《いつか見た夢》第66章
「ん……」
肩を摑まれて、を揺さぶられている覚に目を覚ます。どうやら寢てしまっていたようだ。
「おい、そろそろ國境だぜ」
「ああ、そうなのか。すまなかったな」
トラックの運転手に起こされ、辺りを確認した。相変わらず一面の雪景だ。今俺は、フィンランドとロシアの國境付近にいる。
ノルウェーでオスロまで出た俺は、いったんは、そこからは鉄道ではなく飛行機で行くことにしたのだ。パスポートなどないが、海外の國は、日本ほど出國が難しくないと、教たちから聞いていたのを思い出し、なんとか作業員にでもり済まして、飛行機に乗ったところで乗客に紛れようと考えたのだ。事実このやり方で、出國を繰り返していた人がいるんだそうだ。
しかし、當然ながらそんな楽は認められなかった。どういうわけか、鉄道を降りて、決して多くない金額のドル札を換金し終え、銀行を出て空港に向かおうとしたところ、突然、警察に追われることになったのだ。コートも著ているし、手元にはサックも持っている。明らかに海外からの旅行者の恰好になっているはずの俺に、なぜ警察が……。
考えるまでもない、あの鬼教どもの仕業に決まっている。おそらく、今國者がいるとでも通報したんだろう。それはようするに、警察も撒けないやつなど工作員として必要はない、こういった思があるに違いない。
忌ま忌ましい気分で、俺は人込みに紛れて行方をくらました。そこで急遽、飛行機をやめて鉄道で移することにしたのだ。
まず無料のネット閲覧所で鉄道の宿舎と時刻表を調べ、宿舎に赴いた。何食わぬ顔で裏口からって、ロッカールームにる。適當なロッカーから鉄道作業員の服を拝借し、素早く著込んだ。
鉄道作業するふりをして、鉄道の中に潛り込む。できれば客席がいいが、わりと高級仕様の列車であったため、そういうわけにもいかない。客席にいれば、すぐにばれてしまう。自由席があったにしても、どのみち無賃乗車であるのがばれれば、時間をロスしかねない。
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そこで、変わりに貨車にをすべりこませた。列車は國境を超えて、スウェーデンとフィンランドの國境近くまで行くというのは調べてある。
その間、寒さに凍えないためにも、作業服は著たままにしておく。なんせ貨の中は真っ暗なのだ。當然、中は暖房などついているわけではないのだから、しでも溫かくするためにも、そうすることにしたというわけだ。
それと、二食分の攜帯食料品も買い込んでおいた。後は見つかることなく、終點の駅まで行けることを祈るだけだ。
そんなわけで、なんとかフィンランドの國境に近い場所にまできた。GPSの機能で現在地に日付と時間を確認すると、ここが間違いなく終點の駅であることがわかる。後は國境を二回越えればいいわけだが、うまくいくか、まだ安心はできない。時間も、ノルウェーに上陸してからすでに二十五時間が経過している。
それでもここまでは比較的スムーズに來れたはずだ。終點についたのを列車のきと音で確認し、貨車の上部にある天窓のようなものを引きあけた。
あけた途端、中に雪がひとつふたつ降り込んでくる。どうやら、外は雪が降っているらしい。
昨日のノルウェーに比べると、いくらか暖かい気がしなくもない。やはりバルト海の上にあるボスニア灣という海があるせいだろう。
オスロは、北極海からの冷たい風が吹きつけてくるわけだから、この辺りは、たとえ緯度がオスロより高い地域であっても、海からの風の影響で暖かいのだ。
おまけにスウェーデンという國は、隣のノルウェーとの國境に山脈があるのも忘れてはならない。この山脈が北極海からの、冷たい風を防いでくれているというわけだ。
天窓らしきところから頭を出すと、すでに列車は止まっている。となると乗客はもうみんな降りているだろう。ここは、列車が整備をけるための場所で、貨などの荷下ろしも行う場所でもある。
幸か不幸か人の姿は見けられないが、そのせいなのか、ここがまるで列車墓場みたいに思えてくる。俺は肩をすくめて天窓からをのりだし、コンテナの上に出た。
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作業服はその場にぎ捨て、足早にここを去ることにする。ノルウェー上陸以來、軽い攜帯食しか口にしていないので、何か腹にいれたいところだ。
「気をつけていけよ、坊主」
俺をトラックから下ろした荒くれ者らしいトラックの運転手は、一言そういうと、すぐさま道なき道で折り返して、また元きた道を戻っていった。
あの運転手とは、スウェーデンのフィンランド國境付近の街で出會った。丸一日以上何も食べていなかった俺は、街の薄汚い、いかにも北歐の寂れた街の食堂らしいレストランで食事をしていた時に出會うことになった。
最初は地元の人間かと思っていたが、カウンターのバーテンと話しているのをよくよく耳をすましてみると、どうも、片言ながら英語を話しているようだった。つまり、外國人ということだ。
見るからに、野で荒くれ者らしい雰囲気を持った男にそれとなく話しかけてみたところ、彼はフィンランド人だった。資を運ぶ仕事をしているという男に、ロシアの國境あたりまで行けないかと頼みこんでみたところ、二言返事で了承してくれた。
以前、北歐、それも特にフィンランド人は、日本人にとても親切だと聞いたことがあるが、たしかにその通りだった。なぜかと聞いてみると、かつて二十世紀の初め頃にロシアからの獨立を宣言したフィンランドは、ロシアと戦って勝ったという歴史をもつ日本にとても親近を覚えるから、らしい。いわゆる、日戦爭として知られるものだ。
このおかげとあってか、わざわざフィンランド國へのパスまでなら、なんとかしてくれるという話になったのだ。なんともありがたい話だ。ここは利用できるものならなんでも使えという、鬼教どもの言葉に忠実になってやろうではないか。
それにもう試験の殘り時間は、後三十時間しかない。
フィンランド越えは意外なほど簡単にうまくいった。渓谷沿いに橫斷する形で乗り切ることができたのだ。さすがの國境警備隊も、一人の人間を見つけるのは困難だろうと踏んだのだ。
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ましてや俺は、まだ顔も割れてない新人工作員だ。それにロシアには、アジア系の顔立ちをした人間はなくないときく。なんとか街にまで行くことができれば、格段怪しまれはしないはずだ。
しかしそうして油斷していたのが失敗だったのか、GPSで街を目指すために確認していたところを、國境警備隊に見つかってしまったのだ。街まではあと、ほんのニキロかそこらだったというのに。
たまたま影から出た俺に、突然のライトアップがなされた。おまけにロシア語で、止まれ、止まらないと撃つと警告するが連中は間いれず、銃をぶっ放してくる。もちろん、威嚇撃などではない。初めから本気で撃ってきている。
多分、連中は話に聞いていた、FSBの國境警備隊に違いない。FSBはロシア連邦保安庁の略で、ソ連時代の舊KGBの後続機関だったはずだ。
舊ソ連解後、當然KGBも解され、いくつかの機関に分裂した。しかし、組織そのものの制自は、名前を変えて保持された。それがFSBとSVR、ロシア対外報庁と呼ばれる二つの諜報機関だ。
FSBはロシアにおける現KGBであり、獨立國家共同(CIS)においてのみ活する諜報機関で、SVRはその名の通り、國家共同以外の全世界をにかけた諜報機関だ。國境警備隊は解時は獨立した機関だったが、現在ではFSBの管理下にはいっていりはずだ。
なんのことはない。これらの舊KGBの上層部は丸々FSBに以降しているわけだから、そもそもが組織としてはなんの変わりはない。
そして連中はそのFSBの連中だろう。こんな場所に派遣されているのだから、とんだ田舎FSBだとは思うが悠長なことはいっていられない。連中の目標が俺である事実に変わりはないのだから、とにかくなんとかして生き殘らなければ、これまでのことが全て水に流れてしまう。
まだ十月の終わりだと聞いてはいても、この辺りはすでに日本では真冬の、それも極寒の寒さといってもいい。當然、一面は雪が積もっていて移しにくい。雪の地面に、銃弾が撃ち込まれて氷が弾けとぶ。
連中はどうやらスノーモービルに乗っているらしい。俺は雪がくぼんで、向こうに隠れることができそうな場所を見つけて飛び込んだ。しょっていたサックから、手早く銃を抜き取る。映畫やなんかで、もっとも知られた形であるベレッタだ。
思いの外、撃訓練においても絶賛された撃の腕を、ここで披してやるつもりだ。
一呼吸して影からを乗り出して、奴らに向かって撃つ。すぐさま、またを隠した。
相手はスノーモービル二臺それぞれに二人が乗っていて、運転手の後ろには撃手がいた。
相手がいているので、いくら撃の腕がよくてもなかなか當たらない。だが、連中の位置くらいは確認できた。俺を挾むようにして後方三十メートルほどの地點だ。
俺はまず左側の連中を狙うべく、からを出して引き金を引いた。すぐに一臺のスノーモービルは舵がきかなくなって橫転した。運転手を狙ったためだ。
二度三度と発された弾丸は、最低でも一発は當たったことになる。初めての実戦としては悪くないのではと自畫自賛してみたくなる。
橫転したため狙撃手もそれに巻き込まれ、これで事実上、敵はあと二人になった。仲間がやられたせいで、連中の攻撃に怯みをじた俺は、右側を走るもう一臺のスノーモービルに向かって三発の弾を撃ち込んだ。
しかし當たらない。すぐにに隠れて一呼吸つく。
その間に、連中の攻撃が始まった。そして隠れていた影の橫を、スノーモービルがり抜けていく。
攻撃手がり抜けざまに、俺のほうに向かって小型のマシンガンの銃口をむけている。
やられる……。瞬間、そう思ったが銃弾は幸運にも、すぐ脇や足元にぶち當たるだけで當たらなかった。向こうも移しているという條件は変わらない。狙いが定めやすいのは有利だろうが、度はやはり個々の技によるところが大きい。
こうなると俺のほうが有利になるというもので、攻撃が一旦やむと、すぐに反撃した。俺の前をいってやや背を向けている攻撃手に狙いを定め、一気に引き金を三回引いた。
直後に攻撃手が地面に倒れ、一瞬なにが起こったのか分からなさそうに後ろを確認した運転手にも、続けざまに弾丸をぶち込む。
するとスノーモービルは先にあった大木にぶつかり、運転手もその木に強くをぶつけてしまった。どうやら、撃った弾はきちんと當たっていたようだ。
ピクリともしていなくなった連中を見ると、なんとか撃退することができたみたいだ。俺は大きく息を吐き、近くに倒れている奴のそばまで歩みよった。背中からは大量のが流れ、手にしたマシンガンからは指が力無く開いていた。
先に撃退したほうも見やれば、運転手は俺の銃弾によって倒れ、攻撃手は乗っていたスノーモービルの下敷きになっていた。
殺しだ……。脳裏に、この二文字が思い浮かんだ。
生まれて初めての殺人になんとも言い難い、ぬめるような嫌な気分が全を包んだ。仕方なかったとはいえ、嫌なものは嫌に決まっている。気付けば俺は顔を強くしかめていていた。
普通の反応であれば、ここらで全が震えたりするのかとも思った。なのに俺は、できあがった四つの死を前にしても、早く次の行に移したほうがいいなどと、冷靜にを考えていて、あまり揺していなかったことに、俺は一番驚いていた。
運転するスノーモービルの、雪をる音が耳にうるさく響く。モスクワまで、後二十數時間で著かなければならないなか、予期せぬ足ができたおかげで、しばかり時間的な余裕ができた。
FSBの國境警備隊の連中から奪ったスノーモービルで俺は、街にまで降りてくることができたのだ。初めのうちは慣れない縦に四苦八苦したスノーモービルだが、コツをつかむと一気に渓谷をくだったのだ。
ついでに、連中から制服と防寒を剝ぎ取るのも忘れない。他にも連中から拳銃と弾薬の補充もできたし、街では制服をちらつかせ理由をつけて燃料の補給もできた。國境警備隊に見つかった時は焦ったが結果としては、なかなかにいい方向へ傾いてきているかもしれない。
ロシアはまず國境の田舎街から大都市である、ロシア第二の都市、サンクトペテルブルグへとった。ここは中継地點として通過しなければならないということもあって、いくらか気が楽になった。街にある指定場所には、組織の一員がいるらしいためである。
途中、街にる手前でスノーモービルは乗り捨て、車を頂戴することにした。この國ではヒッチハイクはできないのは聞いていたので、どうせならと民家に忍びこんだのだ。住人は留守だったのか、俺が車をかした音にも家屋から出てくる気配はなかった。
しばらくは田舎道になるが街にまでれば、雪の道でもタイヤの跡が殘ることはない。
そうして中継地點であるサンクトペテルブルグの街にった俺は、組織の人間がいるという目新しいビル街の一畫へとはいった。
車をビルの前に置いて、正面から堂々と中にっていく。この時期、気溫はすでに真晝どきに一日快晴でも、摂氏五度か六度になるかどうかのサンクトペテルブルグの街において、ビルの中はセーターを著ているだけで汗が出そうになるくらい暖かかった。
ここは街のやや中央に位置するオフィスビルで、ここで俺は組織から通行許可証なるものを貰うことになっている。きっちりとここを中継して通過したという証明書なんだろう。
「すまないが、ドミトリー・ボーリンを呼んでくれないか」
け付けロビーでドミトリー・ボーリンなる人を呼び出した。この人が伝えられていた、組織の連絡員になる。組織も巧妙にできていて、世界のいたる都市にこういった現場の工作員のサポートをするようになっているらしい。
車の中で、防寒や制服はいでいるので上陸したとき同様、セーターにジーンズの裝いだ。周りはほとんどがスーツを著ている人間ばかりなせいか、ラフな恰好の俺はずいぶん目立っているが仕方ない。有り合わせの金もほとんどないのだ。
しかし、ほとんどがスーツを著ていても、中にはごくわずかに私服を著ている者もいるので、特にあやしまれることはないはずだ。まぁ、何が目立つかといえば、俺が東洋人らしい顔立ちをしていることが一番だろうが。
大理石でできた巨大な円柱に背をもたせかけ、ボーリンが降りてくるのを待つ。ここなら、ホール全を見渡すことができるので、俺に近づいてくる人間はすぐ判る。おまけに石柱の後ろは壁で、付近には通路もない。
不思議とこうして待っていると、妙に張してしまうのはなぜだろう。なにかやましいことがある時なんかは特にだ。まさか、つい何時間か前、國境付近で警備隊連中を片付けてやったのが早くもFSBに勘づかれてしまった……なんていうのはあるだろうか。
そんな不吉な考えを巡らせていると、ビジネスマン風のスーツを著込んだ男が、足早に近づいて來て、英語で聲をかけられた。
「おまえがクキか」
「ああ。そういうあんたがドミトリー・ボーリンだな」
頷きながらこちらも英語で聞き返すと、男もコクリと頷いた。男が握手を求めてきたので、俺も握りかえす。すると手の平に妙な覚があった。
「ここまではなかなか順調だな。時間までにモスクワの赤の広場に行け。そこにいる人に到著の報告をしたら訓練は終了だ」
「待ちなよ。その人ってのは誰なんだ」
當然の疑問に、ボーリンはただをニヤリとさせただけだった。一なんだというのだ。
「急げ、あと二十時間をきった」
確かになるべく早く行をおこしたほうがいいのは間違いないが、會う相手が分からないのもまた考えものだ。しかしボーリンの一方的な會話はそれで終わり、俺に早く行くよう顎を使ってジェスチャーしてみせた。
俺はため息を一つはいて、すぐに歩きだした。こうなった以上は、何を聞いても無駄だろう。まだ訓練中なのだからこのていどのサバイバルくらいは、自分でなんとかしろと言っているのかもしれない。
それに今しがた手渡されたものも気になる。
寒い荒涼とした平原に俺は一人草むらにをかくして、ひたすら列車がくるのを待っていた。防寒は著ているが、じっとしていると凍えるような寒さにじる。
すで日は暮れて、あたりは暗闇となっていて、空気は急激に冷え込んできているため吐く息は白い。口で息をすると冷たくなった空気がを痛め付けるので、なるべく鼻で息をしていた。
一刻も早く、列車に乗らないとならない。指令というのもあるが、気分的には早く暖まりたいというのが正直なところだ。
ボーリンと別れた俺は、車の中に戻って手渡された紙に目をやった。カラープリントされた厚紙で、書かれていたのは、はしり書きされた指令書らしいものだったのだ。
それによると、まずサンクトペテルブルグ郊外にある駅から列車に乗り、モスクワにる前までに下車しろとのことだった。その間に面倒が起こった場合は、すみやかにそれを排除するようにと添え書きもされていた。
俺はエンジンをかけ、サンクトペテルブルグの駅まで飛ばした。途中、危うく事故ってしまいそうになって、何臺かからクラクションを鳴らされたが気にしない。殘り時間があと四分の一をきってしまっていることを考えると、悠長なことはやっていられない。
ボーリンのいたビルから車で走ること約十分、サンクトペテルブルグの駅についた。駅に行って、時刻表を手にれておいたほうがいいと踏んだのだ。
どうせなら、サンクトペテルブルグ駅から列車に乗ってしまいたいがどういうわけか、そういうわけにはいかないらしい。指令書には、サンクトペテルブルグの郊外から乗らないといけないと書かれているのだ。
だが、その問題はすぐに氷解した。駅で時刻表を手にれた俺は、モスクワに時間以にるには、次の列車に乗らなければならないことに気付いた。と同時に、その列車にはVIPが乗ることになり、列車が貸し切りになっているということも、たまたま話していた作業員の話からわかったのだ。
しかもそのVIPとは、どうもロシアの政黨局員らしいとのことだった。政黨局員という、ロシア一億五千萬人の頂點に立つ人間の一人なのだから、何かしらの権力を握っている人ということになる。
そんな人が乗る列車となれば、警備はかなり厳重になる。なにより俺が頭を痛めた問題は、連中以外の乗客はいないということだった。貸し切りなのだから仕方ないといえば仕方ないが、この列車に乗らなければ時間に著くことはできそうもない。
指令なんぞ破棄してやりたいものだが、今そんな大膽なことをしてしまえば、同業の先輩たちが俺を始末にくることになるので、命令を無視するわけにはいかない。
……そうか、つまりこの指令書は訓練をかねているだけで、実質的な俺の初仕事というわけだ。面倒がおこった場合は排除すべきとは書かれているが、ようするにこれは起こるべくして起こるものだから、対象を始末しろといっているのだ。
とてもじゃないが、訓練だからといってこうも都合よく、乗らなければならない列車に世界のおよそ半分を牛耳る組織の一員が乗っているはずがない。もちろん、元々は別の誰かがこの任務につくはずだった可能も考えられなくはない。訓練と稱してこの辺りに時間通りに現れたから、ついでに俺に試させようとしている可能だってある。
どのみち、俺としては迷な話であることは変わりないし、どうにかして乗り越えなくてはならないことであるのは揺るぎようがないのは確かだ。
そんなわけで、こんな寒々しい場所に一人いるわけだ。
車はもう必要がないので、近くの川に突っ込ませて捨てた。薄汚れた水をしている川だ。泥があちこちった箇所を綺麗に拭い去ってくれるだろう。指紋なんかでアシがつくなんて、仮にも工作員としてあまりにも馬鹿らしい話だ。
そうしているうちに、左のほうからカタタンと列車の來る音が聞こえてきた。幸いにも、今の時刻は夜の九時を過ぎていて、すでに周りのものが見えなくなっている。
(來い……早く來るんだ)
寒さとはやる気持ちを抑えながら、遠くから響く列車の音に耳をかたむける。するとついに、遠目に列車の姿が見えた。
列車の中からは逆になってこちらの姿は見えにくいはずだ。連中に気付かれることはないにしても、問題はいかにしてうまく列車に乗り込むかだ。
列車の向かってくる先には駅がある。今しずつ加速し始めたといったところで、俺のいる地點にくるころには時速五十キロ近くにはなっているはすだ。
轢死した自分を想像して、かぶりを振った。鉄の塊にしがみつこうとするのだから、ほんの一瞬の判斷が命取りになりかねない。
それでも乗り込まないわけにもいかない。なんせ列車に乗り込まなければ、後にも先にも死がまっているだけなのだ。
なにより、今はまだ死ぬわけにはいかないと決めた俺だ。とにかくやるしかない。どっちみちやらなければ死ぬのは確実であるなら、やるだけやったほうがいいに決まっている。
「……きた」
目の前まで、あとほんの二、三十メートルだ。失敗は許されない。俺は張から、ゴクリと生唾をのんだ。
列車が半分ほどすぎた時、俺はいた。線路は、日本のものと比べて盛り上げられておらず、地面にそのまま枕木がおかれたうえにレールが敷かれている。
日本の場合は、安全などを考えたうえで線路が造られているらしいが、ヨーロッパやアメリカの大陸橫斷鉄道は地面に直に枕木とレールを敷く。これはたんに経済効率のためだ。
日本は國土のわりに非常に鉄道が発達しているが海外では、さほど鉄道に移手段の比重がおかれていないため、こういった手段が用いられている。移手段に鉄道を使うのは、せいぜい大都市に住んでいる人間だけだ。日本なら都市圏に住む人間も使うだろうが。
また、日本の場合はヨーロッパやアメリカなどからみると、地盤がゆるいという避けがたい地質的な理由があるため、地震による多の揺れからは避けられることもできると聞いた。たしかに直にレールを敷くよりは、石を使って盛り上がらせたうえにレールをしくほうが、地震による揺れの伝達が拡散されるのは間違いない。
俺の目と鼻の先を、列車がモスクワに向かって加速していっている。ぶつからないよう、うまいこと列車に乗り込まなければならない。
列車に合わせて走りだした俺に、列車は構うことなくスピードがあがる。一番後ろはなるべく行きたくない。というのも、後ろには警備の連中がでばっている可能が高いためだ。できれば、その手前までに乗り込めるのが理想だ。
走りながら後ろを振り向くと、列車への乗車口が見えた。あそこにしよう。いや、あそこで乗れなければ、もう列車には乗り込めない。
乗車口が目の前にくる瞬間、手をばしてジャンプした。ばしたさきにある手摺りを摑む。速くいているものにつかまった衝撃で、腕や肩の骨と間接がきしむ音がした。
足はかろうじて列車の車にへばりつくことができた程度で、とても不安定だ。このままでは落ちてしまう。
もちろん、その間にもぐんぐんスピードはあがっている。もう時速七十キロは確実に出ているだろう。
「くっ」
手摺りを摑んでいる手からは汗のためか、もしかしたら溶けた雪かもしれないが、しずつ確実に、ずるずるとが落ち始めてきていた。
(まずい。今落ちたら……)
落ちたあと轢死した自分を想像してしまい、手に渾の力をこめて手摺りを改めて握った。
足をなんとかしてかけられそうなところを探すが見當たらない。せめて、乗車口が開いていれば……。
そう、乗り込もうとしたそこの扉が開いてさえいれば、なんとかなりそうなじなのだ。
どうにかして扉を開けられないだろうか。列車はさらに速度をあげていて、時速百キロには確実に達しているだろう。
に吹き付ける風も、先ほどまでとは比べものにならない。おかげで、またも手が手摺りから引き離されようとしている。
なんとか、なんとか扉に手をやるんだ……なんとか……。
車からギシリと嫌な音がした。よくよく見れば、車の壁はところどころ老朽化していて、なにかの拍子で壁に強い衝撃があろうものなら、そこが砕けてでも開きそうになっているのだ。全く、これだからロシア製のものは……。
心で毒づき、車にをへばりつかせる。しかし風のせいで、徐々にが落ち始めた。
このままでは無駄に力を消耗してしまうだけだ。一刻も早く扉に手をかけなければならない。今はまだいいが、この先トンネルがないとも言い切れない。トンネルを通過するさいは、とんでもない風圧になるはずだ。もしこのままトンネルにってしまえば、確実に落ちて死ぬだろう。
再び、ギシリと嫌な音がする。おまけに今度は先ほどよりも響く音が大きく、摑んでいる手摺りあたりから音がしたのだ。もしかするとこの手摺り、俺の重を支え切れなくなっているほどに老朽化しているというのか。
くそ、なんということだ……どうすれば。
その時だ。なんと扉の向こうからカチャカチャと、こちらを開けようとしている音がしたのだ。
扉は外に向かって開くタイプなので、扉が開きさえすれば、うまいことしがみつくことができるはずだ。
ガチャリと音がし、扉が開かれる。俺は全をバネのようにして扉に跳び移る。その瞬間、扉の向こうにいる奴の手を摑むのも忘れない。
「!?」
摑んだ手を引っ張り、中の奴を外に落とす。落ちる瞬間、そいつの顔が見れた。三十代くらいと思われるFSBの制服をきた男だった。摑まれた奴は、何が起きたのか訳もわからずにいたことだろう。
扉は風をそのままけているので、勝手に閉まることはない。俺は用に扉の側にある取っ手を右手で摑む。さらに左手は扉の上のふちを摑んだ。これでいい。先ほどまでとは段違いに楽になった。
側から右手を上部のふちにやって、なんとかへばり付かせていた足を離した。扉にぶら下がった狀態だ。
左手をのほうに向かって、右手より側に一瞬でかした。次に右手をしずつ車のほうに向かってかしていく。
右手がこれ以上かせないところにまできたら、まだ外側から扉を摑んでいる左手を一瞬はなし、そのまま側から摑んだ。これで全が扉側にぶら下がった狀態だ。
左足を取っ手にかけ、勢いをつけて車に飛び込む。なんともぶざまな乗車だが、こうしてなんとか列車の中にることができた。
「はぁっ、はぁっ……」
自分のものとは思えないほど息が荒い。それも當然だろう、列車に乗るのにこんなに命懸けだったことなど、いまだかつて一度だってないのだ。できれば今後は、二度とこんな乗車はしたくない。
ともかく、列車に乗り込んだのだから仕事をすませなくてはならないわけだが、ターゲットがどこにいるのかはさっぱり分からない。
それと、今しがた引っ張り落としたFSBの制服を著込んだ奴がいたことから考えると、乗っているVIPとは、FSBの高かもしれない。FSBの高ともなれば、場合によっては他の権力者にとって打倒すべき政敵であることも、十分考えられる。
連中の権力抗爭になどこれっぽっちの興味もない俺だが、仕事である以上は片付けるしかない。それに権力者を始末するなんて機會は、こんな職にでもつかなければ、まず得られるものではない。
ここは、世界中の一庶民にして、連中からしたらただの働き蟻たちの代表として、時に蟻も牙を剝くんだというのを思い知らせてやる。蟻とはいっても、軍隊蟻とよばれる、獰猛な蟻だって存在するわけだから。
もっとも獰猛な軍隊蟻はときに、大型の食獣を襲うことすらあるという。軍隊蟻はアリ科の蟻の中でもとりわけ大きく、その數は何十萬とも何百萬とも言われるほどの蟻が襲ってくるという話だから、襲われでもしたら一たまりもないだろう。
だから一人くらい、権力者という貪な食獣を襲う蟻がいたっていい……そう考えると、なぜだか舌なめずりしている自分に気がついた。俺は苦笑しながら、かぶりを振った。
狀況こそ違えど、これはまるでガキの頃の再現だ。沙彌佳を守ろうとして発した小學生の頃を思い出したのだ。
あの時はがき大將とその取り巻きが相手だったが今回は違う。一國の、それも大別して、世界を二分するほどの大國の権力者が相手なのだ。
だというのに俺はどういうわけか、奧底から滲みでてくる暗い愉悅にを焦がしていたのだ。
俺は滲みでてくる暗い愉悅を振り払うように、まだ開けられたままの扉を思いきり閉めた。別に力をこめたくてこめたわけではない。こうしないと、風に重くなった扉を閉めることができなかっただけだ。
気を鎮めるために一度、大きく深呼吸する。列車の中は外にくらべると、別世界の暖かさだ。また、列車の外壁はとんだお古だというのに、裝はそこからは想像もつかなかったほど高級溢れるものだった。
どうやらこの車両は食堂車だったようで、円いテーブルの周りにみっつずつある椅子。テーブルにはきちんと白いテーブルクロスがされていて、それらが等間隔に置かれていた。テーブルの中央には花が彩りを添えている。
赤黒い、上品な絨毯が敷き詰められていて、同じようなを意識した木目の壁もよく見れば、無垢の木でできていた。窓も、枠には金で縁取ってある。いや、ほとんどのインテリアに、ことあるごとに金が縁取ってあったのだ。
ムカつくほどに、まさしく権力者向けといえるほどの裝だった。いや、ムカつくなんてものはもう通りすぎてしまって、素直にすごいと思ってしまった。
しかし、なるほど。こんな列車であれば、そうそう庶民などいれてしまいたくなどないと思うのも無理はない。
しょっているサックから、國境警備隊の連中からちょろまかしたマカロフ拳銃を取り出し、足音は立てずに素早く車両を移する。もっとも、いくら高級列車とはいっても走行中の振があるのだから、車両の隔たりもあれば、気付かれることはないだろう。
おそらく、先ほどのFSBの制服をきた奴はたまたま、移していたときに出口付近の異変に気付いたといったところだろう。まぁ、男にとっては不運だったとしかいいようがない。
マカロフを構えながら次の後方車両に移すると、どうもFSBたちの移中の詰め所ともいえそうな裝の車両にでた。幾人かのコートが座り心地のよさ気なソファーに無造作にかかっている。俺は無造作におかれたコートの數を數え、頷いた。
コートの數は六著。つまりなくとも今この列車には、運転手とターゲットとなるFSB將校ふくめ八名はいることになる。もちろん、どこだかで休憩している者がいてもおかしくない。他にも將校の護衛が二名から三名いるはずなので、しめて二十名は確実にいると考えたほうがいい。
國境付近でFSB連中からマカロフのマガジンの予備も奪ってあるし、これだけの人數がいれば、武に不自由することもない。
俺はかかっているコートから自分に合うものを一著とって著込み、さらに後方車両に移した。お次は連中の荷をまとめた車両だった。
やれやれ、こんな高級列車にこんなにまで雑に荷を放りだしているなんて信じられない。雑に扱うぶん、それだけ早くが傷むわけだから、これでは稅金が無駄に必要になるに違いない。
もちろん、これは日本だろうとアメリカだろうと同じことなので、いまさら口にすることではないが。
次の車両にきた時、車両を隔てているドアの向こうから人の聲がした。耳をすますと、連中が馬鹿笑いしている聲だった。
ドアにある小窓から中をうかがう。みんなFSBで、やはり休憩中なのか、かなりラフの恰好になっている。
普通であれば、まだ勤務中なのだからこんな楽はできないはずだが、きっと、自分達しかいないうえにモスクワまでノンストップの列車に、まさか侵者がいるなどとは夢にも思ってないのだろう。そんな経験も今までないからこそ、あんな態度でいられるのだ。
もしかしたら休憩中であるだけで、今は勤務中ではないとでもいうのだろうか。FSBともあれば、かの舊KGBにおける、仕事には忠実であれという教えにも忠実であるはずなのに。
服部からは、舊KGBの訓練はかなり苛酷だと聞いた。なんせ服部自、舊KGBの工作員から直に手ほどきをけたらしいのだ。そして、その技は俺にけ継がれたというわけだ。
中の連中の數を數えると六人。今通過した車両にあったコートの持ち主たちに違いない。連中も立場こそ違え同門であるはずだから、最低限の訓練をけている。なのにこのたらくだ。
まぁいい。なんにしたって俺には有利な狀況だ。見たところ連中は銃を攜帯してはいても、そばに置いているだけだった。今の俺なら、連中が引き金に指をそえるまでに五人は片付けられるはずだ。
それでも、張はしている。冷靜であれば五人はやれる。これは訓練のうえで服部からもお墨付きをもらえたくらいだ。問題は初めての特攻で、きちんと指が、が訓練のときみたいに正確にいてくれるかだ。
俺はゆっくりと何度か深呼吸した。大丈夫……大丈夫だ。今の俺は連中のコートを著込んでいる。一瞬くらいは油斷を與えられるはずだ。國境付近のときのことを思い出せ。俺にならできるはずだ。今までもそうだったのだ、なんとかできるはずだ。
深呼吸するあいだ、そう何度も自分に言い聞かせた。どのみちここまでくれば、なんとかしなければ結果は同じなのだから、後は自分を信じるしかないのだ。
……よし。覚悟はできた。あとはタイミングだけだ。俺は一度だけ軽く頷いて小窓から再度、中を盜み見る。手はいつでも突できるようドアノブにそえておく。ドアノブは、下にまわせばすぐにでもドアが開くようになっている。
次の瞬間、連中にまた馬鹿笑いが生まれる。
今だ。
俺は呼吸をとめ、一気にドアノブを回して突した。ドアが開ききる前に引き金を引いた。
まず右側手前の奴の頭が弾けとぶ。さらに続けざまに二、三と弾丸が飛んでいき、最初の男の隣にいた二人が同様にぶち倒れる。
異変に気付いた向かって左側の男三人が手に銃をとる。いや、とったような気配を察知したというのが正しい。
俺はそれを確認する前にはすでに、連続して二発撃っていた。その銃聲は一発にしか聞こえない。
ドアが開ききる。直前にさらにもう一発。これで五人だ。
俺はドアが開ききったと同時に、中になだれ込んだ。
幸いこの車両は、ゆったりとするための娯楽車両になっていて、を隠すには苦労しないですむ。
最後の一人も仲間がやられたせいか、ほんの二秒三秒前とはくらべものならないほどきがいい。やはり、向こうもプロということか。
ソファーにを隠し、向こうもそばにあるビリヤード臺のに隠れた。
俺はここでようやく息をはいた。全く、五人やれるかどうかだと不安になっていたのに、杞憂だったようだ。まさか本當に五人やれるとは思いもしなかった。ここは素直に、自分の反神経に謝すべきだろう。
ともあれ、このままではいられない。後の一人も早々に片付けなければならない。向こうだって、同様にそう思っているはずなのだ。
さて、どうするか……。片付けると一言でいっても、こうなるとなかなかに難しいかもしれない。なんせ、まだ向こうには援軍がいるのだ。もし、すぐ隣の車両にそいつらがいたとしたら、とても厄介になる。向こうとしても、今すぐにでもんで仲間を呼びたいに違いない。
ゴクリと生唾を飲む。早くどうにかしなければ……。
俺は一呼吸おいて、ビリヤード臺にむかって二発三発と連し、またを隠す。
すると今度は向こうがこちらに向かって迎撃する。そんな攻防を二回、三回と続けるうちに俺の肩に、相手の銃弾が弾かれる。
「くっ」
訓練で初めて弾に當たったときは、とんでもない熱さと、じゅくじゅくともずきずきともしれない痛みに悩まされたものだった。
そのせいもあってか今回は、痛みにたいしてさほど苦しめられることはなかった。経験と、現場での張によるためかもしれない。
向こうも弾をかすめていった手応え、あるいは覚ともいっていいものをじたはずだ。
俺は痛みをこらえ、それでも放さなかった銃をビリヤード臺にむける。
男が、弾をかすめた覚からか臺からをだした瞬間、俺は引き金をひいた。弾は、見事に男の元をとらえていた。
どうやら俺は、一人で六人を相手に殲滅することができたらしい。これで後は十四、五人といったところだ。
揺れる列車をさらに後方へと移した。
今になって気付いたが列車の騒音は思っている以上になかった。その変わりにドアをあけ、連結機のあたりにくるとかなりの騒音になる。この調子であれば、後方車両にいる連中には銃聲は聞こえていないだろう。
これも今更かもしれないが幸運といえるかもしれない。というのも、俺はサイレンサーもつけずに発砲していたのだ。
全く、こればかりは本當に運が良かった。サイレンサーを攜帯しているにもかかわらず、そんなことで敵にづかれることだけは願い下げだ。
次の車両は誰もいなかった。先ほどの奴が増援を呼ぼうとすることもできたはずなのにしなかったのは、たんに人がいなかったからのようだ。
そんなことを考えながら足早に車両を移すると、次の車両では今までの車両とは、あきらかに裝いが変わった。今までもなかなかに高級のあるものだったが、この車両はまさしくVIP向けというのがよく判る、そんな裝いだ。
あの船の中で鍛えられた覚が、ここのあたりにターゲットがいると告げている。無意識のうちにゴクリと生唾を飲んでいた。
先ほどは取りつけ忘れたサイレンサーをしっかりと取りつけ、今までの出口よりもさらに凝ったのある扉に手をかける。見える限りでは向こうは廊下に二人だ。
今回は一呼吸とおかずにノブを回して素早く扉を開けた。すかさず引き金を一回引き、ほんのしだけ間を開けて二回目の引き金を引く。
目の前にいた二人が聲をあげる間もなく倒れる。二人は、自分に何がおこったのか気付くことすらなかったに違いない。
自分でいうのもなんだが、ずいぶんと冷靜に対処できているような気がする。心拍音から呼吸の仕方まで落ち著いていて、これが心地良い張とでもいうのか、ほんのちょっとのことでもすぐにそれに気付くことができているのだ。
しかし、廊下にいる二人が倒されたことで、部屋の中に詰めている連中にも気付かれただろう。それでも俺は憶することなく、先ほどまでと変わらない足取りでターゲットがいると思われる部屋の前まで歩を進めた。
部屋の前まであとほんの一、二メートルのところまできたところで、部屋の中から護衛らしい男が一人現れた。
大きい。これまでのFSB連中とくらべ、とても大きくじる。それもそのはずで、長は俺よりいくらか大きいだけにすぎないのに、橫も奧行きも俺がまるまるすっぽりと収まってしまうのでは、と思えるほど筋質なつきをしていたのだ。眼はまるで、ガラス玉でもはめ込んでいるみたいにをじさせない。
出てきた男はFSBの高らしく、コートに階級を示すバッジをつけている。階級としては佐のようで、おそらくこの男が今回の作戦の指揮である可能が高い。
「ふん、鼠が忍びこむ可能があると聞いていたが、この列車に乗り込んでいるとはな。
……だがしかし、まさかこんなひよっ子とは我々も嘗められたものだ」
男は表ひとつ変えずにいう。あまりに平淡な口調に、雰囲気と見かけもあいまってか、もはやロボットみたいだ。
「あんたがボスみたいだな。悪いがここは通させてもらうぜ」
いうが早いか、男は突然右の拳を思いきり突き出してきた。
俺は半ば予想していたことであったため、拳を後ろに避け、同時に右腕めがけて蹴りを放つ。狙うのは肘だ。
だが男も黙ってはいない。蹴りを予想していたのか、肘を左手できっちりとガードしたのだ。
爪先を摑まれる前に素早く足をひく。今度は左足の蹴りが飛んでくるが、俺はこいつを簡単に避けることができた。
「ほう、俺の初撃をかわすとはなかなかやるな」
ここにきてようやく男はらしいをみせ、口元をニヤリと歪ませる。
をようやくみせた男に対し俺は、なんともいいえぬ嫌悪をじた。理由は単純だ。この男はおそらく、サディストだと思えてならなかったからだ。
初撃をなどと抜かしているが、こいつは初めから手加減していたに違いないのだ。なぜか。簡単な話だ。手加減が明らかなのは、俺という鼠をしずつ追い込んで、じわじわといたぶるやり方に他ならない。そうすることで、己の嗜によるエクスタシーを得ようとしているわけだ。全く、へどが出る。
こんな話がある。追い込まれた鼠は時に、貓の鼻面をかじりとるという。だとすれば、俺もこの目の前の巨大で、筋質の貓の鼻面を叩き潰してやろうではないか。
男は廊下に転がっている部下の死を足蹴にし、ボクサーのような軽いステップを刻んで、一気に俺との間合いを詰めてきた。
顔の橫を拳がとぶ。それを俺もぎりぎりでかわす。そしてかわした方に奴もステップでまた距離をめる。
このままではまずい。だんだんとやって來た前方の車両に向かって後退していては、いずれ本當に逃げ場がなくなってしまう。
迎撃したいところだがこうも一方的だとそうもいかない。一瞬でも攻撃の姿勢にれば、すかさずその瞬間を狙われておしまいだ。
このとき、タンカーでの訓練を思い出した。あれは確か……そう思考する俺の顔面めがけ、再び右の拳が飛んでくる。
俺は半ば無意識に振り下ろされた拳に向かって、すれすれのところでかわしつつ相手の側、懐にり込む形になりながら男の反とこちらの勢いを利用した拳を、脇腹を真橫から叩き込む。
叩き込んだ瞬間、ゴリッといった嫌な音がして拳に伝わる。
「ぐぅっ」
今まで攻撃することに関して、圧倒的有利だった男から初めて攻撃の手が止んだ。そしてすぐに男は俺から一歩、二歩と離れ、俺が打ち込んでやった左の脇腹を左手で押さえている。
愉悅に歪んでいた顔は一変していて、苦痛に耐える顔になっていた。よほどには自信があったのだろう、まさか俺にこんなにまで早く反撃されるとは思ってなかったようだ。
それを証明するように、ガラス玉みたいな眼も、信じられないとでもいいたげな目つきだ。
俺はこの機を逃すことなく、もっとも自信のある銃で決著をつけるべく、すかさずマカロフを握りなおした。
奴もそれに一瞬だが早く気付き、腰にある拳銃を取ろうとする。
が、銃の腕に自信のある俺だ。奴がグリップを握る前に、俺のマカロフからは弾が発されていた。
「……う」
そんなき聲を最期に、男は廊下に倒れた。額には直徑一センチほどの大きさの赤いができている。銃弾がFSB佐の額をぶち抜いたのだ。
倒れた後頭部からは、と脳漿をぶちまけている。
そんなものを目の當たりにしていながら俺は、ほんのしだけ顔の筋を引き攣らせただけで、気分はなおも、落ち著いたままであった。
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