《いつか見た夢》第76章

ふわふわとした浮遊に、どこか懐かしさを覚えた俺はぼんやりと、その意識の浮遊にを任せていた。

『……ないで』

不意に聞こえてくる音。

いや違う。……聲だ。いつもの、囁くような小さな聲。だけれど、とても心地よい囁き聲。

『死なないで……』

もう俺は無理そうだ……もうこのままでいたいんだ。

囁く聲に、俺は靜かに語りかけるように答える。疲れた……だから、もう眠ってしまいたいという気持ちが先だっていた。

『駄目、死なないで。お願い……』

もう何度も聞いてきた聲に、それと同じく、何度も同じことをいってきた俺の意識が突然、ぐいっと下から引きばされていくような覚があった。

『駄目よ、死なせない。絶対にお兄ちゃんは死なせないから』

もう止してくれ……。

あのとき、たとえ幻覚だったのかもしれなくても、おまえの姿を見ることができたんだ。俺はもうそれだけで十分だ。

始めは小さな囁き聲だったのが、今でははっきりとそれを表すように、とても大きなうねりとなって俺の意識に嵐のごとく、がんがんに響き渡る。

まるで、俺の意識そのものを支配しようとするみたいでもある。それを象徴するように俺を強く否定する聲は、こちらの意識をさらに下に下にと引きばしていく。

それはさながら、意識の渦……あるいは、意識を宇宙にたとえるならば、ブラックホールのようですらあった。抗えないほど強力な重力に捕われた俺の意識は、ただ落ちていくことしかできない。

『お兄ちゃんはまだ死んじゃいけないのよ』

まるで呪詛のようにも聞こえる言葉を最後に、俺という自己を持った意識は、完全にそのブラックホールの中へと吸い込まれていった。

暑さにうなだれるに、鞭打つようにゆっくりとベッドから起き上がる。なにもしていないのに、すでに中汗ばんでいた。

それも當然だ。暦は六月も終わってすでに、七月も下旬に差しかかろうという頃になっているのだ。じめじめとした梅雨の季節もつい三日前に梅雨開け宣言がなされ、これからは夏本番一直線といった合だった。

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もちろんながら、こんな時季なのだから晝間の外気溫は連日のように三十數度を記録するのは當たり前だ。しかし、今年は例年以上に暑いようで、梅雨のあいだも當たり前に三十度を超え、昨日にいたっては早速この夏一番の暑さとして、三十八度というとんでもないを記録をたたき出した。また、毎年日本の最高気溫を観測する盆地では、四十一度近い気溫を記録したらしい。 うだるような暑さとはまさにこのことで、きっと誰もがこの夏もまた、猛暑になるだろうと予したに違いない。全く、とんでもない暑さだ。そうなると、この暑さではに人の流れも鈍くなるというもので、大手デパートやショップなんかでは、早くも一月単位での売り上げが前年比の十パーセント近くも落ち込んだというのだ。夏本番も始まったばかりのこの時期でこれでは、おそらく八月になっても売り上げはさらに落ち込むことは必須だ。

そして今日も、昨日と比べてもあまり大差ない猛暑日だった。こうなると、ちょっと馬力のない空調であれば、溫度をいくら低く設定しようがあまり効き目はないかもしれない。そのせいかどうかはわからないが昨日今日と、夏休みにったばかりのこの時期にしては珍しく、人の流れがなく鈍くなっているように思う。

まぁ、夏になれば人が流的になるので売り手としては、それを利用しようして売り上げをばそうとするのはわかるが、暑すぎると人は逆にあまり外出しなくなるので、當然といえば當然の結果であり、そうなっていくんだろう。とはいえ、冷たい飲みや食べは相変わらず好調のようだが。

もう夕暮れ時の午後七時を過ぎようという頃でも、外はちょっとくだけであっという間に汗だくになりそうだ。それを予させるように、寢ていただけでかしていないのにじんわりと、汗がにじんでいるのだ。

「全く、暑すぎる」

忌ま忌ましげに、一人ぽつりとつぶやいた。けれど不思議なもので、このままでいるのも億劫な気分だった。そんなときは暑かろうと寒かろうと、かすというのが信條の俺だ、著ていた白い無地のシャツをいでベッドの上に放り投げる。

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いだシャツの下から現れたのは、傷だらけのだ。ちょっと前まではこの傷の周辺に無數の痣があり、自分でも思わず頬の筋が引き攣ってしまいそうなほど、痛々しいものばかりだったのは記憶に新しい。それもこれも春に全の筋はおろか、全の骨という骨が々に砕かれたことに起因する。

全く、あの後は大変だった……というと、々語弊があるかもしれない。大変だったらしい、というのが正確だ。島津の研究所で、ゴメルとかいう化けと闘りあったとき、を摑まれた際に全の骨を砕かれたのだ。

子供が摑んで放さない人形のようなじでを摑まれれば、どんな人間であっても太刀打ちのしようもないだろうが、幸いにしてその化けは倒すことができた。その直後に俺は意識を失ってしまったため、あとのことは同行していた田神から聞いた話にすぎない。

意識を失ったあとに、エリナと仲間(必然的に俺の仲間ということにもなる)が近くに待機させていたヘリで、島津研究所跡から出し近くの港にまで移した。連中の話によれば元々、島津は破壊すべき対象として何ヶ月も前から目をつけていたらしい。そこにあの日、俺達が特攻をかけたというわけだ。

しかし、これも急な作戦変更だったという。なぜなら、俺達が特攻をしかける報を察知したためで、連中はただちにチームを編し俺達よりひと足遅いながらもやってくることになった。必要最低限の人員しか用意できなかったようだが、撃すらやりかねない連中だと田神がらしていたのが印象的だった。

同時に、それほどまでに島津の研究所には破壊しなくてはならないがあったということであり、知ってか知らずか、俺達がその手助けをしてしまうことになってしまったことになる。まぁ、直前の連中の言い回しから察するところ、それだけではないだろう。

俺にとっては、島津研究所は明確な復讐すべき対象であり、唾棄すべきものであったわけだから、あそこを瓦礫の山にしてしまうことにはなんの躊躇いもないし、やって當然だと思うのでこれっぽっちもそうしてやることに疑問はない。だからこそ逆に、連中がわざわざあそこを何ヶ月も前から目をつけていた、というのには疑問が生じた。

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研究所の実態が実態なだけに、何ヶ月も前から目をつけていたというのは、まぁ、理解できないわけではない。しかしそれはあくまで、その実態が許せないといった正義からくるものなんではないのか。仮にも殺しを生業とするような連中が、果たして一文の得にもならないことをするだろうか。はっきりいってしまうと、にわかに信じがたいのが正直な気持ちだ。

つまり連中には、他になにか別の理由があったのではないのだろうか。そのほうが何ヶ月も前からマークしていたというのにも説明がつきやすいし、連中の職業という観點からもそれが道理とみていいはずだ。

もちろん問題もある。それがいったいなんなのかだ。どんな理由なのかは今のところ知りようもないけれど、ある程度の推測はできる。まず、殺し屋だった今井の存在だ。

この男は昔、島津製薬の大株主だった男の息子にあたり、この男と島津の研究所で責任主任に就いていた坂上とは、なにか関係があるかもしれないと思うのだ。そして坂上の研究の集大である、NEAB−2といわれる新薬も、関係しているだろう。この薬は作った研究者いわく、伝子に強く働きかける作用があるらしい。

この研究のために、坂上は何百、あるいは何千という子供達をモルモットにしていたのだ。これだけでも十二分に連中をマークするのには理由としては、うってつけといえる。

今井はかつて、依頼されたわけでもないのに島津の運搬用のトラックを襲撃し、島津研究所の新薬を盜み出したという過去をもっている。今にして思えば、今井の奴が島津にたいしてなんらかの怨みを抱いていたとみたほうがいいだろう。なんせ奴は俺に対して、邪魔するなら殺すと脅してきていたのだ。

これも今ならわかるがプロたるもの、素人に足止めされたからといってあそこまでをぶつけてくるはずはない。もちろん、気にらない奴をぶちのめすことはあるかもしれなくとも、わざわざ殺したりはしないものだ。

あのは間違いなく本だった。だとすれば今井は、島津にたいしてよほど復讐しなくてはならないような理由があったわけで、それがなんらかの形で坂上と繋がっているのではと俺は考える。おまけに奴は、今年の春に出會った殺し屋、佐竹が過去に仕えていた今井令嬢の実兄だったというわけだから驚きだ。

そう、俺は今井の奴があんなに躍起になっていたのには、いまさらながら奴の妹のことが関係しているのだと考えていたのだ。家族から見限られていたらしい妹のことを、奴がどう考えていたのかは今となっては知りようもないことだが、島津の株主になっていた家系の息子としては、なにかしら関係があったにちがいないはずなのだ。それに昔、生の家にあった関係者のリストも今さらながら無関係だったとはどうにも思えない。

おまけに松下薫の話では、今井親子が行方をくらましたといっていたことからも、當然これらが関係していたとみて間違いないだろう。おそらく、これらのどこかにあのコミュニティの連中が狙いすましていた何かがあると見ていいだろう。いや、もっといえば連中の中心的な人である、武田とかいう奴の狙いだ。

以前、田神が武田には何かしらの目的があるのではといっていたのが思いだされる。もしかしたら、島津の研究主任だった坂上の行ってきた研究がそれである可能はないだろうか。

坂上の研究で作られたNEAB−2と呼ばれた、あの新薬がそれだ。あれにどれほどの意味があったのかは現段階では窺い知ることはできないが、今回の件には間違いなくどこかで絡んでいると踏んでいるのだ。

NEAB−2の研究過程であの研究所で出會った、あのゴメルとかいう全が逆立つほど悍ましい化けが生み出されたわけで、他にも奇怪な化けたちが何も創りだされていた。

そして、沙彌佳のこともだ。いや、おまけ程度の扱いなのは他のことで、俺にとってはこちらの方が命題なのだ。しかし皮なことにこれらの事象は、全て妹を追っているうちに起き遭遇してきたことばかりなのだ。

しかもだ。俺がこれらのことに首を突っ込まなくてはならなくなったのに、このNEAB−2が沙彌佳に投與されたという、なんとも許しがたい理由があった。おまけに、この薬の正確な効果はわかっていない上、それを與えられながら唯一生き殘った妹も、三週間に一度はそれを投與されなくてはならなかったというのだから、なおのことだ。

俺は汗ばんだにシャワーを流し浴び終えると、バスタオルを腰にまいて浴室を出た。ちょうどそのとき、外からドンドンと音が響いてきた。確か今日あたり、どこだかで花火大會があると田神がいっていたたので、多分その音だろう。

こんなクソ暑い中、日本の夏を彩る一大風詩の花火を見に行こうと、今日に限っては何萬といわず人々が街を出歩いているのだろうが、わざわざ、人込みの熱気でさらに暑くなるはずである中に繰り出したいとは思わない。

けれど、そうは思いながらも足は自然と窓のほうへと寄っていき、ここから見えないだろうかとついつい視線を泳がせてしまう。まぁ、外に出て見に行きたいとは思わなくとも、こうして部屋から見るんであれば、それはそれでいいかもしれない。

「……見えないか」

どうもこの部屋の窓からは、花火を見ることはできそうにない。元々、あまり期待しているわけでもなかったがしばかし殘念だ。なによりこの部屋からは、視線の先に特別高くはないが近代的なビルがいくらも建っていて、それらは全てこの古ビルよりも高いために遮られているのだ。これでは、どうあっても花火など見えようはずもない。というよりも、この古ビルの背が低いわけだから仕方のないことだ。

そうしていたとき、後ろでガチャリとやや重い金屬の鍵が解かれた音がした。瞬間、俺はそちらを振り向きベッドの枕の下に隠してある銃に手をやったが、おそらくそいつを出す必要はないだろう。

「起きたか、九鬼」

「ああ。ついさっきな」

そうかと相槌をうって部屋にってきたのは、この部屋の主である田神だ。やつにしては珍しく帰ってくる時間が遅いと思ったら、どうも買いをしてきていたらしい。茶い紙袋に、缶詰からインスタント食品に野菜、フルーツと飲料水などといった、數多の食料品が買い込まれている。それとインスタントとは別に、焼いたりレンジで溫めて後は適當なものとトッピングすれば出來上がりといった、ちょっとした加工食品の外裝なんかも見える。

「いつもすまないな」

「なに。気にしなくていい」

キッチンのテーブルにそれらを広げているそばに寄り、いくつかの食料品に手を延ばしながら今度は、こちらが頷いた。

俺は今、理由わけあって田神の部屋に転がり込む形で世話になっていた。田神はそのあいだ現在に至るまで嫌がる顔ひとつ見せず、こうして數日に一度はどっさりと食料を買い込んできてくれている。

「……あいつ、大丈夫だろうか」

「エリナのことか。まぁ、本人が大丈夫だといってるんだから大丈夫だろう。それに彼も第一線のプロだ、そのへんは抜かりないだろう」

「まぁ、そうなんだが」

さすがにこれ以上、腰布一枚では気恥ずかしいのですぐにぱくつける、菓子パンの袋を手にとってベッドのほうへと戻る。ベッドの脇に、替えの下著とデニムのスラックスが置いてあるからだ。それらをすばやく履いて、菓子パンの袋を開けて早速食いついた。

「君が気にする気持ちはわかるが、とりあえず今は彼からの連絡を待ったほうがいい。おそらく今日、この後にも彼からなんらかの連絡がくるはずだから」

一気に菓子パンを胃におさめ、田神の言葉に相槌をうった。本來ならば自分のことは自分でやるという主義の俺だけれど、エリナに諜報活を任せ、こうして田神の部屋に引っ込んでからというもの、すでに早二ヶ月以上が経過している。

やれやれ。こんなに時間的な足止めを食らうことになるんであれば、田神のいった通りにしておけばよかったと今さらながら後悔していた。思い立ったら即行が仇になったのだ。

俺が病院のベッドで目を覚ましたのがちょうど、ゴールデンウイークも終わった五月の半ば、もう下旬にさしかかろうという頃だった。島津の研究所でゴメルにを摑まれてしまい、全の骨という骨が砕かれ、いくつかの臓も損傷した狀態で約二ヶ月のあいだ、運ばれた病院のベッドの上で生死の境をさ迷っていたのだ。

正直、いつ死んでもおかしくない狀態であったが、奇跡的に助かったらしい。運び込まれたのがあの利の病院というのもあって、すぐに手開始という流れになったのも幸いだっただろう。まぁ、俺のような人間が一般向けの病院に行けるわけでもないが。

ただ利いわく、単にそれだけでなく驚異的な回復力のおかげでもあったらしい。特に後、その回復力が驚かされたのが、普通であればまだ不完全であっても、なんとか食事をしたりするレベルにまで回復するのに半年はみなければならないところを、俺の場合、意識を取り戻した頃にはすでにそこまで力が回復していたというのだ。

思えば昔、今井に刺されたときもそうだった。あのときも、醫者から回復が早いと驚かれたものだ。どういうわけか、俺は回復力だけは人並み外れているようだ。

そんなわけで意識を取り戻してからというもの、俺は落ちた力をつけるために多苦しかろうとも、いつもの二倍三倍もの量の食事をとって、さらなる回復をはかったのだ。

まぁ、それに関していうと、多分に田神の協力を得ることでできたことでもあるのだが。なんせ気付いたときには、直前までにつけていたもの以外、持ち全てが失くなっていたのだ。

なんとも間抜けな話だけども、俺の意識がなかったあいだに寢座のあったマンションが火事で炎上し、建ごと消し炭になってしまったのだ。當然、私も全て灰になり、服から分を示すようなものまで、何もかもだ。

にも、院していたおかげで命だけは助かったことになるが代わりに、沙彌佳と一緒に映った寫真を失ってしまったのが俺としては一番のショックだ。他のものはまだいい。替えなどいくようにもなんとかできるものだからだ。

そもそも日本に戻ってからの自分の立場は、デニスの計らいでイギリス出のために乗り込んだ潛水艦の中でもらった、偽名のパスのおかげだ。そいつを使って社會的な立場は全て手にしていたのだ。裏社會で本名だけを使うのはあまり賢明ではないが、偽名と本名の両方を使うのであれば、それはそれで混を招くこともできるだろう。そういった配慮もあって、デニスがわざわざ計らってくれたというわけだ。

まぁ、俺の場合はその頃はまだ幸運にも、數多のスパイどもに顔が割れてないというのと、併せて俺が何かしらきやすいようにというのも理由にあげないわけにはいかない。

だからそれらを失おうとも、特に悔しいとも思わなかった。自分が助かったのだから付隨品など、別にどうとでもなるけれど、あの寫真だけは別だ。あれだけは俺にとってとても大切な品であり、なんだかんだで命の次に大切なものになっていたといっても過言ではなかったのだ。

あの、ふざけた訓練時代を終えて一旦は戻った日本から、再びヨーロッパに舞い戻ったときに持っていったものだ。そんなものを失ってしまえば、さすがにどんなに強靭な神力を持っているような奴であっても、しの落膽をじないはずがない。

かといっていつまでも落ち込んでいるわけにもいかないので、どうしようかと悩む前になにか行を起こそうとしたのだ。だが、これがいけなかった。田神は、今警察やなんかがいているので行するのは止した方がいいといってきたのに、その制止の言葉など聞く耳もたずといったふうに、行を開始したのだ。

しかし、どうしてなのか俺の行く先々で、妙な連中がチラチラと視界に映るのが目についた。格段、なにかしてくるといったわけでもなかったがそれが逆に不気味に思えてきて、振り切るようになおのこと行が活発化すると連中の數が増える、といった悪循環に陥っていったのだ。

もちろんながら、それが我慢ならない俺としてはそのうちの一人を取っ捕まえようとすると、それをいち早く察知したのかパタリと姿を見せず、それができないことばかりだった。そんな中、俺の狀況を見た田神がこうして俺をひそかに匿ってくれているというわけだ。

しかも田神はエリナに、その連中を調べるよう俺の代わりに行させた。あのは田神と奇妙な共同生活をしていた際、ここからはほとんど出歩くことがなかったことから、俺とれ代わりであってもバレることはないという判斷だ。

それに猛反対したエリナだが、なんだかんだで田神に信頼されている証として、行することをしぶしぶながら承諾した。

そうすることで、定期的に田神を通して報が流れてくるようになってきた。まず、どうも警察が俺を指名手配しているということ。この報を聞いたとき、思わず聲を大にして聞き返してしまったものだ。それも當然というもので、指名手配されるようなことなど何もしていないのだ。いや、してこなかったわけではないがなくとも、警察の世話にならなければならなくなるような証拠は、一度たりとも出てないはずだったからだ。

しかし、もし捕まったりすれば、死刑判決が下されるのは間違いなしの所業はしてきているので、しばかしの焦りがないといえば噓になる。かつてフランスにいたときのことか、それともイギリスにいたとき、デニスが俺の報をインターポールに売ったとしたら……そんな不安だ。まだ第一報では警察とはいっても、どの警察なのかわからなかったのだ。

続いて第二報、第三報……と報が屆いてくると、だんだんと俺を取り巻く狀況が明瞭になってきた。それによると、火事でアパートの唯一の住人である俺が、ずっと不在であったことが不審に思われたのが発端となったということ。死も出てないうえに、火事が起こったのが院してからわずか一週間後であったため、その間、一度も帰らなかったのがまずかったらしい。

警察としても住人の安否を確かめないわけにもいかず、それで捜索されたという、なんともけない話だ。しかし、警察も馬鹿ではない。捜索が続けられていくうちに、偽造パスでアパートの契約をしているのがわかってしまったのだ。

偽造パスの大半は、過去に実在した人の名前と個人名義が使われることが多い。それだけが全てではないが、もし調べられたとしても死亡した人かどうかまでは照會されることは、あまりないことだからである。今回は元々イギリス旅行していたが、なんらかの事故に遭い死亡している人の名前で作られただ。

今回は不幸にも、照會されてしまったために不法滯在、ならびに國者として連中に追われるになっというわけだ。つまり連中の言い分は、住居が燃えたにも関わらず、いまだ姿を見せない一人暮しの住人が実は偽のパスポートで國してきた、中國人か朝鮮人か何かだと思われているということらしい。

おまけに、ただの不法滯在なら指名手配されることはなかったのに、指名手配された理由としては要するに、偽造パスポートを作ってまで國してきた俺が、中國か、もしくは朝鮮から送り込まれてきたスパイだというのだ。これらの國は、獨自に対日本報局を持つ國であるというのがあげられる。死亡した人間のパスを作れるくらいの報を得られるほどに、組織化されているという判斷がなされたためだろう。

勘違いも甚だしく、心外ではあるが、とまぁ、そういうわけでなんともありがたくも、警察から指名手配をけることになったわけである。しかし問題はこれだけではなく、どうも春に起こった、政治家連続狙撃事件の犯人が俺ではないかという、おまけ付きだ。

しかしそれ以上に頭の痛い話であるのが、なんと殺し屋として同業者からも狙われているらしいという話だった。警察に追われることも確かに気苦労のあることではあるが、こっちはまだいくらも立ち回ることができる手段があるので、まだいいのだ。

さすがの俺も、同業者から狙われるというのだけは頭を抱えないわけにはいかない。連中は、あの手この手で狙いすましてくるに違いないのだ。もちろん同じ立場でもある俺だから、連中の手のをある程度は想定することは可能ではある。それでも必ずしもそいつが的中するわけでもないのが正直なところで、できうるならば避けて通りたいところなのだ。

意外なことと思われるだろうが、この日本では海外以上に厄介事には厳しい。刑罰だとかそんな話ではなく、日本の場合、海外から見ても危険の度合いが低いため、有事にたいしての危機も低いと昔からいわれている。そのために事が起こるとこの國では非常に目立つためである。

有事というのは別に戦爭だけのことじゃない。いわゆる、工作員含めた殺し屋たちの現場の諜報活も、有事に當たる。日本人は、戦爭を意識することはあっても、一匹狼の殺し屋どもからスパイの殺し屋まで、こういった連中まで意識することはほとんどといってないだろう。

ところが海外では、ある程度の地位にまでくるとこういった連中に狙われることが度々あるため、一般の人間でも、スパイは間違いなくいるという意識がかなり割合いるものなのだ。とはいっても、知識として知っているだけなので、詳しいことは知らされていないだろうし、どうすればなれるのかも知らないはずだ。もちろん、今目の前で話している人間がそうだとも気付かないだろう。

けれど日本人はこんなこといったとしても、そんなのはただの絵空事かのようにありえないと笑うか、軍事オタクかなにかと思われるのが関の山だ。

ともかくだ。こんな理由から、よほどの手回しがされていない限り、ちょっとしたことでもすぐにきがバレてしまうのが唯一の利點ではあるだろう。まぁ、実際には諜報組織は巨大であるため、ほとんどのことに手を回されて日本人が気付くことは、まずないといっていい。悲しいことにそういった點で、海外から見て平和ボケしていると嘗められる一つの要因になっている気がする。

なんにしても、俺にとって今のこんな狀況は好ましくない。一刻も早くなんとかこの狀況を打破したいところなのに、田神はまだ報がなすぎるのでまだ止めておけというのだ。普段であれば、そんな制止は構うことなく行するところだが、その制止を聞かなかったためにこうなってしまっては、今度ばかりはそれを聞かないわけにはいかない。同じ徹を踏むなど、この道のプロてしてあってはならない。

こういったわけで俺は、田神の部屋に転がりこんでから早くも二ヶ月が経過し、そのあいだ一歩も部屋から出歩くこともなく、ただ悪戯に日々を過ごしていた。

窓の外から、道行く人々の話し聲が聞こえてくる。もう花火も終わって帰宅している途中といったところだろうか、事実、もう三十分以上も花火の音が聞こえてきておらず、時刻もすでに九時半を回っている。

「九鬼、そろそろエリナが來る頃だろうから出てくる」

「ああ」

田神は徹底してここに俺がいることを悟られないよう、エリナからの連絡も直接會って聞くのではなく伝言板を利用し、そこから指定された場所にいってようやく報を得る、といった方法をとっているらしい。

ずいぶんと回りくどいことをしているとは思われるかもしれないが、これも俺を匿っているということを悟られないための田神流の措置なのだから、そのことに関してこっちがとやかく橫槍をいれることではないだろう。田神は俺と同じで、そうすると決めたら梃子でもかないタイプの人間なのだ。

こうして田神が定期連絡のために外出すると、途端に部屋が靜かになる。まるで部屋が主人である田神以外、俺をこの世界には似つかわしくない異かなにかのように、拒んでいるかのような錯覚を起こしてしまうのだ。

その上こんなときは決まって、沙彌佳のことばかりが脳裏に浮かんでくるのだ。當然ながら原因はわかっている。三月に幾度か出會ったあの――。

初めて出會ったのは俺が仕事で出かけたN市で真田暗殺の日、気取ったクラブで――。

続いて二度目は、あのを追ってみたところ間抜けにも取っ捕まってしまい、吹きざらしの廃工場で。そして三度目は、あの島津の研究所で――。

しかし殘念ながら、これらの人間が同一人なのかといった疑問は殘る。確かな証拠などどこにもないのだ、本人がそうだと言わない限りは。

けれど、俺はなかば確信していた。あれは全て同一人であり、島津研究所で見たのが間違いなく沙彌佳である、と。こればかりは俺は絶対に譲れない。たとえ、それは幻覚だといわれようともだ。

たしかにあのときの俺は意識が朦朧とし、いつ死んでもおかしくない狀態であったのだから、幻覚だといわれても仕方ないかもしれない。おまけに、あいつの夢を度々見るようなほどなのだから、それと死にかけのときに起こるという走馬燈とが混じり合い、願となってそう見えた……こうともいわれるかもしれない。それでも不思議と、俺にはあれが幻覚だったとは思えないのだ。

自分の直が……本能とでも言い換えてもいいかもしれないが、あれは確かに沙彌佳だったと確信しているのだ。第一、否定するにしてもその材料もまた不確かなものばかりなのだから、俺がそう確信している以上は百パーセント幻覚だと証明できるものでもないはずだ。

しかし、不安にならないわけでもない。あのとき見たのが確かに沙彌佳だというのなら、なぜあいつは俺になにもいってこないんだろう。もしかすると、やはりあれが幻覚だったというのを裏付けているんでは……そう考えてしまうこともある。

それに田神やエリナの話によれば、俺が利のところの世話になっていたあいだ、あいつが俺のところに訪ねてきたことはただの一度だってないという話だった。二人以外にも、意識を取り戻してしばかし経った頃、利に同様の質問をぶつけてみたが得られる解答はやはり同じだった。エリナ以外のは、誰も見舞いになどこなかったらしい。

こうして、また思考のループに嵌まった俺はかぶりを振り、沙彌佳のことは思考の片隅においやった。これらの確かな証拠が得られない以上は、早合點かもしれないのだ。そもそもの話が、今回はそいつを含めて田神がいてくれているのだ。とりあえず、沙彌佳はまだ生きている、それだけは信じる気になっているのには違いない。

俺は窓際の壁に隠れるようにして、そっと外を眺める。外の景を見るくらい、おおっぴらきになって見てみたいものだが殘念ながらそいつはできない。今何どき、どこに敵が潛んでいるかわからない狀態なのだ。そんな狀況では、迂闊に窓も開けられない。

けれど、それもすぐに飽きた。外の景などそうそう変わるものでもないのだ。この代わり映えしない日々のなか、唯一現実を理解することができるのがパソコンだ。この世界でただ一つ、まだ現実と繋がっているというのを実できる、數ないだった。

このパソコンを使えば、ありとあらゆる報を仕れることができるわけだけれど、俺にはネット上に星の數ほど無數に存在するページを掻き分けて、そこに書かれたニュースの真意を裏読みすることくらいしかできない。昔付き合いのあった青山なんかはそれを元に、そういった筋の人間からさらに込みったところまで耳にしていたわけなんだろうが。

幸い、そういった世界にどっぷりと浸かったとしては、必ずしも人づてでなくともわかる部分はあるというものだ。おかげでそいつがわかるようになって、逆にうんざりさせられるようになったのはなんとも皮なものだが。

こうして俺は、思いついたときにでも田神のパソコンで過去にあった出來事の載った記事を探し、何かしら約に立たないかと自分なりに報収集をしている。今井令嬢襲撃事件、島津製薬に関して、あるいはその周辺の関係者なんかも今調べられることのできる範囲で、あらかたクリックしまくっていた。

そうすると當然、それなりに面白い記事も見つけることができたのも確かだが、そこから気になった記事に関してさらに探そうとしてみたものの、そういった記事はあまり一般大衆にウケが良くなかったせいなのか、古くなった記事はリンク切れになっていた。報発信もサーバーの関係上決してタダじゃないのだから、無理もない。これがリアルタイムな記事であればとは思うが、とても殘念でならない。

さて、そんなことをしているうちに時が経ち、気付けば日付も変わって深夜も一時になろうという時刻になっていた。

軽く二、三時間はパソコンの前にいたことになるが、それがいけなかった。ネットサーフィンに集中しすぎていたせいで、周りのことに意識が全く向いていなかった。

突然目の前にあるパソコンのディスプレイが、カシャンと小気味いい音をたてて割れたのだ。直前に部屋の窓ガラスが砕けるような音がしたのは、聞き間違いではないだろう。

「スナイパーかっ」

そう、畫面を破壊したのはどこからか放たれた銃弾だったのだ。

たまたま俺は、ぐっと背びをし反をかけて前のめりに腰を曲げたのが幸いして、その銃弾に當たることはなかった。そのまま前のめりになった恰好のまま床を蹴って、部屋のテーブルの影に逃げ込む。

それでも、ディスプレイに直撃したのが銃弾だと気付いた瞬間、ヒヤリとさせられた。を隠した直後、銃を手にしようとしてれた脇の下に、今までなかったシミを作っている。

同時に、それとは別にドキリとさせられてしまった。いつもならすぐ何かあってもいいよう近くに置いてあるか、脇の下に吊ってあるはずの銃が手元になかったのだ。田神の部屋ならおそらくは大丈夫だろうという、気の緩みから萬全を怠っていたのかもしれない。

するとすぐ足の脇を鋭い金屬音をたてて、何かが弾ける。スナイパーからの第二だ。

俺はすぐにその場をベッドの方へをかがめながら素早く移し、ベッドの上き置かれ銃を手に取った。島津研究所でぶっ倒れたときからにつけ、武商人だった最上の親父の寢座からとってきたワルサーだ。

こいつでスナイパーからを守れるとも言い切れないが、ないよりはマシだ。それに、向こうとてライフルを使用しているはずだから、二発も外した以上はもう撃ってくることはないと考えていい。こうなってくると、向こうとしても危険になるためだ。こちらからの反撃を予想しないはずはないだろうし、あまりのらりくらりやっていると逃げる時間を失い、逆に返り討ちにされる危険だってあるのだ。

だが、俺としてはんな意味で好機ともいえる。田神には悪いがいい加減、部屋に閉じ込められているのにも飽き飽きしていたのはもちろん、殺し屋が員された以上ここにいるのはかえって危険だし、匿ってもらう意味もなくなった。もしかすると、匿っていた田神にも追っ手がかかっていないとも限らない。

そしてもう一つ。このスナイパーを取っ捕まえて、々聞きたいことがあるのだ。なぜ俺を狙うのか。雇い主は誰か。あるいはその機関、組織などもわかることだろう。

とにかくそうと決まれば一秒でも早く、向かいのビルに行く必要がある。この古ビルの向かいには道と三軒の家を挾んで、八階建てのビルがあった。狙撃するんであれば、そこからしかありえない。

それにもしかすると、敵はたいした奴じゃない可能もある。こんな近くで二度も狙撃を失敗しているのだ。俺も格段、狙撃が得意というわけでもないがさすがにこの距離を外すことはない。

ワルサーを片手に、ベッド脇にある臺の引き出しから予備として弾を手にとると、すぐさま玄関に行き靴を履いて飛び出した。銃を隠せるよう、薄い半袖のベストをにつけるのも忘れない。

おそらくはまだそう遠くへはいけないはずだ。そう思い、階段を四、五段ずつ飛び越すように駆け降りていく。

あっという間に古ビルを一階まで降り、さらに勢いよくビルまで走ろうとすると、なんと驚くべきことに、ビルの前には警察や機隊といった連中がバリケードを作っているではないか。飛び出してきた俺に、連中は一斉に銃を向けてくる。

「そこの男、くな。そこで止まれ」

がなり立てるように拡聲を使って、一人の男がこちらに向かってぶ。

なんなんだ、これは……。あまりに予想外なことに、呆気にとられた俺の一瞬をつき、ビルの影に隠れていたらしい機隊の一員に背後から飛びつかれる。

「くっ、何しやがるっ」

背中から飛びついてきた男に対し、俺はそのままの狀態から上をのけ反らせながら、相手の膝小僧を踵で思いきり蹴りつけた。

「んがぁ!?」

正確に膝小僧に當たったわけでなく、相手の膝の側に當たったらしいがなんにしてもけた男はたまったものではなく、悲鳴をあげる。

怯んだ隙に相手の側にり込むと、そこから足払いし男の元に右手を充てたまま倒れ込む。

地面に倒れ込んだ瞬間、いものがコリリといったを腕に伝え男は変なき聲をあげてかなくなった。倒れ込んだときに俺の重がかけられた腕によって、笛潰し頚骨をぶち折ったからだ。

これを見た連中が唖然としてかなくなった隙に、持っていたワルサーで連中を指揮しているらしい男に向かって銃口を向けた瞬間、トリガーを引いた。

その男がしぶきをあげて地面に力無くぶち倒れる。

俺は一気に連中のバリケードにできた隙間目がけて走りだすと、続けざまに周りにいる一番近い警察に向かっても引き金を引く。

揺が連中の間に広がりだしたときにはすでにバリケードのあたりにまできていた俺は、走りながらまだ狀況を摑めきれていない警察の顔面に、思いきり鉄菱を食らわせる。

鉄菱を食らった警察は悲鳴をあげて顔を押さえ、その場に膝をついて倒れた。そのときには、さらに別の警察間を潰し、また別の警察にはワルサーでふとももに銃弾をぶち込む。

次々と倒れていく警察や機隊の連中に一瞥することもなく突っ切っていくと、すでにバリケードを抜けようとしていた。ビルを出てからここまで、おそらく一分とかかっていないだろう。一人目を始末してやったことがまさかの行だったようだ。

バリケードを抜けるとすぐに道の脇にまできた。連中はこのまま捨て置くことにして、一刻も早くスナイパーのいたビルまで行かなくてはならない。

さすがにその頃までには連中も非常事態として俺を追い始めるが、ぐんぐん走るスピードをあげてビルに向かう道へ出たとき、橫から車が飛び出してきた。それに気付いたところで足を止めることなどできるはずもなく、俺は顔面を引き攣らせた。

に強い衝撃をけたことを理解できたときは、すでに俯せになって地面にぶち倒れていたのだった。

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