《いつか見た夢》第56章

母がこの世を去って、早三週間が過ぎていた。

不思議なもので、哀しいはずなのに未だ一滴の涙も出てこない。それどころか、俺は自分がこんなにも冷漢だったのかと思うほど冷靜であったほどだ。

しかし代わりと言ってはなんだが、葬式のあった日、綾子ちゃんが涙で顔をぐちゃぐちゃにするほど嘆き悲しみ、泣いてくれた。まさしく號泣と言ってもいいほどだった。集まった親族ですら、あそこまで泣いてはいなかった。間違いなく、あの日一番泣いていたのは綾子ちゃんであろう。

沙彌佳が失蹤した時もそうであったが、俺はあまり泣けない分なのだろうか。もし綾子ちゃんのように泣くことができれば、いくらかはマシになっただろうか。

あるいは、母が死んだあの日、最期を看取ったのが俺であったからなのかとも思う。最期を看取ることができたのが幸運なことだったのか分からない。けれど、俺が母さんを看取ることになったのは事実であり、妹である沙彌佳の突然の失蹤から一年足らず……わずか一年足らずでまた一人、俺は大切な家族を失ったのだ。それもまた確実なことなのだ。

法的なことは全てやっておくという父はそう言い殘して以來、まともに顔を合わせなくなってしまっていた。考えてみれば父さんと母さんは、おしどり夫婦の代名詞ともいえるほどに仲睦まじかった。その母を失ってしまった父が仕事に逃げてしまったのも、無理はないかもしれない。

頼るべき相手を失った人間に対して、それは良くないだとか、そんなことをいうつもりもない。たとえ仕事に逃げたにしろ、それで死ぬわけじゃない。そうでもしないと自分を支えられないというのなら、俺は構わないとすら思っている。

仕事人間であっても、生きているならこの先何かあるかもしれない。いずれは向き合わないといけない事実ではあるが、今はまだ無理というのなら、俺は何も言うことはない。死んで、もう取り返しのつかなくなるよりは遙かに……。

その反面で、仕事に逃げることができた父を羨ましくも思う。現実が辛いから逃げたわけだが、裏を返せば、半ば事実を認めているともいえるのだ。俺はといえば、そんな父と比べたらとても中途半端なのだ。

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父さんのように、どこか逃げ込めそうなものがあるわけでもなく、それでいて、最期を看取ったにも関わらず、完全に母さんの死をけ止めきれているわけでもない。だが、心のどこかではやはり、事実はれなくてはならないと思ってもいる。

最期を看取ったからなのか、父さんのように事実を認めたくなくても認めざるをえないのだ。

「九鬼さん」

「ああ」

「ここでし一休みして、お晝にしませんか?」

「そうか、もうそんな時間か」

「はい。お晝とは言っても、もう大分経っちゃってますけど」

綾子ちゃんが指し示した時計は見れば、もう午後の二時を回っている。隨分と時間が経っていたらしい。今日は休日で、俺は今綾子ちゃんと二人で母の品を整理しているところだ。

「そうだな。ここらで一休みするとしようか」

「お晝は簡単なものでもいいですよね?」

「ああ。適當なので構わない」

綾子ちゃんが臺所へ出て行くのを橫目で見やった後、俺はため息をついた。品の整理というのが、思いの外大変だというのを思い知ったためだ。

腰に手をやって片付けられていく思い出の品々を見ると、再びため息がれる。最後に母と會話をわしたのはいつだったろう。

文化祭の始まる直前だっただろうか。

それに品といっても、それは別に大したではない。今までに必要に応じて買い集められたに過ぎない。だというのに、その人が使っていたというだけで、それらの品々は途端に思い出深いに変わる。特に生前その人用していたほどだ。

今時古風なもので、誰かに手紙を書いたりするときは、必ず用の萬年筆を使っていた。

クローゼットの中には、俺がガキの時分に母が好きでよく著ていた秋のコートなんかがあったが、いつだったかそのコートをえらく汚してしまい、母をひどく悲しませたことがある。そのコートがもう使われることはないのに眠っていた。よほどのお気にりだったということが、今ならよく分かる。

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他にもお気にりだったバッグや、お気にりの靴にアクセサリー、そして指。いつだったか家族で旅行した際に、父が俺と沙彌佳に緒でこっそりと母に買ったものだと聞いた指だ。

結婚指は形見として父が持っているが、俺は何もない。結婚指を除けば、最も大事にしていたの一つであったそれを、俺も持っていてもいいだろうかと考える。

とにかく普段なら何もじなかったが、今になって々な記憶を呼び覚まし、整理しようにも手をつけようもないという狀態だったのだ。綾子ちゃんがいなければ、きっとこの四分の一だってはかどることはなかっただろう。

「九鬼さん、できましたよ」

品一つ一つをじっと眺めているうちに、臺所の方から綾子ちゃんの聲がかかった。自分ではほんの數分のつもりなのに、時計を見ればすでに三十分近くが経っていた。

俺は箱から指を抜き取ってポケットに突っ込み、リビングに向かったのだった。

二月末日。一年で一番寒いと言われる時期も終わり、徐々に暖かくなっていく頃だ。もちろん、まだほんのしでも風が吹けば、すぐにでも溫かい室り込みたくなるのは言うまでもない。風が穏やかで、晴れている日であればの話だ。そんな二月最後の週末を利用して、品の整理をしていたのがつい二、三日前のことだ。

もう一つ。このほどめでたくも俺の留年が決まったという、ありがたい電話もあったのも同じ日だった。

それもおかしな話で、電話をしてきた小町ちゃんは理由をつけて學校を長く休んでいた俺に、どことなく申し訳なさそうにそう告げたのだ。それが何を言い表そうとしていたのは分からない。ただ卒業させてやれなかったからなのか、はたまた母や妹のことを気遣ってなのか。

俺は、春からの學校はまだどうするか決めていないということだけ告げ、電話を切った。実際のところ、もう學校なぞ辭めてもいいという気になっていたし、進學するにしても、今時なら高校卒業認定試験をければ問題はない。後は実力次第なのだ。

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かといって、今すぐにでも學校を辭めるというのも嫌という、矛盾した気持ちもある。とにかく、今は將來のことも含め、自分の気持ちと向き合うべき時であることは間違いない。

そして、もう一つ気掛かりなことがあった。將來という漠然としたものではなく、もっと近で、はっきりと目に見える形でのことだ。

そんなわけで俺は今、ある喫茶店にいた。今流行りの落ち著いた空間というよりは、もっとカジュアルで春から秋頃になると晴れの日には、オープンカフェに早変わりするというスタイルの喫茶店だ。経営時間を見れば、夜になると所謂ミッドナイトカフェとしてもやっているらしい。

晝の一番忙しい時間帯も過ぎて、店も一段落といったところだろうか。平日だが大學生のカップルかなんかが店に何組かいるのが話し聲から分かる。普段ならば、こんな場所に一人でなんか來ることはないが、俺は一人、この店の奧まった席である人を待っていた。

というのも、その人がこの店を指定したためだ。おまけに座る席まで、この席を座るよう指定したのである。時間を見ようと店を見回すが時計が見當たらない。キシマイ堂なんかもそうだが、この手の喫茶店は時計が置かれていないことが多い。客に、せめて店の中にいる時くらいは時間を忘れてくつろいで貰おうという配慮からだ。

ともかく、その人との待ち合わせの時間は午後三時ということだが、仕方なくテーブルに置いた攜帯を見ると、約束の時間はすでに過ぎていた。

に一際大きな笑い聲が響いた。この店の店長らしき人と、カウンターに座った店の常連らしい人が、口を大きく開けて笑っている。その景を橫目で見ながら、コーヒーに口をつける。

すると話に區切りがついたのか常連の客が立ち上がり、こちらに向かって歩きだした。最初はこちらの方にトイレがあることから、そちらに行くのかと思いきや常連客は、俺の前にきて対面の椅子に座ったのだ。

「やあ。君が九鬼君かい?」

男の長は、百七十五センチ前後といったところだろうか。今時あまり流行りそうもない渋い緑をしたロングコートを羽織り、若い頃のマイケル・ジャクソンでも意識したような頭をしている。この男が待ち人に違いないようだ。

「あなたが加藤さん?」

「ああ、僕が加藤だ。どうやら君で合ってたみたいだな」

テーブルをぐっと乗り出し人の顔を舐めるように眺める男に、思わずこちらからを引いてしまった。

「ああ、ああ、ごめんごめん。ついつい僕の悪い癖が出てしまった。僕はね、人の顔を眺めるのが癖なんだよ。だから悪気はないんだ。気を悪くしたんなら許してほしい」

「いえ。あの、それで……」

放っておいたら一時間は一人で喋っていそうな加藤に、俺は前置きもなしに聞いた。この手のタイプはさっさと本題にった方がいいと判斷してのことだ。

「うん、例の男の件だね」

例の男というのは、あの黒田のことだ。

母の死に対して、決して全てをけ止めたわけじゃない。しかし、ある種の區切りのようなものがついたのも確かで、おそらくは、日々衰えていく母を眼にしていく中、俺もいつしか母の死というのをけ止めていたのかもしれない。まだ納得しきっているわけではなくとも、母の死が俺に新しい道を照らしてくれたような気がしていた。

いや、むしろ逆にすっきりした部分が確かにあるのだ。今回のことは去年の沙彌佳の失蹤から一連の流れになっている。あいつがいなくならなければ、きっと母は死ぬことはなかった。

俺はようやく、の回りで起こった出來事を冷靜に判斷できるようになっていた。一年近くもかかってしまったと見るべきなのか、それとも、一年で済んで良かったと見るべきなのかは分からないが。皮にも母の死というショッキングな出來事が、俺をようやく立ち直らせるに到ったのだ。

それで今回、原點に立ち返り、未だ警察すらなんの果もあげていない沙彌佳のことを、自分なりにできることをやってみようと思い立った。

まず沙彌佳の事件を擔當しているはずの、畠とかいう刑事に連絡をれて捜査はどうなっているのか探りをれてみた。予想した通り、未だ、なんら報が得られないということだった。もちろん、あまり期待はしていなかったとはいえ、しばかしの期待がなかったといえば噓だ。なんらかの手掛かりが得られて、捜査が進展しているのに越したことはない。

そうなると次は自分のことだ。今までは、まず沙彌佳の容姿を含めた、能的な事件として捉えていた。しかし実際には、ことあるごとに真紀が口にした、俺のせいで巻き込まれた的なものだったのではないかということだ。

となるとだ。いくつかの疑問が浮かんでくる。

まず、なんで俺なのかという點だ。自分で言うのもなんだが俺にはとりわけ、これといったものは持っていない。その點については、あの黒田とかいういけ好かない奴が俺の生存本能がどうたらとうんちくを語っていたが、どこまで信じていいものかは分からない。

まぁ、その點はこの際置いておくとしよう。仮にそうだとして、去年のいつ頃からか、一切黒田の姿を見かけることがなくなったというのには、いささか疑問が殘る。あれだけ熱心に俺をスカウトしにきていた奴が、この何ヶ月もの間、一度たりとも姿を見せていないというのは、どうにも解せない。何か理由があると見ていいだろう。

ただ、俺が引きこもっていたことに対して評価が取り消されたというのなら、それはそれで結構なことだが、一応は調べてみておいたほうがいいと思ったのだ。そこで俺は、以前依頼しておいた黒田という人のことを知るべきだと、遅まきながら青山に連絡した次第だった。

久しぶりに俺からの連絡をけた青山はしばかし驚いた様子ではあったが、直ぐさま対応してくれ、今日この店のこの席で、加藤という人が來るからとだけ告げたのだ。よって、目の前の加藤なる人がどんな人間なのか、どんな顔をしているかなどは一切分からなかった。

「まず彼の名前だけど、本名は黒田健太郎というらしい。年齢は三十歳で、職業はスカウトマンだ」

「スカウトマン」

奴が名乗ったままのもので、本當にそんな職業があるのかと思わず疑いたくなったほどだ。とりあえず、黒田が自ら言った素に関しては本當のようだ。

「ああ。どうも雇われのスカウトマンらしい。ようするに、スカウト専門のプロといったところかな。こんな職業があったなんて僕も知らなかったよ」

軽薄そうな笑い顔をたたえながら加藤が言う。俺が頷き、加藤が続ける。

「スカウトの容そのものは実に多岐に渡るが、特に多いのは、海外への特殊技巧に関してが一番だった。

ちなみに特殊技巧というのは、おおざっぱに言うと軍人や、ある一定の訓練された技能を持った人間をを雇って派遣したりすることを言うらしい」「軍人を派遣って、つまり」

「つまり兵隊として、戦地に送り込む仕事ってことだよ」

なんだか憂き世離れした言葉の數々に、俺はどう答えればいいのか分からずに戸った。本當だとしたら、黒田なる男は人を兵という形で売りさばく、武商人みたいなものではないか。初めから黒田のことは信用していたわけじゃないが、やはりとんでもない話だったようだ。

「黒田は、その方面のフリーエージェントと呼ばれる類いのものだ。あ、フリーエージェントってのは、委託先から仕事を獨自に仕事を請け負うような奴のことね。

彼にはいくつものお抱え委託元があるようでね、聞けば、君も彼から接けたんだってね」

「そうなんだ。でも奴の言った言葉にはいまいち信用できなくて青山に頼んだんだ。

とりあえずあの男が仕事請け負い人だというのは分かったけど、依頼主は分かるかな。奴は自分の上司が評価したから來たんだと言っていた。だったらフリーエージェントというわりには組織だってるような気がするんですが」

「うん、君は著眼點がいいよ。君の言う通り、彼はフリーエージェントとは言うが一人でやっているわけじゃない。むしろ、ある人材派遣の會社に勤めているみたいだからね」

「人材派遣會社?」

加藤が頷く。俺達の話し聲はだんだんと、周りを意識するように小さくなっていっていて、気付けば互いにテーブルに前のめりになっていた。

「人材派遣の総合商社とでもいえばいいのかな。もちろん、商社というからには扱う人材は多岐に渡る。だから彼以外にも同じような人間は何人かはいるはずだよ。

きっと黒田はその部署において、最もバックグラウンドがグレーに近い人間なんだと僕は思う」

「なんでそう思うんです」

「まず彼の経歴だね。彼はH県の高校卒業後に自衛隊にっているんだけど、そこで二年間籍を置いた後に日本を出てフランスに渡っているんだ。

フランスは先進國の中でも、最も多く移民をれている國だ。ほら、あの國じゃスポーツ選手なんかはサッカーに限らず黒人は決して珍しいものじゃないだろ? その理由が地中海を挾んだ対岸、アフリカからの移民が多いせいなんだ。

事実、パリでは市の人口はせいぜい二百萬から二百五十萬程度の人口なのに、その都市圏の人口までれれば、たちまち千二百萬を數えるんだ。とはいっても、かなりの割合で移民なんだが。ま、東京での二十三區と東京都全の人口の対比とでも思えばいいよ」

「それと黒田の話がどう繋がるんです」

「うん。彼のバックグラウンドにはそういった國の事を知っておいた方が、理解しやすいと思ってね。

彼は自衛隊にいた。特に料理人になりたいわけでもない、日本の軍隊といっていい自衛隊員がそこに行く理由はただ一つだよ」

「……外人部隊か」

俺は閃いたように言った。より正確にいうなら、それしか思い浮かばなかったのだが、どうも當たっていたらしい。加藤の口がニヤリと歪んで首を縦に振る。

話には聞いたことがあるが、実際にどんなものかは良く知らない。ただ、軍隊やそれらに近い機関に所屬していた人間にとっては、フランス語さえ理解できれば後はどうにでもなるらしい話は聞いたことがある。

「この黒田は、フランス外人部隊に九十年代に數年間だが所屬した過去がある。黒田から漂う、あの得の知れない雰囲気はその頃に培われたものだと思う。

なんせその頃は、アフリカの紛ある場所にはフランス軍は必ず姿を見せていたからね。まあ、それは別に九十年代から始まったものでもないが」

「それで黒田が軍を退役した後は?」

「退役後は民間の、ある仲介會社にったらしい。ようするに全く関係ない者同士が権利を爭うことになった場合、第三者からの視點でそれらを上手く取り纏めるのが仕事の會社だ。この會社のグループに、その人材派遣の會社があるんだ。

ところがだ、問題はここからだ。彼のったこの會社、日本ではなくフランスにある會社なんだが、もかなり接にフランス軍と関係があるみたいなんだよ」

おかしいだろと言いながら俺に同意を求める加藤だが、何がおかしいのかいまいちピンとこない。

俺の態度を悟ったのかどうかは知らないが、加藤はもはや囁くような小聲になり、饒舌になっている。知ったは誰かに喋りたくて仕方ないといった風だ。

「だって考えてもみなよ。彼はフランスに行ってたかだか數年、さらにその半分近くがアフリカの戦線にいたんだよ? 外人部隊にいるくらいだからそりゃ言葉も理解はできるだろうし、喋れるだろう。だけど、それで他人の権利なんかの仲介なんてできると思うかい? 僕はとてもじゃないけど、そんな仕事やれないと思う。

きっと會社と軍が繋がってることから、何か特別なコネクションがあったんだと思うんだ。そうでもないと、言葉巧みに人の仲介をして、そこから契約に持ち込むなんて仕事につけるわけがない」

加藤の言う通り、確かにそうかもしれない。日本人同士にたとえれば良く分かるが、片言しか日本語が喋れない外國人に、仲介なんてしてもらいたいだなんて思わないし、思えない。やれるとしても、せいぜい通訳かなんかの仕事くらいだろう。それでも、きちんとせるのか怪しいものだ。

その後の加藤の話をまとめると、黒田はそんな不明な経路で會社にることになった。そこには軍との癒著があった可能があり、社會に口外するには憚られるような部門があるのでは、とのことらしい。

おそらく、黒田の言っていた機関というのもそれだ。奴の口からは斷片的な報しか語られることはなかったが、間違いないだろう。

さらに加藤によれば、その會社は四年ほど前から日本にもってきているようで、それどころか世界中に関連企業があるらしい。黒田の帰國も、この時期と見事に呼応しているという。

そうなると奴が俺をスカウトしにきたというのは、軍事方面へのスカウトと見ていいかもしれない。考えてみれば、戦場において死ぬのは當たり前の世界だ。果たして俺に、そこまでのものがあるかは分からないがそんな世界で生き抜くには、確かに強靭な生存本能が必要とされるのは間違いないだろう。

奴が俺との接をはかったのは、ほぼそう見ていいかもしれないが疑問がある。なぜ俺に白羽の矢を立てたかということだ。俺はそんじょそこらにいる一高校生の一人に過ぎない。今までだって、格段目立って何かしてきはいないし、特別な才能があったわけでもない。

どうやって俺を知ったのか、ということも気にはなる。また、奴は今井とやり合ったことすら知っている様子だった。奴とのことは、新聞にすらならなかったのになぜ今井のことを知ったのかも疑問だ。

黒田は今井との一件以來、俺に接してきた人間がいるとも言っていたが、その人のことは何も知ってはいなかった。むしろ俺に聞いてきたくらいなのだ。

ぱっと思い浮かぶのは、やはり真紀と斑鳩の二人だ。この二人はどう考えても素が知れない。あるいはどちらかではなく、二人ともという可能も否めない。勝手にどちらか一人と決め付けていたが、片や傷害事件だったとはいえ事件を世間的にほぼ潰し、み消したような奴だ。片や、得の知れない誰かとの繋がりを持っていて、全くの信用を持てない奴なのだ。

これら二人が、もしかしたら俺を欺いている可能は決して無視できない。おまけにあの二人、どうも顔見知りらしいというのもそれを裏付けることができそうだ。確たる証拠はなくとも、二人を信用してはいけないということだけは分かる。

ただ真紀の方からも、俺が黒田から接されたのではないかと聞かれたことがあることを考えれば、真紀と黒田の二人は、敵対関係にあるとみていい。必ずしも敵対関係とはいえないかもしれないが、なくとも両者は、互いに牽制しなければならない関係にあるのだけは確実だ。

両者の目的がはっきりとしないので、なぜそうなったのかは分からないが、俺が何かしら関係しているということだけは理解できた。

しかし殘念ながら、これらが沙彌佳に結びつく理由でないことに、なからずの落膽はある。おまけに、まだはっきりとした目的も分かったわけでもない。ようやく俺は第一歩を踏み出したばかりなのだ。今はやれること、思い付く限りのことをやるまでだ。

「なあ加藤さん。スカウトするというのが……なんていうのか、いかがわしい場合だったりするだろうか」

「ん? どういうこと?」

「つまり、危険な職業へのスカウトってことだよ」

「うーん、どうだろう。日本ではそんなの聞いたことないからなぁ。

だがアメリカなんかには、なからずケースはある。だが、もっと直接的だな。たとえば、軍関係者がその人のもとを訪ねたりっていうのはあるかも……というより、実際にあるよ、そういうことは。

けれども、仮にも民間を名乗っている會社が軍や工作員といったもののスカウトとなると、ちょっと考えにくい。というのも、民間の企業という表社會に屬した機関がそれを仲介するより、獨自にスカウトした方がはるかにメリットが多いからなんだよ。

デメリットとしては、まず民間を間におくと、場合によっては軍などの機関が隠し持っている洩なんかがないとは言いきれないしね」

「なるほど。確かにそれも一理あるか」

お互い頷き合いながらコーヒーに口をつけた。加藤と話し出してからというもの、互いに話してばかりで、いつの間にか口の中がからからになっている。

「だが……これは僕の推測だから確かなことじゃないから鵜呑みにはしないでもらいたいが、軍との関係をもった企業なら話は違ってくるかもしれない。

今回のことに限っていえば、たかだか権利仲介の會社が世界中に支店や関連企業を持ってるってのも、し大袈裟のような気がしないでもないんだ。本當にそれだけで、世界中に展開できるほどの資金を持てるのか、という疑問はあるからな。

権利仲介なんてのは表向きだけで、実は裏では何か、もっと巨大なビジネスがいてるんじゃないか、そうみれなくはない」

「そのために、俺みたいな人間をスカウトしたりするものかな」

「うーん、あくまで僕の推測にすぎないから、そこらへんはなんとも言えないなぁ。

だけど軍と繋がることで、そこに関係した仕事のためにスカウトした……そうとしか思えないのも確かだな。もしそうだとしたら、向かう先は軍隊であるのも明確だ。軍隊ってのは結局、戦爭しないと儲からないんだから」

加藤はやれやれと肩をすくめ、首を振った。

しかし、そう言われるとやはり奴がスカウトしようとしたのは軍だとか、そっち方面であると考える方向が良いかもしれない。奴からの斷片的な報だけではまだはっきりと斷定はできないが、とりあえず公的な機関だと初めて會った時に言っていたし、奴のいう才能という條件にも合う。こう考えてみれば、あながちでもない。

「加藤さん。ぶしつけなお願いがあるんですが、良ければもう一つ頼まれてほしいことがあるんだ」

俺は今取り巻く人達を知るため、目の前の男に連中の素をもっと調べてほしいと頼みこんだ。最初から駄目元ではあったが、彼は心地良く引きけてくれた。

「いいさ。なんたってあの青山君の友人だ。ただ、他にもやらなきゃならないことがあるから、し時間はかかると思う。それはいいね?」

加藤はウインクしながら人差し指を立て、任しておいてよと付け加える。そうして彼は席を立って離れていった。去っていく後ろ姿を目で追いながら、俺も俺で、やれることをやるべく席を立ったのだった。

時間は過ぎていく。誰もその事実に気付くことなく、ある時、ふと時間が経ったのだと気付かされるのだ。

青山の紹介で加藤と會ったのが二月末。それからすでに一月以上が経とうとしていた。カレンダーを見れば、今日から四月になったというのに気付いたのだ。

俺はこのところ、突然失蹤してしまった沙彌佳のことだけで頭がいっぱいだった。もうクラスメイトらは一人殘らず高校を卒業し、それぞれの道を歩み出している。當然といえば當然だが俺は留年が決まってい

て、今年もまた高校生をやることになっている。

しかし肝心の本人は全くといっていいほど、學校には興味がなくなっていた。この一ヶ月の間、沙彌佳に関することをひたすら調べているといった狀態だ。

あの日、綾子ちゃんの家の前で走り去っていった姿を最後に、沙彌佳の姿は見ていない。そこで俺はまず綾子ちゃんの家周辺から、しらみ潰しに聞き込みを始めたのだ。

俺にとってはとても大切であり、昨日のように思い出せることであっても、世間からすればすでに一年も前というじで、始めは尋ねてきた俺に怪訝な顔を向けてこられたものだった。もちろん今もそれは変わらないが、人間いくらもすれば慣れてくるもので、今ではあまり気にならなくなってきた。

中には、なぜか俺がその時の家族だと知ったようで申し訳なさげに答えてくれた人もいて、最近では逆にそいつを利用してやっているほどだ。沙彌佳に繋がるかもしれないことなら、もう何だってやってやるつもりだ。

沙彌佳を失ったショックは未だにあるが、いつまでも凹んでばかりもいられなかった。あいつがまだ死んだものと決まったわけではないし、生きているとすれば俺たち家族と逢いたいと思っているに違いない。そう思うと、いても立ってもいられなくなる。

「おはようございます」

「ああ、おはよう」

起こされてリビングに降りてきた俺に、綾子ちゃんが挨拶をしてきた。

顔を洗い終えて席につくとすでにテーブルの上には朝食である、真っ白なご飯と味噌、それと昨晩の殘りものの魚の煮付けが用意されていた。ここのところ、綾子ちゃんも家事が板についてきているのか、一切の無駄がなくなっているように思う。今となっては、俺や父さんなんかよりも家のことを知り抜いているだろう。

「いただきます」

「いただきます」

二人で手を合わせ、箸をとった。

母が死んで以來、朝はこんな風に二人で過ごすことが當たり前になっていて、父はもはや、まともに家に寄り付くことはなくなっていた。

たまに深夜に家に帰ったきた音が聞こえはするが、朝、俺が起きる頃にはもう家から消えているのだ。この家には沙彌佳と、最の妻の思い出が詰まっているわけだから、それらを思い出すと、とても正気ではいられないのかもしれない。そう、かつての俺のように……。

「九鬼さんは今日も行かれるんですよね?」

「いや、今日はそうしたいのはやまやまなんだが、他に用事があるから聞き込みはしない」

「そう、ですか」

「ああ。前々から頼んでおいたことがあったんでな。でもどうしたんだ。何かあるのか?」

「い、いえ、そうじゃないんだけど、ただ九鬼さん、ここ一ヶ月くらいの間、毎日休むことなく出かけてますよね? あまり無理はしないでくださいよ?」

「そうだな。重々承知したよ」

軽い冗談のつもりで言ったつもりだったが、綾子ちゃんはどこか浮かない顔のままだ。

「……大丈夫だ、無理はしないよ」

再度、改めて言い直した。というのも、綾子ちゃんの言い分も分からなくもないからだ。

俺は彼の言う通り、この一ヶ月の間あまり寢ていないし、食事もせいぜい朝と夜だけで二回しか食べていない。時には朝食べてから次の日の朝まで食べなかった日もあったほどだ。決まってそんな日は、綾子ちゃんがうちに來れない日でもある。おまけに睡眠もけして多くなく、綾子ちゃんが心配するのも無理はない。

けれど不思議と食も眠気ともに、あまりじないのだ。何かに集中していると空腹や睡眠をじにくくなるというが、験した限りでは本當のことのようだ。

いや正確には、全くじていないわけではないが、それらを摂りたいと思わなくなるというのが正しいだろう。求が限界にきたときのみ、最低限の睡眠と食事をとるといった生活になっているのだ。

「……悪いな綾子ちゃん。君には迷ばかりかけちまってる。

もし疲れているなら、一日二日くらい休んだって良いんだ」

「そんなことはないですよ。だけど、むしろ九鬼さんのの方を心配してるくらいです。お晝もあまり食べてないみたいだし……」

バツの悪いこと、この上ない。綾子ちゃんは、とっくに俺の行なんてお見通しだったのだ。

「……返す言葉がないってのは、こういうことを言うんだろうな。ああ、確かに君の言う通りだけど、あまり苦にならないんだ、不思議とね。

だけど、本當に無理はしてないんだ。やっていると、常に眼と脳みそが冴えた狀態になってるだけだ。パワーダウンしたらきちっと食べてるし、寢てるからな」

「ならいいんですけど……」

とは言うものの、綾子ちゃんの顔は決してそうは言ってない。これがもし反対の立場であれば、俺としても同じことを思ったに違いないので、仕方のないことだ。俺はこの話題はもう終わりだと言い聞かせるように、茶碗の白米をかきこんでいった。

朝食を終えて一服しながら俺は、綾子ちゃんの準備を待っていた。

今日は珍しいこともあるようで、綾子ちゃんは実家の方にどうも用事があるらしく、晝前には帰らなければならないということだった。そこで、俺も駅までは一緒に行こうという話になったのだ。

今日の予定として、街に出て加藤と會わうことになっている俺は、電車に乗らなければならない。そして彼は駅までは一緒の方向なのだから、久しぶりに一緒に歩こうという綾子ちゃんからの提案だった。

ちなみに綾子ちゃんは今、自転車を使って毎日うちに來ている。

「お待たせしました」

「いいさ。それじゃぁ行こう」

「はい」

家の鍵をかけ、家を出る。空は雲一つなく晴れ渡っていて、気溫も高く穏やかな一日のようだ。

気を紛らわすために、綾子ちゃんと他ない話を彼の自転車を押しながら駅まで歩く。それでも、妹の沙彌佳と母の話題は避けていた。さすがにこればかりは互いに気を遣うため、話題にすることはない。そういう意味においては、俺と綾子ちゃんの関係は一年前と比べ、良くも悪くも変化していると言える。

良い変化としてはまず、沙彌佳がいなくなったことでどん底にいた俺を、救い出してくれたということだ。このことに関していえば、謝してもしきれない。おかしな話かもしれないが、あのおかげで綾子ちゃんとは、なおのこと歩み寄ることができたのだ。

悪い変化といえば、皮にもそのおかげでもう一歩、互いに歩み寄れないでいることだろうか。俺からすると、どうしても今のこの関係は、沙彌佳がいなくなったからというある種の、同にも似た前提があってこそだとじられて仕方ないのだ。

もしかするとこんな風に考えているのは俺だけで、綾子ちゃんは何の気にもしていないかもしれない。けれど、どうも自分には割り切れずにいる。

ふと、そんなことを考えているといつの間にか會話は途切れており、綾子ちゃんが顔をこちらに向けて俺を見た。その何気ない仕種に俺は、思わずドキリとさせられる。

自分の中ではもはや家族に近い覚になっていた綾子ちゃんに、やはりそれとは別に、としての綾子ちゃんを見たからだ。沙彌佳の紹介で知り合って以來もう一年半になるが、あの頃と比べるといくらか大人びてきているのをじたのだ。

の一年は男の二年、三年と同じだとどこかで聞いたことがあるが、今の彼を見れば思わず納得してしまいたくなる。綾子ちゃんは俺を見てうっすらと笑みを浮かべ、どうしましたと聞いてきた。

「いいや、なんでもない」

肩をすくめて、かぶりを振る。

一年……この一年のあいだ、あまりに劇的なことが多すぎて、本當に一年も経ったのかと思わざるをえない。

家に寄り付かなくなった父、母の死、そして沙彌佳の失蹤も、俺にはここ一週間かそこらの出來事としか思えないほど、濃された一年だった。だが、いい加減全てをれ、前に進むべき時だ。

もう泣き寢りも、逃げることもしたくない。俺を取り巻く狀況を誰一人教えてくれないというのなら、自らの足を使ってでも調べてやろう。

俺は新たな決意をに、前を向いた。

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