《いつか見た夢》第55章

蟲の知らせというのがある。普段はそうでもないのに、その時に限って妙な騒ぎがしたりするやつだ。後にして思えば、これこそがまさに蟲の知らせというやつなんだろうと思えた。

その日俺はいつものように綾子ちゃんに起こされた。以前は母が良くしていたエプロンをつけているのを見ると、もはや完全に彼のものであるかのようにも思える。

「おはようございます」

「ああ、おはよう」

こんな朝の挨拶もいつもの通りだったが、一つ違うことがあった。

「……それ」

「ん? ああ、これですか?」

寢ぼけた顔のまま、綾子ちゃんの頭にあるリボンを指さした。リボンとはいっても大したものじゃないが、そいつで最近長くなってきている髪をポニーテールにしていたのだ。

「後ろ髪が大分長くなってきてるから、そろそろこうした方が良いかなって。どうですか?」

「初めて見るからほんのしだけ驚いたが、良いんじゃないか? 結構似合ってる」

「ほんとですか? やった。

長くなると、いつもこうするんです。近く、一度髪をし短くしようと思ってるんですけどね」

朝から妙なテンションの綾子ちゃんに、再度相槌をうってベッドを出た。

「著替え、置いておきますよ」

そう言って綾子ちゃんは部屋を出ていく。つくづく良くしてくれる子だ。きっとああいうのが將來は、良妻賢母なんて言われたりするのかもしれないと思う。

そんなことを考えながら制服に著替え終えて下に降りると、今日は珍しくパンが用意されていた。普通の日の朝にパンを食べるなんて、隨分久しぶりだ。

「あ、そうだ。今日、新聞が屆けられてなかったみたいなんですけど」

「新聞が屆いてない?」

顔を洗い終わって席に著くと、そんなことを言いながら綾子ちゃんが目玉焼きが乗った皿を目の前に置いた。

「はい。どうした方がいいんでしょう?」

「再配達するよう電話すればいいが、放って置こう。別に俺も毎日読んでいるわけじゃぁない」

「なら良いんだけど……」

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どことなく浮かない顔をしたまま彼も席に著いた。席はいつしか客用の席ではなく、いつも母が座っていた席になっている。いつもなら靜かながらも小さな會話もあるのだが、今日は不思議なほどなんの會話もない。こんな日も珍しいものだ。

綾子ちゃんは相変わらず、先ほどからどこか落ち著きがなさそうに見える。

「さっきからどうしたんだ」

「え?」

「さっきから、あまり落ち著きがないように見えるよ。何かあったのか?」

「いえ特に何かあったわけじゃないですけど……多分気のせいだと思うから」

「なら良いんだが……。何かあったら言ってくれよ? 俺としてもしは君の役に立ちたい」

「はい、そうなったときは是非」

穏やかな微笑をたたえたまま、綾子ちゃんはパンをゆっくりとかじっていた。

今日は文化祭の最終日で、朝から一般の來場もあるせいか、いつになく學校は活気に溢れていた。

俺も適當な時間にクラスの出しであるフリーマーケットの売り子なんかをし、殘りの自由時間は、模擬店なんかの食べをつまんでいるうちに、もうそろそろ終わりの時間がなろうとしていた。

楽しい時間はあっという間だというし、その通りであるなら、俺もそれなりに文化祭というものを楽しめたということだろう。

「後は後夜祭ですね」

「その前に、自由參加のバンドの演奏もな」

俺は例によって、綾子ちゃんと二人で文化祭を廻っていた。いつも二人だけだからと、同じ自由時間になった青山をってみたところ、すでに先約があるからと斷られたのだ。

考えてみれば、あいつにも一応人というのがいるわけだから、當然と言えば當然だ。実の姉を人と呼んでいいのかは分からないが……。

ともあれこの數カ月、家族の事もあって夏も遊ぶことがなかった俺は、実に久しぶりに羽をのばせることができたのだ。その點では、今日のこの文化祭というのは俺にとって、とても有意義に過ごすことができたと思う。

そして多分、綾子ちゃんも同様だろう。元々、うちとはなんの関係もないはずだった綾子ちゃんだが、何の縁か俺達のために頑張ってくれたのは謝してもしきれない。だから今日、もし綾子ちゃんがこの日を楽しんでくれたのなら、俺としてもやはり嬉しいことなのだ。

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「どうする。バンド演奏見に行くか?」

「私はどちらでも……」

「じゃ、卻下だな」

ニヤリと笑いながら肩をすくめる。どうせ立ちん棒のままのロックといってやるのであれば、あまり見る気にはなれない。俺は同じロックでも、ステージを使いこなすようなライブバンドかジャムバンドでないと、全く興味を持てないのだ。

「なら最後までもうし廻るか。とは言っても、もうめぼしいものは全部見て回ったか……」

行きたいところはあるかと聞くと、綾子ちゃんは上の空といったじで黙ったままだった。

「綾子ちゃん」

「あ、はい」

「どうした。大丈夫か?」

「はい。なんて言うか、今こんなことしてて良いのかなと思って」

しの間俺を見上げ、すぐに顔を伏せた。

「綾子ちゃん……」

つまりこういうことだ。俺の母が今意識もあやふやなのに、俺達だけこんなに楽しんでいていいのか。そう言いたいのだろう。

「……そうだな、君の言う通りかもな。俺はし羽目を外しすぎたかもしれないな」

「いえ、それが悪いというわけではないんですけど……。

実は今日、変な夢を見ちゃって。そのせいなのかもしれないです」

「どんな夢?」「誰もいない病室に一人ぽつんといて、誰一人もうそこに來ることがないというのをなぜか知ってる……そんな夢だったんです。なんか、その夢の病室が、やけにおば様の病室のイメージに変換されちゃうんです……。

……ごめんなさい。不謹慎でしたね」

「いや、いいんだ」

この時綾子ちゃんの鬱積した気持ちが伝染したのか、俺もどことなく羽のばししたことを後悔したような気分になった。実の母親というわけでもないのに、実の息子である俺よりも、よっぽど心配しているようですらある。もちろん、俺だって全く心配をしていないわけじゃない。けれど綾子ちゃんの浮かない顔を見ると、そう思わざるをえなかった。

その時ふと顔を上げると、技棟の屋上が瞳に映った。そして、そこに隨分久しぶりに見る一人のの姿もあった。

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「綾子ちゃん」

「はい」

「最近々とあって忘れてたが、良い場所があるんだ。行ってみないか?」

「え、は、はい」

きょとんとした顔のまま綾子ちゃんは頷いた。

あのがあそこにいるというなら、今あそこは開放されているということだ。足を運ぶのは実に久しぶりで、俺もそこに行ってみたい気分にさせられたのだ。

模擬店なんかが徐々に店じまいをし始めだしている中俺達は、足早に技棟へと向かった。多分綾子ちゃんは、技棟になどはほとんど立ちったことがないだろう。そういう俺自も、かつてはそうだったのだ。

「技棟って今まで來たことなかったなぁ。始めの頃に學校案された時以來かも」

「普通科や進學科なら、大概の連中もそうさ。俺だってそうだったしな」

「今はそうじゃないって口ぶりですね」

「ああ。足を踏みれるのも隨分久しぶりだが、前はちょくちょく來てたんだよ。番の奴と一緒にな」

「番の奴?」

「屋上の鍵守りみたいなやつだ」

屋上はもう目の前だ。俺はニヤリと笑い、肩をすくめた。技棟の一番上、つまり屋上へと続く階段を上がりきると扉の窓の向こうに、うっすらと影になった都會の街並みと一人の人の姿が見える。

「ここだ。さすがにここまでは來たことないだろ」

「で、でもここ、っちゃいけないんじゃ……」

「本當はな。だけど、一度くらい行ってみたいと思わないか?」

やってはいけないということをしようとすることに対する不安からか、綾子ちゃんはし腰が引けているようだ。しかし、その目には、明らかに期待のが含まれているのも確かだった。

扉を開けると、一気に開放に満たされる。半年以上前には良く來ていた場所だが、やはりこの開放はたまらない。

「よう」

先客……ここの番人である、藤原真紀に聲をかける。真紀はあまり興味なさげに、橫目でチラリとこちらを見ただけだった。

「……相変わらずだな」

ため息まじりにそうつぶやくと、じっと中庭を見つめていた真紀は、ようやく俺の方に向き直った。

「久しぶりじゃない」

「ああ、全くな」

「そっちの子は?」

知的な印象をける眼鏡の奧から、鋭く俺の橫にいる綾子ちゃんを抜く。知的さとは別に、このにはなんともいえない冷たさがあるのも事実で、綾子ちゃんは思わず頭を下げて挨拶した。

「あ、あの、渡邉綾子です。く、九鬼さんとは」

「渡邉? ああ、あなたが」

言いかけの綾子ちゃんに真紀は、何か思い出したように口を挾む。

「知ってるのか?」

「まあ、それなりにね。私の後輩があなたのクラスにいるから、多はそういう報が流れてくるのよ」

「……そうか」

報と言ってもそのほとんどは単なる噂話程度のものだろうが、このならそれとは別に報網を持っていそうだ。

「それで? 今日は何しにきたの」

「何かってわけじゃぁない。屋上を見たら、たまたまあんたが視界にったからな。それで久しぶりに來たってだけだ」

「ふーん。それで、ちょうど良いからデートコースにしちゃったというわけね」

「深読みしすぎだ。別にそういうわけじゃぁない。

それよりあんた、もしかしてずっとここにいたのか?」

「さすがにそれはないわよ。適當に見て廻ったけど、やることなくなったからここに來ただけ。一時間くらい前かしらね」

浮世離れして摑み処のない真紀が、他の生徒達と混じって文化祭を満喫していたのだろうか。とてもじゃないが想像できない。きっとこののことだから、適當に周りに合わせて飽きたところでここに來た、といったとこだろう。

「ま、いいさ。あんた、まだしばらくここにいるんだろう。俺達もしの間ここにいさせてもらうが、構わないな?」

「好きにしたら」

そっけなく言う真紀を一瞥し、俺は綾子ちゃんの方を向く。俺と真紀の関係が気になるのか、綾子ちゃんは真紀の方をじっと見ている。

「なにか?」

「あっ、いえ、なんでもありません」

綾子ちゃんには興味すら持っていなさそうだった真紀が、自分を見つめる綾子ちゃんに振ったのだ。

「……ねぇ、渡邉さん。あなたと九鬼君、どんな関係なの?」

真紀が口を開いたと思ったら、いきなり突拍子もないようなことを口にした。

「えっ?」

「おい、あんたいきなり何言い出すんだ」

「先に言っておくけど、別にあなた達が人だとか、そういうことを聞いているわけじゃないわ」

真紀がまた意味深なことを言い出した。全く、このはいつもそうだ。どんな関係だと聞いているのに、人だ云々というのは聞いてないときた。ならば、どう答えれば良いというのだ。

「え? えと……」

「あんたの言い方はいつもわけが分からないぜ。綾子ちゃん。このの言ったことは無視してもいい」

「ひどい言われようね。でも、こっちの言い方も悪かったわ。

悪いことは言わないから、この人から手を引いた方がいいわ」

「ええっ?」

「おま……何言ってるんだ?」

「言葉の通りよ。今、この人は大変なことに巻き込まれようとしてる。もしそうなったら、貴は一たまりもないから」

抑揚のない淡々とした聲でこのは、いきなり訳の分からないことを言い出した。いつものこととは言え、さすがに今回ばかりは、こちらの目が點になるようなことを抜かした。

「あんた……一何言ってるんだ」

きっと綾子ちゃんも同じような心境なんだろう。訳が分からずに、戸いの表を浮かべている。

「あなた、私前に忠告したわよね? 何かあったらすぐに私のところに來なさいって。覚えていないの?」

俺達を見據えながら真紀は、はっきりとそう口にした。言われてみれば終業式を間近に控えた頃、確かにこいつはそんなことを言っていたような気がする。こちとらそれどころじゃなかったので、すっかり記憶の中から抜けていた。

真紀が言っているのは、春の沙彌佳の失蹤のことだろう。全國に知れ渡ったことなので、このが知らないとは思わない。しかし、仮に俺がその時それをこのに言ったとして、どうかなったとでもいうのか。

このの持つ得の知れなさという點で言えば、真紀の従えている連中がどれほどの規模のものかも想像はつかないし、失蹤した妹を、警察以上の組織力と捜査力を使って探せるとでも言うのか。

「確かにそんなことも言われていたかもな。だがな、皮にも俺はこうして無事だし、あの時そんなこと頭からすっかり飛んでたんだ。

それに家族のことをあんたに話したにして、あんた、どうにかできたとでも言うのか」

「……そうね、どうかできたわけでもないかもしれないわ。でも、何かしら探ることはできたわ、それだけは間違いない」

いつになく真摯な眼差しで真紀は言いつぐむ。その目には一點の曇りもない、とでも表現すればいいのだろうか。

「……でも、もう駄目かもしれない。あまりに遅すぎた」

目を細め、はかなげな目をした真紀は俺から目を離し、再び中庭に目を向けた。後ろ姿からは、もう私に話しかけるなと言わんばかりに見える。暗にさっさとここから立ち去れともとれる、無言のメッセージなのだ。

「九鬼さん」

「……行こう、綾子ちゃん」

誰にでもなく、俺は一人勝手に納得するように頷いた。ここでいまさら半年も前に過ぎたことを、あれやこれやと言いたくもない。ここで真紀を責めるのはどう考えたって筋違いというものだし、自分がけなくなるだけだ。

だがしかし、真紀のその姿は裏を返せば、俺への反面教師とも言えるかもしれない。というのも、俺は今まで一度だって自分から沙彌佳を探そうとはしたことなどない。ただの一度もだ。

思い返してみれば、沙彌佳がいなくなってからというもの、駄目になってしまった家族のためという理由を作り、揚げ句には、自分まで引きこもるという悪循環に陥っていたではないか。それを言い訳にして、ただただ事実をれられずに逃げていたのだ。

これではいけない。今回はたまたま綾子ちゃんという理解者がいたから良かったものの、もし彼がいなければ俺はどうしていたというのか。今でも慘めに部屋にこもっていたかもしれない。

そして俺はこともあろうか、それすら利用して未だそこから抜けだせずにいるときた。今も良く見る沙彌佳の夢は、もしかしたら、さっさと行を起こせという、無意識のうちに自分からの警告なのではないのか。もう一度お前にやれることがないか、良く確認してみろという自己意識なのではないのか。

もちろんそうとも限らないだろうが、何も自分でしたわけではないというのは、疑いようもない事実ではないか。

「真紀」

「なに?」

真紀はこちらを振り向かずに返事をよこす。

「ありがとうよ。あんたのおかげで目が覚めたよ」

俺が禮を言い、綾子ちゃんに校舎に向かうよう促して踵を返した時、背中越しに聲をかけられた。

「待ちなさい」

「なんだ」

立ち止まって振り返った。真紀もこちらにごと向き直っている。

「あなた今日、斑鳩とは會った?」

「斑鳩? ……そういえば見てないな。どうせ奴のことだ、文化祭というのを口実にサボったんだろう。それか遅刻してきて適當にナンパでもしてるんじゃぁないのか? だが、なんだってそんなことを聞くんだ」

「あの男にだけは気をつけなさい」

「……ああ、分かってるさ」

數日前に毆られた時のことを思い出し忌ま忌ましい気分になり、見栄を張るように肩をすくめる。

「良く聞きなさい。これは冗談とかそんなんじゃないわ。あの男は、決してあなたや他の皆が考えているような人間じゃない。

良い? あの男と何かあればすぐに私に言って。お願いだから」

お願いだから……。最後のこの言葉には、懇願ともとれる妙な言い回しだ。

「……あんたが心配しなくても、今後はあいつとは付き合うつもりはないぜ」

「なに。なにかあったの?」

「なに、大したことじゃぁない。ちょっとした口論をしちまっただけさ」

「それでどうなったの?」

妙に食いつきが良い真紀に、こっちの方が思わず怪訝に構えてしまう。なんだか、とても嫌な予がしているとでもいったような、そんな食いつきだった。

「簡単だ。俺がぶち切れちまって毆りかかったのさ。ま、結果はさんざんだったがな」

まさしく苦笑と言わんばかりで口元を歪ませながら、再度肩をすくめた。真紀はといえば、初めて見たと言ってもいい驚きの顔をしていた。まさかこののこんな顔を見れるなんて、こっちの方が驚いてしまった。

「あなた、悪いことは言わないわ。今すぐ斑鳩を探して見つけなさい。すごく嫌な予がするわ」

「なんだって奴を探さなきゃならない?」

當然の疑問だった。真紀は何をそんなに焦っている?

「説明は後よ。私も探すから、とにかく斑鳩を見つけることが先よ」

真紀にしては珍しい、を剝き出しにした言葉に思わず息を飲んだ。というもののをストレートにけると、男というのはこんなにも萎してしまうものなのか。

「九鬼さん、この人の言う通りにしましょう。私もなんだか嫌なじがしてるんです……」

ずっと黙ったままだった綾子ちゃんも不安げな表を浮かべていて、俺は訳も分からずに頷いていたのだった。

すでに多くの出しが後片付けを始めており、やることのなくなった生徒らは育館に移し始めている頃だ。

俺はその中を一人、逆走でもするかのように校舎の中を足早にき回っている。綾子ちゃんと俺は二人で、校舎の中を別々になって斑鳩を探して回っているのだ。真紀は育館の方へ行っている。

すでに行けそうな場所はあらかた行って探してはいるが、一向に斑鳩の姿は見當たらない。

すると前方に、反対側を探していた綾子ちゃんを見つけた。こちらから綾子ちゃんの方へ行くと、向こうも俺に気付いたようだった。

「九鬼さん」

「どうだった?」

「こっちには……。そちらはどうですか」

「こっちにもいなかった。とりあえずトイレにもってみたんだが駄目だ。學校にいるとしたら後は真紀のいる育館か、後はせいぜい職員室くらいなもんだ。奴が、閉められている部屋の合鍵を持ってなければだが」

「一応、職員室には行ってみたんですがいませんでした」

「そうか。相変わらず電話にも出ないし、やっぱり學校の外にいる可能が高そうだ」

「……なんだろう、すごく嫌な予がする」

綾子ちゃんがの前に手をやって、つぶやくように言った。心底不安そうな顔をしながら。

「なぁ。さっきも聞いたが、何がそんなに不安なんだ」

「分からない……分からないんです。なんでこんな気持ちになってるのか」

俺の問いかけに綾子ちゃんは、ただ首を振るだけだった。

その時、育館の方から真紀が顔を見せた。俺達を見つけると、すぐにこっちにやってきた。

「あなたたち」

「真紀か、俺達は駄目だった。そっちはどうだった」

「私も同じ。一応あなたのクラスの人にも聞いたけど、知らないって言ってたわ」

さらりと言ってのけたが、このはなぜ俺のクラスメイトを知ってるのだろう。今は置いておくとして、そのうち、その辺りも問いただしておこう。

育館にもいない、電話にも出なかったとなると、奴は外に行っちまった可能がほぼ確実だな。

あのいけ好かない奴のことだから、きっとこれ幸いとナンパにでもけしかけたんだろ」

「あなた、さっき私が言ったこと、もう忘れたの? 言ったでしょう、斑鳩はあなたが思ってるような人間じゃないって。あの男のことだからきっと」

「誰がなんだって?」

真紀が話していると突然後ろから聲がした。この軽そうな聲は間違いない、斑鳩だ。

「斑鳩」

「やあ皆さん、お揃いで」

斑鳩のいつになく軽快な口ぶりに、思わず肩かしをくらったような気分になる。しかし真紀はその斑鳩に対し何を思っているのか、やけに険しそうに眉をよせている。

「……あなた、今どこに行っていたの」

「おれ? んー、ま、ちょっと學校の外に出てたよ」

へらへらとしたにやけ面に態度。どうも真紀は、この手のタイプの男は心底嫌いらしい。明らかに、お前など嫌いだとでも言いたげな目つきだ。

「……それにしても、攜帯にくらい出なさいよ」

「ん、ああ、ごめんごめん。気付かなかったわ。おれって攜帯好きじゃないしさ」

そんなことを言いながら斑鳩は、制服のポケットから攜帯を取り出した。畫面を見る目が上から下へとく。俺もそうだっ

たが、口ぶりから察するに、真紀も連絡をれていたのだろう。

「で、著信があったってことは、何か用があったってことかな?」

「ええ。だからあなたはどこに行っていたか質問したの。それが用よ」

真紀もこの男のことが嫌いのようだ。普段は能面でも張り付けたように無表なのに、斑鳩にはいたく的に話をしている。しかも的とはいっても、それは嫌悪のだ。

「別に。ただ暇だったから街まで出てただけだけど?」

「そう。ならなんであなたから薬品の匂いがするのかしらね」

真紀は鋭い視線で斑鳩を抜く。

「隠そうとしたって分かるわよ、私はかなり鼻がきくからね。そんなに強い薬品の匂いは、學校の保健室にいても染み込まない。あなたが病院か何かに行ってもいない限りね」

「病院?」

真紀の言葉に口を挾んだ。

途端に背筋を嫌なものがつき抜けていく。こいつは何を言っているのだろう。そして斑鳩は何をしていたのだ?

分からない。分からないが、何かとても嫌な予がしたのだ。

時が止まったかのように沈黙がおりていた場に、突然攜帯の音が鳴り響く。最近は何かあった時のために、マナーモードは解除されている。

取り出して見てみると、かかってきている番號は全く見知らぬ番號からだった。けれど市外局番から判斷するに、何か急用なのだと察した。

「もしもし?」

『九鬼遙子さんの息子さんですか? こちら○○病院ですが、遙子さんの容態が――』

電話に出ると、冷靜さを欠いた、まくし立てるような聲が聞こえてきた。しかもその容は最悪なもので、母が、突然を吐いたというのだ。

すぐに病院に來てくれという看護師の言葉を最後に、俺は向こうが言い終える前に電話を切った。

「九鬼、さん……?」

綾子ちゃんが何を汲んだのか、不安そうに俺を呼ぶ。しかし俺はそれどころではなかった。

を吐いただって? なんで急に。昨日から良くない狀態が続いているとしても、なんで急に……。

「くっ」

「あっ、九鬼さんっ?」

俺はいても立ってもいられず、綾子ちゃんの聲も振り切って走り出した。目の前に現れた斑鳩を突き飛ばし、そのまま校門を抜けて病院を目指す。

とにかく嫌な考えしか頭を過ぎらない。いくら昨日の今日だからといったって、突然を吐くだなんてありえない。

何か醫療ミスでもあったのか。この昨今、醫療ミスによる死亡もあるのだ。それが起きないとは言い切れない。

「……母さん」

俺は嫌な考えを無理矢理頭の中から吹き飛ばすよう、無我夢中で走った。元々が頑丈な方ではなかった母だが、その持ち前の明るさとポジティブな思考を持ってして、決して人前……特に俺や沙彌佳の前では弱音を吐いたことがなかった。

そんな母が沙彌佳の失蹤を気に、倒れてしまったのだ。きっとあの明るさは、俺や沙彌佳のために気丈なフリをしていただけだったのかもしれない。

今考えてみれば、そうでもしないとこんなにまで弱くなってしまうものなのかという疑問が、なからずあった。俺の知る母は決してそんなではない。ならば本來の母は、実は誰かに依存しないと強く生きれないのでは、という気になるのだ。

だからあんなにまでやつれてしまったうえに院までしてしまい、未だ治る見込みが分からないとすら言われたのだ。

「くそっ。頼むから無事でいてくれ」

無意識のうちにそんな言葉を口にしていた。綾子ちゃんが朝からいやに変なじがすると言っていたのは、これを予していたというのだろうか。遅まきながら俺はそいつを今、ようやく実していた。

息も切れ切れになりながら全力疾走し、病院に到著した。昨日にも同じようなことがあったが、気分の上では昨日以上に最悪といっていい。

今日は昨日と違い、運良くエレベーターに乗り込むことができ、直ぐさま上昇ボタンを押した。向こうから院患者らしき人がここを目指して歩いてきていたように見えたが、今はそれどころではない。

エレベーターの上昇特有のきが止まって扉が開くと、足早に病室へと足を運ぶ。

病室の扉を開けると、いつもはって目と鼻の先にあるベッドの上にいるはずの母の姿がない。ベッドの周りには、々な機や點滴袋が置いてはあるが、そこに肝心の母がいないのだ。

「はぁはぁ……どこに」

走ってきてきたために荒れた呼吸を整えながら、病室を見回す。當然ながらどこにも姿は見當たらない。 を吐いたというのだから、集中治療室かどこかに移されたのだろうか……。こんなことなら、け付けで一度聞いておくべきだった。ここに致るまで、丸っきり何も考えつきもしなかった。

俺は舌打ちしながら病室を出ると、たまたまいつも母の世話をしている看護師に出會った。

「すみません。母は、ここの病室にいた人は今どこに」

「遙子さんの息子さんですね? 今一階の集中治療室に――あ、九鬼さんっ」

の言葉を最後まで聞かずに俺は飛び出した。今俺に何かできるわけでもないが、それでも行かないわけにもいかない。案図で治療室の場所を確認し、逸る気持ちを抑えながら向かう。

一階にある治療室の前に來ると、使用中という文字の赤いランプが點燈していて、今、この扉の向こうに母がいるのだと窺い知ることができた。背中ごしに、普通病棟の方から外來の患者や看護師らの話し聲が響いてくるが、なぜかやたら遠くに聞こえる。同じ棟であるはずなのに、まるでここだけが別の場所に隔離されているみたいな錯覚を起こしたのだ。

「くそ……」

顔を歪め、毒つきながらそばにある長椅子に座った。こんなに心配し、今すぐにでも助けてやりたい気持ちなのに何もできないというのがこんなにも、もどかしいものとは知らなかった。

何もできない自分に苛立ち、そしてただ祈るだけ……この行為が、ただただ恨めしくて俺は仕方がなかった。

母が謎の昏睡に陥ってから早いもので、すでに三カ月以上が過ぎていて二月になっていた。

母は醫師達の必死の治療にも関わらず、一向に目を醒ます気配がなく、それどころか日に日に頬は痩せこけ、眼窩はくぼんでいっている。これ以上、どこに痩せるためのがあるのかと思えるほどだ。

年齢のわりに、あまり歳というのをじさせなかった一年前の母とは、まるで別人だ。ただ寢ているだけのはずなのに、書いて字のごとく、その顔は異常なまでに病的に蒼白となっていた。

俺は今、何もすることなく意識のない母を目の前にして、一緒にいてやることしかできないでいる。いいや、それは何もしていないのと同義だ。何か……何か母のためにしてやれることはとないかと模索はするが、結局何も思い浮かぶことはないのだ。

コンコン

病室のドアをノックする音が聞こえる。きっと綾子ちゃんだろう、彼も毎日のようにここを訪れているからだ。

「こんにちは、おば様」

綾子ちゃんは眠ったままの母さんに、ベッドの橫からそっと手を額にやって囁いた。

「九鬼さん。これ、小町先生からです」

そう言って彼は、鞄の中からプリントを出して俺に渡す。

「いつもすまないな。なんだか、君を連絡係か何かに使ってるみたいだ」

「そんな……私が勝手にやっていることだから」

そうかと短く答え、肩をすくめた。手渡されたプリントには俺の卒業が危ないということと、進路のことに関して書かれているものだった。

しかし俺はその容を見ても、全くじることはなかった。學校のことなどもはや、どうでも良くなっているのだ。去年の春から立て続けに起こったことが尾を引いていて、俺は沙彌佳の時のように後悔したくないという気持ちから、文化祭のあの日を境に、ほとんど學校には行っていない。もし留年ということになったとしても、その時はその時だ。

學校と母の命。そんなこと、わざわざ天秤にかけるはずもない。

それでも、一度は小町ちゃんも病室を訪ねてきたことがあった。要は、家族も大切だが、しは自分のことも考えろと言いたかったらしい。

しかし俺の言い分としては、學校なんざいつでもり直せるが、母が死んでしまったらもうどうにもできない。そんなことをまくし立て、俺は小町ちゃんを追い出した。心配してくれるのは嬉しくはあるが、別に頼んでいない。余計なお世話だった。

けれど、そんな俺と小町ちゃんのやり取りを見ていた綾子ちゃんは、やはり先生の言うことも正しいと俺を諭し、彼の強い勧めもあって、たまにだが學校に行くこともあった。ごく稀にだ。

けれど行ったとはいっても全く授業など耳にらなかったし、ある時は、行ったその日が期末考査だったりもした。來たらすぐさま小町ちゃんに職員室に來るよう呼ばれもしたが、用があると斷って以來、それを最後に學校には行っていない。それがもう二ヶ月も前の話だ。

多分父さんも、俺がもうまともに學校に行ってないことは耳にっているはずだが、何も言ってこない。というのも父さんは、いつ頃からか家に寄り付かなくなっていたのだ。

仕事終わりには必ず病院に顔は見せるし、たまに洗濯としてワイシャツや下著なんかがあることを考えると、俺がいない時には帰ってきているようだが、母さんが昏睡狀態になって以來、まともに家で顔を合わせた記憶がない。

目の下にはクマができ、不髭が生えていたり髪もボサボサになっていたりと、父さんも決して普通の神狀態でなくなっているのが窺えるのだ。

「あの九鬼さん」

「ん……?」

「……一度學校に行きませんか? 今年はまだ一度も」

「いいんだ。どっちみち今のままじゃぁ留年はほぼ確実だ。四回のテストも二回しかけてないし、けたテストにしたって赤點のオンパレードだったんだ。

どうせ今から行ったって、卒業まで頑張って來いってだけの話しかないんだろう? だったら、もう行く必要なんてない。そんなことよりも、俺は今こうしていたいんだ」

そう強く告げると、綾子ちゃんは言いかけた言葉を飲み込み、それ以上は何も言わなかった。母さんの格なら、きっと自分のことより俺自のことを優先しろと言うに決まっているだろう。そんなことは家族である俺が一番良く分かっていることだ。

だが、もうあんなことは嫌だ。あんな気持ちになるなんて、もう嫌なのだ。

「また家族失うなんて……俺はもう嫌なんだ」

俺は、ぽつりと力無く呟いていた。

時間なんていうのはとても無なものだと思う。

結局、それから何日と経たないうちに、母は靜かに息を引き取った。醫師達による懸命な努力にも関わらず、母は昏睡狀態から一度も目を醒ますことはなかったのだ。

ある朝、なんとなく騒ぎを覚えて目を覚ました俺は、まだ朝霧に包まれた街を一人導かれるように病院に向かった。思えば、なぜあんな行を取ったのか説明はできないが、とにかく行かなければと思ったのだ。

夜間の急出り口からって、まだ誰も起きていない病棟を部屋に向かった。病室に到著し、心拍數を表示する機械を見れば、急激に心拍數が落ちているのが分かった。

そして俺は無言で痩せ細り、骨が尖ってきていた母の上を抱きしめた。溫かいも、指先なんかはすでに生きている人間のものとは思えないほど冷たくなっている。

俺は、もう母が永くないというのを頭ではなく直で理解した。

「母さん……」

その直後だった。心停止したことを告げる音が鳴った。

もう痩せ細ったのどこにも力などないと思えたから、わずかに筋が弛緩したのが分かる。俺のに頭を預けるように、ゆっくりとしたものだった。

しばらくすると、だんだんと溫かかったから溫がなくなっていくのも、まだ直前までは生きていたことが分かる顔だったのに、死んだ顔になっているのも分かる。

心停止を告げる無機質な音が響くなか、俺は泣くこともなく、ただ強く、強く母さんのを抱き続けていた。

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