《いつか見た夢》第50章
ベッドに寢たまま、真っ白な天井を空虛な気持ちで見つめていた。つい何十分か前まにこのベッドの上で俺と沙彌佳は、越えてはならない一線を越えてしまった。けれどはっきり言って、自分が犯してしまった過ちを今は考えたくはなかった。どのみち考えたくなくとも、後で思い悩まなければならなくなるのは目に見えているのだ。
いや、今こうして考えてしまっている時點で、すでに考えているといっていいのか……。
「ん……」
ゴソリと俺に著したまま、沙彌佳が鼻を鳴らした。手はに、足は俺の腰の辺りにやっている。當然そうなるともぴったりと當たっているため、らかい房とその先端の突起のさのもよく分かる。
(沙彌佳……)
首を橫に向け、のままでいる妹の顔を見た。沙彌佳は目を閉じて、いかにも幸せそうな穏やかな表を浮かべている。この顔を見て俺は、とても複雑な気分になった。沙彌佳からの一方的な告白。そして、たった一度だけという約束でわした行為……。
兄妹でセックスするなんて、そんなの有り得ない、所詮は夢語……そう考えていた。考えていたはずなのに、結局は流されるがままに妹を抱いてしまった。それだけならまだしも、妹の中で果ててしまうという、この上ないほどの罪悪が今の俺にはある。
どうして抱いてしまったんだろう。自分がこうなってしまうというのは分かっていたはずではないか。
の中で出すということはつまり、場合によっては子供が出來てしまうかもしれないということだ。ましてや相手は、沙彌佳、俺の実の妹なのだ。
途端に鳥が立ち、背筋を寒気が走った。そうだ、相手は妹……を分けた親なのに、もし子供が出來てしまったらどうするのだ? 認知は? 學校は? 退學? 沙彌佳も? 親は? それだけじゃない。世間だってある。これがバレたら、間違いなく両親は離婚しようとするはずだ……。
怖くなった。全てが突然牙を剝き出しにし、俺に襲いかかってきたような、そんな覚に捕われた。目の前が、いきなり暗くなったとでも表現すればいいのか。とにかくどうしようもなく怖くなってしまったのだ。
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それに……どうしようもない恐怖にがんじがらめにされそうになった時、ふと脳裏にある言葉が浮かんだ。
『一線を超えたくないと本當に思うなら、絶対に拒否してくださいね? もしどこか甘えさせるようなことがあると、必ずさやちゃんは希を抱いてしまうと思うので』
つい何時間か前に、綾子ちゃんがいった言葉だった。綾子ちゃんの言葉によって、なおのこと罪悪が増した。
(すまない綾子ちゃん。俺は……君の言ったことを守れなかった)
綾子ちゃんの言葉を思い出すと、つかの間の間忘れていた彼への気持ちがふつふつと沸き起こってくる。綾子ちゃんと付き合うなどと言いながら、舌のも渇かぬうちに、その日に他のと寢てしまうなんて……しかも、その相手が実の妹だなんて……。
できうることならば、過去に戻って自分を叱咤してやりたい気分だった。相手がどうあれ、これは浮気ではないか。初めて人ができたその日に浮気なんて、笑えないにもほどがある。
かと言って、これを彼に言えるのか? ……馬鹿な。言えるはずがない。その日のうちにだぞ? いくら心優しい綾子ちゃんだって、こんなことを許すだろうか。
……分からない。はっきり言って、全く分からなかった。綾子ちゃんではなくそんじょそこらのならきっと、嫌悪の眼差しで俺を見て、早速別れ話を切り出してくるだろう。だが綾子ちゃんならどうだろう。それも有り得るし、困り顔で助け船を出してくれるかもしれない。……こんな卑怯な考えにすがろうとするとは、なんともけない話だが。
「……お兄ちゃん」
「ああ……」
呟くような小聲で沙彌佳が呼ぶ。
「お兄ちゃん。私、お兄ちゃんとこうすることができたこと、しも後悔してないからね?」
「そうか……」
「うん。本當のこと言うとさ、お兄ちゃんとしちゃったら、もしかすると嫌いになっちゃうんじゃないかみたいに思ったりもしたんだよ。だけど、やっぱり今も後悔の気持ちなんて全然ないの。むしろ、とっても嬉しくて表現できないくらい」
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に頬をり寄せながら、沙彌佳は続ける。
「私もね、お兄ちゃんに対してこんな気持ちを持っちゃうなんて、そんなのおかしいって思ってたんだけど……。
でも無理だった。お兄ちゃんがあやちゃんに向ける目を見て、やっぱり私はお兄ちゃんが好きなんだって。お兄ちゃんと一緒がいいんだって。だけど私はお兄ちゃんの妹だから……」
「……これを最後にしようって思ったのか」
「うん……。そもそも私がこんなお願いする方が間違ってるんだろうけど……でもお兄ちゃんはけれてくれた」
沙彌佳は著させているに力をれて、強く俺を抱きしめた。
「だから私ね、すごく幸せなんだ。大好きなお兄ちゃんに私の何もかもあげることができたんだもの……お兄ちゃんにはもう彼がいるとは分かってはいるけど。でも、それでもお兄ちゃんは私をけれてくれた。多分、そんなお兄ちゃんだからこそ、私は好きになったんだと思う」
沙彌佳は言い終えると、を顔の辺りまでり寄せた。目前に沙彌佳の顔が現れる。
「……お兄ちゃん」
そっと口づけをわし、沙彌佳は口を離した。離し際に俺のをペロリと舐めていき、そのまま目を閉じて俺を抱くように腕を回した。沙彌佳のからじる溫が、のままのに心地良い。
あまりに自然なことにじたため、顔を逸らすことはなかったものの、沙彌佳とのキスすら綾子ちゃんへの罪悪と、自分への漠然とした嫌悪があった。
嫌悪にいたってはそれだけではない。家族とこんなことをしているという何とも言いえぬ嫌悪も
確かにあった。それでも沙彌佳を拒絶できないのは、俺がただ単に臆病なだけなのか。それとも……。
ピロートークも終え、今までじたことのないプレッシャーをじながら、今後のの振り方に対して真剣に頭を悩ませていたとき、すっかり忘れていた攜帯が振した。まだマナーモードのままなのだ。
點滅している著信のライトが、電話なのだと分かる。俺は半ばけだるさをじながら、攜帯を取った。
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『綾子ちゃん』
晶畫面にはそう表示されていた。俺はまだどうしていいのか分からず、通話ボタンを押すのをためらった。今こんな狀況で、電話に出るわけにもいかない。整理もできていないし、勘の良い綾子ちゃんのことだから、電話から何かを察することもあるかもしれない。
「出ないの?」
目を閉じていたはずの沙彌佳が、攜帯を片手に畫面を見ていた俺に話しかけた。だが、そいつがどうにも気まずくて仕方ない。そもそも普通であれば、こんな狀況で攜帯なんぞ手にする方がおかしいのだろうが……。
俺を見つめるだけで、何を考えているのか分からない沙彌佳の目は、無言の迫力があった。それがまた新たな重圧となって、俺にのしかかってくる。
出ようか出まいか迷っているうちに著信は途切れ、震えていた攜帯もくのをやめた。著信がやんだとき、なぜか安堵した自分がいた。どうしてそう思ったのか分からない。だが、確かに安堵したのは間違いなかった。
「……ねぇ、あやちゃんからの電話、なんで出なかったの?」
俺の気持ちを察しているのか分からないが、そんなことを聞いてきた。真意がどうあれ、なぜかなんていうのは今の俺にとって、とんでもなく意地悪な質問だ。
「……自分でも良く分からない」
「そう」
正直な気持ちだった。それを沙彌佳がどうけ取ったのか分からないが、再び俺のに顔を埋め、指でをでた。
「……お兄ちゃんはさ、私とこうなったこと、やっぱり後悔してる?」
「なんだよ、藪から棒に」
「分かってるつもりだよ、これがお兄ちゃんにとって浮気になってるって。しかも付き合うことになったその日のうちに、こんなことしちゃって……ごめんね、私が悪いっていうのは分かってるから。ただ……」
「ただ……?」
「一度で良いから言ってほしい……好きだって」
沙彌佳の消えるような聲。それが今更ながら本気なんだと理解できる。
「お願い。……何度もお願いしちゃって呆れるかもしれないけど、これが本當に最後だから。だから好きって言って」
「沙彌佳……」
そうだ。この行為だって最初で最後のものなのだ。だったら最後の最後くらい、そう言ってやっても構わないはずだ。だというのに……なんで躊躇うんだ。もう一線だって越えた。今更なはずなのに。
「お兄ちゃん……?」
「……」
沙彌佳は顔をあげて、不安そうにもとれる表で瞳を潤ませている。俺は寢れた長い髪を指に巻き付けながら、沙彌佳の頬にれた。
最後なのだ、もうこれっきりにして全てをなかったかのように振る舞えばいい。言って楽になれ。頭蓋の中で、誰かが俺にそう語りかけてくる。
「沙彌佳。……好」
「あんた達ー、ご飯よー」
言いかけて、下から母が呼ぶ聲が響いた。今の今まで、どこか別の世界にでも行っていたかのように錯覚していた俺達は、その母の聲で急激に現実へと引き戻された。指に絡めていた髪をはらい、上を起こす。
「あっ」
を起こそうとした俺に沙彌佳は、制止するようにまだしな垂れかかったままだ。
「沙彌佳……今はやめよう」
「お兄ちゃん……」
仕方なく、といった合に沙彌佳は起き上がりながらも俺を見つめてきた。俺はどこか哀しげな沙彌佳に対しどう言葉をかけていいのか分からずに一瞥して、がされた服を取った。もちろん、これが単なる逃げだというのは自分でも痛いくらいにわかっている。
「つっ……」
いだ服を取ろうとベッドの上に座り込もうとした沙彌佳が、苦痛に顔をしかめた。苦い気分になっていた俺だったが、そんな沙彌佳にさすがにどうしたのか心配になって、すぐに橫につく。
「大丈夫か? どうした」
「う、うん。ちょっと痛みがでてきちゃって……いまさら過ぎるけど」
下腹部の辺りに手をやっている沙彌佳を見て、痛みというのが破爪によるものであったことを理解した俺は、沙彌佳のぎ散らかされた服を集めて渡した。
「ちょっと待ってろ。下に行って何か薬持ってきてやるから。いいな」
「あ、うん。ごめんね」
「いいさ。……俺のせいでもあるしな」
バツの悪い顔をして俺はベッドから立ち上がる。
「……ありがとう、お兄ちゃん」
「……ああ。とにかく上の服だけでも著ておくんだ」
そう言い殘して部屋を出た。
すでに一階には食がそそられるような、香ばしい匂いが立ち込めている。
「ご飯よ。沙彌佳は?」
「あー、今ちょっと勉強中らしい。それより傷薬ないかな。できれば粘にきくようなやつ」
「どこか怪我したの?」
「ああ、口の中をちょっと……痛いからないかと思ってさ」
「だったら薬箱の中にあるわよ」
「ん、分かった」
母にそう言われ、リビングのサイドボードの中に置かれている薬箱を持ち出し、足早に二階へと上がった。
「ちょっと、どうしたの」
「忘れ。それと沙彌佳も小さな怪我したらしいから、ついでだよ」
「そう。早く下りてきなさいよ」
適當に母を言いくるめ、俺は自室へとった。
「持ってきたぞ沙彌佳、ほら」
「うん、ごめん」
「気にするなよ」
俺が下にいたわずかな時間で、沙彌佳はすでに上半は服を著込んでいた。そこからは、とてもあんなことをしたには見えない。
「多分こいつで大丈夫だと思うが」
膣の中とはいっても基本的には口とは変わらないはずなので、極端にしみたりみなんかが出たりはしないはずだ。
「塗ってやるから、ほら足広げな」
「えっ。い、いいよ、自分でするから」
「何言ってるんだ。安心しろ、ちゃんとしてやるから」
「だ、だけど……」
「ほら、早くしろって」
恥ずかしがる沙彌佳を前に、俺は薬を手に塗った。沙彌佳は俺を見て観念したのか、顔を赤らめさせながら足を開いた。
足を開くとそこに、かけ布団によって見えなかった痕が現れた。事後の処理をした時にはあまりじなかったが、冷靜さを取り戻した今はそれがなんとも生々しく、沙彌佳がになったのだと、強くじさせるのだった。
「お兄ちゃん?」
「あ、ああ、すまん。大丈夫とは思うが、もし痛かったりしたら言うんだぞ」
「う、うん」
一呼吸し、ゆっくりと沙彌佳の膣の中へと指を差し込んだ。
「んっ」
「痛かったか?」
「ん、ちょっと……。それよりも冷たいのがしみるじ」
「そうか。なるべくゆっくりするから」
「うん……」
言葉の通り、なるべく丁寧に膣壁に薬をり込んでいった。沙彌佳は薬の冷たさと、異による疼痛に、時折き聲をらして沙彌佳は耐え忍んでいる。
「これで良し。多分これで痛みなんかはそのうち消えると思う」
「は、腫れたりなんか……しないよね?」
「さすがにそれはないと思うが……」
沙彌佳は改めてじっくりと恥部を見られたのが恥ずかしかったのか、下著を手に取るとすばやくにつけたのだった。
のろのろと布団から這い出て、ローライズを履いた沙彌佳に俺は、どこか今までと違う雰囲気を漂わせているようにじた。
食事の後、のんびりと心もも休めるつもりで風呂にっていた俺は、いざそうしてみれば休めるどころか、沙彌佳との事のことばかり考えてしまい、全く休まる気配がなかった。
沙彌佳は俺と結ばれたことに関して、後悔はないと言っていた。では、俺はどうだろう。正直に言うならば、間違いなく後悔しているといっていい。それも後悔の連続だった。
一時のに流されてしまうと大変な目に合うというが、まさしくその通りだった。沙彌佳とあんなことなってしまうのを予して、綾子ちゃんに付き合おうと言ったはずなのに、これでは元の木阿彌ではないか。
それでもまだみが全て失くなったわけではない。卑怯かもしれないが沙彌佳が、本當にこれ一度きりの関係でいてくれさえすればいいのだ。そうすれば後は、互いに口を閉ざしてしまえばなんてことはない、全て元の鞘に収まるというものだ。
しかし……。
「……そう、うまくいくものかな」
はっきり言って、そうはならないような気がしてならない。仮にそうなったにしたって、俺と沙彌佳が男との関係になってしまったという事実は、永遠に消え去ることはないのだ。繰り返すが、沙彌佳との関係が本當にこれ一度で済むのか。そんな漠然とした不安だってある。
不安なことはそれだけではない。俺自が、これから沙彌佳をただの妹として見ることができなくなってしまうのではないか。し気分が落ち著いたので考えてみれば、これが一番の懸念すべきことであるような気がしてならない。
俺はこれから先、沙彌佳を今までのように見て、沙彌佳に対して今までのように振る舞うことができるんだろうか……風呂の湯に濡れた頭を、手で抱えた。
「……くそっ、頭の中がぐちゃぐちゃだ。……一どうすればいい」
綾子ちゃんが言ったように、俺が沙彌佳と関係を結んだとしても、彼ならきっと戸いながらもそれを認め、祝福してくれるかもしれない。しかし、今はそんなことが許される立場ではなくなった。俺と綾子ちゃんは付き合うことになったのであり、もう俺と沙彌佳の関係を、見守っていこうだなどと言えるような立場の人間ではなくなってしまったのだ。俺は綾子ちゃんから責められたって、なんらおかしくない立場にいるのだ。
「綾子ちゃんに合わせる顔がない……」
湯を手に溜めて顔に流す。こうなっては最悪、別れるという選択もある。別れたくはないが、そうなったとしても仕方ないのも事実だった。
俺はため息をつきながら風呂からあがったのだった。
風呂からあがり、パジャマに著替えてリビングに行くとちょうど父が帰ってきていたようだった。
「おかえり」
「ああ、ただいま」
ネクタイを外し、著ていたスーツをハンガーにかけている。
「沙彌佳とは仲直りしたのか?」
「え? なんで?」
「あいつに會ったら妙に機嫌が良さそうだったからな」
「そうか……まぁ、仲直りできたといえばできた、かな?」
「ならいいが……どうした、今度はおまえの方が元気なさそうだぞ?」
「そんなことないさ。俺は元気だよ」
「この子ったら、さっきもぼーっとしちゃってたのよ。だって、綾子ちゃんと付き合うことになったんですもんね」
母がいたずらっぽく笑って見せた。沙彌佳と何もなければここはきっと、照れ笑いを浮かべながらやり過ごすところなのだろうが、今は逆にきつい一言だった。
「そうなのか? ……そうか。おまえももうそんな年頃か。良かったじゃないか」
「あ、ああ」
素直に喜びたくても喜べない板挾みな狀態の俺は、二人にうまく笑えていただろうか。
「とにかく、風呂はもう空いてるから。おやすみ」
「分かった。おやすみ」
この話はもうしたくないと、俺はさっさと二階に引き上げることにした。あまり長く話していては、確実にボロが出るだろう。
部屋にる前、もしかすると沙彌佳がいるかもしれないと意気込んでみたものの、思が外れた。今は自室にいるらしい。部屋に戻ると、どっと疲れが出てきた。この短時間にあまりに々とありすぎた。
時間はまだ午後十時を過ぎて間もないが、もう今日は寢てしまいたい。問題の先送りに外ならないが、今のままではどのみち、良いアイディアなど思い浮かびはしない。眠りたいと思えるうちに、求に従うのだって悪いことではないはずだ。
そう思ってベッドに転がると、そこにはいつもの嗅ぎなれた自分の匂いと違う、甘い香りがした。沙彌佳との事で、沙彌佳の匂いがベッドに染み込んでいたのだ。何時間か前にこのベッドで行われた跡を示すように、シーツには沙彌佳が破爪した跡が確かに殘っている。
そのことを思い出して起き上がり、かけ布団をはらって痕を見た。痕を指でれると、當然だがすでには凝固し、シーツの表面はかさかさとしたになっていた。
「沙彌佳の跡……」
その跡が俺に再び重圧を與えるが、今は不思議と事後にじた嫌悪よりも、沙彌佳がいない今だからこそ逆に、変におしくもじる気がする。とんでもなく大変なことをしたにも関わらず、そんな風にじるのはどうしてなんだ。もちろん、重圧はある。なのに、なんでそんな気持ちが出てくるのか……これが背徳というものなのか……。
「もうわけわかんねぇ……」
俺は苦蟲でも潰したみたいに顔をしかめてため息をつくと、どさりとベッドに倒れ込んだ。
倒れ込んだ先、視線の先に攜帯があった。著信があったようで手に取ると、著信が四回とメールが一件きているようで、それら全て綾子ちゃんからのものだった。
「……」
メールには一度連絡下さいという、なんとも簡潔な文が書かれているだけだった。大方、沙彌佳とのことだろう。今はこの問題に関して何も考えたくなかった俺は、攜帯を折りたたもうとした。
ピリリリリリリ――
そんな音を立てて電話がかかってきた。番號はやはり綾子ちゃんからだ。
さっき一度居留守を使ったので、今度は出るべきかもしれない。付き合うことになったその日から、手の平を返したようにそっけなくなるのはさすがにいただけない。
「もしもし?」
『あ、九鬼さん?』
「ああ。すまなかったな、何度も連絡してくれていたみたいなのに」
『いえ。……それよりどうでしたか?』
単刀直に聞いてきた。そもそも何度も連絡をよこしていたのも、そのためなのだろうから仕方のない話だ。
「ああ……」
どう言うべきか言い淀む。問題を先送りにしたいほど混し、綾子ちゃんにどう言うかなんてのは、これっぽっちも考えていなかったのだ。
『……やっぱり何かあったんですね?』
一拍おいて綾子ちゃんが口を開く。ここで素直に、はいと言えれば気は楽になるかもしれないが、そういうわけにもいかない。
「……」
『どうしたんですか? 何があったんですか?』
「な、何もなかったよ。……君が考えていたようなことは何も」
『え? ……本當なんですか?』
當然の疑問だろう。だが本當のことを言う勇気なんて、今の俺にはなかった。
「ああ。……すまないがもう寢るから、電話切っていいか」
『あ……はい』
綾子ちゃんの聲が沈んだのが分かった。本來なら電話代なんかを気にしながら、それでも取り留めのない話をしたりするものなのだろうが、全くそれらからは掛け離れた會話だ。すでに破局も止むなし、そんな會話としか思えない。
「……綾子ちゃん」
『……はい』
「……すまなかった。本當に」
『いえ……』
沙彌佳とのことで
罪悪を綾子ちゃんに抱いていたために思わず謝罪した俺だけども、彼は連絡をくれたことに関してと思ったのか、こちらのことを訝しむようには聞こえない。
『あ、あの九鬼さん』
「ん?」
『その、もし良かったら明日會えませんか?』
「明日?」
『はい。……駄目ですか?』
健気にも俺に気を遣ってくれているんだな、君は……。綾子ちゃんの対応に謝しつつも、今こんな狀態の俺が會っていいものだろうかという疑問があった。
「明日、俺學校なんだが……」
『學校が終わってからでもいいので……駄目ですか?』
「……分からない。分からないが、もし空いてたらこっちから連絡するよ。それでいいか?」
『ぁ……はい。じゃあ、連絡待ってますね』
「ああ。それじゃぁ、おやすみ」
『はい、おやすみなさい』
綾子ちゃんの言葉を最後に電話を切った。最後はいつもの綾子ちゃんだったようだが、明らかに無理をしていたと思う。
「……すまない」
もう聞くことのない主に向かって、俺は小さく謝罪したのだった。
深夜。
音一つ立てるだけで、やたらと大きく分かってしまうほど靜まりかえっている。そんな夜更けに俺は目が覚めた。いや、起こされたのだ。というのも、真っ暗な部屋の中でひっそりと一人の人間が立っている気配をじたのだ。
「……沙彌佳?」
こんな夜更けに部屋を訪れる人間がいるとしたら、間違いなく妹しかいない。俺は闇に紛れて影になっている人に向かって、呼びかけた。
「……お兄ちゃん」
「どうした、こんな時間に」
とは言うものの、予想はできる。また俺のベッドに潛り込もうというのだろう。
「……」
「仕方ないな、ほら」
眠たさに負けて早くってくるように促した。けれど沙彌佳はそこからこうとしない。
「沙彌佳?」
「……」
呼びかけに答えず、沙彌佳は足音を立てずに俺のすぐ前まできた。夜目に慣れてきたのか、うっすらと影の形が分かる。
「……死んで」
影はそういうと、突然俺の首を両手で摑んで絞めていく。
「っ!?」
あまりのことに頭が混するが、首を絞めている手を摑み、放そうとする。
しかし本気で抵抗するも影の力は半端ではなく、ますます指が首に食い込んでくる。
「くっ……はっ……がっ」
訳が分からない。とにかくベッドの上で、肢をがむしゃらにかして必死の抵抗をする。
「……」
影は抵抗する俺など全く気にとめることなく、絞殺機械かと思わせるように手に力を加えていく。
「あっがっ……はぁっ」
気が遠くなり始め、口から洩れる息がヒューヒューと変な音が聞こえた。
首を絞めている手を放そうとしている腕から、力が抜けていくのも分かった。
「かっ……」
「……ごめんね、お兄ちゃん。でもね、お兄ちゃんが悪いんだよ? お兄ちゃんがあやちゃんを選ぶから……」
その聲を最後に、俺の意識が唐突に途切れた。
「――っ!?」
自分でも分かる、聲を殺したき聲で目が覚める。
「はあっはあっはあっはあっ……はぁはぁ……い、今の……夢、か?」
ぼやけた頭でを起こし、部屋を見回した。今見た夢のように部屋の中は闇に包まれていて、今がまだ深夜であることが窺える。
「……なんだったんだ、今の夢は」
手で頭を抱えながら俯くと、隣にいつの間にか沙彌佳が寢ているのに気が付いた。
「……ん」
沙彌佳は鼻を鳴らして、寒そうに震えた。俺は思わず自分の首に手をやり、夢で絞められた元や気道のあたりをさすった。
「まさかな……」
俺はため息をついて再び寢転がり、布団を被った。ベッドにもぐると、背中がうっすらと汗で濡れていた。沙彌佳は隣で穏やかな寢息をたてていて、その様子からは、とても俺の首を絞めようするなんて思えない。
寢ている沙彌佳の頬に手をやって、何度もでる。頬をでながら俺は、今見た夢のことを思い返していた。なんであんな夢を見たのかは分からない。そんなことよりも夢とはいえ、沙彌佳によって殺される、ということの方が遙かにショッキングだった。
それに、あの苦しさや沙彌佳の聲。あれらは夢というにはあまりにリアルだった。そのことを思い出すと、また首に手をやって、本當は現実に起こったことなのでは?などと考えてしまう。
『お兄ちゃんがあやちゃんを選ぶから』
頭の中で、夢の中で沙彌佳が呟いた一言が、やけに現実味を帯びていて、その言葉だけが何度もリフレインしていた。
珍しく沙彌佳に起こされることなく目を覚ました俺は、朝食もそこそこに家を出て學校に來ていた。沙彌佳が卒業を迎えるまでのあいだ、ほぼ毎日続いていた駅までの登校も今日は一人だ。當然のこととはいえ、どことなく寂しい気持ちになってしまった。
しかし、今週からは授業が午前中で早あがりになり、後三日もすれば春休みだ。おまけに四月からの一年間は、沙彌佳と一緒に學校まで行くことになるので、寂しいという気持ちを味わえるのも、この數日間しかないという事実を考えれば、そいつも悪くはないと思えるのが不思議なものだ。
もう授業の過程を終了し、擔當の教師が自習という名の雑談タイムで一日が締めくくられようとしている中、俺はぼうっとしていつものように窓の外を眺めていた。今は授業のことなんて一切頭にってこないだろうから、そういう意味では助かった。かといって、今何か考えているのかと言えばそうでもないが。
そうやって何をするでもなく、何を考えるでもなくしているうちに、授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。教師の日直を呼ぶ聲で號令がかかり、教師が出ていった。
「……どうしたもんか」
生徒達が次々に教室を出ていく中、俺は一人ぽつりと呟いて席についた。そこにいつものようにタイミングを計ったかのように斑鳩がやってきた。
「なぁ九鬼。今日、これから子高の奴らと合コンやんだけど、こねえ?」
「……合コン?」
けだるそうに聞き返しても、斑鳩はそんなのは全く気にも留めず、話を進める。
「そそ。しかも、華子だよ華子。あのお嬢様學校の。行こうぜー。
あ、合コンっつってもせいぜいファミレスだから、そこらへんは気にしなくていいよ」
「斑鳩、俺は別に合コンなんて興味ないぜ。よって遠慮しておく」
「そんなつれないこと言わずにさぁ」
「嫌だね。第一、俺はそういう類いのものは好きじゃぁないんだ」
「頼むって。実は人が足らなくてさ、どうしても後一人しいんだ」
斑鳩は片手を顔の前にやって、この通りと拝むが、そんなの俺の知ったことではない。要するに俺は、行きたくもない合コンの數合わせなわけだ。
「斷る。それに俺にだって予定があるんだ。そんなのに付き合う暇はないんだ」
「なぁ頼むよ」
「しつこいぞ。そもそもおまえなら、わざわざ俺を頼らなくてもいくらだって宛てはあるだろ? 俺みたいに行きたくない奴より、そういう連中をってやれよ」
それでもまだしつこく頼もうとして、斑鳩は俺の肩を摑む。それを無視して俺は、さっさとバッグに持って帰るものを詰め込み、教室を出ようとする。
「おい、痛いぞ。放してくれ」
その時弾みで、斑鳩の手が俺の元に當たる。
「っ!」
俺は思わず斑鳩の手を思いきり払い、手を首にやった。
「ってぇ……なんだよ、いきなり……。そこまですることないだろ」
「あ……すまん。ちょっと嫌なことがあったんだ……。と、とにかく俺は帰るから他を當たってくれ」
別に強く払うつもりはなかったのだが、夜のことを思い出した俺はつい、思いきり力をこめていたらしい。
「おーい九鬼ー。なんか校門で、おまえのこと待ってる子がいるみたいだぞ。それもすっげー可い子」
廊下からクラスメイトが俺を呼んだ。
「俺に……?」
俺は顔をしかめた。まさか……。まだ何か言いたげな斑鳩を殘し、足早に校門へと降りていった。上履きをスニーカーに履き変えてグラウンドを橫切る。
「あ……」
「……綾子ちゃん」
そう、校門で待っていたのは綾子ちゃんだったのだ。クラスメイトの口から可い子と聞いて俺は、即座に沙彌佳か綾子ちゃんを思い浮かべていたので、あまり驚きはなかった。驚きこそなかったが、なぜわざわざ學校まできたのかという疑問はある。今日は俺から連絡すると言っておいたので、こんなことは予想していなかったのだ。
「わざわざ學校まできたのか」
「はい。すみません、突然。ここで待ってようと思ってたんですけど、クラスメイトの方が呼んできてくれると言ったので……」
「そうか。しかし、來るんだったら一言いってくれたら良かったのに……まぁ、いい。おかげでしつこいのから逃げるいい口実になったしな」
俯いて口をニヤリと歪ませる。
「は、はぁ」
「いや、それはこっちの話だから気にしなくていい。それより行こうか」
「あ、はい」
頭で行くよう促し、俺達は歩きだした。しかし歩きだしたのはいいものの、いざとなると話題がない。いや、ないというより、話題はあるのにお互いそれを口にするのを躊躇っている、そんなじだ。
綾子ちゃんがこうしてわざわざ學校に來たのも、沙彌佳のことであることは明白だ。多分、昨晩の電話の時に何かじとったに違いない。そして、その何かは確かにあったことで、俺は綾子ちゃんに嫌われてもおかしくないことをしでかしてしまったのだ。
結局一言も喋らず終いで駅に到著していた。けれどここにきて、ようやく決心がついたのか、綾子ちゃんが口を開いた。
「あの九鬼さん。よ、良かったらうちにきませんか?」
「……今からか?」
「ええ。九鬼さんさえ良ければ……それに、お話したいこともありますし」
ためらいがちに言う綾子ちゃんに、どうしたものかと考える。別に予定もなければ、斷る理由も見つからない。ただ一つひっかかっているとすれば、やはり沙彌佳のことだ。そして綾子ちゃんの言う、話したいことというのも、十中八九そのことだろう。
「そうだな、綾子ちゃんがいいのならお邪魔させてもらうよ」
こうして急遽、綾子ちゃんの家に行くことになった。俺にしたって、いつまでも問題を抱え込んだまま逃げているわけにもいかないというのは、変わりはしないのだ。
今まで何度か訪れたことのある綾子ちゃんの家だったが、今回ばかりはさすがに気恥ずかしい思いがした。今更といえば今更な話ではあるが。
「どうぞ」
「ああ。お邪魔します」
綾子ちゃんの案で部屋に通された。
「今、お茶持ってくるから待ってて下さいね」
そういって部屋に著くやいなや挨拶もそこそこに、すぐに綾子ちゃんは部屋を出ていった。綾子ちゃんの部屋に一人殘された俺はバッグを隅に置き、改めて部屋の中を見回した。
以前、ストーカー対策の一環で一度だけこの部屋にったことがあったが、その時はあまり中を見ることはしなかった。ただ、漠然と綾子ちゃんらしい部屋だと思ったくらいだ。
白いシーツと同じをしたベッド。その隣には本棚があり、ジャンルは分からないがタイトルから察するに、ファンタジー小説かと思われるものや、ともすれば小難しそうな本と一緒にマンガなんかも置いてある。
(……々観てるんだな)
洋服ダンスなんかもかなり凝ったデザインではあるが、なかなかに落ち著いたものだ。機も同様で、うちにある機なんかと比べると、かなり上質なもののように思える。
また機の上には、赤ん坊を抱いたが寫った寫真立てが置いてあった。俺はそれを手に取った。どこか見知った面影を殘したそのは、おそらく綾子ちゃんの母親なんだろう。目の辺りがし彼に似ている。
「すみません、九鬼さん。ドア、開けてもらえませんか?」
「ああ」
寫真を眺めているうちに、綾子ちゃんが戻ってきたようだ。俺は寫真立てを機に戻し、ドアを開けた。綾子ちゃんは盆に紅茶がったと思われるティーポットと、二つのカップを乗せて持っていた。
「お待たせしました」
「そんなことはないよ。ありがとう」
「いえ」
機に盆を置き、來客用の小さなテーブルを取り出した綾子ちゃんは、その上に盆を乗せた。
「今お茶れますから」
「どうぞお構いなくってか」
クスリと笑いながら綾子ちゃんは、ティーポットから香りよい紅茶をカップに注いでいった。
「あ、ミルクいりますよね。これも一緒にどうぞ」
「わざわざ、すまない」
綾子ちゃんの分もれ終わるのまで待ち、俺はれられた紅茶を一口飲んだ。思わずほっと一息つける瞬間だ。
「これ、うちで飲んでるのとは違うか?」
「はい。お邪魔した時にれるものとは、お茶っ葉が違いますよ」
平靜を裝って頷きながら、俺は心ではドギマギしていた。もう悔やんでも仕方のないことなのだから、いい加減、腹をすえた方がいいと言うのは分かっているはずなのだが……。
「九鬼さん」
上品に片手にけ皿を持ってカップを乗せ、そのままテーブルに戻した綾子ちゃんが、真面目な聲で呼ぶ。
「どうした?」
「私がお話したいこと……もう分かってますよね?」
「……ああ」
俺もカップをテーブルに置き、橫目で綾子ちゃんを見た。その顔はいつになく真剣だ。
「なら率直に聞きます。昨日、さやちゃんと何かありましたね?」
「……」
怒っているようでもなく、それでいて呆れているようでもなく、綾子ちゃんの聲からは何が起こったのかというのを知りたいと思う気持ちに、溢れているように聞こえた。こんな綾子ちゃんを前にして俺は、もはや隠し事をし続けるのは無理に思われてならなかった。
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