《いつか見た夢》第70章

午後十一時も大きく回り、あと十分もすれば日付も変わろうという時刻に俺は、燈りが消えて街路燈からのだけしかってこない部屋のなかで、うっそりと息をひそめてうずくまっていた。

部屋は広く、俺の住むボロアパートよりもさらに一回りか二回りは広いだろう。

ここを訪れる前に俺は、先ほどまで著ていたタキシードはぎ捨て、いつもの革ジャンとスラックスの出で立ちに著替えておいた。

そしてここはロンドンの西地區のややはずれにある、閑靜な住宅街の一角にある邸宅だ。とはいっても誰も住んでいる気配はなく、誰の買い手がつかなかった新古住宅となってしまっている。これはおそらく、もう何年か前にアメリカが発端となって起こった、サブプライムローン問題の影響だろう。

これは地震のあとにおこる、津波のように波及して世界の株価に影響を與え、ついには大恐慌すら上回る衝撃を世界中に及ぼした、リーマンショック問題を引き起こすきっかけの一つにまでなった。

これらの問題は、かねてより深刻だったアフリカの國々にさえ甚大な影響を與え、ある國に至っては、金が本當にただの紙屑になった事例も存在するほどだ。札束がただの紙屑になるということは、ティッシュやトイレットペーパーなんかよりも価値がないことになるわけだ。いや、それらのほうが、はるかに人々の役に立つので、その國の人々は、かつての自國の札をティッシュがわりや火をおこすために焼くべたりしたほどらしい。

國が完全に破産し、倒産してしまったわけだから、札束などそうするしか使い道などありはしない。今では換という、なかば原始に近い生活をおくるようになったと聞く。まぁ、人間はそうやって生活していたのだから、元に戻っただけともいえるが。

とにかくだ。サブプライム問題は、ヨーロッパでも決して無関係だったわけではない。ロンドンは株価だけでなく、アメリカと同様に、ローンが払えずに住居からの立ち退きを命じられた者もなからずいるのは事実で、その時期の前後に建てられたものは、いまだ買い手がつかずにそのままになっているのだ。

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俺が今いるこの邸宅も、そんな時期に建てられたものの一つだ。誰のものでもない住居をけ渡し場所に指定するなんて、今時珍しい。まぁ、こういった方法のほうが確実ではあるが。

チャールズ・メイヤーは落ち著かない様子で、先ほどからこの部屋の中をぐるぐると回って、隅から隅を行ったり來たりと繰り返している。しきりと腕時計を見ては、ため息をらしている様からも、そう見てとれる。

麻薬なんかと一緒に輸されたものを手にれようとするのだから、當然といえば當然かもしれない。

そんな、先ほどからそわそわしたメイヤーの景も、ようやく終わりがきた。裏の勝手口から、かすかにドアを開ける音が響いたのだ。こんな場所にこの時間にってくるのは、もちろん例の男とみていいだろう。

そいつは足音を殺しながら、そっとメイヤーの待つリビングにまでやってきた。俺からは、はっきりとそいつの影がわかるがメイヤーはまだ気付いていない様子だ。このことからも、男が正真正銘のプロであることがわかる。

こちらに向いて歩いてきていたメイヤーが、再びくるりと背を向けて男のいる部屋の出口に向き直ると、ひっそりと佇む影に驚いて、短くて小さい悲鳴をあげた。

「……」

者の男は、そんなメイヤーなどお構いなしに二歩三歩と歩み寄り、今まで突っ込んでいたジャケットのポケットから手を差し出した。殘念ながら俺の位置からはその手に何を持っているのか見えないが、十中八九、例ののサンプルケースだろう。

「お、おお……これが……」

メイヤーはくような聲を出しながら男の差し出したものに一歩近づくと、男はすぐにその手を引っ込めた。

「……殘りの金が先だ」

男がややくぐもった聲でメイヤーに告げる。

重々しく二回、三回と頷くメイヤーは、近くに置いた小さなアタッシュケースを取り、慎重に男に手渡した。

「……よし」

男はケースの中の金をざっと數えメイヤーとは打って変わって、かすかに首を縦に振ったにすぎなかった。そこでようやく、今しがた手にして見せたサンプルケースをメイヤーに渡そうとする。

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その瞬間を俺は見逃さず、銃を抜き取りざまに影から姿を見せた。

「……どういうことだ?」

「おっと、くなよ。今、銃口は確実にあんたの左をとらえてる。もし下手にいたら、次の瞬間あんたは死になっちまうぜ」

言葉の通りに、ピタリと銃口を相手の心臓に向けていた。男は試しにか、かすかにメイヤーに差し出した右手を下げようとするが、俺は微だにせず指がかかっているトリガーにわずかに力をこめる。その作だけで、男はピタリときを止めた。

「おい。男の手からそいつを取り上げるんだ」

メイヤーに命令するために、ほんの一瞬だけ男から視線を外した瞬間、男が従おうとしていたメイヤーの腕を摑んで盾にした。

「ひいっ」

くなっ」

素早くメイヤーのこめかみに銃を突き付け、男が鋭くぶ。

「……おいおい。そいつを人質にでもとったつもりなのか。

いっておくがな、俺とそいつはなんでもないんだ。殺そうと殺すまいと、俺にはなんの関係もないぜ。必要とあればその男もろとも、あんたをぶち抜くことくらい朝飯前だ」

「とりあえず、念のためさ……」

どこか嘲るように男がいった。まるで、俺がそんなことできないてでもいいたげだ。

「や、やめろ、やめてくれっ。撃たないでくれっ」

メイヤーが男に向かってぶ。まさか自分が銃をつきつけられるなんて、のほども考えたことがないのだろう。それか、俺に向かっていったのかもしれない。あるいは、その両方に。

しかし俺は、そんなことお構いなしに告げた。

「そうかい。だったら、やってみるがいい。だがな、俺はやるといったら必ずやる男だということは肝に銘じておきな」

影になって顔すら見えない男に鋭く睨む。向こうからは確実にこちらが見えているはずで、向こうがそんな俺をどう捉えたのかはわからない。しかし、本気だというのは間違いなく伝わっているはずだ。

「……おもしろい。だったら、やってみるとしよう」

そういうと影の男がメイヤーを盾にしたまま、じりじりと後退し始めた。

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こいつ、俺を嘗めているのだろうか……。苛立ちを抑えながら男の左に狙いを定めつつ、同時にメイヤーをも狙っていた。

やるといった手前、俺は必ずやる男だ。メイヤーには悪いが、自分の不運を呪ってもらうほかないだろう。

そもそもマフィアなんぞをけしかけたあげく、その一員を奇麗に片付けようとする用意周到さ加減は、そこらの糞悪い連中と全く同質のものだ。こうなった以上、メイヤーにも一因となった者としての責任を負わせるべきだ。殺し屋を雇うというのが、いかに恥知らずで、醜悪かというのをを持って味わわせてやらなければならない。

俺はそう思い込むと同時に、いつものように冷たい瞳で影の男を見據える。

二人揃って地獄にたたき落としてやる……そう思って引き金を引こうとした瞬間、男がメイヤーを俺に向かって突き飛ばした。

メイヤーが俺に摑まろうとするのを瞬時に判斷し、俺は後ろに避けるように後退しながら引き金を引いた。

俺が撃った弾丸はあらぬ方向へ飛んでいく。

床に倒れ込もうとするメイヤーの後ろで、男が俺に銃口を向けているのが一瞬目に映る。

メイヤーが床に倒れ込む。その瞬間を狙って、男が引き金を引いた。

「ぎゃあっ」

メイヤーごと相手を狙っていたのは俺だけではなかったようで、メイヤーは床に倒れ込んだところを背中から二発三発と弾丸を食い込ませ、絶命した。

床を転げ回る俺は、そのままテーブルの下に転がりこむ。

そこから男に向かって再度銃口をむけ、トリガーを引いた。奴のように二発三発と弾丸をぶち込むが、ここからではうまく當たらない。

だが奴は、俺の姿がいったん見えなくなると反撃しようとはせずに、出口に向かって走り出した。

「待てっ」

思わずんでしまったが仕方ない。俺は即座に立ち上がりざまに、奴の背中に向けて銃をぶっ放すが弾丸はそばの柱に當たっただけだった。

その間にもってきたとき同様に、奴が裏口から屋外へと飛び出していった。俺も奴を追おうとして走りだすが、不幸にも二三歩駆け出したところで何かに躓いた。

メイヤーだ。いや、メイヤーだった人の死に躓いたのだ。それはまるで、自分をこのままにしておかないでくれとでも無言のメッセージを伝えてきているかのようだ。

しかし、今はそんなことを気にしている余裕などない。こうしている間にも奴は、どんどん逃げていくのだから死になど構っていられるはずがない。

俺は死を乗り越えて、すぐに駆ける。裏口をぬけて外に飛び出すと、はるか先に闇に紛れながらも、街燈にうっすらと照らされていているものが確認できる。もちろん奴だ。

なんとも素早い奴だ。もうあんなところまで行っているとは……。俺は心で舌打ちし、奴の姿を追った。ここまできて、奴を見逃す道理はない。

とりあえず、乗りかかった船というやつだが、殺されかけたことに関しては、俺には十分、奴を追いかけるに理由にはなる。

このままにしておいてやるほど、俺はお人よしではない。どうしても奴にはオトシマエというのをつけさせなくては気が済まないのだ。

放棄された區域だけに、ここらには人がほとんどいない。人目がつかないことがわかれば、いちいち人目を気にすることなく全力疾走する。

それでも、ものの數分もすると、瞬く間に力がなくなっていき、放棄された區域と隣の地區を抜けるころには、完全に息があがっていた。

ぜいぜいという荒い息と激しい悸のする音が、自分でもよく聞こえるほどにまでなっていたのだ。そこそこに力には自信があると自負しているつもりだが、さすがにこいつはきつい。

しは先にいる野郎との距離を詰めることができているようでも、依然、その差は開いたままだった。おまけに、奴は俺よりも早く走り出しているにも関わらず。

俺よりも奴のほうが力的には一枚上手ということなのだろうが、かといって速度を緩めるわけにもいかない。そんなことをすれば、たちまち差が開いてしまう。

とにかく、奴を見失わなければそれでいい。

しかし追いかけているうちに、もしや、奴は俺を試しているんではないのかという思いにとらわれた。というのも、差がほとんどといっていいほどまらないこともあるが、それ以上に、どこかわざとらしさをじるのだ。

まるで俺をどこかにっているのではないか……そんな気にすらなってきていた時、今までほぼ道なりに逃げていた男がすっと消えた。

足が空回りしてこけそうになるのをこらえ、さらに速く走って奴が消えた辺りにまでやってくると、そこは十字路になっていた。

まっすぐに行けはするが先はもう、開発のためにさら地にされた場所しか広がっていない。右も同じようなものだった。となると當然、左に曲がっていったというわけだがどうか。

俺は左を向いて目を細めて先を見てみると、先のほうにまだできて間もない倉庫のようなものが見えた。そこからは一切のが見えないけれども、おそらく倉庫で間違いないだろう。

奴のどこかわざとらしい走りなどから、始めからここにいこもうとしていたと考えるべきだろうか。しかし、そうだとすると、奴は俺を知っていると考えるべきという結論になる。

だってそうではないのか。俺は奴のことなど知りはしなかったのだ。こちらは知らなくとも、なんらかの出來事がきっかけで俺を知ってしまった、もしくは、知らざるをえなかったというのは十分に考えられなくはない可能だ。こちらとしても、その思い當たる節はいくらもあるのだから。

俺はかぶりを振って、早歩きで倉庫のほうへと足を向ける。可能はどうあれ、俺の顔が割れたとあれば、放っておくわけにもいかない。奴が殺し屋であり、そのを寄せているのがどんなものなのかもはっきりさせなければ、安息などありようもない。

歩きながら荒い息を整え、倉庫の門にまでやってきた。門は鉄の格子になったどこにでもあるもので、それが人一人はいれるかどうかといったほどの隙間が開いていた。

電気一つ點いていなさそうな倉庫に、門だけがこんな不自然に開いているはずがない。間違いなく奴はこの中にいる。

ジャケットの中から攜帯してきている拳銃を抜き取って、慎重に敷地の中へとはいった。

この辺りは、先ほどまでの住宅街とくらべてはるかに街燈がなく、倉庫の敷地にはほとんどが屆かない。おまけに敷地には、外界からのを遮るがごとく、何本もの大木が植えられているために、余計に視界が利かなくなってしまっていた。

いくら夜目がきく俺であっても、こんな狀況で不意打ちを喰らえば、ただではすまないだろう。

それに奴は、夜襲を得意としているに違いない。け取り場所の家の中でも、はあまりなかったのに、まるで晝間の外にいるかのような素早いきだったのと、自分にも不利にり兼ねない、こんな暗い場所にやってきたことからも、それは確かだ。

そんな暗い視界にもうっすらと、さらに暗い闇が數メートル先にあるのがわかった。高さは三メートルほどで、そこから右に四メートルほどのところに窓のようなものが見えることから、倉庫への扉であることが窺える。

俺は二度三度、深呼吸をして扉を背にして中を覗いてみる。當然ながら、この上ないほどの闇で、ほんの一、二メートル先にあるものの影すら確認することはできない。倉庫なのだから、扉の脇かそこらに電燈のスイッチがあるはずだが、これでは丸きり判斷のつけようがない。

もしかしたら、奴はこの扉の裏にでも潛んでいて、俺がってくる瞬間を待っていることも考えられなくもない。いくら夜襲が得意であっても、ここまで暗い中では、自分にも不利にり兼ねないことを知っているはずだ。

そうなると奴としても、あまり中でける範囲があるとは思えない。もちろん、ナイトヴィジョン、ようするにスターライトスコープのような類いのものをつけているとなれば別だが。

俺はいつも最悪を想定してくので、そういった裝備を奴が持っていないとは考えていない。夜襲の専門家が今時、それらの裝備品を持っていないとは考えにくいし、ここは奴の縄張りであるような気がしてならないのだ。

俺はいざというときの対策として、首に薄いプラスチックのカラーを巻き付けた。こいつはもし首に糸を巻き付けられたときのためのもので、これがあるだけでも首への攻撃によるダメージがかなり軽減される。々首をかしにくくなり、不格好になるが仕方ない。

奴が銃を持っているのはわかっていても、暗闇の中だけはしでも相手の攻撃手段を減らしたほうがいいに決まっている。もし暗闇の中で攻撃されようものなら、銃であれなんであれ助かる見込みはないが、何も絶対というわけでもない。事実、これのおかげで助かったこともあるのだ、用心に越したことはないだろう。

目を細め、音を立てないように靜かにった。こうしてしっかり見ようとすると、全くの暗闇と思っていた倉庫にもわずかにながら、の影がうっすらと見える。しかし、そこに何かがあるという程度で、実際にどんなであるのかまではわからない。

目も重要ではあるが、それ以上に重要なのが耳だ。視界がきかない中では、音が一番の報源になるわけだから、耳は常にすました狀態にしておかなければならない。視覚と聴覚、この二つのを同時に集中させるのも決して楽ではないが、ここは我慢が必要だ。

闇の中を一歩一歩、慎重に進んでいく。いくら進んだのか、あるいは何メートル先まで歩いたか自分ではわかりようないがすぐ目と鼻の先に、窓があるのが見えた。

窓からは、どこからか照らされている街燈のをうけて、暗闇の中にかすかにだがをもたらしていた。

俺は安心したように、歩みを早めて窓に二歩三歩と近づいたとき、直前になって足を止めた。こうして、かすかにながらのある場所にこれたのは良いが、こんな時に気を緩めて油斷してしまうなんて間抜けのすることだ。

がかすかにでもそこにあるということは、そこから先は、それまで以上の闇に見えるのマジックがある。つまり、そのマジックを使い近くに奴が潛んでいる可能が高いのだ。

俺は一瞬とめた足を、迷わず窓かられるかすかなの中にやった。影ができるほどもないほどの濃い黒の中でも、真っ暗闇の世界よりは幾分かはマシだ。

暗い先を見據え銃を構えたところ、突然聲がかけられる。いや、かけられるとは違った。この建の中で反響したような、そんなじの響き方だった。

「そこで止まるんだ。今、こっちからはおまえが良く見える。銃口が確実におまえを狙っているぞ」

奴の聲だ。どうやら、奴からは俺が丸見えらしい。しかも銃をこちらに向けているということは、割合近くにいると見ていいだろう。せめて、奴の気配さえわかればすれば、そこ目掛けて銃をぶち込めるのだが。

「銃を前方に投げるんだ」

暗闇のいずこからか奴の聲が命じる。俺は苦々しい気持ちで、その聲に従った。野郎の気配もわからないでは、こちらも反撃のしようがない。

前方に向かって銃を投げ下ろした。カチャンカチャンと、銃の角ばったパーツが地面にぶつかって転げる音がする。

「さぁ、これで俺は晴れて丸腰だ。あんたも姿を現したらどうだい」

「いいや、そういうわけにもいかんね。プロである、君という人間を侮るつもりは全くないんでね」

「そうかい。隨分と臆病なやつだな。経験上、あんたみたいな人間は実際にはたいした奴じゃぁないって思ってるんだが、やはり勘は當たっているようだな」

「ふん。挑発になど、私は乗らんよ。さて、無駄な話はここまでにしておこうか」

奴の冷靜な聲に、心で舌打ちせざるをえない。思いきり、侮蔑のを込めて挑発してやったのに丸きり反応がないということは、奴も相當に訓練されている人間だと考えていいだろう。

同時に、奴に俺を始末するのに迷いはないとみていい。くそ、なんということだ。あともうし早く、奴の目論みに気付いていればまだ他にやりようがあったかもしれないのに……。

仕方ない。ここのところは奴に従う他ない。今はおとなしくしておくとしよう。

「さて、質問だ。メイヤーを裏切らせたのはお前だな」

「さぁな。勝手に行を起こしたのは俺じゃぁない、メイヤーだ」

高圧的に質問してきた男に俺は、とぼけるようにぼかして答える。

しかし奴も俺がこういう風にいうのを予想していたのか、全く揺する気配がない。

「メイヤーがしがっていたあれをお前もしがっていたのか」

「いいや。全然興味なんかないぜ、俺は。ただ、こっちの安否ってのが問題なんでね。それで調べていたところ、たまたまあの男に行き著いただけだ」

言葉を選びながら、慎重にけ答えしていく。奴に正確な報を伝えるつもりなど、さらさらないのだ。なによりこの圧倒的に不利な狀態から、いかにして抜け出すか、それに頭をフル回転させなければならない。

「だったら、なぜメイヤーと一緒に取引場所にまできた? 安否だけなら、わざわざそこまでする必要などなかったはずだ。

つまり君は口ではそういいながら、実際にはあのサンプルケースがしかった……こうじゃないのかね?」

男のいうことに言葉が詰まる。正直な話、ただの暇つぶしも兼ねていたと言ったところで、とても信じてもらえるようなことではない。俺が奴の立場だとしても、到底信じられる話ではないだろう。

「……殘念ながら、違うね。今回の一件は、俺も絡んでいるんだ。マフィアどものくだらない抗爭なんぞに巻き込まれかねない一件だ。

だからこそ、俺としても必死になるものさ。しかも、俺を巻き込んだ野郎が殺されたとあればな」

俺がそう口にすると、今度は奴が押し黙る番だった。ベケットの死に関して、この男が絡んでいるのは間違いないことだ。奴のことを思い出したのか、男は沈黙した。

「……なるほど。君がベケットから依頼された殺し屋か」

「だとしたらどうだっていうんだ」

鋭くぶ。

「ベケットが最期に言っていたよ、俺を殺したら依頼した殺し屋が私を殺しにくるとな」

ベケットを殺したら俺がこいつを殺すだって? 一なんの話をしてるんだ、こいつは。俺はただベケットから、ある連中を殺してほしいと依頼されただけだ。ベケットを殺されただけで、俺がベケットを殺した奴を殺そうとするだなんて初耳だ。

「あんた、一なんの話をしてるんだ。俺はベケットを殺した奴を始末しようだなんて話、初耳だぜ」

俺が顔をしかめながらいうと、奴はさらに沈黙する。この沈黙を察するに、話が食い違っていることに戸っているか、それとか、なぜそうなったのか考えている、といったところか。

すると、じゃり、と音を立てながら前方から一人の影が姿を現した。背丈は俺とさほど変わらず、暗闇に紛れやすい全黒づくめの裝をまとった男だった。

左手には今しがた俺が投げた銃を持っていて、右手には一丁の拳銃が握られている。銃口はこちらに向けられており、間違いなく俺の心臓をピタリと狙いすまされているようだ。

この男が俺が先ほどまで追っていた男になるが、やはり男は思った通り、雙眼式のスターライトスコープを頭部につけており、両目のあたりにそれらを示す、なんとも無機質な暗視鏡がこちらを見ている。

「ようやくお出ましか」

「単純な話だ。もう私が君を狙う理由はなくなったからな」

「だったら、さっさと銃を降ろしたらどうなんだ。ついでに、反対の手に持ってる銃も返してほしいもんだね」

茶化すようにいいつつも、男から目を逸らすことはなかった。俺を狙う理由がないなどといいながら銃を降ろさないのは、まだ俺を信用していないことにほかならない。銃を渡さないのも、同じ理由からだ。

「殘念だがそいつは無理な相談だな。銃を渡した途端、こちらに撃ってこられては困る。

同時に銃を降ろさないのも、君がまだ何か武を持っていない保証はない。よって、君の要求は全て卻下だ」

隨分と理屈にかなった言い方だ。なんとなくだが、田神を彷彿とさせる。

「……君の名前は」

「俺の名前なんて聞いてどうしようっていうんだ」

「やはりな。君のその態度、私としても警戒せざるをえない態度だ。

忘れてもらっては困るが、今君には銃口を向けている。もし何か私の気にらない発言でもしたら、次の瞬間、君に鉛玉をぶち込むことになる」

なるほど。こいつは冷靜ぶった奴だが、実際には相當頭にきているとみた。きっと、なにもかも自分の思い通りにならないと気が済まない、そんな側のを持っているにちがいない。

「そうかい。だったら好きにしな」

ここは俺がいったん折れるとしよう。こいつがどんな奴であれ、なにかの弾みで銃をぶっ放されるなんて真っ平だ。それに、おさまりかけていることを改めて掻きすことはしないほうがいいに決まっている。

「それでいい。では再度、質問だ。君の名は」

「九鬼だ」

「なに……九鬼だと」

「ああ、そうだ。何か文句でもあるのか」

奴は何を思ったのか、急に黙り込んだ。スコープをつけたままのせいもあり、いきなり黙り込まれると不気味に見える。

「……そうか。君が九鬼か」

つぶやくように、小さな聲でそういった。おまけに、今までの英語のやり取りでなはなく、日本語でのつぶやきだった。メイヤーがいっていたが、確かにこいつも日本人であるのは間違いなくなった。

「あんた、俺を知っているのか」

當然の疑問だ。今まで、足がつくような証拠らしい証拠は殘してこなかったつもりだが、やはり、どこかでしくじったのか……そう思ってしまうつぶやきだったのだ。

俺は奴にならって日本語で聞き返す。

「ああ、風の噂に君の名を聞いたことがある。ヨーロッパに日本人の殺し屋がいるとね。……まぁ、それだけでもないが。

何がともあれ、まさか、君が九鬼とは思いもしなかったがね」

「ほう。そいつは栄な限りだね。まさか、俺の噂が流れてるだなんて初耳だぜ」

ニヤリとの端を歪め、再び肩をすくめる。

「となるとだ。必然的に、君を生かしておくわけにもいかなくなるな」

「おい、待てよ。今の今まで、俺を狙う理由がないといってたろう。それがなんで名前ひとつ聞いただけで、突然そうなっちまうんだ」

さすがに、話が一瞬にして変わってしまったことに狼狽した。このままでは、なんのなすもなく弾丸をぶち込まれてしまう。

そんなの、一殺し屋のプライドにかけて許されることではない。殺し屋たるもの、最期の一瞬まで生き殘ることを考えなければ失格だ。別に殺し屋でなければいいのかという問題でもないかもしれないが、とにかくこの狀況はまずい。

奴は狼狽してじろぎする俺のきに合わせて、正確に銃口をかしている。いつでも心臓を撃ち抜けるようにしているわけだ。

(まずいぜ……このままじゃぁ……)

背中を、嫌な汗がじんわりとにじんできている覚があった。

本當になすがない。奴の銃を持つ手のきから察して、俺が橫に飛び出すにしても結果は変わらないだろう。

ならば、一か八か正面からこっちが向かうというのならどうか。……きっと最初の一歩、運が良くて二歩目を踏み出した瞬間、やはり鉛玉が俺の心臓、あるいは額をぶち抜いているに決まっている。

「ではさらばだ、九鬼」

「待て。なんで俺の名前を聞いたとたん、そんな話になったんだ」

俺は必死になってわめき立てる。とにかく、しでも時間を長引かせてなんとかしなければ。こいつに、こんな手がきくとも思えないがやるだけやってみなくてはわからない。手段が何もないのであれば、慘めだろうとなんだろうと、思いついたことはなるべく実踐してみたほうがいいに決まっている。

「君が知る必要はないさ。だが、これだけは言える。君に生きていてもらっては、々面倒なことになりかねないんだ。

どんなに些細なことであっても、私は見逃すつもりはないのが信條なんでね。不本意ではあるがそのためにも、君には今ここで死んでもらわなくてはならなくなった……そういうことだ」

奴の一方的な説明に顔をしかめて唖然とした。しかし次の瞬間には、沸々と側から沸き起こるみたいに怒りが込み上げてくる。

「つまり俺は、お前のわけのわからん企みか何かのために殺されなくてはならないってのかっ」

唾を飛ばして怒聲をあげる。奴はそんな俺を見ても微だにしない。

「では今度こそさよならだ、九鬼」

「待て、まだ話は――」

終わってないとぼうとした次の瞬間、突然、倉庫に明かりが燈ともされた。

「うっ!?」

奴がくようにび、両手で目の辺りを押さえようとする。スターライトスコープは、わずかなでもはっきりと暗視しているものを映像化して伝えているため、室燈の量ともなれば、視界が真っ白に眩んでしまうのだ。

俺も似たようなものだが、奴よりはずっと楽だ。すかさず奴のところまで間合いを詰め、両手に持たれた銃をはたき落とす。

「くっ」

奴もその気配をじたのか、たたき落とされた瞬間を狙って、蹴りをくりだしてくる。視界がきかないというのに、なかなかに正確な蹴りだ。

俺は再びくりだされた蹴りをかわし、転げこむと同時に落ちた銃をつかむ。

を起こすと、すぐさま奴に向かって銃口を突き付ける。

が、なんと奴も左手にもう銃を持っていて、こちらに向けたのだ。小さい銃で、弾はわずかに二発しかないといった仕込み銃だ。

左手の長袖の中に仕込んでいたんだろう、俺はまさか仕込み銃まであるとは思いもせず、もう勝った気になっていた。

それに、奴が機敏な作になったのかもよくわかった。すでにスターライトスコープは取り去っていて、右手に持たれていたのだ。

だが、それでも男の素顔がわかることはなかった。なぜなら、奴は仮面をつけていたからだった。目の辺りだけはくり抜かれ、視界をきかせることができている。

「惜しいな……あと一瞬、あとほんの一瞬だけ君が速ければ、私を撃てたかもしれないのにな……」

非常に落ち著いた聲で奴がいう。確かにそうだ。後、ほんの一瞬でも速ければ、俺の銃から弾丸が発されて、この野郎をぶち倒せることができたというのに。

「ああ、そうかもな。それでもさっきまでと比べりゃぁ、天と地ほどの差があるぜ。さっきまでは、いつお前に殺されたっておかしくない狀態だったんだ。それに比べりゃぁな。

だが、これなら話は別だ。お前も銃の腕には自信があるみたいだが、俺もわりかし銃の腕には自信があるんでね」

「ほう、なぜ私に銃の腕が良いと思えるんだね?」

「ふん。俺が気付いてなかったとでも思ってるのか。お前、俺の心臓を正確に狙っていただろう。俺がしでもけば、確実にそれにそったきをさせていた奴が、銃に自信がないはずがないだろうが」

口だけはニヤリと歪ませつつ、視線は奴を思いきり睨み付けながら説明してやった。

ようやく、最悪の狀況をしたわけだがかといって、事態が好転したわけでもない。まだまだドローといっていい狀況だ。

「そこまでよっ」

「!?」

どれほどのあいだそうしていたのか、突然、橫から聲とともに一人のが三、四メートルほど先にある通路から現れた。

もちろん、その聲で主はわかった。こんな場所によく現れるなんて、あの狐以外にいるはずがない。

「よう、真紀」

視線を野郎から外すことなく、そういった。さすがの奴も、この狀況に困気味だ。視界がきくようくり抜かれた仮面から覗かせる目が、それを暗示している。

「二人ともかないで。まず、そっちのあなた、銃を降ろしなさい。そのあとはゆっくりと両手をあげて、膝を地面につけるのよ」

真紀は男に銃を向けながらぶ。

「早くっ」

急かすように鋭くいう真紀に、男はふっと笑った……ような気がした。口元は仮面によって覆われているので、実際に笑ったかどうかはわかりようもないのに、なぜかそんな風にじられたのだ。

ただ目を伏せるみたいにして、靜かに閉じた。ただそれだけの行為だというのに、なんでそんな風にじるのか説明できない。できないが、俺の直が頭蓋の中でぶのだ、油斷してはいけないと。

「……ふっ」

すると、奴が笑ったみたいに小さくため息をらした。俺に向けていた小銃をいったんさげたと見せ、すぐさま真紀に銃を向けたのだ。

その隙を見逃さず、俺は奴のに弾丸を二発ぶち込んだ。男は、が著弾の衝撃のために、踴るように弾んで橫にぶち倒れる。

「……」

ぶち倒れた男に対し、俺は違和を覚えた。いくら真紀が現れたからといって、撃たれるのをわかっていてこうなんて淺はかな行をするとは、とても思えないのだ。

そうじたので、あえて男の急所をさける形で弾をぶち込んだ。よって、まだ男が死んでいるわけではないだろうが、なんとも妙な行を起こした男に対し疑問符が浮かばざるをえない。

俺はそう思いながら立ち上がった。奴は仰向けになって、手足を大の字に力無くのばして倒れている。

「あんたが電気、つけてくれたのか」

真紀のほうに視線をうつしていうと、真紀は小さく頷いた。

「あなたを追ってみたら、また変な場所にいるでしょう? それで、なにかあったんだと気付いたのよ」

「追った?」

「まあね」

真紀はその手に攜帯を持って示す。

そうか。攜帯のGPS機能を使って、逆探知したというわけか……。このは組織の報部にいるし、そのうえ俺の攜帯は真紀から支給されたものだった。このの手にかかれば、そんなことくらいはおてのものだろう。

「なるほどな。まぁいい。あんたが來てくれたおかげで、今回ばかりは命拾いできた。禮をいっておこう」

そんなやり取りをしているところ、倒れた男が不気味な笑いをあげた。

「まさか、まだ仲間がいたとはな……迂闊だったよ。だが、まだ気を緩めるには早いんじゃないかな?」

「どういう意味だっ」

倒れた男に向かってぶと、奴は右手の袖から小さな細い箱狀のようなものを取り出した。どうも、いろいろと袖に仕込んであるようだ。

「こいつは起裝置さ。私は何かあったときのために、アジトを必ず破壊できるよう用意しているんでね」

「お前……」

くつくつと仮面の下から笑い聲がもれている。

「九鬼……安心するなよ。私は君を殺すといった以上、必ず君を殺す。君がこの世界に生きていている限り、必ずな……」

「待てっ」

奴が言い終えると同時に、起裝置のボタンを指が押そうといた。俺はぶと同時に銃口を奴に向けるが、引き金を引く前に奴の指はボタンを押した後だった。

瞬間、低い地鳴りのような轟音とともに、倉庫ないたる場所から破壊されていく発音が響きだす。奴のいっていた起裝置は、はったりなんかではなく、本だったのだ。

「くっ」

「早くこっちに」

真紀がんだ。

俺はいうが早いか、真紀のほうに向かって駆け出した。

「くっくっく……九鬼、私は諦めないぞ。私は必ず君を」

倒れたままの男が、背を向けて駆け出した俺に向かって、不気味に笑いながら落ちていった。発の影響で、倒れていたあたりの床が抜けたのだ。

奴が落ちていったのを見屆けたあと、すぐに駆けた。床が抜けたということは、この辺りも同等の危険があるかもしれないということだ。

真紀はすでにひと足早く、通路の先を走っていた。俺も急いでその後に続く。

あまり、深いところにまで潛り込んでいないはずなので出口はすぐのはずなのに、変に焦ってしまっているせいか、やけに出口が遠くにじる。

「待って。そっちじゃないわ」

先行している追い付いて、歩いてきた通路の覚を思い出しながら行こうとしたところ、真紀がこっちだと指示する。

「このまま、まっすぐ行けば窓があるわ。そこから抜け出したほうが早いわ」

なるほど。そういうわけか。頷きながら、銃を構えた。前方に窓が見える。真紀のいう窓はあれのことだろう。

走りながらだと狙いがつけにくいが、この狀況でしのごのいっているわけにもいかない。俺は二発三発といわず、ありったけの弾丸を窓に撃ち込んでいく。

そのうちの何発かが窓ガラスをぶち破り、派手な音をたてながら割れた。

「先に行く」

ぶち破った窓に走る勢いそのままに飛び込む。

あまった窓ガラスが割れる音を耳にしながら、次の瞬間には地面にをぶつけ、転がっている覚があった。

鈍い痛みをこらえて、ぶち破った窓のほうを見る。真紀もなんとか外に出ることができたようだった。

まだ小さい発音のあとに、轟々と地鳴りみたいな音が響いている。中の床や壁が抜けたりしている音だ。

真紀が抜け出したのを見計らい、俺達はなるべく倉庫から離れるために再び走りだした。

すると、ベキベキと、ついに倉庫の外壁が音を立てて崩れ始めた。中の壁や支柱を失って、自重に耐えられなくなったのだ。

ものの數秒で倉庫は完全に瓦礫の山になり、あたりには大量の砂埃が舞った。

俺と真紀は鼻と口を押さえ敷地から急いで出る。門の側に、真紀が乗ってきたと思われる車が目にったためだ。

ドアを開けて中にると、そこでようやく一息つけた。それでも真紀は、一息いれる間もなく車のエンジンをいれて、すぐさまそこを離れた。

ここら一帯は、まだまだ人がほとんどいないとはいえ、完全に人がいないというわけでもない。瓦礫の山と化した近隣の倉庫の慘狀に人が出てこないとは言い切れないのだ。

運転の荒いだが、今だけは高速に飛ばす車の能と真紀のドライビングテクニックにを任せることにしよう。

……それにしても、あの野郎がいったことがどうにも引っ掛かる。なんで突然、俺を始末しようだなんていい始めたのか……。いや、そもそもなんで俺のことを知ったのか。その報源はどこなのか。

あのサンプルケースから始まって、意外な形でそれが自分に還ってきていることにわずかな混を覚えつつ、新たな謎の浮上に疑問を投げかける。

やれやれ……これからしばらくのあいだ、寢れない日々が続くかもしれない。また明日からの忙しくなりそうな予に、俺は小さなため息をもらしたのだった。

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