《いつか見た夢》第87章

人気のない男の家のそばにある公共駐車場で、田神と二人、車の中で息をひそめていた。視線の先にあるのは二階建ての男の家で、電気のついた二階にある部屋だ。二人でここに張り込みを始めてから、すでに二時間以上が経過している。

「ドッグの奴は現れるだろうか」

沈黙を破ってつぶやくと、助手席の田神は力強く頷きながらいう。

「現れるはずだ。奴とてスパイだというのなら、自分にとってのメリットを易々と潰すはずもないさ」

田神の発言に、今度はこちらが頷く番だった。実際のところ、俺自、現れるはずだとは半ば確信を持っているものの、果たして本當にうまくいくかというとやはり、不安になる部分というものはあるものだ。だからこそ、そんな臺詞が口をついてきたのである。

宮部順一みやべ じゅんいちを名乗ったドッグ手先の男は、落ちつかなげに電気のついた部屋の中をうろうろしているのが、その影から窺える。おそらく、命惜しさに俺たちの手先となってしまったことが、自分の首を絞めることになるのではないのかとでも考えているのだろう。そもそも、スパイの手先になるというのはそういうことなのだから、どのみち後には引けないのだけども。

「きた。おそらく奴からの電話だ」

持っていたスコープを田神が手渡してくると、そのスコープでもって部屋のほうを覗き見た。落ちつかなげだった宮部が攜帯を耳に、二度三度と頷いているのがみえる。もちろん、こんな深夜に電話をかけてくるのは、ドッグ本人であることは間違いない。助手席に座る田神が膝においたノートパソコンを作し、イヤーモニターに音聲を繋いだ。

『あ、ああ、いま家にいる……ああ、わかった。わかったよ……』

弱々しく、仕方ないといったじの聲に、演技らしい素振りは全くない。やはり、二重スパイという立場からくる恐怖や、強迫観念があるからかもしれない。

『そ、それで話というのがあるんだ……ああ、実はついさっき、あんたを探ってるらしい男が一人、訪ねてきた。……いいや、知らないといっておいたさ、もちろん。ああ……ああ』

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宮部はドッグからの指示を仰いで、何度となく頷き相槌をうっている。宮部もこちらの指示通りにしたので、ドッグの奴は間違いなく、こちらのことを疑っただろう。とすれば、なんらかの指示を出すに違いないというのがこちらの考えだ。宮部には指示されたことをメモ書きし、家から出る際にはそのメモをポストのそばに落しておくよう、こちらも指示しておいた。

案の定、しばらくすると宮部の部屋から電気が消え、時間差で男が玄関から出てきた。スーツのポケットから鍵を取りだす瞬間に、丸められたメモ紙が偶然落ちたかのように捨てられるのが、確認できた。これもこちらの指示通りだ。

「タクシーを使うつもりらしい」

この深夜帯に電車はいていないので、移するのは歩きでなければタクシーくらいだろう。宮部は足がつかないよう、ドッグの奴と落ち合うときは必ず公共機関を使うといっていたので、殘る選択肢はタクシーしかない。

右左を見て周囲を確認し繁華街のほうへと向かって歩く宮部を確認すると、田神は車を降りてすぐに玄関の前に落されたメモを取りに行く。車を出たと同時に、車のエンジンをかけてしの時間をおき徐行させながら、玄関先に車をだした。田神はメモを拾うとすぐさま再び車に乗り込んで、俺はそれを確認するまでもなく車を発進させる。

「さて、どうくかな」

くしゃくしゃに丸められたメモを広げ、田神はそこに書かれた行き先を読むと、俺にもそのメモを渡してくる。向かう先は意外にもO市を大きく離れ、N県N市の住所が書かれてあるではないか。どうやら、そこでドッグの奴と落ち合うつもりらしい。メモを田神に渡し、田神は早速パソコンでその住所を調べだした。

先行していた宮部を追っていると、繁華街へと続く目抜き通りに出る直前で追いついた。宮部には俺たちが追ってきていることは伝えているが、どの車でだとかどんな手段で追ってきているのかまでは伝えていない。こちらが通り過ぎたところ、バックミラーで確認すると向こうはこちらに気付いた様子はなかった。もしかすると、この車が俺の乗った車だと、薄々気付いた可能もないではないが。

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宮部は目抜き通りに出たところで、運よくやってきたタクシーを摑まえ乗り込んだ。運転手に行き先を伝えると、こちらのイヤーモニターにもはっきりと聲が伝わり、ほぼ同時にタクシーがき出す。急ぎだということで、宮部は高速を使うよういい渡すと、眠いからと一切の口をつぐむ。

「罠が仕掛けられている可能も無視できないな」

都心環狀線に乗って、タクシーを追う俺たちの車にも沈黙がおりていたところを、俺が無理やりにそれを押し破った。田神は頷くこともこちらを一瞥することもなく、靜かに言葉をつないだ。

「充分に考えられるだろうな。いや、むしろそう考えて行した方がいいに決まっている。そこで現地では、二手にわかれて行したほうがいいと思う。イヤーモニターがあるから大丈夫だし、おそらく君が宮部の後を追ってくるというのは、想定していると考えていいだろう。向こうは元が二人組ということもあって數の上で有利に立っていると考えているはずだ」

「つまり向こうは、こちらが二人組だというのを気付いていない可能が高いってわけだ。さらにいうと二手にわかれれば、連中の不意をつけることも可能というわけだな」

できることならば、二人組だというのなら二人とも捕えたいところだが、果たしてそんなことが可能か……俺は一人頷きながら、そんなことを考えていた。仮にも向こうだってプロなのだ。おまけに二人となると、生け捕りは正直難しい。田神がいるから心強いのは間違いないが、だからといって二人とも生け捕れるかといった確かなことをいえるわけではない。

もちろん、やれるかやれないかの問題ではなく、やらなければならないのだがやはり考えてしまう問題ではあった。それに二人組というのは、どちらかが失敗してももう片方が生き殘るとなると、とても厄介なのだ。

まぁいい。二人組が質の悪いものであるというのは、いつの世も決まり切っていることではないか。考えようによっては、どちらかを生け捕ればいいということもいえなくもないわけで、もう一人は片づければいいともいえなくもない。こちらのほうが、二人を生け捕ることよりもはるかに簡単なのだから、そうした可能だってないともいえない。

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ともかく、今はN市に著くことが先決だ。あまり會話しようとせずに、パソコンで熱心になにかを調べている様子の田神が、向こうに著くころまでには何かしらの作戦を立てているに違いない。

そろそろ東の空が明るくなり始め、あと一〇分と経たずに夜明けとなる頃、タクシーとそれを追う俺たちの車は、目的のN市街近郊にまでやってきた。高速を降りたタクシーは一般道を到底ありえないスピードで走り、こちらもそれに合わせながらも緩急をつけながらも、後を追うことで、あっという間にN市街を通り過ぎて郊外へと抜け、山のほうを目指していっていた。

田神が調べた住所の場所は、どうやら、市も外れにある病院だということが判明した。意外や意外、もっと街中の病院でいいのではないのかとも思うのだが、あえてそんな場所を指定したあたり、なにか曰くありげだ。しかも病院というのがどうにも、俺を嫌な予にさせる。

「ところで九鬼」

「ああ」

これまでほとんど口を開かなかった男が、ここにきて唐突に話しかけてきた。

「さきほど君にいった話、覚えているか」

「アジトでの話か」

「そうだ。あのときはいわなかったが、実はまだ君に話しておきたかったことがある。まさか、すぐにも病院に行くことになるとは思わなかったから黙ってたんだが、この際だ、仕方ない。メチニコフの話の際、ツングースカの事件についてれたろう。あれの延長といってもいいんだが」

どことなくもったいぶって前置きした田神は、膝の上のノートパソコンを閉じ、前を見たままゆっくりと語りだした。

「ツングースカでは、周辺の環境が変わったといったのは覚えてるな。これを環境実験の手法を用いて、伝子にどういった影響が出るかなどの実験をしたレポートがある」

環境実験などといわれてもピンとこなかったが、田神の説明を聞いているうちにそれがどうしたものなのか、すぐに理解できた。要するに、その事象がどうして起きたのか、理論的な説明付けをするために似たような環境を作り上げて行うこと、言葉のままの意味のようだった。

この環境実験にならって、伝子単位でもそれを行うことができるという理論がなされたらしく、この実験がこれから向かう病院ではかながら行われているというのだ。

「ヘヴンズ・エクスタシーを市場に流すためにドッグの奴が工作したというのなら、こうした研究を行っている病院に目をつけないはずもないな。宮部をそこに呼んだことといい、きな臭いな」

「全く、島津の件があって以來、その手の話はほとほとうんざりさせられるぜ」

そういう俺に、田神は苦笑をもらしながら肩をすくめるだけだった。さらに驚くべきことに、病院の株を所有している人が、あの島津製薬のトップである、島津宗弘だというのだ。これで、ますます今回の一連の事件との関連が強まる。

そして、そこへ新たに現れたドッグというコードネームのスパイ……。こいつがいかにして関わってきているのかは計り知れないものがあるが、確実に、今までのどこかの時點で関わりをもってきているに違いない。

宮部を乗せたタクシーは、目的地となる病院の何百メートルか手前で止まると、金を支払ったらしい宮部が降りてきた。やや勾配になった道路を道なりに進んだ先には、件の病院が視界にうっそりと佇んでいる。

「どうする? とりあえず俺が宮部を追うつもりだが、あんたはこのまま車で待機するかい」

「いや、俺はし気になるところがあるから、そっちへ行ってみようと思う」

田神は周辺の街並みを見渡しながら、そういった。

「たぶん、病院にいるのは片割れしかいないと思う。あとの一人がいるとすれば、病院ではなくもっと別の場所にいるはずだ」

確かにその通りだった。俺としても、プロが二人同時に同じ場所へ向かって、同じく行を共にするとはとても思えない。二人ということはすなわち、どちらかが別隊となって行したほうが効率がいいにきまっている。そうした點でも、こちらもそれなりに予防線を張っておくに越したことはない。

第一、向こうは二人組ということで、和の上では有利だと判斷しているとすれば、こちらも一人と思わせておいたほうが、もう一人いたという思わぬ油斷になる。田神のことだから、間違いなくそう判斷してのことだろう。

「わかった。島津のときのようなものがないことを祈るばかりだな」

強気にそう告げ、俺は車から降りた。すでに外は太の暑いしが照りつけており、夜の冷えた空気から、早くも蒸せる空気へと変わり始めている。今日も暑くなることは確実だ。

宮部は昨夜のスーツ姿のまま、足早に病院へ向かっている。俺は時折すれ違う人を目に、宮部のあとを追う。ものの數分で病院の敷地へとった宮部は、病院の正面玄関を素通りし、建の裏手のほうへと回った。おそらく、裏口からるつもりなのだろうが昨晩のビルといい、病院といい、裏口へ回るのが好きなやつだ。 とはいいつつも、自分も似たり寄ったりなものだと思うと、人のことはあまりいえないのかもしれないが。

ここまでのあいだ、宮部はこちらが尾行していることに気づいている様子はなかった。気が気でないということもあってか、そこまで気を回す余裕がないのだろう。スパイの手先という立場であれば、下手を打てば自分の死に直結しかねないというのを心得ているからこそだ。

宮部が回っていったほうへ俺も続く。建の裏手はいわゆる中庭というやつになっていて、芝生や幾本かの木々が青々と茂っている。中庭を右手に宮部はさらに奧へと進んでいき、渡り廊下でつながった別棟すらも通り過ぎて、さらに奧にある背の低い、三階建ての建のほうへと向かっていく。どうやら、その建こそ宮部の目的の場所らしい。

案の定、その建の前にきたところで立ち止まり周囲を一瞥したため、俺はいち早くそれに気付いて咄嗟にそばに立っていた木のに隠れる。こちらにづいた様子もなく、素早く中へとっていった。

から出て、すぐに宮部を追った。建はどうやら病院の研究施設になっているようで、ここだけは明らかに前に建った二棟と違い、病棟といった赴きをしていないのだ。

俺はる直前、ここにどんなものが待ち構えているか、用心してドアノブを捻る。そうそうあることではないとは思うが、島津のときのように、想定を遙かに超えた化けがいないかだけは、心に留めておく必要があると踏んだのだ。もし遭遇しようものなら直ちに逃げなくてはならないし、逃げるにもある程度の心得というものは必要だろう。

の中は、どこかひんやりとしていて、あまり人の気配というものをじさせない。一般病棟は看護師や醫師たちが朝の準備に追われている頃だろうから、ここが無人であっても不思議はないのだけども、この無機質さはそれとは明らかに違う何かをじさせるものだ。噓であるとは考えられないが、田神の話が本當ならここには何かあるはずなのだ。

耳を澄ませるまでもなく階上からは宮部だと思われる人の、どこか忙しない足音が響いてくる。この音を頼りに俺は、足音を響かせないよう小走りにすぐ脇の階段をのぼり、二階へとあがった。足音はまだ階上から響いてくるので、ドッグの奴は三階を指定したらしい。

さらに階段をのぼって三階へとあがる途中、今まで響いていた足音が突然途絶えた。どこかの部屋にったということだろう。

俺は足音を忍ばせつつ三階へとやってくると、そのままの調子でこの階にあるドアの全てに耳を押し當てるつもりだった。だがおそらく、そこまで必要ないだろう。足音は、平坦な場所についたところでしして消えたので、あまり遠くの部屋にまではいっていないはずだった。

そう考えながら最初の部屋のドアに耳を押し當てると、早速中から男の話し聲が聞こえてくるではないか。思わずニヤリとの端を歪ませたところで、引き戸になったドアの取っ手に手をかけて、そっと開けたときだった。

「ああ、きたよ。ようやくだ」

そんな臺詞とともに、ひどく低い男の聲がした。

違和と若干の困を覚えながらも、俺は部屋の中へとを屈ませながらり込ませる。この狀況でそんなことをいう輩は、消去法からいって一人しかいない。

「まんまと騙されたというわけか」

俺はヘマをしたと心舌打ちしながら毒づいた。相手の妙な素人演技に、見事に騙されてしまったのだ。

「ふふ、こちらこそ見事に引っ掛かってくれて嬉しいよ、九鬼」

宮部に名指しされ、わずかに眉をひそめる。俺の名はあまり知られていないはずなのに、どういうわけか宮部の奴は知っている。ここに疑問符を浮かべないわけにはいかない。

「ドッグってのは、あんたのことだったんだな、宮部」

「いかにも。私こそドッグさ。私の周辺をどうも、うろちょろする奴がいるというのに気付いて網を張ったわけだが、なるほど、隨分と大殺し屋が釣れたものだ」

今の一言でこの宮部……いや、ドッグの野郎がこいつらを探っていたのが田神とは気付かずにいるというのと、俺と田神とは全く區別がついていないというのわかった。俺の名だけでなく顔まで知られていたとなると、かなりの不利になるがこの際仕方ない。なくとも田神のいった通り、こちらに味方がいないと思ってくれているだけでも幸運といえる。

だとするなら宮部にはこのまま、こちらにはバックがいないと思わせておくことに限る。萬に一の可能も考えておくも當然だが、しでも男から報を聞き出す必要もある。

「今、誰と話をしていたんだ。演技にしたって、まさか、誰とも話すことなく攜帯とお喋りしてたわけでもないだろう」

あえて挑発的にいってみたのに、宮部はクスリともせずにけ流していう。

「駄目だ、駄目だよ九鬼。そんなことをいって私から報を盜みだそうとするなんて、私には通用しないよ。

君は、はじめから私を利用しるつもりでいたようだが、當てがはずれたな。まさか本當にここまでつけてくる車に、なにも気付かないとでも思ったかね。私が君をここに連れてきた理由もわからなかったんではないのかな」

「理由か。そうだな、大方、ここで行われている実験についてのことが絡んでるってところ以外、想像なんかつかないね。それとも、まだ他になにかあるとでも」

無駄とはわかってはいても挑発的にいう俺に、宮部のやつは薄笑いを浮かべるだけでなにも答えることはない。こちらに有益になりそうなことは、なに一つ教えるつもりはないらしい。

「なるほど、まぁいい。だが、一つだけわからんのだ。なぜ俺が九鬼だと思った」

「依頼人が君の報をよこしてくれたにきまっているだろう」

「その依頼人というのは」

そういうと再び薄笑いの沈黙が降りる。大したプロだ。もともと一筋縄でいくとも思っちゃいなかったが、再び腹を據え直す必要がありそうだ。

「それで、あんたは依頼されて俺を始末しようってわけか」

「端的にいえばそうなるな」

そう告げた瞬間、宮部は懐からナイフを一本とりだし、こちらへ完全に向き直った。

「しかし、いいのか。ここでそのナイフで俺を始末すれば、確実に証拠が殘るぜ。こんな場所にまでわざわざい込んだということは、それなりの理由があると思うが、だとしても、々荒っぽいやり方とは思わないか」

「安心しろ。ここの人間は私の味方だよ。君に対してご立腹の連中だからな」

宮部がいい終えた直後に、しまったと口の中でかみ殺すような小さな舌打ちしたのを、俺は見逃さなかった。俺に対してご立腹だと? 宮部のいい方だと、はじめから俺が狙われていたということになるが、一誰がこんな殊勝なことをしてまでつけ狙うというのか。そんなの決まっている。この病院そのものが奴に依頼したわけであり、そんなことをやるとなると當然、それらをみ消せる立場にあり、それでいて俺に恨みを持つ人間しかいない。

そして、その人とは……。

「そうか。島津宗弘……島津宗弘があんたの依頼人ってわけだな。連中の総本山ともいうべき研究施設をみじんにしてやったからな、その腹いせというわけだ」

田神もここが島津と関係のある施設だといっていたので、十中八九そうだろう。しかし島津の研究施設を壊滅させてやり、その上で俺に矛先を向けてきたというのなら、この上なく腹の底から充足が湧きおこるというものだ。そのおかげで連中は泡をくったというわけなのだから。ざまあみろだ。

「……なにがおかしい」

薄笑いを浮かべながらも冷たい眼でこちらを見ていた宮部が、怪訝さを含んだ調子で小さくいった。

「いいや。単なる思いだし笑いというやつさ、気にしないでくれよ」

思わず表に出ていたらしい。これは俺の悪癖というやつなのかもしれないが、それはともかく、笑わずにいられるわけがない。宮部のいったことから推理すると、依頼人がまず島津宗弘と見ていい。そして俺にこうして殺し屋を差し向けたということは、自分も始末されてもいいという覚悟もあるというわけだ。つまり、これを口実に島津の頭脳も始末していいという、ゆるぎない報復の権利を與えられたわけなのだから、これが嬉しくないはずがない。

「それであんたは、ヘヴンズ・エクスタシーを市場に流すために工作活を行った、こいつも間違いはないんだな」

「そこまで知っていたのか。まあ、今さら隠しておく必要もないからいってしまうと、君のいう通りさ。だが、別に私がしたかったからではないがね。あくまで、仕事だったから行ったまでだ」

確かにそうだろう。どんな汚れ役であろうと、それを行うからこその工作員なのだ。そこに私などあってはならない。こうした點では、俺はイレギュラーに近いのかもしれない。しかし、それでも一スパイという観點からすれば、使えない組織にいつまでもいるのもまた、矛盾したものであることもまた事実なのだが。

「……さて、もうお喋りは十分だろう。こちらとしても次の仕事があるのでね」

次の瞬間、宮部がを低くして一気に間合いを詰める。繰り出される刃先に完全に眼がいっていて、このきに反応できたのはほとんど偶然といっていいほどだった。

本能からだったのか、俺は避けるついでに男のナイフを持つ腕めがけ、蹴りを放っていた。だがその蹴りは完全に読まれており、奴はいとも簡単に腕でブロックする。

「ちっ」

舌打ちとともに勢を立て直し、一旦間合いを広げるべく一歩後ろへと下がる。

「ふんっ」

腹の底かられた気合の聲とともに、宮部は間れず詰めよる。

を固めるように細め、突き出されるナイフの腕の側へと左手を瞬時にばし、二の腕を思い切り摑む。そのまま肘を橫に曲げていき、男を引っ張るようにそのを引く。

そのときにはすでに、右手で掌底を男の顔面めがけ打ち込んでいた。

「がっ」

顔面を拳による打撃でなかったことに逆に油斷したのか、宮部に一瞬の混があった。それを見逃さず、俺は相手のみぞおちにその掌打でもって膝をつかせる。

持っているナイフを地面に落した男は、胃を逆流させ吐き散らし、苦悶に表をゆがめている。ナイフを足で蹴り飛ばし、さらに膝で宮部の顔面も蹴りつける。

そして、気を失ってはいないが朦朧としている宮部の肩を摑み固めると、思い切り力をこめて関節を外す。鈍いとともに、宮部は聲にならない悲鳴をあげる。

「久々の実戦で、腕が落ちたかい」

自分でも思いのほか冷靜に対処できたことを実しながら、冷たく言い放った。ここのところ、実戦に次ぐ実戦で覚が鋭敏になっているのかもしれない。

「くっ……」

もちろん油斷はない、はずだった。宮部の腕を後ろ手に組んで立ち上がらせたとき、奴のこめかみのあたりに一點の赤がともっているのが視界に映ったのだ。

それを見たとほぼ同時に、俺は宮部のを突き飛ばし後方へ飛び込んでいた。

窓ガラスの割れる音が響いた瞬間、宮部が短い悲鳴をあげてそのままうつ伏せに倒れこむ。考えるまでもない。スナイパーの放った弾丸により倒れたのだ。

機や椅子を壁にしながら匍匐前進し、倒れた宮部の足を摑んで引き寄せる。から出れないこともあって仰向けにするのには、普段以上の力を要する。

スナイパーの奴は宮部を一撃にして仕留めるつもりだったんだろうが、いち早く俺がそれに気付いて突き飛ばしたことが功を奏したのか、弾は部分に當たったようでまだ宮部の息はあった。

しかし、それもあとわずかだというのが、顔と短く連続する不規則な呼吸に現れていた。死相の出た顔には眼を見開いて、ひどく驚きの表も見て取れた。

「何かいうことは」

耳元でぶ俺に、宮部はを震わせながらかした。かすかにしか聞こえない聲を聞きとろうと、耳を口元へやる。

「なぜ……裏切っ……」

「裏切った? そいつはお前の片割れのことか、そうなんだな」

続けてぶ聲に、男はかすかに首を縦にしたような気がした。もうのわずかな筋を使う力すら、なくなってきているのだ。

「もう一人の正を教えるんだ、名前はっ」

「な、名前は……」

意識が混濁し、眼を見開いてはいるがもはや見えてはいないだろう。それでも宮部は、外部からの聲に従って、手をまみれになったスーツのほうへとかしたところで、その手のきが不意に止まり、床へと垂れ落ちた。

「くそ、どういうことだ」

息絶えた宮部からは、白い床によって強調された赤がぬるぬると流れ出ていく。俺はスーツのポケットから攜帯と他にもなにかないか探ってみたところ、ポケットからメモ帳が見つかった。すでに端っこのあたりがに濡れているが、表の顔と裏の顔を使い分けているのは考えずともわかるが、何かヒントになるかもしれない。俺はそのメモ帳を、スラックスの後ろポケットにしまいこむ。

スナイパーからの第二は今のところないが、こちらを狙っていないともいないので俺はそのまま匍匐前進で、ドアのほうへと向かった。

「田神、田神っ」

イヤーモニターに手をあて田神の名を呼んでも、やつからの応答はない。それどころか、ジャミングが不愉快な音を立てて聞こえてくるだけだ。

舌打ちして部屋を出ると、壁に背をやりながら素早く二階へと下りる。俺に返り討ちにされたと思ったところを何者かによって狙撃された宮部は、直前にこの後に仕事があるといっていた。それがどんな容のものなのか今のところ知ることはできないが、そいつを調べる必要はある。

(そういえば……)

から出ようとしたとき、用心して分厚いドアを背にそっと開けたときのことだった。ふと、以前にも同じようなことがあったことを思い出した。確かあのときは、佐竹との一戦でヤクザどものビルにいったときだ。あのときも、壁の発によってできたから佐竹を狙撃したやつがいた。

そのときと今回、妙に似ている気がするのだ。俺にやられ、ダメージをおった相手が何者かによって突如として狙撃される……時と場所は違えど、同じような狀況がこうも起きるというのは、々考えものだ。前回は戦闘の混の中でのことであったというのと、こちらにも向かって撃たれたことが俺を混させたが、今回は明らかにはじめから宮部本人しか狙っていなかった。

そして宮部が死の直前に告げた、裏切りという言葉。これが何を意味するのか。もちろん答えはわかりきっている。ドッグという二人組の工作員の片割れが、宮部を裏切り狙撃したということに他ならない。

二人組であったというなら、それまでも二人で行していたと考えてもいいだろうが、どうして今回に限ってパートナーを撃ち殺したのか、この疑問だけが晴れない。あるいは、片割れにとって最初から宮部は単なる捨て駒でしかなかったのか……考えれば考えるほど、疑問は深まるばかりだ。

俺はかぶりをふった。わからないことを、今あれこれと考えても仕方ない。ともかく今は、田神と合流することが先決だ。田神もなにか目的があるようなので、そいつと照らし合わせなければならない。俺はあたりを見回し、影になるように建から飛び出した。

空は雲が低くなり暗かった。この様子では、雨が降り出すのも時間の問題だろう。おまけに、遠くでは雷の鳴り響いており、先ほどと比べ風も強く吹いている。先ほどチラリと見た天気予報では、夕方から明日にかけて雨が降り続くという予想がなされていたから、もしかすると今日はちょっとした嵐になるかもしれない。

トタン屋が風にさらされて、耳障りな音が室に響いている。つい昨日までの猛暑と比べれば天國と地獄ではあるけども、こうも急激な溫度変化には逆に寒いとじているらしい。それでも風雨をしのげるという點なら、これはこれで十分になんとかなるだろう。

俺は今N市の片田舎にある、六畳一間の廃屋にを潛り込ませていた。田神がここで活する際の、拠點の一つとして選んだアジトだ。なにかあったときは、お互いここにくるよう確認しあっていたので待っていれば、そのうちに向こうもここにやってくるはずだった。

向こうが車を所持しているので、ここまでくるのにさほど苦ではないだろう。なくとも、俺に比べればはるかに楽だ。時間的な問題と人目がつきにくいという條件のもと、ここしか見つからなかったということもあって、街中から々離れた場所にまでくるのは、しばかし時間を要するものだった。

しかし、いくら合流場所として使うにしても、水も食料もなしではいささか苦しい。考えてみればN市に到著してからというもの、まともにを口にしていないのだ。せめてこに來る途中で、適當なものを買い込んでおくべきだったと今さらながら後悔した。アジトにならば、缶詰かなにかあるだろうと、タカをくくっていたのが仇となった。

そうした點でここをアジトに選んだという田神に、そんなことにまで気を回す余裕がなかったほど、時間もなかったという証拠にもなるのだろうが。

今にも飛ばされそうなトタン屋の音が不意に途絶えたと思ったところ、りつけるような金屬音があがった直後、トタン屋が俺の見つめる景の中へ飛ばされ、ついには地面へと落ちていった。雨りがしないかと、しばかし心配になる。というのも、窓ガラスにだんだんと小粒の水滴がつきはじめていたためだ。時間的にはまだ夕方の五時にもなっていないはずだが、この空もようからはもう日沒直後といった雰囲気だ。

ついにはぽつぽつと雨音がトタン屋に落ちてきているのがわかると、遠くから車のヘッドライトがこちらに向かってやってくるのが見えた。自分の甘い期待と、周辺に人家らしいものがないこともあって、車の目的はここだろうと思ってしまう。しかし、その思はほぼ確実といってもいいだろう。だんだんと近づいてくる車に見覚えがあったのだ。必然的に運転者も田神だということで間違いない。

案の定、廃屋の前で止まるほどの速度で車は裏手のほうへと徐行していき、ほんのわずかな時間をおいて、ドアの閉まる音がしたあとに、田神が顔を覗かせた。

「どうやら無事だったようだな」

「あんたも無事で何よりさ。ところで早速で悪いんだが、まず腹を満たしたい。なにかないか」

「そういうと思って、適當に買い込んでおいた。好きに食べてくれ」

廃屋にあがりこんだ田神の腕の中には、どこかのスーパーから買ってきたらしい食料品のはいったビニール袋と、おなじみのノートパソコンのったサックが抱え込まれている。俺は袋をうけとると、中から缶詰や惣菜なんかを取り出して、それらをスピードを緩めることなく胃袋の中へとおさめていく。

田神も、その中から適當なものをいくつか選んで食べ始めると、お互い無言のまま、一五分と経たないうちに食事を終えた。なんとも味気ないいえば味気ないが、空腹を前に簡易食しかないというのだからそれも仕方ない。

「それで首尾はどうだった」

食べ終えた俺が早速そういうと、田神は軽く一度頷いたあとに口を開いた。

「ああ、やはり俺の睨んだ通りさ。こいつを見てほしい」

そういって田神はサックから、ノートパソコンと例の病院からくすねてきたらしい資料を取りだして、俺の前に広げて見せた。手前に広げられた紙を適當に一枚手にとって、そこに並んだ文字列を眺めてみる。丸きり意味不明の文字列で、數字やアルファベット、それに記號なんかが等間隔に並んだそれは、俺には一なんなのかわけがわからなかった。

「なんなんだ、こいつは」

怪訝に眉をひそめて、紙から眼をはなして田神のほうを向き直っていう。

「それは、ある一つのコードだ。だがし特殊なコードになっていて、解析に時間がかかりそうだ」

「コード?」

「原始プログラムと呼ばれる、元になる文字列のことだ。厳にはソースコードというんだが。

そいつは、そのコードを配列化しているものらしいんだ。しかしどうしたわけか、配列化されてはあるがどうも複雑に分解してあるという。そこで、その道のプロにこれの構築化を依頼しておいた。どんな結果になるかはわからないが、これまでの一連の繋がりがあるのは間違いないと思う」

田神は斷定的にいい、この配列の説明を付け加えた。以前、島津研究所に潛したときにも、同じようなものを見かけたことがあったという。そこでこいつを見た瞬間、これがなんらかの配列だと気づくのにわけはなかったらしい。格段に記憶力のいい田神のことだから、すぐになにかあると気付いたのも頷けるというものだ。

そしてもう一つは、あの病院が島津製薬のグループの下請けともいうべき施設であるということと、島津で作り産み出されたものを市販用に量産するための研究をしていたともいった。厳には、そのうちの一つだというのが本當らしいが、なぜその中の一つにすぎないあの病院が選ばれたのかは気になる。

「宮部は、あそこの人間が味方だといっていた。しかし、あんたの説明だと、わざわざあそこでなくても良かったはずだ。他にもなにか理由があったとしか思えないな」

「ああ、もちろんそれには理由がある。今日……とはいっても、もう過ぎてしまったことだがあの場所に、島津宗弘が現れる予定になっていたらしい」

「島津宗弘が」

そういうことか。俺は一人納得し、無言で頷いた。依頼人である島津があそこを訪れるというのであれば、雇った殺し屋が殺人現場にしたとしても、自分でいいようにみ消すことができる。だから宮部は、O市から遠く離れたあんな場所を選んだのだ。いくら殺し屋とはいえ、殺人が合法というわけでもないので、その後始末を請け負ってくれるというのならこれほど楽なことはない。

「そういえば宮部は俺を片づけたあと、まだ仕事があるといっていたな。いうわりに急いでいるようにも思えなくて、し不思議に思ったんだが島津の奴と會う予定だったというのなら、それも納得がいくな。あそこに島津が現れたとなると、そのまま會いに行くのが當然だろうからな」

しかし、俺にはどうもそれだけではないように思われた。會いにいくというのは間違いないにしても、ただそれだけでの理由というのは、かすかな違和を覚えるのだ。俺を片づけたのを報告するにしても、そんなのは電話一本ですむ話だし、わざわざ會いにいかなくてはならないほどのことではない。俺がそう告げると、田神もそれに深く同意した。

「同意見だな。島津との仕事に関しては、まだなにかあったに違いない。もしかすると島津だけに限らなかったかもしれないが」

「どういう意味だ」

「昨日君にいったろう、ロシアの國境付近であった原因不明の不審火の話だ。新たに判明した事実と照らし合わせると、あれが島津と宮部の繋がりを確かなものにし、なおかつ、次の仕事に繋がるものなのかもしれない」

島津宗弘と宮部の二人は時折、東歐やロシアに赴いていたという話もあるそうで、なんらかの工作活をしていたとみて間違いない。そして、宮部を裏切った”ドッグ”の片割れにしても然りだ。しかし、ここで俺は一つの疑問、というよりも可能に閃いた。

「今俺たちは、宮部がドッグの実働部隊ありきで考えているが、実際に海外での行では片割れという可能はないだろうか」

俺は宮部が片割れに裏切られ始末されたという事実と、不意に思い浮かんだ可能を投げかけると田神は押し黙り、あごに手をやっ考えを巡らせだすと、それも束の間、すぐに手を解いて頷いた。

「君のいうのもごもっともだ。宮部が現れたからてっきり先観を持ってしまったが、海外での工作活は片割れが行っていたという可能は十分に考えられる。それと宮部が裏切られたというのが、実際には片割れのほうがもっと重要な何かを摑んでいるとみていいだろう。仕事があるといっていたというなら、おそらくは、その概要程度しか知らされていなかったんだと思う」

「つまり、片割れがもっと別のそれ以上の任務を帯びて、それに合わせた実部隊となるのが宮部だったというわけだな。実際、単なる実部隊であれば、換えはいくらもきくからな」

大まかとしては俺の考えたことと一致して、心安堵する。結果としては、片割れにとっては宮部という男は単なる捨て駒だったということになり、俺の知りたい重要なことは知り得ていなかったということにもなる。宮部がこちらの質問になに一つ答えようとしなかったのには、教えるつもりがなかったのではなく、はじめっから何も知らされていなかったのだ。きっとそうに違いない。

しかし片割れが奴を始末したということは、もし俺に叩きのめされた後のことを考えてのことだろう。始末しなくてはならないよほどの理由……つまるところ、宮部は片割れのことを何らかの形で知っていたということではないだろうか。たとえ宮部には知らされていなくとも、奴の口から片割れにたどり著くような重要な何かを喋らせないために。

なくとも、奴は片割れの正くらいはしっていたに違いないはずだから、それだけでも何かしら手がかりになることもある。あるいは、片割れと落ち合う場所も決めていた可能もあるかもしれない。ともかく、片割れにとっては々とまずいことになりかねないからこそ、宮部の奴を撃ったと考えるのが妥當なのには変わりない。

「しかし、片割れを捕まえるとなると、これはまた骨が折れるな。どこに奴がいて、どこで奴と落ち合うつもりだったのか、手がかりが一切ないんだ」

「確かにそうだが、全くのゼロというわけでもない。今、この配列を依頼したといったろう。そこでし思い當たらないこともないことがあった」

今しがた見せた配列のコピーされた髪を手でぴらぴらと揺らして見せながら、田神は気になることを告げた。話によると、依頼をけた人がこうらしたという。し前にも、田神の持ってきた配列を見て似たようなものの依頼をけたというのだ。これと相俟って、分析、構築化するのは比較的たやすいとともらしたらしい。

「つまり、前々から今回俺たちが侵したあの病院は、狙われてたってことか」

なからず、そうみていいだろう。だが、以前持ち込まれたものに関してはわからないな。島津の他の研究施設にも同様のものが流されていないとも限らない。

依頼してきたという人にしてもドッグの片割れだったのか、あるいは全く違う誰かだったのかもわからない。今回、宮部を狙撃した人と同一人である可能もないわけではないが、これも別人同士だったということも十二分に考えられることだろう」

俺は田神の言葉に重々しく頷きながらも、その依頼してきたという人と宮部を片づけた人が同一人ではないかと、なんとなく確信をもっていた。もちろんこれは、俺と対峙した人が二度も何者かによって狙撃されたという経験とも、重なっているからといったほうがいい。

「あんたが依頼したところに現れたらしい人間と會う方法はないかな」

「君ならそういうと思って、すでにそれらしいことを聞いておいた」

ニヤリとする田神に俺も、思わず苦笑しながら肩をすくめた。依頼されたのはすでに一〇日も前ということなので、そろそろ結果が出る頃らしいのだ。となると俺のとるべき行は決まってくる。

「だったら話は早い。あんたが依頼したという人に會ってみるとしよう」

俺の言葉に頷きあいながら窓の外へと視線を移すと、強くなってきていた雨足はいつのまにか叩きつけるような、どしゃぶりの大雨になっていた。

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