《いつか見た夢》第48章

鳥のさえずり聲とともに、俺は目を覚ました。東側の窓からは、カーテンの隙間から朝のりがもれてきている。

さわやかな朝といってもよいのだろうけれど、そんなのとは関係なしにまだ悸が激しいような気がしてならない。もちろん、そんなのは昨日の余韻が殘っているためで、実際にはそんなことはないのだろう。けれど、なぜかそうじられて仕方がないのだ。

ベッド脇にある時計を見れば、まだに七時前だ。昨晩はあまり寢付けず、せいぜい、ほんの二、三時間ほどしか寢ていない。

というのも、原因は明らかに昨日の夕方のことに起因している。あの河川敷の堤防道路でのことだ。そのことをひたすら考えているうちに、気付けば深夜も三時を大きく過ぎていたのだ。

寢ても覚めても、という言葉があるが、今の自分はまさしくそういうに相応しく、沙彌佳はなんであんなことをしたのか、そのことだけが頭の中を堂々巡りしていた。昨日の夕方から、俺には沙彌佳の気持ちが読めずにいるのだ。

なぜ俺に? 好きな奴がいるんじゃないのか? にとって初めてというのはすごく大事であるというのはわかるので、だとすれば、あいつの好きな奴というのは俺なのか?

だが、俺とよく似ている奴だとも言っていた。だから俺をその前座にしたという可能は? それとも、そんな奴がいること自が噓だという可能はどうだろう。しかし、そんな噓をあいつが? 俺にとっては、とても仲の良い妹というのが正直なところで、それ以上はない。そのはずだ。なのになぜあんなに悸を激しくしていたのだ?

あいつにとって俺が理想であったとしても、あくまで兄妹としてではなかったのか? もしくは、俺がそう考えていただけで、実際にはあいつは俺をそんな風には見ていなかったというのか? だからあんなキスを……。

そこまで考えると途端に思考が停止してしまい、それ以上のことを考えられなくなる。そんな狀態が昨晩から続いているのだ。

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俺は足で布団をはがして上を起こし、思い切り背びをする。しかしあまり寢付けなかったためか、いまいち朝起きたという気分にはならない。

「……くそ。どうしてなんだ」

寢起きも一発目から悪態をつきながら、俺はベッドから立ち上がって部屋を出た。頭が軽く混している今のままでは、どうせ

二度寢なんてことはできはしないに決まっている。だったら起きて、夜は早めに寢た方が良いだろう。

部屋を出た俺はチラリと沙彌佳の部屋の方を一瞥し、一階に降りた。リビングには父さんが起きていて、新聞を広げている。

「おはよう」

「ああ、おはよう。どうした? 今日は休みなのにやけに早起きじゃないか」

「なんだか夜、あまり寢付けなくて。いっそのこと、もう起きちまおうと思ってさ。それに腹も減っちまってるし。母さんは?」

「まだ寢てる」

「そっか。父さん、パンいる?」

「そうだな、もらおうか」

そんなやり取りをしつつ、トースターにパンを二枚いれて焼き始める。手持ち無沙汰になった俺はコーヒーでもいれようと、コーヒー豆もついでに挽きはじめた。

「……ところで」

「ん?」

「綾子ちゃんは今週は來ないのか?」

「ああ。卒業ってのもあって、親父さんと一週間ばかし一緒に過ごすんだと」

「そうか」

俺は頷きながらコーヒーをセットし、スイッチをいれた。後は自で機械がやってくれる。

「父さんたちこそ、今日はどこにも出かけないのか?」

「ああ。まぁ、もしかしたら後で出かけることになるかもしれん。しかし、今のところはその予定はないぞ。母さん次第だな、そのあたりは。

しかしなんだ? どこか出かけたいところがあるのか?」

「いや、そういうわけじゃぁないよ。最近よく休日になると出かけてるだろ? だから今日もそうなのかと思っただけだよ」

俺は言うだけ言うと、洗面所に行って顔を勢いよく洗った。桜の季節になりつつあるが、蛇口から出てくる水はまだ冷たい。

顔を洗い終えると、ちょうどよくパンが焼き上がった音がした。俺は顔を拭いた後、パン皿に焼けたパンを乗せ、父の前に置く。

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「ハチミツで良い? 後はマーガリンくらいだけど。ジャムは昨日きれた」

「ああ」

ついでに差し出したハチミチとマーガリンを皿の橫に置き、コーヒーをカップにそそぐ。

「砂糖は?」

「いらん。牛を多めに」

「あいよ」

注文通りに牛をいれて、父の前においた。そこで俺もようやく席につき、焼き上がったパンにマーガリンを塗ってハチミツを垂らしていく。

「んじゃぁ、いただきます」

父さんはまだ新聞を読んで、パンには手をつけていない。その代わり、煎れたてのコーヒーをすすっている。俺は特に話すこともなくなって、一人黙々とトーストにかじりつきながら、時折コーヒーを一緒に胃にいれていく。

「昨日、沙彌佳と何かあったのか?」

不意に父さんはそんなことを聞いてきた。俺は食べるのを止め、ついさっきまで、寢起きにまで考えていたことがまた脳裏に浮かんでくる。別に父さんには悪気があって言ったわけではないだろうが、今はあまりしたい話題ではない。ようやく束の間だが、忘れていることができていたのだ。

かといって、聞かれて答えないわけにもいかない。聞かれてしまったものは仕方がないのだ。けれど、なんと答えればいいのだろうか。當然だ、俺自が未だよく分かっていないのだ。それをどう説明すればいいのだ?

ありのまま起こった出來事を言えば気は楽になるだろうが、まさか、沙彌佳にキスされましたなどと言えるはずがない。

もしそんなことをしようものなら、父さんのことだから卒倒もしなければヒステリックになることもないだろうが、ありもしない疑を持たれてしまうだろう。そうすれば、母さんの耳にるのも時間の問題だ。

両者の格を考えれば、父さんならまだしも、母さんに知られるのだけは絶対にまずい。間違いなく沙彌佳と俺を引き離すために、離婚の二文字を思い起こすに違いない。

第一、俺自がこのことに関して、まだ現実を飲み込みきれていないのだ。そんな狀態で、うかつに話すわけにもいくまい。

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「……まぁ、ちょっとな」

視線を父さんから外して、お茶を濁す。ようやく父さんは読んでいた新聞を折りたたみ、し冷めてしまったパンにハチミツを塗って食べ始めた。

「なんだ、また珍しく喧嘩か」

「いや、喧嘩はしてないよ。ただ、なんていうのかな……あいつのことがよく分からなくなってさ」

「分からない?」

反問する父さんに、俺は頷いた。あいつに対して、これからどう接していけばいいのか、本気で分からないのだ。

「おまえがそんな風になるなんて、これはまた珍しいな。知らないうちに、沙彌佳に何かしたんじゃないのか」

そう告げられたとき、心ドキリとした。俺が沙彌佳にいたずらしたことを思い出したのだ。

実は沙彌佳はあの日、寢ていた沙彌佳にいたずらしたのに気付いていて、俺を今まで以上に意識するようになった、というのはどうか。それ以前からあいつは俺にべたべたしてきていたし、それが昨日のような形に表されたということだ。

今まで俺はあいつに対しては、あくまで兄としてか接してこなかったし(もちろん、これからもそうとは思う)、まさか、いたずらされるなんて思いもしなかったと思う。となると、綾子ちゃんにすら嫉妬を覚えたという沙彌佳に、そんなが芽生えたというのは無理があるだろうか。

ただしこれは、あいつに俺に似ているという奴自の存在そのものが、噓であることが前提になってくる。

俺は小さくため息をついた。全くもって、確証がないことばかりだ。どの可能もありえないとは言えない。けれど、確かな証拠があるわけでもない。何か一つくらいあっても良いと思うが、なにもないゆえに頭もこんがらがるのだ。

「何かあるという顔だな。だったら謝っておけ。というものは、こちらから素直に謝っておきさえすれば、萬事うまくいくんだ。変にプライドを持っている方が々と誤解されたり、厄介事が増えていったりするものなんだからな」

「……なぁ、父さん」

「ああ」

「沙彌佳のやつ、俺のことをどんな風に見てる……いや、どんな風に映ってるんだと思う?」

「えらく象的な言い方だな。まあ客観的に言ってしまえば、ブラザーコンプレックスというやつだろうな。絵に描いたような、お兄ちゃん子だとは思うぞ」

「だよな……」

やはりそれ以上でもなければ、それ以下でもない。そういうに相応しいとは俺も思う。

「誰がお兄ちゃん子だって?」

後ろから母さんの聲がする。俺と父さんに、おはようと聲をかけて洗面所へ行った。母さんの前でこれ以上この話題をするのは良くない。俺は新たにトースターにパンをいれ、スイッチをいれた。母さんにはパンを焼いてるからと告げ、早々に自室へと引き上げた。母も起きたということは、そのうち沙彌佳も起きてくるだろう。

今は沙彌佳と會ったにしても、どういう顔をして會えばいいのか分からない。とにかく一度、今度こそ冷靜になって考えてみよう。どのみち遅かれ早かれ、沙彌佳には會わなくてはならない。家族として一つ屋の下にいるのだ、なるべくいつも通りにしてやろう。

ドアをノックする音で目が覚めた。どうやら寢ていたようだ。時計を見れば、すでに正午を過ぎている。昨晩はあまり寢付けなかったし、朝食をとって小腹を満たすと、ようやく気分も落ち著いて、寢ることができたのだ。

再度、コンコンというノックの音がした。部屋の前にいるのは疑いようもなく沙彌佳だろう。

返事をするのを迷ったが、部屋にいるというのは向こうも分かっているのだから、居留守を使うというのもおかしな話だ。俺は小さなため息をついて、部屋のドアを開けた。

「ぁ……」

くような、わずかにれる聲。そこからは明らかに、俺への戸いの気持ちのあらわれだろう。

「ほら、るんだろ? ってこいよ」

「う、うん」

態度を窺うような視線と、まるで俺に怯えているかのような聲に、なぜかし苛立ちを覚える。今まで、こんなことはただの一度だってなかったことだ。

「……」

俺は意味も分からず苛立った気持ちを抑えながら、ついさっきまで寢ていたベッドに腰かけた。布団に殘った溫が寢ていたときよりも溫かくじられる。

「どうしたんだ、座れよ」

ってきたまま部屋の真ん中に突っ立っている沙彌佳に、いつものように橫に座るようベッドを軽く叩いた。

「ううん。いいよ、ここで」

「そうか。それで? 何の用なんだ」

言った後に失言だったと心で舌打ちした。用など一つに決まっている。わざわざ、煽りたてるように言うことではなかった。

「……」

「……」

互いに沈黙し、どこを見るでもなく目を泳がせている。本來ならこんな時、俺が気を利かせて何もなかったように振る舞うべきなのかもしれないが、今はそれもできそうな狀況ではなくなってしまった。二度寢をする前に普段通りにしようと決めたはずだが、沙彌佳の態度を見た瞬間、そんなことは記憶の彼方に吹っ飛んでいったのだ。

「あ、あのお兄ちゃん」

「なんだ」

苛立ちをふくんだ口調で、呼びかけに応えた。別に怒りたいわけではない。なのに、け答えするその口調には、自分でも分かるほどの怒りが含んだものだった。

「ぁ……その、やっぱり怒ってるよね? 昨日のこと……」

「別に怒っちゃいない」

「噓。怒ってるよ……」

「怒ってないって言ってるだろ」

自分の言っていることを否定され、余計に苛立ちが増した。それを察してか、沙彌佳はこのことにはそれ以上なにも言うことはなかった。

「で、用はなんなんだ」

「うん……昨日のこと、謝りたくて」

「謝る?」

「……いきなりあんなことして、ごめんなさい」

し頭を下げるようにして謝る沙彌佳に、俺は肩かしを喰らった。なんでこいつはこんなに丁寧に謝ってるんだ。まるで、俺が他人みたいじゃないか。

「あ、いや……」

「本當にごめんね」

どこか悲しげな表の沙彌佳に、俺はとたんに怒りが収まっていくのをじた。そもそも怒る方が間違いというもので、特別怒るようなことなどなかったはずなのだ。

「……なぁ」

「なに……?」

「なんであんなことしたんだ」

俺はもう考えるのが億劫になり、単刀直に聞いた。

「ぇと……」

沙彌佳は視線を俺から外しながら、どう言おうか迷っているようだった。それもそうだろう。しかし、さすがの俺もどうしてかは聞いておかないと、この先まともに沙彌佳に接していけなくなるようで嫌なのだ。

「……」

「どうした、言ってくれなきゃぁ分からんぜ」

「……お兄ちゃん」

何か言いかけた沙彌佳は口をつぐんだ。

「ごめんなさい」

「お、おい」

沙彌佳は一際大きく謝ると、俺の制止も聞かずに、勢いよく部屋から出ていってしまった。

「……なんだってんだ、一

一度収まりかけた苛々がまた沸き上がるのを自覚しながら、俺は一人つぶやいていた。

沙彌佳が兄の部屋から飛び出した時より遡って、昨日のことだ。

夕暮れに佇む中、沙彌佳は唐突に兄のを奪ってみせたのだった。いや、そう思ったのは兄だけだったかもしれない。妹である沙彌佳は、前々から兄にならそうなっても良いと思われる節があったためだ。

しかし、それでも沙彌佳自、なんで突然あんな大膽な行に出たのかは分からなかった。はずみだった、そうとしか言いようがないかもしれない。

だというのに沙彌佳はキスを終えたあと、猛烈な後悔が襲い、兄を置いて一人で走り去ってしまったのだ。頭の中が真っ白になってしまったようで、気付けば自室におり、その間のことはまったく覚えていなかった。

けれど、そこでもまた後悔が襲ってきた。當然だ。兄を置いてきたことにより、余計に顔を合わせづらくなってしまったのだ。どうしようとあくせくし、攜帯を取り出して電話をしてみようとも思ったが、結局はかけられずじまいだった。そして思い切ってかけようとしたら、兄が帰ってきてしまったのだ。

おまけに、直後に両親まで帰ってきたこともあって、余計に出づらくなったのだった。母が食事と呼んでも、兄と顔を合わせるのが嫌で下に降りず、寢たふりを決め込んだ。そんなものは、ただの逃げでしかないとわかってはいたけれど。それが幸か不幸か、時間をかけて遠出したことが沙彌佳を心地良い眠りに落としていった。

空腹で目を覚ました沙彌佳は、夜が明けて今が朝であることに気がついた。しかも昨晩は、著替えずに寢てしまったために、外出用の服にシワがついていて寢汗もひどい。おまけにその服は、クリスマスに兄がプレゼントしてくれただった。それを見た沙彌佳は、し哀しい気持ちになりながら服をいだ。空腹を満たす前にまず、シャワーを浴びようと著替えをとった時だった。

カチャリ

そんな音が隣の部屋から聞こえた。もちろん、考えるまでもなく兄だ。休日にしては珍しく、かなり早く目が覚めたようだ。あるいは、自分のせいなのかもしれないと思うと沙彌佳はドアを開ける気にはなれなかった。

そんな自分の気持ちを悟ったのか、兄はいつもと違って、部屋を開けてからしだけ間があった後に、階段を下りていく音が聞こえた。いつもの兄の行とはし違う気がする……いつも兄を見てきたからこそ分かる、ほんのわずかな違いだ。そんなわずかな違いに沙彌佳は、やはり自分のせいだと思えたのだ。

「ごめんなさい……」

沙彌佳はドアを背にして寄り掛かる。なんでこうなったのか……昨日のことに思いを馳せる。

突然キスしてしまえば、誰だってその人のことを意識せざるをえなくなる。それが友達の関係であれ、先輩後輩の関係であれ。そして、たとえの繋がった兄妹であれ、だ。

けれど……あのときの兄の顔――。キスをした直後に見た顔は、明らかに何をしたんだという困と迷げな表だった。それが兄が自分に対してどう思っているのか……否応なく理解させられるものだった。

「ごめんなさい……こんな気持ち悪い妹で……本當に」

下にいる兄に強くそう念じざるをえなかった。沙彌佳にはもはや、自分の気持ちが抑えられなくなりつつあったのだ。もう嫌だったのだ。

綾子のことは気の良い友人とは思ってはいるが、それとこれは別に考えるようにしたのだ。たとえそれが、最低なだと後ろ指を指されることになったとしてもだ。唯一無二とも言って良い友人を、裏切ることにもなるかもしれない。いや、もはや裏切ってしまっている。それは昨日のことで明白になったことなのだ。

けれど、とも沙彌佳は思った。兄が言っていたではないか。本人たちが付き合っていないのなら、自分にもチャンスがあると。だから自分もそれに従ったのだ。

初めは春休みを使って、そうなるように兄を仕向けようとしたものの、思いもよらない形でそれが巡ってきてしまった。兄が卒業祝いということで、一緒に出かけないかと言ってきたのだ。もちろん、斷る理由などない。だから一つ返事で承諾したのだ。

けれど、これがいけなかった。兄は自分の気持ちを知ってか知らずか、まるで人気分を高めるかのようなスポットに連れていったのである。今まで大好きな兄と一緒に出かけることは確かにあったが、あそこまであんな気分を出させてしまうような場所に出掛けたのは初めてだったのだ。

自分があんな行に出たのも、そのためだったと言っていい。いつだって自分のわがままを聞いてくれた。時には嫌な時もあったはずなのに、それでも自分を優先してくれた。小さい時には、いつだって守ってくれていた兄。それが昨日は走馬燈か何かのように思い出が溢れ出してきたのだ。だからあんなに突拍子もない行に出てしまった。

今までも自が兄に対して、間違いなくブラザーコンプレックスだという自覚はあったが、最近は、もうそれだけではないと思えて仕方なかった。兄が親友であるはずの綾子と話す時の顔。兄がたまにその服に染み込ませていた、他のの匂い。

それだけじゃない。綾子のストーカー対策として學校まで送ってくれていた時、クラスの子から兄のことを聞かれた時。その時に抱いていたは明らかに、獨占と嫉妬からくるものであると認めたくなくても、認めざるをえなかった。

それに、クリスマスに兄がくれたプレゼントにしたってそうだ。あれがどんなに嬉しかったことか、兄は知りもしないだろう。沙彌佳にとって、あれはとても重要なことだった。

そんな気持ちをこの數カ月の間、ずっと溜め込んできた。一日だって意識しない日はなかった。そしてその結果が、後悔という予期せぬとは思いもしなかった。いや、キスしたという事実があって、初めて冷靜になれたといった方が正しいのだろう。

この數カ月間は、兄と一緒にいて話すだけで、どことなく鼓が速くなって、思ったようにうまく話せなくなることもあった。學校に行っている間は、気付けばいつも兄のことを考えているようになっていた。

だというのにふと冷靜になってみれば、後悔することになるなんて、考えつきもしなかった。こんなことなら、ずっと想いをめたままにして、思春期の兄妹によくある、兄に悪態をつく生意気な妹を演じた方がまだ良かった。でも、それで欝陶しく思われるのも嫌で、沙彌佳は結局いつものようにしていたのだ、この數カ月間は。

もしかするとブラコンであることを利用して、キスしてしまえば兄も自分に振り向いてくれるかもしれないと、無意識に思っていたのかもしれない。

そうしているうちに、階段を上がってくる音が聞こえた。きっと兄が朝食を終えてあがってきたのだ。時間も気付けば八時近い。時間的に考えてそうだろう。耳をすましてみれば、下では両親が何か話しているのも聞こえる。多分話題は自分と兄のことだと思われた。沙彌佳が夕食の席を一緒にしなかったことなど、未だかつて一度もなかったことなのだ。

しばらくすると、兄の部屋からも一切音が聞こえなくなったことを見計らい、沙彌佳は部屋を出た。リビングに行くと両親が出迎えてくれた。

「あら沙彌佳、おはよう」

「おはよう。昨日はどうしたんだ?」

「おはよ。昨日はお兄ちゃんとちょっと遠くまで出かけたんだけど、それで疲れちゃって寢ちゃったんだ」

「あらそうなの。お兄ちゃんと喧嘩でもしたのかと思ったわよ。あの子もなんかおかしかったし」

「そうなんだ。お兄ちゃんが……」

「それよりシャワー浴びてきなさいよ、寢汗で気持ち悪いでしょ。パン、焼いておくから」

「うん、そのつもりだったから。ありがとね」

沙彌佳はそう告げるとシャワーを浴びるべく、所に向かったのだった。

沙彌佳の様子がおかしいまま、週は明け、またいつもの日常が始まった。だが、もう今週で學校は終わり、來月には最上級生として、々とありそうな一年を迎えることになるわけだ。実などないし、正直にいって、これといったことも考えていないので、ただそうなるのだということだけだ。

それよりも、昨日の夕方から沙彌佳と一言も話していないということの方が、俺には目下の問題だ。今朝の朝食の時には姿を見せなかったし、昨晩の夕食にはきちんと下りてきたものの、俺とは一言も話すことはなかった。それどころか、視線すら合わせようとはしなかったのだ。

ただ、顔には明らかに俺に対して申し訳ないような、何か言いたいことがあるような、そんなことを窺わせる表をしていた。俺もそんなことなど気にせずに話しかければ良かったのだろうが、どうにも気恥ずかしさが先立ってしまい、話しかけることができなかったのだ。

今週は授業が最後というのもあって、授業なんてものはなく、擔當の教師がただ教室に來ているだけとう狀態だ。真面目に自習しているものもいれば、隣後ろとだべっているものもいる。

そんな中、俺はといえば何もせずにただ窓の外を眺めながら、そんな風に妹のことを考えていた。

窓の外から視線をはずすと、ちょうど青山の姿が目に映る。沙彌佳のことばかりですっかり記憶の中から抜け落ちていたが、青山にはあの黒田のことを依頼していたのだった。

俺は雑談をしている級友たちの間をすり抜けて、青山の席に移する。

「青山」

小さな聲で青山を呼ぶ。振り向き、下から覗きこむように見る青山は、なぜかげっそりとした印象をけた。こいつはこいつで々と大変そうだ。

「例のことなんだが」

そういうと青山は、首を橫に振るだけだった。まだ何も摑めていないということだ。

「そうか。……ところで、最近し痩せたか? なんだかやつれているようなじがするが」

「うん、ちょっとね……」

「……そうか」

心底、疲れているような表をして見せながら(本人にその気はないのだろうが)、苦笑まじりに言う青山に俺も、思わず苦笑してしまう。

俺は周りの生徒たちが俺たちを見ていないかを確認し、青山の前の席に座った。席の主は他の級友のところに行って雑談しているようだった。

「青山。おまえに聞いておきたいことがあるんだ」

「うん? どんな?」

小首を傾げるような仕種で、青山は俺を見た。あまり人に聞かれたくないこともあって、自然と話す聲も小さくなる。

「まぁ……そのなんだ。ちょっと聞きにくいことなんでな。

おまえ、確か今、の子と付き合ってるんだよな?」

「うん」

青山は、しだけ戸うような顔をしたものの、すぐにそいつを肯定した。そこには、確かな意思をじられる。

「だったらさ、キスとか……もうしたか?」

「え? 唐突だね……ま、まあ、したけど……」

その相手が誰とは聞かない。聞くのは不粋というものだろう。それにその相手は聞かずとも、ある程度予想がついているのだ。

「でもなんで?」

「……の子がキスする時ってのは、どういう気持ちなのかと思ってね。ただ仲が良いってだけでしたりするものかな?」

「うーん、僕はの子じゃないから確かなことは言えないけど、普通に考えて、好きな人じゃなかったらしないと思う」

「だよな……」

こちらが何度も考えたことを、青山は至極當然のように言った。いや、そういうものなのだと言うのは、人に聞くまでもなく自分自気付いてはいたのだ。しかし、そうとは分かってはいても、誰かにそうだと聞かないといまひとつ、そうだと落ち著くことができずにいる。

「誰かとキスしたの?」

「ま、まぁな……ただ個人的には、ノーカウントにしておきたいと言うかだな」

「もしかして綾子ちゃん、だっけ? あの子?」

知らぬのだから仕方がないとは、青山はいきなり直球を投げてきた。いや、こういう場合は変化球というべきなのだろうか。なんにしたって俺の心としては、綾子ちゃんも決して無関係とは言えない。もしキスをした相手が綾子ちゃんなら、こんな相談を持ちかけることもないのだが、青山にそこらのことにまで気付けと言うのは、さすがに酷というものだ。

「いや、全く別の誰かだ。今まで特別ななんて全くなかったんだ、ただすごく仲が良いってだけでな。で、そいつにいきなりそうされたもんだから、そいつの気持ちが良く分からなくてな……」

最後のだけは半分噓だ。だが、そうであってしくないという気持ちもあって、俺はあえてそう言った。

「そうだね。話を聞く限りで判斷すると、その子はきっと、前々から九鬼くんのことを好きだったんじゃないかな? そして他にの子が現れたことで、取られたくないって気持ちと、振り向いてほしいって気持ちがあったのかもね」

「振り向いてほしい……」

「うん。九鬼くんは、その子のこと、特別な気持ちはなかったんでしょ? だから気付いてほしかったんだと思うよ」

「そうか……。そいつにとって俺は、の対象だったと考えるべき、なのか?」

「じゃないかな」

青山は斷定的な言い方をしつつも、そこには半ば、確定的なもの言いをじさせるものだった。しかし、そうなってくるとこっちはますます暢気にかまえてはいられなくなる。その相手というのが実の妹なのだ。

妹は歳のわりにしっかりしていると思うし、容姿だって悪くない。格も芯の通ったやつだ。もちろん、俺はそんな妹がなんだかんだで好きなんだとも思う。だが、それは家族としてであり、それ以上はないのだ。もちろん、妹を傷つけるような奴には容赦するつもりはないが。

そんな妹が犬みたいに俺に飛びついてくるようであれば、俺だって一度くらいは、一線超えたりなんかしないよな、なんて考えたことはある。だが、やはりそいつはないとすぐに思い返したのだ。妹はやはり妹なんだと。

しかし妹は、沙彌佳はそうではなかったらしい。正直に言うとあまり認めたくないし、認めてほしくないのだが、第三者の話を聞くと、そういう方向で考えていかないといけなさそうだ。まだ完全に、そうだと決まったわけでもないとしてもだ。

昨日、沙彌佳が謝ってきたのはもしかすると、そんな自分の行が軽率だった、という意味だったのかもしれない。さすがのあいつも、そんなことが分からないほど、子供でもなかったということだ。一日明けて、冷靜になったからこその謝罪だったのだ。なくともそう思いたい。

となると俺も、いつまでも自分の気持ちに言い訳しているわけにもいかない。これが良い頃合いかもしれない。

一日の授業を終えるチャイムが鳴り、擔當の教師が日直に號令を促した。黒田のことは引き続き青山に任すとして、俺は俺で、この中途半端な関係を終わらせようと決心するのだった。

時刻は午後の四時になるところだ。學校帰りの制服を著た學生や、大學生、サラリーマンなんかで溢れている店を、俺は一人、席に座っていた。時間通りならそろそろこのキシマイ堂に、ある人がくるはずだ。

店員の聲がして、新たな客がってきたのが分かった。もしかしてと口の方を見ると、そこには俺の待っていた人がおり、店員に先客がいるのを説明している。そして俺を見つけると、店員にこちらの方を手で示し、軽く頭を下げてこちらにやってきた。

「九鬼さん」

「よお、なんだか久しぶりだな」

「実際はそんなに経ってないと思うんですけどね。でもなんか、もっと會ってなかったじはしますね」

キシマイ堂で俺が待っていたのは、先々週の週末以來に顔を合わせた、綾子ちゃんだった。卒業式の日は俺も學校で、彼はその後に実家の方に帰らなくてはならなかったため、その日は會えなかったのだ。

挨拶もそこそこに、俺は正面の席を引いて綾子ちゃんを座らせた。小春日和とはいっても、まだ夕方には寒くなるこの時期、クリスマスにプレゼントしたコートを著込んで、下には薄手のシャツという出で立ちだった。

「すまないな、突然呼び出しちまって」

「いえ、私も九鬼さんとお會いしたかったですし」

思わずこちらが照れてしまうようなことを、サラリと言ってのけてしまうあたり、満更じゃないなと思う。

「親父さんとは楽しく過ごせてるかい?」

「うーん、どうでしょうか。あまり話題らしい話題はないですね。あっても息のつまる學校とか將來の話ばっかりで……まだ、そうなるって決まったわけでもないのに。

あんな話のために、今週末までまだ一緒にいないといけないって分かってたら、いつもみたいにお泊りしたかったです。だって、九鬼さんたちと一緒の方が、比べるまでもなく楽しいですから」

珍しく、綾子ちゃんは嫌悪を滲ませながら言った。いや、初めてのことと言っていい。今まで親父さんのことを話すにしても、こんなにまで嫌悪じさせるようなことはなかった。將來の話というところに、恐らく彼にとって、特別嫌な容が話されたに違いない。

「そうか。君も大変だったみたいだな」

「本當にそうですよ。お父さんったら、なんでもかんでも自分の勝手に事を進めて、私のことなんか、これっぽっちも考えてくれてないんですよ……本當に嫌になっちゃう」

頬杖をつきながら、ため息をもらす綾子ちゃん。憂鬱そうにしたその姿も、これがなかなかに絵になっている。

「あ、すみません。いきなり愚癡なんて言ってしまって……」

「いや、いいさ。本當は二日前の土曜に、綾子ちゃんをおうと思ったんだが、親父さんと久しぶりに週末を過ごすって言うんで遠慮したんだ。親子水らずってやつでね。

だけどその調子じゃぁ、あまり良い週末を迎えたわけじゃぁなさそうだな」

肩をすくめながら笑った。良かれと思ってしたはずなのに、結果は全く逆になってしまうとは皮なものだ。

笑っていた俺だったが、皮な結果になってしまったのは綾子ちゃんだけでなく、俺自もそうなんだと思い出した。そもそも、今日綾子ちゃんを呼んだのだってそのためなのだ。

「それで九鬼さん。今日はどうしたんですか? 何か用があるようですけど……」

「ん、ああ……妹の、沙彌佳のことなんだがな」

「さやちゃんの?」

無言で頷いた。さて、なんと言ったものか……。

俺は目を泳がせながら、どう言おうか考えた。全く、ここにくるまでは、しっかりと言おうと何度も頭でシミュレーションしたというのに、いざ本番、実を前にすると駄目だった。綾子ちゃんはきょとんとしたような顔で、俺を見つめている。

しかも言おうすると、鼓はドクッドクッと音がはっきり分かるほどに早鐘を打ち、心なしか息も荒くなっている。

「あー……くそ、もう考えたって始まらないだろうが。綾子ちゃん。単刀直に言う」

「え? は、はい」

突然俺が語気を荒らげたため、驚いたように綾子ちゃんは返事をした。その目はそれを象徴するように、大きく見開かれている。

「綾子ちゃん。俺と付き合ってくれ」

を乗り出し、綾子ちゃんにし迫るように言った。

周りの音は聞こえなくなり、風景も視界から消えたような錯覚を起こす。自分の鼓や息遣いすら聞こえない。言う前には、あれだけ早鐘を打っていたというのに。

自分の中の全神経が、目の前の綾子ちゃんに注がれていることだけ。そのことだけは、しっかりと理解できていた。

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