《いつか見た夢》第60章

目の前は真っ暗で、全く視界がきかない。念りに二重に目隠しされているためだった。

耳には目隠しの布が通って締めつけられ、頭全は何やら大きな布袋が被せられているため耳にってくる音もくぐもって、いまいちよく聞こえない。

ただ一つだけはっきりとしていることは、今車に乗せられてどこかに向かっているということだけだ。おまけに車を走らせるスピードもかなりのものだ。もしかすると高速を走っているのかもしれない。

視界が真っ暗でなおかつ見知らぬ人間たちに強制的に連れられていくのが、こんなに人を恐怖させるとは思わなかった。

には俺を含め、四人が乗車している。自分以外の三人は全て男だ。

それでもこういう時に限って変に冷靜になろうとしている自分がいた。被せられている布のため息がしづらいが、何度も深呼吸をして落ち著かせようとしていた。

しばらくすると走っていた車が停車した。ドアが開く音が三つ。すぐに俺の橫のドアも開かれた音がする。

「出ろ」

低く高圧的な聲だ。俺はその聲に従って車を降りると、歩けと背中を押される。

「まっすぐ進め」

右と左、後ろにそれぞれ男が一人ずつついているようで、目が塞がれている俺のことなどお構いなしに速く歩くよう促してくる。

直進しながらしばらく行くと、肩を強く摑まれて止まらされる。右の男が何か作している音が聞こえる。耳に布がきつくかかっているためかとも思ったが、どうやら違うらしい。今いる場所は、俺たちの歩く音が止まると不気味なほどに靜まりかえっているため、些細な音も聞こえるのだ。

男が作し終わると、前からガシャリと何かが開かれる音がする。多分、ここはキーロック式か何かの扉の前なんだと思われた。

「進め」

背中を小突かれ、再び歩きだした。そこで扉と思わしき中にると、ほんの數歩あるいたところで再び止まらされた。すぐに床が下に向かってく。ここはエレベーターだったのだ。

下に著くとまた歩く。幾度か右に左にと曲がり、ようやくどこかの部屋とおぼしき場所にきたのか、俺はそこに置いてあったらしい椅子に座らされた。

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背もたれに両手をまわされて拘束される。手首には何か手錠のようなものがかけられる覚があった。

三人の男たちはそれらを施すと、さっさとその場を立ち去って行った。

音の反響合から考えても、今のこの場がただの部屋でないことは確かで、どんな場所で拘束されているのかまでは分からないが、多分ちょっとしたホールになっているのかもしれない。

一人にされるとマイナスイメージばかりが浮かんでくる。今拘束されている椅子は、実は、拷問用か何かの椅子なのではないかとか、目の前にはすでに銃か何かが突きつけられているのではないかといったイメージだ。

試しに今ほどかけられた手錠が解けないか、がむしゃらにかしてみるが全く解ける気配はない。足は自由のため席を立とうと思えば立てそうなので立ってみるが、今度は手錠に手首が引っ掛かり、けそうもなかった。

どうもこの手錠、椅子そのものに取り付けられているようで、びくともしないのだ。おまけに立ち上がった時に勢いよく立ち上がり過ぎたためか、肩と手首がいように引っ張られてしまって痛い。

それでもなんとか抜け出そうと思いつく限り試みてみるが、どれも虛しく、一ミリだってくことはなかった。椅子自も床にしっかりと固定されているみたいだった。

俺はうなだれるように椅子に座り掛かった。結局のところ、今は何をしたところで無駄だということが分かった。となると今は今後のことのためにも、なるべく力を溫存しておくべきと判斷したのだ。

改めて考えると、多分今すぐに死ぬことはないはずだ。もし死ぬんであれば、さっき、あの場所でとっくの昔に死んでいたはずだろう。

深呼吸をすると、先ほどのことがありありと思い出される。時間にすると、まだ一時間と経ってない。

ヤクザから紹介されて訪れたRににある、三波という人の家でのことだ。念のため綾子ちゃんには青山の家に泊まると言っておいた。

もういくばくもすれば日付が変わろうかという時刻になり、ようやく俺は三波の家を訪れた。三波の家とはいっても、広さは綾子ちゃんの家よりもさらに一回りか二回りは敷地も建も広そうだ。

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の外観は上の二階だか三階だかの部分は一面曇りガラスになっていて、庭には高さが何メートルもある木が數本立っている。それらがライトアップされているのを見ると、ちょっとした小灑落たオフィスに見えなくもない。

一等地のど真ん中にありながらここまでの規模の邸宅を建てるなんて、とんでもなく金持ちのようだ。

俺は敷地に足を踏みれ、コンクリートの石畳を正門に向かった。門まで無駄に何メートルもある。綾子ちゃんの家を見た時もそうだったが、金持ちというのはどうしてこう、無駄に広く、大きく見せようとするのか不思議だ。

それとも俺が単にっからの小市民なだけで、普通はこういう広い家を持ちたがるものなのだろうか。

正門の橫にある呼び出しボタンを押すと上にあるライトがった。門は非常に巧な金屬の細工が施されている。青っぽい緑がかったは青銅製だろう。こちら側からは分からないが、向こうからはこちらが見えているという類いのものだ。しの間の後に中年の聲が出た。

「はい。どちら様?」

の聲は、どことなく上から目線な聲だった。それと建の豪奢さとは正反対の、下品そうなじもする。

「すみません。紹介されてきた九鬼という者なんですが」

「ああ、あんたかい」

きちんと話が通っていたことに安堵を覚えホッと一息した直後に、正門が自で開かれた。ぱっと見は手で開く昔ながらの門かと思いきや、とんだ高能な門だったようだ。

庭はテレビでよく見る豪邸を思い出させる広さで、南の國でよく見かける木々や植があり、まるで南國のリゾート地みたいな雰囲気だ。

その中を玄関までくると、見計らったように扉が側に開かれて中から男が出てきた。

「君か。りたまえ」

赤い薄手のセーターをきた中年男だった。五十代と思われる男だが、もうし若い四十代にも、もっと上の六十代にも見えなくもない妙齢の男だ。先ほど対応したとは夫婦なんだろう。

「失禮します」

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俺がると男はついてきたまえと告げ、どこかへと案する。

これからどんなことが起きるのか見當はつかないが、行けるところまで行ってやろうではないか。

男に話しかけることもなく、また話しかけられることもなく建の中を進む。すましているが、男はやはりとんでもないことをやって生計を立てているに違いない。

途中、幾人か人がいるのを見かけた。皆一様に濁った目をして、どす黒いといっても過言ではないほどのクマを作っている者もいた。けだるそうにして、目の焦點があっていない。

俺の知識の中にあるのでは、こんな癥狀に陥るのはドラッグだ。事実、こんな都會のど真ん中で、異常ともいえるほど頬が痩せこけている者もいたのだ。

(一なんなんだ、ここは)

人間をやめて、気持ちの悪い顔をした連中に見つめられると、とてつもない嫌悪にとらわれる。もしそのまま近付いてこようものなら、躊躇いなく毆ってしまいたくなるほどだ。

階段を一階分降りた先の部屋で、男はソファーにかけるよう言った。床は四角い形をした白と黒が互に縦橫に敷き詰められ、テーブルはきっと百萬や二百萬では買えなさそうなほどの高級あるものだ。もちろん、周りの家も同様だろう。

男にしたがってソファーに座ってしすると、奧からどうなったらこんなにまでなれるのか、逆に聞きたくなるほどの太ったが出てきた。

よく歩けるものだと心してしまうほど重量のあるで、重は百キロや百五十キロではすまないだろう。百八十キロか百九十キロはあってもおかしくなさそうだが、そうだとしてもまだ十キロか二十キロはサバをよんでそうな醜しこめだった。

「九鬼ってのはあんただね」

の醜の聲は大きく、恥じらいなど一切じられない。

太りすぎているため年齢は予想もつかないは、歳のわりにニキビがひどく髪もパサパサで、頭頂部あたりはし薄くなっていた。

聲から察するに先ほどの聲の主であることが分かるが、なるほど。この……もはやを捨てていそうな奴をそう呼んでいいのか分からないが、歪んだコンプレックスから人を見下すようになっているのだろう。

外見とは裏腹に莫大な金を持つという、世間一般から見て羨の眼差しをける事実によって、それらを満たしているのかもしれない。

「あんたが三波さん?」

「まあね。あのやさぐれ者から紹介をけたということは、あんたもアタシに何か依頼があるんだろう。何がみだい」

目前の二人がけのソファーが、この醜塊な奴によって占拠された。がつきすぎて踵が床についていない。

が席につくと、すかさず先ほどの男が甘そうなクッキーを持ってきて前にあるテーブルに置く。醜はさも當然のようにそれらに手を延ばした。作の一足一がどこか稽だ。

「あんた、K組の元組長を知ってるかい?」

が俺にもクッキーをすすめてくるのを首を振りながら斷って、話を切り出した。K組というのはさっきのヤクザ達のことだ。

「あんたをアタシに紹介したやさぐれ者の元親分だろう。去年死んじまったが、そいつがどうかしたのか」

「……組長はただ死んだんじゃない。殺されたんだ、頭をぶち抜かれてね」

のクッキーをとる手が止まる。

「……復讐しにきたってわけかい」

首を振って否定した。

「違う。俺が知りたいのはその組長を殺したのが誰かということさ」

自然な會話だが、醜が組長が殺されたことに対して否定しなかった。やはり事実だったということだ。

「……」

は目をきょときょととさせて何と言おうか迷っているようだった。あるいは、今の発言が失言だったとでも思っているのだろうか。

「俺はK組の連中にこのことを言ったら、あんたに會えと言われたんだ。つまり、あんたは何か知ってるんだろう? 何でもいい、教えてくれ。それが俺の依頼だ」

ただ頼みこんだって素直に教えてくれるとは思わないが、依頼となればどうだろう。依頼とあればこの醜も何か喋るのではないか。そう思って言ってみたのだ。

「依頼か……ものは言いようさね。ふん、まあいい。依頼というなら教えてやる。

あそこの親分が死んだのは紛れも無く殺しだ。アタシが當時若頭だった男に依頼されてね、プロの殺し屋を斡旋したのさ」

プロの殺し屋……。裏世界にはそういった連中がいるというのは聞いたことがあるにはあったが、どうにも実が沸かずに半ば冗談にも思っていた。

しかしこの話からはそれらが冗談であるとはとても思えない。確かに殺し屋というものは存在するのだと、この時初めて知ったような気がする。そしてこのは、危険な連中を依頼があれば紹介する斡旋屋だったというわけか。

ついでに麻薬なんかも売りさばいているんだろう。もちろん、それが裏の本當の顔で、表向きは先ほどの男が別の職に就いて稼いでいるに違いないのだ。そうでなければ、稅務署からの目はごまかせないはずだ。

「斡旋したというのは、どんな奴なんだ」

「アタシが斡旋したのはまだ若い男さ。そうだね、あんたとさほど歳は変わらないだろう。

元々、別口でアタシの斡旋リストにった奴だけど、かなり腕が立つって言われてれてみたが、確かにその通りだった。良かったのは顔だけじゃなかったというわけさね」

顔だけじゃなかった……つまり、なかなかのイケメン野郎ということになるが、こいつはますます斑鳩である可能が強まってきた。顔を見たわけではないが今までのことから、斑鳩が限りなく黒になったのは間違いない。

「その殺し屋とやらはどこから紹介されたんだ」

「H市にある児養護・保護施設さ。アタシも詳しくは知らないよ。腕が立って使えるというのなら何でも使う、ただそれだけの話だからね」

間違いない。そいつは斑鳩のことなのだ。奴が殺し屋だなんてなからず驚きがあってもおかしくないが、覚が麻痺してしまったのか全く驚かなかった。むしろ、そうだったのかという納得の方が大きい。

「その保護施設ってのは、殺しの技でも教えてるのかい」

ニヤリと皮を込めて言ったつもりだが、醜には全く効果がなかったようで気にする風でもなく続けた。

「みたいだね。ま、日本ではそうじゃないかもしれないが、こんなのは別に珍しい話じゃない。海外に行けば、こういう話はしばしばあることだからね」

がそこで一旦話を區切ってクッキーを口にやった。口を開けて食べるため、ポロポロと々にされていったクッキーが落ちていく。

とりあえず、斑鳩があの組の元組長を殺したのは間違いなさそうだ。また、そうである以上はなぜ殺したのかという理由などいらないだろう。依頼されたから。ただそれだけの話なのだろうから。

「分かった。それでその施設ってのは、一どんなところなのか分かるかい」

「分かるさ、そりゃあね」

「ならそいつを――ぐっ!?」

教えてくれないかと言おうとした時、突然背後から首を絞められた。

首を後ろに向かって思いきり引っ張られる。

「くははは、油斷したね。アタシらを騙そうたってそうはいかないよ。最近アタシらのことを探ってる奴がいるから、注意しろって報がってきてるんだ」

「うっ、ぐっ、はあっ」

が容姿にぴったりの下品な高笑いをしながら喚いている。顔面が暗い喜悅に歪んでいる。

しでも空気をに取りれようと、立ち上がって座っていたソファーに膝を立ててた。

だがそうするとさらに後ろに引っ張られてしまい、首にかかっている糸に力が篭められる。

糸をしでも緩めようと首に手をやるが、しっかりと皮に食い込んでいて全く指をれる隙間がない。

糸はワイヤーか何かであるのが指にれたで分かる。

だがそんなことが分かったところで何の意味もない。

ワイヤーはさらに皮の深い部分に食い込み、薄い筋の層にまで進行していて、もう息がまともにできない。

全く訳が分からなかった。突然後ろから首を絞められるなんて考えてもいなかったのだ。

(も、もう駄目だ……)

食い込むワイヤーに指がった。もう力がなくなってきているのだ。

意識が遠退きかけたその時、どこかで誰かがぶ聲が聞こえた。

次の瞬間、食い込むワイヤーからふっと力が抜けて首から緩んだ。

だが同時に、後ろからに重たい何かがどっと覆いかぶさってきたのだ。

首に食い込むワイヤーを緩ませ、俺は呼吸困難になりながら空気を肺に吸い込んで、ソファーに倒れこむ。

何が起こったのか分からない俺は、苦しみながらも顔を上げようとするがうまくいかない。遠退きかけた意識は、自力ではそう簡単に元に戻せなかったのだ。

たとえそんな狀態であっても、俺は何が起こったのかは見屆けようとした。

まず後ろから覆いかぶさってきていたのは、先ほどここまで案した男だった。

背中を真紅のを滲ませているが、赤いセーターによってがカムフラージュされている。

そして、のろのろと首をあげた瞬間、俺と同様に混していた醜が額に小さなをあけてソファーに沈んだ。

額に風が開いたため、醜の頭は上を向いた。

きっと立ち上がろうとしたのだが、この巨では思うように立ち上がれなかったのだろう。

醜悪な塊となったは、死してなおも醜さをきわめている。

「こいつだ」

倒れていた俺を全黒づくめの男が見つけると、肩を摑んで仰向けにする。全くけないのをいいことに暴な扱いだ。

「これを被せろ」

男の後ろからもう一人似た恰好の男が現れて、黒くて分厚そうな袋を取り出した。

俺の後ろからは、さらにもう一人いたようで黒い布切れを目元にあてて、思いきり後ろで縛られた。

「うっ」

耳まで布に締め付けられたため、思わずき聲をあげた。続けざまに頭に何かを被せられる。目の前の男が持っていた黒い布袋だろう。

首を絞められたと思えば今度は目元を縛られる。こういうのを踏んだり蹴ったりというのか。

被せられた袋の篭った臭いに眉をひそめるが、そいつを理由にび聲をあげたとしても無駄だ。いや、それどころかこいつらに何を要求したって意味はなさそうだ。ここは一つ、この男達の言う通りにしておく方が良い。

だんだんと、首が絞められて酸欠狀態だった脳みそに酸素が行き屆きだし、頭が回転し始めていた。

楽観的かもしれないが、今すぐ死ぬことはないだろう。もし殺すのであれば、わざわざ夫婦だけを殺したりはしないはずだし、こいつらの短いやり取りから察するに、多分どこかに連れて行こうとしているのだ。

一瞬しか見えなかったが連中は全を黒一に染まった服を著ていて、同じように頭も黒いマスクをしていたのだけは、はっきりと見えた。辺りには何かそうなったベストみたいなものを付けていた。手袋やブーツなども、市販のものとは違うように思われた。

連中の顔を拝めないのは殘念だが仕方ない。とにかくここは大人しく連中に従って機會を窺った方がいい。こんなことを言うのもなんだが連中が來なければ、俺は間違いなくあのまま殺されていたのだ。

しかし、そうして気付けば、こんな糞ったれな椅子に拘束されてしまっているのだ。ますます自分を窮地に追いやってしまった気がしてならない。

(こんなことなら、捕まった時にもっと起しておくべくだったか……)

後悔しても始まらない。俺はゆっくりと深呼吸して気持ちを落ち著かせる。格段が高いわけでもない袋だが、やはりずっと被らされているためか、どことなく息苦しくじるのだ。

すると、後ろからカツカツと誰かが歩いてくる足音がした。それも一人ではない。間違いなく俺のところにやってくるだろう。

そのうちの一つは足音から察するにだろう。男の革靴の音にまじって、のハイヒールの音が聞こえるのだ。ただ、ピンヒールというわけでもなく、そこまで細く渇いた音ではない。

複數の足音は俺の後ろに、と思われるやつは橫を通って前にきて止まった。思わずゴクリと生唾を飲んだ。

目の前にいると思われるいたような気配をじる。すると頭の袋が取り払われ、きつく締められていた目隠しも取りさられた。

目隠しをされていたので気付かなかったが、照明を當てられていたらしい。瞼を閉じていても、照らされている中ではそれだけでも眩しく、とても目を開けてはいられない。なんとか薄目で目の前にいるを見ようとつとめても、やはり、すぐには眩しさに目が慣れない。

「行力あるわね。まさか、その日のうちに三波の家にまで行くなんて思わなかったよ」

目の前にいる奴はやはりだった。だが俺にはそれよりもその聲の方が重要だった。というのも、の聲は聞き覚えのある聲だったのだ。

「……あ、あんたは」

ようやくしばかり目が慣れてきたところでの顔を見ると、驚いたことにあの"楽艶"にいたはずのkaol、いや香織だったのだ。

先ほどまでとは打って変わってキャリアウーマンに似た裝いで、あのエキゾチックな顔から化粧がいくらか落とされているようだった。

もしかするとそのままなのかもしれないが、とにかくぱっと見ても香織だと分かるのには間違いない。

「どういうことなんだ」

眩しさに片目をつぶり、しでもを遮りながら喚く。

「やっぱりあんたは気にったよ。この若さでここまでできる奴はそうはいない。まさか、本當にヤクザ者の事務所にまで行くなんて思わなかった」

くつくつと笑う香織には、楽艶で見せていた妖艶さは全くじられない。いや、それどころか態度そのものからして違っていた。全くの別人のようにすら見えるほどだ。

「これはどういうことなんだ。あんたは何者だ」

「単純なことだよ。あんたを試させてもらったのさ」

「試すだと?」

微笑を浮かべて香織はそっと俺の頬をでた。

「そう。あんたがヤクザ程度に込みせず行けるか、そして三波の邸宅にまでり込むことができるか……それらを試したのさ。

あるいは連中らと一悶著あるかとも思ったけど、それにしたって何も問題なくあんたはきちんとすことができた。十分合格さ」

「待て。あんた、さっきから何の話をしてるんだ」

香織を睨みながらさらに喚きたてた。だが、後ろの奴が髪を引っ張って大人しくさせる。

「うっ。……くそが。あんたに頼ってとんでもない目にあっちまうなんてな」

「ふふ。普通ならこんな狀況になれば、恐怖で何も言えなくなるか命乞いをするものなのに、悪態をつくなんて……なるほど。あのが目をつけるわけだわ」

頬をでていた手をゆっくりとあげていき、今度は髪にれる。楽艶ではあんなにぞくぞくとさせられるような行為だったはずなのに、今はとんでもなく不快だ。

るんじゃない」

とりあえずこのの罠にかかった自分を呪って、れてくるの指を拒絶の意味をこめて思いきり頭を振った。

「あら、さっきはあんなに激しくしてくれたのに、隨分冷たいね」

ここで香織はようやく先ほど見せた、妖艶な顔をして見せる。こんな狀況であっても思わずぞくりとさせる顔は、やはりこのが天の魔魅を持っているんだと思わせる。

「そんなことより、あのってのは誰のことだ」

「ふふっ、あたしが言わなくたって、もう分かってるんじゃないのかい?」

その通りだった。俺にはすでに香織のいう、あのの正に薄々づいていた。あのというのは多分……。

「……真紀。藤原真紀のことだろう」

そういうと香織は口の端をわずかにあげて頷いた。やはり……。

「つまり俺は、はなっからあんたや真紀に嵌められていたというわけか」

「それは違う。元々あたしらはあんたにはしの興味もなかった。だがあのは何を思ってか、あんたに隨分とご執心だったようだからね。

あたしらとしては、あの新參者に、そういつまでもやられ放題というわけにはいかない。だから出し抜く必要があったのさ、あんたを手にれることでね」

そうか……加藤が死んだ日、俺を尾行させていた男たちもこのの差し金だったというわけか。

真紀・斑鳩の派閥ともう一つの派閥の親玉がこの香織だった。どうりで二人のことにも詳しいはずだ。

「新參……ってことは、だ。あんたは、あの狐に何度もしてやられてるってことか。それでその腹いせに俺を人質にして、あいつを脅そうって魂膽なんだな」

「ふん。言い訳はしないさ、間違いじゃないからね。だけど一つだけ勘違いしてるよ、あんた」

「何?」

妖艶な笑みを浮かべていた香織から、すっと憑きが落ちたみたいに笑みが消えた。まるで、今までの顔が作りもののように思えるほどの無表さだった。

「人質にしようなんて、あたし自はこれっぽっちも思ってないってことだ。あのが悔しがるというなら、今すぐにあんたを殺してやったっていいんだ」

無表から一転、は擬音をつけるとすれば、キシリとでもいうような暗い、壊れたかけた人形のような笑みを浮かべて見せた。思わず、ぞくりと鳥が立ってしまったほどの暗い喜悅の表だ。

はポーカーフェイスが上手いというが、どうやらこっちがこのの本らしい。

しかし、殺すことを躊躇わないと言うのこんな表を見せられた日には、さすがに死を実するというものだ。下手を踏めば、今すぐにでも銃かナイフかを頭や首に突き付けてきそうな勢いで、ここはしでも気を落ち著かせてもらった方が良さそうだ。

「……あんたと真紀、どんな関係なんだ」

「くくっ、簡単なことさ。同じ職業、殺し屋だ。とはいっても、あたしのが業界は長いけどね」

「俺を試したと言ったな。それはどういう意味だ」

「あんたに適があるかどうかだよ、殺し屋としてのね」

「なに……?」

一瞬、我が耳を疑った。殺し屋としての適だって?

黒田も俺の生存本能がどうとか言っていたのを思い出した。このといい、あの黒田といい、なんだってそこまで俺に執著するのだ。もっともこのの場合は、純粋にそれだけではないようだが。

「馬鹿馬鹿しい。そんなもの、俺にあるはずがない」

「いいや、あんたには間違いなくその素質がある。

事実、あんたはあの今井を退けたし、昨日今日と、いくつもの試練を乗り越えた。なくとも、警察から完全に行方を眩ませることができたのには満點をやってもいい。途中に出會った犬をきちんと撃退したのもプラス評価だ。

そして、加藤の部屋で風俗と何か関係があるとまで考え、三波の家にまで臆することなくたどり著いた。おまけに、その間一度も波風立てなかったのは十分それを示してる。

昨日も尾行に気付いて撒こうとしたのだって、素人には簡単にできることじゃないんだよ。しかも自分でそれに勘付き、実行するところも評価できる。

まあ、最後は捕まったが文句はない。十分合格レベルさ」

こいつは驚いた。加藤のアパートにいた時、確かに警察が來たがまさかあれもこいつらの仕業だったのか。つまり、部屋の中をぶちまけたのも必然的にこいつらだということになる。俺にヒントを殘すためにだ。

事実を知って舌打ちする。當然だ。昨日の尾行から現在に至るまで、なにもかも仕組まれていた。俺は仕組まれていたとも知らず、まんまと連中の手の上で踴らされていたのだ。

「それで。俺をこれからどうしようっていうんだ」 しばしの沈黙のあと、ぶっきらぼうに言った。気付くとはま薄笑いの表になっている。

「さて、どうしようか。あのに、目にものを言わせてやりたいのは確かだけど……。あんたをなかなかに気にったというのも、決して噓じゃないからね」

香織は顎に手をやってどうしようか考えているふりをしている。ふりというのは真紀もそうだが、実際にこの手のが何も考え無しに行してないはずがないと思うのだ。このはきっと何か企んでいるに違いない。

「そうだね。このまま、あんたをあたし達の仲間にしてしまうのも悪くない」

「仲間だって?」

薄笑いだった顔は、良いこと思い付いたと言わんばかりに、ニヤリと口元を歪ませる。見えいた冗談だ。間違いなく始めからそう決め込んでいたに違いないのだ。

俺としても突然仲間にすると言われて、はいそうですかと頷くほど安くない。俺を試すといって、幾重も仕掛けを張ってきたに対して素直に仲間になどれるはずもないだろう。ましてや、このにとって憎い真紀に絡んでいるらしいのだ。

「嫌だと言ったら」

「全く、こちらの予想通りの臺詞をいうなんて、つくづくいい男だよ、あんたは」

待ってましたと言いたげな言いではあるが、いちいち気にしてはいられない。どうせ何を言ったって、同じようなことを返してきたに違いないだろう。

「そうだね。あんたの家に出りしてる可い子……あの子にいたずらしちゃうかもしれないよ?」

妖艶さとは程遠い、思わず毆り飛ばしたくなるような嫌な笑みを浮かべてがとんでもないことを言い出した。

「なんだと」

「おや、突然目のが変わったね。そんなにあの子が大事かい」

「あんた……」

無意識のうちにギリッと強く歯を噛み締めていた。

俺が仲間にならなければ綾子ちゃんに手を出すというのか、このは。そんなこと許せるはずがない。彼はなんの関係もないではないか。

「ふざけるなっ。彼は何も関係ないだろう!」

「ふふ、だったらあんたの取るべき選択は一つだね」

くそ、なんてことだ。こんなに良いようにしてやられるなんて……。かといって綾子ちゃんを巻き込むわけにもいかない。ただでさえあの子には々と面倒をかけているのに、こちらの都合で危険にさらすなんてどうにも承認できることではない。

だったら、言うことを聞くしかないのか……苦蟲を潰したように顔を歪める。いや駄目だ。言いなりになるなんて、俺には認められない。きっと、そこからさらに深みにはまっていくに決まっているのだ。

どうすればいい……考えろ、考えるんだ。何か……何かないか、この狀況をうまく回避できる方法は……。

「迷っているね。いいさ。時間はたっぷりあるんだ、好きなだけ考えるといい」

そういって香織は後ろにいる奴にも顎をつかって出るよう促した。

「待て、俺を解放しろ」

「馬鹿いうんじゃない。そんなことできるわけないだろう? だけど安心するといい。あんたが仲間になるというなら、また來るさ」

するりと頬にれていき、そのまま香織たちはここに訪れた時と同じくして、カツカツと足音を立てながら去っていく。

「待てっ、こいつを解くんだ」

とにかくしでも隙間ができないかがむしゃらにかしてはみるが、結果は変わらない。余計に力を使うだけだった。

「くそっ、俺を解放しろよっ。解放しやがれっ!」

これでもかと聲を張り上げても連中の去っていく足音は止まらず、だんだんと小さくなっていった。

「ちくしょう、これを外せよ……」

どうしようもない怒りに俺は、自由になっている足で思いきり椅子を叩きつけた。

くそっ……こんなことになるなら、この足でを蹴りつけておくべきだった。そうすればしは気も晴れたはずだ。

足音もなくなると本當に靜かだった。まるで俺以外、この建には誰もいないかのようにすらじてしまう。

息を荒くしていた俺だがしばらくするとそれも収まっていき、冷靜さを取り戻す。連中の言いなりになりたくなければ、なんとかしてここから出しなければならない。

冷靜になった頭で再度、どうにかできないかとくくり付けられている周辺を見回した。できた當初は染み一つない真っ白だったと思われる、薄汚れて大きな壁が左右にある。前には同じような壁があるが、上部には窓ガラスが取り付けられている。電気がついていないためなのか、ガラスの向こうは真っ暗だ。あるいは、こちらからは窺えないようにできているのかもしれない。

突然目隠しを外された時に眩しさをじさせた照明は、そんな壁に設置されて座らされている俺に向け一斉に照らしている。白く強烈な蛍に照らされていれば、どうりで眩しくじるはずだ。

また音の響き合から、それなりに広い場所だとは思っていたがやはりそのようで、ここは部屋というよりもちょっとしたホールになっている。天井は高く、なくとも十メートルはあるだろうか。あるいはそれ以上かもしれないが、下からではいまいち高さを把握できない。

(ここはなんなんだ)

天井や壁、床までも白い大きなホールの空間となると、それらに該當するものといえば真っ先にビルや病院の吹き抜けを思い出す。

だが、ここはそれらが當て嵌まるとは思えない。確かに、ビルや病院であればこのくらいの高さと広さを持った場所はあるだろうが、四方に窓がないというのはどうか。さすがにビルや病院の吹き抜けであるはずがない。

正面に窓があるにはあるが、なくとも太を取り込むためのものではないのは間違いない。どちらかと言えばこちらからは見えないのに、向こうからはこちらが見えていて、監視をするためのものに思える。

(監視……そうか、ここはもしかしたら)

ここはもしかすると、話に聞いていた児施設とやらではないのか。前後の話とそこに関わっている人の登場と照らし合わせれば、そう考えることもやぶさかではあるまい。そう思うと、途端にここの重苦しい雰囲気にも納得できた。

しかしそいつがわかったところで、今なにかできるわけでもない。周りには出にはおろか、この忌ま忌ましい拘束椅子を解くのに使えそうなものなど、何もないのだ。ただホールの中央にある固定された椅子に、くくり付けられているだけの狀態なのだ。

足の自由だけはきくだけに、逆にこの狀況には辛いものがある。もしかすると連中はそれも見越して、こんな場所に連れてきたのかもしれないが。

なんにしても、これでは何も変わらない。ただ狀況を確認したにすぎないではないか。

「くそ……どうすりゃぁいいんだ」

どれほどそうしていただろうか。いくら頭を捻ってみても、この狀況を打破できそうなアイディアは浮かんでこない。いい加減諦めてしまおうかといい気にもなってくるが、さすがに早過ぎる。

その時、突如として轟音が響いた。

「っ!?」

轟音とともに、ガラガラと何かが崩れていく音が響いてきた。何十、何百キロもの石が砕けるような音だ。

その響きは床を伝わり、固定された椅子にも伝わってくる。何が起こったのか分からないが、とんでもないことが起きたということだけは分かる。

後ろの方、歩いてきた通路の方から幾人かの怒聲と、どこかに走っていく足音が聞こえる。

再び轟音が響く。それも今度はかなり近い。

続けざまに、やはりガラガラと何かが崩れていく音がする。音は俺のいる真上辺りで起こったようだった。

「なんなんだ、一

地震ではないというのは分かるが、さすがに焦った。わけも分からず、いきなり建が崩れだすような音を聞くと、誰だってそうなるだろう。

この建のどこかで、誰かが走り回っているような音もした。

理由は分からないが、ここが何者かから攻撃されている、そのようにも思えるがある。

ここにいるのはまずいのでは、そうじて何度も試して駄目だった拘束椅子を、ぶち壊すつもりで腕に力を篭める。

「何をしても無駄だ」

後ろから聞こえる聲。振り向くまでもない、香織の聲だ。

「一何が起こったんだ。今の音はなんなんだ」

「建破された。今からあんたをここから移させる」

「移させるってどこにだ。それよりも俺を解放しろっ」

に向かって喚き立てる。もしかすると逃げられるチャンスかもしれない。

だが、手短に説明した香織が足早に俺の後ろにきて、新たに腕に拘束をかけた。やはりそう簡単にはいきそうもない。

「騒ぐな」

香織は低く冷たい聲の後で、こめかみの辺りに何かを突き付けられた。

「死にたくないだろう?」

グリッとこめかみを押されて俺は押し黙る。

思わず息を飲んだ。橫目にうっすらと分かるその形狀は、間違いなく本の拳銃だ。

「それでいい。おとなしくしてれば別に殺すつもりはないさ」

香織がカチャリと忌ま忌ましい拘束を外そうとする。

だが次の瞬間、またも轟音があたりに響く。今度は壁ごしではなく、直接、壁を破壊した音だと分かるほど大きく、つんざく音だ。

「くっ」

香織が頭上でく。

後ろの通路の方から、辺りに埃や狀になってしまったコンクリートが飛ばされてきて、うっすらと舞った。

どうも、このホールの壁が破壊されたわけではなかったらしい。変わりに耳鳴りがする。

だが今はそんなことを気にしてはいられない。逃げ出すチャンスを見逃すわけにはいかないのだ。

「そこまでよ」

複數の駆けてくる足音の後、ホールに稟とした聲がした。

「大人しく銃を捨てて、両手を上げなさい」

「……ちっ」

香織は舌打ちする聲の要求に従い、銃を捨てて両手を上げた。

「そこから十歩下がって膝をつくのよ」

しばかりの躊躇いがあったのか、すぐにかなかった香織に聲の主が早くと促し、はようやくそれに従った。

カツカツと聲の調子と同じくして、稟とじさせる歩き方。聲の主が俺から離れた香織に向かっているのだろう。

「あなたを拘束させてもらうわ」

「おまえ……なんで」

聲の主が一方的にやり取りを終わらせたのか、香織のき聲の後に誰かが倒れるような音がした。

全て、俺の目の見えない背中ごしのやり取りのため、完全な判斷はつけられない。

今度は足音が俺の方に向かってきた。

後ろにきた聲の主はカチャカチャと音を立て、腕にかかった二つの拘束を解いた。

後ろ手にされていた腕が、ようやく前にやれる。

「あなた、なんでいつもこんななのよ」

「……ふん、悪かったな」

聲の主は、真紀だった。そう、ここに乗り込んできたのは藤原真紀だったのだ。

俺は、そんな真紀の顔を見上げずにそう言った。このには々と複雑なが渦巻いているため、どうにもうまく接することができない。

「まあいいわ。それより早く立ちなさい。ここは間もなく完全に破壊されるわ」

真紀が振り向いて後ろにいた連中に指示し、倒れていた香織を運ばせる。皆一様に黒い恰好をしていて、俺をここまで連れてきた連中に似ている。それも皆、男ばかりだった。真紀はその中で紅一點といったところのようだ。

どれほどの間くくり付けられていたのか分からないが、隨分と全の筋直していた。立ち上がると、軽い立ちくらみとともに、全がひどく打ちのめされたように疲れていたのだ。長時間、車に乗ったままでいた後に、休憩のために外に出た時のような覚に似ているかもしれない。あれを、もっと酷く疲れさせたじだ。

「思ったよりも大丈夫そうね。まあ、ナイフで刺されたのに死ななかったような人だものね、あなたは」

久しぶりに會ったというのに、真紀は相変わらずの皮を言ってきた。まあ、このらしいといえばらしいので無視しておこう。それに今回は助けられた手前、文句を言うわけにもいかない。

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