《いつか見た夢》第49章

悔いとは後の前には立たない。後悔という字はそう書く。そんなのは小學生にだって分かることだ。しかし、いざそれを験するとなるとどうだろう。途端にこの字の的をたものだと、心底痛してしまう。

俺は間違いなく、選択を誤ったといっていい。できうることならば時間を巻き戻して、全てをなかったことにしてしまいたい。そう念じざるをえないほど、目の前の沙彌佳は普通ではなかった。ほんのついさっきまでは、笑っていたのに。ようやく笑ってくれたはずなのに。

仲直りできたと思ったのは俺だけだったというのか……。どうしてこうなってしまったんだ……。

俺達はキシマイ堂を出て家に向かい、その途中に俺は綾子ちゃんに告白する経緯をオブラートに包みながら話をした。もちろんキスのことは話していないが、綾子ちゃんは勘が良い子だから、もしかしたらそのあたりも、もしやと勘づいているかもしれない。けれど、それをあえて聞き返さないあたりがやはり、できていると思ってしまう。

それに形はどうあれ、一応綾子ちゃんと付き合うことになったのだ。一応というのは、あくまで今はまだ、沙彌佳にそうだと思わせるためであって、正式にではないためだ。だが、沙彌佳の一件が落ち著いたら、きちんとした形で、もう一度付き合ってほしいと言うつもりだ。中途半端なのはあまり良くない。その旨も、きちんと綾子ちゃんに言っておいてある。

こんなことを言うのもなんだが、これは付き合う前準備、とでも言い訳しておこう。

「でも……」

「ん?」

「こんなこと言うとなんですけど、さやちゃん、いつかはそうなるんじゃないかっていう予はあったんですよ。去年からずっとそういう雰囲気があるようにじられて、仕方なかったというか……。

さやちゃんの九鬼さんを見る目、普通の仲の良い兄妹とは違うって思うこと、よくありましたから」

「そうだったのか……去年から」

あいつがそんな風に見ていただなんてこと、綾子ちゃんに指摘されるまで考えたこともない。去年からそうだったというのは、つまりは、それ以前からもそんな目で俺を見ていた、そういうことだろう。

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綾子ちゃんの言い方を考えれば、それは去年のクリスマスからというわけではない、そう考えて良さそうだ。あのクリスマスあたりから変わったのは本當だろう。しかし、それは沙彌佳に大膽な行をとらせるにまで至る、カウントダウンに過ぎなかったということだと思う。

そして、もうそれを否定するかしないかという問題ではなく、いかにその先を回避するか、今の問題はそこだ。できればあいつには、俺以外の誰かを好きになってほしい。沙彌佳には俺ではなく、もっと相応しい相手がいるはずなのだ。なくとも、俺はそう考えている。もちろん、俺が認めた奴でなければ、ケツを蹴ってでも別れさせるつもりではあるが。

「でも九鬼さん。九鬼さんは気付かなかったんですか? さやちゃんのそういう……」

綾子ちゃんは言いにくそうに、最後の方はゴニョゴニョと聲が小さくなっていった。いくらそうだったんだと分かっても、やはりなからずのショックはあるということだろう。

「正直に言うと、一度くらいはあるよ、もしかして……って思ったことが確かにある。でもそんなのそんな簡単に、はいそうですかと認められるわけはなかったし、以前から沙彌佳は、俺を人がわりにしか見てなかったのだとばかり、そう考えていたんだ。

だからかな。あまり、そういう風には考えられなかったよ。俺はあいつをそんな目では見ていなかったしね」

綾子ちゃんは黙って俺の話を聞いていた。そうするというのは、彼にも沙彌佳にはそうあってほしくないという思いがあってのことなんだろう。だからこんなに、親になってくれるのだ。他にも、それ以外のがあると俺は思っているが。

とにかく、俺と綾子ちゃんが付き合うということになれば、沙彌佳もそれ以上は何も言わないのではないか、と俺は思っている。沙彌佳は思い切った行の後、まぁ昨日の話なのだが、俺に謝ってきたのだ。推測の話ではあるが、あいつもやはり俺達が関係を結ぶというのに、なからずの抵抗やまずかったという気持ちがあったに違いないのだ。沙彌佳は本當にこれで良かったのかと、間違いなく思っているはずなのだ。

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そんな沙彌佳に追い打ちをかけるようで、どこか嫌な気分にはなるが、これもお互いのためなのだ。綾子ちゃんの協力があれば、沙彌佳もそれをれてくれるような気がするのだ。

まだある。綾子ちゃんの協力を得るというのは俺にとっても重要で、一昨日にキスされた瞬間、不思議と嫌悪というのは全くじなかったというのがある。もちろん驚きはしたけども、突然のことというのもあるからか、単になんとも思わなかっただけなのかもしれないが、今思い出しても、あまり嫌悪するようなことではないな、とどこか冷靜な自分がいたのだ。

こいつがいかんせん、俺を本當の怒りや嫌悪といったを、起こさせない何かのような気がしてならない。この冷靜な自分は、そのうち本気になれないことをいいことに、なあなあのままに沙彌佳をれてしまいそうで、俺自、怖くて仕方ないのだ。

だからまだ理的でいられる今、綾子ちゃんにこうして協力をあおいだというわけだ。

「……あいつなら、きっと分かってくれるよな」

「大丈夫ですよ、さやちゃんならきっと分かってくれますよ」

「ここまできたら、もう信じるしかないもんな」

「そうです。ファイトですよ!」

俺を元気づけるように、綾子ちゃんは手を顔の下で握り、そう言った。

「そうだな。ありがとな、しやる気が出てきたよ」

「いえ……こうして元気づけるのも、こ、人の役目ですから」

綾子ちゃんはそういいながら俺の手を握り、頬を赤くしていくのだった。

綾子ちゃんも俺も無言のまま、家の近所に差し掛かった時だった。曲がり角から、最近見知った奴の顔が現れた。

「お熱い中、失禮でしたかな?」

「あんたは……黒田」

數日ぶりの顔合わせだった。なんてタイミングの悪さだ。

「なんの用だ。何度も言ってるが、あんたのいる機関とやらにるつもりはないぞ」

「いきなりご挨拶ですな」

「だったら俺の前に現れないでくれ」

黒田はの片端を吊り上げるだけで、それ以上は何も言わなかった。黒田の不敵な態度に、いつものように苛々とさせられるが、それもまたいつものことだ。俺一人だけが腹の立つ思いをするのは、どう考えたって不公平だ。

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それに今は綾子ちゃんだっているのだ。黒田と會うのは二回目の綾子ちゃんだが、その得の知れなさに、前と同じように怯えたような表を見せている。

「用がないんだったら行くぜ。俺はあんたと違って暇じゃぁないんだ」

綾子ちゃんの手を引いて、黒田の橫を通りすぎようとすると、肩をつかまれた。

「っ。なんなんだ」

「お待ちなさい。今回はあなたにちゃんとした用事があって來たのです。なに、大したことではない。すぐに終わりますよ」

そうは言いつつも、肩を摑む手には力をこめていた。本人は加減しているつもりだろうが。

こいつ、握力一いくつあるんだ。痛いだろうが。

「ちゃんとした用事だと?」

俺は肩を摑んでいた男の手を、強引に引き剝がした。この男に、いつまでも肩を摑まれていたくない。

「ええ。何、ほんの數分もあれば終わる話です」

そういうと黒田は首をかして、隣の綾子ちゃんの方を見た。サングラスで分からないが、綾子ちゃんの方を見たんだと思う。綾子ちゃんもそれに気付いてか、俺の服の裾を強く摑み、橫目で俺の方を見る。

「分かった。綾子ちゃん、すぐに終わるから君は先に家に戻っててくれ」

「え? でも……」

「大丈夫だ。俺もすぐに行くから」

俺はまだ握っていた綾子ちゃんの手を放し、戸いながらも頷いて、彼もまた服の裾から手を放す。

「すぐに來てくださいね……?」

「ああ、分かってる」

強く頷いて見せ、綾子ちゃんを先に行かせた。

「ふふ、わざわざ先に行かせなくともすぐに終わりましたのに」

ニヤリとした口元には、どこか嘲りを含んでいるように思える。そんな黒田の態度は無視し、俺はまくし立てるように言った。

「それで用ってのはなんなんだ。さっさと言えよ」

「では、単刀直に言わせていただきます。あなた、最近ある筋の者と接されませんでしたか」

「ある筋?」

「ええ。あなたが今井を退けた後、あなたに誰かしら、接しようとしてきた人がいるはずです」

心當たりがあると言えばある。あの狐、藤原真紀だ。今なら分かるが、あののどこか得の知れない雰囲気は、明らかにこの男と同種であることが分かる。それともう一人……斑鳩孝晶だ。奴の行も、どこかおかしいとじさせる節がある。

「……思い當たる節があるようですな」

「いいや、そんなものはないね。そんな人間がいたかと考えただけだ。大、そいつのどこが危険なんだ」

「おそらくその人は、あなたを手の屆くところに置くことで、あなたの自由を束縛しようとしている。そして場合によっては、あなたを殺すことすら厭わないような者です」

「待てよ。なんだって俺がそんな連中に狙われてるってんだ? 俺はどこにでもいる、ただの高校生なんだぞ? あんたにしろ、そいつにしろ、俺にこだわる必要はないだろうが」

「確かに。あなたはまだ高校生ですが、前も言いましたように、特別な才能をお持ちのようだ。そんな才能を持った人間を、我々が無視するわけにもいかない」

「前も才能だなんだと言ってたが、なんなんだよ、俺にある才能ってのは」

今の今まで、どこか上から目線で喋っていた黒田は、ここにきて不意に真面目な言いになった。俺はそれが何かとてつもなく危険で、一歩踏みれたら最後、底無し沼か何かのように、二度と這い上がれないように思えてならなかった。

「……今現在、何十億という人間がいるこの世の中、どれだけ人が増えようが、必ずしもその絶対數が増えるとは限らない、稀有な才能……この世界において、源的な闘爭心とそれを察知することに長けた才能、とでも言いましょうか。

あなたには常人にはない、桁外れの生存本能がおありだ。私どもは、そういった人間をこうして機関に招聘しているのですよ」

黒田の説明を聞いて、思わず唖然とした。生存本能だって? 特別な才能だなんだとおだてておきながら、とんだお笑い草だ。そんなものがあったからって、今時どうだっていいことではないか。だというのにこの男は、恥ずかしげもなくそう言い切った。

「……なんだそりゃぁ? わけが分からないぜ、あんたの話は。仮にだ、本當に俺にそんな才能……この場合は本能というのか、あったにしろだ、そんなのはいそうですかと簡単に信じられるようなものじゃない。おだてるだけおだてて、何か別のことを探ろうとしてるんじゃぁ、あるまいな?」

俺は早口で、半ば喚くようにまくし立てる。こいつの言っていることには、鵜呑みにできない何かがあるようにじられて、仕方がないのだ。

「……く、くくくく」

突然、黒田が笑い出した。

「なんだ、何がおかしい」

「くっくっくっくっく。いえ、なるほど。確かにあなたには普通の人にはない、稀にみる闘爭心があるというのは、本當なんだと思いましてね。くくくく」

俺はどこか馬鹿にされたような気持ちになり、踵を返した。こんな奴に取り合った俺が馬鹿だったのだ。さっさと帰った方が、得策というものだ。それに綾子ちゃんも待っている。

「くく……おや、どこに行かれるので?」

「用はそれだけなんだろ。もう帰るぜ」

「これは気分を害したようで申し訳ありませんでした。いいでしょう、最後に一つだけ。帰ってもう一度よく考えてご覧なさい。必ずいるはずです、あなたに接を持とうとした人がね。そしてこの人は、大変危険だということもね」

去る俺の背中に、まるで近いうちに何か起こるかのように黒田は言った。俺は忠告ともとれる言葉を拭い去るかのごとく、足早にその場を去ったのだった。

黒田と話していたのは時間にして、ほんの五分かそこらだった。數分とは言っていたが、まさにその言葉通りだった。俺は黒田からの言葉を頭の隅にやりながら、思考を切り替えた。今はまず、目下の問題に目を向けるべきだろう。

「綾子ちゃん」

なるべく早く來たつもりだったが、綾子ちゃんはすでに家の前で待っていた。

「すまない、待ったみたいだな」

「いえ、今著いたばかりですから」

そうかと相槌を打って、深呼吸した。

綾子ちゃんには、さっきの黒田とのやり取りが気になるような顔をしているのが、はっきりと見てとれる。まぁ、それも無理のない話ではある。二人でいるところに突然、得の知れない奴が現れれば誰だってそうなるのは當然だ。

しかし、俺に先に行っていろと言われた手前か、気にはなりつつも、自分からは口にはしようとしない。しかし、俺自がこの問題にはあまり関わりたくないと考えている以上、むやみにそいつを人に話すべきではないと思う。今はまだ言うべき時ではないだろう。

しかしそんなことより、自分の家にるのに未だかつて、こんなに張したことがあっただろうか。沙彌佳に付き合うことになったと、ただそれだけを伝えるだけなのにおかしな話だ。気分はまるで、婚約を伝えにいく男のような気分なのだ。そもそも妹にそんなことを、こうして言わなければならないというのもおかしな話というものだが。

とは言え……牽制という意味では効果はあるだろう。兄妹で一線を超えようだなんて考えの方が、どうかしている……とまでは言わない。なくとも俺は両者の合意があれば、それはそれで構わないとは思う。あくまで両者の合意が前提だ。

今回の場合、俺は沙彌佳とそんな関係になりたいとは思っちゃいないのだ。沙彌佳を傷付けることになるだろうが、今は乗り越えなくてはならない時だ、仕方ないことなのだ。それに……沙彌佳も大事だが、今はその天秤にかけることすら愚かと言っても良いほど、比べられない人ができてしまった。だから、これで正しいはずなのだ。

「九鬼さん」

俺の名前を呼びながら、手を握ってくれた。その手はとても溫かい。あるいは綾子ちゃんも俺と同じように、なからず張しているのかもしれない。

「ああ、そうだな。行こう」

「はい」

俺と綾子ちゃんは手を握ったまま、家の門をいで、玄関にあがっていった。

家の中は不気味なほどに靜まりかえっていた。玄関には靴があるので、沙彌佳がいるはずなのだがとてもそんな風には思えないほどだ。

「ただいま」

家中に聞こえるように大きな聲で言うが、返事はない。先ほどの黒田の一件もあってか、嫌な予がして最悪な想像が頭をよぎる。

「九鬼さん……」

綾子ちゃんもそう思っているのか、不安げな顔をしている。

「とにかく上にあがろう。あいつも寢ているだけかもしれない」

この嫌な覚がただの杞憂であれば良いのだが、電気すらついていないのが、どうにもそれを払拭できずにいる。

「沙彌佳」

名を呼びながら、ドアをノックする。いないのだろうか。返事がない。不審に思った俺は、ドアを開けて中にる。

「沙彌佳?」

部屋はカーテンが引かれているため薄暗く、おまけに今日は曇りだ。部屋の中は薄ら寒くじる。

「……いない」

まさかとは思ったが、本當に黒田がここにってきて、沙彌佳を連れ去った……? そんな考えが浮かんだ。正確には黒田の仲間だ。黒田が俺を引き止めて、その間に仲間が沙彌佳を連れ去った、そんな考えが脳裏をよぎるのだ。

普段なら、なにを馬鹿なことを、と鼻で笑うところだが、今はそう考えてもおかしくないほど、俺を取り巻く狀況は変わりつつあるらしい。一何が起こっているのかは當事者ながら、皆目見當がつかないのだが。

とにかくそんな風に考えてしまうくらいに、今この狀況は芳しくない。

「沙彌佳」

くような小聲で妹の名をぶ。俺は攜帯を取り出して、沙彌佳を呼び出すものの、コール音だけで、一向に繋がらない。

「九鬼さん……さやちゃんは……」

「駄目だ、出ない」

俺は攜帯を折りたたみ、部屋を出た。心臓が再び早鐘を打ちはじめ、悸が激しくなってきていた。キシマイ堂の時とは違い、明らかに嫌な汗が出始めているのもじる。

「綾子ちゃん。君はとりあえず、ここにいてくれ。俺は一度外に出て探してみる」

早口になって綾子ちゃんにそう言い、階段を駆け降りようとした時だ。

ガチャリ

玄関のドアが開かれる音の後に、沙彌佳の聲がした。

「ただいまー」

「っ……沙彌佳っ?」

俺も綾子ちゃんも驚いて、階段を駆け降りる。

「あ、お兄ちゃん。それにあやちゃんも、ただいま」

「さやちゃん」

「沙彌佳、おまえ……なんともないかっ」

俺は靴もはかずに玄関に飛び降りて、沙彌佳に詰め寄る。

「え? 別になんともないけど……二人ともどうしたの?」

なにもなかったように帰ってきた沙彌佳に俺と綾子ちゃんは、二人して安堵のため息を吐き出した。で下ろすなんて言葉があるが、その通りだ。全く、心臓に悪い。

「ただいまーって……何してるの、あんたたち。しかも、靴もはかずに……」

今晩の料理のための食材がった買いカゴをぶら下げながら、母の遙子がってきた。この様子から察するに、沙彌佳と母さん二人で買いにでかけていたようだ。母さんは不思議そうな顔で、俺たちの様子を見ていた。

今リビングでは張の告白をし終え、穏やかな時間が過ぎていた。

沙彌佳と母さんは、二人で買いに出かけていた。多分、最近様子のおかしい沙彌佳を心配し、母さんが気分転換にとでもったのだろう。なんだかんだで、目にれても痛くないほど可い娘なのだ。あまり態度には出さないが、かなり心配していたに違いないと思う。

そしてうっかりしていたのか(これは沙彌佳だと思うが)、家の鍵をかけ忘れていたようだ。事実、俺は鍵に鍵を差し込んだ覚えはない。それで心配したと伝えると二人とも驚いて、ごめんと謝ったのだった。

俺は、そんな場の空気を読んで、勢いまかせに綾子ちゃんと付き合うことになったと告げた。沙彌佳も母さんも、當の綾子ちゃんも突然のことに唖然とした顔をしたけれど、良かったじゃないなどと言いはじめ、その様子はあれほど張していたのが馬鹿だったと思えるほどあっさりとしたものだった。

けれど、母さんならともかく、沙彌佳まであんなにあっさりとした態度を見せるなんて、思いもしなかった。あまりにも拍子抜けし、逆に二人して何か企んでいるのでは?などと疑ってしまったほどだ。

ともあれ、こうして俺と綾子ちゃんは、きちんとした形で付き合うことになったというわけだ。

「あ、いけない。そろそろ帰らないと」

夕飯までのささやかなひとときに、沙彌佳と母さんもえ、コーヒーとお茶けとともに談笑していた俺達だったが、綾子ちゃんは家の都合のために帰らなくてはならなくなった。

「そうか。だったら送ろう」

「え、でも……」

「あら綾子ちゃん、あなたたちもう付き合ってるんだから、そんなの気にしなくたっていいわよ。どんどんこき使ってやんなさい」

「やかましい」

茶化す母に対して制止し、俺と綾子ちゃんは席を立つ。

「それではお邪魔いたしました」

相変わらず丁寧なお辭儀をしてみせた綾子ちゃんは、ほんのしだけ沙彌佳の方に目をやったのを、俺は見逃さなかった。

「あやちゃん、またね」

一方の沙彌佳は、笑顔で綾子ちゃんにそう言って、何もじてはいなさそうだ。この顔を見る限りでは、やはり俺の思い過ごしであり、こいつもしっかりと現実というのを分かっているようだ。

「それじゃぁ、ちょいと行ってくる」

「気をつけなさいよ」

「ああ」

二人に見送られながら玄関に行き、靴をはいた。続いて玄関で靴を履いている綾子ちゃんを見て、なぜだかそれだけでこちらがドキドキしてしまう。

「はけたか?」

「はい。すみません、待ってもらってしまって」

「いいさ、気にするな」

肩をすくめながら玄関のドアを開ける。今日の夕方は曇り空ではあるが風もなく、西の空からは雲が切れて西日がさしていた。眩しくはあるが、今は逆にそれが心地良い暖かさだ。俺達はそんな中を駅に向かって歩きだした。

「今日はすまなかったな、わざわざ來てくれて」

「いえ。私もいい気分転換になりましたから……それより」

「ん?」

「さやちゃん……本當にあれで良かったんですか?」

「ああ、大丈夫だと思う。正直な話、泣きつかれたりとか、喚いたりするんじゃぁないかと思ってたんだ。思いの外あっさりといきすぎて、後でしっぺ返しがくるんじゃないかと、逆に怖いくらいだよ」

くつくつと俯きながら肩で笑った。

「実を言うと、私もそう思ってたんです。あのさやちゃんがあんなに大人しくしてるなんて、ちょっと驚きました」

「だよな。俺は最悪、綾子ちゃんとの関係が壊れちまうんじゃぁないかと、冷や汗かいたんだけどな。ま、そんなことにならなくて本當になによりだよ。これからも、あいつと仲良くしてやってくれな」

「はい。それはこちらとしてもそうさせてもらいたいくらいですよ。ただ……」

「ただ?」

「あ、いえ、なんでもありません」

綾子ちゃんは途中で話を打ち切って、口をつぐんだ。どういうべきか、そんなことを考えているかのような顔だ。けれど、その

うちにため息をもらし、俺に向き直った。

「九鬼さんは……本當にさやちゃんと何もないんですよね?」

「え? あ、ああ」

突然真剣な顔になって聞いてきた綾子ちゃんに、俺は間抜けな顔になって、短くそれだけを言うにとどまった。

「こうなった以上、もうお互いに引くことはできないと思います」

お互いに? それはどういう意味だろう。そんな疑問が浮かんだが、かまわず綾子ちゃんが続ける。

「私の推測……あくまで推測にすぎませんけど、さやちゃんは最後にもう一度だけ九鬼さんに、何かしらしてくるかもしれないです」

推測というわりに、その口調はどこか確信じみたもののようにも聞こえる。

「九鬼さんが、その……い、一線を超えたくないと本當に思うなら、絶対に拒否してくださいね? もしどこか甘えさせるようなことがあると、必ずさやちゃんは希を抱いてしまうと思うので」

「あ、ああ、そうか。そうだな、言われてみれば、あいつならもしかすると最後にってのはあるかもしれない」

その通りかもしれなかった。俺が綾子ちゃんと付き合うというのを告白した後に、漠然とした不安があったのはそういうことなのだ。多分、あれが初めてだったとは思うが、キスをしてきたほどの沙彌佳だ。何もないとは考えにくい。だとしたら、さっき笑っていたのは……作り笑いなのか?

なんにしてもだ。綾子ちゃんの言う通り、これはケジメだ。沙彌佳とは、明確な線引きをすることにもなるのだ。

「……すまないな。あいつとは友達のはずなのに、こんなことを」

「いえ……。こんなこと言うのもなんですが、もし、もしですよ? 九鬼さんがさやちゃんのことを妹として以外に見ていたら、私はそれはそれで良いとも思ってるんです」

「綾子ちゃん、そいつは」

ありえないと言いかけた時、に綾子ちゃんの人差し指がれた。

「もちろん、あくまで仮定の話ですよ。私はもし二人がそうであれば、手を引くつもりだったんですよ、本當は。だけど、そうじゃなかった。だったら、私もやれるだけやってみようって思ったんです。結果としては……さやちゃんに憎まれることになるかもしれないけど……」

どこかはかなげな顔で遠くを見る彼の言葉は、半ば獨白のようにも聞こえる。それと、懺悔のようにも。

「綾子ちゃん……」

「九鬼さん。私ね、本當は九鬼さんと出會ったの、駅で會ったのが初めてじゃないんですよ」

「え? そうだったのか?」

唐突に綾子ちゃんが切りだす。しかもそれには初耳だった。しかし俺の記憶には、綾子ちゃんと駅で會ったより以前に、會ったという記憶は一切ない。

「ふふっ。知らないのも無理はないと思いますよ。會ったと言っても、ほんの一瞬ですから」

的に曇った空模様だが、西の空は雲も切れて、西日がさしている。そのりが俺と、なによりも綾子ちゃんの姿を照らしていた。

「私たちが初めて會ったのは、実は九鬼さんの卒業式の日なんですよ」

「卒業式って……二年前の中學校のか?」

懐かしむように笑いながら、綾子ちゃんは頷いた。まさか、あの日に出會っていたなんて、思いもしなかった。しかし、一瞬と言うのだから、それも仕方ないのだろうか。

「今でもはっきりと覚えてますよ。私、その日は仲の良かった部活の先輩のために式に行ったんですけど、ちょうど式が終わって部活の皆と先輩たちと話してた時、九鬼さんがさやちゃんに抱き著かれて、『なんで式にまで來るんだ』なんて言いながら校門を出ていった……そんな場面だったなぁ」

「あー……言われてみれば確かにあったな、そんなことが」

中學最後のホームルームが終わって母さんと校舎を出たら、なぜか沙彌佳も一緒に著いて來ていたのだ。綾子ちゃんの言うようなことも言ったかもしれない。

「さやちゃんの紹介で會った時は、その頃に比べて長も大きくなってるし、雰囲気もどことなく変わってるみたいだったので、ちょっと張しちゃって。その時のこと言おうとも思ったんですけどね」

「そうだったのか。確かあの年は、式の次の日が試の合格発表だったんだよ。中學の卒業式と試の発表って時期的に被るし、あの日は式が終わってもまだ気分がそれどころじゃぁなくてな」

二年前のことを思いだしながら話をしていると、すでにもう駅は目の前だった。

「あ、ここでいいですよ。今日はわざわざ送って頂いてありがとうございます」

「いいよ。まぁなんだ……一応、彼氏ってことになるわけだしな」

鼻の頭をかきながら、目を泳がせた。こんなことを言うのもなんだが、自ら彼氏と口にするのは意外と恥ずかしい。

「そ、そういえばそうなんですよね。あはは、なんかあまり実ないなぁ」

「だなぁ。俺もだよ」

二人して笑いあっているうちに、ふと思い出したことがあった。それはあくまで今回は沙彌佳への牽制を兼ねての、“ごっこ”であったことにだ。沙彌佳の未練を斷ち切る意味でも、この中途半端は終わらせておこう。

「綾子ちゃん」

「はい?」

ひとしきり笑い終えて、真面目な顔で綾子ちゃんと向き直る。

「さっきのは沙彌佳がいる手前だったから、演技という部分もあるんだ。だから改めて言わせてくれ。俺と付き合ってくれないか」

今度はさっきと違い、悸も激しくなることもなくスムーズに言うことができた。綾子ちゃんはしだけ目を見開かせたあと目を細めて微笑み、小さく頷いたのだった。

「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」

俺の目には、その笑顔がとても眩しく映って見えた。

駅まで見送った俺は、浮ついた気持ちで家路についていた。

とても気分が良かったり、嬉しいことがあったりすると足が軽くなるとはよく聞くが、そうだと思う。今の自分はまさに、そんな狀態だった。顔も自然と緩みがちになるし、全く、いつもの自分と比べたら、馬鹿じゃないかと思ってしまうほどだ。

「ただいま」

家に帰りついて自室のベッドに寢転がると、ようやく一心地つけた。上著をぎ、ポケットから攜帯を取り出して、登録してある綾子ちゃんの番號を意味もなく見つめる。それだけでまた、自然と気持ちが沸き立ち始めた。

というよりも、今すぐにでも綾子ちゃんの聲が聞きたくて仕方がないのだ。しかし、もしかすると電車に乗っているかもしれないと思うと、もうし待ってみようと思いとどまる。

「そうだ。この際、著メロ変えてみるか」

普段はマナーモードになっているか、買ったときのままの味気ない著信音のままのため気にすることもなかったが、これを機にそうしてみるのも悪くない。普段特になにもないときはマナーモードにしているけれど、これからはそれを解除して他の著信音にみるのも、ちょっとした楽しみになるかもしれない。

コンコン

ドアをノックする音に気がそがれ、寢たままで顔をかして目をドアの方にやった。

「お兄ちゃん」

「沙彌佳か。ってこいよ」

そう言うと、ドアを開けて沙彌佳がってきた。きちんとドアも閉めるのが、こいつらしい。

「どうした?」

攜帯を枕元に置いて起き上がる。沙彌佳の顔は能面でも被っているかのように、無表だ。ここまで無表な顔は、見たことがないかもしれない。

「……」

「沙彌佳?」

「お兄ちゃん。噓だよね?」

「……何がだ?」

沙彌佳は俺から視線を逸らすように俯いた。それからはまたしばしの沈黙があった。

「あやちゃんのことだよ」

短く、簡潔に、そこには一切のが込められていない言葉だった。

「あ、ああ、綾子ちゃんのことか」

この時俺は、綾子ちゃんの読みが當たっていることを思い出した。全くその通りだったのだ。俺はため息を一つ、沙彌佳を見據えて言った。

「本當だ。おまえだって見たろ? 俺は……」

綾子ちゃんと付き合うよ。そういうだけのことなのに、なぜか言い淀む。もう、とっくの昔から決めていたことなのに、なぜ言葉に詰まるんだ、俺は。

「……俺は綾子ちゃんと付き合うよ」

沙彌佳から目をそらしながらそう告げる。自分でもなんでそうしたのかよく理解できない。

「……んで」

無表だった顔に、わずかにが込められた。

「なんで……なんでっ」

みるみるうちに、沙彌佳の顔は悲痛さを帯びていく。

「お、おい」

沙彌佳は大で一歩二歩と寄ると、両手で俺の顔を向けさせ強引に俺のを奪った。そこには前のような、思わず沙彌佳も一人のというのをじさせずにはいられないキスとは、全くかけ離れているものだった。

「ん……」

さらに俺を求めようと、今度は沙彌佳の舌がを割って、差し込まれる。

「っ!」

舌でそれを拒否しようとすると、図らずも、沙彌佳の舌にれてしまい、互いの舌が絡みあってしまう。お互いの勢もあって、沙彌佳は立ったままの狀態で舌から唾を流しこもうとすらした。

俺はそこで沙彌佳の肩を摑み、を強引に引き離した。が離れた際に、お互いのから唾の糸がび、それが途中で切れる。その糸が俺と沙彌佳のと顎にかかって濡らした。

「はぁはぁ……何、するんだよお前はっ」

手で口元を拭いながら喚めいた。

沙彌佳は口元が濡れているのも気にせず、明らかに濡れた瞳で俺を見ている。

「……嫌……嫌なんだよ、お兄ちゃんが他の人のものになるのが」

「何言ってるんだお前は。俺とおまえは兄妹なんだぞ。が繋がってるんだ。分かってるのかよっ」

「……そんなの言われなくたって分かってるよ。でも、もう無理だよ……」

「いいや、お前は分かってない。この世の中、いつまでも兄妹一緒でいられるわけはないんだ。お前は単に俺をただの人代わりにしているだけで、というのを錯覚してるだけだ」

俺はまくし立てる。多分ここからが正念場だろう。

「俺にも人ができた。もうお前にべったりってわけにはいかないんだ。分かるだろう? それにな、言ってたぜ綾子ちゃんもな。綾子ちゃん――」

言葉の途中で、飛び込むような形で沙彌佳にベッドへと押し倒された。そして再び、を重ねられる。しかし、今度のはとても短いもので、すぐにが離れていった。

「いやだよ……あやちゃんの名前言わないでよ……。私、お兄ちゃんの口からあやちゃんの名前が出ると、すごく嫌な気持ちになるんだよ。お兄ちゃんがあやちゃんと楽しそうに話してるの見ると、がすごく苦しくなるの……今はお願いだから、あやちゃんの名前は言わないでよ……お願い」

必死な懇願に俺は言葉を失った。なんで、おまえはこんなにも俺を好きなんだ。なんでの繋がった兄貴なんかを……。

「でも……でもね? 分かってるよ、本當は……。もうお兄ちゃんの気持ちは私には向いてないって……。

ううん、はじめっからそうだったの。はじめから私はあやちゃんには勝てなかったんだよ……」

そこで言葉を區切った。俺は倒れて抱きつかれたまま、それ以上何もしようとはしなかった。今ならどかせることもできたが、そうはしなかった。

「だけど無理だよ……同じ家の中に、好きな人がいて、でもその人は私のこと、そんな風には見てなくて……。凄く辛いよ、凄く辛かったよ。

でもお兄ちゃん言ったよね? まだ付き合ってないなら、私にも十分振り向かせる権利があるって。確かにそう言ったよね?」

言った。沙彌佳の言う通り、確かに俺はそう言った覚えがあった。しかし……。

「た、確かにそうだ。そのことは否定しないが、そいつはおまえが他の男を好きだからと思って言っただけで、それが俺だったんなら、あんなことは言わなかった」

第一、俺は沙彌佳のことは、ただのブラコン妹としか見ることはできないのだ。

「……お兄ちゃん。私が誰か好きになってるって、お兄ちゃん以外の人を私が好きになったって、本気でそう思ってたの?」

どこか責めるような言い方だった。だが、それに気付いていたとしても、俺の出した答えはきっと変わらなかっただろう。

「私言ったよね。好きな人がお兄ちゃんに良く似た人だって。その時、本當に何も気付かなかったの? 何も思わなかったの? それがお兄ちゃんだって……」

俺は何も答えられない。その時の俺は愚かにも、そんな奴がいるのなら會ってみたいとすら思ったのだ。だってそうだろう。まさか本気で兄貴に惚れている妹だなんて誰が信じるというのだ。

「ねぇ、お兄ちゃん……私のこと、気持ち悪い?」

「え……? そ、そんなことは……」

「お願い、はっきり言って。しでも私に付き纏われるのが嫌だって思ったんなら、そう言って」

綺麗な、はっきりとした口調。沙彌佳が本気の時のものだ。それがわかっているだけに、なんと答えればいいのかわからない。俺はなんて言えばいい……。

正直、確かに欝陶しいと思ったことがないと言えば噓だ。しかし、かと言って、それが気持ち悪いだなんて思ったことは、一度だってないことなのだ。

「お、俺は……おまえのことを気持ち悪いだなんて思ったことはない」

「本當?」

「ああ。それだけは一度だって思ったことはないよ」

しばしの沈黙の後、沙彌佳は抱きついていた俺から上を起こし、今度は腹部にがるようにして俺を見下ろした。

「お兄ちゃん……好き。大好き。ずっと前から……本當にずっと、ずっと前から私、九鬼沙彌佳は、お兄ちゃんのことが大好きです」

切なさと哀愁を漂わせるその言葉と、極まって泣いてしまいそうなほどに潤んだ瞳をみた俺は、思わず沙彌佳を抱きしめたくなってしまってどうしようもなくなった。

だが、それを頭の中の誰かがそれを拒否させた。綾子ちゃんを好きになってしまった手前、それはもうしない方が良い気がしたのだ。綾子ちゃんも言っていたではないか、絶対に拒否しろと。

しかし、またそれとは違った、また一つの確信めいたことがあった。それはもしここで俺が沙彌佳を抱きしめてしまえば、それこそ本當に一線を超えてしまいそうな、直めいた確信があったのだ。

「だから……お願い。一度で良いから……この一回きりで良いから、私を抱いてください」

酷く蠱的で、どこかびを売るような潤んだ瞳の眼差しと、俺を求めようとしてきたそのに、俺は自分の理が限界にきているように思えたのだった。

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