《いつか見た夢》第65章

夜の二十三時を過ぎた頃、真紀と二人パブで飲みかわしていた俺は、頃合いだと店を出た。

嫌いする理由もこれといってないはずなのに、どうもあののことは好きになれずにいた俺だ。だというのに久しぶりに會ったせいか、あの狐の顔を拝みながらの食事は、不思議とのどをするすると通っていた。

ここのところ、ずっと英語での生活を続けていたためかもしれない。久しぶりに何時間も日本語でのやり取りをしたのも、理由にあげないわけにはいかないだろう。

「それじゃあ、私はしばらくはこの國にいるつもりだから、何かあった時は連絡しなさいよ」

「もちろん、そうさせてもらうさ」

店の前でしの間、真紀と見つめ合う。普段、何を考えているのかよく分からないだが、非常に有能なやつであるのは知っている。

そんな真紀にじっと見つめられていると、なんとも落ち著かない気持ちになる。俺は軽くため息をついた。

「それじゃぁ俺は行く。何か分かったら、すぐに連絡してくれ」

夜は冷える時期だ。俺は革ジャンのポケットに両手を突っ込み、寢座へと足を向ける。

一拍おいて、背後からカツカツとハイヒールの響く音がした。真紀も自分のホテルに戻っていく音だ。もしかすると、途中でタクシーでも拾うかもしれないが。

タクシーに乗ってもいいが、この時間はまだまだメインストリートは渋滯になっていてもおかしくないので、チューブを使うことにする。

道にはすでにできあがった連中もなくなく、二人から四人ほどの友人同士で道を歩きながら、何か笑している者たちも見けられる。あの様子では、これからまだ店をはしごするんだろう。

そんな酔っ払いの徒黨と何組みとすれ違いながら、近くのチューブへと下りていった。下のほうから風が巻き起こり、髪がなびく。どうやら電車がきたようだった。

チューブに降り立ったときに、運悪く電車が通りすぎていったので、一本後の電車に乗った俺は、シートに座り暗くて何も見えない窓の外を、先ほどのことを思い返しながら、ぼんやりと眺めていた。

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俺の目の前に現れた真紀は、昔と比べ、ずいぶんと印象が変わっていた。この前に會ったときもそうだった。顔つきも雰囲気も、大人びているのだ。うっすらとのばした化粧も著飾った服も、なにもかもが俺の知る頃とは変わっていた。

「今日呼んだのは他でもない。ちょいとばかし聞きたいことがあってね。

あんた、今日の朝、ハイドパークで他殺が見つかったって話、知ってるか」

「ええ、知ってるわ。でも、それがどうかしたの?」

「この男について知りたい。どうもマフィアだったらしいんだが、この男の組織がどんな狀態だったのか教えてもらいたい」

俺がそう言い終えると真紀は、どことなく、うんざりしたように眉をひそめた。いや、実際、かなり呆れていたのかもしれない。

「ひとついっておくけど、私はあなたの報屋じゃないの。そんなこと、いちいち私に聞かないで」

なんでそんな面倒なことを、とでもいいたげな口調だ。仮に俺が真紀の立場だったとしても、きっと今の真紀のような態度になっていたにちがいない。

俺から目をそらし、真紀はカクテルを一口含んで一息いれた。たしかに真紀の言う通りだがこのは、知る限りではそこらの報屋よりも富なネタを持っているのだ。なんせ、所屬しているのは報そのものを扱う機関にいるのだから、そいつも當然だろう。

「……本當、あなたって勝手。あなたを引きれたのは間違いだったかもしれないわ」

眉間にしわを寄せながら、真紀はため息をついた。どうやら折れたみたいだ。俺が何をいっても従わないのは知っているのだから、妥協したほうがいいと知っているのだ。

「……今朝、死で発見された男の名前はアンソニー・ベケット。ベケットは母方の姓で、父親はイタリア人。い頃に両親が離婚して以來、母親とともに生活してたらしい。

苦労しながらもアンソニーは、十五のときまでは學校にも行っていたようだけど、その頃に母親が死んでいるわ。と同時に」

「……學校をドロップアウトして、ギャングにったといったところか」

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真紀の言葉を引き取って俺が続けた。真紀もそれに頷いている。

「まぁ、よくある話だな。それで」

「アンソニーはギャングになってからというもの、瞬く間に長していった。気付けば組織の調停役――ようするに外といったところかしら。その役職についている。わずか二十二歳の若さでね。

彼の働きで、ロンドンのマフィア同士による爭いは、ほとんどといっていいほどなくなったわ。彼がそれぞれの縄張りに明確な線引きをしたのと、何かあった時は、必ずそれぞれの組織の幹部同士での話し合いを行うことなどを條件にして」

それの條件として、必ずそれぞれに利益が得られるようにでもした、そういうことだろう。

「で、始末された機はなんなんだ」

俺がそう聞くと、真紀は珍しくいい淀んだ。知ってはいるがいうべきか、とでもいった雰囲気だ。

「……実をいうと、まだ調査中といったところ。いくつか線があるから」

「それでいい。なくともひとつくらい、機としての可能を知ってるってことなんだろう」

「あくまで可能よ」

しばかし強く前置きし真紀が続ける。

「あなた、ベケットのいる組織以外の二つが、ドラッグの取引をしようとしたのは知ってるわよね。

これらの取引も、本來なら幹部同士の會議である、幹部會を行わなければならないというルールを破ってのことだったらしい。

ベケットはそれらを行わず、勝手に取引を行おうとした連中たちに憤慨したの。きっちりと、書面での協定契約をしたにもかかわらずの行為だったからでしょうね」

なるほど。俺はまさしく、どうでもいいことに巻き込まれようとしていたわけだ。

「それを阻止しようとして殺しの依頼をするも、逆にベケットも、やはりマークされていて殺された……あんたはそういいたいのか」

「……だと思うんだけどね」

一度口をつぐんだ真紀が、なんともおかしいとでもいいたげにつぶやいた。

「だと思うっていうことは、違うかもしれないってことか? それに、いくつか機があるみたいなことも言っていたよな」

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俺が思い出したようにいうと、真紀は綺麗に整った眉をよせた。

「ええ、そうよ。一番もっともらしい機はそうだけど、それでは説明できないことがあるの。

普通、同じファミリーの一員が殺されたとあれば、マフィアならすぐにも何かしらのきがあるはずなのに、そんなきが一切ないのよ。まるでファミリーが、彼を殺したのかと疑ってしまいたくなるほどね」

「実は、ファミリーは他の二つの組織の取引を知っていて、ベケットがそいつに反対したため、反分子としてみられるようになったというのはどうかな」

先ほど考えたことを述べると真紀は頷くが、釈然としない表のままだ。

「もちろん考えたわ。だけど、ベケットにそんな様子は一切なかったらしい。むしろファミリーの幹部たちは、彼にかなりの信頼をおいていたみたいだから。

ただ彼はここのところ、ひとりでよく外出をするようになっていたみたい。ベケットと思われる人が、ロンドンは當然、バーミンガムやリバプールにも顔を出していたそうよ」

マフィアの重要人がひとりで外出……それもバーミンガムや、リバプールにまで遠出していたというのは確かにしひっかかる。

普通なら、護衛の二人や三人はつけるはずだ。なんせ、いがみ合っていた三つの組織を、調停にまで導いた人間だ。そんな人間に護衛がつかないのはさすがに何かあるとみるのが當然だ。

ベケットは俺に會うさいも一人きりだった。つまり、組織には知られたくない何かを行っていたというのに間違いはないだろう。

「ベケットは何をしていたんだろうか」

「分からないわ、今はまだ。だけど彼は、伝子工學の権威とも會っていたそうだし、組織とは全く無関係の人間を使って輸していたとも聞くわ。もちろん、ファミリーには裏にね」

マフィアが伝子工學の権威と會う……想像が全くつかない。輸となればうなずけるというものだが、伝子工學の権威となると話は別だ。

「ただ、伝子工學のほうに関しては、彼は前々から興味を持っていたみたいだから、個人的な趣味ともいえなくもないわ。ベケットは學校をドロップアウトしたあと、組織にはいってからも々と勉強していたようだから」

俺は軽く肯定した。たしかにベケットは三十かそこらではあったが絵に描いたような、イギリス紳士の恰好をしていたのを思い出したのだ。あきらかにインテリといってもよさ気な雰囲気だった。

「全く、俺とはまるで大違いだな」

気味にくつくつと笑った。俺も奴と同じ、學校をドロップアウトした人間だ。

だというのに、俺は以來、まともに勉強などした記憶がない。せいぜい、あの地獄ともいうべき船の中で、英語やフランス語などの外國語と、殺しの技を學んだ程度だ。どれも生き殘るためのものばかりで、生活や將來への知識のためではなかった。

「まぁ、あまり考えられないけど、ただの強盜に襲われた可能もなくもないけどね」

「強盜ね」

「ええ。だって彼はその時、片手に大金を詰めたアタッシュケースを持っていたって話だから」

「なんだって?」

真紀がいったことに思わず聲を裏返してしまう。

「だけど彼の死に際まで持っていたはずのケースはなかった。死んだあと盜まれたことも考えられるわ。つまり、たんなる強盜殺人の可能もないわけじゃない」

「……そうかもしれないな」

その後も々と話をしたものの、これといってめぼしいネタは聞き出すことはできなかった。

しかし、それでも死亡推定時刻を聞き出せたのはよかった。どうも、死が見つかる二時間ほど前だったらしいのだ。

真紀の前では言わなかったが、持っていたケースがなくなっていただって? そいつはありえない話だ。やつのケースはこの俺がたしかに持っていたのだ。

おまけに話では、やつは死ぬ直前まで、つまりハイドパークにる前後までという話だった。そんなのありえない。ベケットは俺の持ち出したケース以外は、なにも持ち合わせていなかった。となると、この報は噓だということになる。

もしくは、俺と落ち合うために來る際にも、やはりハイドパークを突っ切ってきて、その時、姿を見られたというのならまだ分かる。

しかし、これはありえないだろう。なぜなら、ハイドパークから俺との待ち合わせ場所にはどう短くみても、三十分はかかってしまう。それも車で移する、という條件でだ。

しかし奴は、歩きで墓場にまできていた。もし車であれば、まず俺が見落とすはずがない。姿はわからなくともあんなに寒々しい場所だ、音で気付かないというのは考えにくい。

もし仮に、近くまで車できていたとしたら、そもそも目撃報などあるはずがない。最寄りのチューブを使ってきたという可能もなくはないが、もしそうだとすれば、防犯カメラに一度はベケットが映るはずだ。なのにそんな報は聞かなかった。つまり、チューブは使っていないということになる。 殘るは、ベケットがタクシーを使ったという可能が殘されるが、だとすれば、ますますケースを持っていたという証言は噓になる。その日に乗った客の顔は忘れないというのを誇るロンドンタクシー運転手が、乗客の荷の有無を忘れたり、気付かなかったはずがない。

また死が見つかったのも明け方で、死亡推定時刻は、その二時間ほど前というからますますおかしい話なのだ。奴の額に銃弾がぶちこまれたのが俺と會った一時間近く後になるのだから、やつがケースなど持っていなかったことを証言などできようはずがない。つまり、この証言はとても信用できるものではなく、それどころか噓っぱちなのだ。

ベケットの死の機は、やはり依然として謎のままだ。けれど、真紀の話をきいて浮かんだ一つの可能がある。ベケットに、上の連中が死を覚悟させなければならないようなことがあったのはどうか、というものだ。

上の連中は何がなんでも出し抜きたいものがあり、そいつをベケットにやらせた。しかし、そいつにはとても危険が孕んでいて、命を落とすかもしれない……そんな可能だ。幹部連中から信頼されていたベケットなら、あるいは引きけた可能はなくはない。

だが、どうなんだろう。今時、マフィアにそこまで殊勝な奴がいるとも思えない。結局、奴らも金にしか興味のない連中ばかりなのだ。

ベケットもベケットで、そうまでする価値があったのかという疑問もある。なくとも俺はどんな組織であれ、その組織のために、などという理由で命なんかかけられない。そんなことするくらいなら、野垂れ死にしたほうがまだいくらかマシだ。

ガタンガタンと、チューブの走行する速度に揺らされて、車両の連結機が音をならす。あと二駅でアパート最寄りの駅だ。

ふとその時、ベケットが異様なまでの形相でしがっていたものの存在を思い出した。

あの、手の平に握りこめば、簡単におさまってしまうほどのサンプルケース。そういえば、あの若い警察も、真紀もそれについては一切ふれなかった。用途不明のそんなものを持っていれば、しくらい話題にあがってもいいものだが、そんな話題は何も出なかった。

あの若い警察は、財布などの金品は奪われた形跡もないと首をかしげていたのを思い出す。もしベケットが死に際にも金のったケースを持っていたとすれば、財布の中の金などはした金だろうから盜ろうなどと思うはずがない。

けれど実際には死に際にケースは持っていなかった。俺がもっていたのだから當然だが、そうなると、思い付くとすればあとは、あの赤っぽいったサンプルケースしか思い浮かばない。

(まさか、あのケースをめぐって殺されたというのか俺は)

馬鹿な。あんなちっぽけなものが、そこまで大切なものだというのか、俺は。

頭に思い浮かんだ考えを、即座に否定した。しかし、そう否定はするが、どうにも気になってしまって仕方なくなってしまった。

ほんのし手にとって眺めていただけなのに、一時ではあれ、金の代わりにいただこうという気になったのはなんでなのか……そいつがどうにも気になるのだ。

別にいまさら、あんなものをしいといいたいわけじゃない。だが、ほんのしばかし好奇心がわいた。あれの行方を追ってみても良いかもしれない。

チューブを降りて、ようやく部屋に戻ってきた。時刻はまもなく日付が変わろうとしているところだ。

帰ってすぐにシャワールームにはいった。頭から湯をかけて、シャンプーを手に取って短髪の頭につけ、思いきり泡だてる。を洗うスポンジなどないから、適當にシャンプーの泡でもっても洗った。

シャワーの湯は溫く、湯を浴びていてもどこか寒い。しかし、いちいち溫度を上げる気にもならず、そのままにしてあった。

泡を落とした俺は、湯をとめてシャワールームを出た。バスタオルで髪とを拭いて、タオルを腰にまく。

テーブルに置いてあるリモコンでテレビをつけると、ニュースをやっていた。深夜であってもニュースをやるのは、今の時代どこの國でも同じだ。

ちょうど容が切り替わる。次のニュースは日本で政権が変わったという容のものだった。どうもそれによると前政権は、ほんの一年ほどしかもたなかったらしい。相も変わらず、政権の移り変わりが早い國だ。そんなだから日本の政治家は、他國から見下されるのだ。

ある知り合いたちが、こうらしていたのが思い出される。日本人というのは堪えがあるのかないのか分からないだとか、日本の首相はすぐ変わるから名前を覚えられないだとか。

そう言われて俺は、ただ肩をすくめながら苦笑することしかできなかった。そいつらのいうことはごもっともだ。たかだか一年や二年で世の中が変わるわけではないし、そんな頻繁に変われば、主もあったものではない。要はそう言いたかったんだろう。

苦笑まじりに肩をすくめる俺はただ一言、日本人は流行りものばかりに目がいくんだとだけ告げた。日本で生まれ育った俺ですらそう思うのだ、ましてや國外の人間からすれば、そう思われるのはなおさらのことだ。

テーブルの脇に出しっぱなしになったままのスコッチをとって、瓶を口にやって熱いを流し込む。ふと窓の外に目をやると、今晩は珍しく霧が出ていない。珍しく、ロンドンは丸一日中快晴だったようだ。

思えば、俺が初めてこの國に降り立った日も、こんな風に穏やかな天気の日だった。本気で逃げ出したいとすら思ったあの船でのことも、こうして過ぎてみればなんてことはない。なんてことはなくなっても、やはりあの日々のことは思い出さずにはいられなかった。

俺が日本を裏に出國したのが、今からちょうど四年ほど前だった。真紀に連れられて乗った巨大なタンカーは、それ自が一つの訓練場だったのだ。それを知らされたときは驚いたものだった。

乗せられたその日から、何も知らされないまま、いきなり訓練を開始させられたのだ。

まず手始めの挨拶がわりに、教を名乗る男から突然切り付けられたのだ。それも冗談抜きの殺意のこもった突進で、向かってくるスピードも半端ではなかった。

それでも始めのうちはわけも分からなかった俺も、だんだんと男のきについていけるようになっていった。昔から比較的、態視力と反神経は悪くないと思っていたがあの時ほど、そいつに助けられたことはなかったろう。

男になんとか反撃を食らわせようと組みいったとき、次の瞬間、俺は男から鳩尾を思いきり蹴られて気を失ってしまった。そして気付くと、船の救護室に寢かされていたのだ。

「……ここは……?」

うっすらと目を開けた俺は、見知らぬ天井に気付いてぽつりとつぶやいた。

「目が覚めたか」

視界にらないところから、唐突に聲がする。俺はその聲にはっとするが、跳び起きようとはしなかった。

「ふむ。用心してベッドを起き上がらないのは、なかなかにいい心掛けだ。場合によっては、起き上がったとたん罠が、というのもないとは言えないかもしれないからな」

「……あんた、さっきの男か」

聲の主はおそらく、寢ている俺の左斜め上あたりにいるようだ。目をそちらにやって口を開く。

「そうだ。俺がこれからの數カ月間、おまえをみっちりと鍛えることになった教だ。半年か一年もするころまでに、おまえを必ず一人前の工作員にしてやる」

そうか、この男が俺の……。納得がいったところでゆっくりとベッドから上を起こし、教を名乗る男のほうを向き直る。部屋の隅の壁に寄り掛かっていた男は、名を服部はっとりといった。

目つきが鋭く、格も俺より縦も橫もある。一見しただけで、が筋の鎧に覆われているのが見てとれる。しなやかともいって良さそうな筋は、鋼のとも言い換えることができそうだ。

一目みて、この男がただ者でないのは素人であっても丸わかりだろう。もっとも、この男とて普段までこんな厳いかつい雰囲気をまとっているわけではないだろうが。

ともあれ、この服部と名乗る男が教として俺に技を仕込むことになっているらしい。

巨大なタンカーは太平洋を橫斷し、どこだかの港に向かって航行しているらしいという話以外のことは、なにひとつ聞かされなかった。それどころか俺は、數カ月ものあいだ日の出ている時間に、甲板に出ることがなかったのだ。

もちろん日が出ているというのは、丸い小さな窓から確認することはできた。それでも晝間に太を拝むことは一度もなかった。たとえそれが日の出だろうが、日のりだろうがだ。

甲板に出ることが許されたのは一日の訓練が終了し、消燈の時間までの、ほんの數分間だけだった。消燈時間というくらいだから、いつも見る景は黒一の暗黒世界だった。

ときには疲れ果て、もう甲板に出る気力すらもない日もあるにはあった。毎日がそんなことの繰り返しなうえに、あんな息のつまる船の中に押し込められていると、気が狂いそうにすらなったものだ。

そんな訓練の第一段階はまず基礎からで、筋トレーニングは當然、船の中を決められたルートを何十周も走らされ、撃の訓練に、日の沈むころには語學の勉強だった。

一見、楽に見える語學勉強だが楽というには程遠い。なぜなら、勉強の間は決して日本語を使っては駄目だったし、もし一言でも日本語をつぶやこうものなら、次の瞬間には鬼教から鋭い蹴りなり、拳なりが飛んでくるというわけだ。

もちろんどれも、やわな奴ならちょっと當たり所が悪ければ、あっという間に死んでしまってもおかしくないほどで、罰なんて生易しい、正真正銘、生死をかけた勉強といっても過言ではないものだ。

また時間も設けられていて、時間に答えられなければやはり同様の結果になる。だが唯一の救いは、たとえ蹴りが顔面に飛び込んできたとしても、そいつをかわす権利だけは與えられていたことくらいだ。

今にして思えば、あれは俺の闘爭心を煽らせるための、一種の訓練だったんだと思っている。

おそらく俺は、あの數カ月の語學勉強だけで普通に喋ろうと勉強している連中の、何十倍もの速さでものを覚えたことだろう。そうでなければ死ぬことになる。自分の命がかかっている時、人間はなんだってできるものだ。

語學勉強は船に乗っている間は、ずっと継続され、はじめに英語で次にフランス語、後はロシア語なんかも習った。習わされたというのが正確だがとにかく、それらの言葉を最低限は喋れるようになったのは間違いない。

訓練の第二段階は、より実踐的だった。撃に関しては船の中、全てを使ったサバイバル戦といってもいい。一応、頭とには防弾メットと防弾チョッキをつけての訓練だが、銃に使われるのは実弾だ。

そうそう死ぬことはないとは言ってはいたが、當たり所によっては死なない保障はなかった。手足に當たれば、死ななくとも激痛には違いないだろう。

服部は當たった場合、明日からはずっと勉強會だとぬかした。それはつまるところ、怪我をしたからといって鬼教の服部が、勉強でミスした際に蹴りが飛んでこないわけではない……遠回しにそういっているのだ。

忌ま忌ましい気分になるが文句をいう暇なぞ與えられない。銃を渡された瞬間から、その訓練が行われたためだ。そしてやはり、何度か銃弾がすぐ脇をかすめていった。

その時は無我夢中だからあまり気にならない。むしろ後になって、よく死ななかったものだと背筋をひやりとさせられたものだった。

そんな訓練が數日おきにあり、訓練開始の直前になって教の口からそれが告げられるたびに、いずれはこの男にもの言わせてやると誓ったものだった。訓練は、基礎以外は基本、服部の気分次第だったからだ。

の前に立っているときは、本當に気が重くなっていた。おかげで目が覚めるとまず、今日は教からどんな訓練を言い渡されるのか、いやな気分にさせられたものだ。

けれど、こんな日々を送れば々と見えてくるものもあって、最後のほうはいくらか余裕すら出てきたように思える。

だが、いくら死ぬすれすれの訓練であっても、いつまでも続くわけではない。いずれは終わりがくるものだ。

そして最後の日は、今までのように唐突に告げられた。教の前に立って、今日はどんな訓練をさせられるのかと考えていたときだったのは、今もはっきりと覚えている。そこでようやく俺は、ついに日のあるうちに船の甲板に出ることを許された。

錆ついて、ところによっては床が抜けるんではないのかと思わせるほど、腐食した個所もある甲板にあがった俺は、遠くに見える陸地を細目になって眺めた。頬をなでていく海風はとても冷たく、今どこの海を航行しているのか見當もつかない。

わかったのは、遠くに見える陸地に向かっているというのと、ここがとても寒い地域であるということだけの二つだけだ。いや、もしかすると単に、季節が変わって寒くなっているだけなのかもしれない。

に染まった西の空に、太が沈もうとしていた。周囲の海もそのに照らされて、幻想的な朱をしている。寒さで空気が乾燥しているためかもしれない。

それにしても、一どれくらいぶりにみる太だろう……とうの昔に日付の覚などなくなっているため、どれほどの期間こんな船の中に閉じ込められていたのか、想像もできない。

が沈むのを眺めているだけだというのに、なぜか心があらわれていくような覚にとらわれる。この數カ月の訓練で俺は、いつ死んでもおかしくない経験を毎日のようにしていたのだから、それが関係ないとは思わない。

沈んでいく太を眺めていると、背後にく気配をじてわずかに張する。

俺は直後に後ろから放たれた攻撃の気配をじ、を低くした。頭上を蹴りが跳ぶ。

腳が虛空を蹴ったのを気に、一気に相手のふところまで間合いをつめて、元に向け拳を叩き込む寸前で止めた。

「……悪くない拳けんだ。今のおまえなら、たいていの奴なら一撃で殺せるだろう」

鬼教の服部を補佐する役目として乗船した男は、やはり俺の教育係のひとりであり、主にと暗記を擔當していた。服部も背丈は低くなかったがこの男は、俺よりも頭半個分は大きい。長は百九十から百九十五といったところで、東洋人としては目をみはるような大男だ。

男が拳を目の前にして、ニヤリと笑ってみせた。俺はゆっくりと上を戻し、再び太のほうへと視線を向け直す。

「今、何月なんだろう……長いこと船に閉じ込められていたから、日付の覚がない」

「今のおまえに日付の覚など必要ないだろう? ふん……まあいい。今はもう十月も終わるところだ」

「十月末……」

実に半年以上も、こんな糞みたいな船の中に閉じ込められていたのか……。驚きの気持ちはあれど、さほどのものではなかった。それ以上に、ストーカー事件から二年が経ったのかなどと、どうでも良いことをぼんやりと考えていたのだ。

「おまえは良くやったよ、実にな。後は最後のサバイバルをクリアできれば、晴れて一人前だ」

「まだ何かあるのか」

男のほうを振り向いて聞いた。すると男は薄ら笑いをうかべたまま、前方に見える陸地を見ながらいう。

「目の前に見える陸地は北歐の國、ノルウェーだ。

俺達は日本を出て太平洋を橫斷、パナマ運河を経由して、さらに大西洋を斜めに橫斷したということになる。いや、縦斷といったほうがいいか。地球を軽く半周以上はした計算だ。

おまえは明日、この船を降りて小さな舟を使ってであそこまで行くんだ。詳しくは明日伝えられるだろうが、指定された街のある地點まで行かなければならない。それが最後の訓練だ」

いつの間にか俺のほうを見ながら薄笑いを見せている男に、ため息をつきながら遠くに見える陸のほうを向き直った。出発地點はノルウェーというが実際に指定されるのは、おそらくノルウェーの國外だろうと、なんとなくだが思った。

この鬼教どもがノルウェーだからといって、ノルウェー國の街に來いなどというはずがない。最後の訓練というくらいだから、今までやってきた全てのことは當然、それ以外にも自分で、危機を乗り越えなくてはならないというのも見せないといけないはずなのだから。まあ、覚悟はしておいたほうがいいだろう。

「くくく、怖いか」

男が憎たらしげに笑う。

「いいや。ここまできたんだ、今はもうやるだけだ。それに、今までもなんとかしてこれたんだから、今回だってなんとかなるはずだ」

なんの拠もなしに、つぶやくように言った。男は俺の言葉を聞いて、さらにくつくつと笑い聲をあげるが、俺は本気でそう思っていた。なにより、なんとかしなければ、どのみち死ぬのは目に見えている。

もし途中で力盡きて倒れたところを、近隣の住人に助けられたとしよう。この時點で、パスポートも持たない若い日本人が行き倒れていたというだけで、話題になるだろう。だがそうなると、失敗と見なされる可能が高いのだ。

失敗したとなれば當然、栄にも先輩である殺し屋が、俺を始末をつけようとするのは目に見えている。あるいは、住人に見つかることがなくたってあんな寒そうな國で力盡きてしまえば、どう考えたって凍死はまぬがれない。

先に考えた、國外の街に行くのがクリアの條件だとしても、やはり國境が面倒になる。ここらの國の國境警備隊は、怪しいやつには容赦なく銃をぶっ放してくるはずだ。

うまく逃げ込めても、指名手配されないとも限らない。やはり、一難去ってまた一難の狀況になることは考えるまでもない。

そしてこの最終訓練に、時間制限すらつけかねない。この鬼教たちならそれも十分に有り得ることだ。

だが、たとえどんな訓練であれ狀況であれ失敗すれば、どのみち結果は同じだ。つまり、俺には始めから選択肢なんてありはしない。やるしかないのだ。

それを分かっているから男は、こうしてわざわざ煽り立てるようなことを言ってきているんだろう。

翌日。寒さに震えながら目を覚ますと、船にもうけられた簡易のブリーフィングルームへと向かった。

いつもなら俺が先に部屋にいるのに、今日に限って服部のやつが部屋にいた。壁が錆ついていることもあって、照明が一つしかない部屋は思っている以上に暗く見える。そんな部屋に一人待っている服部は、らしいなど持ち合わせてはいないといった表のまま、俺がくるとすぐさま最後の訓練を行うと短く告げた。

容は、今から連れていく場所から始まって、ロシアはモスクワまでたどり著けというものだった。やはり……。予想していた通り、外國が終著地だったのだ。

また、そこにたどり著くまでの手段は問わない。ただし、途中にある中継地點を通過しなければならず、制限時間がつけられていた。それも八十時間以という苛酷なものだった。

そう告げられたあと、すぐさまボートに乗るよう命令される。甲板の橫に取り付けられたボートは調査用の小さなものだが、きちんとモーターがついており、これなら多の波でも大丈夫だろう。

俺がボートに乗ると、服部もそれに続いた。タンカーはこのままノルウェー南部の、デンマークに近い港まで行くらしい。

現在もノルウェーの南部に近い位置になるようだが、これは俺を乗せてあるボートの燃料などを考慮してのことなんだろう。この教たちが俺のために、陸地に近い場所まで送ったとは考えられない。

ボートが降ろされ、ヨーロッパの大地に向かってボートはモーターのうねる音とともにき出した。十月も終わりとなると、海の上には流氷もちらほら見けられる。きっと、あと一、二週間もすればたちまち一面が流氷に占拠されることだろう。

波しぶきと風によって顔の表面が凍るように冷たい。十五分もすると冷たさを通り越して、痛くなってきた。それは服部とて同じはずだが、スピードが緩まる気配はない。

だがそれも後しの辛抱だ。もう目の前まで陸が迫っている。すると、そこでボートが停止した。

「よし、ここだ。おまえはここから泳いで陸までいけ」

服部の言葉に靜かに頷く。船をおりる前にダイビングスーツを著ていたのでここまでは風を遮ってくれたが、ここからは海に潛らなければならない。

海面の溫度は、流氷が現れ始めていることから考えても零度近いだろう。あるいはそれ以下ということもありうる。海面溫度がどれくらいかは知らないが、とにかくとんでもなく冷たいのは間違いない。

時間を合わせて頷いた俺は、服部のほうに顔をむける。

「時間をあわせたな? 今、ちょうど朝の八時だ。このGPSの時計で、三日後の夕方四時がタイムリミットだ。時差が二時間あるから、現地時間の午後六時までにつくんだ、いいな。

ではミッション開始だ」

こうして服部の短いコールで最後の訓練、いや、卒業試験ともいえるミッションが始まった。

タンカーの中で必要なものをまとめていれてある防水袋を背にしょい込み、ボートから海に腳からゆっくりとつかっていく。いくら急いでいるとはいえ、いきなり海中に飛び込むのはよくない。なんせ表面の溫度は、水が氷になってもおかしくないほどなのだ。

海水にをひたすと、がとんでもなく冷え込み始めた。直接、水がれないのが唯一の救いだろう。

陸までは、目測でおよそニキロといったところだろうか。もっとないかもしれないが、とにかく早く陸にあがりたい一心で俺は泳ぎはじめた。泳ぎだせば自然とが暖められる。ならば、ここは早く泳ぎきってしまった方がいい。

俺はまず、慣らすように平泳ぎからはじめ、が溫まってきたころで、一気にクロールへ切り替えた。

直に海水がれている顔が、だんだんとかじかんでくる。だが、今はそんなことを気にしてはいられない。とにかく一秒でも早く、この冷たい海から上がりたい一心だったのだ。

時折、陸を確認しながら泳いでいるうちに、足が地面につくあたりにまで泳ぐことができた。そこからは泳ぐのをやめて、水を掻くように走った。

海から上がると俺は、近くの巖場までいって防水袋にっている著替えを取り出し、ダイビングスーツを素早くぎすてて著替える。

北歐人らしい、厚手クリームをしたのタートルネックになったセーターと、やはりやや厚手のブルージーンズ、足にはブーツという服裝で、中にはシャツを重ね著して著込んでいる。これで寒くないわけではないがいているあいだは、吹雪にでもならない限り寒さに凍える心配はない。

防水袋から、他にも必要なものをすべて取り出した。というよりも、袋にはサックがそのまま詰められていて、サックには必要なものをすべてれてあるのだ。後はGPSだ。

服部から至急されたGPSで、現在地を確認する。どうやら、ここら一帯には街らしい街はないようで、街までは五キロは行かなければならないらしい。

俺は進むべき方向を頭に叩きいれ、GPSをサックの中にしまった。サックをしょうと、すぐに移を開始した。時間は有限だ。こんなところで、まごまごしているわけにはいかない。

まず目の前の巖壁を登って、登頂部にあった針葉樹の林を抜ける。抜けた先は急勾配になっていて、上りよりも気をつけて下りなければならず、慎重に崖を下った。

崖を下りきると目の前には、一面雪の平原が広がっている。誰一人、いや、獣すら通った跡が見えないほど、綺麗に積もっていた。昨晩はさぞかし吹雪になっていたことだろう。

今日はこの地域としては暖かい朝なのか、雪は降っていないが空を見上げれば灰にどんよりとしていて、今にも雪が降り出してきてもおかしくなさそうな天気だ。

その前兆からか、雪原を進んでいるうちに、先ほどよりもぐっと冷え込んでじる。やはり街についたら、コートも調達した方が良さそうだ。

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