると、ちょうど校舎から生徒達が出てきた。時間もすでに夕方なので、試験も終わったのだろう。みんな初々しく、中學生であることは一目瞭然だ。中には引率の教師らしき人もいて、まさにこれから帰ろうとしているところなのだ。

「おや、九鬼じゃないか。どうしたんだ?」

生徒達が出てきている中、それを指示しようとして擔任の小町ちゃんも一緒に出てきたところに出くわす。

「どうも。単純に傘を持ってきただけですよ、妹たちに」

「妹? ああ、もしかして、あの九鬼って言うのは」

「多分、そうじゃぁないですかね。この姓は珍しいし、ここけに來てますし」

「そうかそうか、やっぱりそうだったのか。出の中學も同じだし、もしかしてとは思ったんだが。

それにしても、おまえの妹なんだ、あれ」

いきなり人の妹をあれ呼ばわりされて、むっとしたが、それはおくびにも出さず、どういう意味か聞き返した。

「いや、おまえにすごく可い妹がいるというのは聞いたことがあったんだがな、実を見てみると、とんでもなく人で思わず息飲んじゃったぞ、私は。

化粧もしてないようだったし……將來は、々と苦労するかもしれんなぁ、あれだけ人だと」

俺の基準から言っても、小町ちゃんはなかなかに人だと思うが、その小町ちゃんをしてそう言わしめるとは、よほどらしい。確かに俺もそうは思っていたが、もう何年も一緒にいるとそれに慣れてしまい、あまりそんな風には思えなくなってしまうが……そういうものらしい。

「それともう一人、同じ中學の子でこれまた人な子がいたよ。あの二人がうちに來たら、華やかになりそうだな。良かったな、九鬼」

多分、綾子ちゃんのことだろうというのが予想できる。その二人が俺と関係あるというのを知ったら、本當に周りの連中が欝陶しくなりそうなのが、現実味を帯びてきそうだ。

「先生達の間でもいきなり注目株だったからな。今日もそれで隨分と立って……と、噂をすれば」

小町ちゃんが視線を向けた先の階段から、二人が降りてきたのが見えた。

「あ、お兄ちゃん」

俺が聲をかける前に向こうが気付いたようで、こちらに寄ってきた。もちろん綾子ちゃんも一緒だ。

「よう。どうだった?」

「うん、大丈夫だったと思うよ。昨日やった問題の方が難しいくらいだったよ」

「私はなんとか、ですかね」

沙彌佳は自信満々だ。綾子ちゃんは控えめに言っているが、その顔から察すると、なかなかの出來だったようだ。

「それより、お兄ちゃん。なんで學校にいるの?」

「ん、ああ、ほら」

そう言って傘を見せると二人はきょとんとした顔をして、突然笑い出した。

「お兄ちゃん、私たち、ちゃんと傘持ってきてるよ。折りたたみの」

「なんだそりゃぁ。母さんのやつ、おまえたちが忘れて行ったって言ってたぞ」

くそ、なんてことだ。要するに俺は、母さんに嵌められたのだ。しかし、なんだってそんなことを……。

「まぁいいか、折角來てくれたんだから、一緒に帰ろうよ」

「さ、さやちゃん。先生が」

綾子ちゃんが指し示した先に、沙彌佳たちの引率の教師がこちらを見ていた。引率なので駅までは送ろうということなんだろう。

「ま、とりあえず先生のところに行ってこいよ。俺はここで待ってるから」

「うん、待っててね。それじゃあ失禮します」

「失禮いたします」

沙彌佳と綾子ちゃんは小町ちゃんに対して、深々と頭を下げて引率教師のもとへ行った。

「なんだ九鬼、例のもう一人の子とも知り合いだったのか?」

「ああ。ちょっとな」

苦笑しながら肩をすくめた。やれやれ、小町ちゃんくらいにはそれらしいことを言っておくのも良いかもしれない。彼との関係は俺が院するきっかけにもなっているのだ。ほのめかしておくくらいはしておくとしよう。

小町ちゃんに綾子ちゃんと知り合った経緯を簡単に話し、奇しくも俺が院するきっかけになったことを話すと、小町ちゃんはいきなりニヤニヤとした顔になっていった。

「なんなんだ」

「別にー? 九鬼もなかなかやるじゃんか」

全く斑鳩といい、小町ちゃんといい、なんでこんなに下世話なんだ。俺はため息をついて、試験が終わってのなくなった生徒たちを見た。彼らのどれくらいが今年の春から俺の後輩になるかは知らないが、それに対していまいち実がわかずにいた。

「春からの可い後輩が気になるか?」

「いや。ただ、どれくらいの奴がうちに來るのか思っただけですよ」

「今年は例年よりも倍率が高かったからな。結構落とさないとならなさそうだよ」

「そうか」

それを聞いても沙彌佳は當然として、綾子ちゃんも落ちるなんてことはないような気がした。なんだかんだで二人とも、やる時はやるタイプなのだ。

「ふふ。あの二人だけは大丈夫とでも言いたげな顔だな」

「こんなこと言える立場じゃぁないが、大丈夫な気がするんだ」

小町ちゃんはただ肩をすくめるだけで何も言わなかった。

「さて、二人が來たみたいだから俺は帰るよ」

引率の教師と話終えて、二人が小走りにやって來た。顔を見る限り、話がついたんだろう。

「それじゃあ、また明日な。ちゃんと學校こいよ」

「ああ」

相槌を打って、小走りにやってきた二人を連れて、校門へ足を向けた。案の定、二人とも教師からの許可も出たらしく、笑顔だ。

校門を出て駅に向かう途中、いくらもしないうちに雨が降ってきた。それもかなりの大降りで、傘をさしていても足は膝のあたりまで飛沫が飛んで、瞬く間に濡れはじめていた。

「どうする、駅までし走るか?」

「私はいいけど、あやちゃん?」

「駅までしですし、走りましょう」

頷くままに小走りで駅まで走った。駅まではたいした距離ではない。せいぜい走って三、四分だ。だというのに俺達が駅に著く頃には、強く降り出していた雨がさらに強くなり、土砂降りの本降りになっていた。デニムのジーンズも膝のすぐ下までびしょ濡れだ。とはいえ、ここまで土砂降りになるということであれば、走って正解だったと言える。

「はー、すごい雨」

「全くだ。これだけ土砂降りだと電車もし遅れるかもしれないな。この線はちょっとした雨でも、すぐ遅れるからな」

舌のも渇かぬうちに、電車の到著が遅れるというアナウンスがホームに響く。

「やれやれ、言ってるそばからこれだ」

俺はうんざりするように、ホームに備え付けてある椅子に腰をおろした。

「あ、そういえばお兄ちゃん」

「どうした」

「うん……今朝はありがとう」

「今朝? ……俺、何かしたっけか? 朝はずっと寢てたが……」

沙彌佳は制服のポケットから攜帯を取り出し、何やら作している。

「これだよ」

「ああ、これか」

見せられたのは、俺が寢ぼけたままで送ったメールだった。時間は七時三十九分と表示されている。その時間は確か、沙彌佳達が

家を出た直後だったような気がする。

「うん。お兄ちゃん、もしかしてあの時起きてた?」

「半分寢てたけどな。なんとなく、おまえの聲が聞こえたということくらいしか覚えてないな。それですぐ攜帯ってた記憶も、おぼろげにしか覚えてない」

「そっか……。でも、これのおかげですごく頑張れたよ」

「こんなもんでそれだけ頑張れるなんて、おまえは隨分安上がりだな」

おちょくるように言うと、すぐにむくれるようにする妹を笑いながら電車が來るのを待っていたところ、いつの間にか、二人の後ろに黒のスーツを著込んで、お揃いのをしたサングラスをかけた男が立っていた。

「……?」

怪訝に思ってその人を見ると、こちらに歩みよってきた。

「九鬼さん、ですね」

突然、後ろから聲がしたのに驚いた沙彌佳と綾子ちゃんは、直ぐさま後ろを振り向いて黒スーツの人を見た。

「あ……はい。そうですけど……」

沙彌佳は、突然かけられた聲に驚きと困じさせるような聲で言った。

明らかに堅気でない雰囲気の男に、俺は立ち上がって、沙彌佳と綾子ちゃんを後ろに下がるよう手を引いた。

「いえ、私が用があるのはお兄さんの方です」

「俺に?」

抑揚のない聲で黒スーツの人が言う。サングラスではどこを見てるのか分からないためか、妙なじる。おまけに、この人長は百八十センチ近くある俺よりも、さらに七、八センチは高い。

「あんた、一何者だ?」

「単刀直に申しますと、あなたをスカウトしに、でございます」

「スカウト?」

なんのことかさっぱりな俺は、思わず素っ頓狂な聲をあげていた。當然だ。スカウトだって? 一なんの? そんな疑問は盡きることがない。

「もしかして蕓能界か何かのか? だったら、そんなもんには興味ないぜ、俺は。

もしそうなら、俺よりもこの二人の方がはるかにそっち向きとは思うがな」

もちろん、二人を蕓能界なんぞにスカウトさせるつもりもない。得の知れない人を前に俺は睨むように言うが、黒スーツはそんな俺に鼻で笑いながら言った。

「まさか。そのようなことでスカウトには參りません。あなたをスカウトするのは、私の上司からの期待を見込まれてのことです」

男は俺からの睨みなど全く鼻にもかけず、そんなことを言った。そもそもなんのスカウトなのか分からない。

「そうかい。第一、なんのスカウトなんだよ。蕓能界でもないんだったら、俺をスカウトするような理由なんて、これっぽっちも思い浮かばないぜ」

「そう警戒なさらぬよう。あなたは選ばれたのですよ、その能力の高さを買われたのです。それをもって、我が機関に貢獻していただきたいのですよ」

能力の高さ? 俺の育の績でも知っていると言うのか。確かにそれなりに運はできるが、そうだとしても、俺よりも運神経の良いやつはいるはずだ。スカウトするなら俺ではなく、そういう連中に聲をかければ良いはずだ。わざわざ俺に聲をかける理由としては、いまひとつ足りない。

「そうかい。だけどな、そんな理由、いまどき小學生だってうさん臭いと思うぜ。俺より運できるやつは、他にもいるんだからな。

それよりあんた、今機関とか言ったけど、そいつは一なんなんだ」

「それは來て頂ければご説明いたしますので……大人しくついてきて頂けませんか」

男はそれまでの対外用のものから一変し、途端に有無を言わせぬような危険な雰囲気に変わった。それをじ取ったのは俺だけでなく、後ろにいる沙彌佳達にも伝わったようで、二人は怯えるように俺の服を摑んできた。

「お兄ちゃん、この人、なんなの」

男が無言で一歩踏み出す。スカウトだかなんだか知らないが、俺をどこかに連れて行こうということらしい。それも無理矢理にだ。

「おい、あんた。俺を無理矢理にでもどこかに連れていこうって魂膽なんだろうが、いいのか? こんな人目のある場所で、そんなことできるとでも思ってるのかい?」

ここが駅であるのを忘れていたのか、男はその雰囲気に一瞬だが、戸いのようなものを見せた。今だ。

「逃げるぞ!」

振り向き様に、後ろにいる二人の手を取って走り出した。

「あっ」

驚くような聲をあげたのがどっちなのか、俺には分からなかった。とにかく二人の手を引いて、自改札も無視して駅の外へ出た。土砂降りの雨の中、俺達三人は傘もささずに走る。走りながら後ろを振り向くと、男がようやく改札を出てきたところだった。

男もまさか、突然俺が逃げるとは思わなかったのか呆気にとられたようで、俺達を追うその足は鈍い。

「く、九鬼さん。どこに行くんですかっ」

土砂降りの雨のため、大聲で綾子ちゃんがぶ。

「學校だ。事を話して匿ってもらおうっ」

駅に向かった時と違って傘をさしていないため、雨水が服の隙間から服の中へと流れていき、瞬く間に服が濡れていく。。

「お、お兄、ちゃん。し、待ってっ」

「後しだ、頑張れ」

視界の先に校門が見える。まだちらほらと傘をさした験生達がいるのが分かった。駅から全力疾走し、ここまではせいぜい一分分とかかっていないだろう。

俺達はそのスピードを落とすことなく校門にった。校舎には先ほどとほとんど同じ場所に、擔任の小町ちゃんがいるのを見つけた。小町ちゃんならなんとかしてくれるかもしれない。

「小町ちゃんっ」

思わずんだ俺に、験生や引率の教師たちが注目してきた。それもそうだろう。こんな土砂降りの中、傘もささずに全力疾走で校門になだれ込んで來たのだ。それだけでも目立つというのに、ぶとなればなおさらだ。

「九鬼か、おまえ一どうした? そんなに息を切らして……それに傘もささずに」

全力疾走して舞い戻ってきた俺達に、小町ちゃんは困したように校舎から出てきた。

俺達は雨に打たれたまま雨よけにることも忘れ、両手を膝について肩で息をした。小町ちゃんの問いかけにも、ぜいぜいという呼吸以外、何も言うことができない。

「はぁはぁ、はぁはぁ……変な、奴が……」

やっとのことで絞り出した聲も息が絶え絶えで、それ以上はなかなかな言えずにいた。

「まぁいい。ずぶ濡れだから、とにかく職員室にこい。話はそこで聞こう」

小町ちゃんに促されて校舎の中へろうとしながら、チラリと校門の方へ目をやった。さすがの男も、ここまでは來ていない。

それにしても何者だったんだろう。知り合いでないことははっきりしているが、もしかしたら、ヤクザか何かだろうか。そんな連中と知り合わなくてはならなかったような出來事も全く記憶にないし、見當もつかない。

しかし、俺はこの時忘れていた。最近までよくじていた、漠然とした不安を。仮に忘れていないにしても、それが一なんであるのか、分からないままであったことだろう。

小町ちゃんに言われてやってきた職員室には、今日あった試の事後処理のため、教師達がせわしく行ったりきたりしていた。

俺達はずぶ濡れになった服を乾かすため、職員室脇にある教師達の憩いの場所と思われる革張りのソファーに座り、昔ながらのストーブを前に暖をとっていた。

「それにしてもさっきの人、一なんだったんだろう?」

沙彌佳が、小町ちゃんのれてくれたココアのカップを両手で持ちながら、ぽつりと言った。

「さぁな。俺にもよく分からん」

「でも、九鬼さんのことをスカウトしに來たって言ってましたよね?」

綾子ちゃんに相槌を打ちながら、俺ももらったココアを一くち口にふくむ。

二人とも學校指定のジャージを著込んでいる。俺も教室までジャージを取りに行き、三人揃ってジャージ姿になっていた。

小町ちゃんには駅でのことを一部始終、全て話し、念のため家に連絡をれてもらった。俺達からも連絡してみたが繋がらず、學校からの連絡であれば、こちらから説明する手間も省けると思ったからだ。

「九鬼。一応、こっちからも連絡をれておいたが繋がらなかったよ。もし帰るまでに連絡がこなかったら、私がおまえ達を家まで送るつもりだが、それでいいな?」

「ああ、ありがとう小町ちゃん」

「こら。先生と呼べ、先生と。ま、事は分かったから、しばらくはここでゆっくりするといい。そっちの二人もな」

「ぁ、すみません。お忙しいのに……」

沙彌佳と綾子ちゃんは二人して立ち上がり、頭を下げた。

「何、いいさ。にしても、二人とも良くできた子だな。特に君は、九鬼と本當にが繋がってるのかい?」

「どういう意味だ、それは。正真正銘、俺の妹だぞ」

「ふふ。まぁ、愚兄にして賢妹……よくあることじゃないか」

「……」

そりゃ、俺は沙彌佳よりも績が良いわけではない。正直な話、俺が沙彌佳の同じ歳の績を比べたら、本當に同じ筋なのかと目もあてられないものかもしれないが、そんなに酷くはないと思う。単純に、沙彌佳の方が良すぎるだけなのだ。

「くっくっ。不満そうな顔だな。別に績だけのことを言ってるわけじゃないぞ?」

俺はため息をつきながら、雨が降りしきる外へ視線をうつした。急激に気溫が下がって、暖房がないところは室でも寒い。沙彌佳と綾子ちゃんは早速小町ちゃんと意気投合したのか、雑談を始めている。

俺は窓に叩きつけるように降っている雨を見ながら、先ほどの黒スーツの男は去年起こったことと、何か関係があるのではという考えに思いを巡らせていた。

思えば、真紀の正だって良く分からない。あのは絶対に口を割りそうにないので、問い詰めたって時間の無駄だろう。

俺は真紀とあの黒スーツの人と、何か関係があるのではと考えてみた。今井の件にしたって、真紀は今井のことを知っていたし、二度と會うこともないとも言っていた。とてもじゃないが、普通の子高生が言うような臺詞ではない。あのとさっきの黒スーツ。何かしら関係があるような気がしてならない。

それに合わせて、斑鳩のことも気になる。そう考え出すと、學校で斑鳩と真紀が一緒にいたのも、いや、元々関係があったんじゃないのか? そう考えてしまっても仕方ないのではないのか、と次々に疑念は膨らんでいく。

証拠はないし、勝手な思い込みということもあるかもしれないが、一度、真紀を含めて探りをれてみた方が良い気がする。

沙彌佳と小町ちゃんが、再度うちに連絡をいれているのを橫目に、俺は窓の外を見つめながら再びココアを一口すすった。

午後六時半。俺達は今、小町ちゃんの軽に乗って家の近くにまで送ってもらったところだった。

「本當にここでいいのか?」

「ああ。その角を曲がったら真っすぐだし、ここらは一度ると一方通行になるから、車は々と面倒になると思うからな」

「そうか、分かった。すぐとはいえ、気をつけるんだぞ?」

「そうしますよ。それじゃぁ、また明日」

「先生。本當にありがとうございました」

「ありがとうございました」

俺につられて、沙彌佳と綾子ちゃんも禮を言い、車を降りた。雨は一時に比べたら小康狀態だが、まだ強く降っている。

「それではな」

ドアを閉める前にそう言い殘し、小町ちゃんは車を出していった。

「面白い人だったね、お兄ちゃんの擔任の先生」

「それは認めるが、々と苦労もあるけどな」

「クラスの擔任に先生になるんだったら、ああいう風な人がいいなぁ」

「綾子ちゃん。外面でわされない方がいいぞ。小町ちゃんはああ見えて、姐のように見せかけた、ただの人使いが荒いだけの教師だぞ?」

去って行った小町ちゃんの話題で盛り上がりながら、角を曲がった。この角を曲がれば、家まで真っ直ぐなのだ。

「あれ? うちの前に車、止まってる?」

「そう、みたいだね。でも、さやちゃんちのじゃないね。お客さんかな?」

角を曲がって視界の先、うちの家の前と思われる場所に一臺の車が停まっているのが見えた。俺達は先ほどのこともあって、怪訝に思いながらもその車の方へと歩いていく。

「やっぱりうちの前に停まっている……」

車は新車同然かのように綺麗にされていて、當然中には誰もいなかった。俺は念のため、攜帯を取り出して母と連絡をとってみた。電話の呼び出し音が聞こえるが、學校にいた時と同じで、出る気配は一向にない。そもそも、こんなにコールしているにも関わらず、母が出ないというのは今までになかったことだ。

(まさか……)

嫌な考えが頭をよぎる。去年あった、今井の件で何度も験した、あの嫌な覚だ。

「母さんはなんで出ないんだ」

悪態をつきながら足早に門を踏み越え、玄関のドア橫にある呼び鈴を押そうとしてやめた。

「お兄ちゃん?」

先ほどのこともあって、沙彌佳達も不安げだ。

俺は人差し指を口にあて、靜かにするようジェスチャーする。そっとドアの取っ手に手をやり、音を立てないようにしだけ開ける。鍵はかかっていなかった。

「開いてる……」

家に反応がないのに鍵だけは開いている。母さんが鍵を閉め忘れて出掛けた? いや、なくとも俺の記憶の限りでそんなことは、ただの一度だってない。

その隙間から家の中をそっと覗く。玄関には見知らぬ黒い靴が一足あり、廊下の先にあるリビングから何やら音がしているのが聞こえる。

一旦ドアを閉め、沙彌佳達の方を振り向いて言った。

「誰かは知らないが、中に誰かいる。表に停まってる車の人かもしれないが、母さんと連絡が取れない今は、強盜の可能もある。

念のため、おまえたちはここで待ってるんだ」

「ご、強盜って……もしそうだったら、警察に言った方がいいんじゃない?」

「待ってられるかよ。それに母さんが電話に出ないのは、もしかしたら強盜のせいということも考えられるんだ。

そんな時のためにも、おまえたちはここにいるんだ。もちろん、俺の考えすぎであるに越したことはないが、何かあったら時は、警察を呼ぶなりしてくれ」

「で、でもお兄ちゃん……」

「いいな」

有無をいわせぬよう、二人の目を見てはっきりと言った。

「う、うん……」

「心配するなって。ここ數カ月々あって、俺がナーバスになりすぎてるだけかもしれないんだ。ま、念には念をってやつだ」

肩をすくめ、俺は再び音を立てないようにドアを開けて、をすべらせるように中にった。

リビングと廊下を遮る曇りガラスのついたドアは完全に閉じられておらず、中からは誰かの話し聲がまだ聞こえている。

「……で…………す」

騒がしい音が聞こえないことから、多分強盜の類ではなさそうだ。かといって母と連絡が取れない今、最悪の事態を想像してしまうため、まだ安心はできない。

俺は息を殺し、足音も立てぬように廊下を進んだ。床はフローリングになっているため、靴下のすべる覚がうまい合に、歩く音を消してくれている。俺は一度深呼吸をして、わずかに隙間の開いたドアを一気に開けた。

「あら、あんたいつの間に帰ったの?」

突然勢いよく開いたドアに驚くような顔をしながら、母の遙子が俺を見た。

「……母さん、いたのか」

そんな母を見てほっとしたのもつかの間で、リビングには先ほど駅で出會った、あの男がいたのだ。

「おまえはっ」

不敵に笑う男を前に、俺はつい聲を荒げた。 家の前にあった車は、間違いなくこの男が乗ってきたものだ。だが、その男がどうしたって、ここで母と話をしていたんだ。こいつの目的はなんなんだ。

「ここで何してるんだ。あんた、一何者だっ」

俺のそんな様子に母は、怪訝にして見せながら俺を窘めるように言った。

「こら。お客様に向かってなんて口聞いてるの」

「奧様、どうぞお気になさらず」

男はそう言って、座っていたソファーから立ち上がる。

「先ほどは失禮をしましたね。私としても、まさかあそこまで警戒されてしまうとは思いもしなかったもので」

男が駅のことを詫びながら、オールバックにした頭を下げた。そこには駅で會った時とは違い、人を威圧するような雰囲気や態度は一切じられない。まさしくスカウトマンという風だ。

「そんなことはどうでも良い。なんであんたがうちにいるんだっ」

うっすらと、不敵に笑う男に俺は、さっき以上に聲を大きくして怒鳴る。

「ちょっとどうしたのよ。いきなり帰ってきたと思ったら、何そんなに興してるの? それと沙彌佳と綾子ちゃんはどうしたの。 一緒だったんでしょ?」

が飲み込めていない母は、目くじらを立てながらそんなことを聞いてくるが、俺は構わず目の前の男を睨みつけた。母はそんな俺の様子と態度に、客だと思っている男に平謝りしている。

依然として正が知れない男に対し、俺は和な態度など取れるはずもない。というのも、駅で一瞬だけ見せたあの雰囲気。あれは間違いなく、あの今井と同じ類のものだった。その験から、この男は普通じゃない、そう直したのだ。

そしてスカウトなどと稱し、こうしてうちにまで上がり込んでいるのは、どうにも好きになれない対応だ。もちろん、母がなんともなかったのは安心したのは事実だ。きっと出掛けていて著信に気付かなかったのだろうし、良く見れば、家の電話にも留守録があったことを示すランプが點滅している。間違いなく、俺達が電話したものだろう。

帰ってきた母がそれに気付いたのか、そうでないかまでは分からないが、それを聞く前にちょうどこの男が現れた。多分そんなとこだと思う。

だとしても同時に、これは神経質になりすぎているのかも知れないが、まるで今、人質を取られているかのようにも思えるのだ。もしこの男が本當に今井と同類だとしたら、この仮説は決して考えすぎとは思えない。

「そうそう申し遅れました。私、黒田くろだと申します。以後お見知りおきを」

黒田と名乗った男は、腰から折って、丁寧に頭を下げたのだった。

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