《いつか見た夢》第69章
天樓群からはずれた場所にある、カフェの路上テラスでコーヒーを飲みながら俺は、反対側にある、ほんの半ブロックも離れていない場所に建っているビルをさりげなく眺めていた。
ビル自の高さは、せいぜい百メートルちょっとといったところだろう。しかし、天樓群からは離れている地區にあるためか、この辺りではかなり目立っている。
俺はコーヒーに口をつけてビルの中にっていく、いくつもの男のペアを見つめる。みな、ドレスアップして華やかな裝いで、これから、あのビルの上階であるパーティーの參加者たちだ。
そんな連中に気を向けながら、俺はある人がくるのを待っていた。時間にうるさいやつなので、そろそろくる頃のはずだが……。普段はほとんどにつけることもない腕時計に目をやれば、十八時半になる二分前だった。
それにしても、やれやれだ。俺がまさか、こんな大層なタキシードなんざ著ることになるなんて、思いもしなかった。タキシードなど一生縁のないものだと思っていたのに、人生わからないものだ。
まぁ、これも仕事のうちだ、仕方のない話だといえよう。それに縁がなかっただけで、こういった堅苦しいのもたまには悪くないかもしれない。こんな服は、こんなことでもない限り著ることがなかったのだから、いいチャンスだと思うことにしよう。
俺はそんな風に自分に言い聞かせて、二日前のことを思い出していた。アルグレンの紹介で出會った、テイラーとの一件だ。今日のことにしたって実のところ、廃人と化していたテイラーから取引の容を聞き出したことに始まる。
ドラッグのキメすぎで、記憶障害すらおこしていそうなテイラーの言い分にはしばかし不安があったが、なんとか聞き出すことに功したのだ。
「み、三日前に、港で取引したんだ。取引のな、容はま、麻薬だ」
「それはわかってる。麻薬以外に、他にもあったはずだ。これくらいの小さいケースにれられた」
俺は手で大きさを示してみせる。するとテイラーは、コクりコクりと二回頷きながら、くように言葉をつむいでいく。
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「あ、ああ、確かにあった。あれは日本から送られてきたもので、あるサンプルと、や、薬品をまぜたものだと聞いた」
「サンプル」
なるほど。やはり赤く見えたあのは、だったというわけだ。しかし、輸でサンプルを手にれようだなんて、馬鹿げた話ではある。そうしてまでしないと、手にれられないものだというのか。
「それで」
「あ、あれは、ふ、普通のじゃない。特別製なんだ」
「どういうことだ」
「わ、判らない。ただ、奇跡を起こすと」
「奇跡……」
なにやら、とたんに胡散臭い代だと思えてくるのは俺だけだろうか。まぁ、薬品をまぜたものだという話だし、そこからなんらかの化學反応をおき、それが奇跡とでも呼べる何かを引き起こした、とも考えられなくはない。はまだ、意外とブラックボックスと呼べる部分があると聞いたことがある。
有名なところでは七十年代に発見されて以降、八十年代にかけて一躍世界的に有名になったエボラウイルスだ。
フィクションの話なんかでよく見られるようになったウイルス兵は、もとを辿れば、このエボラウイルスがベースにされていることが多い。九十年代に日本で流行った、ウイルスに染してゾンビになるというゲームがあったが、あれもエボラウイルスを彷彿とさせる。
このウイルスによって引き起こされる病気は、消化や中の粘からの大量の出、常に四十度に達する発熱をおこすのが特徴で、これらの特徴を引き起こすことから、エボラ出熱と呼ばれている。その致死率は九十パーセントともいわれ、知られている限り最も兇悪な殺人ウイルスなのだ。
それでも、人の不思議とでもいうのか、染したにもかかわらず、これを自然治癒させた者がいるのも事実だ。ある研究者が彼らのを採取して分析したところ、普通のにはない反応をしめしたらしい。他に伝的にも、わずかながら突発的なパターンも確認されたという。
俺は専門家ではないから、小難しい単語やの種類などわかりようもないが、彼らのを使って実験が行われたこともあったのは確かだ。しかし、同じ型の人間にを投與しても、あるいはそのから清を造ったにしても、染者が改善することはなかったそうだ。
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つまり、このに宿る力を引き出すには、生まれもったにそのをもった本人そのものにしか、効果が得られないという結論にいたったわけだ。
そんなことからも、學を含めた伝子學の分野では、まだまだブラックボックスが存在していることがうかがえる。決して世間がいうほど、科學は萬能ではないのだ。
とにかく、あのサンプルが何かしらの効果をもったものである可能はなくもない。ただし、強い効果をもつものは必ずといっていいほど副作用をもたらすので、サンプルがその副作用を引き起こしかねない、何かを含んでいることは否めない気はする。
マフィア連中は、何か効果をもたらすかもしれないサンプルを、わざわざドラッグと一緒に輸したということになるが、ドラッグの取引が失敗したのにその話が、ほとんどといっていいほど噂されないのは、本來の目的がこのサンプルであったということを隠すための、カムフラージュだったことを示唆しているようにも思えるのだ。
末端価格でどれほどの金がくかもしれないドラッグよりも、あのサンプルのほうが価値が上だという結論に、いまいち納得をもてない俺だが狀況としては、間違いなくそう示唆しているのだ。
つまり今回の事件は、ベケットらの組織と殘り二つのうちの一つがこのサンプルをめぐって水面下で爭い、最後の一つがベケットらでなく、もう一方に手にれたサンプルを渡そうとしたところ、そいつを渡せるはずもないベケットが俺に殺しを依頼した、というものだ。
これなら、今まで與えられてきた報が一點に繋がる。ベケット自は組織として関與でなく、個人でこれらに関わったのかもしれない。だが一點だけいうと、ベケットが殺されたにもかかわらず、所屬する組織が一切いていないというのは、しばかし気にはなる。
ベケットが個人でいていたにしろ、組織だっていていたにしろ、組織のきが何もないというのはやはり気になるところだ。それとも、けない理由があるとでもいうのだろうか。それどころか、取引を邪魔だてされた他の二つの組織にしたってそうだ。何もきを見せていない。
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こうして改めて考えてみると、おかしな話ではないのか? まるで、どこからか第三者の手で、今回のことが封殺されているみたいではないか。
そしてその中心に、あのサンプルのケースだ。テイラーの言い分によれば、あれは奇跡だというが果たしてそれが意味するのはなんなのか。くしくも、連中のいざこざに巻き込まれた當事者の一人としても、こいつは知っておいたほうがいい気がしてならない。それにまだ、自分の安否が決まったわけでもないのだから。
その後も、テイラーから取引に関することを聞き出した。取引に応じて現れたのは、あの日、俺が撃ち殺した連中だったというのと、元々ベケットもあの取引に応じようとしていたという事実もあった。
なにがなんでもしかったらしいサンプルを奪取するために、俺に依頼してきたのはこれで明白になった。殺される何時間か前にベケットが見せた必死な表からも、それはうかがえる。しかし依然として、連中がなんであんなものをしがったのかは判らない。
そこで俺は、キマッていた狀態から効果が切れ始めたのか、妙な痙攣をし始めたテイラーを揺さぶった。さらにベケットと関わり合いを持っている人がいないか問い詰めたところ、チャールズ・メイヤーなる人の名を口にして、テイラーは事切れたみたいにかなくなった。
なんとか息はしているようだが、ここで醫者を呼ぶわけにもいかない。テイラーには悪いがそのまま放置して事務所を出た。
こんなことをいうのもなんだが薬漬けになるなんて、そんなのは自業自得だ。現在では誰しも、ドラッグの危険を知っているにも関わらずこの様だ。そんな自業自得のことのために、足がつくかもしれないような行為はしたくないというのが本音だ。
それに、もしこのまま逝けるならある意味で幸福といえるだろう。好きなドラッグにまみれて逝ったとあれば、きっと本にちがいない。ドラッグをやっている連中の気持ちなど知りたいとも思わないが俺は、これからそう思うようにしようと心に決めた。
テイラーの事務所を出た俺は、ロンドンのホテルに滯在しているはずの真紀を呼び出し、チャールズ・メイヤーという人を探ってほしいと伝えた。すると、小さなため息のあとし待たされ、この人が伝子學の方面では名の知れた人間であることを教えてくれた。
と同時にメイヤーは、學會の論文発表のためにバーミンガムからロンドンに出てきているとも。スケジュールでは明日、ロンドンにある商業多目的ビルでパーティーを行うことになっているという。
となると、すぐにでも行に移ろうとする俺に真紀は、今日は學會の関係者らとの懇談會なんかも控えているそうで、押しかけるには分が悪いわよと一釘してきた。
そこで真紀は、明日のパーティーのときが一番いいと言い出したのだ。というのも、パーティー自は學會とは一切関係あるものではないようで、知り合いの祝いの席であるらしい。だったらと明日、つまり今日これからそのパーティー會場にいくため、こうしてカフェで待ち合わせしているわけだ。
そして、その待ち合わせしている人は――。
「待たせたかしら」
いつものように淡々として、全く待たせたというのをなんとも思ってなさそうな口調だ。
「いいや、大して待っちゃぁないぜ、真紀」
刺のある言い方で、皮をいいながら後ろを振り向いた。
「そう。ならよかったわ」
「相変わらず時間通りだな。なんだってこんなに時間に正確なのか、今度教えてくれ」
タキシードを著た俺にたいして、真紀は見事にドレスアップしていて、一瞬だが我が目を疑ってしまった。おまけに、いつもしているはずの眼鏡は、今日は取り払われていて眼だ。眼鏡をかけてない真紀を見るのは、昔、日本にいるときにこいつの部屋に泊まったとき以來だ。
しかし今日は、その眼にはっきりとわかる、ややピンクがかったベージュのアイシャドウがひかれ、いつもはナチュラルメイクの化粧も別人かと思えるほど気合いがっている。
「……真紀?」
「なに?」
「ああ、いや。なんでもない」
ほんのごくわずかな時間といえど、まさか目を奪われただなんて口が裂けたっていえない。もしそんなことが知れたら、俺には一生ものの恥といっていい。
確かにこのは狐だが、造形自はけっして悪いわけではない。それだけに俺は、こいつの狐が気にらないのだ。人であれば、なんでも許されるなんていうのが噓だというのは、このことからも然るべきことだろう。
「……そう。だったら行きましょう」
どことなく鬱屈としたような態度で、真紀がそういった。俺はそうだなと頷きながら椅子を立って、目標のビルへと歩きだした。
「待ちなさい」
「なんだ」
歩きだしたところを突然よびとめられて、振り向いた。すると、真紀は俺の腕に手をかけてきたのだ。
「……なんだ、こいつは」
「なんだとは失禮ね。こういうときは、を男がリードするものよ」
「そんなのはわかってる。だからといって、あんたにこんなことしろだなんて頼んだ覚えはないぜ、俺は」
正論のはずだ。そもそも今日、真紀と一緒になることになったのだって、ただのり行きでしかない。
というのが、今日のパーティーは男同伴でなくてはならないということだったためだ。始めは、マーロンのところで働いているレベッカをおうとしたのだが、殘念なことに、レベッカはまだ店に來ていないので連絡をとれなかった。そのどさくさに紛れて、彼の攜帯番號を手できたのでさっそくかけてみたが音沙汰なしだった。
それで仕方なく真紀に再度、連絡をとったのだ。真紀は、いつものように一言二言いって、なにかに理由をつけるみたいにして、結局了承したのだった。
それが昨日の夜の話で、俺は早朝から街に繰り出してこのタキシードを調達した。さすがはロンドンというもので、ショップには手にりにくそうなタキシードも、種類富に取り揃えてあった。常に、客のニーズに応えようとすり姿勢には、なかなかに好がもてたものだ。
とにかく、そうなると真紀としてもきちんとしたドレスを著なければならなくなるというもので、今日の待ち合わせ場所に、きちんとくるようにと念を押さえられたのだ。
「別に男同伴だからといって、そこまでする必要はないんだ。どうせ、中にれば、俺はなるだけ早くに仕事に取り掛かるつもりだ。
同伴していた奴がいなくなると、あんたとこうしていれば逆におかしなもんだろう? 怪しまれちまうかもしれない」
「あら、一流の工作員ともあろうあなたが、一人いるだけで狼狽するの?」
メイクのせいもあるのだろう、薄く浮かべる笑いがやけに妖艶にみえる。希代の魔のとは、こういうのことをいうのかと考えてしまったほどだ。
「なんだと?」
「安心なさい。別に同伴だからといって、他人のパートナーのことまで見ている人間なんていないわ。それに、きっとあなたは私を頼ることになるはずよ。
それまでは、それらしく見せておいたほうが逆にいいわ。ほら、行くわよ」
俺に有無をいわせずに真紀は、腕を引っ張るようにして歩きだした。つられて俺も歩きだすが、なにか納得のいかないために口を開く。
「待てよ。それとこれは別だろう。なんだって、あんたと人同士みたいなことしないといけないんだ」
「細かいことは気にしないことよ。要は、あなたの仕事に支障がなければいいんでしょう? あなたの仕事のために、こうして付き合ってる私のことも考えてもらいたいわね」
そこまで言われると、もうぐうの音もでない。俺は観念してため息をついた。
「……もう勝手にしてくれ」
「ええ、そうさせてもらうわ。ほら、私の歩調に合わせて歩きなさい」
俺はもうひとつ盛大にため息をつき、仕方なしにいわれたように歩調を合わせる。もうこうなったのなら、これで通すと決めたのだ。真紀のいう通り、別に仕事に支障をきたすわけではない。
たんに真紀にこんなふうに寄り添われるのが、どうにも恥ずかしく、気が重くじられてならないだけだ。もちろん、このの狐ぶりを知っているだけにだ。
ゆったりとした歩調で進みながら、ちらりと真紀のほうを盜み見た。
シルクと思われるクリームをしたドレスは、首元から鎖骨、上元にかけてあいている。ヒールを履いているために背がいくらかびひているとはいえ、俺からは真紀のの谷間がしっかりと見えた。
下は橫が切れているため、そこから時折、足と足首を覗かせる。
それによく見れば、耳には七に輝く寶石がついたイヤリングがされている。眉と橫は肩で綺麗に切り揃えられている真っ黒な髪も、今日はどこか輝いてみえる。
全く、こいつの気合いのれようがうかがえる服裝だ。そして、いつも仏頂面をした真紀に、不覚にも目を奪われた俺がいうのだから間違いないが、きっと男の目を奪わずにはいられないだろう。
「……ねえ」
「なんだ」
気付けば、俺がほんのわずかに真紀の前をいく形で、俺達は歩いていた。
「……この恰好、どう?」
真紀にしては珍しく殊勝なこともあるようで、どこか恥ずかしげに聞いてきた。そんなこというなと言いたいところだが、さすがに気が引ける。
「馬子にも裝だな」
肩をすくめて一言そういうと、真紀はとたんに綺麗に整った眉をひそめた。
「……やっぱり、あなたにそんなことを期待するのが間違いだったわ」
「悪かったね、期待外れで。でも、別にいいだろう。所詮は形だけなんだ。
もし俺が、噓でもあんたを褒めるようなことをいえるような奴であれば、こんな人生、歩んでなんかない」
小さく吐き捨てるようにそう口にした。真紀との腐れ縁に、いまさらロマンスなんざじるはずもないのだから、仕方のない話だ。
それにもし、もしの話だが、このまま真紀と人生をともにするとなれば、とてもじゃないが気が気ではなくなるというものだ。仕事の上ではそれなりに上手くいっているにしても、プライベートではいかがなものかというのが正直なところではある。
それと何故かと聞かれて、はっきりとした理由をいえないのが辛いところだが、真紀のことは、どうにも異として見れないのだ。個人的には、真紀は俺の観というものからすると、どうも苦手で、一緒にいたくないと思えるタイプの人種だとしかいえない。
いわゆる、永遠の平行線とでもいえるようなやつなのだ。きっと真紀もそう思っているはずだ。もし俺が真紀の立場なら、絶対に俺みたいな人間と一緒になんかなりたくない。
「あなたは今の人生が嫌なの?」
「好きとか嫌いってのとはし違うな。だが、あえていえば、今は好きとは言い難いかもな。
俺は好きで人を殺すようになったわけじゃぁないんだ。できるものなら、時間を巻き戻せたらと思うタイプの人間なんでね」
「そう。あなたって、意外とネガティブなのね」
「格段、そういうタイプでもないさ。だけど、どうしてもそう思いたくなることがあるんだ。あの時、違う選択をしていたらと、夢にさえ見ることすらあるからな。
それでも、そのしがらみから抜け出すわけにもいかないからな。結局、またこんな人生を生きるしかないってことになるわけだ。ネガティブというより、現実的にものを考えた結果だろうさ」
真紀は何かいいたげにしていたがそれを口にすることはできなかった。ビルにったところで、ドアマンに呼び止められたためだ。
「失禮ですが、紹介狀をご提示いただけないでしょうか」
ドアマンがそんなことをいってきたため、一瞬どうするかひやりとしたところ、隣の真紀がすぐに切り返した。
「待ってくださる?」
そういって、手提げバッグから一枚の紙を取り出し、ドアマンに渡した。ドアマンは渡された紙を一瞥したあと、その紙を真紀に戻す。
「失禮いたしました。ではどうぞ、あちらへ」
ドアマンがエレベーターホールのほうを指し示した。
「エレベーターで二十四階へどうぞ」
「ありがとう」
優雅な立ち居振る舞いで、真紀はドアマンをあしらった。まるで本當に、どこだかのセレブにでもなったように思える振る舞いだ。俺はエレベーターホールに向かう途中、そんな真紀に向かっていった。
「……あんた、最初から知っていたな。必要になるって、こういうことだったのか」
「ふふ。もし私がいなかったら、あなた、門前払いだったわよ」
俺はなにも言わず、ただ、ため息をついただけだった。こういうのが真紀の有能なところであり、俺の癪に障るところでもある。
別に有能なが嫌いというわけではない。むしろ、知的なタイプのは好みの部類といってもいいが、どうしてか、真紀みたいなタイプだけは好きになれない。生理的にけ付けないというのはこういうことなのかと思った次第だ。
あるいは、同業として見ているからなのかもしれない。いや、だとすれば、初めてあったときからじているこの気持ちに説明がつかない。やはり、生理的にうけつけない、これが正解なのだ、きっと。
エレベーターが到著し扉が開く。そこは豪華絢爛な空間だった。ホールではクラシックな音楽が流れ、中央では何組ものペアがその調べにのって、優雅な舞を見せている。
まず遠目から見えたのは、巨大なシャンデリアだ。幅はいうに、六、七メートル……いや、あと一、二メートルはあるかもしれない。とにかく、馬鹿でかいシャンデリアだ。おまけにシャンデリアは當然というべきなのか、クリスタルでできている。
それに小さい、何百かあるいは千數百にも及ぶ數の照明が取り付けられているが、その照明が下にむかって螺旋をえがくように吊り下げられている。一番下に取り付けられた磨かれたクリスタルには、真上、橫、斜めからのをうけ、反していてやけに眩しい。
壁も白を基調にして、縁には金の塗料が塗られている。天井も聖書かなにかからのワンシーンかと思われる絵が一面に描かれていた。さらに、床と正確に配置された柱は、つるつるに磨かれた大理石でできているみたいだった。
「ほら、行きましょう」
「ああ」
真紀の一言で、ホールの中へと進んでいく。みんな、タキシードとドレスを著ていて、それに混じって黒服をきた幾人かの給仕の姿もあった。
「さて、チャールズ・メイヤーはどこかな」
ホールにると俺はさっそくメイヤーの姿がないか、さりげなく人込みに視線を向けた。前もってメイヤーの顔寫真で、どんな顔のやつなのかはすでに判っている。
「ねえ、あっちに行ってみない?」
メイヤーを探しだした俺に、真紀が止めるようにそういった。
「なに言ってるんだ、あんたは。俺はさっさとメイヤーを見つけて、仕事をすませたいんだ」
「いいじゃない、しくらい。って楽しみもしないでメイヤーを探そうとするなんて、そっちの方がおかしいと思わない?」
ごもっともらしいことをいいながら真紀は、いうが早いかホールの真ん中へと導いて、手を肩の位置にまであげさせる。俺と踴ろうというのだ。
「自慢じゃないが、この手のダンスなんてしたことがないぜ、俺は」
「クラシックに限らず、あなたがダンスなんてしたことがないことくらい、分かってるわ」
「そうかい。だったら、ご教授願おうか」
皮たっぷりにいう俺に、真紀は任せてと囁くようにつぶやいた。ダンスなど全く経験のない俺を、ゆっくりとリードしてくれた。旋律に合わせて、ここで右足をだとか、ここでターンさせるだとか……何が悲しくてこのとこんなことをしないといけないのか、自分がわからなくなってくる。
曲が二曲三曲と変わっていったところで、ふとホールの端にメイヤーの姿が目に飛び込んできた。メイヤーは一人のようで、佇むように大きな窓のところにいて、ワイングラスを持っている。
曲が終わるまで待つべきかとも思ったものの、つい今しがた曲が変わったばかりでは、あと數分はこのままだろう。となると、とるべき行は決まってくる。
「メイヤーがいた。一番大きな窓のところだ」
そちらのほうから目を逸らさずに、真紀にそっと耳打ちした。
「……捕捉したわ。行くの」
「ああ。悪いが、ダンスはまたあとでだ」
そう告げると俺は真紀の手を放し、すぐさま優雅に踴る連中のあいだをすり抜けて、メイヤーのいるところまでゆっくりと、やや大で歩みよっていった。
「メイヤー教授ですよね?」
この男は、反社會的なことをする連中が嫌いだというのは、すでに真紀が調査済みだ。俺はなるべく好青年を裝って、にこやかに話しかける。
「いかにもそうだが、君は……」
「これは申し遅れました。私、フリーのライターをしていまして、実は今度、伝についての記事を書こうと思っているんですよ」
「ほう」
メイヤーは、どこか怪訝な表をしていてこちらを見ていたが、俺がそういうとあからさまに食いついてきた。
長はこの國の平均的なもので、百七十五かそこらといったところだ。腹部はだらしなく大きくなっているせいで、せっかくのタキシードもきつそうに見える。
頭頂部は見事に禿げあがっており、両サイドから後頭部にだけは白髪が殘った、典型的な白人中年といった風貌だ。
それに學者というのは研究のために篭りがちな人種で、靜かにしていてもこういう風に切り出すと、とたんに目のが変わる。本當は知っている知識を、誰かに話したいという求を隠し持っていることが多いためだ。
俺は伝子についての、基本的なことから教えてほしいというと、まず伝子がどういうものなのかということからメイヤーは話し始めた。
目の前のメイヤーはこのうえないほどの饒舌になっていて、延々と伝學についての講義をしてくれていた。ちらりと壁にかかっている時計を見れば、午後十時になろうとしているところだ。
話しかけた當初は二、三十分もあれば終わると思った談議も、気付けばもう二時間半、いや三時間近くに渡って、俺にはたいして理解できないことを論じている。俺が一をいえば十をいう、まさにそんなじである。
窓際で二人、話し始めたときが十九時ごろで、二十時半になろうという頃に、ようやく周りのことが目にったのか、二人で落ち著いて話せる場所に移した。それからすでに一時間半ちかく、もういい加減うんざりしていた。
二人ともテーブルを挾んでソファーに腰掛けながら俺は、半ば事務的にメイヤーのいうことに頷いている。頭の中では、どうやってベケットのことを聞き出そうか考えていたのだ。そのとき、メイヤーが伝子にはまだまだ隠された可能があるといって、いったん話を結ぼうとした。
そのときを聞き逃すはずもなく、すかさず俺は、例のサンプルのことを仄めかすように話しだした。
「伝子に隠された可能という話を聞いて思い出したのですが、今、日本であるがちょっとした注目を浴びた、という話を聞いたことがありますか。
そのがイギリスにも輸されるだかされないだかといった話を、小耳に挾んだのですが」
やれやれ、ようやく本題にることができそうだ。全く、ここまで自分の話をさせずにひたすら喋らせてやるなんて、俺もお人よしだ。
「うむ……君、その話どこで聞いたんだね」
俺がそういうと、メイヤーは今までのテンションはどこへやら、トーンの低い聲になった。
どうやら、例のサンプルが合法的なものではないというのを知っている可能が高い。あるいはそうとは知らなくとも、ベケットの稼業を知っている可能もある。
まぁ、いい。手経路とベケットとの関係、さらにはあれの効果とはなんなのか、それが知れさえすればいいのだ。別にメイヤーをしょっぴきたいわけではない。
「……ベケット」
囁くような小聲で、ベケットの名をつぶやいた。すると、ベケットの名を聞いたメイヤーはたちまち苦い表になっていった。やはり、この男もベケットの稼業に関わっていたのだ。
「この名前をいえば、あんたならもうわかるだろう」
いい加減、堅苦しい好青年を気取るのにも飽きてきた。俺は普段と変わらない態度でメイヤーにぐっと迫る。
「し、知らん。そんな名前の人間など、私は知らんぞ」
「いいや、あんたは知ってるはずだ。ベケットはあんたの研究室に、もう何年も前から足を運んでいるはずだぜ。
あんたはベケットと手を組んで、やつにサンプルを輸させようとしたんだろう。違うか」
好青年と思っていたはずの人の豹変に、メイヤーは顔を青くしながら、ふるふると力無く顔をふるだけだ。もちろん、そんな態度はますますこちらを確信させるものでしかない。
「き、君は一何者なんだね」
「誰だっていいさ。警察でないのは間違いないがな。
それより、あのサンプルをベケットに輸させたんだろ。とっとと吐けよ、痛い目にはあいたくないだろう」
鋭い視線でメイヤーを抜き、ニヤリとを歪める。男はそう告げられただけで自分の末路を思い浮かべたのか、観念したように小さく頷いてみせた。
別に本気で痛め付ける気はないがこういう風に、相手にいったんオープンにさせた後にどん底に落とさせるやり方は、脅しをかけるには最適なやり方だ。その方が相手も口を開くし、無駄にに訴える必要もないのだ。これが俺と同業者であれば、また話は変わってくるのだが。
メイヤーはぶるぶると口を震わせて、語り始める。
「わ、私はた、ただ研究のためにあのを手にれようとしただけだ。決して、あの男と結託したわけじゃない」
「そんなのはどうだっていいさ。あんたはこっちの質問に答えてくれるだけでいいんだ。そうすれば、俺だって何もするつもりはない。
では最初の質問だ。あのサンプルを手にれたがっていたようだが、マフィアにあれを輸するよう頼んだのはあんたか」
そう告げるとメイヤーはまだ震わせている顔を小さく頷かせる。
「次だ。ベケットと面識のあるあんただ。なぜあれを、わざわざ他のマフィアを使って手にれようとしたんだ。それこそ、ベケットを使えばよかったはずじゃないのか」
「あ、あれは確かに裏にしか手にれることはできない代だが、出荷される數は限られているんだ。理由はわからない……い、一説には出荷する側も、そのサンプルをあまり所持していないというのを聞いたことがあるが……」
「あれは初めて出荷されたものだったのか」
「い、いや、知る限りでは過去に二回ほどあったと聞いたよ……今回の取引で出荷されるのは実に數年ぶりだと、ベケット本人が言ってたんだ、間違いない。
だが……ベケットは、い、いや、ベケットたちには、それを手にれることができなかった。なぜなら、他のマフィアらがそれの権利を手にれていたから、らしい……」
手にれる権利……よほど、から手が出るほどの代のようだが、あんなサンプルにそこまでの価値があるのだろうか。
しかし、テイラーがあれを奇跡だといっていたのを思い出し、そのためなのかと再考して自分を納得させた。あれがどんな効果をもたらすものかは別として、あのサンプルケースが焦點になっていることだけは間違いないことなのだ。
さらにメイヤーの話によれば、そのために今回、わざわざ三すくみになっている組織幹部らでの談合が行われたらしい。つまり、ベケットの組織はその談合のオークションに負け、取引をやめさせるために俺を雇ったということになる。
とると當然、ベケットが俺を雇ったのは個人的なことではなく、組織ぐるみだったと見て間違いないだろう。組織の運営費から捻出すれば、いくら俺が高額な報酬を要求しても、たいした金額ではない。
これで組織の連中がベケットを殺されたにも関わらず、ほとんどといっていいほどきがなかったことも頷ける。いうならば連中のやったことは、強奪といっても良いのだから當然だ。
そして、うちの一つは逆にベケットらの組織ともう一方を相手取り、商売に転じた……概要としてはこんなものだろう。さらに、大量の麻薬のおまけ付きとあれば、連中にとってはしかったいうのも仕方のない話だ。
「それで」
俺はメイヤーをさらに追及する。
「べ、ベケットはそれはもう怒り狂ったみたいだった。し、しかし、私としてはそんなことはどうでも良かった。あれが手にるのなら、ベケットだろうと誰であろうと……。それなのにあの男は脅してきたんだ、あれをよこせと。
だが、そんなことができるわけがない。あれはマフィアなんかに渡せるようなものじゃないんだ……」
「ようするに、あんたが連中をけしかけたのに、ベケットは逆にあんたを脅して、例のサンプルを奪取しようとしたわけだな。
結果がどうあれ、あんたが今回の件の発端だったのか」
遠回しにいうメイヤーに、俺は端的にそういった。すると、ここで一つの答えが導き出される。
「そうか……つまり、あんたがベケットを殺した犯人だな」
「ちっ、違う! 斷じて私ではない。あれは私が手をくだしたわけじゃないんだっ」
メイヤーが焦りのためか、早口にそう告げた。その言葉を聞いて、俺は再び口の端を吊り上げていう。
「あんた、今ので墓を掘ったぜ。あんたが手をくだしたわけじゃなくても、他の人間にやらせたというわけだ。
全く、たいしたもんだ。學者のでありながら、人殺しを依頼するなんてな。まさしく世も末だ」
嘲りを含んだ言いをされて、メイヤーは渋い表になる。渋くなったり青ざめたりと忙しいやつだ。
「あんたはベケットがマフィアの取引を止めさせ、あのサンプルを奪取しようとするのを読んだ、こういうわけだ。
そして始末したあとに、死からそいつを持ってこさせればいい……あら方、こんなところなんだろう。違うかい?」
その言葉にも、メイヤーは力無く頷く。
「……まぁいいさ。俺としては、別にあんたが殺人の依頼をしようが知ったことじゃぁないからな。
それで、ベケットをやったのはどんなやつなんだ」
「と、東洋人の男だ。多分、おまえと同じ國の人間だ」
「日本人?」
なんとまぁ、殺し屋は俺と同じ日本人だとメイヤーはいうのだ。もちろん俺以外にも、日本人でありながら殺し屋なんていう、どうにも救いがたい職についている奴が他にいないはずはない。けれど、まさか日本人だとは思いもしなかった。
「不思議なやつで、人を魅了するとでもいうのか……と、とにかく、神的といってもいいような雰囲気を持っていた……そいつに頼んだんだ」
なんとも象的すぎるメイヤーの説明だが、今後そいつと鉢合わせすることもあるかもしれない。極力、避けたいところであるが。
「で、け渡しはもう終わったのか」
「い、いや、まだだ……」
「なら、次だ。あんたは隨分とあのサンプルにご執心だったな。いや、今もか。
俺にあんたのことを教えてくれたやつがいっていた、あれは奇跡だとな。これはどういう意味なんだ。まさか、知らないとか抜かすんじゃぁないぜ」
釘をさすように睨みつける。メイヤーはこれに関して、あまり言いたげではない。しかし人間、そんな風にされると逆に知りたくなるというもので、俺は続きをうながした。
「あ、あれは……」
「あれは、なんだ」
いい淀む男に俺が臺詞を反濁する。
「……あ、あれは……あのは、あるヒトゲノムの培養なんだ」
「培養だと」
ヒトゲノムとは、ようするに人間の伝子のことだが、その培養とはどういうことだろう。しかも、あるヒトゲノムと強調したということは、普通のものとはし違うのかもしれない。
「確か三年ほど前のことだ……ある論文が発表された。その論文はヒトの進化に関してのもので、日本のある研究チームが、ヒトゲノムの培養に功したと書かれていたんだ……。
短い文章でそれだけしか書かれていなかったが、私はその論文のどこよりもその短い文章に注目したよ。なぜなら、ヒトゲノムの培養を功したなんて話は聞いたことがなかったからだ。
……これは、ヒトゲノムプロジェクトと呼ばれる人類史に名を刻むことになるだろう、壯大なプロジェクトの一環なんだ……。その培養に功したとあれば騒がれるはずなのに、そんな話は全く聞いたことがなかった……どういうことなのかと、私はこの論文の発表者に連絡をとった。
すると……この研究チームはある筋から手にれたものを、二年がかりで解析することに功したんだという。その、ある筋とは誰なのかと聞き返したが、彼らはそれ以上は教えてはくれなかった……誰かから口止めされているみたいだったんだ……。
私はそれをなんとか解析してみたいと思っていたところ、學會の集まりでたまたま、その研究チームのスポンサー企業にいた人と知り合うことができた。だから掛け合ったよ、どうにかそれを譲ってくれないかと……」
渋い表のまま、顔を伏せた。それを暗示しているのは、譲ってはくれなかったということだろう。メイヤーが続ける。
「……一部だけでもいいからと必死に頼み込んだが、企業だからと斷られたよ。 しかし彼はあとでそっと耳打ちしてくれたんだ。どうしてもというならできなくはない。だが、これは正規のものではない、もししいというなら……」
「輸でしか手にれられない、そういったんだな」
俺は言葉の先を読んでそういった。
「……そ、そうだ。彼らには正規に海外に流せるルートがないからと……」
メイヤーはそう告げたあと、口をつぐんだ。それにしてもどういうことだ。たかだか実験サンプルを正規で流せないだなんて……。どうやら、よほど噂されるのにも憚れるような代のようだ、あのサンプルケースは。
流せるルートがないものを、人目につかずに流そうと思えば輸しかない。なるほど、確かに輸で扱われる類の品というのに相応しい一品であるわけか。
「で、サンプルケースはいつあんたの手元に屆けられるんだ」
「き、今日……このパーティーが終わったあとで……」
メイヤーは顔を伏せたまま、消えるような小さな聲でいった。こいつは運がいい。だというなら、俺もそれに付き合ってやろうではないか。
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