《いつか見た夢》第52章

空虛――第三者が今の俺を客観的に見て一言いわせれば、きっとこんな言葉をいうに違いない。

俺は部屋のベッドで一人うずくまり、ただただ、無意味な時間を過ごしていた。ただひたすらだ。もう食事だって何日もまともに食べていないような気がする。それより今は何日だ……? 俺はどれくらいこうしているんだ……? もう、とうの昔に日付の覚すらなくなっていた。

無気力になり、ベッドから起き上がりたいとすら思わない。どうせ起きたって、することなど何もないのだ。ただぼうっとし、どこかで座り込んで虛空を見つめるだけならば、わざわざベッドから出る必要などない。

そんな俺をよそに、家の前ではどこから嗅ぎ付けたのか、大勢の奴らが大挙して押し寄せていていた。どこかで見たことがある機械なんかを持って、道の往來に人の壁を作っている。その機械の前でマイクを手にし、リポーターらしき奴がこれまたカメラらしき機械を持った奴の前に立って、何か読みあげているような景もあった。

近所の人達にとってはどうしようもなく邪魔なのだろうが、別になんとも思わない。俺にとっては、それすらもどうでも良いことだった。

部屋は締め切っていているため空気がこもり、埃っぽくなっている。もう何日も掃除などしていないためだ。

どれほどのあいだ掃除してないかは分からないが、ちょっと手を抜いただけで埃というのは溜まってしまうものらしい。

もっとも、俺自は掃除なんてほとんどしたことがない。部屋の主だというのに、部屋を掃除していたのは、全く別の人だったのだ。沙彌佳……あいつがいつも掃除してくれていた。

別にしてくれと頼んだ覚えは一度だってない。だというのにあいつは、やらなくたっていいのにわざわざ掃除してしまうのだ。その都度、あれやこれやと文句を言いながら。

そんな文句を口にしているのを聞くたびに、だったらやるなといつも言っていたのを思い出す。

『お兄ちゃん、またゴミ溜まってるから、掃除するからね』

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これが掃除する時の合図だった。そのたびに俺は部屋を見回して、どこにゴミがと言ったものだった。きっと今の埃が溜まった部屋を沙彌佳が見れば、間違いなく掃除するからと言い出して聞かなかっただろう。それどころか、なかば怒ったようになんなのこれとでもいったかもしれない。

けれど今はもう……。

「沙彌佳……沙彌佳……沙彌――」

妹のことを思い出すたびに、なんと口にしていいのか分からないが、いくつも沸いてきた。

怒りと悲しみ、寂しさと切なさ、自分への無力もあれば、叱責もまたあった。なんであの時こうしなかったんだと。なんでもっとこうしてやれなかったんだと。

なによりも沙彌佳へのしさと、同じくらいにの中心がぽっかりと空いたような虛無。これらのが、全て沙彌佳と過ごした思い出とともにいしょくたになって、俺を襲ってきているのだ。

それともう一つ。そのぽっかりと空いたを埋めようとしている、圧倒的な後悔だった。もう過ぎ去ったことに対して、あそこはこうした方が良かった、ここはああすれば……そんなことばかりが頭の中を巡っていて、寢ても覚めてもずっとこんな調子だった。

その時、コンコンとドアをノックする音が響いた。俺は思わず勢いよくドアの方を向いた。

「……起きてるか?」

一拍おいて聞こえてきたのは、父の聲だった。

「……會社に行ってくるよ」

短く言った父がドアの前からいなくなった気配を、なんとなくだがじた。こんな時にまで會社に行く父。できればそんなものどうでも良いから、母さんについててやれよとびたくなる。

「そうか……もう朝なのか」

朝のような気もするし、晝か夕方のような気もする。暗くなれば電気をつけはするが、しかしそれももどかしく、ここ何日かのあいだは、電気すらも點けなくなったような気がする。

とにかく何かしたいとこれっぽっちも思わないのだ。最初のうちは食べなければ空腹を訴えていた腹も、いつからか全く空腹をじなくなっていた。食べなくなったことでトイレにも行かなくなったし、風呂にもっていない。

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こんな生活になってからというもの、両親とすら顔を合わせてもいなかった。今の父の言葉を聞くのだって、いつくらいぶりだろう。一緒に暮らして起きながら、いつからか、全く喋っていないのだ。

しかし、久しぶりに家族の聲を聞いたというのにも関わらず、なおも俺の関心は沙彌佳だけにしか向いていなかった。

「……沙彌佳」

うずくまっていた俺は、気付けばベッドの上に倒れこんでいた。いつの間にか、視界が橫に傾いていたのだ。

桜の花が街中に彩りを添え、いよいよ満開に近づこうとしていたこの時期、暇を持て余した學生やランドセルを背負った小學生らが、これから訪れる春の長期休暇を前に、どこか浮かれているような顔で幾人も俺の橫を通りすぎていった。

明後日で今學期も終わるのだから、それも無理はない。そんな中俺は、先ほど沙彌佳に送ったメールの返信がくるのかこないのか、それで頭がいっぱいで、落ち著きなく家路についていた。

メールの容は簡潔なものだった。

『どうしても話しておきたいことがあるから、家に戻る。それと、さっきは悪かった』

これだけだ。まぁ、家族に送るメールの容なんてのは、抵こんなものだろう。本當に重要なことはやはり、言葉にして伝えるのがセオリーというものだ。

しかし、なるべく気持ちを落ち著かせようと何度も深呼吸しているが、全く効果がない。先延ばしにしては駄目だと思いながらも、できれば沙彌佳とは顔を合わせたくないという気持ちが、浮足立たせている。

けれど、先に進んでいればいずれはゴールにたどり著くというもので、すでに家の近くにまで來ていた。

「ええい、いつまでも逃げてるんじゃねえ」

俺は自分を叱咤し、大で家の門をくぐった。

「ただいま」

帰ったことを自己主張するために、普段よりもいくらか大きな聲で言う。

「あら、おかえりなさい。沙彌佳は一緒じゃなかったの?」

ちょうど母が階段から下りてきたところのようで、出迎えてくれた。

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「ああ、ちょっとな……。それより、沙彌佳は帰ってないみたいだな」

「帰ってないわよ。あなたを迎えに行くって四時間くらい前に出てったきり。あんた、會わなかったの?」

つまり俺の前から走り去ってからというもの、まだ外にいるということだ。

「まあ、な」

「そう。だったらあんた、あの子に電話して。今晩は前にあんたが好きになった、ビーフシチューにしようと思ってるから。

あの子、こういうの作りたがるでしょ」

 母は、俺達の事など知らないのだから仕方ないとは思うが、そうだとしても、やはりそうですかと了承できない。

「ちょいと用事があるから自分でやってくれ」

そう言って俺はそそくさと自室へ退散した。母は、そんなそっけない態度の俺に、後ろでブツブツと文句を言っている。そのときふと、沙彌佳がよく文句を言っている時の癖が、母さんと良く似ているのに気付いた。

(やっぱり二人は親子だな……良く似てる)

俺は何気ない共通點に気付いて苦笑しながら階段を上がり、沙彌佳の帰りを待つことにしたのだった。

夜八時――母さんと俺は、そわそわと落ち著かない気分でリビングにいた。

「あの子、どうしたのかしら……」

「……」

俺は攜帯を手にしたまま、リビングの中を行ったり來たりと繰り返している。母さんも、テーブルについて座り、何度も時計や攜帯を見つめるという作を繰り返している。

「……沙彌佳」

こんな遅くまで沙彌佳が何も言わずに外出したことなど、今までに一度だってないことだった。喧嘩していても、無言の抵抗を表すためか部屋に篭った、というのはかつてあったが、今回はあまりにイレギュラーずきる。俺は當然、母さんも心配するのは當たり前だろう。

「……俺、ちょっとそこら辺探してくる。もし何かあったらすぐ連絡くれ」

吐き捨てるような口調は、親に向かって言うようなものではないかもしれないが俺は気にせず、大でリビングを勢いよく飛び出し、外に出た。

「くそ、あいつ一どこにいるんだ」

俺は思い付く限り、手當たり次第に探して回った。近所の公園、駅、中學校に高校、商店街や、いつか行った繁華街近くの大きな公園。それにキシマイ堂にも足をのばしてみたが、やはり沙彌佳の姿を見つけることはできなかった。

揚げ句の果てに、さっき行った綾子ちゃんの家にまで行く始末で、やはりそこも沙彌佳がいるような雰囲気ではない。

どうせ綾子ちゃんの家にまで來たのだから、確認ついでに綾子ちゃんに會おうかと思いはしたが、さすがに気が引けたのでやめておいた。あんなことになったというのに、家出のためにわざわざ綾子ちゃんを頼るはずはないだろう。もちろん、萬に一の可能がないとは言えないが、それでもいないと見ていいはずだ。

俺は攜帯を手に、沙彌佳の番號に電話した。何度かのコール音の後に、留守番電話サービスの方に繋がってしまう。さっきからずっとこうで、何度も録音を殘してはいるが、一向に沙彌佳から連絡がくる気配がない。

「……今度も駄目か」

中には、何かあったんではないか、何かに巻き込まれたんではないのか、そんな嫌な想像ばかりが膨らんで渦巻いていく。

(頼む……無事でいてくれ)

天に祈る気持ちで綾子ちゃんの家の前から離れようとした時、突然攜帯が震えた。

「もしもしっ」

わらにも縋る思いで出たため、ぶような聲になる。

『……なんでうちの前にいるんですか?』

一瞬無言電話かと思うような沈黙の後に、聞き慣れた、しかし普段よりもいくらか低い聲が聞こえてきた。電話の主は綾子ちゃんだったのだ。

「綾子ちゃん、か」

不安に掻き立てられていた俺だったが、その聲のために、不思議と落ち著きを取り戻す。うちの前にという言葉が表す通り、彼は二階の部屋の窓から俺を見下ろしているのが、こちらからも窺い知ることができた。

『……』

「……し言いにくいんだが、今いいか?」

しなら』

「分かった。なら単刀直に聞くよ。今、そこに沙彌佳がいないか?」

再び沈黙があった。ごしでも、綾子ちゃんがどんな顔をしているのか分かってしまうのは、いささか複雑な気分ではあるが仕方ない。聞いた手前、綾子ちゃんが話し出すまで待たなくてはならないが、その間の沈黙が恐い。

『……どうしてうちに來てまで、それもわざわざ電話でそんなこと聞くんですか。

それってつまり、私と終わらして、さやちゃんとの関係を続けたいってことなんですね』

「違う、そうじゃない。俺は単純に、沙彌佳がいるかどうかだけ聞いてるだけだ。それとこれは一切関係ないんだよ」

昨日の今日とすら言わず、ついさっきのことなのだから、いくら本當のことであっても信用なんてできないのだろう。仮に俺が彼の立場であっても、そう思ってしまうはずだ。

『……』

「頼む、聞いてくれ。俺は本當に沙彌佳がいるかどうかだけ知りたいんだ。そりゃぁついさっきあんなことがあったのに図々しいというのは分かっているつもりだ」

『……』

「……沙彌佳が、沙彌佳が帰って來ないんだ、あれから。んな場所を探したけど、見つからないんだ。だから」

『だからって私のところに來るだなんて、おかしいとは思わなかったんですか』

綾子ちゃんの聲はあくまで冷靜で、俺を責めている口ぶりだ。當然それは間違いではないのだが。

「もちろん、そう思ったよ。だけど萬に一つも可能がなくたってゼロじゃない。だから來たんだ。

……だが君の言うように、來たのは間違いだったかもな。さっき、あんなことが起こったばかりなのに……」

話口から、綾子ちゃんの息遣いすら聞こえてきそうなほどの沈黙。その沈黙を、綾子ちゃんは靜かに破った。

『……さやちゃんは來ませんでしたよ』

「! ……そうか。すまないな……」

『いえ……』

「……」

今言うべきなのか迷ったが、言わなければ、またタイミングを失ってしまうかもしれない。こうして家のそばに來ていた俺に、わざわざ電話してきてくれたのだ。

「……綾子ちゃん。俺は確かに沙彌佳と関係を持っちまったのは事実だ。そのことに言い訳はしない。だけど……だけど一つだけ言わせてくれ。俺は君のことが好きだ。當て馬にしたとか、形だけだとかそんなんじゃない。本當に好きなんだ。

沙彌佳のことは、自分でも本當に最悪なことをしでかしたと思ってる……間違いだったと思ってる。最低だとも分かっちゃいるつもりだ……だけど俺は、君と別れるなんて嫌だ」

再び長い沈黙が訪れる。綾子ちゃんと話しができないというだけで、俺達の間にとても分厚いガラスの壁ができているような錯覚に陥った。

しかし電話からは、綾子ちゃんが何か言いかけているような、そんな気配をじていた。

「すまん……一方的なことしか俺は言えない。まだ々と考えたいこともあるだろうから、今日はこれ以上もう何も言えることはないけど……もう一度やり直してくれないか」

まだ始まったばかりでやり直すだなんて言葉もおかしいが、率直な気持ちを述べたつもりだ。

『……し』

「ああ」

し考えさせてください』

「いいよ。……君が落ち著くまで、待ってる」

『それじゃ……』

「ああ、待ってるから」

そのやり取りを最後に俺達は電話を切った。けれど視線の先には、二階の窓から俺を見ている綾子ちゃんがいる。互いにしの間だけ見つめ合った後、どちらからとも知れずに視線を外した。

綾子ちゃんは窓にカーテンを、俺は彼に背を向けて歩きだしたのだった。

夜十一時半も過ぎ、そろそろ日付が変わろうという頃に家に戻ってきた。探す當てもなくなって途方にくれていた俺は、いたずらに街を歩き回っただけでなんの手掛かりすら得ることなく、舞い戻ってきたのだ。

家に戻ると父さんが帰っていて、母さんと面をぶつけるように相対して席についていた。

「おかえり」

「ああ、ただいま……」

帰ってきた俺を見て、沙彌佳を連れていないのを見た父は、小さなため息をらしてそういった。すでに話は母から聞いているようだ。

その母さんに至っては、両手を額にやって俺が帰ったことなど気にも留めていない様子だ。

「そっちはどうだった?」

「駄目だ。クラスメイトにも一通り連絡してみたが、誰も知らないそうだ……」

渋い顔で父が言う。まだスーツすらいでいないところを見ると、帰ってすぐに沙彌佳の級友らに連絡をとったのだと思われた。

「なんで突然……」

母の何気ない呟きに、心が痛む。沙彌佳がいなくなったのは、俺が関係しているようでならないのだ。いや、十中八九そうだろう。あんなことがあった直後なのだ。俺が関係していないと考える方がどうかしている。

「とりあえずここは私たちに任せて、風呂にりなさい。まだ明日は學校だろう」

「でも……」

「いいから行きなさい」

父の靜かながら強い言葉に、俺はかける言葉を失った。

「……分かった」

父さんがああ言うようになった以上、今は何を言っても無駄だろう。昔からそういう人間なのだ、九鬼真太朗という人間は。

俺は返事もそこそこに、黙ってリビングを出て自室へと戻っていった。

風呂というのは本來であれば、嫌なことは文字通り水に流し、ゆっくりと過ごすべき時間と俺は考えている。しかし、今日はそういうわけにもいかなかった。間違いなく今回の件に、自分が深く絡んでいるはずなのだ。

もし沙彌佳が事故か何かに巻き込まれて、意識も朦朧としてどこかで俺達を待っているとしたら? それとも、のひいき目なしに人目を引く容姿をしている沙彌佳に、派野郎の手がかかっていたりするのだろうか?

もちろんそれならば、まだいくらかは救われるというものだが、もしそうなら、そいつは今すぐにでもぶちのめしてやるところだ。

そしてなによりもだ。あいつが何か、とんでもないことに巻き込まれていたら……? 一度そうネガティブな方向に考え始めると、たちまち疑心暗鬼にとらわれてしまう。ここ數カ月で起こった、俺の周囲を取り巻く狀況。それが何であるかはさっぱりだが、何か関係していたりするのだろうか。だとすれば、その巻き添えを食ったという可能はどうだろうか……。

俺は風呂からあがってベッドの上にいる今も、同じことばかり考えてしまっていた。気付けば、時刻はすでに真夜中の三時を過ぎ、三時半を時計の盤面は示していた。

明日……すでに今日だが、學校があるとは分かってはいても、気が気でないため、全く寢れそうにない。欠の一つだって出ないのだ。眠れない俺はため息をついて、ベッドから起き上がる。

「……何か飲もう」

部屋を出て、なるべく足音を立てぬよう階段を下りていくと、リビングにはまだ電気がついていた。

「……」

「父さん」

靜かにリビングにって、一人椅子に座って佇んでいた父に聲をかける。その恰好はまだ帰った時のままで、手には酒のったグラスがあった。

「……どうした? こんな時間に」

「いや、全然眠れなくてさ」

「そうか……」

「母さんは」

「ついさっき、睡眠薬を飲ませてようやく落ち著いたところだ」

「そっか……」

俺は冷蔵庫からビールを取り出した。アルコールなんて生まれてこの方、一口だって飲んだことなどないが構うものか。プルに指をやって、缶を開けた。炭酸の抜けていく音が、なんとなくだがうまそうに聞こえる。

「……おいおい、未年だぞ」

いつも座る席について、CMなんかでやっているように、一気ににビールを流し込む。それを見ていた父がしだけ驚くように見ながらそう言った。

「――っくぅ、父さん達、よくこんなの飲めるな」

一気に飲み込んだため、350ミリリットルのビールは早くも半分ほどになる。

「最初は誰でもそんなものだよ。しかし、だとしても良くそこまで飲めるものだ」

「ただの見様見真似だよ」

炭酸飲料を飲んだ時特有の、ゲップを吐き出しながら、缶をテーブルに置いた。

「それに、こうでもしなきゃ眠れそうにないんだ、本気で」

「……そうだな」

そうしてお互い俯いてしまった。実際には果たして、本當にアルコールの効果で眠りにつけるのかわからない。けれど、そうせずにはいられなかった。沙彌佳からはまだ何も連絡はない。それがこんな夜更けまで酒を煽っている、父さんの理由なのだ。もちろん、だからこそ俺もそうしようと思ったのだが。

「……」

「……」

父さんは、ショットグラスにった殘りを俺がやったように、一気に飲んだ。

「……まずいな」

「何が」

聞き返す俺に父さんは、苦笑いをしながら俺が理解するにはまだ早い、と肩をすくめた。

「それよりも飲んだら寢ろ。眠れなくても、部屋を暗くして橫になるだけでも違うから」

「ああ……」

喋ることがなくなった俺は、殘りのビールを胃に流し込み、空き缶を流しに置いた。ビールは胃が重たくなると言うが、確かにそうかもしれない。そして、たった二口で一缶開けたためか、全を巡っているがやけに溫かいようにじる気がする。

ほろ酔い気分の時というのは、心地良い眠りにつけるとも聞くが、今がそんな狀態なのだろうか。意識ははっきりしているが初めてのアルコールが、眠れないをうまいこと寢させてくれそうな気がしながら、俺は部屋に戻っていったのだった。

部屋に注ぐしに眩しさを覚えて、目を覚ました。カーテンは中途半端に半分ほど開いており、そこからしがってきているのだ。

俺は眩しさに目を細めながら、寢ぼけた頭で時計を探す。カツンと手に當たった時計を摑んで盤面を見ると、なんとすでに時間は十一時になろうとしているではないか。

俺は信じられずに、今度は攜帯を手にとって見てみれば、『10:59』から『11:00』に數字が変わった。俺の見間違いじゃないことを確認すると、ベッドを跳ね起きた。

自分で寢過ごしておきながらこんなことを言うのもなんだが、なんだって誰も起こしにこないんだ。毒つく思いで制服に著替え部屋を飛び出すと、家の中が妙なが漂ってるのに気がついた。

(なんだ……?)

下からは、聞き慣れない男の聲が聞こえていたのだ。不穏にじた俺は、無意識のうちに貓立ちのようになっていて、音を立てないように階段を下りていた。

「……それでどうされたんですか?」

リビングにった時、中にいた背広を著た男二人が俺を見た。

「……」

なんなんだ、一……。考えてみたところ、即座に沙彌佳のことなんだと気付いた。思えば、俺が寢坊したのだって沙彌佳に起こされなかったからなのだ。

そしてその沙彌佳は、昨晩からまだ帰ってきていない。つまり、今目の前にいる男達は警察か何かの人間ということだ。

「息子さん?」

俺を一瞥した年長の男が、ソファーに座り込んでいる母に聞いた。母は俺を見ながら頷く。

この人達は?とは聞かなかった。なぜならもう一人の年長の男と比べ、まだ歳若い方の男は去年、今井の事件の際に俺と會った男だったのだ。確か南部とかいう刑事だ。年長の男は南部という男の上司か何かなんだろう。

「ちょうどいい。君にもし聞きたいんだが、いいかね?」

「はぁ」

頭が禿げ上がった年長の男は畠と名乗り、鋭い視線をぶつけてくる。威圧のある視線に俺は、思わずけない聲で相槌をうっていた。

「君が最後に妹さんを見たのはいつだね?」

「……」

畠と名乗った刑事は単刀直に聞いてきた。俺は母のいる手前、その質問にどう答えたものか悩む。というのも昨日俺は、母に沙彌佳とは會ってないと答えたのだ。

「確か……朝、あいつが俺のベッドに潛り込んできたのが最後だったと思います」

「朝?」

「明け方に良く潛り込んでくるんです。それで昨日の朝も」

畠はただ頷くだけで、それ以上は何も言ってはこなかった。最後に會ったのは違うが、噓は言っていない。

「ふむ。それで娘さんが息子さんを迎えに行くと言って出て行ったのが最後だったと」

畠の後をついで、南部という刑事が続けた。母さんはそれにコクリと頷くだけで、何も答えようとはしなかった。母の顔を良く見れば、どことなくやつれているようにも見える。いつもの溌剌とした雰囲気は一切じられない。ただただ茫然自失というじだった。

「……あの刑事さん」

「何かな?」

「沙彌佳は、妹は何か事件に巻き込まれたんでしょうか……?」

「現時點ではまだ分からないが……その方面で捜査はするつもりだよ」

「……そうですか」

「ああ、沙彌佳……」

畠の言葉に俺はただ相槌をうつことしかできず、母は悲痛さをじさせるように、両手で顔を隠してうなだれた。

「とにかく、もし何かあったら先ほどの番號にすぐに連絡をお願いします」

二人は、テーブルに置いてある紙に書かれた番號を示しながら言う。母さんはそれどころではなく、すでに心ここにあらずだった。俺は母さんの代わりに二人に頷き、その紙を手にとった。

「ここに電話すればいいんですね?」

「ああ、頼むよ。何かあったら、の話だが」

二人はそれでは失禮しますと頭を下げ、リビングを出た。うなだれてけない母に代わって俺が二人を見送ろうとするが、畠が今はお母さんのそばにいてやりなさいという言葉を殘し、見送りはせずに母さんのそばに寄る。

「うう……」

「……母さん」

俺は母の隣に座って、そっと肩に手をかける。こうして母のれるのなんて、一いつぶりだろう。

「ぅう、うう、うぅぅ……」

手を肩に置いた途端、聲を押し殺すように泣き始めた母を前に驚きと困を隠せなかったが、俺は母さんのを抱きしめた。こんなことをするのは初めてだが、こうしてやるくらいしか今の俺にはできなかった。

(母さん……こんなに小さかったっけ)

ぼんやりとそんなことを考えながら俺は、いつまでも泣き続ける母さんを抱いていたのだった。

二人の刑事が家を訪ねてから、すでに三日が経っていた。いつもは気丈で溌剌とした母が、聲を押し殺して泣いてみせた日、結局俺はどうせ遅刻なのだからと學校には行かず、そのままずっとそばについていた。

途中、仕事に行ってしまっている父に連絡をいれようかとも思ったが、帰ってからにしようと連絡はしなかった。夜、帰ってきた父もいつも以上に疲れているように見えたのは、決して気のせいではないだろう。

俺が起きた時すでに父さんがいなかったのは、きっと気丈に振る舞った母さんが気にしないでとでも言って、仕事に向かわせたのだろう。母の格を考えれば、その方が納得もいくというものだ。

次の日、つまり一昨日も俺はもう學校の授業もないからと、適當に父を言いくるめて仕事に送りだした。父さんからすれば、しは家族を思って休みにしたかったのだろうが、世間というのは自分のこと意外には関心が薄いようで、せいぜい數日ほどの休みしか取れないらしい。ならば、しばらくは俺が世話をした方が良いというものだ。

そんなことがあってすでに三日になろうとしていたこの日、家に例の刑事から連絡がった。

「はい、もしもし」

『N市警の畠ですが……今いいですか』

「あ、どうも……あれから何か分かりましたか?」

『殘念ながらまだ何も……』

「そうですか……」

この三日間、俺も沙彌佳のことが気掛かりで、あまり寢ていない。それもあってか、まだ何もないと言われるとさすがにつらいものがある。なんだかんだで、俺も疲れてきているのかもしれない。

『それでしお話があるんですが……今回の件、公開捜査にした方がいいのではと思いまして』

「公開捜査?」

『ええ。いかんせん、妹さんの報が集まりませんで』

「公開捜査にすると何が違うんです?」

『まず、誰々を見た、といったような報が得やすくなる、というのが最大のメリットですな。必然的に我々としても捜索はしやすくなりますし』

「……そうですか」

畠の説明によればデメリットとして、いたずら目的の報や、いたずらではなくても全くの見當違いな報もあるらしく、必ずしも捜査がやりやすくなるものでもないらしい。しかし全く報が出ない以上、公開捜査に切り替えた方が、可能としては高くなるだろうとのことだった。

『……ただ』

「はい」

『お宅の妹さん、人でしょう?』

「……それがどうしたんですか?」

畠の突然の言葉に嫌な予がした。

『あまり言いたくはないんですがね……おそらく、マスコミが騒ぎ立てると思うんですよ。人の被害者っていうのでね、向こうの食いつきがやたらよくなってしまうんですわ』

なるほど。つまるところ、そうなると自分達の捜査の妨害になってしまうことがあるというわけだ。しかし、報が集まらない以上、いつまでも手を拱いているわけにもいかない。人命に関わってくるのだから、市民の力を得る代わりに、そういった低俗なことも覚悟が必要ということか。

『それだけにね、一応ご家族には一報いれとかんとならんわけです。ご家族で話し合ってもらって、後日、私の方に連絡して頂けないかと思いましてね』

「……分かりました。今晩、話し合ってみます」

『はい。よろしくお願いします。それでは』

畠の言葉を最後にを元の場所においた。俺はをおいたまま、小さなため息をらす。

「公開捜査か……」

マスコミが食いつくというのは、多分夕方や晝間にやっているワイドショーか何かのようなもので、取り上げられたりするのだろう。あれで見る限り、被害者の家族達はどことなく疲弊しているように見える。連日のように取材やなんやらが押しかけて來るのかもしれない。

そう考えると、むやみに公開捜査にするのは決していいことだけではなさそうだ。しかしメリットもある以上、こうやって電話してきたのだろう。

俺は重たい気分でテーブルの席について、両手で頭を抱えている母さんのところに行った。母さんは沙彌佳が姿を消してからというもの、毎日こんなじだ。家事が得意で、ガーデニングなんかが趣味だったはずの

母が、この數日の間はそれらに全く手をつけないでいたのだ。

「……誰?」

ひどく沈んだ聲で、母さんが聞いてくる。

「警察。……捜査に全く進展が見られないって」

「そう……」

予想していたのか分からないが、母は丸っきり興味のなさそうな聲で言う。聲からも、明らかに神的な疲弊をじさせる。

「それでさ、前にきた刑事が、公開捜査に切り替えた方が良いんじゃないかって言ってきた」

「公開捜査……」

今畠からけた説明を母にすると、目を見開き、椅子から立ち上がって突然喚き出した。

「何よそれっ。なんで初めからそうしなかったのよっ」

「落ち著きなって。公開捜査にはデメリットもあるらしいんだ」

こちらにもはっきりと分かるほど息を荒くした母を宥めながら、説明の続きを話す。デメリットとそうなった場合の狀況を自分なりに予想したことを話すと、母は今度はへなへなと力が抜けていき、再び椅子に座ったのだった。

「そんな……」

「……もちろん俺の予想だし、必ずしもそうなると決まったわけじゃぁないけど、それも有り得るって話だから」

フォローはしたつもりだが、そんなのは全く聞こえていないかのように母は俯いてしまった。俺は苦い気分のまま席につき、俺の橫にある沙彌佳の席をちらりと見た。

本來なら俺も春休みにり、こうしている間に沙彌佳のやつも、この椅子に座っていたのかもしれない。そう考えた途端、また自責の念が込み上げてくる。間違いなく沙彌佳は、俺との口論であの場を去ってしまったのだ。つまりあいつがこうなってしまったのは、俺のせいであると言えるのだ。

そうなると、今こうしてひどく重い気持ちになってしまっている両親のことを考えると、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。こんなことになるなら、沙彌佳を抱くんじゃなかった。思えば、この一連の事柄全てそのことに起因している。

真紀が言っていたように、俺は自分が傷つきたくなかったからこうなってしまった。沙彌佳に嫌われたくないという一心で、結局は傷つけ、結果、俺はこうしてこんなところにいる……それが自己嫌悪に浸らせる。

「……沙彌佳」

ごめん、とは母のいる手前、口にはしなかったが代わりに母は、俺の気持ちを代弁するかのように啜り泣きはじめた。俺はただ苦い気持ちのまま母の様子を見つめ、ひたすら父が帰ってくるのを待っていた。

ぼんやりと何日も前に起こった出來事を、そんな風に思い返していた。

父が帰ってからは、三人で面を合わせて話し合った。とはいっても、ほとんど俺と父だけで進行していったのだが。

デメリットを父に話し、その上で公開捜査に切り替えようという結論に達した。ただしすぐに連絡はせず、後一日か二日待って何もなければ、というのが條件だった。

結果としては、二日待ったものの何もなく、畠に連絡をすることになったのだ。畠は特に追求することなく、分かりました、と短く答えただけだった。

それから一日と経たずに、テレビやラジオ含め、沙彌佳の失蹤が全國に知られることとなった。そのあまりに速い対応は、もしかしたら向こうも、あらかじめこうなると予想していたのかもしれない。

しかしそうなると対応に追われるのはこちらも同じで、引っ切りなしに電話が鳴るようになってしまった。家の電話には當然親戚がまず始めに、次に沙彌佳の友人らが、そして俺のクラスメイト達からの電話と後を絶たなかった。

當然級友らからは攜帯への著信もあって、途中からはそれら一つ一つに対応するのも、欝陶しさすらじるようになった。もちろん、彼らはあくまで俺を心配してくれてのことだから、あまり無下にはできなかったのも事実だったが。

けれど、そんなのはまだ良かった。知人たちからの電話がようやく一段落ついたかと思えば、どこから俺の家の番號を知ったか知らないが、マスコミからの電話が鳴るようになったのだ。

これはさすがに腹立たしかった。取材の件で、ということだったが、今家族がこんな狀態では無理だと何度斷っても、しつこく電話してくるのだ。そのうちに、家の前に一人また一人と、ついに報道陣が群れを為すようになっていた。

うんざりした気持ちでテレビを付けると、畫面には見慣れたこの家をバックにし、俺達のことなど何も知らないくせに知ったかぶった連中が、何かを口々に言っていた。連中はまず沙彌佳の容姿を槍玉にあげ、裏を返せばまるで、あいつが人だからこうなったのだと言わんばかりの、最低なコメントを言うような奴すらいる始末だった。

事実、あるテレビでは失蹤事件なんて、人が食いつきそうなテロップなんかも付けて報道していたものもあった。何日か前に電話してきた畠の言ったことが、まさしくそのまま再現されていたのだ。

怒りを覚えながら、それでも俺はテレビの畫面を見続けた。この報道を見たら、もしかしたら……そんなわずかな希を抱いてだ。

しかしそれも虛しく、捜査は何の進展もなかった。一時、報道は過熱し、営利拐説、事故に巻き込まれたという説、揚げ句の果てには、北や中國の工作員による拐説……聞いて呆れるほどの憶測が飛びっていたが、なんの進展も見せない事件に、マスコミも徐々に飽き始めていたのだった。

そんな中、暦もとうに四月にってそろそろ進級し、新生もろうという頃になって、ついに神的な疲弊によって母さんが倒れた。さすがの父も、これには會社もそこそこにすっ飛んできたものだった。

醫者の話では、神的な疲労が臓疾患を及ぼし始めているとのことだった。ここ何日もの間、まともに食べていなかったことを考えると、こうなってもおかしくないとも。それに母は、元からがあまり丈夫な方ではなく、そのために薬を必要とする病気を持っていたというのも多なりとも関係あるらしい。

とりあえずは點滴をけて、大事には至らなかったが、院することになったのだ。

俺もそんなことがあってからというもの、沙彌佳がいなくなってからずっと張り詰めていた張の糸が、ついに切れてしまったのか、何もかもを全くやる気がなくなってしまった。その日からというもの、もう何日も部屋に篭りっぱなしになったのだった。

俺は傾いたままの視界を起こすこともなく、再び瞼を閉じようとした時だ。

プルルルルル――そんな音が下から聞こえてきた。

一度は起きようかとも思ったが、面倒にじて居留守を決め込んだ俺は、下に行くことなく瞼を閉じたのだった。

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