《いつか見た夢》第61章
カチカチと、一秒ごとに刻まれていく秒針の進んでいく音にまじって、風呂場からは水音が響いてくる。今は部屋の主がシャワーを浴びているのだ。
一足先にシャワーを浴びた俺は、何をするでもなく壁に寄り掛かって座り込み、ぼんやりと天井を眺めていた。それでも時折、思い付いたように部屋の中を見回した。
フローリングの床にはふわふわとした繊維の絨毯が敷かれ、その上に一人がけ用のソファーが二つ向かい合って置かれている。その二つの間に小さなガラステーブルもあった。
他にも同じをした木目の本棚や簞笥、さらには邪魔なのか、大きな木のテーブルが部屋の隅に橫にして立てられている。
テレビも、一人暮しをする高校生とは思えないほど大きな薄型テレビで、ベッドの近くには、やはり高校生が持つには不釣り合いなほど高そうなコンポが置いてある。
そもそも、部屋そのものが広い。俺の自室は七畳か八畳程度であるに対し、この部屋は明らかに十畳はある。おまけに隣にはダイニングキッチンまでついている。
これらは、同じ年代でさほど歳の差がない俺の部屋にあるものと比べると、軽いカルチャーショックを覚えるほどだ。
「どうしたの」
そんなことを考えながらテレビの辺りを見ていると、シャワーからあがってきた部屋の主に聲をかけられた。
「いいや。ただ今時の高校生は、こんなに良い機械を持ってるんだなと思っただけだ」
「あら、何いってるの? あなただってまだ高校生じゃない」
「殘念ながら、もう高校生じゃぁないぜ、俺は」
そういって肩をすくめ、真紀の方に視線を向けた。
「そんなのあなたが勝手に言ってるだけでしょ? 一応まだ學校に籍はあるはずよ。つまりあなたと私は、同級生ということになるわけ」
一応真紀も、俺がどういう立場に立たされているかは分かっているらしい口ぶりだった。
日付が変わってしまっているが今日一日アクティブにき回ったせいで、時間の覚が失われつつある。ほんの何日か前までは、まだ學校をどうするかなんて考えることもあったはずなのに、気持ちのうえでは、もはや高校生であったことなど遠い昔のような気になっていたのだ。なんともおかしな話ではあるが。
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真紀が部屋の隣のダイニングキッチンにある冷蔵庫から、スポーツ飲料水らしい飲みを取り出して、一口二口含みながら部屋にやってきた。
「あなたもどう?」
真紀は前にきて飲料水を渡す。実をいえば俺もかなりが渇いていたため、ペットボトルにった薄い白濁のスポーツ飲料水を一気に飲み下した。
「すごい飲みっぷりね。まあ、いいけど」
そうは言われても仕方ない。俺は朝、家を出る前に朝食をとって以來、たったコーヒー一杯しか胃袋には収めていないのだ。
中を全て飲み干してしまい、ペットボトルを口からはなした。五百ミリリットルのペットボトルにった飲料水は、四分の三は俺の胃袋にったことになるほどだったのに、まだいくらか飲み足りない気がしなくもない。
真紀は空になったペットボトルを取り、キッチンの方へ持っていった。そのままガサゴソと何やら探っている音が聞こえるが、ここからは死角になって何をしてるのかよく分からない。
「はい、これ。今これくらいしかないけど、いいわよね」
そういって差し出してきたのは、いくつかの缶詰がった袋だった。フルーツのシロップ漬けは當然、ツナやコンビーフ、カンパンなんかの缶詰がっている。
「良いのか。これ、あんたの非常食なんだろう?」
「いいわよ、別に。また買えばいいんだし。特別高いものでもないしね。はい、これ」
割り箸をけ取って頷いた。一応聞いてはみたが本當のところ、了解などなしにすぐにでも食いつきたいほど腹を空かしていたのだ。
俺は目の前に出された食料を余すことなく開け、冷靜であれば、自分でもしは落ち著けよと言わんばかりの勢いでがっつき始めた。
コンビーフを一口食べればツナを一口、主食がわりにカンパンを次々に口に放り込んでいく。フルーツとそのシロップをチェイサーの代わりにした。真紀はそんな俺の様子を何か言うでもなく、じっと見つめている。
「ふう……ごちそうさん。やっと落ち著いた」
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差し出された缶詰全てを平らげ、ようやく心もも一息つけた気分になった。生前、母が疲れている時に食事をすると、ほっとすると言っていたのを思い出した。確かにそうかもしれない。俺は今まで今日ほど疲れた記憶はなく、だからこそ余計にそう思えるのかもしれない。
「満足したのならそれでいいわ」
一息ついてつぶやいた俺に、真紀は短くそういった。
「ところで本題にりたいんだが、いい加減教えてくれるよな。あんた、一何者なんだ」
「そうね、もう隠したって意味ないものね。私はあなたの想像通り、いわゆる殺し屋稼業についてるわ」
普段と同じ、抑揚のない聲で真紀は語った。自分の出生から、あの施設に預けられることになって殺し屋になるための訓練をけたこと。また、そこで斑鳩と出會い、斑鳩もやはり同じように訓練をけていたことまで、細かい部分では先に聞いていた話と若干違う部分もあったが、大筋では香織の話した容に間違いはないようだった。
「あのとはどういう関係なんだ」
「単純に向こうが一方的に私を嫌っているだけよ。私は別に、彼のことをどうと思ってるわけじゃないもの。まあ、その理由に心當たりがないわけではないけど」
俺は黙って頷いた。真紀の心當たりという部分が原因となって、あのは真紀のことを気にらなくなったのだろう。いや、それがあったからこそともいえる。
「それで」
「こんなこと言うのもなんだけど、どんな組織であっても、人同士が関わるのだから必ずどこかで衝突があったり、人間関係にヒビがったりもするものよ。それがどんな理由であってもね。
私は別に彼を憎いと思ったことはないけど、私の屬しているグループと彼とその配下の人達は、元々良い間柄じゃなかった。今回みたいなこともしばしばあったくらいだから」
話を聞く限り、相當冷え切った関係のようだ。ようするに、政治家たちによる政黨での派閥爭いそのままといっても良さそうだ。
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「だが良かったのか、あの建を破壊してしまって。いくら派閥爭いがあったにしたって、元は同じ組織のものなんだろう?」
「別に構わないわ、もうあの場所は必要なくなったから。
だけど彼たちはあそこを自分達の城にしていたの。あそこを破壊するに至って、彼たちは猛反対した。だってもう必要なくなったものを破棄しようと提案したのは私の屬しているグループの立案だったから」
「あのもあそこで育ったのか?」
「ええ。いうなら彼と私は歳のはなれた姉妹みたいなものかもね」
ならば、斑鳩とは兄妹みたいなものなんだなと思った。
「だとしたら、あんたたちの親玉は片倉とかいう奴なのか」
「いいえ、片倉はただ単にあそこを任されていただけよ。まあ、彼が組織で手腕を振るっているのは間違いないけど」
片倉はあくまで、あの施設の責任者にすぎないということか。
「それで話は変わるんだが、あんた、加藤という男を知っているか?」
「知らない」
このもこので大層ポーカーフェイスのため、この言葉にどれほど信用できるかは分からない。分からないが、今はひとつ信用しておくとしよう。なくとも、その前まで話していたことは本當のようなのだから。
となると、やはり加藤を殺したという持論において最大の主犯は香織、といって良さそうだ。あのは加藤とは良い関係といっていたが、実際にはそうではなく、俺を信用させるための噓っぱちだったんだろう。
「でも、なんでそんなこと聞くの?」
「いや、こっちの話だ。別に他意はないんだ。それよりあんた、なんで俺があそこに捕えられていると分かったんだ?」
「あそこは元々今日破壊されることになってたのよ。ついでに、彼の柄を拘束する必要もあったから。だっていうのに、あなたがいて私としても驚いたわ」
「そうか」
俺にはまるでなにもかも知っていて、そのうえで襲撃したように思える。もちろん、真紀のいっていることも本當なんだろうが。
「あのヤクザ達はどうなったんだ」
「K組のこと? 彼らなら拘束されてるわ。といっても、もう一人だけだけど」
「一人だけ……」
このの正が知れた今、殘りの連中の末路は簡単に想像がつくというもので、深くは追及しない。
「だが分からないな。なんだってあんなヤクザもんを野放しにしていたんだ。さっきの黒づくめの男達を見る限りでは、ヤクザなんて赤子の手をひねるようなものだろう? 香織と繋がっていたというなら、別に今日でなくとも、とっくの昔にどうにかできたんじゃぁないのか」
「そうね。でもこっちとしても、そうは簡単にけないの。確かに彼らを捕らえることは造作もないことだけど、そうすると彼がそれに気付いてしまう。一網打盡にするチャンスと理由が必要だった。
それに私たちみたいなのは、公式には存在していないことになっているのよ。そんな私たちが勝手にけるわけないじゃない。存在しないからには、一応は世の中のルールは守って、形は合法的に見せなくてはいけないの。ううん、存在しないからこそ、ね。
……で、その時に限って、あなたがあんなところにいたというわけ。まあ、あなたのおかげで、彼に全く気付かれることなく作戦を遂行できたのは良かったけど」
なるほど、そうだったのか。そして、ここでもまた俺は、このに良いように使わされていたということか。
まあ、いい。理由はどうあれ、今回ばかしはこのが來てくれなければ、とんでもないことになっていたかもしれないのだ。それは謝しておくべきだろう。
「……それにしても、あんたが殺し屋とはな。前々から得の知れないやつだとは思っていたが、これで納得もいくというもんだな」
こいつのこれまでの冷靜すぎるまでの態度や言は、そこに起因していたわけだ。殺し屋なんてものは、常日頃から冷靜でいるものなのだろう。
もう一人、斑鳩にしたってそうだ。奴のあの、のらりくらりとした態度も実際にはそんな殺し屋であることを隠すには、うってつけなのかもしれない。納得する理由としては十分すぎるものだ。
「で、だ。俺をここに連れてきた理由は」
もう言うまでもないが俺は今、真紀の住む部屋に來ている。來ているというよりも、半ば強制的に連れてこられたといった方が適切かもしれない。
あの後、真紀に助けられて施設を抜け出してからは、香織とともに、俺も得の知れない黒づくめの連中に捕われた。
しかし、捕われはしたがすぐに解放されることになったのだ。理由は當然ながら、真紀の口利きがあったためだ。そしてそのまま有無をいわせず、黒塗りの車でここまで連れてこられたのだ。
俺は真紀の寢巻姿を見ながら問う。白く薄い長袖のニットのシャツに、黒のスウェットズボンがこののいつもの寢間著のようで、シャツにはうっすらと首の形が浮かんでいる。
まあ、俺も上半はTシャツ一枚で後はスラックスだけのシンプルな恰好だ。なぜこのが男ものの服を持っているのかは、聞かないでおこう。
「それは近いうちに……ううん、明日話すわ。それより食べたんなら寢ましょう。もう深夜三時を過ぎてるんだから」
言いにくいことでもあるのか、真紀は強制的に話を終わらせて立ち上がり、寢支度を始めた。
「あんたがそう言うんなら、今はその言葉を信じよう。だけどもう前までのように、隠し事だけはしないでくれよ。明日というなら、必ず明日喋ってもらうぜ」
「安心しなさい。そう息巻くらなくても、必ず言うから。それよりも早く來なさいよ、寢るんだから」
真紀がベッドにって隣を指し示す。一瞬何をいったのか理解できず、目が點になりそうだった。
「……あんた、本気で言ってるのか?」
「私のうち、これしか布団がないもの。それより早くして、この時期の夜はまだし冷えるから」
やれやれ、どうやら妥協するしかなさそうだ。真紀の言う通り、何もなしで寢るにはまだ寒いのだ。ここまできて、いちいちと一緒に寢るだけのことにごんでいられない。要は、このに手を出さなければいいわけで、また出すつもりもないのだ。
「あんた……何を考えてるか分からないと良く言われないか?」
「そうかもね。別になんとも思ってないけどね」
「だろうな」
ため息まじりにつぶやく。観念して俺は、真紀のいるベッドに潛り込んだ。
そうだ。第一、沙彌佳とだって何度も一緒に寢てきたのだから、いまさらな話ではないか。とはいえ、しばかり張してしまう。寢ようというのに張すると、眠気も飛んでしまうかもしれない。
俺がベッドに潛り込むと、真紀はリモコンで部屋の燈りを消した。豆球にして寢るの子も多いと聞いたことがあるが、真紀は真っ暗にして寢るらしい。
部屋が真っ暗になって隣で、コトリと真紀がリモコンを枕元に置く音がした。枕元は木でできた、ちょっとした収納になっているためだった。俺は枕なしで、代わりに両腕を頭の下にし、腕枕にしていた。
「ねえ。枕、使わなくてもいいの?」
暗闇の中、真紀が聞いてくる。
「いい。俺は枕がなくても寢れるタイプの人間なんだ」
だんだんと目が慣れてきたのでチラリと橫目で真紀の方を見ると、真紀はこちらに背を向けていて、俺からは後頭部しか見えない勢だった。
「……ねえ。あなた張してる?」
真紀にしては珍しく、ややためらいがちに問いかけてきた。
「いいや。……といいたいところだが、しばかり張しているかもしれない」
「……そう」
それからどれほどそうしていただろうか、窓の外から風の吹く音が、カチカチとさっきも聞こえた時計の音が聞こえる。何気なく真紀の方へ顔を向けると、の子特有の甘い匂いがした。いや、この部屋中にそれが染み込んでいるのだ。
(やっぱり、真紀もなんだな)
「……なあ」
なんとなく口を聞いてみたくなって聲をかけた。
しかし、返事はない。もう寢てしまったのかもしれない。よくよく耳をすませば、小さく寢息も聞こえる。
(すぐ隣に男がいるってのに、隨分無防備なやつだ)
俺を男として見てないのか。だったら今ここでいたずらしてやろうか……そんなことをぼんやりと考えているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。
朝、目を覚ますと日は高く、すでに正午を過ぎていた。
俺は一人、真紀のベッドで寢ていて本人はどこかへ出かけていったのか、部屋はもぬけの殻だった。忘れがちだが、今は春休みなので別に學校があるわけでもないだろう。
まあいい。どのみち今日中には喋ってもらわないといけないこともある。部屋で待っていれば、そのうち帰ってくるだろう。
そう思うと、真紀がいないことなど、とたんにどうでもよくなった。俺はベッドの上に寢転がって、これからどうすべきかを考え始めた。
昨日はこの二十年足らずの人生の中では、最も印象的な一日だった。おそらく、今後どれだけ生きるかは分からないが、きっと一生ものの思い出になったのは間違いない。
同時に、俺は沙彌佳へ繋がる道を失ってしまった。また一から出直しということになったのだから、どうするかは早急に手を打つべきだろう。
「どうしたものか……」
部屋の白い天井を見ながら、一人つぶやいた。やはり、青山に頼むしかないだろうか。
やつは俺から見て、間違いなくいっぱしの報屋といっていいはずだ。あいつの持つ幅広い人脈は、こうなった以上はとても魅力的に思える。
「あいつのハッキングの相當のようだしな」
やはりここは一つ、再度あいつに頼み込んでみるしかなさそうだ。
やるべきことが決まると俺はすぐに著ていた寢巻をぎすてて、部屋の隅においてあった私服に著替える。と、そこで部屋の金屬製のドアを開ける音がした。
「あら、起きたの」
部屋にってきたのは、當然ながらここの主である真紀だった。
「ああ。ちょっと前に起きたばかりだ」
「そう。始めは起こそうかとも思ったんだけど、疲れてそうだったから止したのだけど、疲れはなさそうね」
「そうだな、これといった疲れはないと思う。おかげさんでな」
真紀は手に持っていた袋を隣のダイニングキッチンに置いて、ガサゴソと中を取り出し始めた。
「買いに行っていたのか」
「ええ。それだけではないけどね」
相変わらずの無表に加えて、こちらにチラリとも顔を見せずに中を冷蔵庫の中やエレクターに置いていっている。
それだけではない、か。何か含みのある言い方だ。昨日のことか、それとも俺のことか……。
買ってきたを起き終わると真紀がコップいっぱいにったミルクを持ってきて、俺の前に置いた。
「はいこれ。まだ何も飲んだり食べたりしてないんでしょう」
「悪いな」
差し出されたミルクを一気に飲み干した。一度何かを腹にれると、突然腹が空いてきた。寢る前に食べはしたが、やはり簡易食では足りなかったらしい。あるいは、予想以上に神を削られたために力の消耗が激しかったのかもしれない。
「とりあえず食事にしましょう。話はそれからでも良いでしょう?」
意外だが、このは俺が思っている以上に気の利くのようだ。
俺は靜かに頷いた。
食事を終えて一段落したところで、真紀は、さて、と前置きして話し始めた。
「昨日の話だけど、あなたをここに連れてきた理由は一つ。あなた、私たちの仲間にならない?」
世間話でもするかのような話し出しだったため、俺は思わず無意識のうちに頷いてしまいそうだった。それほど自然だったのだ。
「仲間だって?」
「ええ、そうよ。聞けば、あなた、妹のために今回みたいなことに首を突っ込んだのでしょう? それで何か収穫は得られたの?」
痛い指摘だ。たしかに結果としては全くといってない。得られたものなど何ひとつなかった。関係あるかは分からないが、の回りで起きたことを整理しようとして、あの様だったのだ。もちろん、それが沙彌佳に繋がる可能があるというのであれば、なおのことだ。
「あなたがどれだけ警察を頼ろうと、あるいは探偵でもいいけど、それらを使ったって、世の中には知ってはいけない領域というものがあるのよ。それはもう分かっているでしょう?」
「……」
真紀の言う通り、昨日一昨日であんな目に遭えば、さすがに馬鹿でもそれは理解できるというものだ。まさか、二日も続けて拉致されて拘束されるなんて思わなかった。
いや、そもそもがあんなこと、映畫や何かの世界でしかないとすら思っていたのだ。
「だけどな」
「もちろん、私は強制はしないわ。だけどあなたのことだから、きっとこれからもあんな無茶をするでしょうね。
今回はたまたま私が助けることができたけど、次なんて分からないのよ。そうなった時、今度こそあなたは死ぬかもしれないの。場合によってはそれだけじゃないかもね」
「それだけじゃない? どういう意味だ」
「あの子……渡邉さんだったかしらね。彼だって危険に曬されるかもしれないって意味よ。大切な子なんでしょう?」
そうだった。現に、香織は綾子ちゃんにまで手をかけようとしていた。真紀の言ったように、もしあそこでこのが現れなかったら、彼がどうなっていたかなんて想像もつかない。
「……俺にメリットは」
「まず、大概の裏報は知ろうと思えば知れるはずよ。場合によっては、あなたの妹のこともあるかもしれないわ。表の世界には知れ渡らないことというのも確かにあることだから。
次に、今回みたいなことがあったにしても、私たちのバックアップをけれることもあるかもね。
後は、訓練次第だけど、あなたにも私や彼たちに対抗しうる戦闘もにつけてもらうことになるわ。そうすれば、今回みたいなことは余程のことがない限り、自分で対処できるようになる」
「……知りたい報というのは、どんなことでもか」
「ほぼ、ね。人がいなくなったという類いのものなら、大は知れるはずよ」
いつの間にか真紀の話に、食いるようにして聞きっていた。確かに知れないことが知れるというのは魅力的な提案だった。要するに、これまでのような遠回りをしなくてもすむかもしれないのだ。
だが、同時にデメリットもある。メリットとデメリットは紙一重だ。戦闘訓練をけるとはつまるところ、命をなげうって作戦に參加しなければならないことだ。あるいは、斑鳩が行ったような誰かの暗殺なんかもあるだろう。果たして自分にそんなことが出來るだろうか……。
それに……それにだ。仮に俺がそうなれたとして、彼は、綾子ちゃんはどうなる。俺に綾子ちゃんを見捨てて、そんな世界にることができるだろうか……。他にも、父のこともある。俺までなんらかの形で死んでしまったら、殘された父はどうなるというのだ。
「迷っているみたいね。ま、無理もないけど。さっきも言ったけど私が提案するのは、あくまで一つの選択肢にすぎないわ。
答えは今すぐじゃなくても良い。あなたにとって大切だと思う方を取りなさい」
真紀は優しくもなく、かといって見放すでもなく、淡々とした口調で言った。
しかし俺には、それがとてつもなく重く響いてじられた。
真紀の部屋を出て家にたどり著いたのは夕方の五時も近い頃だった。その気になれば、まだいくらも早く帰ることができたのだが、不思議とあまり帰りたいとは思えなかったためだ。
門を開けて玄関に行くとすぐそばには、いつもの綾子ちゃんの自転車が置いてある。
「綾子ちゃん、來ているのか」
今となっては、うちの合い鍵を持っている彼だから、別にいて悪いというわけではない。むしろ、謝したい気持ちでいっぱいなのだ。
けれど、今はなぜだか後ろめたい気分だった。別にバレなければどうということもないのだろうが、なぜかそんな気になってしまう。
「ただいま」
扉を開けて中にると、すぐに相を変えた綾子ちゃんが飛び出してきた。まるで、死んだ人間が生きていたことに驚いたような表だ。
「九鬼さんっ」
「よう。どうしたんだ?」
あまりの勢いのよさに、こちらが驚いてしまった。俺が驚きざまに問いかけると、綾子ちゃんはへなへなとその場にへたり込んでしまった。
「お、おい綾子ちゃん、大丈夫か」
俺はし慌てながら靴をぎすてて綾子ちゃんに歩み寄り、彼の肩を抱く。
「……良かった。九鬼さんが帰ってきて……」
俺の顔を見て、心底、安堵した表を浮かべて微笑んでいる。そのためか、わずかに目元が潤んでいた。
「おいおい、俺の家はここなんだ。ちゃんと帰ってくるさ」
「だって、朝からずっと連絡がつかなかったんですよ……? 心配するに決まってるじゃないですか」
「朝から?」
「そうですよ。ずっと、おかけになった電話は電波の屆かないところにいるってばかり……心配しますよ」
そう言われて、はっとする。今の今まで気付かなかったが、昨晩から攜帯を見ていない気がする。いや、確かに真紀の部屋にいたあたりから攜帯を見てもないどころか、ってもいない。
どこで落としたか……。使ったのは昨晩、綾子ちゃんに青山のうちに泊まると連絡したのが最後だ。その後は……三波の邸宅を訪れた時だろうか。あそこでなら、香織の息がかかった連中に捕えられ、前後に無くした可能はある。そいつが一番可能が高そうだ。
「どうして電話に出てくれなかったの……」
「すまない、綾子ちゃん。実は攜帯をどこかに無くしてしまったらしいんだ。だから出れなかったんだ」
潤んだ瞳で訴える綾子ちゃんに、俺はただ落ち著くよう言い聞かせることしかできなかった。噓はついていないが、無くした理由そのものを言うことなどできない。できるはずもない。
以前、俺が噓をついてまで厄介事に首を突っ込んでいたことを思い出しているのか、綾子ちゃんは素直に頷こうとはしなかった。無理もないことかもしれないが、これはこれで哀しいものがある。
「わかりました。私、九鬼さんのこと信じます」
「綾子ちゃん」
安堵と裏切り。噓はいってないのに、どうしてこうも後ろめたいのだろう。
(またか……また俺は、君を騙している)
綾子ちゃんを抱きながら、俺は何度も心の中で謝罪していた。それを汲み取ったわけではないだろうが、綾子ちゃんは目を指で拭きながら話題を変えた。
「……実はさっき、九鬼さんが帰ってくるし前におじ様から連絡があったんですけど、今日大事な話があるから夜の9時には帰ると」
「父さんが?」
綾子ちゃんは、頷きながら続ける。
「私にも話しておきたいから二人とも夜はいてくれということでしたけど……何かあったんでしょうか」
「分からないな。とにかく夜に帰ってくるって話なら、それまでは待とう」
それにしても突然どうしたんだろう。今までこんなことはなかったことだ。何か、あまり良くなさげなことがありそうな気もしなくもない。
俺達は立ち上がってリビングに赴いた。綾子ちゃんにはコーヒーを煎れてほしいと頼み、俺はソファーに深々と座り込む。
自宅に帰ってソファーに座ると、たちまち、どっと疲れがでてきた。今まで外で過ごしていた時はそうでもなかったはずなのに、不思議だ。なんだかんだで、思っている以上に真紀の部屋にいた時に張していたのかもしれない。
「なんだか、疲れてるみたいですね」
「ああ。やっぱり自宅の方が落ち著くよ」
一瞬、青山の家にいなかったというのが見抜かれたのかとヒヤリとした。この子は勘がいいので、ほんのわずかな違いであっても何かをじ取ってしまう。
そんな量の良い綾子ちゃんを眺めながら、俺は真紀の言っていたことを考えていた。
『あなたにとって大切な方を取りなさい』
俺はどうするべきなんだろう。當然ながら、沙彌佳のことは大切だ。沙彌佳があんなことになってしまった手前、指をくわえたままというわけにもいかない。
そうなると、おそらくは綾子ちゃんを捨てることになるだろう。彼を巻き込むわけにはいかない。
しかしかといって、綾子ちゃんを取った場合、平穏を手にれることができるかもしれないが、沙彌佳を見捨てなければならなくなる。仮に見捨てることはなくとも、今後も今回のようなことに巻き込まれないとは言い切れない。
どちらも一長一短だ。こんなことをいうのもなんだが、綾子ちゃんとの関係がこれから先も続いていく保証はないし、沙彌佳にしたって最悪、生きているとは言えない。
……俺は、どうしたいんだ。
真紀はいつかにも、両方なんて無理だと言っていた。全くその通りだ。何事も、背負えるのは一つだけなのだ。それ以上を求めるのは、単なる強者でしかないし、ただのエゴだ。
もしくは、こうとも言い換えることができるかもしれない。何かを得るには何かを捨てなければならない。人が持てるものなんてのは、そう、いくらもあるわけではないのだ。
夜9時を回った頃、言伝られていた通りに父が帰ってきた。
この時間に帰ってくるなんて、ずいぶん久しぶりではないだろうか。いや、そもそも父と顔を合わすこと自が久しぶりだった。久しぶりに見た父の顔は、急激に五歳か十歳は歳をとったように見えた。
まだ四十も半ばだが、まるで五十代に見えるほど老け込んでいたのだ。娘の失蹤から始まって最の妻の死に至るまで、父は言葉にこそしないが、とてつもなく神的にふさぎ込んでいるのだ。それが久しぶりに父を見て、すぐに理解できた。
「……久しぶりだな。もう元気になったようだな」
「ああ……」
いつもならここらでジョークに憎まれ口の一つも言うところだが、今の父を見ていると、とてもそんな気にはなれない。綾子ちゃんも同じようで、とても心配そうにしている。
「食事は? まだなら綾子ちゃんが作ってくれたものがあるけど」
「いや、今はいい。後でもらうよ」
父はリビングに來るなり、俺と綾子ちゃんを座らせた。
「さっき電話した時に綾子ちゃんに伝えたが」
「何か話があるってことだろう。それで何があったんだ?」
「そうだ。……実は今度、転勤することになった」
「は……? 転勤って……どこに?」
「O市」
二人橫ならびに座っている俺と綾子ちゃんの顔を見ながら、淡々と話す父。その様は、とても俺の知っている父とは思えない。前はあんなにどんと構えて、父として一家の大黒柱として存在を放っていたはずなのに、今はが心なしか小さく見える。
「O市って……」
俺の代わりに綾子ちゃんがそう口にした。かといって、何かそれ以上いえるわけでもない。決まってしまった以上、こればかりは、俺にも綾子ちゃんにもどうこう言える問題ではないのだ。
けれど、だからといって、はいそうですかと言うわけにもいかない。そんなことをしてしまったら、あいつとの、沙彌佳との繋がりが途絶えてしまう。
「父さんは……父さんはそれでいいのか?」
「もう決まったことだ」
「そうじゃない。あいつの、娘のことだ。あいつはまだ死んだと決まったわけじゃない。それを見捨てろっていうのか」
つい語気を荒くして、責めるように問いかけた。冗談じゃない。俺にはここを離れて暮らすわけにはいかないし、また、そのつもりもない。
「……私だって嫌に決まってる。だが……」
「だけどなんだって言うんだ。父さんは……沙彌佳を放っておけるのか。もし沙彌佳が無事だったら、ここに戻って來るかもしれない。そんな時に俺達がいなくてどうするんだよ」
「……」
父さんが黙り込む。
「九鬼さん……」
綾子ちゃんが困げにつぶやく。
もちろん、俺にだって父さんの立場を分かっていないわけではない。理屈から考えれば、父さんが正しい。はっきり言って、俺の主張はただの論にすぎないのだ。だが、ここを離れて暮らすのだけは我慢できなかった。
言いたいことをぶちまけると、リビングには重苦しい雰囲気が漂っていた。はたと冷靜になると、いってはいけないことを言ったようにすら思えてならない。
しかし、俺の主張は決して間違ってなんかないはずだ。誰だって自分の家族が失蹤して心配しないはずはない。ましてや、目にれても痛くないというほど可がっていたのだ。
だが、こればかりは無理だ。父の気持ちは分かるが、これだけは絶対に従えない。
俺は父の顔を見てはっきりと口にする。
「父さんがO市の方に転勤するっていうのならすればいい。だけど俺は嫌だ。……俺は二人を捨てられない」
「……こっちに殘るというのか」
「……父さんがそうするってんなら、そういうことになる」
妹と母。俺には、まるで二人を捨てるみたいな行為に思えてならない。
父も目を細め、こちらを見據えている。
「私は、ここに誰も住まわせる気はない」
「……なら、俺がここに一人で住む」
「駄目だ」
父が即答した。いつもは厳しげながらも穏やかな顔をした父が、珍しく険しい表をしている。
「なんでだよ。誰も住まわせることはないってんなら、誰にも売ることはないってことだろ? だったら、俺がここに住んだっていいじゃないか。俺はこの家から出るつもりはないんだ」
「駄目だ。確かにここを売るつもりはない。だが、誰も住まわせるつもりもない。たとえおまえでもだ」
開いた口が塞がらなかった。何を言ってるんだ、父さんは。
「おまえがこちらに殘りたいなら止めない。もう年齢的にも親離れしてもいい年頃でもある。しかし、ここからは出ていってもらう」
俺は反論しようと喋りだそうとした時、隣の綾子ちゃんから服の脇あたりを引っ張られて言い出そうとはしなかった。
「……もういい。勝手にしろよ」
俺は忌ま忌ましげに舌打ちし、苛立ちながら立ち上がって大歩きでリビングを出た。これ以上は、何をいっても平行線なのは火をみるよりも明らかだ。
そのままの勢いで自室に戻り、ベッドに倒れ込む。
「なんだっていきなり……」
毒ついて、最近はあまり使わなくなった機の方を向いた。卓上には、いつだったか沙彌佳と二人で撮った寫真が、寫真立てにれて飾ってある。不用で全く笑えていない俺と、わざわざ制服を著て、屈託のない顔で笑っている沙彌佳の寫真だ。
(そういえば……あいつの制服姿を見たのは、この時たった一度きりだったな)
だから俺はこの寫真を選んだのだ。確かに俺の膨れっ面はなんとも言い難いが、沙彌佳の毎日著るはずだった高校の制服を著たのは、この時一度だけだ。あの時、沙彌佳が制服を見せたいと言わなければ、この寫真を撮ることはなかっただろうし、制服姿を見ることはなかったのだ。今考えてみると、撮っておいて良かったと切実に思う。
コンコン
ドアをノックする音の後、綾子ちゃんが部屋にってきた。
「九鬼さん」
「どうした?」
俺は綾子ちゃんに視線だけを向けた。大方、さっきのことで何か言いたいことがあるんだろう。
「あの、おじ様のいうことも分かってあげてください。決して、さやちゃんのこと、心配してないわけじゃないと思いますから」
「……んなこた分かってるさ。多分、心からすれば、ここを離れるのは嫌に決まってるだろうよ。
父さんの會社の本社は、O市にあるんだ。自社ビルだってある。つまり今回の異は、栄転といってもいいだろうよ。だが父さんが、ただ働くだけのことを考えて転勤することを承諾したとも思えない」
「だったら……」
綾子ちゃんが言いかけたのを遮るように、俺はベッドからを勢いよく起こして言った。
「だけど、俺の言ったことも決して間違っちゃぁいないはずだ。違うか? 家族を待つことの何が悪いっていうんだ」
きっと綾子ちゃんからしてみれば、第三者だからこそ言い爭いなんてしてほしくないと考えているんだろう。だからこうして、ここへ來たはずなのだ。
「父さんは……きっと父さんは、もう嫌になっちまったんだと思う」
「どういう意味ですか?」
「……この家には、俺が二才の頃越してきたんだ。両親にとっては初めてのマイホームってやつだ。
當時、生まれてまだ半年かそこらの妹と、俺のことも考えてのことだろうな。子供を育てるのには、ある程度の広さのある家が良いと聞いたことがあるから、きっと、そんな理由もあったんだろう。
今なら分かるが、この家には本當に々な思い出が詰まってる。良かったことも悪かったことも含めて、間違いなく良い思い出だといっていいよ、俺にも父さんにも。
だけど、だからなんだろうな。ほんの些細な出來事が頭をふと過ぎる……それが辛いことがあるんだ」
だから俺は未だに沙彌佳の部屋にろうとはしない。ろうとすると、やけに足がすくむような気になってしまうためだ。
「父さんは、それにもう耐え切れないんだと思う。もう、良い思い出としてこのうちを封印したいんだと思うんだ。辛かったことは良い。だけど、良かった、楽しかった思い出ってのはすごくを締めつけるんだ、當然だよな。
父さんが、母さんが死んで以來うちにあまり寄り付かなくなったのも、そいつが理由なんだと思う。父さんはまだ母さんの死をけれられないんだ」
ふと自分がこんなことを言うのは、すでに母の死を完全にけれてしまっているからだと気付いた。おかしな話かもしれないが、俺は今たしかに、母の死は過去の出來事だと冷靜に見つめている自分に気がついたのだ。
「でも不思議なもんでさ、俺は妹はまだどこかで生きていると信じているんだ。拠なんざ一かけらもないが、間違いなくそう信じこんでいる自分がいる。……ま、それこそ、けれられないって気持ちもあるけどね。
ただ一つ違うのは、俺はまだ妹が死んでないと信じれるに対して、父さんは半ば、もう妹が死んでいると考えていて、なおかつ、心のどこかではやはり母さんも死んだというのを認めようとてしてる部分があるということなんだ、理ではね。
なのにもう一方のは、そいつを真っ向から否定してる。二つの背反した気持ちを持ち続けることに、もう辛くて耐え切れなくなったんだよ、父さんは」
「……」
俯いて俺の話を聞いていた綾子ちゃんは、黙ったまま何も言わなかった。本當は言いたいことがあるが、今の俺にはなんの意味もないと悟っているのかもしれない。きょときょとと悲しげに目を泳がせている。
「君はいつか言っていたよな、父さんと母さんが羨ましいと。その一つの結果がこれなんだよ。母さんもそうだったが、二人は弱かったから互いに補完し合ってたんだ。
もちろん、人間なんて一人でやれることなんざたかが知れているんだから、両親を否定するつもりはないけどな」
長い獨白を終え、俺は口をつぐんだ。
「でもそれじゃ、おじ様がかわいそう……」
母の葬式の日もそうだったが、綾子ちゃんは今にも泣きそうなほど顔を悲痛に歪めている。
さすがに彼のそんな顔を見ると、俺もうかつだと思ったが仕方ない。父さんの言う通り、俺はもう獨り立ちすべきところにまできているのかもしれない。
「……とにかく俺は、絶対に諦めない。大、某國に拉致された日本人だって、何年もたって再び日本の地を踏めたじゃぁないか。
かつて、二次大戦時に撃墜されて戦爭終結後三十年近くものあいだ、太平洋の孤島に取り殘されて生活せざるをえなかった舊日本軍の兵士がいた。彼も生きて日本に戻ってこれたんだ。
……あいつにだって同じようなことがないとは言い切れないだろ」
俺は苦蟲を潰すように顔をしかめ、沙彌佳と二人で寫った寫真に目をやりながらつぶやいていた。
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