《いつか見た夢》第58章

大小様々なコードやコンセントがあり、部屋のあちこちに延びている。しかし足の踏み場がないというわけではない。きっちりと人が通れそうなくらいには隙間ができていて、よく見ればそのコードの類いも、なるべく絡まらないよう配慮がなされていた。

東側と南側にある窓にはカーテンがされていて、晝間だというのに隨分と部屋が暗くじる。そんな中、カタカタとタイピングする音が響いていた。タイピングの速度はといえば、俺が知りうる限り最高速といっていい。

「何か摑めそうか?」

それを橫で見ていた俺が、不意にそう聞いた。

區切りの良いところまできたのか、タイピングする指を止めて肩を軽く回しながら青山が答える。

「さすがにそう簡単には……。だけど、加藤さんの家は分かったよ」

「本當か?」

俺は思わずを乗りだし、畫面に顔を近づけた。けれど、畫面には俺には理解できそうにない文字列ばかりが列んでいて、全く分からなかった。

青山はマウスで畫面を作し、分かったという加藤の家の住所を示した。

「K県K市……」

意外だった。俺に待ち合わさせた場所がより都心に近いところだったせいか、てっきりその近くに住んでいるものとばかり思っていたのだ。畫面に映し出されている住所を攜帯のアドレスに登録し、頷いた。

それを目に青山は脇においてあったカップを手にとった。中にはミルクたっぷりのコーヒー……というよりは、カフェオレといった方が正しいかもしれないが、それが注がれている。青山の姉貴がそいつを運んできたのだ。

そいつを盛大に一口飲んでカップをおくと、再び畫面に向かった。同時に指も高速でき出した。昨日立て続けにショッキングな出來事が起こったが、かといってへこたれているわけにもいかない。そう考えて俺は今、青山の部屋に來ているのだ。

理由はもちろん、加藤の死に起因している。そして、あの男達もだがとにかく今は、加藤が俺に話すはずだったことを調べてみる必要がある。何か重大なことが隠されているのではないか……俺にはそう思えてならないのだ。

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そこで俺はまずは青山に頼んで、加藤が摑んだかもしれない報を調べてみようと思い立った。青山は有能なハッカーであるし、もし加藤がパソコンから何かしら報を得ていたなら、何か分かるかもしれない。

それにこの昨今、青山やあの加藤といった人種の連中が、パソコンなしで報収集するだなんて考えられない。全てじゃないまでも、何かヒントくらいは摑めるはずだ。そこで今回、青山に探ってもらっているところだった。

青山も今回ばかりは人一人が死んだとあって、あまり乗り気ではなかったが、主にこちらの事ばかりではあるが説明すると、本人もやる気になったらしい。

なんせ元はと言えば青山と加藤は、チャットで知り合ったとはいえ顔見知りなわけだし、加藤を俺に紹介したのも他ならぬ青山なのだ。

「うーん、いくつか気になるサイトを見てはいるね。だけど、どれも直接加藤さんの死に繋がるようなものはないなぁ」

畫面と睨めっこしていた青山がぽつりとつぶやいた。本當に作業中の思わずでた、獨り言といったじだ。

「やっぱり直接、加藤の家に行くしかないかな」

「うん。その方が早いかも」

俺は頷きながら攜帯を開き、今しがた登録した加藤の家の住所を眺めた。こうなったら加藤の家に行くしかない。

「分かった。俺は今から加藤の家の方に行ってみる。青山は何か分かったら連絡してくれ」

「うん。……九鬼くん。気をつけてね」

「ああ」

青山はきっと一昨年の今井のことを思っていったのだろう。俺は重々しく頷くと、青山の部屋を出ていった。

青山の家を出てすでに三時間近くが経過していた。その間、昨日の奴らとは出くわすことはなかった。それでも油斷はだ。昨日はたまたま三人だったが、他にもまだ仲間がいないとはいえない。昨日の今日なのだから、俺は周囲に対して昨日以上に気を配っていた。

もっとも、遠カメラなんぞまで使われていたりしたら元も子もないのだが。

加藤の家の近くにまできた俺は、近所に住んでいそうな主婦に聲をかけ、詳しい住所を聞いた。なんの疑いもなく教えてくれた彼に禮を言い、教えられた通りに道を進むと、ほどなくして加藤の家に著いた。

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「ここか」

念のため住所を確かめると、ここであることは間違いないようだ。加藤の家とはいうがなんてことはない、絵に描いたような古ぼけた木造二階建てのアパートだった。これなら似たような作りになってはいたが、斑鳩のアパートの方がまだマシといっていい。

加藤の家、いやこの場合は部屋といった方が適切だろう。部屋は階段を上がって二階の一番端だ。階段は鉄製のものだがすでに錆びつき、ところどころが空いていて下が丸見えになっている。おまけに一段上がるたびにギシギシという上る者を不安にさせる音をさせる。事実、二カ所ほど錆びついた手摺りが途切れていた。

壊れたりしないだろうかと慎重に上っているうちに、二階に上りついていた。二階には一階と同じ三部屋あり、上った先一番端の部屋が加藤の部屋だが、ここでまず他に住人がいないか確かめてみようとした。が、多分誰もいないだろう。一階の階段橫にある郵便けには、加藤の名しかなかったからだ。

念には念を押して二階二部屋のドアを強めにノックし、反応がなければドアノブを回す。しかし反応がない。やはり誰もいないのだ。俺は加藤の部屋のドアを開けようとして、思い戸った。一年半も前になるが、生の家でのことを思い出したのだ。

(馬鹿馬鹿しい。同じようなことがそうそうあってたまるか)

ため息をつきながらかぶりを振る。ドアノブを回すと、いとも簡単にドアが開かれたのだ。おかしい……。まさか加藤は、部屋を出るのに鍵をしなかったのだろうか。ちょっとの用事で部屋を出るなら、まあ、そいつは分からないでもない。誰も見てなければなんとかなるだろう。しかもこのアパートには加藤以外、誰も住んでいないのだ。

しかし、たしか早朝に出かけたといい話だったが、ここから事故現場までは歩けば直線距離でも一キロ近くは離れている。それだけの距離があれば、ちょっとの用事にしたって鍵をしないというのはさすがにおかしい。

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俺は警戒しながらそっとドアを開けた。ドアが取り付けられている金屬部分が錆び始めていたため音が出るかと思ったが、思いのほか、変な音がでることもなくすんなりと開いた。

「これは……」

開けたドアを閉めながら、部屋の中を見回した。部屋は一人で住むには広めの2Kで玄関の橫がすぐ臺所という、ありがちな間取りになっていた。だが問題はそうじゃない。部屋の中に誰かが侵した形跡があり、無慘にも荒らされていたのだ。

俺は部屋に上がって考える。取りの類いだろうか。當然まず最初にそれを思い付く。しかし、この部屋の主は昨日死んだのだ。俺に何か話そうという予定のその日にだ。

そんなことのあった翌日に都合良く取りがるのかと思うのは、さすがに都合が良すぎな気がしてならない。しかもよくよく見れば、取りがったように見えるのにあまり金めのが取られていない。

言ってはなんだが、こんな薄汚い部屋にあまり金めのもないというものだが。とにかく先の侵者が何をしていたのかは、俺としても知っておきたいところだ。

部屋にると萬年床になっていたと思われる布団が無造作に剝がされ、おまけに靴の後がしっかりと殘されていた。足跡から察するに、侵したのは男だろう。

隣の部屋にはその足跡はほとんどなく、中もあまり荒らされていない。侵者はあくまで、加藤が寢床に使っていた部屋で何かをしていたらしい。

では金めのを盜るのでなければ、その野郎が何をしていたか。本人の死と何か深く関係しているものに違いない。手短に部屋の中を探ってみるが、それらしいものは何もない。せいぜい風俗店のカードが、何十枚も荒らされついでにぶちまけられているくらいだ。

まぁ、あのじでは特定の人はいなさそうだったので、格段驚くようなことでもないが。

ふと、部屋のやや中央の壁の前に置かれたテーブルの上にあるパソコンが目に映る。

「……パソコン。そうか、パソコンなら何か分かるかもしれない」

俺は生前、きっと死ぬ何時間か前まで使っていたと思われる機械の電源をつける。パソコンはただちに起し、順調に立ち上げ作業をこなしていくがアカウントの選択畫面で、思わぬことになった。アカウントを立ち上げるにはパスワードが必要だったのだ。

普段、自分が使うパソコンには自分以外使わないのだからと、そんな面倒な設定はしていない。そのため、まさかパスワードが必要だったなんて思いつきもしなかったのだ。仕方なく自分で思い付く限りのパスワードを力していくが、どれもけ付けない。

「くそ。なんでパスなんて設定してあるんだ」

にまかせてディスプレイを毆りつけたくなる衝にかられるが、そんなことをしたって意味はない。しの間どうすべきか考えてみるが、何も思いつかない。と、そこで攜帯が鳴りだし、俺は思わずビクリとしてしまった。

驚かせやがってと毒づきながら攜帯をとると、著信は青山からだった。電話してきたということは、何か摑めたのかもしれない。

「もしもし?」

『九鬼くん? 僕だけど』

「ああ。何か分かったのか」

『やっぱりいくら探しても、それらしいのは分からないよ。

なんとか分かったのは、加藤さんはいつも仕事の前に必ず誰かしらとメールでのやり取りがあったっていうことくらいだな。

多分、肝心の報そのものは、直接會って集めていたみたいなんだよ』

「つまり加藤が死ぬ前、最後に會った人を當たってみた方が良いということか」

『かも……』

「分かった。その人のことを教えてくれ。待て、メールにしてくれないか。口頭よりそっちの方が確実だ」

『うん、分かった』

「ところで今加藤の家にあるパソコンを見ようとしてたんだが、どうだ。何かってると思うか?」

『パソコン?』

「ああ。起させてみたんだがパスがかかってて、見ようにも見られないんだ」

『うーん。あの人がどこまでパソコンを使っていたか分からないけど、多分中にはあまり重要なものはってないんじゃないかな。

データとしてやり取りできるものであれば、わざわざ人と會ったりしないと思うし……』

「……そうか。何かあるかもしれないと思ったんだが、言われてみればそうかもしれないな」

パスワードを力するよう示しだしたまま畫面は止まっている。その畫面を見ながら俺は小さく頷いていた。

どうすべきか考えを巡らそうとした時だ。

「ここです」

「!?」

ドアの向こうで聲がしたのだ。このアパートの管理人かもしれない。それともう一人、誰かいるらしい。

俺は咄嗟に電話を切り、慌てふためいた。ガチャガチャとドアに鍵を差し込む音がする。しかし俺が鍵をしなかったため逆に鍵がかかり、おかしいななどと言いながら、再びドアを開けようとしていた。

俺はそのあいだにも、ここから逃げ出そうと窓を開けて、下を覗きこむ。すぐ下は幅わずか十數センチのブロック塀だった。一瞬迷いがあったが考えている暇などない。

「ん? 誰かいるのか?」

ドアの向こうから俺の気配か音かに気付いたのか、男の聲がする。俺は窓を乗り越え塀の上に足をやり、そのままアパートの口の方とは逆に向かって伝いはじめた。

ほんの數秒だが時間を稼げているだろうが、見つかるのは時間の問題だ。だったら確実に捕まりそうな口方面より、建の裏手に回った方がいい。そう考えたのだ。

案の定いくらもすると、背後から待てという聲が響いた。俺に向かって言ってるのだ。

(後し)

塀の上はけっして幅があるとは言えないが、その両側には昨今の耐震基準を確実に満たしていなさそうな古いアパートのおかげで、両手をばせば簡単にアパートの壁に手をつけるので、バランスにさえ気をつければなんてことはない。

「待て、コラァ」

再度怒聲を響かせた男のことなど気にもかけず、俺は塀の端にまできた。すると塀の下に男がいるのが脇目に窺えた。よく見れば男は深い紺をした制服を著て、同じをした帽子を被っている。

そう、その男はなんと警察だったのだ。後ろから怒聲を響かせた男かとも思ったが、多分違う。

あまりに下に到著するのが早過ぎる。警察であれば、大二人組であることが多いので、事を察した一人がこっちに先回りしたといったところだろう。

だが、その警察も俺に向かって怒聲を響かせてきたが、こちらに來ることはできない。

なぜなら、アパートと壁の間はほんの三十センチもないのだ。を橫にしながらであれば來れなくもないが、どのみち俺を捕まえることは無理に近い。

俺は警察たちを無視して、隣の家の庭にジャンプした。著地の衝撃がほんのわずかに足に響くが、そんなことに構ってはいられない。

幸いにも、住人の趣味か庭にはガーデニングのためのらかい土が敷き詰められていたのだ。衝撃がほとんどなかったのは、そういう理由からだ。

直ぐさま上を起こし駆け出した。駆け出した先、突如として目の前に大きな犬が現れて、俺に向かって吠え立てた。

いや、吠えるというより、半ば唸り聲になっている。不幸にもこの家には、大型犬が放し飼いにされていたのだ。

俺は犬に対して申し訳なく思いながらも、容赦なく蹴りを繰り出した。まず犬の鼻っ面に當て、怯んだ隙にボディにもう一発くれてやる。

俺のためにこうなってしまったという罪悪からか、最後の一撃はわずかに加減できていたはずだ。キャインと泣き聲をあげて、痛みにうずくまるようにしている。

なくとも、俺がこの家から逃げるだけの時間くらいは稼げる。

(そう睨むなよ)

まだ俺に小さく唸りながら睨みを利かせているが、これなら大丈夫だろう。

犬に向かって肩をすくめてみせた俺は、再び家の門に向かって走りだし、塀を飛び越えた。この家の塀はあまり高くない、所謂デザイナーズ建築という種類のものであるためだ。

ほんの一區畫分走ると、すぐにやや大きめの道に出た。來た時とはまるで逆方向になるが仕方ない。俺は攜帯を取り出して履歴から、青山に折り返してかけなおす。

『九鬼くん? 大丈夫? 突然切れたみたいだけど』

「ちょっとな。それより加藤が最後に會ったという人のことを教えてくれ」

早口になっている俺に何か悟ったようで、青山はすぐさま加藤が最後に會ったという人のことを口にし始めた。もしかすると、すでにいつでも教えることができるよう準備していたのかもしれない。

『うん。まず、その人の名前はハンドルネームでしか分からないんだ。加藤さんとはメールで定期的に連絡を取り合ってたみたいで、kaolってハンドルネームを使ってるみたいだね。k、a、o、lで”かおる”って読むのかな?』

「かおる」

的な名だ。男ともとれるしともとれる。おまけにこの手のハンドルネームは実名のようでもあり違うようでもある。人を混させようとするのが狙いなのかと、つい邪推してしまうようなハンドルネームだ。

「最後はどこで會ったのか分かるか?」

『今それを調べてるところだよ。メールにはいつもの場所でって書かれていたから、そこに行けば會えそうだけど……』

「いつもの場所……」

そんな場所など思い付くはずもない。思い出すことができたのは、例の喫茶店くらいだ。

「仕方ない。一旦加藤と知り合った喫茶店に行ってみるとするよ。あの店の常連だったみたいだから、マスターなら何か知ってるかもしれない」

『分かった。僕ももうし調べてみるよ』

そう言って青山が電話を切った。俺はため息一つ、どうしたものかと考えようとするが、何も思い浮かばない。

それにしても、最悪なタイミングで警察が出てきたものだ。おそらく彼らは昨日死んだ加藤の辺調査にでも來たのだ。部屋の中が荒らされているのに気付いた彼らは、間違いなく俺を犯人だと決めつけていることだろう。

それに伴い、一刻も早くここから立ち去った方が良さそうだ。向こうは、パトカーでまだ辺りを探している可能が高い。

気付けばいつの間にかどこかしらの公園にまで來ていた俺は、足早に対岸の出口まで突っ切った。どことなく憂鬱な気分になっていた俺と裏腹に、公園の桜は今が盛りと淡いピンクをもってして公園に彩りを與えている。そいつがまた、俺にはどうしようもなく気分を下げさせるのだ。

「……そうか。もう一年も経っちまったのか」

否応なく視界に映りこんでくる桜を目に、俺はぽつりと口にしていた。だってそうだろう。あの日から俺の人生は変わってしまったのだ。

他人からすれば、家族がいなくなったから學業も修了できなかったなんてという奴もいるかも分からないが、それが引き金となって母が倒れ、父はほとんど家に寄り付かなくなった。おまけに頼りになるはずの警察は、今もまだきちんと捜査しているのかと疑いたくなるほど、何の音沙汰もない。

カタが著くまでとことんやると決めた以上は、赤の他人になどなんといわれようが気にする必要はない。どうせ言ったところで、良くも悪くも何かあるわけでもないのだ。

そうなると同時に俺には、自分の人生はこの先間違いなくまともな人生は送れないような、そんな予があった。なくとも平凡とは言い難いものになる気がして仕方ないのだ。

理由は分からないがこの桜の花を見ていると、どうしようもなくそうじさせるのだった。

ガヤガヤと店はうるさく、スーツを著た休憩中のサラリーマンやまだ春休み中のはずの學生らで賑わっている。

「やあ、待たせたね」

「どうも」

加藤と待ち合わせに使った喫茶店のカウンター席で、仕事が落ち著くのを待っていると頼んでおいたブレンドコーヒー片手に、マスターがやってきた。

「それで加藤さんのことだったね。僕もニュースを見た時はさすがに驚いたよ。ほらあの人ってさ、どちらかというと殺しても死ななさそうなタイプの人だったし」

マスターの言い方に思わず苦笑を浮かべる。たしかに加藤はなんとなくゴキブリみたいな、しぶとそうなタイプに思えたのだ。

「加藤は……加藤さんは、ここには良く來ていたんですよね?」

「ああ、それこそ週に一度は來てくれていたよ。探偵業?だったかな。そういうことをやってることもあってか、話もすごく面白い人でねぇ」

「なるほど。ところで、加藤さんはここに良く來てたということですけど、他に、誰かと一緒に來たりすることはなかったんですか?」

「んー……加藤さんがここに來る時はいつも一人だったな」

「もしくは待ち合わせに使っていたりとか……」

「待ち合わせ……ああ、そういえばたまーにだけど、ここに加藤さんと待ち合わせにしてたお客さんがいたな」

「どんな人ですか? 同じ人?」

もしかすると、kaolなる人かもしれない。そう思うと、ついついを乗り出してしまいそうになる。

「多分、同じ人だと……思うけどね」

なんとも歯切れの悪い言い方だ。

「だと思う?」

「ああ。なんとも変わった外見をしてる人でね。毎回來店するたびに印象が違って見えてねえ……」

「男なんですか?」

「いや、悪いけどそれも分からないんだ。男のようにも見えるし、の人のようにも見えるんだ。でも……多分、の人だと思う。

さらに言うと、聲も隨分と中的でね。なんというか……不思議な聲の持ち主だね、あれは」

「そう、ですか……」

摑んだかもしれないと思ったのは、ただのぬか喜びだったらしい。あまりにも象的すぎる。

「ごめん、あまり役に立てなかったみたいで」

「いえ……半ば好きでやってることですから」

落膽を隠すように半分本當、半分噓で適當にお茶を濁した。

「趣味でやってるのかい?」

「趣味というわけでは。でもちょっと気になったんでね」

「なるほど。でもあるよね、そういうこと」

爽やかな笑顔でマスターは自分の趣味を話し出した。いつもであれば話に耳を傾けるところだが、今はそんな気分じゃない。俺は適當なところでぐっとコーヒーを胃に流し込み、カウンターを立った。

「ありがとう。四百円になりますね」

財布から五百円玉を取り出して、マスターに手渡した。

「はい、百円のお釣りです。

あ、そうそう。趣味で思い出したんだけどね。趣味というか、半ば仕事とも言ってたけど、まあ、実益を含めてってやつなんだろうけど……加藤さん、よく風俗街にり浸ってると言ってたな。

ま、職業柄、々な人が來るからだろうからと思うけど」

「風俗街?」

そう言えば加藤の家にも、たくさんの風俗店のカードが落ちていた。もしかすると、新しい展があるかもしれない。俺はマスターに禮を言って店を出て、攜帯で青山に連絡をする。

『もしもし』

「俺だ。し調べてほしいことがある。加藤が風俗によく行ってたというのは知ってるか?」

『知ってるよ。數ない趣味の一つだといってたっけ……』

懐かしげに言う青山に思わず口元を歪めた。俺よりは長い付き合いなのだから、當然といえるだろう。

「それで、加藤がどういった店に行っていたか調べられないか? あるいは常連だった店なんかはないかな」

『死んだ人の懐をあさるみたいな気分になるけどやってみるよ』

「悪いな。分かったらすぐに折り返してくれ」

半ば事務的に頷いて電話を切った。全く、あいつをこき使ってばかりだが、今はしでも報がほしいところだ。青山にはもうし付き合ってもらおう。

すでに時刻は、夕方も六時になろうとしている。ぐうという腹の蟲が鳴る音がした。思えば朝の八時くらいに食事をして以來、午前中に青山のうちと今の、たった二杯のコーヒーしか口にしていない。その間、隣のK県にある加藤のアパートまで行き、おまけにそこでは警察に捕まりかけた。思わぬ逃走劇を繰り広げてしまったせいで、余計に腹が減ってしまったのだろう。

青山からの連絡を待つ間、どこか適當な場所で小腹を満たそうとした時、著信があった。多分青山だ。電話をしてからまだほんの、一、二分しか経っていないがそうだろう。

「青山か」

『うん。分かったよ、加藤さんが良く行っていた店』

「本當か」

青山の話だと、加藤はいくつかの風俗店に足を運んでいたらしい。その中でも特に懇意にしていた店が、S區にある風俗街にあるという。

その店は”楽艶”という名前の店で、月に二度か三度、必ずそこに足を運んでいるようだった。しかもだ。加藤はその店にほんの三日前に訪れたばかりだったのだ。

「分かった。そこへ行ってみよう」

他にもいくつかの報を聞き、俺は早々にその場からいて駅へと向かう。S區といえば、ここからあまり離れていない。電車を使えば、せいぜい三十分かそこらあれば行ける距離だ。

ともあれ、ようやく得た手掛かりなのだ。そこに行ってみないと始まらない。俺は気合いをれなおし、地下鉄の駅の階段を下りていった。

四月も始め、駅の改札を抜けて目的の店のある街に降り立つと、周辺には仕事帰りのサラリーマンで溢れかえっていた。中にはこのところ新しい季節とあって、昨日一昨日くらいから新社會人になったらしい者の姿もなくない。

そういった者はスーツの著こなしから、選択されたや柄といったもの全てが初々しさを醸し出しているから、すぐに分かる。きっと、つい最近までの學生気分でいたところを一気に奈落の底へと蹴落とされ、現実の厳しさを早くも思い知らされたやつもいることだろう。皆どことなく疲れた表で、足早に下りてきた駅に向かっている。

その人の流れに逆流する形で、目的の店である楽艶に向かう。時間帯もあるのだろうが、この街では俺のようなラフな私服姿のやつは妙に目だっているような気がする。なんせ、スーツ姿というのが當たり前といわんばかりの場所なのだから、當然ではある。

オフィス街を抜けた先に、やや込みった一畫がある。そこら一帯のみ同じ街とは思えないほど、いかがわしい雰囲気に包まれている。その中に楽艶は確かにあった。

「お。お兄さん初めて見る顔だね。ここらは初めて? だったら安くしとくよ。どう?」

客引きのいかにもらしい臺詞に苦笑しながら肩をすくめ、看板の見える楽艶へ足を運ぶ。店の口前に止まって看板を見て、どうしようか今更考えた。勢いでここまで來たものの、ここからどうするべきか見當もつかない。初めてなのだから仕方ないといえばそうなのだが。

するとドアが開かれて、中からスーツを著たこれまた軽薄そうな客引きらしい、若い男が出てきた。

「お客さん、今なら良い子いるよ。どう?」

「あー……」

なんて答えるべきか考える暇もなく、男が聞いてくる。こちらの意思をうやむやにして客を引こうとする、この男のやり方なのかもしれない。まぁいい。こうなったら俺もやれるところまでやってやる。

「良い子って言われても見てみないことには分からないな」

「ってこと遊んでくんだね?」

「そいつは見てから決めるよ」

確か店にれば、登録されたの子の寫真を閲覧できるというシステムがあったのを、とっさに思いついた。

「OK、OK。ま、とりあえず中にんなよ」

軽薄そうな男はニヤリとして、俺を中に招きれた。俺と同様、中にれさえすれば後はどうとでもできると思っているのかもしれない。

は五階建ての小さなビルで、ところどころ、老朽化が始まっていそうな箇所が見けられる。建の仕様が明らかに昭和の香りのある建に、無理にそれらしく見せようとしているのが容易に見てとれる。

そんなビルの一階は、やはり思った通りけ付けになっていた。ほんの一畳ほどの広さしかなく、その背後には水をしたカーテンがされている。それがまた安っぽさを際立たせていた。男はけ付けの臺にまわって、中にある名鑑を出した。この中から気にったの子を選べということらしい。

「さ、どの娘にする? ちなみにこの子なんかは、おれとしてはかなりオススメだよ」

そういって男が指差したの子は、言うだけあってなかなかの、いやかなりの人だった。正直、なんでこんなところで売りを出しているのか理解できないほどの貌だ。

俺がそんなことを考えているうちに、男は次から次へと商品であるの子のページをめくっていった。その様子はまるで、俺に決めさせず、自分の好みの呈をしているみたいだ。しかし男が紹介するの子達は、どれもなかなかの人揃いだった。これならば、加藤が自宅から離れているはずのこの店に、足を運ぶのも分かる気がする。

ふとこの時、自分がなかなかの粒ぞろいを前にしながら、あまり自分が無であることに気がついた。確かに男が薦めてきたの子はどれも、街を歩けばなくとも一度や二度は、ナンパされたことがあってもおかしくなさそうなものだが、俺はいまいちピンとこなかったのだ。

その理由は明白だった。沙彌佳だ。あいつの貌と、どうしても比べてしまっていることに気がついたのだ。沙彌佳を基準に比べたら、最初の子以外はどれも足りなくじる。あるいは寫真と実では印象が違うので実際に會ってみたら、また違うかもしれないが。

そりゃあ、中には顔はそこそこでもスタイルが抜群という子もいたが、若さからなのか、やはり顔が判斷基準になっていた。

「ま、この辺がオススメだよ。おまけにこの時間は今いった子皆いるから、より取り見取りだ」

自信満々で言う男を無視し、名鑑を再度、頭から見直す。源氏名なのだろうが、俺は彼達の名前が気になっていた。この中にkaolなる人がいるのかどうか……それを確かめるためにこんな場所にまで來たという目的があるのだ。いちいち男の商売文句に付き合うことはできないし、その必要もないだろう。

「ところで話は変わるんだが、あんたに聞きたいことがある」

「なに? 俺に答えられるなら答えるよ」

「數日前、ここにある人が訪ねてきてるはずなんだ。加藤という名前なんだが」

「加藤さん? ああ、彼ならつい二、三日前にも來たけど、彼がどうかしたのか?」

「ああ、いや。実はその人からこの店の話を聞いてね。それでkaolという名前の子を探してるんだ」

俺は分かりやすく説明するため、教えてもらったkaolのアルファベットを、臺の上で指を使って書いた。すると、今まで軽薄そうなにやけ面をしていた男が、みるみる真面目かつ冷淡な顔になっていった。

「そいつを聞いてどうするってんだい?」

しかし俺としてもこの一年半ほどの間に、幾度となく死にかけたことがあった俺には、そのくらいではなんとも思わない。

「是非、會って聞きたいことがある」

「……あんた、何者なんだい」

「あんた、加藤が死んだのは知ってるか?」

「加藤さんが?」

怪訝そうに眉をひそめ、男が聞き返した。その聲は明らかに、驚きのニュアンスを含んでいる。

「ああ、つい昨日の朝のことだ。実はその日の晝に彼は、俺に會って何かを伝えるはずになってたんだ。それで生前ここに良く來ていたという話を聞いてね」

どうしても確かめなくてはならないことがあるんだと付け加え、口をつぐんだ。男は訝しんだ表のまま、俺を舐めるように見ている。どうすべきか考えているという顔に見えなくもない。

しばしの間そうしていた男は、頷いて小さな聲で囁いた。

「分かった。あんた、見たところ警察の人間には見えないし、その言葉を信じよう。

だが、その前に加藤さんのことが本當なのか確認させてもらう。いいな?」

俺はだまって首を縦に振った。それでkaolなる人に會えるというなら、お安い用だ。

「良し。それじゃあ、しばらく待っててくれ」

すると男は攜帯を片手に、水のカーテンの向こうに消えていった。奧で、何かやり取りしているような聲が聞こえてくる。ぼそぼそとした聲で容はうまく聞き取れないが、男が別のもう一人に話しかけている聲だ。電話をしているあいだ、店番してくれとでも言っているのかもしれない。

壁に寄りかかるように待っていると、店のドアが開かれ、赤っ鼻をしていかにも好そうな親父がってきた。建設業にでも就いているのか、ツナギを著た五十代らしい親父はこれからのお楽しみの時間に、心躍らせているとでもいった風だ。

「あれ? なんだい、今日は待ち時間があるんかい」

でかい聲で親父が俺を見て、そう口にした。

しかしその聲を聞いてか、奧から眼鏡をかけた、これまた典型的なメタボ野郎が姿を現した。歳は確実に俺より十歳は上だろう。長は日本人の平均といったところだが、とにかく橫がでかい。真正面から見れば、恐ろしいくらいに菱形の型をしていた。

「いらっしゃいませ。今日もいつもの子で?」

「ああ。頼むよ」

店にったとたんでかい聲を出した親父に、おそらく常連だというのは予想できたが、やはりそうだったようだ。

こんな親父を相手に若いの子があれやこれやと、言葉にするのも憚れるようなことをするのだろうか……想像したら、軽く吐き気でも催してきそうだ。俺はかぶりを振って想像しかけたことを無理矢理、頭の外に追い出した。

「それじゃあ、どうぞ」

「ああ、ちょっと待った。今日はそっちのお客さんが先なんだ。悪いね、おじさん」

メタボが親父を案しようとすると、カーテンの奧からさっきの男が出てきて、の子に先約があることを告げた。

「おいおい、なんだそりゃあ。人がせっかく來たってのによぉ」

「ごめんごめん。その代わり、今日はサービスするからさ」

男は親父に手刀を切り、この子なんかはかなりオススメだよとさっきも聞いた言葉でやり取りし、親父を納得させてメタボ野郎に案させた。

「待たせたな。こっちだ」

そういって男は俺についてくるよう言い、脇のエレベーターに乗った。

「ほら、早く來いよ」

「ああ」

促されてエレベーターに乗り込んだ。小さいビルのためなのか、はたまた建が古いためなのか分からないが、収容できる人數はせいぜい三人か四人も乗ればいっぱいというエレベーターだ。

俺が乗り込むとすぐに扉を閉めた。階數を示す5のボタンがすでに押されている。

し揺れるから注意しな」

直後、男のいう通りガクンと大きく揺れる。おまけに閉まったと思ったはずのエレベーターの扉は、完全に閉まりきっていなかった。多分、エレベーターの點検なんてもう何年としていないだろう。

上にようやく上がりはじめたエレベーターはとても遅く、これなら階段でいった方が早いのではないかと思えるほどだ。あくびが出るほどの遅さで五階につくと、扉が開くのになぜか數秒待たされた。エレベーターに乗るのに、こんなに苛々とさせられたのは初めてだ。

エレベーターを降り、そこから脇にある階段を上った。どうも、一階から五階までにある階段とは全く別の階段で、ここだけが獨立しているようだった。

「この中だ」

男の案でビルの六階らしいフロアにくると、そこは小さな部屋になっていた。とはいえ、一人で居座るには十分すぎるほどの広さがあった。広さにすれば、六坪か七坪かそこらといったところだろう。

「俺はここまでだ。後は好きにしな」

男はそれだけで、さっさと階段を下りていった。なんとも事務的だが、別にサービスを求めているわけでもないので、気にすることなく中へと進んでいった。

「……」

俺は中を目を凝らしながら進んでいく。部屋の中は、なんとも毒々しい空間だった。壁には暗幕がかけられ、照明は紫にペイ

ントされたものが被せられている。そのため、異世界にでも迷いこんだかのような錯覚をおこしかねないほどだ。

さらに、部屋の中は何かひどく甘く、それでいて何か腐ったものも混じっているような、爛れた匂いが充満していたのだ。

「あんたか? あたしに用があるってのは」

數歩すすんだ時、突然聲がした。

思わず聲のした方を見ると、そこにはなんとも扇的な姿をしたが一人、怪しいりに満ちた眼差しで俺を見つめていた。

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