《いつか見た夢》第83章

冷房の効いた部屋に俺は一人黙って、ずっしりと長椅子に腰かけていた。

とても広い応接間で、屋敷のもっとも東側に位置している部屋は、南側に五つ、東側にも四つの大きな窓があり、それぞれに一人用の狹いバルコニーがついている。敷き詰められた絨毯は例によって赤をしており、つややかに見えるその繊維にはシルクが混ざっているのが窺えた。

そんな部屋の中心に、細く長い楕円形のテーブルとその周り三方に一人掛けのソファーと左右に四人掛けのソファーが置かれてある。一人掛け用の先には暖爐があることからも、季節に関係なくこの部屋を使うことができるのは、考えるまでもないだろう。

部屋とはいうけれど、むしろ、ちょっとした広間といったほうが適切かもしれない。広さとしては、ゆうに三十坪近くはありそうだった。これだけの広さがあれば我が國の國土事と建設法を察して、ここに小さめの平屋建ての一軒家を建てることだって可能だろう。

しかし、こうも広いと逆に恐してしまうのも事実で、どこか落ち著かない気分でいるのも確かだった。自分の意思でくることを選んだにしても、これではさすがに落ち著ける気分ではない。

それに俺は格段、豪奢な生活や見栄えのするものに興味があるわけではない。自分でいうのもなんだが、わりあい貧乏であっても全く構わない、つつましい生活で十分満足できる人間だ。もっというと、スコッチを片手にダラダラと自墮落に過ごせればあとは特になにかしいとは思わないのだ。

そんな自分の格と、初めてきた場所は瞬時になにがあるか確かめずにいられない職業病とあいまって、部屋に通されたときから気になっていた壁際のサイドボードにある酒に目がいっていた。気分を落ち著かせる意味で、しくらい飲んでもばれやしない、そう思って長椅子を立ち上がりサイドボードの前にきたところ、部屋のドアが重々しく開いた。

「待たせたね」

そういって颯爽とってきたのは格が良く上背もある初老の男、ミスター・ベーアだ。アクションサービスの恰好をして六角の側にいた男が、実はミスター・ベーアという大だったのだ。

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その男は自の屋敷に戻ってきたこともあって、紅いシャツに白のスラックスという簡素な出で立ちだった。家ではいつもパイプを手放さないのか、左手にはパイプが握られている。

陣の著替えには時間がかかるから、しばらくは私たちだけで話そうか」

ミスター・ベーアは一人用のソファーに歩みよって、ゆっくりと腰かけた。その一連の作はきびきびとしながらも、優雅さをもじさせる。

「そうだな。の商談には、昔から男だけってのは相場が決まってる」

ニヤリとしながら、俺もサイドボードの前から橫の長椅子まで移して座った。酒は手にすることはかなわなかったものの、男二人だけで本気の話をするのに酒はまずい。會話から、今後に響いてくる話もでないとは限らないのだ。

「ひとまず、君には禮をいっておかなくてはな」

「なんの話をしてるんだ」

「ホテルで君が私を突き飛ばしたろう。あのおかげで助かったのだ。もし君があの時突き飛ばしてくれなければ、私はきっと今頃に風を開けられていたことだろうな。あるいは顔だったかもしれないが」

別に助けたくて助けたわけではない。たまたま綾子ちゃんを助けようとしたときに、この男が邪魔になって突き飛ばしたにすぎないのだ。それに気づいてないわけでもないのだろうが、わざわざ禮をいわれるようなことではない。けれど相手がそう思っているのなら、それならそれで勝手にそう思わせておくとしよう。

俺は瞼を閉じて片眉を上げながら、肩をすくませた。

「俺としては、まさか組織のトップといわれる男とこうして面を向かって話せるだなんて、思ってもみなかったですがね。ずいぶんと出世したことになるわけだ。

まぁ、そいつはいい。それよりも、あんた、今晩のパーティーになんだって危険を冒してまで出席したんだい。俺にはそっちのほうが気になるぜ、だってそのために六角という優秀な駒を失っちまうことも、あんたには読めたんじゃぁないんですか」

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當然の疑問をぶつけたところ、ミスター・ベーアは一度だけ首を振る。

「君はなにか勘違いしているようだがね、私は六角のことを駒だなんて思ってはいない。彼、六角は私の表向きの代行人という仕事を全うしていたのだ、もちろん立派にやっていたさ。

そんな優秀な人間を失うかもしれないのに、あんな催しをただ開くはずがない」

「つまり、失う可能が高くても開催する価値があった……ミスター・ベーア、あんたはこういいたいんだな」

言葉を引き継いでいうと、男が大きく頷いた。そして、その価値というのが暗殺者……結果としては違ったが、前の二人を暗殺した奴をあぶり出そうとしたわけか。

「うむ。概ね當たっている。六角に限らず前に殺された二人も同様に優秀であったんだが、彼らは組織の運営を行うための資金を稼ぐためには、とても重要な人材だった。

そもそも三人いたのだって、仮に誰か一人のに何かあったとしても殘りの二人でなんとかできるはず、そう考えてのことなのだ。さすがに二人も失うとなると、一人ではカバーしきれない。だから……」

「危険だと知りながら、わざわざ表舞臺に出てきたってわけか」

こうミスター・ベーアの言葉を引き継ぐと、彼が頷く。三人がそれぞれ異なった分野の事業で利益を上げていただけに、一人だけではカバーしきれないので二人の代わりを、今回新たに見繕おうとしたわけか。男は、やはり人の上に立つ者として多くを語ると相手に付ける隙を與えてしまうことを恐れる習からか、あまりストレートにものを言わなかったので裏を読んでみたところ、概要としてはそんなところだろう。

「まぁいい。組織の稼ぎ頭という三人が死んだだけで、俺もあんたに貢獻していないわけじゃないからな。それよりも、俺が知りたいのは今回襲ってきた連中の正だ。

あんたは知りたければ一緒にこいといったよな? だからここにきたんだから、そいつを教えてもらおうか。あんたの口ぶりからは、どうも何か摑めてるみたいだしな」

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普段通りの調子で聞いた俺にミスター・ベーアは、不意に真面目な口ぶりと眼差しでこちらを見遣った。一瞬にして重々しい空気になったのを察し、俺も目を細めて見返す。

「実は君に折りって頼みがある」

「頼み?」

「ああ、そうだ。もう四年前の春のことだが……もしかすると、君も聞いたことがあるかもしれない。その頃ロシアの南方、グルジアやアゼルバイジャンなどの國境付近にあるカフカース山脈で、ある事件が起きた。

ロシアの國境付近では、小競り合いが頻繁に起きているのは君も知っているね? 當時、あの事件もそうした事件の一つだと思われた。良くある話だから、公安や警察を使えばそれですむ……そんな話だった」

ミスター・ベーアはどこか、遠い昔話を言い聞かせるような口ぶりで話しはじめた。

「この辺りの國境には、近くに必ず軍の基地がおかれてあるものだ。そういった場所では時折、ロシアから亡命してきたり、あるいは中東方面の國々からロシアへ亡命しようとする者がいるからだ。

當初、このときもよくある話でロシアを経由して、亡命しようとする者を軍が拘束する、ただそれだけの話だった。……だったのだが、そこに予期せぬ事態が起きた。國境警備隊の基地が、たったの一日でもぬけの殻となったというものだった。當時、基地に駐在していた兵ならびにスタッフ総勢五十九名が、行方知れずになったということだ」

「どういうことだ」

俺はミスター・ベーアの言葉に眉をひそめた。お互い、國境という田舎も田舎、それも辺境といっても過言でない地域には大抵監視や國境周辺のトラブルの際に出できるよう、軍の施設や小基地が設営されてある。そこにはなくとも必ず一個小隊が配屬されているものだが、それが死んでいたというのならまだしも、たった一日で消えるなんてことがあるのだろうか。

「これは國は當然、國際的な極扱いにされているものなのだが判明するきっかけになったのは、毎日の定時連絡だった。朝の定時連絡に誰も出なかったことを疑問に思った連絡員が上層部に伝えたことを起因とし、はじめはロシアからの侵略行為かと思われたことで現地に兵が派遣された。 ところが派遣された兵からは、とんでもない報告がなされた。基地に詰めていた全員が、忽然と姿を消していたというのだ。もちろん、この報告に上層部は眉をひそめたものだったろう、結果報告の再提出を求めた。

しかし、その結果が変わることはない。どう調査しようともそうとしかとることができないというのだ」

「カフカース山脈となると、辺りは雪山だろう。あの辺りの山がどれほどの高さがあるかは知らないが、なくとも日本アルプスや北アルプスよりも高いはずだ。おまけに春頃となれば、まだじゃんじゃん雪は降ってもおかしかないはずだぜ。

基地の周りに、足跡や何か痕跡はなかったのかい。五十九人が消えたのなら、そこらの積もった雪に足跡らしいものくらいついてるはずだ」

當然の疑問を口にすると、男は首を振った。

「もちろん、そんなことは調査した者の誰かが気づいたろう。忽然と消えたというのは文字通りの意味で、基地を出たすぐのところの雪には踏みならされた跡がいくつも見つかった。ところがし開けたところに出た途端に、それらが消えたというのだ。

基地の中にいたっては、まだ計類や空調は正常にき休憩の兵が聞いていたと思われるラジオも垂れ流しになったままだったそうだ」

「つまりあんたがいってるのは、何十もの人間が神隠しにあったっていいたいわけか。

馬鹿馬鹿しいぜ。きっと誰かに襲撃されたんだろう。いや、この場合は任務を放棄してトンズラしたか、ロシアとの國境が近いというなら、なんらかの事でFSBにでも拉致されたんじゃぁないのか」

その問いにもミスター・ベーアは、再び小さく首を振った。

「いいや、それはない。そもそも、侵された形跡は一切なかったらしい。調査に當たった兵は、もし誰かってきたのだとしても、中に自然とっていったとものでしか有り得ないと斷言した。言うまでもなく基地は、真正面からしかネズミ一匹だってることはできない。というのも、基地は地下に向かって建設されたものだったからだ。

まだある。仮に正面突破を許したにして、不審な者がきたとなるとそこに威嚇撃なりの弾痕があるはずなのに、そういった痕すらなかったらしいのだ。報告によれば、口には軍の施設らしく見張りの兵も置かれていたのだから、これは明らかに異常だ。

基地も、騒ぎ立てられた形跡はなかったようなのだ。誰がどのようにして兵たちを連れ去ったのか、皆目検討がつかなかった」

ミスター・ベーアのいう通り、それは確かにおかしい。軍の施設、それも辺境とはいえ基地に近づいてきた者に対して、威嚇撃すらなかったというのは明らかに何かあったと見るのが普通だ。見張りの兵は確実に、ライフルなりマシンガンなりを持っているはずだからだ。

話によれば、基地は山間に作られているそうなので、あるいは登山家がルートを逸れ道に迷ったから、なんてこともないとはいえない。しかしその場合、そうした人間は保護して拘束なりなんなりをすればいいだけであって、わざわざ銃をばらまく必要などない。それに、そうした事があれば必ず日誌などにも記録されるはずなので、やはり調査員たちが気付かないはずはない。これらの點から必然的に、この線はいいということになる。

「誰かが極任務のために訪れた可能は」

「無論考えた。しかし、そのようなことはなかったようだ」

俺は頷いて、なんとも奇怪な話に首をもたげた。誰かが來たとあれば、実はそいつがスパイで基地の連中を始末するために送りこまれた……そんな線も考えられるのだが、そうでもなかったらしい。何より現実的に見て、たとえ殺し屋によって皆殺しにされたとしても謎は殘るのだ。仮にそうだとして、軍相手に一人だけというのもおかしいし、複數人だろうと戦闘の形跡が一切ないのはさらにおかしい。第一、戦闘を行った揚げ句にその死を運び出し、基地で何事もなかったかのように演出することのほうがはるかに難しく、そして非行率的すぎる。

「だが……だが、唯一の手がかりとなりうるものの影が寫っているテープが回収されたことで、事実が判明した」

「テープ?」

ミスター・ベーアはゆっくりと落ち著き払って告げると、俺の反芻した言葉に目で頷いた。

「これは、君でない別の者がある指令をけて任務についたときに、偶然に手したものだ。中に寫っていたのは、とても信じられないものだった」

そういって男はどこに隠し持っていたのか、ビデオテープを取り出した。今時ビデオテープだなんてと思われるかもしれないが、東歐や中東方面ではそれでもまだ良いほうで、場合によっては録畫用のテープすら支給、設備されていないことだってあるので珍しいものではない。

「一先ず、これを見てくれたまえ」

そういうと、中央のテーブルの下にある引き出しからリモコンを取り出すと、虛空に向けてスイッチを押した。すると、かすかな駆音もさせずに天井から大きな黒枠のモニターが降りてきたのだ。そしてそのモニターの下部にはテープ、ならびにDVDなども見れるようプレイヤーも備え付けられてあった。

ミスター・ベーアはそのテープをそこに挿すると、リモコンをテーブルの上に置いてモニター畫面のほうへと視線をやったので、つられて俺も同じ方向へと目をやった。同時に畫面には不鮮明な映像が映し出される。何度も一瞬映像がとぎれとぎれになったりと荒い映像だが、どうもそこに映し出されたのは話の基地部であるらしい。

不鮮明のためわかりにくいものの、映っていたのは基地の中樞といっても良い箇所にあたる場所のようで、ブリーフィングルームや指令室らしい部屋を両脇にした通路だ。地下に設営された基地らしく薄暗そうに見える通路に、幾人かの兵が軍人特有のキビキビと忙せわしげに歩いて、手に何かしらの資料を持って出りしているのがわかる。畫面右上にはその日の日付が表示されており、四月二十三日であることを教えてくれていた。その隣には、秒単位で変化する時刻も示されてある。

しかし、そこには普段の基地の様子といったじで、急を要する慌ただしい事態に陥っているわけでもなさそうだった。そんな俺の思じとったのかさだかではないが、ミスター・ベーアがいった。

「ここまではまだ普通の基地部の様子だ。問題は次なのだ」

そういって目を細めた彼に、俺は畫面を注視したときだ。

「……なんだ、これは」

それを見たとき、思わずつぶやいていた。通路に、基地の兵たちがぞろぞろと現れはじめたのだ。

それもただ歩いてきたというわけではなく、全員が全員、足を引きずるように歩いているのである。ふらふらと一歩あるくたびに上が右に左に揺れ、その姿はまるで夢遊病患者かなにかのようだ。

畫面の右上の時刻はテープが再生されてから連続された映像で、テープがいじくりまわされた形跡はない。

映像の中では、ブリーフィングルームや指令室などからも次々に兵士らが集結してきており、異様だった。もちろん全員が、夢遊病患者のような足取りでどこに向かうでもなく、畫面の中でさ迷っている。

もうこれ以上は、新たに集まってくる兵士たちを映しだせなくなるほど畫面いっぱいになると、どういうわけかその兵士たちの人垣が中央から割れていき、人ひとりが通れる程度の花道ができた。その花道を、一組の男が歩いて人垣の中央にまでくると、男のほうが何か言いだしはじめたのだ。

「なんだ、なんていってるんだ」

ここまで無音狀態であったため、男の言葉を聞くことができない。おまけにカメラの設置位置が男の後ろから斜め下に向けてあるせいで、あとわずかのところで男の顔を拝むことができない。

「殘念ながらわからない。だが続きを見れば、ある程度は推測できる」

男の言葉など聞くまでもなく、俺はじっと畫面を見つめていた。すると、両手を後ろ手に休めの恰好をとっていた男が、こちらを振り向いた。いや、畫面に映る、他の兵士たちに向かっていうために振り向いたのだ。

「この男は……」

振り向いた男の顔を見て、眉をひそませた。というのも男は、あの武田の顔それだったのだ。

四年も前の記録になぜこの男が現れるのか、その行の意味を窺い知ることはできないが、確実にいえるのは奴の行は決して普通でないというのと、ここに來なければならない理由があったのは間違いないことだ。どうやっているのか知らないが軍人という、屈強な男たちを無気力にさせ見たところ、無傷で基地部に立ちっているのはどう考えても普通であるはずがないし、仮にも軍事施設なのだからそんな特別な意味がなければそもそも用事などないはずだ。

武田の野郎が振り向いて周りの兵たちに言い終えた直後、連中の頭上を黒い影が飛び越えていった。ほとんど一瞬といっていい出來事に最初は目を疑ったが、それが見間違いでなかったことが次の映像で証明された。

俺はいつの間にか息を止めて、映像を食いるように見つめていた。全くもって、この記録映像はなんなのだ。わけのわからないことの連続で、頭の奧にいる冷靜な自分が、まるで映畫でも観ているんではないのかと思ってしまうほど、驚きの連続だったのだ。

兵士たちの行や武田の野郎が映っていたのはもちろん、一瞬見せた黒い影の姿がはっきりと見えたとき、そう思わずにはいられなかった。畫面に映っていた影は、通路の天井に長い手足で摑むように真っ逆さまに張り付いているのだ。重力によってだろう、質そうで針みたいながこちらに向かって威嚇しているように見える。

顔らしい部分があるのもわかる。巨大な犬か狼を連想させる顔で、縦にびた鼻に口は大きく開かれていて、中から鋭く長い犬歯が上下にそれぞれ二本生えている。目のはとても大きく吊り上がっており、白黒の畫像からでは判斷しにくいが赤くづいているように見え、瞳孔は全くない。そして全が黒っぽいをしていた。

そいつは、どう見てもこの世のものとは思えない様相をしていた。よくよく見れば長い手足からびた指は人間と同じ五本で、犬や狼のそれとは明らかに別なのだ。だが下半……といっていいものなのか、部らしい部分からは尾らしいものもびており、ガチガチに尖っているように思えた。

奇怪なきで、天井に張り付いていているというのに重力などまるでないかのごとく、縦橫無盡に走り回っているのだ。そして、そいつの奇怪なきに下の兵士たちは誰ひとりとして頭上を見上げることはなく、変わりに今まで微だにしていなかったが興しているそいつを、窘めるように両手を上に捧げ振り向いた。

そこにあるのはどう見ても、妹である沙彌佳の顔、それだった。

「沙彌佳……?」

記憶の中の妹と変わらぬ顔立ちは、思わず俺にそうつぶやかせずにはいられないものだった。背中まである長い黒髪や整った切れ長の瞳も、すっと通った鼻筋から、やや上向いて均等のとれたまで、まさしく記憶の中で思い描いている沙彌佳そのものなのだ。

映像の中の沙彌佳は靜かに目をつぶった。その表は、いつか俺に口づけてきたあの時の表と同じもので、なにか儀式めいて思えるものでもあった。直後に、天井を嬉々として走り回っていた影は瞬時に止まると、今度はこちらに向かって走りはじめ畫面が黒に塗り潰された瞬間、畫像が大きくれたところで映像が途切れた。

音もなく、ただ何も映し出されていない畫面を茫然と俺は見つめたままだ。頭が混していた。武田、黒い影、妹、沙彌佳……そして、なぜ沙彌佳がロシアの國境にほど近い場所にいるのか。そして、なぜ武田の野郎なんかと一緒にいるのか……。

「映像はここまでで、彼らがこのあとどうなったのか詳細は不明だ。ただ、この映像からは、現れた男が彼らを連れ去ったという風にしか思えない。君も見てもらった通り、どう見ても男が彼らを扇しているとしか思えないからだ。

しかし、にも関わらず、大の大人……それも、しっかりと訓練をけた軍人が揃いも揃って全員がそれに同意したとは、とてもではないが考えられん。むしろ、なにか薬でも投與され仕方なくかされた、という説明のほうがまだ現実的だ」

ミスター・ベーアがなかばまくし立てるように言い捨てた。まぁ、その気持ちもわからないではない。だがしかし、あの武田を前にするとどうだろう。奴にはどういうわけか、人の心を深いところで摑んで放さない、特別なものを持っていると思えて仕方ないのだ。あれがカリスマとでもいうのか、とにかく俺ですら気が飲み込まれそうになっていたのだけは間違いないことなのだ。なんとも忌ま忌ましいことだが。

それよりも今の俺には、最後に映っていた沙彌佳のことで、頭がいっぱいだった。もちろん武田のことも気にならないわけではないが、四年前の春といえば沙彌佳が島津の研究所をしてから一年以上は経っている頃で、そんなときに二人が一緒にいるという事実に、自分でもどうしようもなく衝撃をけていたのだ。

それとともに、研究所の責任者だった坂上が三週間に一度はNEAB−2を投與しなければならないといっていた事実も、脳裏によぎっていた。沙彌佳が生きていた……この事実は限りなく俺を歓喜させる事実であるけれど、かといって、あんな危険な薬を投與されて三週間に一度はそれをに取り込まねばならないという中で、どうしてそれをしなくとも一年以上も生きることができたのか、それだけが心にひっかかり気になった。

どんな目的があろうとNEAB−2の投與は被験者を死に至らしめるものであるのに、どういうわけか沙彌佳はまだ生きていた。この事実に俺は素直に喜ぶことができず、どうやって生き殘ったのかという疑問がつかず頭の中にこびりつく。

手できた記録映像は以上だが映像の、兵の中を割ってきた出てきた男が私が追っている人だ」

「もう一人のは」

「殘念ながら不明だ。男と同じで過去の経歴は當然、個人データの何から何まで調べさせたが検索に引っかからない」

ミスター・ベーアは、かぶりを振りながら答えた。俺はその答えに面白みのない話だと肩をすくめはしたけれど、心では一どういうことだと再び疑問符を浮かべた。失蹤にしろ死亡にしろ何かしら記録としては殘るはずなのに、それらの記録が一切見つからなかったというのは、どう考えたっておかしい。

まさか沙彌佳の出生屆がなされてないというのは、さすがに考えられない。両親の格上それは絶対にないだろうし、論理的にそれを法律や世間も認めることはないだろう。もっともらしい理由は他人の空似というやつだが、こうも都合よくあるものなのか信じがたい。

また、ここまでの一連の流れを考えて、沙彌佳が実は俺の周りにすでにいる可能がある以上、映像の中のが妹である可能がもっとも高いといえる。第一、沙彌佳の影が現れたと思わせるときは、全て武田絡みのときだけだ。このことを考慮すると有り得ないどころか、むしろ可能が高まる一方なのだ。

「疑問があるぜ。あんた、この男を追っているといったよな。あんたとの関係は? それと追わなきゃいけない理由はなんなんだ。

それと……こうして俺にトップシークレットであるこの映像を見せるってことは、何か理由があるんだろ? そいつも包み隠さず話してもらおう」

強気に話す俺にミスター・ベーアは、もちろんそのつもりだと答え、続ける。

「この際だから隠す必要はないから言おう。ことの興りは八十年代にアメリカであった、ある実験から始まったのだ。軍がスポンサーとなり、新世紀に向けた新たな裝置の開発のための実験だ」

「ああ、そいつは知ってるぜ。タイムスリップするための実験だろう。結局は失敗して、お蔵りになった」

「そうだ。だが、この実験の失敗に裏があったというのは知っているかね。この実験が功するかしないかは別として、強制的に失敗させられたという事実を」

初耳だった。結果としての事実は知ってはいたが、その話は聞いたことがない。ミスター・ベーアはそんな俺の空気を察したのか、靜かに語りだした。

「実験が事実上の失敗に終わり、プロジェクトが解散したのは一九八五年九月のことだ。當初、この実験が功した場合、その一部を世間に公表することが決まっていた。なんせ、ありとあらゆる分野の権威たちが集められ、よかれ悪かれ多くの収穫がなされた実験だから、そのいくつかの実験からは世間に公表することでアメリカとしても、舊ソ連に対して軍事的、経済的の両面から無言の牽制にもなりえるものだからね。

それに対しソ連は、実はその一年以上も前から実験のことを知っていたのだ。當時は、冷戦を終えた両國が一旦は良好な関係を築き、共に発展しようということで雙方が合意を得た頃だ。しかし、それは表向きだけで実際には互いにスパイを送り込み、地下戦爭を行っていた時期でもある。君なら、この辺りは説明しなくとも察しがつくだろう」

「つまりKGBから送りこまれたスパイによって、ソ連の上層部にはすでに知られていたってわけだな」

「そういうことだ。當時のソ連は莫大な資金を軍事費に注ぎ込んでいたのは知られていることだが、その実、世界中に軍事拠點を置くことでアメリカを超える一大帝國を築こうとしていたのだ。

そして、その工作員の一人に……こういう男がいたわけさ」

そういって差し出された寫真を見て、俺は我が目を疑った。その寫真に映っていたのは俺も最近知った顔で、あの武田の顔が映し出されている。

「この寫真は……一九八五年當時、なんだよな……? どういうことなんだ」

ミスター・ベーアの頷きに眉をひそめ説明を聞くと、寫真はプロジェクトが終結する二週間ほど前に撮られたものだと説明をけたが、この顔はどう見たって、つい昨日一昨日に撮られたものではないのかと思えるほどに、全く時間の経過をじさせないものだった。

以前、死んだガスに依頼して武田のことを調べさせたとき、寫真を見て今回と同じで、まるで奴の時間は止まっているんではないのかと思えるほど、老いというのをじさせなかったのが思い出される。おまけに今回にいたっては、それよりもさらに何年か前の頃のものなのにだ。

今でこそ考えが及ぶものだが初めて武田の野郎と出會ったとき、奴の顔立ちや印象が寫真とはやけに違って見えたこともあり、奴を武田だと気づけなかったのはかなり痛かった。もし気づいていれば、まだいくらかやりようもあったかもしれなかったのだから、今さらながら後悔していた。

「まるで不老に見えるだろう」

ミスター・ベーアが寫真を食いるように見る俺に、靜かに聞いた。どうやら俺が以前、ガスを使って武田を調べさせたことも、目の前の男はすでに知っているらしい。

しかし俺はそんなことよりも、不老という言葉に思わず、ありもしないことを考えいた。不老というのは、あの島津が行っていた研究の命題で、そのために坂上を筆頭にしてプロジェクトチームを組んであったのを思い出していたのだ。

普通であれば何を馬鹿なと笑い飛ばすところだが、いかんせん今の俺には確実にそれらを笑い飛ばせる自信はなかった。というのも、あの坂上が創りあげたゴメルという化けやなんかのことを思い起こしてみれば、それもあるかもしれないとどうしても脳裏をかすめてしまう。

素人判斷ではあるけども、なくとも不死なんてものよりは、いくらか不老のほうが可能のような気がするのだ。あのゴメルの驚異的な再生能力を思い出すと、不死は脳みそが吹き飛んでしまったことから無理であっても、不老ならあるいは……そう思えて仕方ない。

「この男がどうして年齢を重ねていないかのように見えるかは、この際おいておこう。問題は、プロジェクトを無期凍結に追いこんだのがこの男だということだ。

君も知っている通り、この武田と名乗る男は世界をにかけた凄腕のスパイだ。この當時はKGBの工作員としていていて、何人ものCIA工作員を闇に葬っている。もしかするとKGBの分を手にする前にも、何かしらスパイ活を行っていたかもしれない」

武田の詳しい素は、ミスター・ベーアのもつ組織網を駆使しても摑めなかったそうで、それはかの舊KGBやCIAにしても同じことだったという。つまり、武田の正は依然として謎のままなわけだ。世界屈指の報収集能力を誇る連中をもってすら正が摑めないだなんて、とんでもない奴ではある。報屋として一流だったはずのガスであっても素を知ることができなかったのは、仕方ないといってもいいだろう。

そんな武田だが、先ほどの映像が元でどうにかいくつかのことがわかってきたらしい。かつてのKGB筋から、武田らしい非合法員イリーガルが存在していたという報が洩れたのだ。そこから判明してきたのはどうやら一時は渡米していたこと、さらには當地の人間を巧みに報を仕れていたというものだった。

「いくら現地の人間を使ったといっても、軍の機プロジェクトだろう? そんな簡単に摑めるものとは思えないが……」

「うむ。それに関しては私も同じ疑問を抱いたものだが、後に武田が報屋として使っていた者を捕らえて聞き出すことに功した。その人は、元々プロジェクトの中樞にも絡んでいた人だったので、そこに武田が付け込み、なんらかの裏取引でもなされたのかと目された」

「違ったのか」

「ああ、そうらしい」

「らしい? 捕らえたというわりに、えらく象的だな」

俺がそう口にするとミスター・ベーアは、眉をひそめて苦笑いを浮かべながら答えた。

「もちろん捕らえたさ、我々がね。私の部下にはそういった組織の中にもいるからね。しかしそれらのことを告げた直後、何者かに殺されたのだよ。

おかげで武田の足取りは摑めずじまいだったが今度の騒ぎで、再び武田が暗躍しているのをようやく摑むことができたのだ。実に、灣岸戦爭時以來のね」

結局、武田がかつてのプロジェクトを失敗するよう工作したのには違いないが、その理由まではわかっていないとのことだった。というのも、武田はこの事件の直後にKGBから姿を消すことになったからだそうで、三年後の一九八八年の中東で姿を見せるまでの間、消息を絶っていたというのだ。

それだけでなく、それと並行する形でソ連の政黨局員すら手籠めにし、ソ連解を導くための手引きすらしたというから、武田はKGBを裏切ったことにもなる。いや奴に限っていえば、工作員という肩書きすら仮初めで始めから、何か別の目的があってKGBに潛したと見るほうが自然だ。いつからスパイなんぞやっていたのか知らないが、プロジェクトを中止させた直後に姿を消し再び現したと思いきや、母となる國を解にまで導いたとなるとなくとも、組織に忠実だったとは言い難い。

また灣岸戦爭時においては小隊を率いていたと聞いたから、てっきり傭兵部隊なのかと勝手な先観を持っていたけども実際には違っており、クウェート側の正規部隊だったというのだ。別にクウェート國籍を取得している日本人がいないわけではないので、珍しくはあるがおかしいわけでもない。

俺が気になったのはそこではなく、武田の奴が偽造旅券でクウェートりし、クウェート國籍を手にれたあと軍にったのはいいとして、そんなに都合よくいくものかという疑問があった。連合軍の差し金でKGB仕込みの分を與えられたというのなら、まだ理屈は通る。しかし、その前にドロップアウトした奴がそれをできるとは、し考えにくい。

あの戦爭にKGB……いや、その頃にはソ連は解していたのでKGBはもうないが、その後続機関が関わってないはずがないので、連中が戦時の水面下において行していたのは違いない。そんな中で裏切り者である奴がいていたなら、奴はとんでもなく図太い神経の持ち主だといってもいいだろう。全く、裏切り者には死という鉄則がこの業界の常であるはずなのに、いけしゃあしゃあとよく現れることができたものだと心する。

しかし、武田がそこまでのリスクを負うとも思えないのも事実だ。奴にはそうまでして得なければならないことがあったということ、また、奴がどういったからくりがあるのかも気になるところだ。

「ところであんた、武田の奴が政財界に顔がきくと聞いたことはないかい」

「聞いている。しかし、そこに結託している人たちが一向に見えてこない。いても、どういうわけかすぐに死となって見つかるので、行方知れずになるからだ。

あるいは、そもそもがそんな人たちがいなかったともいえるかもしれないが、だとすれば奴は一人で政治や金、市場は當然、軍事すらかしていきたことになる。さすがにそれは有り得ないことなので、こうして何年も追っているのだがね」

最後はやや自嘲気味にいったミスター・ベーアに俺はそうかと一言告げ、考えを巡らせる。

目の前の男もどうやって巨萬の富を得たのかという點では武田と同じではあるけども、さすがに武田ほどの怪しさはない。もしかしたら俺が知らないだけで、もっと別のやり方があるのかもしれないのでそこは置いておくとしよう。問題は武田のほうで、聞けば聞くほどに摑み所がなくなっていくように思えて仕方がなかった。まるで、武田という人間の幻影を追っている気分にすらなる。

奴がいくら優秀なスパイであろうと、冷酷極まりないKGBから逃れただけでなく、戦時中とはいえ戦場の最前線に出てこれたのには、間違いなく何か別のルートがあったはずだ。そうでなければ、そんな大膽な行などできるはずがない。

まぁいい。そのあたりのことはいずれ必ず突き止める必要があるが、今はまだ謎が謎のままだというのなら、このままでいいとしよう。わからないことにいつまでも気をとられるわけにもいかない。他にも気になることはあるのだ。

「まぁ、武田のことはひとまずいい。さっきの映像に出てきた……黒い影は」

化けといおうとしてやめ、俺はいい換えた。島津研究所で見たゴメルと比べれば、大したことではないように思えたためだ。自分の変に冷靜な面が出ただけなのか、単に異様なそれそのものに慣れただけなのか定かではなかったが。

「うむ。あの影についてはすでに目星はついているのだ。君とて、もう気付いているんではないかな。島津の研究所に乗り込んだ君ならね」

まぁなと、俺は小首を捻りながらくしゃりと答える。やはりあの黒い影は、坂上の研究によって生み出された化けだったのだ。正確には坂上の研究を元に、といったほうが正しいだろう。坂上がわざわざ人に研究データを渡すとも思えないうえ、武田も奴から、ただデータを頂戴したわけでもないはずだ。きっと抜目ない武田のことだから、データをコピーし改良を加えたと見たほうがいいに決まっている。映像を見る限りでは、あのゴメルとは隨分違って思える様相だったのがそれを示唆している。

ゴメルの場合は始めから奇形なのする姿をしていたが、今回は奇形といえるほどの姿はしていない。自然の生んだそれとは違うのは間違いないとしても、どこか整然とした姿をしているようにじたのだ。ゴメルがまるで、黒い影の化けへと進化するための長途中であるかのようですらある。

そして當然というべきなのかミスター・ベーアは、島津での実験の概要を知っているようで、さらなる説明をしてくれた。

坂上はゴメルを沙彌佳に次ぐ果だと告げていたが、実際にはそこから新しい段階への実験を行っていたらしい。奴は、ゴメルという実験功に伴い、その細胞を使って新たな生命の創造を試みたという。幾度に渡って採取され培養されていた沙彌佳の細胞と、ゴメルの細胞を組み合わせて全く違う生命を創ろうとしたのだ。

しかし、それを行うには母となる雌の生命が必要になるらしく、本來であればオリジナルこそ母に相応しいそうだがそんなわけにいかなかった。そこで仕方なく、何種かの生に培養されていた沙彌佳のを投與し、それらの生を新たな母として補うことで、沙彌佳とゴメルの細胞を引き継いだ新たな種の創造を試みたのだという。

これは要するに、他種間による人口配ならびに、代理出産に近い概念だといえばわかりやすい。種としての仲間同士を超えた配に功させた坂上は、それだけで科學を信する連中からすればノーベル賞ものかもしれない。

「……なるほどな。島津の研究所で見た、あの奇形の化けたちはそういう過程で生み出されたものだったのか」

あの虎や熊を思わせる姿をした生たちは、新たな実験で生まれた新しい生だったというわけだ。坂上がゴメルとそれ以外といった合に口走っていたのを思い出し、俺はそういうことだったのかと納得できた。

あの生たちは功への過程という形で生み出され、功へ近づけるために必要なデータを取るために生かされていたにすぎない、サンプルでしかなかったともいえる。

だとしても全く違う種同士の組み合わせで、母となる生に似てはいても全く違う種を生み出したわけだから、坂上の実験はある意味では功だといえるかもしれない。普通に考えれば、全く違う種同士で子孫ができることなどありえないのだ。

しかしこの事実は、ミスター・ベーアのいうオリジナルというのが沙彌佳のことを指しているわけで、俺にはどうにも悍ましい気持ちしかなく、やはり坂上などこの世にいらない奴だと改めて思うだけでしかない。

だってそうだろう。ゴメルのような化けに、自分の妹が伝子レベルでのレイプをされるようなものなのだ。それに嫌悪を抱かないはずがない。おまけに、あの化けたちが伝子レベルでの話とはいえ、自分にとっての甥か姪に當たるだなんて考えたくもない。たとえそれが代理出産による、間接的なものであったとしてもだ。

やはり坂上だけはこの手で八つ裂きにしてやりたかったと、改めて後悔した。たとえ坂上が天才であり科學者として優れていようが、俺が奴を褒めたたえることなどないし仮にまだどこかで生きているとしたら、次こそ喜んで地獄に叩き落としてやるつもりだ。

ミスター・ベーアの計らいで部屋を割り當てられた俺は、広いベッドの上に大の字で寢転がりクリームをした天井を、これからのの振り方について考えながら見つめていた。

やれやれだ。こんな組織なぞ抜ける気でいたこともあったので、良い口実として武田と半ば強制ではあったが手を組んだはずのに、お次は組織のトップだという男の話を聞いてすぐに組織を走するわけにもいかないというジレンマに陥ってしまうだなんて、予想もしなかった。

まだ組織に殘っているほうが利用価値もあるので、しばらくのあいだは抜けるつもりはない。が、俺のきを読んでいる節のあるミスター・ベーアに対し、警戒を怠るわけにもいかない。よく、ついてくると言い張って聞かない綾子ちゃんを盾に、斷らせないよう仕向けたのは明白なのだ。今はよくても、そのうちクビを言い渡した挙げ句に始末をつけてこないとは言い切れない。

こうなると逃げ場がない。綾子ちゃんを見捨てるならカタがつき次第、逃げ出すという選択肢もある。しかしまことに殘念ながら、変なところでお人よしな俺にそんなことができるはずなどなかった。そのためこれまで以上に、なんとかしてミスター・ベーアと武田の二人を出し抜く必要がでてくる。

まずミスター・ベーアは武田のことを告げてきたことから、奴になにか恨みなりなんなりがあると見た。俺に全て言うなどといいながら、男は武田との関係を話すことはなかった。しかし、ここからミスター・ベーアという男が武田に何か思うことがあることが、すぐにわかった。

次に武田の野郎は謎めいていて、はっきりとした目的が判明するまではまだなんともいえないところだが、こっちもミスター・ベーアを狙っているのだけは確実だ。つまりこの二人には、どこかで見えない何かで繋がっているとみて間違いない。二人を出し抜くには、その何かを突き止め、俺がそいつを奪取するしかないということだ。

その何かがなんなのかという疑問はあるが、これに関してはそれなりに目星がついている。重要なのは、それらの関係なのだ。関係がわからなければ、目星がついていたとしても奪取する意味がない。

こうなると、本來であれば今すぐにでもきたいところだがこの屋敷にいる綾子ちゃんの手前、そんな行は控えなければならない。その彼にも俺同様に部屋があてがわれているはずなので、彼の部屋にいくべきだと思っていたところ、部屋のドアをノックする音が響いた。

俺はドアのほうへ首を捻り、無言のままドアからの反応をしのあいだ待って、のそのそとベッドから立ち上がりドアまで歩み寄った。ドアの向こうからはまだ人の気配をじる。

俺はそっとドアを開けて外にいる人を確認すると、一気にドアを開けてその人を招きれた。その人とは、同じくミスター・ベーアの計らいで同じ階の客室に部屋をあてがわれたはずの、綾子ちゃんだった。

「眠れないのか」

「……」

こちらの問いに綾子ちゃんは、小さく頷く。

「どうしたんだ」

俯く彼に俺は怪訝な様子で伺ってみるが、綾子ちゃんはただ無言でその場に突っ立ったままだ。突然の來訪者の思いがけない態度に、俺は間がもたず落ち著かない。

考えてみれば、彼は勢いでついてくることになったとはいえ、俺の様子が々と違うことに何か勘づいていないはずはない。彼の思わぬ登場で気が転していて忘れていたのかもしれないが、スパイ容疑やらなんやらで一時は全國に指名手配をけた俺だ。落ち著いた今、それらの真偽を確かめたいと思って訪れたとしても不思議はないだろう。

「九鬼さん……」

的にそうつぶやいて俺を見上げる彼の目は細く、瞳はうっすら潤んでいる。それは男をわせる、の魔を垣間見るびた目だった。

俺は思いもかけない彼の態度に心ひどく困しつつ、君でもそんな目をするのかと考えながら、自分以外は誰も気づかないほどの小さなため息をついた。

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