《いつか見た夢》第46章
今日のように寒い日は、空気が乾燥しているためにいつもなら晴れていれば遠くにうっすらとビルの赤い燈りが見えるが、生憎の雨のため、今日は何も見えない。夜の暗闇にまぎれ、雲が下りてきているためだ。
いつだったか綾子ちゃんと一緒に買ったジャズのCDを聞きながら、ぼんやりと夕方のことを考えていた。あの黒田とかいう男のことだ。
黒田は俺を、自の所屬する機関にスカウトするべく、わざわざうちにまで來たらしい。それは間違いない。問題はここからだ。あの男が言うには、自分は公的機関に裏に作られた組織の人間だというのだ。公安のようなもの、だと言っていたが、ようなものとは要するに、公安そのものではないということだ。
奴の話は、肝心な名稱などはぼかして話していたため、その話す容と事実は、かなり違うものと考えて良いはずだ。しかし、人を守ることに繋がる仕事であり、君のような人材がしいとは言っていた。これは本當かもしれない。
だがそれは本當だとしても、たかだか高校生である俺をなぜ選んだのかは気になって黒田に聞いてみたが、いわく、俺には常人にはない、特別な才能があるのだという。それが何かまではいうことはなかったがどれだけ勉強し知識を蓄えても、どんなにを鍛えたとしても、常人には培われることはない素質、とだけ答えていた。それと、高校生だとかそんなことは一切関係がないとも。
ずいぶんな謎掛けだとは思うが、黒田はそれ以上は何も答えることはなかった。それに奴の行には、スカウトしにきたというわりにどんな仕事なのかも全てぼかされて、一何をしに來たのかも良く分からない。ただ、まるでいう通りにしなければ、母さんをどうにかするとでも言わんばかりの狀況を作りだしたのにも、また疑問が殘る。
一言でいうと、奴はなんとも不気味だということだ。俺が學校から小町ちゃんに送ってもらっている間に、一応母さんにもその概要を話したようだが、裏に作られた機関ゆえ、式な名稱などはやはり伝えられないとのことだった。
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これが人づてに聞いた話なら、なんとも眉つばな話にも思えるが、どうにも奴の話すそこには、真実味がじられて仕方がない。
コンコン
そのとき、ドアをノックし間いれず沙彌佳がってきた。こいつは俺に何かしら変化があると、必ず部屋にやってくる。もはや慣例と言って、差し支えない。
「よう、どうした」
「ん、特に何かあるってわけじゃないんだけど」
「そうか」
「うん」
短いやり取りの後、俺達の間に沈黙がおりた。沙彌佳からしてみれば、本當は何かあるはずなのだ。間違いなく夕方の黒田のことであるのは、聞くまでもない。
沙彌佳と綾子ちゃんには、黒田との間で話されたことはいっていない。こんなことを言ってもどうしようもないし、俺にしたって、うかつにそれを信じるほど馬鹿ではない。たとえ、それが真実であるかもしれないにしてもだ。
「あー……なんだ。試、かってるといいな」
沈黙に堪えられなかった俺は、流れているCDのボリュームをしだけ絞りながら言った。沙彌佳は一言頷きながら、ベッドに腰かける。
「……おまえ、夕方のこと気にしてるんだろう?」
「……うん」
こいつは俺のことはとにかくなんでも知っておきたい分だ。しかも家に來ていたのがまさか、あのスーツの男とは思わなかっただろう。もちろん、俺もそうだったが。それだけに、俺と黒田の間でわされた話が気になって仕方ないのだ。
結局あの後、ほんの十分か十五分そこらで黒田は帰っていった。その間も、沙彌佳と綾子ちゃんは玄関の外だったのだ。家の中から黒田が出てきた時には、もしかすると恐怖をじたかもしれないし、何事もなかったことに逆に不審に思ったかもしれない。
「実は俺にもよく分かってないからさ、あんまり気にするなよ。まぁ、あの黒田って男が俺をどこだかの機関にれたいってのは、本當だったみたいだけどな。それ以上は特に話してないぞ」
「うん……」
……まずったな。いつもなら、ここからあれこれと聞いてくるのに、俺へのけ答えもたった一言とは。
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俺は小さくため息をついて、ベッドに腰かけた沙彌佳の隣に座った。二人分の重によって軋んだスプリングのせいで、沙彌佳もそれに合わせてわずかに上下に揺れた。
「……おまえのことだから、何かと心配してくれてるんだろうが、俺は大丈夫だ。別にやつの口車にも乗せられることもないしな」
「うん」
顔をやや下から覗き込むようにして言った俺に、沙彌佳は切れ長の目を橫に流すように見た。
その仕種は俺が知りうる限り、初めて見せるもので、今までの沙彌佳のどんな表でも、仕種でもなかった。そんな初めて見せた表に、俺は思わず息を飲む。こんなのを見せられたら、どんなに屈強な男でも一瞬で墮ちてしまうような、そんな表だった。
「お兄ちゃんさ、前に話した私が見た夢のこと、覚えてる?」
「夢?」
「そう。お兄ちゃんがあやちゃんのストーカーを追っかけてた時に私が見た、夢の話」
沙彌佳は表を崩さず、目も瞬き一つせずに俺を見つめた。突然の振りにし考えたみたが、確かにそんなこともあったのを思い出した。俺が青山たちと共に生の家に行った日、意図せず今井と鉢合わせて格闘した日のことだ。帰った夜に、俺に抱き著きながら、最近見るという夢の話を沙彌佳はしていたはずだ。
「そんなこともあったな。確か、俺とおまえが何かに巻き込まれて……って夢だったか。でも、そいつがどうしたんだ?」
「最近ね、またあの夢みたいなのを良く見るんだ……」
「みたいなの?」
「うん。自分でも良く分からないんだけど、夢の中ではなんでかそれがあの時に見た夢の世界と同じだって分かってるんだ……。
でね、昨日の夜にまたその夢を見ちゃったんだ……」
「……そうか」
瞬きもせずに、切れ長の目でそんなことを表一つ変えずにいう沙彌佳に対し、俺はたった一言、それだけしか言えなかった。そんな風に見つめられたままだと、そうなっても仕方ないのかもしれないが、沙彌佳の有無をも言わせない雰囲気は、こちらの思考をも停止させてしまうようだった。
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「……これは昨日見た夢じゃなくて、別の日に見た夢の中で出てきたものなんだけど、今日會ったあの黒いスーツの人がね、私のその夢の中に出てきたの。夢はすごく斷片的だし、最初は見間違いかとも思ったんだけど、あの人の行とか雰囲気とかが、そうじゃないって……夢に出てきた人だって。だからか分からないけど、あの人とお兄ちゃんは、関わっちゃ駄目だって、そんな風に思ったんだ。
その夢の中では、あの人に連れられてお兄ちゃんは、どこかすごく遠くに行っちゃうの。どんなとこかは分からなかったけど……とにかくお兄ちゃんとあの人は、絶対に関わったら駄目なんだって……そう思っちゃったの」
最後の方は半ば悲痛さすらじさせ、何かを訴えているかのように聞こえた。俺が遠くに行くだって? あの男と関わることで? まさか。そんなこと、あるはずがない。俺はあんな男と付き合うなんざ、頭ないのだ。
「大丈夫だよ。前もいったろ? 俺はおまえとは離れないって。そりゃぁ、いつまでおまえと一緒にいられるかは分からないが、それでも俺とおまえが、真に離れることはないんだ。
第一、そいつは夢の話だろう? そんなのに振り回されるなんて、ちょっと、らしくないんじゃぁないのか。いつもだったら、笑い飛ばすような話だ」
沙彌佳はこの時、やけに不安そうな表をしていて、今にも泣き出しそうな顔になっていた。
「お、おい、沙彌」
全てを言い終える前に、に沙彌佳の腕が廻された。
「――っ」
そのまま俺は、沙彌佳によってベッドの上に倒される。されるがままだった俺は、一瞬何が起こったのか分からなかったものの、それでいながら頭のどこかでは冷靜だった。
それにしても、沙彌佳がこんなことをするなんて一どうしたというんだろう。そんな疑問が浮かびはしたが、今はそれを言うべき時ではない。今はこいつの好きなようにさせてやろう。
こういう時は、いつものようにそっと頭に手をやるというのが、俺達の暗黙の了解だったからだ。
「……」
今日の試のために髪を切った沙彌佳だったが、それでもまだ十分に長いといえるその髪を、いつものようにゆっくりと梳いてやる。こいつはこうされると、気持ちが良いと綾子ちゃんに話していたのもあって、俺はこうしてやるのが一番だと思ったというのもあった。
「……ごめんなさい」
「ん? なんだ、いきなり謝って」
「違うの……本當はそうじゃないの」
「今こうしてることがか」
沙彌佳は俺の上で、首を振った。
「なら、俺がどこかに行くとかって話か?」
それにも首を振った。
「違うの。その話は本當だよ……」
「なら、何に謝ったんだ?」
當然の疑問を口にすると途端に口をつぐんだようで、代わりに俺を抱く手に力がこもる。
「夢の話は本當なんだけど、それじゃないの、私が本當に嫌だったのは……不安だったのはそうじゃないの。
……お兄ちゃんと私がね」
そう言っていったん言葉を區切った。俺も次の言葉を待ちながら、部屋の天井を見た。
「……お兄ちゃんと私がね、こ、殺し合っちゃう夢だったの。何年後か分からないけど、大人になっててね、お互い銃を突き付け合ってて……」
「俺とおまえが?」
思いもしない言葉に、天井を見つめていた目を沙彌佳の方へやった。に顔を埋めながら、沙彌佳は小さく頷いた。
「なんでだ?」
今度はそのままで、小さく首を振った。
「分からないよ、私にも……。でも今日あの人が現れてから、昨日見た夢が、もしかしたら本當になるんじゃないかって、すごく不安で……。
だって、私、夢の中のことなのに、持った銃のとか重さとか、目を覚ました時に覚えてたの。だってそんなのおかしいよ。私、今まで銃なんて、ううん、モデルガンだって持ったことないのに。
それ以外にも、その時の夢の中の景がすごくリアリティがあって、お兄ちゃんが苦しそうな顔をしてた……。なのに私は、最後にこう言うの。『さよなら、私の兄だった人』って……。そんなの有り得ないよ。私がお兄ちゃんにそんなこというなんて。
ねぇ、私とお兄ちゃんはちゃんとは繋がってるよね? 他人だったわけじゃないよね? なんであんな夢……」
いつの間にか沙彌佳は息を荒くし、興していた。そのうえ、鼻をすする音も聞こえた。きっと、極まって泣いてしまったのだろう。
「あの人が現れた時、もしかしてあの夢も本當になるかもしれないって考えたら私……」
沙彌佳は普段、なくとも俺の前ではいつも笑っているので、忘れてしまいがちだが、ちょっとしたことで良く泣くやつだったと思い出した。言葉にしてしまうと斷片的になってしまうものでも、たとえそれが夢だとしてもそこにリアリティがあると、それは言葉では、その時じたことの十パーセントだって伝えられないものだ。それがショックの大きいものであればあるほどだ。當然、それは良い意味でも、悪い意味でも。
こんな風にするというのは、よほどその夢にうなされたなりしたのかもしれない。もしかしたら綾子ちゃんに聞いた、最近沙彌佳が學校で上の空だという理由も、本當はここにあるのかもしれない。
「……なぁ。最近、沙彌佳がよく上の空でいるって話を聞いたけど、もしかしてそれが原因なのか?」
ただじっと、時折鼻をすすらせている沙彌佳が喋りだすのを、何も言わずに待った。
「……それ」
「ああ」
「その話、あやちゃんから聞いたんだね」
「ま、な」
そっかと短く言い、沙彌佳は俺の上から頭をあげて、に巻き付けていた腕を離した。そして、やはり涙を流していたのか、
俺からはなるべく見せないように目元を何度も拭いた。それからしばらくの間、何も言わずに何度も上を見たり、下を見たりした後で、ようやくぽつりと呟いた。
「ね、お兄ちゃん」
「ああ」
「お兄ちゃんってさ、あやちゃんのこと好きでしょ?」
「はぁっ!? な、何言い出すんだ、突然っ」
何を言うかと思えば、こいつはいきなり何を言い出すんだ。思わず俺は聲を大きくしてしまっていた。くそ、これでは肯定しているみたいだ。
「べ、別に俺は綾子ちゃんのことは……」
「あは、お兄ちゃん。それ、そうだって言ってるのと同じ反応だよ」
小憎らしい顔をして見せながら、沙彌佳はふふんと鼻をならすかのように笑う。一なんなんだ、こいつは。つい、今の今まで俺に抱き著いて泣いてたかと思えば、今度はわけの分からないことを言い出して人を混させようとするなんて。
「やかましい。大、そういうおまえこそどうなんだ。こいつも綾子ちゃんから聞いたことだが、最近、おまえは學校で注目の的らしいじゃないか」
「うん、らしいね」
「らしいっておまえ、隨分と他人事だな。沙彌佳なら彼氏の一人や二人、簡単にできるんじゃぁないのか」
「そうだとしても、全然興味ないよ。どれだけ注目されたって私、そんな気ないもの。それじゃ意味ないでしょ?」
「……ま、それもそうか」
確かにその通りだ。周りがどれだけ変わったと囃はやし立てようが、本人にそれを意識してやろうという意思がなければ、結局のところ、沙汰というのは意味がない。まぁ、そのというのをまともにしたことがない俺がこんなことを言っても、あまり説得力がないかもしれないが。
「沙彌佳に春が來るのはいつかねぇ」
苦笑まじりにおどけてみると、急に今までの明るく振る舞った雰囲気から一転、突然顔を赤らめながら、俺を見據えた。
「……私さ、周りが変わったっていうのが本當だとして、その理由、なんとなく分かるっていうか、知ってるかもしれないんだよ」
「そうなのか?」
「うん。私ね、好きな人、いるんだ」
どこか訴えかけるような眼差しで、沙彌佳はそういった。まるでその対象が俺であるかのように。
しかし、俺はすぐにその考えを打ち消した。まさか、そんなことはいくらなんでも有り得ないだろう。第一、沙彌佳はまだそれが誰かいっているわけでもない。
「……そうなのか?」
「うん。ね、誰か気になる?」
直前にまで見せていた真顔から一転、また貓か何かを思わせるような顔で、沙彌佳がを再びり寄せてきた。
「……別に。まぁ、おまえがそう思ったんなら、いいんじゃぁないか? だが、そいつが斑鳩みたいなタイプなら、俺は絶対に許さないけどな」
言った後で、あっと小さくいた。何をいってるんだ俺は。別にとか言っておきながらそれでは、気にしてるみたいだ。
「あはは、お兄ちゃんなら言うと思ったよ。でも大丈夫。人柄とか格は目に狂いはないはずだから」
「なら良いんだがな。この際だから、そいつがどんな奴なのか聞いておこうか」
自信ありげに言った沙彌佳に、俺も聞き返した。もう十何年も兄妹をしているのだ、いまさら言ったことを撤回したとしても、どうせ本心は見抜かれているだろう。だったら、そいつがどんな奴なのか探っておいて損はないはずだ。
「あはっ、やっぱり気になってるんだ」
「やかましい。それでどうなんだ」
再び、先ほどまでの貓を思わせるような顔をした沙彌佳は、そいつのことを思いだしながら、語り始めた。
「その人の全的なイメージはねぇ、ずばりお兄ちゃん、かな。雰囲気がすごく良く似てるんだぁ」
「俺に?」
どんな奴かと思えば、まさか俺のようなタイプだって? 正直、こいつはあまり笑えない。まさかよりによって、俺のような奴を選ぶなんて、こいつは何を考えてるんだ。
「長もね、お兄ちゃんと同じくらいあるんだ。重はちょっと分かんないけど、格もすごく良く似てるし、多分同じくらい。だから最初、お兄ちゃんと思っちゃったくらいだよ。それに話し方とか、どことなく仕種も似てるんだよ」
「そいつ、同級生か?」
「ううん。お兄ちゃんと同じ高校生だよ。それも春から三年生になるの」
「どこの學校に通ってるんだ、そいつは。そこまで俺と共通點があると、逆に興味もっちまうな。一度會ってみたいもんだ」
「……そのうち、會えると思うよ」
でも、と付け足し、會わない方が良いのかもしれないねとも言った。どういう意味だ、それは。
「ま、そいつが本當に俺と似たようなやつだとして、もしも中まで俺と同じだったら、衝突は避けられなさそうだがな」
くつくつと笑い、そいつのことを皮った。片や妹として、片や人として一人の人間に慕をもった人間同士、上手くいく時もあるだろうが、時にそれがゆえに間違いなく衝突してしまうだろう。それがお互い自分に似たり寄ったりの人間であれば、嫌でも見たくない自分の嫌な部分も見ることになるのだ。それは間違いなく起こる。間違いなくだ。
「ま、つまるところ、おまえにも春が來たかも知れないってところなんだな」
「だけどね、その人も好きな人がいるかもしれないの」
「なんだ、だったら話は簡単だ」
「どういうこと?」
「単純な話さ。おまえがそいつを奪い取れば良い。好きな奴がいるかもしれないってことは、まだ付き合ってるわけじゃぁないんだろう? だったら、まだまだチャンスはあるぜ」
沙彌佳は一瞬曇ったような顔になり、し戸いがちな聲で言った。
「……いいのかな、本當にそんなことして。だって、その人には私のことを好きではいても、あくまで友達っていうか、妹的存在でしかなさそうなんだよ。
勝ち目なんて、あるかな……その人には明らかに本命の子がいて、その子もその人のことが好きみたいだし」
「なんだそいつ、両想いなのか。だったらとっとと付き合っていれば……っと、失言だな」
奪い取れなんて言っておきながら、それを真っ向から否定するようなことを言うのは、さすがに憚れられる。
「ま、そいつがまだ付き合っちゃいないんだったら、十分、おまえにもその権利はあるってもんさ。やるだけやってみろよ。そいつが俺に本當に似た奴であるなら、俺もアドバイスくらいはしてやるからさ」
そういい終えたあと、ふと俺達と綾子ちゃん、それに斑鳩と遊んだ日のことを思い出した。あの時はなぜだか、斑鳩が沙彌佳に対して口説こうとしているのを見て、なんとも嫌な気分になったものだった。不思議と今回はそんな気分にならなかったのだ。
まだそいつとは顔を見たこともなければ、名前すら知らないからかもしれない。もしくは、まだ俺がそいつに対し、なんのも持っていないからかもしれない。やはりあの時に抱いたは、斑鳩が沙彌佳を口説こうなどということへの、ただの嫌悪からくるものだったのだろう。
しかし、とも思う。だとしたらあの時、俺が沙彌佳のにってしまったときのことは、どう説明するべきだろうか。あの時に見た、沙彌佳のにつけていた下著はようするに、そいつへの心が原因なわけだ。いつもいつも、お兄ちゃんと慕う沙彌佳に、あんな風に心境の変化をもたらせたそいつへの嫉妬……とでもいうのか、あれはどう説明すればいいのか……。
ため息をついて冷靜になる。馬鹿馬鹿しい。そんなのはきっと気の迷いに決まっている。事実、今はそんなことなどなんとも思っていないし、気付けば、この數日間に変に沙彌佳を意識していたはずなのに、今はこれと言って、意識すらしていないではないか。やはり俺が変に意識しすぎていただけなのだ。そうであるはずだ。
「……うん、分かった。お兄ちゃんがそういってくれるなら……そういうなら、私、頑張ってみるよ。たとえそれで失うものがあったとしても」
そう告げた沙彌佳の小さく囁くような聲。そこには今までにないほどの、決意のようなものをじさせる言葉だった。
沙彌佳と綾子ちゃん二人の高校試の日から、早いもので十日も過ぎようとしていた。今日はその合格発表の日で、明日には中學の卒業式ということになる。毎年のことなのだろうが、教師達は師走よりも師走な狀態だろう。
そんな中、自分のけ持ったクラスの生徒達の卒業というのは、彼らにとっても肩の荷がおりる節目ともいうべき日だと思う。
沙彌佳は、合格発表の今日、いつになくそわそわとしていた。それもそうだろう。二人にとって、人生の節目の一つにもなるのだ。
「朝っぱらから、そんなに張するなよ」
今日は卒業式前、最後の登校であるが、そんなこともあって張した面持ちの沙彌佳に俺は、苦笑しながら聲をかけた。綾子ちゃんなら分かるが、験の日はあんなに自信満々だったというのに、沙彌佳までそんなに張することはないと思う。
「気楽なお兄ちゃんは黙ってて。それより早く學校行かないと」
「おっと、そうだったな。それじゃぁ、帰ってきたら結果、教えてくれな」
結果がどうあれ、明日の卒業式が終われば二人は春休みだ。俺はまだ來週までは學校がある。今は目先のことでいっぱいいっぱいの沙彌佳だが、來週には俺と登校できないということに、あれやこれやとブーたれるに決まっているのだ。
ちなみに合否は今日、學校で擔任から伝えられるのだそうだ。
「ほらほら、あんた達。早く行かないと遅刻するわよ」
「ん、ああ。それじゃぁ、いってくるよ」
「いってきまーす」
「はい、いってらっしゃい。あんたも綾子ちゃんも、きちんとかってるといいわね」
母にいつものように見送られ、俺達は家を出る。しばらく行くと珍しいこともあるもので、沙彌佳のやつがいつもなら腕にしがみついてくるのに、しがみついてこないことに気が付いた。歩くペースもいつもより遅く、俯くように歩いていた。俺は小さくため息をつき、歩幅を沙彌佳に合わせた。
「やれやれ、おまえって奴は……」
沙彌佳の前に、いつもしがみつかれている右腕をそっとやった。
「ぁ、お兄ちゃん」
「ったく。おまえは気を張りすぎだ。もちっと楽にいけよ。おまえは俺の中學時代よりも、はるかに績がいいんだ。大丈夫だ。おまえ……沙彌佳なら必ずかってるさ」
「お兄ちゃん」
俯かせていた顔をあげ、安堵ともとれる表をしてみせた後、いつものような、大好きというのを表現しているものと違い、控えめながらに、そっと腕を絡めてきた。
たかだか験一つでこんなにまでこいつがしょげてしまうなんて、不思議な気持ちにはなるが、だからこそ何も言わずいつものようにしてやるのが良いと俺はじた。
「ありがとう……お兄ちゃん」
「いいさ」
特に急ぐこともなく、いつもよりしだけ歩くスピードを緩めながら、いつもの道を俺達は歩いていった。
綾子ちゃんの一件以來、久しぶりに中學校まで沙彌佳を學校まで送り屆けた。中學生活最後の平常日というのもあって、俺はご褒という気持ちでそうしたのだ。とはいっても午前中で學校は終わるそうだが。
沙彌佳には、綾子ちゃんによろしくいうように言づておいて、俺は足早に駅へと向かった。中學校が見えなくなったところで俺は角を曲がる。本來なら必要のないことだが、送り屆けている時にそこに見知った奴の姿があったためだった。
「こんな朝っぱらからご苦労なこったな」
そいつを見るやいなや、俺は吐き捨てるように言った。
「おはようございます」
そう言って丁寧に腰から曲げて頭を下げたのは、あの黒服を著た黒田だった。この男は最近ことあるごとに俺の近辺に出沒するようになり、俺以外には分からないような場所にひっそりと佇んでいるのだ。
俺も俺で、なかばストーカーにでもされているような気分になりながらも、結局は黒田のいそうな場所を特定してしまっているのだが。
「悪いがあんたのいる機関とやらには、るつもりはない。さっさと消えてくれ」
黒田は下げていた頭を上げ、口元をわずかに吊り上げて言った。
「ふっ。でしたら、わざわざ私のところに來る必要などないでしょう。こうして來るということは、あなたにもそのような意思がおありということなのでは?」
「そっちの都合の良いように解釈しないでくれよ。俺はそんなこと思っちゃいない。あの日から外に出るたびに、あんたを見かけるようになって以來、いい加減欝陶しくなっただけだ。
このまま、これ以上俺に付き纏うってんなら、こっちもしかるべき処置をとらせてもらう」
「しかるべき処置とは警察に行く、といったことでしょうか」
「さぁな」
黒田の問いをけ流しながら、俺は踵を返した。
「おや、どこに行かれるのです」
「見りゃぁ分かるだろ、學校だ。とりあえず、忠告はしておいたからな」
「では私からも一つ。あなたはどのみち、私に著いてきていただくてはならない時が來る、ということだけ伝えておきましょう」
俺は眉をひそめ、顔だけ黒田の方を向いた。奴の顔には、まるでこれから起こることを予見しているかのような、気にらない微笑が浮かんでいた。
もう授業も今日と明日、あとは來週の何日かで今年度も全ての行程が終わる。そしてその今日の授業も、さっき終わった。そんな俺は今、青山の家に來ていた。
「これがその例の人?」
「ああ」
青山がパソコンの畫面を指差しながら聞いてくる。その先には、例の人と呼ばれた男、黒田の姿があった。これは今朝、沙彌佳を學校に送り屆けたあと、黒田と會ったときのものだ。
そう、俺は二、三日前に青山に頼んで、綾子ちゃんの事件の時に手にれた、あのカメラをバッグに目立たぬように取り付けておいたのだ。きちんと撮れるか不安はあったが、畫面に映し出されている映像を見るかぎり、功だったようだ。
「こいつでなんとか、この人がどんな奴なのか調べてみてほしいんだ」
「うん。ここまではっきりと映ってるなら、大丈夫だよ。問題はどこに所屬しているかなんだけど……」
「時間、かかりそうか?」
指を顎にやって考え込んでいる青山に、小さな聲で聞いた。
「うーん、さすがに報がこれだけじゃ、一日二日では無理だよ。おまけにサングラスまでかけてるしね。でも、それでも決して分からないわけではないから、九鬼くんにいったことが本當なら、時間はかかるけど、なにか分かるはずだよ」
「そうか。まぁ、格段急いでるってわけでもないし、気長に頼む」
「うん。でも、また何か事件に首突っ込んでるの?」
冗談めかした口調で、青山はマウスを使って畫面を作している。その作スピードもあってのことだろうが、俺には何をやっているのか、さっぱり分からなかった。
「事件、てなわけでもないぜ。それと別に首を突っ込んでるわけでもな。
たださ、何があってもいいように何かしら対策はしておくものだろ? 今回は他の誰でもない、俺が被害者なんだ」
そう、今回は俺が被害者なのだ。なにか直接的な被害を被ったわけではないが、それに対して対抗手段をこうじておくというのは、決してやぶさかなことではない。もし何もなければ、それはそれで良い。
しかし萬が一、家族や綾子ちゃんに迷がかかるかもしれない可能も視野にいれておくと、やはり予め、手を打てるだけは手を打っておいた方が良いに決まっているのだ。
「あ、そうだ」
「どうした?」
突然、青山は何かを思い出したようで、座ったまま俺を見上げた。
「うん、ほら、生義則の家に行ったときに、九鬼くんが見つけた小瓶にっていたのこと」
「ああ、あれのことか」
俺はそんなこともあったなと思いながら、相槌を打った。個人的には、すでにあの事件は終わったものだと考えている。だから、もうどうでも良くなっていて、言われるまですっかり忘れていた。
「前々から言おうとしてたんだけど、九鬼くんがああなっちゃって、僕もすっかり忘れてたんだけど、あの薬の効果が」
「青山」
話が長くなりそうだとじた俺は、青山の言葉を遮った。
「あの事件はもう終わったんだ。いまさら、そんなことを蒸し返さなくてもいい。多分だが、あの薬を今井のやつは服用していたってのは、ほぼ間違いないだろう。生だった可能もあるけどな。とにかく、もう終わったんだ、それでいいさ」
「う、うん」
しまくし立てるように言って、青山からの話を終わらせた。俺とて、あの時の刺傷事件のことをいつまで引きずっていたくはないのだ。それに大まかな効能の話は一度聞いているし、それ以上はもう必要のないことのはずだ。
俺はいつしか、刺された右の腹を押さえていた。あの事件から四ヶ月しか経っていない。どこかズキズキと疼くような覚が、時折するのだ。そういう時は限って、奴の話題になったときだ。
勘の良い青山のことだ。俺が思ったことにも気付いただろう。事実、このことにはもうれることはなかった。
家に帰ると、沙彌佳がいつものように玄関に出迎えてくれた。いつ見ても、その様は犬みたいだ。しかし今日は、いつにも増して笑顔で、実に晴れやかだった。
「おかえり!」
「やけに嬉しそうだな。もしかして、かってたか?」
「うん! 私もあやちゃんも両方だよ!」
「お、やっぱり綾子ちゃんもかってたか」
朝とは打って変わって元気にしている沙彌佳に、俺も不思議と嬉しくなった。やはりこいつはこうでないといけない。
かった時のことを今起こったことかのように喋る妹に相槌を打ちながら、俺は自室に戻って荷をベッドに放り投げる。部屋に戻ると、隨分とが整理されていることに気が付いた。もちろん、そんなことをするのは沙彌佳以外にこの家にはいない。
(やれやれ。嬉しさあまってってやつかな)
苦笑しながら小さくため息をついて俺は、制服から私服へと著替えた。下に降りる前に攜帯を制服から取り出して、綾子ちゃんに電話をかける。數回のコールのあとに、聞き慣れた聲が出た。
『はい、もしもし』
「よう綾子ちゃん。今いいか?」
『はい。全然大丈夫です』
「まぁ、単刀直にいうとだな、あれだ。沙彌佳から聞いたよ、合格したんだって? これで四月からは晴れて先輩後輩の仲だな」
『あ……ありがとうございます。九鬼さんのおかげです、ほんとに』
「いや、結局は君の実力がそこまで及んでたわけだしな、俺のおかげってわけじゃぁないと思う」
『それはそうかもしれませんけど、九鬼さんが教えてくれるまで分からないことも結構ありましたし……と、とにかく九鬼さんのおかげでもあるんです!』
話ごしに、なんとなく顔を赤らめながら必死に言っている綾子ちゃんを想像し、つい笑いが出た。
『え? あ、あの九鬼さん?』
「いや、相変わらず変なところで人を持ち上げるんだと思ってな。別に他意はないよ」
くつくつと笑う俺に、綾子ちゃんは可く唸るような聲をして、それがまた俺の笑いをった。
「まぁいい。とにかく、四月からはよろしくな」
『うう、はい』
その時、下から沙彌佳の俺を呼ぶ聲が聞こえた。
「お兄ちゃーん」
俺は通話口を押さえながら、返事をする。
「綾子ちゃん、ごめん。下で妹のやつが呼んでるみたいだから、切るよ」
『あ、はい』
「綾子ちゃん。合格おめでとう」
一段と元気な聲で、ありがとうと言った綾子ちゃんの聲を合図に、電話を切った。彼の元気な聲を聞くと、別に自分のことではないが、なんだか自分自のことのように嬉しくて、こっちの気持ちも弾んだ。
「お兄ちゃーんっ」
「ああ、今行く」
沙彌佳の催促の聲に返事をしながら攜帯を機におき、一階へと降りていった。きっとまだその嬉しさをまだ表現し足りなくて、うずうずしてるんだろう。
俺は、やれやれと思いながらも妹に甘えさせてやろうと、穏やかな笑みを浮かべながら小さなため息をもらしたのだった。
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