《いつか見た夢》第86章

夜のO市の歓楽街を一人、外れに向かって歩いていた。夏の連休前とあって、至るところに人數の人だかりができている。大學生と思わしき集団もたくさんいて、道を橫に並んで歩いているのが鬱陶しくてかなわない。かといって目的地までタクシーを使うほどの距離でもない、そんな微妙な距離だ。

ようやく歓楽街の外れにくると、すぐに信號が変わろうとしたため急ぎ足で橫斷歩道をわたる。目的となるビルは、橫斷歩道をわたってすぐにある、車の離合ができない小さな道をった先だ。

この辺りは再開発の余波をけ、撤退するテナントや取り壊しを行う予定のビルが點在している地區だ。大友のオフィスにいたとき、突然やつの攜帯が鳴りだしたことを発たんとして、俺はこの地區に訪れていた。著信の番號をみると、どこからかはわからないまでも、市外局番を使った電話であることが間違いないのを確認し、その番號がどこからかかってきたものかを調べたのだ。

するとこの番號が、O市の繁華街にほど近い場所に構えている、ビルのテナントにはいっている會社からであることが判明した。さらにこの周辺には、再開発の余波をけ、テナントの募集も取りやめて空き家になっているビルなどがあることも突き止めた。このとき、こうした稼業を生業にしている人間の直で、ここに田神が潛んでいる可能があることに気がついたのだ。

そうした経緯と、近くの繁華街周辺で田神らしい人の姿を見たという、先の報屋の話とがリンクし俺はここに赴いたのだ。古都にも向かったという話もあったが、ここがやつの活拠點ではない以上、いくつも拠點を作るのは難しい。それに古都ではこうした拠點になりえそうな場所はけして多くないので、この辺りにいたというのなら拠點にしやすそうな土地柄と相まって、まずここらにいると判斷していい。

小道にった俺は、いくつかそれらしいビルを見つけると、それらをしらみ潰しに探して回るつもりだった。やつのことだから、この周辺に、いくつかの報網をすでに築きあげている可能も否定はできない。ここらを見知らぬ男が出りしているというのがやつの耳にれば、なんらかのアクションがあるはずなので、それはそれで構わないだろう。

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まず手始めにったのは四階建ての小さなビルだった。まるで、両側のビルによって押しつぶされているかのような印象すらける、やけに盾に潰れたビルで、まだ取り壊しに至るための準備なども行われていない様子だが、テナントは全て撤退している。短期間の拠點にするにはもってこいだ。

ビルにしろ家屋にしろ、押しりも得意な俺としてはビルの鍵を開けることなど、なんの造作もない。しかし、ここは殘念ながら外れだったらしい。全てのフロアの部屋をくまなく探してみてみたものの、拠點にされたような跡は一切見けられなかったのだ。

こんな調子でそれらしい五つ目のビルを探し當て、中にったときだ。ビルの空気が妙に張り詰めている気配をじたのだ。當たりか……そう口にする間もなく、突然真上から糸が首に絡みついてくる。

「ぐっ」

一瞬にして呼吸ができなくなり、首が重力に逆らって真上に引き上げられる。目が瞬く間に充していき、首に絡みつく糸を必死になって外そうとするが、食いこんでしまっている糸はとても指で外せるものではなかった。

「……九鬼」

わずかに意識が遠のきかけた中、耳に知っている男の聲が響く。もちろん、聲の主はいうまでもなく田神だ。

俺だとわかったようなので、こいつを外してくれと指で二度三度、軽く首をたたく。直後に首に絡んだ糸が緩み、これに合わせてのほうも一気に弛緩し地面に膝をついた。

「九鬼か。なぜ君が」

「ごあいさつだな、田神」

糸がはらわれた首の中腹辺りをさすりながら、苦しげに返す。呼吸も徐々に戻りつつある。俺は一度大きく咳こんでため息をらすと、深呼吸する。

「そうか、エリナ……エリナに聞いたのか」

立ち上がり、ついた膝の汚れを軽く払う俺を眺めながら、田神がつぶやいた。

「そうさ。あんたのいうスパイってのが気になってね、こっちにきたってわけだ。あんた、暗い部屋の中にいる報屋から買ったろう? そいつを辿ってきたんだ」

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俺の説明に田神が事務的に頷き、口を開く。

「あるいは君がこっちにくることも考えてはいたが、まさかアジトにまでたどり著くとは思わなかった。大丈夫か」

「ああ。もう大丈夫だ。しかし、まさかいきなり首吊り死になるかもしれないと思ったときは、さすがに焦ったがな。

それよりもだ。あんたの仕事と俺の仕事、どうにもかぶっている部分があるらしい。俺はそいつを聞く必要があると思って、あんたを捜したんだ。もちろん、タダでとはいわない。こちらも今までに知り得たことはいおう。ギブ・アンド・テイクだ」

田神はこちらの提案に再度頷くと、前置きもなく切り出した。

「俺が関西にきたのは、ある男を追っていたからなんだ。その男は全國を転々としていた。だから俺も、その報を聞きつけるたびにそこへ赴いて、必要があれば使えそうな業者や拠點を作っていたんだが……ある日、その男があるスパイを殺したという噂を聞きつけた。それからさ、そいつの活がやけに活発化していったのは。

以前、君が話していたコミュニティというのがあったろう。実は俺も島津研究所でのことをきっかけに、彼らと接してみることにしたんだ。なんせ相手はみんな殺しの技を會得しているという話だったから、なるべく慎重に行していたのが功をそうしたようで、ある男とうまく接できたんだ。そいつは君も知っている男だ」

俺も知っていて、かつ田神も知っているとなると知る限りにおいて、思案するまでもなくそんな人は一人しかいない。

「なるほど。利か」

「そうだ。彼と接できたのは大きかった。彼の報網は決して有能とはいい難いが、かなり広いのは確かだ。そこからしずつ俺なりに、あの男を追っていたんだ」

納得だ。利の報はしばかし不確定要素も多いようにじられたので、俺はなかば聞き流している部分があったのは否めない。それをこの男は、細部までしっかりと記憶し、合理のあるものだけを著実に掻い摘んでいった、こういうことなのだ。何がなんでも手にれた報は細部までしっかりと把握してこそ、を信條にしているらしいこの男のことを考えれば、合點もいく。もちろん、一度見たものはすぐに記憶できるという、特技も持っているからであるのも間違いないだろう。

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「今度は俺の番だな。つい最近、それも昨日一昨日のことだ。俺たちのいる組織のボスとやらに會ってきたぜ」

「會ったのか」

ミスター・ベーアとの馴れ初めを話したところ、いつもは無にしている田神が妙に驚いた表をしながら、黙って耳を傾けていた。

「つまり、君はミスター・ベーアに気にられたというわけか」

「ああ、一応はそういうことになるかもしれない。だが、油斷はできないな。正直、俺は何か裏があると読んでる。なんたって、あの男の右腕には藤原真紀がついているからな」

不意に真紀の名を出すと、田神が端正なそのをふっと吊りあげていう。

「君は、本當に真紀が嫌いらしいな」

「ああ。なぜかは自分でもわからないんだが、どうにもあいつのことは好きになれない」

それでも時折、あの狐に対して妙なを抱くことがあるとは口にしなかった。たとえ田神であろうと、こんなことは口が裂けたっていえることではない。

「まぁいい。とにかく、あのがいる限り、どんな罠が待っているか知れたものじゃない。だから屋敷から逃げ出してきたのさ」

この話はここまでだと、投げやりにいって話を終わらせ次に進める。

「それでだ。あんた、ミスター・ベーアの狙いはなんだと思う? 俺はあのNEAB-2がそうなんじゃぁないかと思うんだ」

「ああ、話を聞く限りそれは間違いない。しかし、おそらくそれだけでもないだろう」

「というと?」

聞き返すと、田神はかすかに渋い顔をして見せながら、小さくかぶりを振った。

「どうもこうもないさ。君は、島津の坂上がどういう実験をしていたのか、覚えているだろう」

「ああ。全くもってくだらない話さ。不死の実験だろう」

俺は坂上が行っていた実験そのものを嘲笑してみせ、肩をすくめる。そんな俺とは反対に田神はいたって冷靜そのもので、神妙な顔つきだった。田神がそんな表をするとは、こちらになんとも不吉な予をさせる。

「……これを話す前に、君には話しておかないとならないかもしれないな。まずは見てもらいたいものがある」

神妙な顔つきのまま、田神は建の奧にあるアジトまで連れていく。奧にあった階段を使いやってきたのは三階にある、一応売り件になってはいるものの、とても買い手などつきそうもない古ぼけた貸しスペースだった。床はところどころヒビがっていて、これでは人など來ようはずもない、そんな場所だ。薄暗い室には、歓楽街から放たれる照明の束が窓から差し込むだけで、寒々しいアジトであった。

「こいつだ」

そんな室にある、今はもう使われていない機の上に置かれてパソコンなどのデジタル機に混じっている、一枚の寫真を取って渡してきた。

「なんだ、これは」

さらにもう一枚、田神が寫真を手渡した。そこに寫っているものを見て、俺は思わず聲にだしていた。そこに寫されていたのは、あのゴメルのような化けの姿だったのだ。

「この二枚の寫真が撮られたのは、今から一年ほど前のことだ。この頃から、世界的に妙な事件が多くおこり始めていて、今年にってからは、特にその傾向が強くなってきている。つい最近でも、ロシアの國境付近の森で原因不明の火災があった。十中八九、これが絡んでいると見て間違いない」

「おいおい、待ってくれ。田神、つまりあんたはこんな化けが生よろしく、投されてるとでもいいたいのか」

「そうだ、九鬼。君はなぜ坂上がNEAB-2を使い、あんな実験をしていたと思う。本當に、ただの不死を追い求めていただけだったとでも考えているのか」

そこまでいわれてしまうと、返す言葉に困る。坂上が不死というものを研究し実験を行っていたのは間違いなく、奴にとってはそれが至上のことだとは思う。しかし、ただ一概にそれだけだったのかと問われれば、當然ながらそれだけであるはずがない。ああいった実験にしても投資が行われているからこそのものなんであって、決して慈善事業などではないのだ。

あれほどの施設を以って実験していたのだから、経営者は知っていただろうし、大株主なんかもやはりそれを知っていたに違いない。以前聞いた田神の話では、坂上は中間報告をしなければならないといっていたらしい。では、誰に報告するのか。決まっている。島津のトップや大株主、あるいはその周辺のあの実験に関わりあいをもった者たちにだ。

「ミスター・ベーアは、そういった兵を持とうとしている、こういいたいんだな」

「それだけではない。ここ一年ほどで、世界中の政財界のきがやけに活発化している。どうやら何人かのスパイがり、暗躍しているという話だ。CIAやMI6は當然ながら、各國の諜報組織がきを見せているんだが、これらとは明らかに一線を畫している連中も暗躍している。我々なんかもその一つではあるが。

特に後者のほうは、前者を隠れ蓑にした二重スパイなんかもいて、全を把握できない。明確な線引きができないせいで、誰が誰の味方なのか、そういったことさえできずにいるんだろう」

「つまり島津は裏で、あのゴメルのような化けを次世代の兵として世に出し始め、なおかつそれをめぐって各國のスパイどもが、暗躍しているといいたいわけだな」

二枚目の寫真には、どうもにあたるらしい部分が寫っている。そこにはいくつもの裂傷ができており、傷口からは白い目玉のようなものが見え隠れしていた。この寫真がどういった経緯で撮られたかは知らないが、おそらくこいつと出會った際に命と引き換えに撮ったものだと思われた。おそらく、撮影者はもうこの世にはいないだろう。

何にしても、あの化けたちを兵として利用しているのだとすれば、有用は確かに高い。戦爭なんてのはどれだけ崇高な大義をもちかけようとも、結局は金もうけのためでしかない。つまり、兵士という人件費に対していかにそれらを抑えるか、なのだ。それでいて敵は多く倒さなければならず、かつ自軍の被害を最小限に抑えなければならない軍のトップにとって、この兵を利用すればいつも頭の悩ませどころなことが、一気に解決される。もちろん、武商人にとっては自慢の兵を世に知らしめる、最高の舞臺でもあるだろう。

の経験からも、あんなのが戦場に投されたりしたら、とてもではないが気が気じゃない。ましてや機関銃の一斉掃程度では倒れない、まさに不死の兵士なのだから、パニックが起こったってなんの不思議もない。俺とて命からがら、ようやく一匹倒せたに過ぎないのだ。

その後も俺は、ミスター・ベーアとの會談の際に見たビデオテープに寫っていた記録から、武田から依頼された半ば強制の仕事の件など、それらを話すたびに田神は何度か力強く頷いていた。自分の仕事において、納得できた部分があったのかもしれない。

「なるほどな、これで繋がったよ。以前、ヨーロッパにいたときのことだ。ある事件について調査する任務を帯びて、政府ならびに當局によって事件そのものが隠ぺいされた、東歐のある國で起きた殺人事件を調べることになったんだ。事件自はもう十數年も前のもので、おまけに隠ぺいされていただけに調べるのに々時間がかかった」

「殺人事件を隠ぺいだなんて、よほどの重役が死んだのか」

「いいや。死んだ男……名前はラドゥ・メチニコフといって、地質調査員だった男だ。世界をにかけて飛びまわっていはしたが、至って普通の民間人だ。しかし、その職業がゆえに起きた事件だった」

「メチニコフ……ルーマニア系か」

窓から差し込む街燈やネオンの燈りに、俺たち二人の顔が照らし出されている。その源に向かって、田神は頷きながらチラリと流し見た。

事件の概要はこうだった。メチニコフはルーマニア地質學會の調査員で、ロシア北中西部にあるクレーター痕へ調査のために訪れた。その調査資料と日誌からは、メチニコフがある日そのクレーターで見つけた不思議な巖石を発見したことが、事件の引き金となったらしい。

ロシア國で採取されたものは、いかなるものであっても國外に持ち出すことがじられているため、メチニコフはロシアの研究所で採取した巖石を調査したという。驚くべきことに石の中に含まれた分に、今まで発見されたことのない元素を含んでいる可能めていると日誌につづられてあったのだ。

元素とはこの世の質を形するにあたって、最も重要な要素の一つであるが現在、一〇三個の元素が確認されている。そのため、もし一〇四個目の元素が見つかったとすれば、それだけで世紀の大発見といってもいいものであり、その年のノーベル化學賞賞は間違いないだろう。

そんなものが巖石の含有分にあるとすれば、ロシア當局としては絶対にその巖石を國外に持ち去ることは認められないだろうし、場合によってはメチニコフを監拘束することすら考えるはずだ。最悪、命すら狙われても、なんらおかしなことではない。

ともかく、その巖石をめぐってロシア當局は、メチニコフに脅しをかけてきたという。こうして、やむなくメチニコフは巖石をロシアに渡すことで事無きを得たわけだが、この時にはすでに遅かった。巖石を採掘しキャンプに戻った際、メチニコフはそれを手で何度もっており、中継地のキャンプで手にかすり傷を負ったと日誌にはあった。

本來採掘などを手で直接れることは良しとされていないが、メチニコフはどういう理由か、巖石を手に取られずにはいられなかったとも書いてあったという。結果これが原因となり、帰國後にメチニコフは死に至ったというのだ。

「巖石に毒でも含まれてたってことか」

「見方を変えればそうともいえるだろう。これは最近になってようやく地質學者たちの間でも信じられるようになってきたことだが、宇宙から飛來したものは、時に地球上では考えられない事象を招くことがある。君はロシア、當時のソ連領で起きた、ツングースカ事件を知っているか」

「ああ。二〇世紀初頭に起きた、シベリアの大発事件だろう。発の原因が諸説あって、いまだに解明されてないって話だ」

「そうだ。このツングースカの事件は、心地周辺の針葉樹が、ある一定の方向にむいてなぎ倒されていたことで様ざまな説が飛びったんだが、いくつか説明不可能の現象が起こっている。心地周辺の伝的な疾患が見つかっているんだ。

とりわけ影響が大きかったのは樹木と昆蟲だ。長が止まったり、異常なまでに長が早くなったり、あるいは部分は普通であるのに、手足だけが異様に長くなったりもしていたという報告もある。もちろん、その逆もあったそうだ。それだけならまだしも、この大発後にこのツングースカでは、それまで見られたことがない新種の生命が見つかってさえいる。

樹木にしても年が止まったまま、何十年と生きているものがあったり、樹木の年が季節ごとに一つから二つという異常な速度で作られていき、結果、記録のために傷をつけた部分はたったの二年後には消えていたといった、やはり常識からは考えられない現象が報告されているんだ。これはもはや、ツングースカの環境そのものがそれ以前とはまったく別に変化したといってもいい。いや、常識など通用しない、異世界といったほうが近いかもしれないな」

「おい、そいつはまさか……」

固唾をのんでつぶやいた俺に、田神が靜かに首を縦に振った。そうなのだ。田神の話を聞いて俺の脳裏にまず浮かんだのは、坂上が研究し開発した、あのNEAB-2だった。生の異常な長、本來の形を変えた異常形態、異常な速さの再生……それはまさしく、あのゴメルと同じではないか。

「ツングースカの場合は隕石が空中発したいうのが現在、最も有力な説とされている。これは、隕石が空中では発しないと信じられていたことと、クレーター痕がなかったため隕石説が否定されていたことが要因だったんだが、九〇年代に、木星に九つの衛星が衝突するという天イベントがあった。この際にいくつかの衛星が地表にはぶつからず、空中で発したことが確認されたことで、近年は再びこの隕石説が強く肯定されてきている。

しかも、木星の場合と同じで、空中発の際にできる特殊な形の風痕がツングースカでも起きていたことで、さらに強く裏付けられている。ツングースカ・バタフライというんだが。そしてこれはツングースカの場合に限らずだが、隕石の衝突や発の際、周辺の地層にイリジウムという地球上ではほとんど採掘されない元素が見つかるという點でも、同様だ。

さらにイリジウムという元素は、本來地球上にはなかったとされる元素であるとされている。地球上にはあまり存在していない元素はイリジウムの他にもあるが、そういったものはおそらく本來は地球上にはなく、宇宙からの贈りと考えるべきだろうな」

「なるほどな、そういった話は確かに面白い。しかし、メチニコフが死んだからといって、なんだって隠ぺいする必要がある。死因が毒素がったことでの事故死ってのはわかったが、連中がそこまでしなくてはならない理由はなんなんだ」

「そこさ。これにはいくつかの様々な要因がある。まずはじめに、メチニコフがロシア側から脅しをかけられたといったろう。実際には彼を助けたのは、CIAの工作員だった。このスパイが他の任務で行きがかり上、メチニコフと接したためにロシアはCIAとの関わりを疑ったんだろう。

CIAのスパイはこのときのいざこざで命を落とし、結果としてメチニコフは巖石をロシア側に奪われた。これが元で、ロシア、アメリカ政府高たちのあいだで張が高まった。もちろん、それに巻き添えを食らう形でルーマニアにもそれが及んだんだ。おかげでメチニコフが発掘した巖石もろとも、この事件が闇に葬られることになった。ルーマニアからすれば、一人の人間の死を葬ることで大國二つからの圧力を回避できるというのなら、天秤にかけるまでもなかったろう。

これで事件が解決したかに思われたが、今度はアメリカ側が、このどさくさにまぎれてかに新手の工作員を投していたことで、事態の収拾がつかなくなっていった。當然ながらアメリカとしては、ロシアの諜報組織が絡んだこの一件に、自分たちの思がばれたと思ったろうし、ロシア側がやっきになった巖石のことも、気になったに違いないだろうからな。

そしてここからさ、俺が任務をうけたのは。はじめ真紀からのメッセージで行うことになったこの任務だけども、事件の概要を調査し実態の確認するまでに留めておくという、なんともおかしな任務だったんだ。しかし俺は、どうにも上はこのメチニコフという男の死について、なにか考えがあるらしいと思って、さらなる調査をしたわけさ」

確かに、それはしおかしい。そんなものはちょいと圧力でもかけて、地元の警察か何かにさせれば済む話だ。これは俺が田神の立場だとしても、きっと田神と同じ行をとったに違いない。田神は、ニヤリと肩をすくませながら続ける。

「メチニコフの死因は、間違いなく例の巖石から検出された含有分によるものだと思われた」

「間違いなく思われた? 変な言い方だな」

そう指摘すると、田神は再び肩をすくめながら苦笑した。

「実際のところはよくわからなかったのさ。ただ死にいたる要素が、それ以外には見つからなかったというだけの話でね。なんせ、メチニコフの死から検出されたのは確かに含有分と似たものだったそうだが、明らかに変質していたというんだ。

この分はどうしたわけかタンパク質に強く作用する特があった。君ならもう分かるかもしれないが、これは坂上が創り上げたNEAB-2と同じ効果をもたらすものだ。タンパク質すなわち、伝子にも強く影響を及ぼすということだ。そして、この頃はまだ坂上もNEAB-2の完には至っていない。

つまり、この巖石の含有分を用いて坂上は、NEAB-2の生に著手することができたということだ。これについては裏付けもすでにとってある」

田神は俺が島津研究所からくすねてきたデータを解析、復元し、またデータ化されたプロジェクトの日誌を見つけたという。俺が島津から念のためにもってきたものが、ここまで役に立つだなんて思いもしなかった。

どうも、坂上のNEAB-2の生には、前のプロジェクトが発端となっているらしい。これについては、坂上の口からも聞いたので今さら驚くことでもないが、問題は前のプロジェクトの被験者の存在だった。もちろん坂上のことだから、その実験に関してもいわくつきだったのはいうまでもないだろうが、この被験者というのがあの今井重工の娘、つまり、あの殺し屋、今井の妹だというのだ。名前は確か、今井夏姫だったはずだ。

思えば、今井夏姫のそばに仕えていた佐竹も彼が病弱だといっていたし、島津のもとで働いていた松下薫も同様に、今井夏姫の治療をおこなっていたと話していた。つまり佐竹が家族から見放されていたという話は本當であるが、表向きの理由こそ治療だっただけで、実際には逆で、実験の被験者だったからこそ病弱だったのだ。

この実験そのものは、やはりNEAB-2の開発へ繋がるもので、こで得られたデータをもとに、どこからか手した例の巖石の含有分とを混ぜ生していったのが、あのNEAB-2という新薬だと、田神ははっきりと口にした。

「あのゴメルという化けを産み出すことができた理由も、これで大わかった。タンパク質を変容させるということはつまり、伝子も変容するということだ。伝子はコードと呼ばれる伝配列をもった、タンパク質でできているからな。NEAB-2はこの報配列を壊すことで、対象を破壊するわけさ。

逆にいえば、配列の破壊と絶妙の兼ね合いで作することができれば、ゴメルのような化けもできあがるということなんだろう。もっとも、そのために何千何萬か……あるいはそれ以上の、果てしない実験を繰り返してきたんだろうが」

「タンパク質の変容か……。指の傷口からそいつがっていったために、メチニコフも死んだってわけだな。だがかといって、ゴメルの異常な再生能力とかの説明にはならないんじゃぁないか? 俺には、そこんところがよくわからないんだ」

「いったろう、ツングースカの例を。植の異様な早さの再生能力、これをさらに発展させたのが、あのゴメルの再生能力の答えなんだと思う。そして、それらを補強することになったのが、前となったプロジェクトの概要だ。坂上にとって前のプロジェクトは、あくまで通過點にすぎなかったのかもしれないが。

以前、手紙で君にNEAB-2の効果について教えたと思うが、あれはまだ効果の一端でしかない。本來の効果は、今いったようにタンパク質の変容にある。坂上が以前おこなっていたプロジェクトは、細胞ならびに伝子の老化現象についての論文から影響をけて、不老という結論を導き出した。つまり、老化の遅延を目的とした実験だったということだ。

そのプロジェクトは紆余曲折を経て、最終的に功を収めたらしい。これだけでもたいしたものだが、この最後の被験者となったのが今井夏姫だ。この今井夏姫の細胞を培養し、例の巖石から採取された分とを組み合わせたのが、おなじみのNEAB-2というわけだ」

俺は強く頷きながら、さらに説明する田神の話に耳を傾ける。

NEAB-2として完をみたものの、その元となった伝子そのものは同じ人間からとったものとはいっても全くの別人のものなのだから、いくら製されたものであっても拒絶反応が出るのは當たり前だ。細胞の発する運熱によって反応し、それを治そうとするのではなくあくまで生させ続けるための伝子に、もう一方の持つ、細胞老化の遅延という効果をもたらす。

この両方の効果が常に一定に保たれることができれば、いつまでも若い伝子ならびに細胞と、それらを補強するために急激な再生能力と生産力をもつことになり、不老不死に繋がるはず……坂上の理論は、おおまかとしてはこんなところだったらしい。

これは要するに、臓提供による治療と同じ理論ということでもある。臓移植の理論は二次大戦以前にはあったそうだが、はじめは正気の沙汰ではないと非難されたらしい。しかし第二次世界大戦の際、奇しくもそうした論文が再発見、評価されたものの、これが実施されるようになったのは五〇年頃から始まったとされる。現在でこそドナーだとか、拒絶反応だという言葉が一般の人間でも知られるようにはなったが、その頃は拒絶反応を起こすことまでは、あまり考えられてはいなかったという。

つまり坂上は、藁にもすがる思いで自の理論を確かめるため、気の遠くなるような作業と修正を繰り返した結果、最期には地獄にを墮としたわけだ。

「坂上のデータには、手にれた巖石に含まれていた分にはまだまだ未知數だとも記されてあったから、絶対とは言い難いのは確かだが。ともかく、結果としてこの適応者がくしくも君の妹だったというわけだ」

「効果については未知數だといったな。坂上は三週間に一度、NEAB-2を投與する必要があるといっていたが、もしかすると、こいつが新たな領域にまで達したということはあり得る、こうもいえるんじゃないかな」

「大いにある可能だな。今はNEAB-2を投與された者を、便宜上キャリアと呼ぼうか。

タンパク質の変容とはいうが、それがどの程度変化するのかまでは數値上示してはあっても、実際どれほどの変化にブレを起こすのかまでは書かれてはいなかった。人間だけに限らず、幾多の種の生たちを使った坂上だから、この微妙な変化の中でキャリアの姿を変化させることなく、報だけが変わるほんのわずかなブレの領域に納まったものが出てきたとしても、なんらおかしくない。

それに人間という種ほど、個さでの報が事細かに出來ている生は珍しい。これだけでも、真のキャリアになり得る可能をもつ者がいたとしても、決して不思議な話ではないんだ。もしかしたら生き殘ったことによって、キャリアとしてNEAB-2と共存できる何かをに創りだしたともいえるかもしれない。あるいは、それ以上のものも」

「それ以上のもの……」

田神の説明を聞いているうちに、だんだんと気が滅ってきていた。説明が理解できないというわけではないが、どうにも、あの沙彌佳がそんな新発見されたよろしく見られるというのに、気が殺がれていったのだ。もちろん、あいつがこの可能にあたって生き殘ったというのなら、それはそれで構わない。むしろ生きていたのだから、もろ手を挙げて喜ぶべきところだ。

だというのに俺は今、あいつが人間の姿をした何かに変わっているかもしれないと考えてしまい、それが本當に良いことなのかと、自問自答している。もしこの予が正しいのであれば、あいつが何度か俺の前に現れたかもしれないと思われるとき、俺に言葉もかけなかったのはこれが理由なんではないのか……。そんな気がしてたまらないのだ。

「ああ。それこそ、本當に不老不死の存在が生まれた、といった可能もないわけではない。坂上にとって、真のキャリアが現れてこそ、次のステップに進めると信じていたようだからな」

「やれやれ……やはり、あんたを捜して正解だったな。俺だけでは々理解が追いつかないところもあったが、あんたのおかげで隨分とすっきりしたぜ」

「いや、君の話のおかげでもあるからな。おそらく、坂上の実験は最終段階に達したともいうことができるかもしれない。巖石の含有分がどんなものであったにしろ、ある一つの効能を発揮することができた以上、この被験者となった君の妹が狙われていないとも限らないな。もしかしたら、君が捜しているのに見つからないのは、それを知っている人間の元にかくまわれている可能もある」

かくまわれている。けないことに、俺は今までそのようなことは考えたこともなかった。あいつを見た最後の姿は、俺の手を払って走り去っていく後ろ姿だった。俺に想をつかせ、誰かのもとで幸せに生きているのかもしれない、そう考えるとそれもいいのではないのかという気になった。

しかし田神は、そんな俺の心中を読んでいたかのように続けた。

「だが、もしかくまわれているとしても、決していい環境とはいい難いだろう。仮にもし坂上のいうところの最終段階にまでなっていたとすれば、必ずなんらかの形でそれが出るはずだ。そうすれば、人は恐怖するか、それか利用としようとするかのどちらかだろう。もしかしたられようとする人間もいないとも限らないが、これはそう滅多とあることではないと考えるべきだろうしな」

斷定していう田神の言葉に、俺は思わず息をのんだ。確かにその通りだ。ましてや、伊達聡一郎が経営していた凰館から、島津研究所……こうした修羅場をくぐり抜けた沙彌佳が、俺の知るそれ以前までと同じであるのかという不安は、間違いなく俺のの中にもあったのだ。

もし俺の知る沙彌佳と今が違ったとして、俺はどうすればいいのか。ふと浮かんだ疑問に思いを巡らせはするも、大したことなど何も思い浮かびはしなかった。俺はため息をつきながら、話題を変える。

「まぁいい。それで、あんたはある男を追って関西くんだりまできた。別に俺は、その男を追っているというあんたの仕事に橫やりをれるつもりはないんだが、その男とスパイの関係は」

「……殘念ながら名前はいえない」

「いえない?」

「別に君に教えないといっているわけじゃない。わからないんだ、その男の名前を。外見の特徴もその時々で違うので、捜しようがないのさ。だから、どんな男なのかは不明だ。しかしスパイのほうは、生前に大友孝也を絞りあげたから、すでにわかっている。スパイは二人。それも、男のペアだという」

「あんた、大友と會ったのか。俺も今朝、早い時間に自宅を訪れたら死んでたぜ。それも、撃たれた直後だった」

田神は手をあごにやった。なにか、思うところがあるらしい。

「大友と會ったのは二日前の夜だった。彼の死を晝のニュースで知り、あるいはスパイが近くにまで及んできているのを実できたものだが、そうか、俺は運が良かったみたいだ」

全くさと、相槌をうつと田神は、大友から絞り出した報を整理しながら語った。

大友は何年も前から中東や東歐に興味を持っており、時間が許すときに旅行へ出かけていたという。そんな大友が一年ほど前、たまたま旅行したトルコの大都市イスタンブールのアンダーグラウンドで、西側から輸されたドラッグの話を聞きつけた。なんせ有數のファンドの社長ともなれば遊ぶ金は腐るほどもっている大友だから、當然その話にすぐ飛びついた。このとき大友の頭の中では、すでにそのドラッグを輸して荒稼ぎしようという考えすら持っていたかもしれない。

しかし、その大友が摑まされたのは、いわゆる普通のドラッグだった。これに激怒したという大友は結局、噂にきいたドラッグをお目にかかることなく日本に戻るも、すでにこのとき、件のスパイの罠にかかったことを知らずの帰國だった。

「つまり、はじめから大友はスパイ連中に目をつけられていたわけだな」

「そういうことになる。大友は、ドラッグを吸引しているところを撮られたらしい。それを警察に知られたくなければ、自分たちのいうことを聞け、とね」

つまり、結局は利用するだけ利用され、死に至ったことになる。時間的に考えても、田神が行を起こしていたことも、スパイには何らかの形でキャッチされていたに違いない。そして、その発信源はといえば大友だったわけで、奴は今朝、人のたちもともに揃って始末されたのだ。けれど、もともとドラッグなどやらなければスパイの手先にもなることなどなかったはずで、俺からいわせれば自業自得といえる。

とにかく、大友はその後、スパイの手先になるよう脅されて、仕方なく傀儡になることを了承した。二か月ほど前に、大友が旅行に見せかけて上海にヘヴンズ・エクスタシーを買い付けにいったという。いや、もっと正確には沙彌佳のといったほうがいいだろう。もちろん、大友に原材料がなんであるかなど、教えられたとも思えないが。

このあたりの話はすでに聞いていることなので、特に目新しいものはない。重要なのは、その後だった。

「最後に大友は、もう一人スパイの手先になっている人間がいるといっていた。この人は手先とはいうが、このスパイと実際に何度か會っているというんだ」

「それであんたは、わざわざこんな場所に張りこんでいるってわけだな」

田神の肯定に俺も相槌をうって、これからどうするのかをしのあいだ、議論をわした。とはいっても、すでにほとんど田神が考えていた立案ではあるが。俺は田神がとるべき行をとるだけで、あとは田神が見張りをするということで決まった。スパイがどんなやつかはわからないまでも、見張りがいれば何らかの形で保険にはなる。

そもそも田神は、スパイが二人いたからこそエリナを関東に殘させたのだという。別々に行しているとも考えてのことだったそうだが、そのときはまだ確信が持てなかったらしい。

田神とのやり取りを終えた俺は、窓の脇の壁に隠れるようにして、そっと街のほうを眺め見た。せいぜい三階かそこらしかない小さなビルばかりが立ち並んでいて、向こうに繁華街の背高いビルの窓かられる燈りと、ネオンのぎらぎらした夜景が飛び込んでくる。

ともかく、スパイの野郎と繋がりのあるという人を締めあげないわけにはいかない。こいつからスパイへたどり著けなければ、いつまでたっても武田へもミスター・ベーアへもたどり著けない。この二人を出し抜く決定打を手にれるためにも、なんとしても俺はここでその人に會わなくてはならない。

俺が田神の簡易拠點にしているビルに忍び込んでからというもの、三時間が経とうという頃だった。パソコンの前で一人なにか考え込んでいる田神の代わりに雙眼鏡を使って、背の低いビル群と大通りを挾んだ向こうにあるビルを監視していたとき、一人の男がビルの路地へとっていくのが見えた。

先ほど、田神が広げてみせた周辺の見取り図では、あの先にあるのはビルの通用口しかない。俺が見張りにたってからこの數時間、そこへとっていった人間は誰もいないことから明らかに曰くありげだ。いくらスーツ姿であるとはいえ、夜の十一時になろうというこの時間に一人ビルの中へっていくなんて、普通ではない。おまけに、スーツ姿の男はさりげなくではあったが、周囲を確認したのも見逃さなかった。

十中八九、大友が吐いたもう一人の手先と見るべきだろう。雙眼鏡を覗いていた俺は、ズームアップし、ビルの窓に燈りがつかないか待っていると、案の定、ビルの死角になっていて見えなかったが電気がついたのを確認した。反対側のビルの壁に、れたがぼやけながらも反したのだ。

「田神。やっこさん、現れたようだぜ。ビルの五階だ」

雙眼鏡をはずしながらいうと、田神はこちらに目を向けながら一瞥し立ち上がると、ほとんど足音を立てずに歩み寄り手を差し出す。

「こいつを渡しておこう。あまり上等なものではないが」

「いいや、十分さ。ちょいといってくるぜ」

田神から手渡されたものはいわゆるイヤーモニターというやつで、そいつを素早く耳につけると、俺はすぐさま部屋を飛び出る。もちろん、田神と同様に足音はなるべく消してだ。

上等なものではないというが、半徑數百メートルくらいは十分に周波數が屆くはずなので、こちらとも音聲でやり取りができる。もしかするとやつのことだから、上等なものでないというのが謙遜である可能もある。ともかく、今はこれで十分だ。

二段飛ばしで階段をおりていき、表へと出た。おそらく、スーツの男は銃などの武裝はしていないはずから、こちらも丸腰で問題ないだろう。もし武裝していればスーツの上からその盛り上がりがわかるはずで、さりげなくとはいえ、ビルにろうとするのにわざわざ周囲を確認しようとするのが、いかにも素人くさい行だった。

本來ならナイフの一本でも持っていきたいところだが、多の厚著をしているとはいえ半そで、さらに季節は夏だ。そんな折に長袖を著込んでの武裝など、逆に怪しんでくださいといっているようなものなので、仕方ないだろう。これが銃社會のアメリカなどであれば、まだ長袖にしたとしても言い訳が通った可能もあるかもしれないが。

數時間前に橫切った大通りの橫斷歩道を再び渡り、男がっていったビルの路地へとった。路地裏だけあって大人が一人通れるかどうかの狹い通路を道なりにいくと、すぐに空へと吹き抜けになったし開けたスペースに出る。右手には灰らしいビルの通用口があり、俺は素早く開けて中へとり込ませた。

った先は、真っすぐな通路の端にあるドアの上にある非常用出口の緑をした燈りだけが、不気味にあるだけだった。そのすぐ脇に階段があるのを見つけた俺は、その階段を音もなく素早くのぼっていった。所々に窓があり、そこから街のが差し込むだけでビルの中はかなり暗い。このビルは基本的に、夜間は誰もいてはいけないことになっているらしい。

五階までのぼってきたところで、左へ折れ、うっすらと白い無機質な廊下にれ出したのところへ靜かに近寄り、中を覗きこむ。中では男が一人なにか探していて、その作はどこか慌てている様子だ。つい先ほどビルの中へとっていった、スーツ姿の男だ。

『著いたか』

左の耳にしたイヤーモニターから、田神の聲が発せられる。俺は小さく、ああと相槌をうって、一気になだれ込もうとしたところ、突然どこかで聞き覚えのある電子音が響き渡り、中の男がビクリとを大きく震わせた。恐る恐るといった合に、男はスーツから取り出して機の上においていたらしい攜帯電話をとりあげ、かすかに震える手で通話ボタンを押して耳へと持っていく。

「あ、ああ、私だ。……いや、そういうわけじゃない」

男の聲が震えている。どう見ても電話の主に対して脅えているのがわかる、そんな聲だ。俺は中に飛び込もうとしてドアノブにばした手を放し、男の様子を盜み見ながらイヤーモニターを彼のほうへと向ける。

途切れ途切れの會話からは、男が電話の主に脅されているらしいのがよくわかった。そして、やはりこの男こそ、例のスパイの手先であることを、自ら言い放ったのだ。

「今まで、あんたのために何度も汚れ役を勝手きたろう。頼むから、もう解放してくれ。周りの人間が怪しんでるんだ」

その言葉を聞いて、俺は思わずほくそ笑む。どういう事かは知らないが、男も大友と同様に脅されて仕方なく手先になったらしい。もしかすると、はじめこそスパイと共同として工作活に勵み、後々、それを逆手にとられて脅されることになった、こうした可能もある。

まぁいい。どちらにしろ、今の俺には好都合の事実だ。田神も同じことを考えたのか、イヤーモニターから指示をだしてきた。

『こいつは運がいいな。これを利用しない手はない』

どうやら一方的に告げられて通話を終えたのはスパイのほうで、切られた男は頭を抱えながらその場にあった長椅子に腰かけ、その背中からは絶を包まれたとでもいった雰囲気を醸し出している。

田神はフロアの電気を消すよう指示をだした。田神の指示に従ってその場から移すると、移先にあったブレーカーをすぐさま落とす。

突然おとずれた出來事に男の驚く聲が、廊下に響く。もしかしたら、スパイの件とあいまって、敏になっているのかもしれない。

俺は足音が立たないよう靜かに、かつ素早く部屋にまで移すると、やはり靜かにドアを開けて中にる。男は突然燈りが落ちたため、おろおろとしている姿が影となってわかる。

「大人しくしな」

「だ、誰だっ」

わけもわからずに突然発せられた聲に反応した男の上ずった聲は、戸いと、誰もいないはずのビルにいた別の人への恐怖がり混じっていた。

「誰でもいいぜ。とにかく騒ぐんじゃぁない。今おまえには銃口が向いてるんだ」

「銃……」

もちろん銃などないが、それらしく肘から先をを男に向けると、男が低い聲でそういった。銃なんて憂き世離れした言葉に反応したわりには、やけに落ち著いている聲だった。まるでそれ自が、日常茶飯事といった合のニュアンスにもとれる。

「あんたが、”ドッグ”に雇われた殺し屋か……早いな」

「……」

犬と呼ばれ、俺は暗闇の中で眉をひそめた。どうやら、スパイはドッグという暗號名コードネームで呼ばれているらしい。

「殺し屋まで派遣するなんて、もう俺も終わりか」

うわごとのようにつぶやく男の言葉に、イヤーモニターから田神がいった。

『どうやらこの男は、”ドッグ”からの指令に不備をきたしているようだ。多分、死ぬことを覚悟しているのかもしれない』

俺は田神の言葉に小さく頷く。

「おまえさんにはいくつか聞きたいことがある。それができるというのなら、”ドッグ”に処刑の取り消しを口聞いてやってもいい」

思わぬ切り返しに、男がはっとする表を見せた。そんなことができるのかという、驚きに困が混じった表。田神はそういうが、俺は覚悟していたにしたって、そう簡単に人間が生を諦めたりするはずがないと思ってのことだ。

うろたえながら男は、何度も確認するように本當かとオウム返しに聞き返し、俺は安心させるように何度も肯定する。ともかく、スパイと接できる數ないチャンスを、逃すわけにはいかなかった。

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