《いつか見た夢》第54章

十月の學校行事と言えば中間考査があり、そして文化祭だ。學校によって前後したりはするだろうが、まあ、大そんなものだろう。うちの場合は、中間考査が終わって二週間で文化祭がある。

普段は不真面目な奴も、この時ばかりはいやに協力的だったり、見たまま不真面目だったり、もしくは真面目なままのやつというように見せる顔は様々だが、皆何かしら普段とはテンションが違っているのは間違いない。

すでに今週末に迫った文化祭に向け、授業は午前中までとなり、午後からは準備に追われることになる。特に、今日を含めて後三日しかない今、皆いつも以上にピリピリとしたを漂わせていた。

そんな中俺はというと、普段とほとんど変わらないテンションで文化祭に臨もうとしていた。かといって、別に準備に不真面目というわけでもない。人にあれをしてと言われたらやる、そんな程度だ。それ以外ではただ人のしているのをぼんやりと眺め、言われるのを待っているという狀態だった。

今年はクラス替えをしなかったこともあり、去年とクラスメイトが変わっていない。そのためクラス全員が俺の事を知っているのだ。春休み以前とは、明らかに違う俺に対して皆一線引いているといった印象をける。

俺としては格段そんなことをんでもいないが、むやみやたらに同の言葉をかけられるよりは良い。

にそうめてはいるだろうが、そんなことをなるべく言わず、普通に話しかけてくれるクラスメイトもわずかにいるが、どうにもギクシャクとした態度になってしまっているのは、この際れないでおこう。俺だって、そいつは仕方のないことだとは思っているのだ。

けれど、俺はこの學校という空間が好きだった。というのも、學校にいる間は全ての時間とまではいかないが、家族のことを考えないでいることができる唯一の時間といっても良いからである。

しかし、どうしても考えたくもないのに沙彌佳のことが脳裏に思い浮かんでくる時間というのがあるのだ。決まってそれを思い起こしてしまう時間が、こういった皆の雰囲気が違った時だった。

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あんなことがなければ、きっと今頃はあいつもクラスの出しの準備に追われているんだろうかとか、あいつのことだからきっと、授業が終われば毎日のように俺を迎えにきてたんだろうかと、そんなことばかり考えてしまう。中學の時だって、機嫌が悪い日であっても教室の前で待っていたやつだったのだ。

「九鬼くん。悪いけどこれ、捨ててきてくれない? これごと燃やしちゃって良いから」

ぼんやりとしていたところ、クラスの子がゴミを捨ててくれと、ダンボールにった紙クズを指差した。

「了解」

一つ返事で頷き、ダンボールを持ち上げて焼卻爐へと向かう。焼卻爐は校舎の裏になるため、今の教室からはし離れている。

教室を出て焼卻爐に途中、隨分と久しぶりに斑鳩が話しかけてきた。クラスにはいなかったし、準備には參加せずに、どこかで暇を潰していたようだ。

「よー九鬼」

「斑鳩か」

「そ。皆のアイドル斑鳩だよ」

「……自分で言うなよ」

相も変わらず軽い奴だと、俺はため息をらす。

「まあ、細かいことはいいじゃん。で、今何してんの?」

「見ての通り、ゴミ捨てに行くところだ」

「ふーん。なら、おれも一緒に行こうかな」

「なんでだよ……。何が悲しくて、野郎二人で焼卻爐まで行かないとならないんだ」「まあまあ。そんなつれないこと言わずにさ」

斑鳩を無視するように俺は歩きだしたが、やつはこんな調子の俺のことなどお構いなしに著いてきた。校舎裏の昇降口を出ると、中とは打って変わって途端に人がいなくなる。當然と言えば當然だ。誰だって、こんな寒々しい場所になんかわざわざ來る奴はいないだろう。

俺はダンボールを置き、中の紙クズなんかを小分けしながら焼卻爐の中に放り込んでいく。

「ところでさ九鬼」

「なんだ?」

「おまえってさ、春に隨分落ち込んでたじゃん。妹がいなくなるってだけで、あんなに落ち込むほどなん?」

「なに?」

ダンボールの中を全て放り込み、後はダンボール本だけとなった時、斑鳩は前置きもなしにいつもの軽い口調で言ってきた。

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「だからさ、おまえ春休み明けてからしばらく學校こなかったじゃん? 妹いなくなったからって、そんなになるもんなん?」

「知るか、そんなこと。別に俺だってなりたくてなったんじゃないっ」

的にこいつをぶちのめしたくなるが、ぐっと堪え斑鳩を睨みつける。なんだってこいつはこんなことを言うんだ。

「ふーん。ま、いっけどさ。じゃあさ、一つ気になったんだけど、おまえってさあ……」

あえて一拍置くこの男の話し方は、妙に俺を苛立たせる。しかも、流し見る目は何か含みをじさせてならない。

「なんだ。何が言いたい?」

「いやさ、意外とに飢えてんのかなと思ってさ」

「何? 俺が?」

「そ。毎日、あんなに可い子連れて學校に來てるし」

「別にいいだろう、そんなの人の勝手だ」

「それに」

今まで含みをじさせるにやけ面だった斑鳩は、途端に真面目な顔になった。

「おまえ、綾子ちゃんだっけ? あの子のこと利用してるだけだろ」

「……」

図星だった。確かにそうだ。確かに俺があの子の優しさに甘えているのはまぎれもない事実であり、ある意味で利用しているというのも否定はできなかった。

「俺、曲がりなりにも中坊の頃からんなの子と付き合ってきたけどさぁ、九鬼の綾子ちゃんに対して見る目がなんか違うってじるんだよね〜」

こいつはいつも、なんでこうもこうタイミングが良すぎるんだ。まるでいつも俺を見てきているような……。

そこでふと、この男に関して疑問が浮かんだ。こいつのタイミングの良さ……それに去年から今年の始め頃にあった、挙の読めない行……。

「……斑鳩。おまえ、一何を知ってる?」

「なにが?」

「とぼけるなっ。お前、何か隠してるだろう。

前々からお前の行には不審と思えることがあった。一何を隠してるんだっ」

斑鳩は驚いたような顔をした後、目を細めていった。

「九鬼……おまえ、何言ってるのかさっぱり分からないんだけど」

「やかましいっ。今年の正月に會ったのは覚えてるだろう。あの時お前、あの黒い車の中で何をしてたんだっ」

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斑鳩に一歩詰め寄って、俺は喚きたてた。すると今度は斑鳩が押し黙る番だった。その端整な目を逸らし、苦い顔になる。

「図星みたいだな。言え。なんだっていきなり妹の話をする? もしかしてお前と何か関係があるんじゃないのか?」

俺は、斑鳩の元を摑むような勢いでさらに詰め寄る。

斑鳩は始めこそ苦蟲を噛み潰したような顔をしていたが、その顔からふっと力が抜け、再び人を小ばかにしたようなにやけ面に変わった。

「おいおい、何を言い出すかと思えば……。ま、正直、正月の時の話を言えば、まさか見られてるなんて思わなかったよ。

だけどな九鬼。かと言って、それとおまえの妹の話、どこがどう繋がるっての? その拠は?」

拠だと? そんなのはない。だがな、あの時見た車と同じ車が、縁日の會場にぶち込んだんだ。あれは決して見間違いなんかじゃぁない。俺はこの目で確かに見たんだ」

「やれやれ。話にならないな……。九鬼、良く聞けよ? 仮にだ、その車が九鬼の言う通り、ぶち込んだ車と同じ車だとしよう。だとして、その車が俺の乗ったものと同じとは限らないだろ?

この話と沙彌佳ちゃんの話、なんの脈絡もないじゃん」

「それは……」

斑鳩の言う通りだった。車の話と妹の失蹤、どこにも関係がない。だが俺は、しの間ではあったが苦い顔をしたこの男に対して、もしやと思ったのだ。確かに言っていることは間違いないが、どうしても、それとこれを切り離して考えることができない。

正確に言うならば、車の件に関して言えば、直接沙彌佳が関係あるとは思わない。しかし、何をしていたのかは知らないが斑鳩の乗った車と、あの縁日での車……あれは同じものとしか思えない。

つまり、何ヶ月か前に俺を取り巻いていた狀況とそれらは、どこかで繋がっているのでは。俺はそう結論づけたのだ。なにより、こいつの言うことには、たとえ正論であっても鵜呑みにすることができないというのもある。

「……信じられないって顔だな」

斑鳩はやれやれとでも言わんばかりに肩をすくめ、ため息を吐いた。

「當たり前だ。そんなの信じられるわけがない」

「はあ。九鬼ってさぁ、おれのことなんでそんなに嫌ってるわけ? おれ、別におまえに何かしたことなくない?」

「そうかもな。だがな、俺はお前の言葉には今ひとつ信憑を持てない。だからだ」

「うわ。それ、めちゃ酷くねぇ……」

冗談だと思っているのか、斑鳩はおどけながら、くしゃりと顔を歪める。

普通のなら、こいつのこういった三枚目なキャラクターに意外じて、仲良くなるのかもしれない。しかし俺には、そんなものはただの演技にしか見えない。一度疑ってしまうと、とたんになにもかもが噓っぽく見えてしまう。

「大、妹がいなくなったついでに親が倒れたからって、その苛々を俺にぶつけないでほしいもんだよ、全く。そんなに家族が大切なのかよ」

この男との押し問答はもうごめんだと踵を返そうとした時、斑鳩が小さな聲でそうぽつりとつぶやいた。

「何……?」

「あれ、聞こえてた?」

こいつには聞こえない程度の小聲だったのかもしれないが、俺の耳にははっきりと聞こえた。

「今なんて言ったおまえ」

「あらら、聞こえちゃったみたいだな。悪かったよ」

斑鳩はいつものにやけ面で謝るが、そんな軽い態度で言われたってムカつくだけだ。今までもこいつの軽口には目をつぶってきたが、今回はもう我慢できそうにない。

「お、もうブチ切れる寸前って顔だな」

怒る俺を前にしてもこいつは全く揺することなく、いつものように飄々とした態度と口調でニヤリと笑う。こいつは俺を挑発しているのだろうか……冷靜な部分が落ち著けと怒る俺を宥めようとするが、もう限界だった。

俺は固く拳を握り、無意識に一歩だけ足を後ろにやる。一瞬何をしたのか分からなさそうな顔をした斑鳩に構うことなく、俺は腰からねじって拳を斑鳩の腹めがけ叩き込む。

「ぐっ」

何をしたのか、いや、されたのか理解できない。口から肺に溜まっていた空気が洩れていく。このにやけ野郎にボディブローをかますはずが、俺の腹になぜかこの野郎の膝がぶち當たっていたのだ。

おまけにこっちの拳は、奴の手によってけ止められていた。

「ひゅう、危なっかしいな。後一瞬遅かったら、こっちがやばかった」

「や、野郎……」

「九鬼、攻撃が分かりやすすぎ。こんなんでおれに喧嘩売るなんて十年早いよ」

斑鳩は今までのにやけ面から一転し、文字通り、冷ややかな眼で俺を見下している。片膝をつきそうになるのをなんとか堪えながら、俺は斑鳩を睨みつける。

しかし次の瞬間、顔に衝撃があった。それを理解した時には、すでに地面に倒伏していた。

「ぐ、ぁっ」

「調子乗りすぎ」

奴が冷たく言い放つ。

力をれて立ち上がろうとするが、全く力がらない。それどころかだんだんと意識が遠のき始めている。顎に強く痛みをじるということは、顎に良いのをもらってしまったらしい。

「ちょっと力に自信があるからって……」

野郎が何か言っている。

しかし途中からはうまく聞き取ることができずになっていたが、それでも俺にとって、奴が何かとても重要なことを言ったということだけはなぜか理解できていた。

暗闇から一筋のりがした。様々な薬品の混じったような臭いが、俺を不快な気分にさせる。

「ここは……」

「九鬼さんっ」

突然、すぐ橫で聲がする。聞き慣れた聲で、もちろん、聲の主が誰かなんて言うまでもない。

「大丈夫ですかっ?」

「綾子ちゃん……」

目の前に彼の顔が現れた。その表は心配そうなものから、安堵に変わったようだった。

「ここは……。俺はどうしたんだ?」

「ここは保健室です。九鬼さん、焼卻爐の前で倒れてたんですよ?」

「焼卻爐」

説明を聞いて、混していた頭に自分がぶち倒された時のことが、ありありと思い出されてきた。

「そうだ斑鳩だ、あの野郎」

俺は寢かされていたベッドを勢い良く跳ね起きた。綾子ちゃんはぶつからないよう、驚きながら橫にどく。

そうだった。俺は奴によってぶち倒され、おかげでこの様なのだ。

「うっ」

勢い良く上を起こしたせいか、くらりとする。いや、そうじゃない。起きてみると顎にずくずくと鈍い痛みがあり、頭の中が揺れているような気分になる。

「九鬼さん、落ち著いてください。まだ無理しないで」

綾子ちゃんは俺の肩と背中に手をやって、心配そうな顔を向ける。多分、軽い脳震盪というやつなんだろうが、初めて味わった覚に俺は思わず額に右手をやった。

「でも一どうしたんですか、焼卻爐の前で倒れるなんて」

「……」

語りかけてくる綾子ちゃんに、素直に真実を伝えるべきだろうか。正直にいえば、毆られたためにこうなっただなんて、あまり言いたくはない。そんなことをすれば、ただでさえ世話をかけさせているというのに、また余計な心配をさせてしまう。

「ちゃんと言ってくれなきゃ分かりません。それにその顎の痣」

言われてはっとした。そうか、話さずにしろ噓をつくにしろ、こいつのおかげでどのみち関係ないということか……。俺はため息をついて、窓の外に視線をやった。とてもじゃないが、目を合わせて話せる気分にはなれない。

「隠すつもりだったけど……意味ないみたいだな。

顎、そんなに酷くなってるか?」

自分で鈍痛のする顎をさすりながら問いかけた。綾子ちゃんは、短くはいと答え、俺が話し出すのを待っている。

「そうか。まぁ、単刀直に言うと毆られた」

「え?」

「だから毆られちまったんだよ、斑鳩の野郎に。良いのをもらったんだろうな、顎に當たってに気を失っちまったってわけさ」

「そんな……」

驚く綾子ちゃんを目に、自嘲気味に笑った。けれどそんなのは一瞬だけで、先ほどのことを思い出すとすぐにふつふつと怒りと悔しさが込み上げてきた。

今井とやり合った時ですらもうしはうまくやれたはずなのに、あの野郎にたったの一撃すら浴びせることなく沈められた自分が、けなくて仕方なかったのだ。

「そんなわけで、あんな場所にびてたんだ」

「でも、なんで九鬼さんが毆られなくちゃならないんですか?」

「それはあいつが……」

言い淀む。口論をしていてカッとなると言うのは良くある話だ。しかし、容はとなるとどうだ。この世界では先に手を出した方が悪者にされるという考えが、まるで當然かのごとく蔓延している。

しかし、その原因となったのは元を辿れば、あの野郎の心ない一言から始まったのだ。俺にとってそいつはとても無視できるようなものではない。ただでさえ、前々から気にらないと思っていた奴に言われたのだから、それも無理はない話だ。

けれど、俺も拠のない言い掛かり(俺はそうは思ってないが)をつけたというのも、それもまた確かなことだ。

まぁ、口論のきっかけはいいとして、俺が切れて、結果毆られてしまったことを言うべきかは別だ。なんせ、この四ヶ月以上もの間、ただの一度だってしたことがない妹の話題をするのは、どうしても口にできないのだ。

「いや……どうでも良いことで口論になったんでな、そしたらつい手が出ちまったんだ。おかげでこの様だけどな」

かぶりを振って適當にごまかした。もしかしたら綾子ちゃんのことだ、何か気付いてないとも言い切れないが、ここは何も言わず素直に頷き、これ以上は何も聞いてくることはなかった。

ただ俺は、心奴への怒りで気持ちがいっぱいだったから、気付かなかっただけだったのかもしれないが。

「ところで今何時だ」

「もう五時過ぎてますね」

綾子ちゃんが、自分の腕時計を見ながら答える。クラスの子に頼まれて教室を出たのが、確か三時半はまだ過ぎていなかったはずだ。どうも一時間半ほど気を失っていたらしい。

「そんな時間か。クラスの準備はもう終わったのか?」

「はい、三十分くらい前に。それで迎えに行ったらまだ皆さん準備してましたけど、九鬼さんだけ見當たらないのでクラスの方に聞いてみたら」

「焼卻爐の橫で俺が倒れてたってわけだな」

の言葉をひきとって続けた。どうやら俺をここに運んでくれたのは綾子ちゃんらしい。綾子ちゃんは、俺の言葉にコクリと頷いて続ける。

「焼卻爐に行ってみたら九鬼さんが倒れてて、最初はすごく揺しましたよ。でもたまたま近くを先生が通ったので、それで。 だけど毆るなんて……ひどいです」

「そうだったのか。ま、俺も毆ろうとしたのは事実なんでな。まさかこんなことになるなんて、思いもしなかったんだ」

「九鬼さん……」

「本當君には心配ばかりかけさせてるな、俺は。すまないな」

綾子ちゃんの頭に手をやって、軽くでた。毎日顔を合わせているので気付かなかったが、試の際にショートに切り揃えていた髪は、その頃に比べて大分びていた。切った時は肩に屆いていなかった髪も、いつしか肩よりわずかに長くびている。

嬉しそうに目を細め、綾子ちゃんは俺にされるがままになっている。こうして控え目にされるがままになるのも、彼なりの甘え方なんだろう。俺も気付けば頭をでてやるのが癖になっていて、ついこうしてしまう。

思えば沙彌佳も、今の綾子ちゃんのように頭をでて髪を梳いてやると、いつもこんな嬉しそうな表をしていたのが思い出される。

『お兄ちゃんにこうされるの、好きだよ』

不意に綾子ちゃんと沙彌佳が重なって見えた。

俺は思わず眉をしかめ手をどける。いつの間にか手は橫の髪へと移していた。

「九鬼さん?」

「え? すまない、今ぼうっとしてたよ」

「私、九鬼さんに今みたいにされるの好きって言ったんですよ。なんとなく穏やかな気分になるっていうか」

「そ、そうか。ところで、そろそろ帰らないか? 五時なら、もう準備の方もとっくに終わってるはずだしな」

俺は手を引っ込めて、ごまかすように言う。綾子ちゃんは特に気にした様子もなく、ベッドの脇から移して白いカーテンの仕切りを引いた。南側にある保健室だが西日が窓からし、室を茜に染めている。

外を見ると、幾人かの生徒が校門に向かって歩いていて、下校ラッシュが過ぎているのが窺える。

「靴どうぞ」

「ありがとうな」

ベッドの下にあった靴を出してもらい、靴を履いた。荷も綾子ちゃんがすでに持ってきてくれていたようで、手渡してきた。それから運良く戻ってきた保健の先生に挨拶をし、部屋を出る。室と比べると、廊下は寒かった。

「一度職員室に行くよ。小町ちゃんに挨拶していかなきゃな」

綾子ちゃんを引き連れて職員室に赴く。

「失禮します」

「失禮します」

言うだけ言うと俺はさっさと室り、綾子ちゃんは律儀に一禮してる。小町ちゃんの席は窓側で、出口から見るといるかいないかがすぐに見渡せるが、いつもの所定の場所に座って仕事をしているのが分かった。

「先生」

「ん? おお、九鬼か。もう大丈夫なのか」

「ああ、もう平気だよ」

「そうか。焼卻爐の橫で倒れてたと聞いて驚いたが、平気そうだな。しかしどうしたんだ、一

どうやら、俺が擔ぎ込まれた理由は誰も知らないらしい。ならかえって好都合だ。

「自分でも良く分からないんだが、立ちくらみがしたと思ったら、ぶっ倒れちまったんだ。その拍子に顎をがつんとね」

「それで顎が痣になってるのか。まあ、保健の先生もそうじゃないかと言っていたが……」

軽く肩をすくめながら、俺は何も言わないでくれと綾子ちゃんに目配せした。彼からしたら、なんで本當のことを言わないのか疑問に思って、何か言うかもしれないと思ったのだ。

「まあいい。あんなことがあって、まだおまえも本調子とは言えなさそうだしな。とにかく見つけて運んでくれた渡邉には、きちんと禮を言っておけよ?」

「ああ。それじゃぁ今日はこれで帰るよ」

「ああ、また明日な」

軽く頭を下げて踵を返す。綾子ちゃんはいつものように頭を下げて、俺の後を追ってきた。

職員室を出て下駄箱に著くと、もはや恒例とも言うべきなのかタイミングの悪いことに、斑鳩の野郎と鉢合わせしたのだ。

「斑鳩……」

「よう、もういいのか?」

先ほどのことなどなかったかのように話しかけてきた斑鳩は、飄々とした態度の下に、明らかに俺への侮蔑を含ませている。

「てめぇ」

さっきのは前哨戦と言わんばかりに飛びかかりたくなる衝を抑え、この野郎を睨む。こいつはそんな俺のことなど気にも留めず、橫にいる綾子ちゃんの方を見て言った。

「大変だね〜綾子ちゃん。彼氏がいきなりぶっ倒れちゃうんだもんね」

「……あなたはなんで人を毆ったりなんかしたんですか」

いつもの飄々としたにやけ面と、ずけずけと人の隙間にり込んでくる斑鳩に臆することなく、綾子ちゃんははっきりと奴の目を見據えて言う。

「あれ、知ってたんだ。ま、仕方ないか、人同士だもんね」

くつくつと笑う斑鳩に対し、綾子ちゃんは一向に目を逸らす気がないらしい。

「それに何か勘違いしてるみたいだけど、先に仕掛けてきたのは、おれじゃなくて九鬼の方だから。おれはあくまで正當防衛ってやつだよ?」

橫目でチラリと俺の方を見る斑鳩のその仕種に、苛立ちを隠すことができない。間違いなく、野郎は俺を挑発しているのだ。

「そうかもしれません。でも人が気を失うほどに痛め付けるなんて、たとえ正當防衛であっても良いというわけではないです」

「へえぇ。……結構言うじゃん」

斑鳩は面白い玩や遊びを見つけた子供のような顔で、綾子ちゃんをまじまじと見た。たとえ斑鳩のような男子であっても、こんな風にジロジロと頭のてっぺんから爪先まで見られれば普通なら嫌がりそうなものだが、綾子ちゃんは全くといっていいほど微だにしない。

キスでもするのかというほど、彼の顔に近づいていく斑鳩に、俺は奴の肩を摑んで引きはがす。どんな顔の男であれ、人の人にこんな態度を取るような奴は許せない。

「ととっ。ってぇなぁ九鬼ぃ……冗談、冗談に決まってるじゃん」

俺に摑まれた肩に手をやりながら、いつもとなんら変わりないおちゃらけた口調と表で笑った。

「おい斑鳩。用がないならさっさと消えなよ。なくとも俺は今お前と話してなんかいたくないし、お前と同じ場にいたくない」

「あらら、隨分と嫌われちまったな」

くっくっくと肩をいからせながら笑う斑鳩に、俺はなんとも不気味な気分にさせられる。

(こいつ、なんだってこんなに笑ってられるんだ)

狀況として決して笑えるような場面というわけでもないはずなのに、この野郎は場違いなほどに笑っているのだ。普通であればなくとも、ここでは笑うんではなく怒りなり怯えるなりのが出るものだが、こいつは笑っている。それがなんとも不気味に思えてならない。

「もういい。俺達は帰るからな」

訳の分からない斑鳩を目に、俺達二人はそれぞれの下駄箱に向かう。奴は何がそんなにおかしいのか、さらに大きな笑い聲をあげたのだった。

斑鳩との一件から二日、今日は文化祭の一日目だった。ちなみにうちのクラスはフリーマーケットをやるらしく、クラスの生徒たちが持ち寄った品を寄せ集めてみると、これがなかなかの數になった。

これらの品々の大部分は子達ので、こういったフリーマーケットでは金を落とすのも、大半がであるというのを狙ってのことらしい。

そんな中、朝教室にると不幸なことに、奧にいた斑鳩の野郎と目が合った。クラスの男子達と雑談していたようで、笑っていた奴の顔から、一瞬だけ笑いが消えたのを俺は見逃さなかった。

けれども、そんなのはほんの一瞬のことで、すぐに奴は連中との會話にっていった。奴にぶちのめされたのは腹立たしいが、今ここで因縁をぶつけるわけにもいかない。ここはこっちも無視しておくに限るというものだ。

ぎりぎりに來たこともあり、すぐにチャイムが鳴った。直後、慌てた様子の小町ちゃんが勢い良く教室のドアを開け、るやいなや、大きな聲で俺を呼ぶ。

「九鬼、おまえは今からすぐに病院に行け。お母さんの容態が悪化したらしい」

「母さんが?」

一瞬何を言われたのか分からなかった。きっと、間抜けな顔をしていたに違いない。

俺は逸はやる気持ちを抑えながら病院に向かっていた。頭の中では、なんで、どうして、と同じ言葉ばかりがぐるぐると廻っている。つい昨日會った時は、全く大丈夫そうだったはずではないか。いや、それどころかこの數週間は回復傾向にあり、年末には退院できるはずだと醫者も言っていたではないか。そのはずが、なんだっていきなり容態が急変するんだ……。

とにかく今は、一秒でも早く母のところに行くべきだ。何かとてつもなく嫌な予がしてならない。まるで今井との一件で幾度となく験した、あの嫌な覚に似ているのだ。

病院のロビーを足早に抜け、母のいる病室を目指す。病室は五階にあり、いつもであればエレベーターを使うところだが、今回は運悪く、ちょうど人が乗った直後のようでき出したばかりだった。

エレベーターの上昇ボタンを、早くしろと何度も叩きつけるように連打するが、そんなことをしたってエレベーターは都合良く降りてはくるはずもなく、俺は舌打ちして橫の階段を使うことにする。

降りてこないエレベーターを悠長に待っている暇なぞない。今はとにかくしでも早く母に會いたい気持ちでいっぱいだったのだ。

二段飛ばしで階段を駆け上がる。途中、リハビリか何かを兼ねてか院患者と思わしき者や看護士とすれ違い、その都度思わずぶつかりそうになるが気にしない。今はそんな余裕はなかった。

「母さんっ」

小さいながらも個室を宛てがわれた母の病室にたどり著き、すべり込むような勢いで扉を開けてった。

母さんは昨日までつけていなかった呼吸をつけ、苦しそうに息をしている。顔中に、人差し指の先よりも小さい大きさの汗の玉がいくつもできていて、以前とは比べものにならないほど痩せ萎んでしまっているようだった。それを裏付けるように、母さんの頬の辺りは、やけに痩せこけているように見える。

「先生、母さんは」

そう言い捨て、目の前で看護士らが幾人か飛び出して行く。良く見れば、點滴の種類が変えられているのが分かる。

すると後ろから、出ていった看護士とは別の看護士がってきた。その手には用途のいまいち分からない醫療用の道や、新しい薬のった點滴袋を持っている。

「なんでこんなことになったんだ……」

俺はただ茫然と一人呟いて、醫者たちによって治療を施されている母を見つめることしかできないでいた。

ロビーに一人俯き、膝の上に肘をついて頭を抱えたままで座っていた。

「九鬼さん」

頭上で俺を呼ぶ聲がする。頭を上げて、その人を見上げる。

「綾子ちゃん、來たのか……」

「小町先生から、話は聞きました。それで、おば様は……?」

息を切らせているところを見ると走ってきたのだろう、話す言葉にもやや切れ切れになっている。俺はただ首を振るだけだった。

「……面會謝絶だとさ。さっき父さんが來て、今先生の詳しい話を聞いてるところだ」

「そんな……昨日まであんなに元気そうだったのに……」

綾子ちゃんは口元に手をやって、驚きにそれ以上の言葉を発することはなかった。當然だろう。俺もそうだが、彼もほぼ毎日のように母を見舞ってくれているのだ。

「ここのところ、ずっと回復に向かってたのになんで急にこうなったのか、醫者にも今のところ、全く原因が分からないそうだ」

「おば様……」

綾子ちゃんから顔を逸らすように、再び床を見つめた。彼も、俺の隣に何も言わずにそっと腰を下ろした。

何も言わないというより、何も言えないというのが本當のところだろう。今何を言ったって、そんなのはただのめにもならないというのを知っているのだ、彼は。

「……學校、終わったのか」

「いえ、まだ終わってないですけど……先生に言ってし早く抜けさせてもらったんです。先生方も九鬼さんの事は知ってらっしゃいますので、私も一概に無関係ではいられないですから……。

というよりも小町先生から言われたんです。九鬼さんのところに行ってやってくれないかって」

「……そうか」

説明を終えた綾子ちゃんに小さく頷いた。沙彌佳の一件以來続いている今回も、確かに彼も無関係とはいえまい。なくとも綾子ちゃんは常に當事者であり続けたのだ。気持ちの上ではある意味で、家族に近いものをじているのも確かなことだった。

が事なだけに、小町ちゃんも気を利かせてくれたといったところだろうか。どのみち、遅かれ早かれ綾子ちゃんの耳にはるし、俺のためにわざわざ協力を頼みこんだというのも関係しているのかもしれない。

わす言葉もなく二人でいたところ、病棟の方から父さんがやってきた。父さんも、ここ數カ月で隨分と痩せてしまっているのが良く分かる。去年と同じスーツを著ているはずなのに、どことなくブカブカの服を著ているようで不格好に見えるのだ。

「おじ様」

「綾子ちゃん、來てくれたのか。……家のためにわざわざすまないね」

「いえ……それでおば様は」

「……」

綾子ちゃんの問いかけに、父はぐっと苦い顔をして見せた。

「……あまり良くない。はっきり言うと、予斷は許されない狀況だということだ」

「お、おば様が……」

「……」

俺達に重い空気が漂う。未だなお、捜査に進展が見えないという沙彌佳の失蹤から始まり、なくとも倒れた母だけでも良くなってほしいと願っていた矢先に、とんでもないことだった。

「原因は……?」

父さんを見上げながら問う。その問いにも父さんは、ただ首を振るだけだった。

「そうか……」

くそっ。なんだって突然こんなことになったんだ……。俺は無意識のうちに両手の指を固く組んでおり、それはまるで何かに祈りをささげているかのようであった。

その日は、このまま病院に泊まると言った父を殘し、俺と綾子ちゃんは後ろ髪を引かれる思いで病院を出て、家路についていた。もう夜の面會時間も終わり、病院を出たのが夜の七時半という時間だった。

「いいのか、本當に。親父さん、心配するんじゃないか?」

「いえ、今海外に出張してますから」

いつものことだけどと付け加え、し寂しそうにクスリと笑った。相変わらず親父さんは娘をおいてきぼりにしているようだ。

綾子ちゃんは今日は家に帰らず、うちに泊まっていくという。年頃の若い男が一つ屋の下に泊まるというのは、健全な連中なら間違いの一つや二つ起こりうるだろうが、俺達に限っていえばそんなことはない。母の院以來、これまで幾度となくあったことで、取り分け珍しいことではないのだ。

それともう一つ。どうにも綾子ちゃんへの気持ちが高ぶらない。もちろん、彼的な魅力を一切じていないかといえば、それは噓だ。

綾子ちゃんはうちに泊まる際、沙彌佳の部屋で寢ている。別に客間がないわけじゃないが、彼からしても、ストーカー事件の時はずっと沙彌佳の部屋で寢ていたので、それが習慣になっているのだろう。

よって、あいつの部屋で綾子ちゃんを抱くなんて悪趣味なことはしたくないし、そのためだけに、わざわざ客間を使うというのもおかしな話だ。というより、そのためにこしらえるのも下心が見え見えで、どうにも好かない。

かといって自分の部屋では、どうしてもあいつの記憶が蘇ってしまう。今ですら夜一人で自分のベッドで寢ていると、あの時の記憶と高ぶりが蘇ってくるのだ。

それにだ。今はまだ、俺自の気持ちの整理がつけきれない。沙彌佳がいなくなったことでうやむやになってしまっているが、綾子ちゃんに対する裏切り行為をしたという気持ちが消えたわけでもない。

沙彌佳を抱き、さらに綾子ちゃんまで手をかけようなんて、とてもじゃないが今の俺にはできないし、そんな自分を許せない。結局、沙彌佳がいなくなってからというもの、二人にどうすべきかというのはずっと宙ぶらりんなままなのだ。

他にも、裏切った俺をこうして支えてくれた彼に、そんな中途半端な気持ちのままでは申し訳が立たないというのもあるが、大部分の理由としてはそんなところだった。

綾子ちゃんと適當な話をわしながら歩いていると、もう家の前にまで著いていた。一人だと長くじる道も、人と話しながらだとあっという間だ。

「ただいま」

誰もいない家の中に向かって聲をかける。靜まり返った家から、『おかえり』という聲がどこからか聞こえてきそうな、そんな覚にとらわれる。

実際にはそんなこと有り得ないとは分かってはいても、もしかしたら、沙彌佳のやつが何食わぬ顔でひょっこり現れるのでは、という淡い希を抱いているからかもしれない。

「おかえりなさい」

玄関に突っ立ってぼうっとしていた俺に、いつの間にか玄関を上がっていた綾子ちゃんがそう言った。

「あ……なんで」

「分かりますよ、私もずっと一人だったから。誰かにただいまって言いたいし、おかえりって言いたいんですよ」

穏やかな笑みを浮かべたまま、綾子ちゃんはリビングの方へと踵を返す。

「ほら、いつまでもそんなところにいないで、早く上がってください。遅くなりましたけど、ご飯作りますね」

「あ、ああ」

の優しい言葉に謝の念を抱きながら、俺は靴をいで玄関を上がる。この時俺は、新たに得たこの日常がいつまでも続けばいいのにとかに願っていたかもしれない。

だがしかし、もしそいつが本當にあるかは分からないが……もし運命というものがあるとすれば、その運命にも別れ道というのがあるということを、俺は思い知らされることになる。

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