《いつか見た夢》第78章
暖かい――を包むようにして、羽立った布がかけられているのがにれている。
パチパチと火の焚く音がしてゆっくりと瞼を開けると、暖爐らしいものが視界にってきたと同時に、何者かの手が瞼のきに合わせていたのがわかった。につけている銃か、あるいは他の武を手にしようとしているきだが、あまりに自然で全く無駄のないきであるために、服がなんとなく気になって、そこを直そうというようなきにしか見えない。
「……」
「目が覚めたようだね」
男の聲に、すぐに意識が完全に目覚め眼球をくるりと、周囲の狀況を確かめてみる。が、特になにかあるわけでもなさそうだ。
「安心したまえ。ここに君をおとしめるような罠はない」
囁き聲とでもいってもおかしくない聲なのに、言葉の一音一音がはっきりとした聲はえらく人を心地よくさせる。それも男のものなのに、妙な話だ。俺も相手が気づいているのに、貍寢りして眠りこけている必要はないと判斷し、朝起きたときのような気持ちでゆっくりと起き上がった。
「どうやら、あんたが助けてくれたみたいだな」
ソファーに寢かされていた俺のきに合わせ、奇妙な男の座るソファーの脇に立っている大男が、再び手をかそうとするのが見えた。妙なきをすればいつでも俺を撃てるんだという、無言の警告だ。
「ああ、そうとも。今君に捕まってもらっては困るんでね」
「どういうことだ。……いや、その前にあんたは一……」
どこかで見覚えのある顔の男に向かってそういうと、奇妙な男は微笑を浮かべながら軽く首を振った。全をマントなのかと思える黒っぽい服でを包み、頭は丸坊主の恰好をした奇妙な男は、どこか仏教徒のようにも見える。僧服をアレンジしたような服と坊主頭がそうさせるのだろう。
「まぁ、それは置いておこうじゃないか。それよりも今は君のことだ、九鬼君」
九鬼君? まさか君付けで呼ばれるだなんて思いもしなかった俺は、思わず眉をひそめた。一いつぶりだろう、最後にそう呼ばれたのは。おそらく、そう呼んでいたのは青山が最後ではなかったろうか。
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まぁいい。それよりも初対面であるはずの人間が、俺の名前を知っているということのほうがはるかに疑問であり、警戒しなくてはならないことだ。
「いいや、そういうわけにはいかないね。助けてもらったことには謝しちゃぁいるが、それとこれは別問題だ。あんたは俺のことを知ってるようだがこっちはあんたのことなんて、これっぽっちも知らないんだぜ? そんなのフェアじゃない」
この手のタイプの人間は話していくうちに、こちらの意志をなし崩しにし最終的には的に肯定させてしまうようなタイプと踏んで、俺は男の話を折ってやった。これで引いたりするような奴でもないのだろうが、こっちもきちんと意思表示をしておく必要はある。
「ふむ。確かにそれもそうかもしれんな。しかしまだそういうわけにもいかなくてね、すまないがあえてそれは伏せさせてもらおうか。
だが一つだけ。私は、決して君の敵ではないということだけは信じてもらいたい」
「けっ、初対面の人間にいきなりそんなこといわれて信じるほど、おめでたかないぜ、俺は。だったら助けるときにだって、わざわざ催眠ガスを使ったりする必要なんてなかったんじゃぁないのか」
奇妙な男の目を見ながらわめくと、男がふっと口の端を歪めて笑った。そんな表一つ見せるだけなのに、波立つ気持ちが妙に落ち著いていくのがわかる。
「君がそういうのも仕方ない。それも事実だからだ。しかし、私には今すぐにでも必要だったんだよ、君が。そのために、しでも早く君を助けようとあんな行をとってしまったんだ。手荒な真似をしたことは謝るよ」
男も俺から目を離さずに、そう口にする。なんだろう……こいつと話していると、いつもの自分のペースがされてしまう。苛立ちを隠そうとしない俺なのに、なんでかこの男がなにか口を開くたび、その苛立ちが鎮まるのだ。こんなことは初めてのことで、自分自に困してしまっていた。
「……ちっ。それで。なんだって俺を助けたりしたんだ。必要だというが要するに、俺になにかやらせたいんだろう」
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そうだ。助けるにしても、あんなやり方を選ぶような奴に、タダで助けてもらえたとは思ってなどいない。ましてや、こんな業界の人間を助けようだなんて、たんなる慈善事業でもない限り、都合よく使える駒かなにかのためだと考えるのが普通だ。そして俺の場合、當然、後者ということになる。
「察してもらうと助かるよ。実はぜひとも、君にやってもらいたい仕事があるんだ」
「仕事だと? どんな」
怪訝に眉をひそめた俺に、男が軽く肩をすくめて見せた。どうということでもないんだが、と前置きし、一拍おいて告げる。
「君には一人、どうしても手にかけてほしい人がいる」
「……単刀直だな」
「ああ。君という人間を前に、いちいち遠回しにいう必要はないからね。
それでだ。実はその人に、ある、とても重要な報がれてしまったのだ。それはとても危険なもので、本來なら廃棄されていたはずのものなのだよ」
「なんだ、勿振らずに早くいえよ」
男はほんのし俺から視線を外したあと、すぐにまたこちらの目を見返す。
「……ところで君は理は得意かな。まぁ、數學でもいいんだが」
「別に得意でもなんでもない。せいぜい人並みだ。だけど、そいつが一なんの関係があるんだ」
「そうか、だったら細かいことは省略しようか。ではn次元という言葉は聞いたことがあるかな」
「n次元……確か、零次元が點、一次元が線、二次元がそれにきだったか?の概念をもって、三次元が奧行き……こんな考え方だろう」
「まぁ、細かい部分は違うが、おおむねそんなところだ。君のいったのは次元空間という概念だ」
「それでそいつがどうしたんだ」
「これらの概念に基づいて、ある実験をした連中がいる。それを使えば、あらゆる利権を手にすることも可能になるからだ。いや、そんなものはまだマシだ」
男がこともなげに告げる。俺は男のいっている意味がわからず、ただ頭の中でクエスチョンマークが浮かぶだけだった。
「その実験はかつて、アメリカで行われた実験だったが失敗しているんだ。しかし、どうやらその時の資料を手にれた連中がいたらしい。そのとき行われた実験のデータを基に、新たな解釈と補強を重ねていくこととで……」
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「おいおい、ちょっと待ってくれよ。話が突飛すぎて、なにをいってるのかわからない」
勝手に話を進める男に俺は、話をやめさせる。
「もう一度説明したほうがいいのかな」
「そうじゃぁない。俺がいってるのは、その概念による実験がどうこうってのはどうでもいい。それとなんの関係があるんだっていう話だ」
そういうと男は、ふむ、と左手を顎にやり気取った態度でなにか考え始めると、すぐに口を開き語りはじめた。
「そういうことか。もちろん君にも関係があるからこそ、こうして話しているんだよ。だからしのあいだ、話を聞いてもらいたい」
男にそう告げられると、なぜだかここは素直に聞いてやるかという気持ちになる。いつもの自分なら、そんなこともないはずなのにだ。しかし俺が関係あるといわれた以上は、仕方ないとはいえ聞かざるをえないのも事実だ。きっとそんな思いから、男の言葉にも素直に肯定したにちがいない。
「どこまで話したか……ああ、そうだ、新しく実験を行ったというところだったな。
この実験には、ある意味で間違いなく人類にとって大きな夢であることだ。今いったように、先ほどの概念を使うことでタイムワープすることを目的としている」
「タイムワープ……だって?」
「そうだ。聞いたことはないかな? タイムトラベルだとか、タイムスリップなどという呼稱でもいいが。その実験というのがまさしく、それらの研究だったというわけさ。この研究が功すれば、人類社會は劇的に変化することになるだろうしな。
初めは七十年代にアメリカで行われた実験だ。當時この実験は軍部の管轄下におかれ、數學、理、化學といった分野の科學者は當然、天文學、地質、建築など他にも様々な分野からそれぞれのエキスパート達が招集されて行われた。しかし最終的に実験は、理論にいくつかの欠陥が見られたために失敗。人類の夢ともいわれたタイムスリップは、やはり夢だったわけだ。それが一九八五年のことだ。
その後、このプロジェクト自がアメリカのトップシークレットだったため、メンバー全員にこのプロジェクトに関して絶対守義務を命じられ、チームは解散した。結局、誰もが夢にみた試みは失敗のまま、闇に葬られることになった」
「ところが、どこからかそれがれた……こういうことだな」
「そうだ。そのきがあったのが五年後の九○年當時、バブルに沸いていた日本でのことだった」
「日本で」
思わず俺は男の言葉を反芻はんすうさせていた。それに男の話は以前、田神がチラリと口にしていたことがあるのを思い出していたのだ。あのときはさすがの田神のいうことでも、いささか信じることができずにいたがこうして改めて聞くと、それが本當のことなんだと信じざるをえないかもしれない。
「そう、ここ日本でだ。あのプロジェクトチームの中に、日本人がいたのだよ。
きがあったとはいえ、向そのものは芳しく、特別気にするほどのものではなかったのだ。実験しようにもあれだけのものをやろうとすれば、相當の金額が必要になるし、額にしたって実験を行うにもどんな実験なのか申告しなければ、投資などされるはずもないからだ。當然ながら、そんな突拍子もない話を真面目にけ止める者などいるはずもなく、実験に協力し費用をもってくれるような人間など誰一人としていなかった。
しかし、ある時からその実験にアメリカのときほどはなかったものの、ささやかながら資金を出しはじめた者が現れた。その人こそ、この春に暗殺された大政治家だった真田博之だ」
「真田が……。そうか、そういうことだったのか」
N市での出來事がここにきて、ピタリと全てが當てはまった。あそこで手にした報でも、真田のやつが湯水のように金を使っていたというのを耳にした。初めは政治資金のためとも目されていたがそれにしても巨額だったと、報屋の小林がいっていたのを思い出す。それらの金は全て、実験に投資されていたというわけだ。
N市のど真ん中に、街の象徴ともいうべきビルでそんな実験施設を造らせたのも、間違いなく真田だ。奴がビルの建設や権利に関わっていたことからも、最初からあのビルが、実験を雲隠れするためのものだったと見てよさそうだ。當然、そんなことなど知らない一般企業をテナントに招聘することで、一大商業ビルとしてきっちりと商売もしていたのだ。後で知ったことだが、あそこには地元なら當然、全國に展開、あるいは世界をにかけている企業もっていた。
それに、日本でも有數の街の中でまさか、そんな眉唾な実験をしているなんて思いもしないだろう。やり手ながら、多くの人間に恨まれても仕方ないくらいのこともやってきたと聞く真田のことだから、完までに問題が起きたとしても、そんな問題はみ消すに決まっているはずだ。
男が俺のつぶやきにコクリと頷く。
「これでもう気がついたろう? 君は関係しているんだよ。君がTビルにったことで、真田とは無関係じゃないのさ」
「……ちょいと待ちな。あんた、なぜ俺がTビルにいったことを知っている?」
「……私とてこの世界の住人だ、し調べてみればわかることさ。おまけに、今の君は有名人だからね」
そういって男は話をはぐらかした。……気にらない奴だ。不思議な雰囲気をもった男に、なぜか気を許しかけていた俺だがやはり、どうにもこの男を信用しないほうがいいと、直が告げている。
「ちっ……まぁいい。それで実験はどうなったんだ」
「真田の援助を得ることができるようになってからは、たちどころに研究の果がみられるようになっていった。その間に、真田はTビルの建造計畫も思いついたようだがね。
そして幾度かの小さな実験が行われ、その都度、出てくる問題を払拭していったプロジェクトチームは、Tビルにその本拠が移される。それが四年ほど前のことで、そこは今までとは比べものにならないほど大規模な実験施設だったこともあって、大膽な実験も行われたらしい」
「その甲斐もあって、実験は功したってわけか」
話の先を読んでいうと、男は首を橫に振った。
「いや、殘念……というべきではないかもしれないが、実験の最終段階にきて、それが葉うことはなかったのだ。実験の行われるはずの前夜のことだ、施設がある者によって襲撃をけたんだ。もう言わなくてもわかるね?」
俺は男の言葉に黙って頷いていた。そう、あの夜の二日前に、珍しく真紀から召集され作戦のレクチャーをけたのだ。珍しいついでに、日時の指定もされていたのが思い出される。あのときはなにか準備でもあるのかと思っていたが、なるほど、そういう事があったのか……。
やれやれ……あの狐め、知っていたのにわざと教えなかったな。あの狐のことだから、裏に何もないとは思わないがよほど教えたくなかったものだったということか。
「あんた、実験が最終段階だといったが本當にそんな実験が功すると思うのか」
田神のときにも似たような質問をしたが、本當にそんなことが可能なのかという疑問はなかなかに払拭できない。しかし最終段階だというには、それなりの果があったと見ていいのだろうが……。
「當然の質問だな。だが、理論上では可能さ。なぜそんなことをいうのかといえば、まだ実験は安定には至らなかったためだ。これでは意味がないからね。
つまりはまだ実験そのものが功したわけじゃない。しかし、それが功したにしろ失敗したにしろ、我々にとって決して良い結果にはなりえないからね」
「……なるほど、要するにあんたもその実験に関して、どこかで何かしら一口噛んでるってわけだ。
だがわからないな。あんたは利権を得るといったが仮にできたとして、まぁ、そいつは理解できないでもないさ。だとしても、そんな不確かなものに人一人を殺さなきゃならない理由ってのがいまいちわからない。
しかもだぜ? さらにいえば、あんたは俺があの日に施設を潰してやった人間だと知ってる。実験が食い止められた時點で、そいつの野……このプロジェクトに関わった他、全ての連中にとってもあまりに大きな損害になってるはずだ。
おまけに連中の実験に一番乗り気で投資していた奴も、もうこの世にいないときた。これだけの事実で、これから先、プロジェクトが立ち上がることは無いに等しいだろうさ。
なくとも、ここにくるまでに何年十何年と投資してきた連中が、また同じことに金を出したいなんて思わないね。いや、それどころか一度ぶっ潰された以上、それまでよりも多くの金が必要になるだろう。
あんたのいう始末してほしい奴ってのも、あらかたプロジェクトに関わった奴なんだろう? ならやはり、わざわざ始末を著けなくてはならないような相手とは思わんがね」
男が目をつぶったまま重々しく頷いてみせる。そのあとに瞼を開けて、囁くような不思議な聲で語りだした。
「ああ、そうだ。君のいうことはごもっともさ。しかし、その実験データを盜んだ奴がいるんだよ。だから始めにもいったろう? 君も関係があるから話している、とね」
「盜んだって……いや、まさか……」
靜かに言葉をつむいだ男は、俺の目を見據えていう。告げられた俺は、脳裏に一人の人像のことが何度も浮かんでは消えていく。あの晩Tビルに侵し、なおかつ生き殘ったのは、捕らえたエリナの他には俺と田神、それとあの狐、藤原真紀の四人だけだ。
そして、このメンバーの中であの施設の中からデータを取り出して持ち去っていったのは、真紀しかいない。つまり男のいうデータを盜んでいったのは真紀、ということになる。
「そのまさかさ。君らが抜き出したあのデータこそ、プロジェクトの全てを記録しているものだったんだ。彼……藤原真紀はすでに、君よりも早くにマークしていたんだが、いつも後一歩というところで取り逃がしてしまっていた」
「そうか。なかなか捕らえられない真紀に変わって、行を共にしていた俺を捕まえようって腹か。つまるところ、警察に俺の報を売ったのは、あんただってわけだ」
目を細めてそういうと、男はしばかしバツの悪そうな表になり告げる。
「すまない。実のところ、君が彼と関係してはいても、何も知らされていないだろうというのはわかっていたんだ。だが彼を捕らえるためには、君を使ってあぶり出そうとしてみればどうか……こう結論づけたわけだ。君と彼は、事あるごとに行をともにしている節があるからな」
「別に一緒に行したくて行しているわけじゃない。単にあのにとっちゃ、そのほうが々と融通が利くんだろう。
ちっ、まぁいい。それはそれ、これはこれだ。なくとも、関係ないとわかっていながら俺を陥れようとする人間のことを、信用できないというのもはっきりしたしな」
男はストレートに皮ってやったことに、ただ苦笑しながら肩をすくめるだけだった。そこからは、こっちは確かに悪いと思っているんだという風にみえなくもない。
「だがこれでわかったぜ。ここのところ、俺の周りを尾けている妙な連中がいたがあいつら、あんたの差し金だったんだな。プロだろうというのは尾け返してやろうとしたのに、全く捕まらなかったことからわかっちゃぁいたからな。そういう理由だったのか」
一人で合點がいったのを頷き、その後も男とはこちらが気になったこと、俺の今後の処遇についてなど、いくつかの點を話し合うことになった。
まず俺の今後については、俺がテロの犯人などというデマを撤回させるというのと、警察に與えた報は全て取り上げさせるということで雙方の合意をえることになった。これで晴れて俺は自由のになれるはずだ。俺をこんな目に遭わせたのだから、それくらいのことはしてもらおう。プロをチームとして扱えるような奴なのだ、それくらいはいくらでもやりようがあるだろう。警察のトップを脅すことなど朝飯前のはずだ。
他にも尾行していた點についても話をきくと、ここでは一つの疑問が浮かび上がった。というのも、尾行していた全ての連中が男の差し金ではなかったという點だ。話では、俺が利の病院で意識を取り戻し田神の部屋に転がり込むまでの間だけ監視していたというのだ。
俺の記憶では、あの佐竹の件があった次の日に、確かに尾行してきていた連中がいた。あれは男の息がかかった奴らではないようなのだ。ともすれば、警察によるものなのかと考えるところだが、どうもそうでもないらしい。そもそも警察が俺のことをマークしていたのなら、とっくの昔に何かしらなアクションがあったはずなので、警察ではないのは理解できる。
だとすれば、誰があのとき尾けてきていたのだろう。やはりここは、組織の連中が最有力候補になる。好き勝手にしている俺だから、目をつけられてないとはいえない。
あるいは……他の組織に狙われてないとも言い切れないところだ。なんせ訓練生時代に、ロシアの國境警備隊や現政黨局員とその部隊を撃ち殺した経験があることから、あの件の犯人をFSBが捜索していることは否めない。いや、間違いなく売られた喧嘩を買わないはずはないから、ついにバレたということも有り得ないわけではない。まぁ、政黨局員を始末したのは田神だったが。
その件で連中が、ついに俺に目をつけたというのはどうか。この日本にもSVRの現地人工作員だっているのだから、そういった連中が現れた可能もなくはない。だが、これもしっくりこないのも事実で、仮にそうなら、連中のことだから尾行なんて狡い真似などせずに、もっと過激なやり方でくるはずだ。
イギリスにいた頃のことから、MI−6にもマークされてないとも限らないが、これは大丈夫だろう。デニスがなんとかしてくれているだろうし、そもそもが連中の目の敵にされるようなことはしていないはずだ。CIAに関しても然りだ。
どれも可能があるようでいて、その割にはいまいち説得力に欠けるカードばかりだ。あのとき撒かずに、いつものように誰の命令でいていたのか聞き出しておくべきだったと、いまさらながら後悔した。変に気まぐれな自分の格が恨めしい。
「他に質問はあるかな?」
「ああ、もちろんあるぜ。あんた、俺に仕事の依頼をする気だったんだろう。相手は誰なんだ。それと、理由もだ」
「ああ、當然それはいうつもりだ。まず先に話したプロジェクトのデータが藤原真紀によって盜みだされたことで、その人に渡されることになっていた。この人こそ、君に始末をつけてほしいターゲットだ。
彼はすでに世でいう権力を、ありとあらゆる形で掌握しているといっていい。つまり、世界でも有數の大富豪なのだよ、彼は。そういった人間はどういうわけか、変態趣味や不思議な事象に興味をもってそのを投じてしまうものらしいが、彼もまた例にれずその一人だ。
どこから聞き付けたのか興味をもった彼は、例のプロジェクトに投資していた真田に自分も共同で投資しようとかけ合うも、真田はこれを頑なに拒否していた。真田にとって彼に逆らえばいかに危険にさらされることになるか、わからないはずはないだろう」
それを聞いたとき、思わず二度三度と頷いていた。Tビルにいた私設部隊の謎も解けたのだ。あの部隊は男のいう彼とかいわれる奴から、自のと実験データを護るためだったのだ。まぁ、結局のところは俺達……いや、エリナ達の手によって壊滅させられたわけだが。
「それで」
「間違いなく彼の手に渡ったであろうデータがあれば、近いうちに必ず真田の研究所に匹敵する施設と機械が作れるだろう。
彼はそれを使って、世界そのものの歴史を変えるつもりらしいのだよ。真田に関してもそうだが、権力に取り憑かれた人間というのは倫理すら失ってしまうものなんだろうな。なんでも手にれてきたことから、なんでもできると勘違いしているのかもしれないが。
ともかく、このプロジェクトだけは絶対に凍結させなければならないのだ。二度とそんなことをさせてはならない」
「俺からしたら、あんたも同じように見えなくもないがな。それでそいつは誰なんだ」
「……君は今自分がをおいている組織が一どんなものなのか、考えたことがあるかな」
突然そう告げられて俺は言葉を失った。男のいうことはもっともで、今までまともにそんなことは考えてみたことはなく、その必要もなかったからだ。
今までは必要なことを聞き付けるために仕事をこなしていくだけで、そこからどうすればいいのか、ただそれだけだった。自分にとって有益かどうかだけで、それ以外は必要ないといった合だ。だからか、組織がどんなものなのかなど考えてみた試しなどなかった。
「君のいる組織は、固有の名稱は特にない。ただ一ついえるのは、ミスター・ベーアと呼ばれる人がトップに君臨している組織であることだ。このミスター・ベーアの暗殺を君に依頼したい」
ミスター・ベーア……これがこの組織のトップの座にいる男の名前……なのか。初めて知った名でどんな人なのかも知らないが、裏切り者には容赦はしない人間だというのは間違いない。あの今井の末路が良い例だ。
同時に、その組織の末端にいる人間に依頼するあたり、目の前の男にはますます気を許してはならなくなるもので、場合によってはこいつも手をかけることも選択肢に殘しておかないわけにもいかない。ぱっと見はそうでもないのに、この男はどこか危険な香りがするのだ。
「……そいつをやるにしても、俺になにかメリットがあるのか?」
「もちろんさ。君の知りたいことを何でも教えよう」
「はっ、俺の知りたいことだって? 馬鹿いうなよ、あんたに何がわかるっていうんだ。俺が知りたいことなんて、あんたにゃどうでも良すぎるくらいの瑣末なことなんだ、わかりっこないさ」
男の、まるで全てを見通してますとでもいうような態度が気にらなかった俺は、人事のように茶化していった。実際のところ気持ちの上では、なかば自分でもやけになりつつあるのも確かなことだったからだ。
もちろん俺が知りたいことなど、妹のことしかない。こんな、どうしようもない世界にを投じたのだって、元はといえば沙彌佳のためでしかない。それ以外のことは、全てその副産でしかないのだ。
だが自分がいくらそうなるよう行したって、必ずしも良い結果に恵まれるとは限らない。あるいは、まだ道なかばゆえに結果が出ていないだけなのかもしれないが、なんにしたって、まともに沙彌佳へ結びつくような決定打がない以上、たまたま不幸に見舞われた一人のことを調べ抜けるものなのだろうか……。
「私に協力してくれれば、探すのを手伝ってもいいんだ。君の妹のことを」
「なに……?」
「今の君があるのは、妹の失蹤事件がきっかけだ。違うかね? 私なら、君の妹を探す手立てを見つけることができる」
「なるほどね。そうやって脅そうってわけか。噓も大概にしておけよ、そんなの簡単にできるはずがない」
馬鹿もほどほどにしておけと笑って見せる俺だけども、心ではかなり揺していた。理は言葉の通り、できっこないと告げているが、ではもしかしたら……と思っているからだ。藁にもすがりたい思いというのはきっと、こういったことをいうんだろう。
「噓ではない。私の友人に、君の妹、九鬼沙彌佳と直接コンタクトをとった人がいるのだ。その人は々変わり者でね、なかなか人前に姿を見せたがらないんだ。
しかし私の頼みならば、彼も無下にはできない。君とコンタクトをとれるよう計らうつもりでいるよ」
こいつ……初めから俺のことを完全に調べ盡くしていた上で、何もかもわかっていながら小出し小出しに、脅しとはいわれない程度に脅し文句をつけてきているのだ。俺が一番ムカつくやり方の一つではないか。
しかし今ここで、それを斷れるような雰囲気ではない。というのも、奇妙な男の後ろに控えている男のためだ。こいつがもし斷ろうものなら、すぐにでも銃をぶっ放してきそうな勢いなのだ。男の渉の段階にってから、二度も腹のあたりを掻くような仕草をしてみせている。これは暗に、いつでも俺を殺せるという意味だ。
しかも俺は警察に捕まってからというもの、今までずっと丸腰だ。さすがの俺であっても、この狀況で切り抜けることは不可能に近い。おそらく、仮に俺が目の前に座る男に飛び掛かったとしても、元に指が屆いた次の瞬間には、こっちのに一発か二発かの弾丸が食い込んでいるだろう。
つまるところ、始めっから俺には渉の余地などなかったということだ。だとすれば、ここはもうこの男を利用するだけ利用してやろうではないか。噓か本當か……まぁ、メリットがないわけでもないし、胡散臭い以上は男の話が十中八九、噓だと思って行すればいいだけの話なのだ。
しかし罠などないと抜かしたのに、その前に始めから半ば陥れるような形でこんなことをいうような奴は、俺の暗殺者リストにれないわけにもいかない。この男はそれほどまでに、どこか危険なものをじさせるのだ。
「……ふん、今ここで斷ったところで俺にメリットがなさそうだからな。俺に白羽の矢を立てた理由もまぁ、わからなくもない。いいだろう、引きけてやる」
「君ならそういってくれると思ったよ」
ふふっと微笑む男の表からは、裏などないといわんばかりのものをじさせる。
「だが、契約である以上、まずこっちのやりたいようにやらせてもらおう。そこに口出しするのなら、すぐに降りてとんずらするぜ? いいな」
男がこちらに視線を向けたまま、重々しげに頷く。
「それと、早速聞きたいことがある。あんたが妹と會ったらしい奴を知っているんだとすれば、どうしても知らなきゃならんことがある。
あんた、坂上という名の研究者を知らないか。いや、絶対に知ってるはずだぜ」
こちらも視線を外すことなく、男に向かって言い放つ。妹のことやTビルでのことを知っているような輩だから、島津研究所の責任者だった坂上を知らないはずがない。
「ああ、知っている。島津製薬の研究所で、神をも畏れぬ実験をしていた男だ。本當なら後で教えようとも思っていたが、まぁいい。どのみち遅かれ早かれ知ることになるだろうからな。
先のアメリカで行われたプロジェクト、ここであらゆる分野の學者が集められたといったろう。ここに坂上も呼ばれたのだよ。伝子學者の坂上が呼ばれたわけだから、実際には実験なんかを行っていたんだろうが」
「坂上が……。だが待てよ。実験があったってのはこの際、本當のことだと信じるぜ。だとして、なんだって坂上が呼ばれたんだ。関係ないんじゃぁないのか」
「それは思い込みというやつさ。実験というものは現実には、かなりグローバルなものなんだよ。実験の際にどんな事象が起きうるのか予測はするが、その通りになるわけではないだろう? あるいは、ある段階では功しても次の段階では失敗することもある。おまけに機上の空論といっても差し支えないような実験となれば、なおのことだ。
ある程度、段階をおって功させてきた実験だったわけだが最終的には、生の人間がタイムワープできなくては実験が功したとはいえない。それで人間がとる行は、おのずとわかるだろう?」
男の言葉に小さく頷いていた。どういった実験をしていたのか想像もつかないが、本當に時間を飛ぶことができるのか……それを実証するために、を使ったというわけか。そして、場合によってはその影響で伝的な変質が起きていないかなど、そいつを調べるのが坂上の仕事だったのかもしれない。仮に実験がうまくいったとして、その影響で自分が変質していくだなんてとても功とは言い難い話だ。
「実際に実験に使われたはどうなったんだろう」
そこで俺は、ふとした疑問を口にした。あまり深く考えての発言ではなかったが、どういうわけか、妙に気になったのだ。しかし男は、肩をすくめ首を振るだけだった。
「だが、彼がそこで得たデータを基に、様々な実験を行うようになったのは間違いない。何か、よほど気になるデータが取れたんだろう」
男の言葉にあの実験にされていった子供たちや、ゴメルと呼ばれた化けのことが思い出される。もちろん、NEAB−2を投與された沙彌佳のこともだ。
それと松下薫が口にしていた、不老不死のための実験というのも気にかかる。男のいう通り、もしかすると坂上はアメリカでの実験の際に、それに繋がるかもしれない重要な何かに気づいた可能はある。
男の口ぶりからは、坂上がどんなことをして、どんなデータを取ることができたのかまでは知っているわけではなさそうだ。まぁ、食えない奴なので全てを話さずに、ただ知らなさそうな態度をとっているだけかもしれないが、おそらく本當に知らないと思っていい。もし知っていたんであれば、とっくの昔にどうにかできたはずだ。
坂上はゴメルに対して、沙彌佳に次ぐ果だと死の直前に口走っていたが、不老不死のための重要なデータが取れていたからこその言葉だろう。あの化けは確かに文字通りの存在で、機関銃による一斉掃を浴びようが、の一部に大火傷を負おうが、有り得ないほどのスピードで回復していき、何千トン、あるいは何萬トンもの瓦礫の下敷きになってもなお、生きていたのだ。しかも、銃創から目玉を作るような異常さだった。
やれやれだ。これは、しばらくは二つの方向を同時に並行してやるしかなさそうだ。それと、俺を付け狙っている奴がいるかもしれない可能も考慮しなくてはならない。事実、警察に捕まる前に俺を狙い撃とうとしていた奴がいたので、事は慎重をきすことにこしたことはない。
こうなってきたからには、一刻も早く田神と合流したほうが良さそうだ。やつのことだから、エリナから何か報を屆けられることになっていた以上、なにがなんでも報を手にれていると考えていい。やつの口ぶりからは、そろそろ何か重要なことがわかってきているようながしたので、田神を探すことから始めなくてはならない。
「では、そろそろお開きとしよう」
「なに」
今後のことを考え始めていたとき、不意に男がそう告げる。それからはまるで、もう俺と話すことはないとでもいったように思えるほどで、発言を許さないといった雰囲気があった。
一方的に話を切り上げ、男がソファーから立ち上がって暖爐のほうへと歩きだした。
「おい、待て。俺にはまだ聞きたいことが……」
「いいや、今回はここまでさ。私にも予定があってね。だが今日は楽しめた」
「ふざけるな。まだ話は終わってない」
び聲をあげて立ち上がるのと同時に、脇に控えていた男の手に銃が握られていて、その銃口の先には正確に俺の、心臓のあたりをとらえている。
「大人しくしてもらおう」
「やかましい」
暖爐の向こうに扉でもあるのか、男が暖爐の影に隠れて消えた。俺はその跡を追おうとするが、突然背後から両肩を摑まれる。
「貴様には仕事の件で、まだいてもらわなくてはならない」
そういって脇に控えていた大男が、靜かにこちらに歩みよってくる。改めて見ると、その長はゆうに二メートルはある。能面にガラス玉でもはめ込んだのかと思わせる面は、この世界によく見るタイプの表だ。
「くそが……」
肩を摑む脇の二人も男と同様に冷たい眼をしていて、とても同じ人間とは思えない。あの男の命令とあれば、髪の一本の幅ほどの躊躇いもなく俺を殺すに違いない。そんな冷たい眼をしている。
「さぁ、こっちにきてもらおう」
こっちが観念したと思ったのか、大男は両脇の二人に顎をつかって連れていくよう指示をだした。
人を客人とも思っちゃいない連中の扱いに、一暴れしてやりたい気分ではあるがここはし冷靜になって、り行きを見守ることにしたほうが良さそうだ。こんなプロ三人を相手に、丸腰では勝ち目がない。しかも妙な雲行きになってきているので、事を混させて自分の首を絞めるような真似は、今はしないほうがいいに決まっている。
もちろん、納得できない部分がないわけではない。けれど、とりあえずはこちらにも、何かしらのメリットが生まれてきているのでこれはこれで、悪くないかもしれない。前向きに考えてみれば、組織を抜けるにはちょうど良い口実になるかもしれないではないのか? そう思えば、條件が悪いわけでもないのだ。
とはいっても、まさか自のいる組織のトップを手にかけることになるとは思わなかった。今まで闇の中にいたような存在の人間が、いきなり降って沸いてきたわけだから幸運というのには変わらない。
全く……以前から思ってはいたがどうにも俺は、何も知らされずにただ使われるだけということに関して、とりわけ気にらない質の人間らしい。別に、全てを知っていないと辛抱たまらんといった極端な格でもないが、間違いなくそういった気質がある人間であるようだ。
組織にいながら、上からただ命令されるのも気にらない俺は、組織への損失があろうとなかろうと知ったことではないし、ミスター・ベーアなる人とこの組織に忠誠も誓っているわけでも、恩義をじているわけでもない。
あくまで、自分に命令できるのは自分だけ。これがスタンスなのだ。そのためなら、こんな組織なんぞ出し抜いてもいいと、日々考えているほどだ。
何より使えないのは、一応世界中にその網を張り巡らせているにもかかわらず、俺のしい報にはまるで引っかからなかったことだ。そんなにまで使えずに、俺を満たしてくれないところに、わざわざ居続ける必要など微塵もじない。
たしか、マウスと藤原真紀が呼んだデータの基になった、アメリカでの軍事実験に関しても、そこに関連した人間が再び実験を再開し、おまけにそれを真紀を使って奪取しようとしたベーアも、丸きり無関係であるとも思えなくなったのだ。
なんせ先のアメリカでの実験には、島津でいかがわしい実験を繰り返していた、あの坂上が関わっていたとあっては俺としても調べないわけにもいかない。どういうわけか、真田がやろうとしたものと坂上の創ろうとしていたらしい新薬は、全て関係があるのではないかという予があった。そして、そこに群がってきた連中も。
ともあれだ。當然そうなると、組織では裏切り者として見られても致し方ない。結局は、俺という人間の求めるものとトップの思がずれてくるという構図には、全く変わらないのだ。
だったらもう、取るべき道は決まってくる。自分にしでもメリットのある側につくのが殺し屋であり、スパイというものだ。厳しくないとはいわないが、初心を忘れてない以上はこうなるのもまた當然の結果だろう。
相変わらず両肩をしっかりと摑まれながら、大男の案で部屋を出て薄暗い廊下を歩いていた俺は、今後の活をどうするか考えていた。どうせこの大男からミスター・ベーアの報は得られるはずなので、そこはなんとかなるだろう。やはり、脳裏をめぐるのは田神たちのことで、もしかすると二人にも協力を仰ぐことにもなるかもしれない。
目の前をいく大男が立ち止まり、鍵の束を取り出した。どうも廊下の先に著いていたらしい。それにしてもの量は、一どこにそんなたくさんの鍵をしまっていたのかといわんばかりで、鍵特有の金屬音もなかったのでここまでそんなものを持っていたとは思わなかった。
大男は、その何本といわずにある鍵の中から一本の鍵を迷うことなく選びだし、廊下の先にあった古ぼけた鉄製のドアの鍵に差し込んだ。解錠して開らかれたドアの先には、全くもって予想もしていなかった景が広がっていた。
「ここは……どこなんだ」
目の前に広がる世界。雲一つない青々とした水の空に、延々と広がっているのかとすら思える深緑とかすかに見える、幾本かの筋のようにうねった川。それに遙か先には、日本の象徴たる富士山がうっすらと影になって眺めることができたのだ。
そして今いる場所が森の中にある、自然にできていたと思われる小高い巖場の中にあった空を、人工的な近代的通路にこしらえてあったものだということも、驚きのあまり呆気にとられていた頭でも理解していた。ゴツゴツとした巖は、赤茶に焼けたをしている。
「貴様には、早速いてもらう」
全く……一どういうことだ。俺のやりたいようにやるというのが條件だったはずなのに、これではまるでこちらが出した條件が通っていないではないか。まるでこれからの俺の行は、全てお見通しだといわんばかりの大男の言葉に、俺は眼を細めて大男を憎たらしげに見つめていた。
まるで先行きが違ってきたことを表すかのように、視線の遙か先にある山々に、薄暗い雲がかかり始めていた。
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