《いつか見た夢》第73章
怒鳴るような聲と雑踏と話し聲のまじった喧騒が、耳をつんざくように響く。いくつもの屋臺が立ち並び、漂ってくる香ばしい匂いが行く人々の目と鼻を楽しませていた。
ロンドンの中華街では、週末の二日間になると恒例になる屋臺が立ち並ぶ。今日はその週末の一日目であり、仕事あがりのサラリーマンや遅めの買いに主婦、さらにカップル、同士で、男が數人で……と様々な人々が行きい、屋臺の料理に舌鼓をうっている。
このロンドンの中華街は、數あるヨーロッパの中華街のなかで最大のものだ。日本の橫浜にある中華街も大きいほうだと聞くが、ロンドンのものもそれに引けをとらないほどの規模だ。パリにも大きな中華街があり有名であるが、ロンドンのものと比べると規模はかなり小さい。
いや、正確には橫浜やロンドンの規模の中華街になれれば、どこの街の中華街でも間違いなく小さくじるだろう。まぁ、全ての中華街を廻ったわけでもないので、なんともいえないところだが。
今回、この中華街にきたのは先ほど依頼しておいた武を手にれるためだった。今向かっている店に、俺が依頼しておいた武が屆けられているはずだ。そのため俺は、行きう人々で賑わう屋臺には目もくれずに一人、足早に目的の場所へ歩いていた。
中華街の、けっして幅のないメインストリートに立ち並ぶ屋臺通りの、中腹あたりを左に折れた。そこから四、五十メートルほどいったところを、今度は右に曲がる。
路地にって、すぐの奧まったところにある雑居ビルの一階と二階に構えた店があった。武のけ渡し場所として、たまに世話になることがある中華料理店だ。
俺はそのビルの脇から裏に廻った。裏には従業員専用の出口があり、その出口の橫にある換気用の窓が開いている。その窓ガラスを六回、やや強めに叩いた。
すると窓があき、そこから囁き聲がもれた。
「頼まれた、屆いてるヨ」
「ありがとよ。代金だ」
窓から聞こえてきた片言の日本語の主に代金の束を渡し、同時に茶いボロボロの紙袋にった武をけ取った。
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「アリガトネ」
やはり片言な日本語のあと、そこまで強くする理由もないだろうと思えるほどの勢いで、窓が閉じられた。まるで、これ以上のは會話は拒否しているみたいだ。まぁ、別にそういうわけでなく、たんに中國人に想いいやつなんていないだけの話だ。
今まで何度か聞いてきた聲と行だが、その人の顔をみたことがあるわけではない。あくまで、向こうはただのけ渡しだけで、それ以外は全く関與しない。だから俺の依頼したは、知りようもないことだ。
もっといえば、知ってはいるが知らないというのを、徹底しているといったほうが正しいだろう。中國人は善くも悪くも、我関せずなのだ。ついでにいっておくと、想もないので、今のような行になる。
日本人であれば、怒ってるのかと思わせるほどまでにをかしたり、ドアや窓を閉じたりはしない。まぁ、そこらへんに民族だとか國民といったものが出やすいのは確かではある。
外國に住んでいると、そういったことに日本人の良さというのをじてしまうものだ。
そんなことを思いながら俺は、早々に店を離れた。そろそろマフィア連中も、俺のことを勘づきはじめていてもおかしくないはずだ。奴らに泡をふかせてやるには、はっきりいってこの程度の裝備では無意味だ。
そこで俺がとった作戦はこうだ。マフィア連中にとって、一番の敵は自達ではなく、ボネットと呼ばれる一人の男だと信じさせることだ。幹部連中だって、いつまでもボネットの影に怯えたくはないだろう。
別にマフィアなんていくらだって始末してやったっていいが、さすがにそれではこちらの分が悪い。全員を相手にするとなると、何百人と相手にしなければならないのだ。
もちろん、どさくさに紛れて幹部連中を始末するという選択肢も、十分に考えられることだがそいつは一先ず置いておくことにする。とりあえずは、狙いをボネット一人に絞っておいたほうがいい。
ボネットを始末する算段をつけるために、まずやっておかなければはらないことがあった。本當に面倒ではあるが、ボネットのことを良く思っていない連中のところに行き、回しをしておく必要があるのだ。そのために先ほど俺は、デニスの城に赴いたのだ。
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中華街でタクシーをつかまえ、行き先のし手前で乗り捨てた俺は、そこから歩いて古ぼけた雑居ビル群の中で一際目立つ、近代的で新しいビルにやってきた。
いくつもの企業がテナントとしてはいっているビルで、その最上階に目的の連中がとぐろを巻いている。これはデニスの教えてくれたことだった。
吹き抜けになったロビーを抜けて、エレベーターの前にまでくると、ちょうど良く、エレベーターが下りてきていた。上昇ボタンを押してエレベーターに乗り込み、最上階へのボタンを押す。
すぐさまエレベーターは上昇をはじめ、ものの一分と経たずに最上階にまであがった。最近のエレベーターは昔にくらべ、本當に速くなったものだ。
エレベーターを降りてそのまままっすぐいった先に、例の場所がすでに視線の先にある。廊下は灰がかった青い絨毯になっていて、それがずっと廊下の先までびている。
壁は白く、両側に等間隔に絵畫が飾られてあった。さながら、ちょっとした館のようでもある。俺はそんな廊下をいつもみたいに、やや大に歩いて廊下の先にある観音扉の前にまできた。
ノックすることもなく扉を開けてみると、中にいた連中は突然の訪問者に驚きの表を向けた。まぁ、當然の反応かもしれないが。
「……何者だね」
中にいたのは五人で、そのの一人が驚きの顔からすぐに怪訝そうな顔で、そう聞いてきた。すでに、次はどうするべきかという顔になっている。
(こいつか)
肝っ玉の據わり合から、たった一言しか発していないがそのしゃべり方から判斷して、この男こそ、デニスから教わった人に違いない。ボネットの政敵であり、今までのあいだ唯一、ボネットからの執拗な政治戦をかわしてきた人だ。
マーロンの親父からは、全て葬ってきたという話を聞いていたから、まさかそんな人がいるとは思わなかった。けれど、何事にも絶対なんてことはないのだから、むしろ當たり前であるともいえるかもしれない。
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「あんたにちょいと話があってきた」
「話?」
チラリと他の四人を目配せすると、すぐに男が気付いて人払いするよう言い付けた。男の二人だけになると、俺はさっそく話を切り出した。
「……ブルース・テイラー、ウェールズ、カーディフ出の年齢四十八歳。十六のときに家族とともにロンドンに移住。ロンドンにある一流の高校、大學、大學院に通い、大學院時代にボネットと出會って以來、互いをライバル視。
ボネットが裏で政治家をるに対し、あんたは逆に政治家として活。ボネットの政略をかわしながら、保守派の番頭として、次の選挙では代表として立候補する予定。
それに伴い、最近ではマフィアからの実力行使によって幾度か命を狙われていて、つい何ヶ月か前に殺し屋に殺されかけてからは、プライベートでの外出はしていない……まぁ、他にもまだあるが、ざっとこんなところでいいかな」
俺が説明してみせると、テイラーは無言のまま目を細めた。
「私が次回の選挙で立候補することは、まだマスコミにも、誰にもいってないはずだが……側近の者以外には誰にもね。誰かリークしたと考えるべきかな」
「多分、誰もリークはしてないと思うぜ。しかし、そういった報やきは、わかる人間にはわかっちまうもんだろう、テイラーさんよ」
「……ふむ。それで、君は一どんな用件で私のところに來たというのかね」
テイラーのしゃべり方は上流階級にありがちな、どこか上からものをいっているようなしゃべり方だった。それにしても、ノックもなしにってきて突然、人払いさせるような人間に対してなんの畏れを抱いている様子がないのはさすがだ。
しかも、命が狙われているという事実を知っていることより、選挙に出ようとしていることを知っている、ということのほうに食いついてくるあたり、冷靜にきちんと事をけ止めている証拠だろう。國の次期トップを狙おうとするだけの、最低限のはあるというわけか。
「あんた今、外出は控えているわけだが、それがなんでかは知っているかな?」
「……私が出馬することを誰も知らないとなれば、誰か私のことを気にらない政敵あたりが、出馬とは関係なしに始末しようとした、といったところかな」
この言い分で気付いた。テイラーは、自分を狙っている連中の背後に誰がいるのか、薄々ながら勘づきはじめているようだ。
「その様子じゃぁ、誰があんたを狙ってるってのを口にしたところで、あまり有益な報にはならなさそうだな」
いつもとやや勝手の違う會話に肩かしを食らった俺は、苦笑して肩をすくめた。わずかな會話だけでよくわかった。この男は、本當にトップになるためならば危険であっても自分のを投じて、政治の汚い世界で本気で戦っているのだと。
つまり、そのためであれば自分の命が狙われるのも仕方ない、自分はすでに半分は死んだも同然であると思っているからこその、この落ち著き払った態度でいれるのだ。
「いや、知っているというのであれば、是非とも教えてもらいたい。今はこんな狀態だが、私としても、いつまでも引っ込んでいるわけにもいかない」
「別に教えるのは構わないが、あんた、すでにわかってるんじゃぁないのか」
「すでに、何人かの目星はついている。しかし、決定的な証拠がないのだよ。だから教えてもらえるのなら、教えてもらいたい。もちろん、ただでとは言わんさ」
ニヤリと口を歪めた男に、俺はやれやれと小さくかぶりを振った。どうやら、この男は筋金りの政治家のようだ。紳士的に振る舞ってはいるが、その報を元にあれやこれやと、いかにして自分に有利な方向へもっていくか、考えはじめているのだろう。
「目星がついているってのなら、単刀直にいおう。あんたを狙ったのはマフィアだぜ。そして、そいつらをけしかけて裏からっているのがボネットの奴だ。
他にも奴は、自分の手元に暗殺要員を置いてる。先日、あんたが暗殺されかけたときの犯人はそいつさ」
「やはりボネットか。彼は私のことが気にらないらしいからな」
真実を告げても、テイラーは全く怖じけづく様子はない。むしろ確実なことを知って、納得したといった表をして頷いている。
「ついでにいうと、奴はあんたの首相への道を、確実に潰すだろうよ」
「なぜだね」
「簡単なことさ。あんたの後援者たちを裏で買収しようとしてるらしい。このままだと、あんたは確実に落ちるぜ。ついでに落選を理由に、あんたの政治生命すら奪いかねない計畫を立ててるって話もあったな」
最後のは腳だが、まぁ構わないだろう。この手のタイプの人間は、こういっておけばどうにかしようとするはずなので、何かしら俺に助言なりを求めてくるに違いないと踏んだのだ。
「つまり、君はボネットをどうしようというのかな」
「実をいうとあんた以外にも、ボネットのことを目の上のたんこぶみたいに思っている連中がいる。そいつらは訳あってボネットの言いなりになってるみたいなんだが、場合によっては、ボネットに一泡ふかしてやりたいと考えてるらしい」
「つまり、どういいたいんだね」
テイラーは、ぐっとを前にのめり出し俺の話に耳を傾けだした。本人は気付いてないかもしれないが、この態度はなんだかんだでボネットのことをかなり気にらない様子だ。
「つまりだ、ボネットを始末すればいいって話をしてるのさ」
「始末だと……?」
明らかに騒な言いの俺に、テイラーは眉をしかめて反問した。政治なんていう、薄汚い世界にを沈めている男のことだから、俺のいっている意味がわからないはずがないだろう。
けれど今までのあいだは、そんな騒なことには無関係できたのかもしれない。だからこそ、汚いものでも見るかのような目で俺を見ているのだ。
「はっ、何をいうかと思えば。ボネットを始末するだって? ようするに殺そうというわけだ。誰がかね。君がするとでも」
額に手をやってりながら、大仰に笑ってみせる男に俺は心でほくそ笑んだ。まるで人を小ばかにしているようなテイラーだが、実際にはそうは思ってはいまい。間違いなく、その機會があるのであれば……そう思っているはずだ。
「もちろん、俺がやるさ。こちらとしても、奴を放っておくわけにはいかない理由があるんでね」
テイラーの顔をしっかりと見據えながら、そう告げた。
「うむ……」
黙りこんだまま何かを考えている様子のテイラーに、俺は畳みかけるようにいう。
「ま、別に信じたくないなら信じなくてもいいぜ。その場合は、あんたに票が集まらなくなるだろうがな」
「……私のメリットは」
「安全と首相への道。安全がなければどっちみち、あんたは死んじまう運命にあるがね」
肩をすくめていうと、さすがのテイラーも先ほどまで以上にしかめ面になる。當然だろう。日本と違い、安全も金で買わなければいけない海外において、目にわかる形で保証されるのであれば、誰だって買おうとするだろう。もちろん、俺だってそうする。
ましてやこの男は、次期トップを狙っているような奴だ。そんな奴が、安全という目に見えないものを考えないはずがない。ヨーロッパでは一國のトップとあれば、アメリカ同様、暗殺される危険が非常に高いのだ。
「わかった、信じよう。それで、君は何がしいのかね」
さすがに話がはやい。タダで報を売りにきたわけではないことを良くわかっている。
「簡単なことさ。今から言うことをしてくれりゃぁいい」
ニヤリとして俺は、ようやくテイラーの前にある椅子にひいて腰かけた。
日付も変わった深夜――東ロンドンのはずれに位置する、テムズ河のふもと近くで俺は車の中で息をひそめていた。辺りには俺以外の車は一切ない。
車の中から俺は、対岸にある、今晩乗り込むマフィアどもの城を雙眼鏡を使って覗きこんでいた。外の見張りはたったの七人だが、ここからは見えない死角にもいないとは限らない。
ここから見る限りでは死角が二カ所あり、そこに十分見張りがいる可能が考えられる。なんせ、他の七人からも見えにくそうな位置になっているためだ。そう考えて勘定すれば、見張りは九人ということになる。
最悪を考えて行するのだから、九人はいる、こう考えたほうがいい。もし見てのまま七人であれば、それはそれで儲けものだと思えばいいのだ。
連中の城はちょっとした工場地帯の中にある、工場を併設したビルだ。ビルそのものは五階建ての、あまり大きなものではないが、作業員は全て手下になるらしいので実際には、かなりの人員が配備されているとなる。
しかし、それも今、これからの時間帯となると話は別だ。連中も、表向きは工場で働く作業員という肩書きがある以上、必要以上にむやみやたらと人員を員できるわけでもない。おまけに、今晩は週末の夜だ、だからこそ、連中は必要最低限の人員しかいないと見ていい。
デニスの報ではこいつらは、ベケット達ともう一方を相手どって商売していただけでなく、ボネットともっとも強く結びついているのだという。そして今晩、ボネットの野郎がここを訪れることになっているとも。
これを見逃さない手はない。さすがに、マフィア全員を相手にはできないけども、いつも週末にここを訪れるというボネットも、慣れた場所であれば必ず警戒を緩めて警備も手薄になると踏んだのだ。
さらに五階には一切の電気がついてないことから、今回利用される部屋が四階にあることもわかる。五階が使われるのであれば廊下には當然、見張りがいるはずなのにいない。さすがに配置されているのに、建で電気をつけないというのはおかしいだろう。
そしてデニスの報通り、人員も手薄なうえに、今しがた覗きこんでいる雙眼鏡に、ボネットの野郎が乗っていると思われる車が飛び込んできた。
俺は雙眼鏡の倍率をあげ、よりしっかりと車を凝視する。倍率は最大になり、車のナンバーまで読み取れるほどだ。車の到著時間もいつも通り、一分の狂いもなさそうだ。
工場にっていく車はビルの手前で止まり、中からボネットの奴が出てきて建のなかにっていったのを見屆けると、俺も即座に行にはいった。
必要なものは全て防水袋にしまってある。これからテムズ河に潛り、泳ぎで工場の敷地に潛する手段を今回はとった。工場敷地、ならびに部と配管の位置まで、しっかりと頭の中にたたき込んである。
雙眼鏡をほうり出し、すでに著込んでいるダイビングスーツになるため、服をいだ。やれやれ、またいつかのように泳がなくてはならないのかと思うと、しばかり気分が重くなる。
確かあのときは凍えるほど冷たい、北歐の海を遠泳したのだった。あのときを比べれば、今回ははるかにマシといえる。テムズ河は確かに大きな河だが、川幅は日本の三大水系のものと比べると、さほどない。せいぜい、二百三十メートルかそこらだ。
しかもさらに下った河口付近にあるシステムのおかげで、水量のわりに水流はあまり速くないのも俺にとっては好都合だ。車を降りて、水の中にる地點にまで降りていく。
連中はあくまで、近づいてくる奴だけを監視しようとしている。河隣りだからこそ、河を監視しなければ意味がないというのに。それとも、河が背水の陣になっているとでも思っているのだろうか。
一呼吸おいて、足からゆっくりと汚いテムズ河の中にを沈ませていく。首のあたりまで水に浸かると當然、足などつかなくなるが目下の問題はそうではない。テムズ河の水質だ。
この河の水はとても汚く、そんな水にをひたすというだけで、どうしようもなく嫌悪が沸き起こる。東京の川だって汚いし、誰もりたいなどと思うものはいないだろうがテムズ河の水は、そんな東京を流れている川の水のほうが、まだマシといえるほど汚れているのだ。
深夜なので、はねるような水音は連中に気付かせてしまうかもしれないので、平泳ぎでなるべく音を立てぬよう、ゆっくりと進んでいく。顔の表面に、下水の水とはいわないが、それにも劣らない汚水が流れていくのを堪えながら、ようやく侵するポイントにまでたどり著いた。
(さて、ここからが最初の難関だ)
なんせ、これから頭のてっぺんまで汚水の中に潛って、排水管の中を泳いでいかなければならないのだ。
こんな汚い水の上で呼吸するのも憚れるが、仕方なく水中に潛る前に思いきり息を吸い込んで、一気に水中に潛った。
水がにってくるわけではないが、それでもなんともいえない臭いが、レギュレーターの中からも漂ってきていた。そんな臭いをしでも拭い去るように潛り、手探りで排水管をさぐる。
俺の潛ったポイントはちょうどよく真下に排水管があったようで、なるべく近いポイントを目指して泳いだつもりだったが、なかなかにいい勘をしていたらしい。
排水管の口は、なんとか人が一人はいれるかどうかというほどの大きさになっており、格子がされている。それを防水袋とは別にかついできた道で焼き切るつもりだった。今の時代、水の中ででも鉄を焼き切れる道があるなんて、便利になったものだと思う。
見張りの連中からは、この位置は死角になって見えないはずなので、構うことなく格子をれるよう二本、上と下を両方焼き切って捨てる。ここまで水に潛って、まだ十分とたっていない。
汚水で視界が悪い中、防水袋をまず先に通しすかさず自分が排水管の中へとをすべらせる。
そのまま、ゆっくり流れに逆らって水流の中を泳いでいく。時折、得も知れないゼリー狀のヘドロがをヌルリとすべっていく覚があった。思わず鳥が立ちそうになるが、堪えてもくもくと前進する。
早くたどり著けと念じ続けるうちに、ようやく上昇ポイントにまでやってこれた。水をかくため前に出した手に、排水管の壁が當たったのだ。
ぐっと腰を落とし、思いきり上に向かって床を蹴る。水の抵抗もあってあまり上には進まないが、その推進力を得るために蹴ったのだからこれで十分だ。
上を目指して水の中を泳ぐのは浮力の影響もあり、前に進むことよりも簡単なので先ほどまでとは、比べものにならないほど楽だ。このまま一気に出口を目指す。
出口を目指して泳ぐうちに、やっと上のほうがほのかに明るさを見せ始めた。出口が近い証拠だろう、排水管の幅が先ほどよりも広くなり、より下に流し込もうとする力が強くなった。わかりやすくいえば、溜まった風呂水を捨てる際に、栓を抜いたときのことを想像してもらえればわかりやすいだろう。
あれと同じで水が落ち始める場所というのは、平らで平均的にかかっていた水の圧力が重力によって落ちようとするため、流れ落ちようと水がその一點に向かっていく。このため、排水口というのは最も比重がかかるために、他の場所に比べて水圧が何倍もかかるのだ。
もちろん、今回はそれも織り込み済みだ。俺は、擔いでいる酸素ボンベの下にあるスイッチをひねった。すると、途端にボンベの中から大量の酸素が下に向かって勢いよく抜けていき、一気に上昇し始めた。
本來、酸素ボンベは下に空気を抜くためのはついていないのだが、今回のために、デニスのやつが用意してくれた特別のボンベだ。というより、デニスがうまく逃げるための道として開発した、といったほうが正解だろう。
とにかく、流れこんでくる水圧に向かって、発的な推進力を得た俺は、瞬く間に水面にまで浮き上がることができた。水面に浮く直前にボンベは酸素を使い切り、ただの金屬の塊となったので捨てた。
ここまでくれば、もう水のことを心配する必要はない。再び平泳ぎで、なるべく音を立てぬよう水から上がれる場所へといく。まぁ、水が滝のようにうるさく流れこんできている場所だから、クロールでもいいのだろうが、念には念を押しておいたほうがいい。
水から上がれそうな場所を見つけた俺は、そこからすばやく上がると、早速ダイビングスーツをいで水の中に投げた。後はあの汚水の滝が証拠を消してくれるだろう。もしそうならなくとも、ここまで暗くては連中が気付くことはないはずだ。気付く前に、俺が始末をつけるからだ。
続けて、口をガチガチに縛ってある防水袋の紐を服の中にしまっておいた鋭利なセラミックナイフで切り、中から仕事道を取りだしてにつける。銃口にはこういうときのためのサイレンサーを、ついでに暗闇のなか目立たないために、あらかじめ黒い顔料を塗っておいた仮面で顔を隠して準備完了だ。
頭の中でこの工場の図面を広げ今どこにいるかを大まかに把握し、見張りがどこにいたかを立的に考える。車の中から見たとき、死角になった箇所に見張りがいないかと勘ぐった箇所には、それらしい奴が見當たらない。これはつまり、數えた通りの人數がここに出ばっていることになるわけだ。
一呼吸おいてを屈めながら、素早く鉄骨の後ろに走る。そっとから顔を覗かせ、見張りの位置を確認する。
まず一階と二階のあいだの階段に一人、二階にあがってすぐの場所にも一人。あとは一番高い三階部分に、外を見張るよう命じられている奴が一人だ。反対側も覗いてみると、鏡で見るみたいにやはり同じような形で三人が配置されていた。
(あと一人は)
導き出される答えは一つしかない。すかさず頭上を見上げた俺は、二階にあがれそうな階段を探す。
階段は二カ所しかない。だが、そこの周辺には見張りがついている。おそらく、連中には最低限の配置の知識しか與えられていないか、何も知らずにそこにいるかのどちらかだろうが、こいつはなかなかに厄介だ。それでも行くしかないのだから、そいつを嘆くわけにはいかない。
俺は再び深呼吸を二度三度し、一気に階段へ詰め寄って階段の裏の下に回った。階段はよくある金屬のもので、段と段のあいだが抜けている。それを猿渡と片手懸垂の要領で、手を使ってのぼっていくのだ。
銃は口にくわえて、弾みをつけて數段上の階段を摑んだ。この手の階段は、のぼる際つま先が隙間から抜けないよう留めるため、奧がしだけ上を向いて曲げられている。これに指を引っかけると吊られた形になり、そこから腕の力を使ってのぼっていくのだ。
せいぜい階段は十三、四段といったところだろう、そう考えると大したことはないように思える。いや、実際にこの狀態であがるだけなら大したことではない。
だが、今回は勝手が違う。なんせ、音や自分の荒い呼吸も立てるわけにはいかないのだ。たったそれだけのことなのに、途端に作戦の難易度は変わる。
抜き網になった床は、下から上の様子がよくわかる。今見張りの奴は持ち場をし離れた場所に向かって、背中を見せて歩いている。この隙を俺が見逃すわけがない。
すかさず、両手を使ってでを浮き上がらせ、階段のふちに足をひっかける。気分はまるでロッククライマーだ。そのままを橫にスライドさせ、橫から上に向かうように、わずかに弾みをつけて飛び上がる。階段の急勾配のせいであまり弾みがきかないが、つけないよりはマシだ。
右手を二階床のふちに逆手でかける。當然、ぶらりとが前後に大きく揺れた。それだけでも右手にかかる負擔はかなりのものだった。はじめ、このまま落ちてしまわないだろうかと、本気で思ってしまったほどだ。
むやみに四肢をかすと余計に右手への負擔がかかるので、ここは揺れが落ち著くまで何もしない。もちろん、そうはわかっていても、何メートルも下に落下すれば連中に気付かれかねないという思を、早くなんとかしたいという本能がそれを邪魔して、二度三度と足をかしてしまった。
だが、それもしの間だけだ。なんとか気持ちを落ち著かせると、自然との揺れもなくなっていき止まる。止まったところで一気に左手も二階床のふちにかけ、懸垂の要領で上をあげていく。
床が元のあたりにまできたところで、右足を階段の手摺りの支柱にやり、一気にすべらせるようにを床にやった。その間、銃をくわえていた口と歯に強く力をこめていたらしく、間接のあたりに軋むような痛みをじる。
やっとのことで二階にまであがった俺は、すぐに後ろを向いている奴へ視線をやると、続けざまに周辺にも目をやった。俺のいた一階部分の真上に、やはり見當たらなかった七人目がいた。そいつは、あくびをしてぼんやりと全く見當ハズレのほうを向いている。
ニヤリとを歪め、最初の標的へと視線を戻して足早に近づいていく。得は銃ではなく、ナイフだ。いくらサイレンサーが付けられているとはいっても、さすがにこんな場所で銃をぶっ放すわけにはいかない。
限りなく気配を消してナイフを逆手に、背後から相手の口を左手で押さえ込む。
「!?」
一瞬、驚きを見せた相手にわずかな考えを起こさせずに、ナイフで首をかっ切った。
刃先が頸脈と気管を切った瞬間、ぶるりと相手のが強く震えた。きっと、何が起こったのか理解できなかったにちがいない。そいつを理解する頃には、もう聲も出せない死ぬ直前というわけだ。
びくびくと痙攣する男の四肢を押さえ、震えが止まったところで靜かに死を影に橫たえる。
その影から、同じフロアにいる二人の位置を確認し、同じように相手が後ろを振り向いたときを狙って、次々に見張りの連中の息のを止めていく。
続いて反対側の見張り連中も、同様に始末していった。銃を持ってはいても所詮は形だけだ、たいしたことじゃない。
一通り始末をつけると、俺は小さくため息をついてすぐに行にうつる。連中はまだ誰も気付いていないようだが、油斷はできない。なんせ中には、なくとも二十人からのマフィアどもが武裝しているのだ。
工場三階部分の見張り臺から、なるべく音は立てずに階段をおりていき、敷地の建の中に裏口からはいる。ここからならしばかし、ルートが短くなるのだ。
人のない時間帯だけあって廊下は薄暗く、見張りの連中もいない。俺は足音に気をつけて素早く廊下を抜けて、階段を駆け上がる。
二階にきたとき、角を曲がった先にある廊下の端のほうから、小さく話し聲が聞こえた。すばやくそれを察知し、すぐに壁に背中をつけて廊下をうかがった。
外の連中とは違い、黒のスーツをびっしりと著込んだ奴らが二人いて、暇つぶしなのか、小聲で談笑しているようだった。
本人たちは気付いていないのだろうが小さい聲とはいっても、深夜では意外なほど音は響くものだ。それも、連中はかなり盛り上がっているのも、ここからもよくわかる。
二人がこちらに向かって歩きだした。もちろん、こちらに気を向けることなどしそうもない。
このチャンスに俺はナイフをしまい、今まで口にくわえていた銃をようやく手にした。サイレンサーだと威力も飛距離も小さくなるので、確実に始末するためにはなるべく引き付ける必要がある。
せっかく気付かれずにここまできたのに、一発で仕留められなかったために敵に気付かれるなんて真っ平だ。
二人の聲が、歩くスピードに合わせて大きくなってくる。だんだんと近づいてきているのがそれだけでよくわかる。
ゴクリとがいて、目一杯近づいてきたと直で判斷した俺は壁から大でをだし、向かって左の奴の顔面めがけて引き金をひく。
引き金をひいた直後、間れずにその隣の奴も同じように、額に弾丸をぶち込んだ。二人目の死に顔は、何があったのかわからないといった顔のままだった。間違いなく、痛みをじることなく死ねたはずだ。それだけは、外の連中と比べればいくらか幸運だろう。
一人目は鼻っつらに、二人目は額に小さなを開けて倒れ、そんな死を一瞥することもなく俺は、足早に廊下の先にまでいく。
経験上、この三階へ続く階段の踴り場あたりから上のあたりに、もう一人か二人ばかし連中がいるはずだ。事実、上のほうにかすかにだが、人のいる気配をじるからだ。
次はゆっくりと階段をあがっていき、踴り場につく前に壁を背にして、上をうかがう。人のいる気配はあるが、ここからは見えない。
再びゆっくりとしたきで殘りの階段をあがり、先ほどのように壁に背をやり、廊下のほうに視線をやる。
やはりいた。それも先と同じで二人だが、その立ち位置が下の二人のそれとは全く違う。一人はこちらにを向けているが視線は別の方向にやっていた。
問題のもう一人は、一人目から十メートルほど奧にいて視線はあさってな方向に向けている。今にも俺に背を向けさらに奧へと歩きだしかねない、そんなポーズに見える。
奧の奴が予想通り、俺に背を向けてきだすのに三十秒とかからなかったろう。手前の奴の視界が死角になった瞬間、俺は素早くをくりだし、先ほどのように頭部を狙って弾をぶち込んだ。
そいつが倒れ込もうとする次の瞬間には、すでに奧の奴に銃口が向いている。相手がこちらに銃をむけたとき弾は発され、妙なき聲のあとに、そいつはぶち倒れた。
「……ふぅ」
張したが、相手が本格的なプロでない以上、機敏な行と判斷力をもってすればたいしたことはない、プロであればできて當然のことなのだ。
この要領で、三階から四階へとあがった。四階の見張りも始末したことで、ようやくボネットと対面できるというわけだ。
三階同様、四階も見張り二人が両に分かれていたということは、その中間辺りの部屋にボネットの野郎がいるということになる。
部屋が二つあるが考えるまでもなく、向かって右の部屋に、ボネットや他の連中がいる部屋がいるはずだ。いかにも連中が談をかわしていそうな、重々しい雰囲気をもった扉があるためだ。
そっと、その扉に耳をあててみる。殘念ながら中の聲までは聞こえないが、たしかに人のいる気配をじさせる。ボネットは、間違いなくこの中だ。
問題は何人中にいるかだ。まだ他の見張り連中は、俺という侵者に気付いている様子はない。
先ほど、中にはざっと二十人からの人間がいると思ったが、いざ中にってみれば、見たのはたった六人だ。ビルの正門側にも裏側同等數の人員を配置していると考えるのは當然だが、だとしても人數から考えるといまひとつおかしながある。
人の気配が丸きりじられないのだ。二十人だとすれば正門のほうに六人いると仮定して、やはり十人はいるはずなのに、部屋の中に十人近い人間が詰めている気配はない。
そうじるのは、なかば直ともいっていいかもしれないが経験上、こういった場所ではそれくらいの人員が配置されるものなのだ。まして、相手は完全なプロとは言い難い、にわかなのだ。
(どういうことだ)
怪訝に思いつつも、俺は扉を開けることにした。ここまできてボネットを始末しないわけにもいかないのだ。逃走経路もしっかりと頭の中に、刻み込んである。どうにかなるはずだ。
一度、深呼吸をして思いきり扉を開けた。一瞬で中にいる人間の數を把握する。相手は六人だ。もちろん、ボネットの野郎も頭數にはいっている。
「誰だっ」
そうび聲があがった瞬間、続けざまに三発の弾丸を連中にぶち込んだ。
この初撃に反応できた奴は一人もいない。用心棒らしい奴が二人、腹とにそれぞれ弾をあびてぶち倒れ、もう一人は腕にあたった。
恐慌狀態になった連中の中、ぶち倒れた奴らを目の當たりにし一人だけ、素早くかけていたソファーの影にを隠した奴がいるのが、視界の脇にうつる。ボネットの野郎だ。
後の二人はボネットのきにつられ、ようやくが反応したようで、脇にある銃に手をやろうとしていた。
連中がスーツの中の拳銃を向けようとした瞬間には、俺はすでに二人に銃口をむけて引き金を引きだしていた。
二人分の苦悶の聲がして、の塊が床にぶち倒れる音がする。
続けざまに、初撃で仕留めそこなって倒れこんでいる三人目の元にぶち込む。俺に向かって、銃口をむけてきているのが一瞬、視界に確認できたからだ。
「さぁ、あんたの用心棒はみんな片付けてやったぜ。次はあんたの番だ」
「殺し屋か」
俺は、そんな問いには答えない。聲だってむやみに聞かすわけにはいかない。今の時代、どんな機能をもった道があったか知れたものではない。
ましてや、今までずっと気に食わないことは闇に葬ってきたような男だ。そんな道を、隠し持っていないとは言い切れない。
「ふふ……まあ、いい。君の相手は私ではないよ」
「なに?」
そうつぶやいた瞬間、部屋の奧にあるドアが突然ひらかれた。
脇見で素早く、影に隠れようとしたが遅かった。肩に銃弾がぶち當たったのだ。
「ぐっ」
當たった瞬間、何が起こったのか、まるで理解できなかった。それでも、あの地獄だった船の中での出來事が脳裏に浮かび、これが銃によるものだとすぐに理解できた。
右肩にけたため、銃を落としてしまう。著弾による衝撃で、腕が痺れるためだ。
「突然のことだったので驚いたが、君もここまでのようだな。このあいだに私は逃げるとしよう」
ボネットの野郎が嘲笑いをしながら、開かれたドアに向かって隠れたソファーから走りだした。
「待てっ」
ボネットの後ろ姿を見てぶが、顔のすぐ橫を弾丸が飛んできてつけていた黒い仮面が弾けとぶ。
に直接れはしなかったが、すぐ近くを飛んできたためにとても熱くじる。
「……かないほうがいい。今のは威嚇だが、次は間違いなく顔を狙う」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、驚いたことに日本語だった。それもかなり流暢な発音で、一切の淀みがない。つまり、相手は日本人ということだ。
「さあ、そこからゆっくり立ち上がってもらおう」
落としてしまった銃を取り上げたいところだが殘念ながら、それは無理な話だ。俺は運よく影に隠れることができたが、銃はその場に落としてしまったため、銃を拾おうものなら次の瞬間、間違いなく顔などといわず、この男の腕なら俺の顔の好きな部分に弾をぶち込めるだろう。
俺は小さく舌打ちして、仕方なくいう通りに立ち上がった。
「賢明ですな」
その言い、口調には聞き覚えがあった。俺は思わず眉をしかめ、開け放たれたドアの奧にむけて目をこらす。
「あ、あんたは……」
「ふふふ、お久しぶりですな」
間違いない。この癪に障る言い方、人を見下したような態度をじさせる聲は……。
「黒田……」
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