《いつか見た夢》第89章

に小さく流れるロシア語のBGMが、二人のあいだに訪れた沈黙を埋めていた。三月の終わり頃を最後に別った二人が、こんな形で再會するとは互いに夢にも思わなかったろう。

驚愕の表を見せていた目の前のは、落ち著きを取り戻したのか、その驚きの表から普段の冷靜なものへと変える。

「そっか……まさか、自分が尾行されてるなんて思わなかったわ」

「だろうさ」

落ち著きを見せるから諦めの言葉がれ、それに相槌をうつ。実際にこちらが尾行していたのは、研究所からここまでのあいだ、時間にして二〇分と経っていない。しかし松下のこの態度からはもしかすると、隨分と前から尾行されていたとでも思っているのかもしれない。

「私を尾行してきたってことは、何か聞きたいことがあるということ? それとも人質かしら」

「あるいはその両方」

こう返すと、それもあるかと笑い、松下が眼前に置かれてあるメニューに手をやり、おもむろにそれを開いた。

「せっかく來たんだから、食事くらい一緒にしましょう。多分、待ち人はもうこないのでしょう?」

松下のいうところの待ち人とは、宮部のことを指しているのだろう。それに頷いて、こちらも同様にメニューを開いて適當に注文をとることにした。食事もすれば、向こうも々と有益な報を話すようになるはずだ。

「それにしても、あなたっていつも突然よね。初めて會ったときも、いきなりホテルに押しってきたわよね、聡一郎さんの死を伝えにきたときよ」

「いわれてみれば、そんなこともあったな」

俺は相槌をうって肩をすくめた。松下にいわれて記憶を辿っていくと、伊達の死を盾に報を吐かせようと予約されていたホテルに、伊達の名前でりすまして押しったのが隨分昔のような気になる。

遅いランチというより、どちらかといえば早めのディナーといったほうが良い時間帯であるせいか、吹き抜けの階段からは一階よりざわめきが聞こえてきて、談するには都合の良いノイズとなっている。

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「さて、単刀直にいうぜ。あんたの待ち人ってのは、宮部という男だろう。違うか?」

「ええ、そうよ」

淀みなく答える松下に、首を縦にする。

「だが、わからないな。あんたは、難病をかかえた母親のために島津で働いていたんだろう。そのために仕方なくな。それが嫌でとんずらできる下地を整えてやったっていうのに、なんだってあんな男と関わりをもったんだ。それとも、この自が創作だったのか」

「いいえ、その話は本當。あなたのいう通り、あのあと私は母を連れて新天地としてN市の外れに逃げてきたんだけど、三ヶ月ほど前だったかしらね、宮部と名乗る男から新しい攜帯に電話がきたのよ。前の攜帯は、島津と関わりを持った他のものと一緒に捨ててきたっていうのにね」

的にいう松下に俺は、どこまでが本當なのか疑わしいと訝しんでいたのか、が、いっても信じてもらえないかと諦めるようにいった。人間、手を引いたはずの人間がそれに関わってきたとなると、何かしら意図があったと考えるのが普通だ。ましてや、こんな業界となるとなおさらだ。

松下がいうには、N市に移り住んだ三月の終わりからの二ヶ月ほどのあいだは、至って穏やかなものだったという。島津の汚い仕事から解放されたという清々しさからだったのは考えるまでもないのだろう。だが、その安息の日々に翳りを落したのが六月にってすぐのことだったという。突然、宮部を名乗る男が現れ島津での一件を餌に、ある人からの依頼をけるよう強要されたというのだ。

「ある人ってのは」

「私もよくは知らない。だけど、だということは間違いないと思うんだけど」

宮部に連れられてやってきたのは、廃棄されたような工場か倉庫かといった合の場所で、その間目隠しされていたそうなので詳細は不明だ。周辺から漂ってくる寒々しい空気と、金屬の錆くさい臭いにそう思ったらしい。そこで松下は、例の研究所に解析を依頼したデータをのったディスクを渡されたのである。

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この際に松下は目隠しされている自分の前に、一切喋ることなく一人の人がいることがわかったそうで、し甘いものの香水の匂いがしたことからも、であることは間違いないといったわけだ。

香水は同じ香りのものでも、人それぞれの臭に合わせてつけたあとは、多変化していくものだ。事実、最近は男でも香水をつけるやつがいるけれども、そんな中にはやはり自分に合うからと、ものの香水をつけているやつもいると聞く。よって、これがものの香水を好んでつける男だったという可能もないわけじゃない。それを指摘するとは、苦笑いを浮かべながらいった。

「確かにそうかもしれないけど……でも、あれはだと思うわ。こんなこといって信じないかもしれないけど、の勘ってやつ」

の勘ね」

こういわれては、こちらも苦笑するしかない。しかし俺は、このの勘というのを侮るつもりはなかった。これまでの経験上、こういうときに発揮されるの勘というものは、どういうわけか非常に鋭く、當たっている場合が多いのだ。本能的に見分けることができるという説や、原始の時代から家事などの事細かなことをしていたことで、取分け、脳のそうした部分を司る箇所が刺激され続けた結果だとか、まぁ、々と説はあるが。

なんにしても、同同士となると良くも悪くもそれらを発揮しやすくなるの勘とやらを、ここは信じておいたほうがいい。なにより、宮部の相棒がだという田神の報とも合致する。このことからも宮部の會わせた人が、相棒であるだったとしてもなんら不思議ではない。

同時に、宮部がの手足であり、こそドッグのブレインであったとする説も濃厚になるというものだ。やはり、俺はどのみちこのと會う必要がある。

「母親は」

「母は今のところ問題ないわ。その辺りはあなたたちのおかげね」

し申し訳なさそうな笑みを浮かべながらいう松下に肩をすくめて見せ、次の質問に移る。

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「それであんたは、宮部から渡されたディスクのデータを研究所に解析するよういわれた。そしてその中は」

「言わなくても、あなたならもうわかってるんじゃない?」

ごまかすためにはにかんで笑う俺に、松下は呆れ半分仕方なさ半分に語った。もちろん、中は予想通り、例のプログラムのコードに変換された伝コードだった。それの説明にしても奧田が話した容と同じで、収められているデータの出所は、元々同じものであると考えるのが自然だろう。いくら汎用の高いものであるにしても、そんなものがいくらも出回っているはずがない。

「そういえば宮部は、それをある人のところから奪ってきたものであるといっていたわ」

「ある人……。それはいつ頃の話かわかるかな」

「ええ。いつ頃なのかは知らないけれど、依頼主がそれを渡してきて、わざわざ私にこれを託したというわけね」

そういうと松下は、ハンドバッグから宮部から渡されたというディスクを取り出して、俺に見せた。

「これは、元々別の研究機関で保管されていたデータを、コピーしたものらしいわ。それ以上は教えてくれなかったけれど、なにか他の名前で呼んでいたのが印象的だった」

「なんて名前だ」

「変な名前よ。マウスって宮部は呼んでたわ」

それを聞いて俺は思わず驚愕に眉をひそめ、聞き返してしまっていた。マウス……忘れもしない。N市のTビルにて俺、田神、真紀の三人で手にれた代だ。初めてエリナと出會った場所でもあり、政界の大議員であった真田の権力の象徴ともいっていい場所でもある、あのTビルでだ。あのとき真紀のやつがこのデータのことを、確かにマウスと呼んでいた。そんなが、一どうして宮部が持っていたのか。そして、これを宮部が奪ってきた人というのはまさか……。

俺の脳裏に一人のの姿が思い浮かんだ。今までどうせいつものことだと見逃していたが、真紀があのあとマウスをどうしたのか、それを知ろうなどとは思っていなかった。まさか、N市のホテルで別れた直後に宮部に奪われたとでもいうのか。さすがに考え過ぎだろう。さすがの真紀もそこまで間抜けではあるまい。

そもそも真紀のことだから、ミスター・ベーアとの繋がりから、あの男から命令されたことだと考えるのが當然であり、マウスがミスター・ベーアのしいものであったことは考えるまでもない。つまり、ミスター・ベーアの手に渡ってからその後、どこかの時點で宮部に奪われたと見るのが妥當だ。仮にもしミスター・ベーアの手に渡る前に奪われていたとしたら、とっくの昔に、なんらかの形できがあったに違いないはずだからだ。

ならば、どこで紛失することになったのか。疑い深い自格からか、真紀のやつがミスター・ベーアに渡しひとまず満足させたあとに盜んで、宮部に売ったという仮説はどうだろう。あの狐なら、そんな可能も決してなくはない。信頼している部下が実はスパイだった、こんな話は現実にあるものなのだ。

けれども、真紀のやつがずっとミスター・ベーアを騙し続けていれるほどの、淺い付き合いかどうかは甚だ疑問ではある。真紀のかつて語ったプロフィールによれば、の頃から組織よりその筋の訓練をけ続けていたとのことで、思想すら覆すほどの人格形もなされていない時期から育った環境を、簡単に卻できるものかというものが心理的に作用していないとはいい切れない。ましてや、その中で組織の中樞にまで出世したようなやつなのだ。

だとすると、真紀がマウスを奪われたり、あるいは橫流ししたという可能はかなり低い。やはり誰か別の人間が、どうにかしてマウスを盜み出したと考えるべきのようだ。そして、それを行ったのが宮部だという可能も、おそらくないといっていい。もし宮部が盜み出した張本人なら、わざわざ松下を目隠しして連れ出し、解析の依頼などしようはずがない。

裏を返せば、ドッグの片割れであるらしいは自分が直接きながらも、あまり目立って行のできない人間、ということになる。そうでもなければ、いちいち面倒な宮部や松下といった人間を介するはずがない。

組織の人間をどんな手か欺いてマウスを奪ったらしい事実から、この人が確かな技をもったプロであることは間違いない。しかし全てを行うには、自分では目立ち過ぎてしまい、くのになんらかの制限がかけられているのだ。これなら、それなりに辻褄も合う。問題はその制限がなんなのか、この一點だ。

「そういえば……」

「なんだ」

松下が唐突に何か思い出したらしく、瞳を泳がせながら口元に手をやった。そのしぐさがどうしようもなくらしさをじ、いやに魅力的だ。

「宮部がいってたのよ。本當なら一昨日會うことになっていたのだけど、もし連絡がなければ明後日の今日、研究所にいってこれを取りにいけって。そのときに、他の人間がけ取りにくるって」

「どういうことだ」

「わからないわ。ただ、まるで自分が昨日現れないことを、あらかじめ告げていたみたいにも思える。それで、あなたがそんな日に限って現れるでしょう? だから、宮部のいっていたのってあなたのことかと思ったのよ」

そう告げた松下に、俺は怪訝にうわずり気味の聲を出していた。一どういうことだ。その言い方ではまるで、俺が俺が宮部の使いでもあるかのようではないか。しかし、松下がなぜ尾行されていたという事実を知っても落ち著きを取り戻すのが早かったのか、その理由も解けた。今日、取人と會うことになっていたためだったのだ。

これ以上に幸運なことはない。松下にはそいつと會ってもらい、俺はその取人をとっ捕まえればいいのだ。辛気臭いボロアパートに二日ものあいだ張り詰めていただけの甲斐はあったわけだ。

「いつその人と會うんだ」

「わからないの。向こうからけ取りにくるといっていただけで、それ以上はなにも。普通に過ごしていればいい、でかけたいのならでかけてもいいっていっていたけれど……」

松下がいい終えるが早いか、俺は舌打ちした。それはつまるところ、松下をマークしているという事実に他ならないではないか。今こうしている瞬間にも、その取人が松下を監視していると考えた方がいい。そうとはつゆとも知らず、松下のあとをつける俺に取人が気付かなかったはずがない。向こうとて、プロであることは間違いないのだ。

そんなこちらの態度に、松下はしばかし申し訳なさげにしている。そして俺は、彼の様子に小さくため息をついて、眉をかしつつ肩をすくめた。いまさら尾行されたされないなど、後の祭りなのだ。いっそのこと、向こうがどう出るか高みの見といこうではないか。焦っても仕方ないのだから、ここはひとつ、松下と行をともにするのも手だ。

俺はそれをやや抑えた聲でいうと、松下もやはり思うところがあるのか即座に頷いた。となると、いくらか気を抜いて楽にするに限る。いつまでも気を抜かずにいるほうが、かえって挙不審に陥ってしまうことがないともいえない。

ようやく雨もあがってきた午後八時。ロシア料理店を出た俺と松下薫は、街の中を二人ぶらりと、あてもなく気のおもむくままに歩いて回った。數日に渡って降り続いた雨に嫌気がさしていた人が多かったのか、ここぞとばかりに出回っている人の數は週半ばにしては多く、夜の街はいくらか活気づいている。

歓楽街へとっていったところで、俺は不意に足をとめた。一緒にいる松下もつられて足を止め、見上げる看板に視線をやった。

「ここ、どうだ」

「そうね、構わないわ。こういうところ、久しぶり」

目がとまったのは出り口がおおっぴろけになっている外國人向けのバーで、いわゆる安酒場というにふさわしい店であった。日本人向けの小奇麗かつ灑落た外観をしているわけでなく、黒塗りの丸太と木板で作られたオープンスペースはどことなく無骨で、やや小汚いのする店だ。それでも俺からすれば十二分に満足のいく作りになっているのだが、はといえば、必ずしもこういった空間が好きではないので、しばかし松下に気を利かせたのだ。

の了承を得て、俺たちはテーブルや椅子が置かれたオープンスペースを、を橫にしながら進んで店へとる。威勢の良い店員の出迎えの聲は、周りのざわつきを通り過ぎた怒聲ではないのかと思ってしまうほどの音量にかき消されてしまい、俺たちにいったのかそうでないのか、それすらも判別がつかないほどの喧騒に包まれていた。

カウンターでメニューを見てドリンクを頼むと、適當に空いていたやや奧まったところにある席を、松下を出り口側の椅子に座らせると、俺は反対側に椅子に座った。

松下は他もない話を含め、ここにくるまでの間にこれまでの経緯なんかも語っており、いい加減話題も盡きてきているところだった。もっとも、必要な時にのみ相槌と質問を投げかけるだけで、元々口下手なうえに大した話題を取り上げることもない俺は、もっぱら話を聞くだけにとどまっている。

一方の松下はといえば、仕事を辭めあまり喋る機會を得られていないということもあるのか、やけに饒舌だった。は喋ることも一つのストレス解消法だということを聞いた覚えがあるが、松下の様子を察するに、それも確かなのかもしれないなどと考えていた。まぁ、の他もない世間話に付き合うこと自は決して嫌いなわけでもないので、これはこれで悪い気はしない。

しかし俺は、ただの気まぐれでこの店を選んだわけではなかった。二、三時間ほど前から、尾行されていることに気付いたのだ。それも一人ではなく、複數の人間によるものだということも、すぐにわかった。あるときは無難に背後から、あるときは通りを挾んで反対側の歩道から、またあるときは大膽にも俺たちのすぐそばにまで近寄ってきたこともある。

歩幅もそれぞれゆったりしていたり、やや早歩きであったりなどといった緩急をつけることで不自然さをなくしてはいたが、こちらも同じプロとしてそれがわざとであり、全を通して俺たちの歩くペースに合わせていたことを見逃しはしなかった。前後の都合から、例の取人とみていいだろう。いや、この場合は取人の集団というほうが正確か。

「そのままかないで聞くんだ。今、俺たちに監視がついてる。なにもない風を気取っちゃぁいるが、すでに、さりげなく店の中にってきている」

それだけ口にすると、松下は口を真一文時につぐんで首を縦にした。それに返すように笑顔を作って頷く。真表の顔を作ったままでは、連中に怪しまれてしまうための対策だ。

ししたら席をはずすつもりだ。多分、それを合図に向こうもくに違いないだろうから、うまくやってくれ。あとはこっちでなんとかするから、うまくやり過ごしてくれ」

「わかった」

再度頷いた松下に頷き返すと、頼んでおいたドリンクが屆けられる。頼んだのは俺にしては珍しく、ウィスキー・ベースのカクテルを注文し、松下はパッション系のカラフルな合いをしたものが運ばれた。それらを、しばらくのあいだ今後のことを談笑をえて話し合いながら飲み、一段落したところで席を立った。

「ちょいとばかし席をはずすぜ」

「わかったわ。後はまかせてちょうだい」

わかったと目で告げた俺は、すぐに席を離れトイレのほうへと向かった。俺の予想では、間をおかずに行するに違いないはずで、こちらも急ぐ必要がある。俺がこの店を選んだ理由の一つに、ここがビルの一階テナントになっているということが挙げられる。この手の構造を持つビルは大抵裏口があり、この店は直接そこに繋がっているはずだと、そこを使って店を出て連中を出し抜こうというのが魂膽だった。

裏口は、スタッフのみ立ちれるドアの向こうにあることは一目瞭然で、俺は驚いて怪訝な表になった店員に肩をすくめて見せながら、悠々と外へと出た。すれ違った店員はあまりに自然なきであった俺に、どう対応していいのかわからなかったに違いない。

店の裏側は店で出たゴミなどの廃棄や空調のファンが所狹しと置かれていて、フェンスの端にはスタッフの出退勤するための出り口があった。そこを強引に押しのけて開け、その勢いのまま駆けだすと、すぐにビルとビルの間の路地にり込ませて店の表側へと躍り出る。

歓楽街の中を走る通りはお世辭に大きい通りとはいえず、幅の狹い、片道一車線の道路と両側面に赤のアスファルトレンガが敷き詰められた歩道、といった合だ。歩道の至るところにある店の前には、邪魔な自転車が何十臺といわずに放置されてある。

そんな反対側の歩道にやはり、俺たちを尾行していたメンバーの一人が待つのに疲れたといった様子で、壁を背に店のほうを眺めている。店ってきたのは二人だったので、俺の計算ではこいつ以外に尾行者の存在はいないはずで、事実それらしい他の人間も確認できない。

間抜け面を曬しながら店のオープンテラスを眺めているそいつは、都合のよいことに路地にを潛ませている。おまけにそこはここら一帯では近代的なビル二つの間ということもあって、し路地の奧へいけば、それこそ袋の鼠にするのには最適な空間があったりする。あまりに持ってこいといった狀態に、一瞬罠ではないのかと勘繰ってしまったほどだ。

そいつに見つからぬよう、俺はあえて大外回りで道路を迂回する形で近づいた。野郎はまだ気づいていない。そしてあとしというところで、一気に詰め寄り、すかさず男の鳩尾に拳を突いた。聲にもならない低いうめき聲をもらす男の口を手で押さえ、そのまま路地へと引きずりこむ。

「いよう、さっきから蠅みたいにしつこいから、挨拶だぜ」

「お、おまえは……」

「おっと。勘違いするなよ、質問していいのは俺だ。あんたじゃぁない」

鳩尾に突きをれられたというのに、男は案外元気そうで、不規則な呼吸を繰り返しながらも憎まれ口を叩いている。のろのろと手を地に伏せているところを、足で踏みつける。再び男の口からうめき聲がれ出した。思い切り踏みつけられた挙句、今度は踏み続けられることによる持続しっぱなしの痛苦に悲鳴をあげたのだ。

「さて、あんたらが俺たちを尾行していたのはもうわかってる。いや、もっといえば松下薫に用があるってところかな」

いい當てられても男がとぼけたり、あるいは口を閉ざすことは予想できることなので、俺は返事の有無にかかわらず、踏みつけている足に重をかけて男の右手を踏みにじる。雨模様の今日は、靴の底に付著した砂が水分を吸収し泥になっている。そんな靴の底に踏みにじられたら、相手もたまったものではないだろう。男の手の甲から、かすかながらが滲みだしていた。

「喋るつもりがないというならそれはそれで構わないけどな、いっておくが俺は容赦しないぜ。その分、痛みを味わう時間が増えるだけなんだからな」

淡々と眉ひとつかさずに見下ろして告げる俺に、男は本気であることを悟ったらしい。すぐに口を割った。なんともけない野郎だが、なるほど、合理的な判斷でもある。結果は同じであるなら、しでもそれらを軽減し、次につなげるべく可能を模索しようというわけだ。一瞬の考えに目をそらした男は、すぐにそう判斷したのだろう。なかなかのプロだ。

「わかった、いうよ。だから足をどけてくれ。骨が折れちまう」

「駄目だね。萬一あんたに反撃のチャンスを與えようものなら、こちらのほうが不利になる。足はこのままだ。さぁ、さっさと話しな。このままだと將來、腕が不自由になっちまうぜ」

「くっ……おまえのいう通り、確かに俺たちは松下を尾行していた。そいつは間違いない」

「松下の持ってる、解析したデータをけ取るためだろう。違うか」

「ああ、そうだ……」

やはり、連中が例の取人であったのだ。俺のいなくなったあとをすぐにでも接できるよう、連中のうちの二人が中にっていったわけだ。もっとも、松下から聞いた容の要所はきっちりと頭の中に叩き込んであるので、問題はない。仮に駄目でも、それを解析した研究所のほうを田神が押さえておくという保険もある。小さく頷いた俺は、目で続きを促す。

「あの二人はそうだが……俺は違うんだ」

「なにが」

突然違うといいだした男に、初めてらしいを見せていた。男は苦悶にうったえながら、どういうわけか俺のほうを見上げてきたのだ。

「おれのターゲットはじゃない。おまえのほうだ」

俺がターゲットとはどういうことなのか。そういいかけて口にすることはできなかった。男がいい終えるかどうかという瞬間に、突然背後から風を切った音がして俺の後頭部に衝撃が走る。

「うっ」

そんなき聲がれて、今度はこちらが地べたにのめり込む。だが、そのせいで手にさらなる加重がかかったためか、男のけない悲鳴もあがる。

「全く、何があるかわからんという彼の言葉が、本當になるとはな」

地べたに跪くように伏せた俺は後頭部を抑えながら、背後からしたどこかで聞き覚えのある聲に、ほとんど無意識で踏みつけていた足を後ろにせり出し蹴りをはなっていた。しかし蹴りは當たらない。背後の野郎との距離は考える以上にあったらしい。

「おっと。そんな蹴り、當たらないぜ」

「お前は……」

それでも蹴りが放たれた瞬間に、し距離をおいた野郎のほうへ、地べたに転げて回りながら顔を向けた。すると、そこには聲と同様に、確かに見覚えのある顔をした男が下碑た笑みを浮かべていた。

「久しぶりだなぁ、九鬼」

野太い低音の聲でそういった男を、見據える。そこにいたのは、何カ月も前に出會った、あのデブの髑髏野郎だったのだ。初めて出會ったのは確かN市の古びた住宅街で、を追っていたときのことではなかったか。

その時はとても同業者とは思えない、ダサいヒップホップ系のファッションで現れるという、ある意味衝撃的な出で立ちだったが今回も前回と同様、全く似合っていないぶかぶかの黒い服を著ていた。

「……いきなりご挨拶だな。まさか、おまえと會うことになるなんて思わなかったぜ。それと、タコ踴りの練習はちゃんとしてきたか」

後頭部からはまだズキズキと痛みを訴えてくるが、俺は構わずタコ野郎を挑発する。野郎の橫には仲間であるらしい尾行していた男が、形逆転だとけない薄ら笑いを浮かべている。

「本當ならここでいけ好かないてめえのその面、無茶苦茶にしてやりたいところだが今日は仕事だ。そんな安い挑発になんか乗らねえよ、九鬼」

どうやらタコ助も、しは人間に近づいてきているのか知能を持ちはじめているらしい。だが所詮はタコ助だ。自分から仕事だといった時點で、追跡を命令したのが武田であるというのがすぐに俺にばれてしまったのだ。

松下とのやり取りで、それらしい存在が脳裏にちらついていたが、やはり、というのが本音であった。武田の奴は、それこそ三月にあったTビル襲撃の際、見事にマウスを俺に掠め取られていったのだ。

そこからどういうルートでかマウスの中が出回ったことで、奴はそれをどんな理由からなのか松下に目をつけて解析の依頼をした。ここまではいい。俺がわからないのは、武田がわざわざ人目を避けて、わざわざ他人に機事項といってもいいものを解析させるかどうかという點だ。

俺ならまずそんなことはしない。自分のことは自分で、というのがモットーである自格上の問題かもしれないが、第三者にそんな重要なものを託すはずがない。やらせるにしても、自分にとってよほど信頼を置けるような者でない限り、そのような真似はしない。

まだある。武田にとってマウスを手にれたいという思があるのはわかるとしても、なんだって俺を尾行しなければならないのか。それも今、このタイミングでだ。タコ野郎が殺す気でいるのは知っているはずなのに、殺さないことを厳命している様子であることから、何か急を要する事態が起こっていると考えるべきなのかもしれない。

「だけどなあ、九鬼。本當は、おまえが俺に逆らって襲ってきてくれることを願ってるんだぜ? もし俺を襲おうというのなら、今すぐにでも殺してやるからよ」

タコ野郎は、特になにかしたわけでもないのに、よほど俺のことが気にらないらしい。業界人としては、どちらかといえばお人よしな俺とはいえ、ここまでくるとに波が立つというものだ。もちろん、おちょくってやりたいも。

なんだって俺を目の敵にするのか、理由などわからない。あるとすれば、生理的にけ付けない、なんとなく……せいぜいこんなところなんではないのか。なくとも俺の知るところでは、ここまでいわれるようなことなど何も覚えがないのだ。

俺は毆られた後頭部を軽くさすると、ゆっくりと立ち上がって相手に迎え撃つかのように、足を肩幅に素立ちした。向こうがその気なら、こちらも手を抜く必要はない。いつかの落し前もつけなくてはならないので、こちらとしても好都合だ。奴に業界の一先輩として、そいつを判らせる必要がある。

前に會ったときよりも短く刈った髪は、丸い頭の形をより強調していて、ますますタコっぽく見えるようになった。このデブを俺は、哀れみと軽蔑の混ざった目で見據える。

「なんだ、その目は。ぶちのめすぞ」

全く、やれやれだ……しは人間に近くなったのかと認めてやったのに、そうでもなかったらしい。プロがそんなけない臺詞を吐くものではない。プロなら言葉ではなく、態度や行、それに視線だけで表すべきだ。そんな素人じみた臺詞を吐くなんて、このデブにはプロとしての自意識が全くなっていない。

「なぁに。お前の願いとやらを葉えさせてやろうと思ってね」

片眉を吊り上げながらニヤリとする俺に、タコ野郎は頬の筋をぴくぴくと震わせる。しかしおかしなもので、ぷくぷくと膨れたりするように見えるのがなんとも稽だ。

「どうした、おちょぼ口がさらに小さくなってるぜ」

思い切り見下していった俺の言葉に、デブは頭にが昇り、我慢の限界が近付いているようだった。あと一息だ。自制心のきかない相手など簡単過ぎて、逆に面倒なくらいだが、こいつは別だ。おちょくるだけおちょくって逆上させ、そこを俺が足腰が立たなくなるまでぶちのめしてやる。そうすることで、心理的に俺にはかなわないという恐怖心を植え付けさせるのだ。この手のタイプの人間は、そうでもしないと埒が明かないタイプだというのは、今までの経験からもよくわかっている。

「そこまでだ」

あともうしというところで、デブの背後から制止する聲が響く。はっと我に返ったデブと傍によった尾行者の男が、同時に後ろを振り返る。この場で戦闘態勢にったままの俺は、この隙を見逃さず、一気にデブまで跳躍し距離をつめると顔面目がけて拳を突き出した。

一瞬の判斷でデブはそれを察知し避けようとしたがもう遅い。俺の拳がデブの鼻っ面に叩き込まれる。鈍く、こりこりという音が耳りだ。

デブはき聲すら発することなく後方へと投げだされるように倒れ込み、すかさず隣の男の腹に渾の蹴りをくれてやる。その衝撃で、間違いなく男の肋骨がぶち折れたはずだ。

突破口を開いた俺は、勢いそのままに唯一の逃げ口となる場所に突っ立つ男へと駆けだすが、駆けだすために前にした足の著地へとずらし、橫へと転げこんだ。二人の背後から現れた男は、仲間が二人も一瞬のうちにやられる事態になったにも関わらず、冷靜にその手に銃口を向けていたのだ。

「なかなかの手際だな。私が現れたと同時に、二人のプロをなぎ倒すとはな」

「プロ? この二人がか。冗談はよせよ。素人がプロ気取ってるだけの間違いだろう」

「違いない」

仲間への侮辱をこめていった皮に、男は考えるまでもなく即答した。銃口と同様、冷たい瞳は仲間であるはずのデブと尾行者に向けられることはなく、こちらを一點に見つめている。銃の腕も確実に一級品であることが窺える男は日本人のわりに、小灑落た薄い沢の放つライトグレーのスーツにを包んでいる。雰囲気からも明らかにぶち倒した男二人とは別格で、本の殺人機械であることは明白だ。

「……あんたら、一俺になんの用なんだ」

「なんの用、か。知らんね」

肩をすくめていう男は銃口こそ向けているが、本気で俺を殺そうとはおもってないのかもしれない。だが、場合によっては死なない程度の重傷を負わせる気ではいるのだ。

「知らないのに俺を尾行してたってのか」

「それが仕事なのだから仕方ない。私にとってはどうでもいいが、上はそうとは思ってないらしい」

「上……待ちな。あんたのいう上ってのは、武田のことだろう」

「そうだ」

短く答える男は、俺の質問に隠すこともなく答えた。武田の奴が俺に用がある。そのためにわざわざ尾行者をつける……これは矛盾している行ではないのか。

「用っていうのは」

「詳しくは聞かされていない。私は、おまえを殺さずに連れてこいといわれただけさ」

どういうことなのだ。デブが現れたことで尾行したのが武田の勢力であることはわかっていたが、だとしても、わざわざ俺を尾行しなくてはならない理由というのがわからない。もちろん、俺を殺そうというのなら十二分に理解できる。それだけのことをやったし、ホテルでの暗殺の依頼を蹴ろうとしたことが読まれ、別隊がいたことからも武田は俺が裏切ることを始めからわかっていたに違いない。それもヘリを使うというおまけ付きでだ。

どうも武田のとる行には矛盾をじる。悪い意味で特別待遇であるらしい俺を、だんだんと追いつめ死に至らしめようとしているのは、まぁわからなくもない。どうも俺と関わり合いをもっている人を消していっているという話だから、それは理解できる。だというなら、なんだって俺を尾行するのか。それだけがいかんせん理解できない。襲ってくるわけでもなく、ただ監視するという行に、俺はなんとも不気味さを覚えてならない。

「まぁ、いい。さっさとついてきてもらおう」

「嫌だといったら」

「おまえに危害を加えないよういわれているから、こういうことになるな」

男は橫にをやると、その後ろからはさらに男が二人、を後ろ手にその元にナイフを突き付けて現れた。男の言い回しから嫌な予がしたが、予は的中しナイフを突き付けられているは松下薫であった。

を盾にするなんて、見下げたもんだ」

「どうとでもいうがいい。私とて、できることならやりたくない。だがおまえが我々の意に反する行をとったら、それは彼に返ることになるのだから、おまえの責任、ということになる」

俺はこの狀況に舌打ちし、男を思いきり睨みつける。しかし、こんなことでじるような奴ではないだろう。男のいうことはもっともで、俺に危害を加えるつもりはないというのがまず前提にあるのなら、なるべくそうならないよう選択肢を増やしておくのが常套だ。だとすれば、を盾にすればしは俺に危害を加える可能は低くなるというものだ。

「やれやれ。こんな展開になるなんて思いもしなかったぜ。俺があんたらについていけば、は解放しろ。いいな」

「殘念だがそれは無理な相談だ」

「なんだと」

「これだけのことになったのに、だけみすみす解放するわけにはいかない。それにおまえが従順になったつもりで、いつ反撃する機會を窺っているのか知れたものではない。今しがた見せた、その二人を一瞬で倒した強さと機転は、我々として手に余るかもしれないからな。だが、我々に従っているあいだは、に指一本れないことを約束しよう」

今回の作戦のチーフは、間違いなくこの男だろう。男は確かに暴力のプロだが、そこに倒れているデブや尾行者の男に比べると、まだ話が通りそうではある。だが、チームを任されるという立場の奴だけに、どんな腹積もりをしているのかは計り知れない。言葉の通り、俺がこいつらのアジトに著くまでのあいだ、松下に危害を加えはしないだろう。だが、それもその時までだ。俺を連れていこうとしているということは、なにか俺に用があってのことだというのは間違いないだろう。男の言い分では、それから先は松下の命がない、とも暗に示唆している。

ナイフを突き付けられた松下は恐怖に脅え、表をこわばらせている。よく見ると、そのし震わせているのもわかった。まさか、こんなことに巻き込まれることになるなんて、さすがに考え付かなかったろう。あくまで取人に解析したデータを渡すまでが、彼に與えられた仕事だったはずのだ。

「さぁ、どうする。できればこちらとしても、これ以上事を大きくはしたくない」

「……」

仕方ない。俺としてもまさかこうなるとは思わなかったので、松下にとっては不運としかいいようがない。巻き込まれたのを見捨てて、一人逃げ出すというのもなんとなく気が引ける。それに武田ので、蛇みたいな冷たさを持ち合わせた野郎が相手とわかった以上、今後松下に危険が迫らないという保証もない。俺は臨戦態勢になっていたを解いて、肩をすくませる。

「わかった。ついていってやる。その代わり、松下には絶対に指一本れるんじゃない。いいな」

「安心しろ。約束は守る」

そんな保障のない約束など、信じられるわけがない。男はニヤリと口を歪め、俺についてくるよう命じつつ銃をさっと巻いて隠すが、その銃口は相変わらずこちらを向けている。どこまでも隙のない野郎だ。

男たちに連れられて黒いバンに乗せられた俺と松下は、互いに言葉をわすことはなく、じっと沈黙を保ったままだった。不安そうに時折こちらを見つめてくる松下に、俺は目で大丈夫だと合図しては、窓から流れていく夜の街並みへ視線を移す行為を繰り返していた。すると松下も顔を伏せ、ぎゅっと手をく握りこむ。隣同士に座らされたことがせめてもの救いかもしれない。

南北にびる國道を速度指定に合わせて走ること、すでに二〇分ほどが過ぎている。俺はいい加減沈黙にも飽きて、どこに向かっているんだと前に助手席に座る男にまくし立てたが、この手の人間がとる行はいつも同じで、そのうちだと告げるだけですぐに沈黙するのだ。

できることなら後部座席に座っていることを利用し、運転手なんかを背後から襲撃してやりたいところだが、それも葉わない。バンは大きな俺たちの後ろにも席があり、そこから俺を用心深く銃を突きつけているのだ。さすがにこんな狹い空間では、いくら一流といわれる殺人機械の俺でも運転手にれることなく撃ち抜かれてしまうだろう。もしかしたら、助手席の男も早抜きができないともいえない。

しかし、それももう終わりのようだった。國道を走っていたバンは左へ折れ、し古びたのする街並みが哀愁を漂わせる一畫にる。けれども、奧に見えた商店街などから、晝間時はそれなりに活気だっているかもしれない。

そんな錆つきはじめている街に降ろされるのかと思いきや、そうではなかったらしい。バンは素通りし、またしスピードを上げて直進していく。フロントガラスから映るのは、前方に見えるちょっとした大きさのあるビル群で、どうやら古びた街も例にもれず、都市再開発に力をれているらしい。

どことなく見覚えのある錆つきだしている街並みを抜け一本大きな通りを橫切ると、一気に都會の街並みらしい近代的なビルや舗裝のされた路地なんかが目立つ一畫にったのも束の間、バンはすぐにこの地區でも目立つ、大きなビルの中へと乗り込んだのだ。地下駐車場へ下りたところで、ようやくバンが止まる。

「降りるんだ」

まず最後部座席の男たちが降りた。そこで助手席の男が威圧的に告げる。

「しかしいいのか。目隠しもせずに」

「かまわんさ。ここは仮のアジトにすぎん」

そう、こういう場合は目隠しをするものだというのが定石のはずだが、男たちは目隠しなどする気もないようだったのが、引っかかっていた。なるほど、O市にはあくまで作戦上滯在しているにすぎないというわけか。あるいは、もっと別の場所にちゃんとしたアジトがあるのかもしれない。

「さぁ、歩くんだ」

いわれなくともそうする。毒つきながら男たちに前後を挾まれてビルへと進む。薄暗いビルの地下駐車場には、不気味なことにこの黒のバン以外は同様の黒いバンが一臺あるだけで、他に一切の車が止まっていなかった。そのことが妙な焦慮を生み、なにか悪い予がしてならない。もちろん、隣の松下に至っては俺以上だろう。

地下駐車場に設置されているエレベーターに乗り込む。リーダーの男が一五階のボタンを押すと、すぐに上昇し始める。き出したエレベーターの中で、一分の隙もない男たちに四隅を囲まれエレベーター中央部に立たされるという気分は、どうにも嫌な気分しかしない。

建てられてまだ數年といった目新しいビルだけあって、エレベーターの上昇するスピードは速く、あっという間に一五階へとついた。背中を後ろの男に銃で小突かれ促されるままにエレベーターを降りるとそこは、一企業がテナントとしてはいったフロアで、簡易の仕切りがデスクごとに仕切られたオフィス、それに役員たちの個別室や會議室といった部屋がある。今は日本の數ない大型連休の真っ最中ということもあって、當然誰ひとりとして働いているものはおらず、非常燈の明かりだけが薄気味悪くともっているだけだ。

「ここで待て」

男にいわれた瞬間、背中を思いきり押され転がるようにオフィスの一室に閉じ込められた。

「待て。松下はどうするつもりだ」

「安心しろ。おまえがいう通りにするなら殺しはしない」

「待て、待つんだ」

一室に閉じ込められたのはどうやら俺だけで、松下はまた別に閉じ込めておくつもりらしい。くそ、こんなことになるのであれば、やはり大暴れしておくべきだったかと後悔した。どうにも俺は後手に回ってしまうことが多い。これでよくもまぁ今まで生き殘ってこれたものだと自分でも心するが、今は相手がどういうつもりでこんな場所に連れてきたのか、考えなくてはならない。

仮にしろなんにしろ、こんなまだ使われているのが一目瞭然のオフィスに連れてくる必要がわからないのだ。アジトにするにしても、もっと相応しい場所があったのではないか。なくとも、俺だったらこんな目立ち過ぎる場所にアジトなど設置はしない。となると、ここは連中にとってなにか都合がいい場所なのか、もしくは元々アジトとして使えるだけの理由があったかのどちらかだ。

それに、連中が尾行していたことからも、どこからか俺の存在がバレていたことになる。もちろん、武田の野郎のことだから、実は四六時中、俺を監視していたなんてこともあるかもしれない。だが、これは々考えにくい。俺を監視するにしろ、ホテルの事件前後から慌ただしく移し続けている俺に、連中が尾行できたのかというのは、々考えものだ。なにより、もしそれだけの日數を監視し尾行していたのなら、この俺がとうの昔に気付いていないはずがない。俺がO市にってから、というのが妥當な線だろう。

ならばどこでからなのか。つい何時間か前から妙な視線があったのには気付いたので、ここからなのは確実だ。しかし、これでは々説明がつかない。仮に突発的に俺を発見し尾行することになったとして、こんなチームを組んでまで員するというのは明らかにおかしい。チームを組んでいるということは、あらかじめそれ相応の作戦として立案されていたはずだ。あのデブが現れたのもそれを語っているし、なによりデブ自がそういっていた。

こちらが尾行者に気付いたのは、尾行し始めたのが作戦を発させたということでしかない。O市にったところからであるというのはほぼ間違いないだろう。追跡を逃れるために、田神が別ルートで開拓しておいた車の解業者から違法車両を買ったので、そのルートからというのも考えられなくもないが、違法業者が車から簡単に足がつくようなヘマをするとも思えない。なくとも拝借してきたミスター・ベーアの一味からの尾行とういうのならともかくだ。

では、O市っていつ頃からなのか。一番考え得る可能は、松下に尾行をついたときに、というのが最もあり得ることだろう。なくとも數時間はあったので、チームを編できなくもない時間だ。けれども、そのためにこんなおおっぴろけな場所にアジトを構えるというのは、いささかおかしな話だ。どうしても、ここで壁にぶつかってしまう。

最大の焦點は、なぜ俺をつけたのかという點だ。つけるだけなら、松下への尾行を始めた時點で同時に俺も捕まえるなりすればいいわけだから、問題はない。松下の尾行とは別に、明らかに別隊がいたのが問題なのだ。俺にデータの中を渡されたかもしれないからか、あるいはし締めあげてやろうとしたからなのか……これらも、やはり個別に俺をつける理由にはならないだろう。俺と松下がわかれたところで、二手に分ければいいのだ。

そして、冷靜になって考えてみると今回の拉致は、ドッグによる事件からが引き金となっているのだ。片割れだというスパイと、武田の勢力との関係はなんなのか。これも気になるところで、武田の勢力にミスター・ベーア、それとは別に新たな勢力が現れたとでもいうのか……。

ここらの事実関係と背後の繋がりを調べる必要があると頷いた俺は、早速出のためのルートはないかと部屋の中を見回した。俺を放り込んだ連中は、三人分の足音とともに部屋の前から移していったのはわかっている。そのうちの一人は松下と考えていいから、今部屋の前に間抜け面で出張っているのは、二人だろう。さすがに二人のプロ相手に正面突破は容易くない。

他にあるのは、人の頭の高さよりもさらに高い場所に備え付けてある天窓だ。しかし、なんのための天窓なのか隣はビルになっていて、日を差し込ませるための機能はまるで意味をなしていない。だが、今の俺にはここが出ルートになる可能もなくはない。一八〇をし超える長と広めの肩幅の俺でも充分にすり抜けられそうな天窓で、ものは試しと、部屋の中の折りたたみ式になったテーブルを音を立てぬようゆっくりと持ち上げる。筋が必要以上に怒張するのがわかる。

天窓のある壁際にそっとテーブルを置き、上に昇って天窓を外側に押してみる。すると考えている以上にあっさりと窓が開いた。窓はテーブルにのった俺の顔の位置にあるため、外を眺めるくらいは充分で、本當にを外にやれるのか試しに上を窓枠にやる。ぎりぎりだが、外に出られなくもなさそうだ。

しかし大変殘念なことに、ビルの外壁には窓から抜け出したあとに降り立てることができそうな足場が、全くない。エレベーターのボタンからここが地上一五階であることはわかっていたが、一五階ともなると、高さはざっと考えても八〇メートルかそこらはある。足場もない外壁に抜け出そうものなら、すり抜けたと同時に地面に真っ逆さまだ。

小さく舌打ちする俺に、先ほどの男の嘲笑が聞こえてきそうだった。連中も馬鹿ではない。閉じ込めておける場所をしっかりと把握しているのだ。やはりアジトにしているこのオフィスは、あらかじめ、きちんとした下調べがされていることがこのことからも窺える。

仕方ない。ここは斷念し、別の出ルートを考える必要がある。とはいっても、後考えられるのは正面突破しかないわけで、拳銃一丁でもあればまだなんとかできたかもしれないが、丸腰ではどうすることもできない。なんとかだまくらかして、間抜けな連中を一人ずつ始末していくしかない。では、どうやってそんな狀態へもっていくか……。

そう考えたとき、ドアの向こうから足音がして話し聲が聞こえた。もちろん、例の男ともう一人の配下の二人だろう。しかし、奇妙だったのは足音が同じく三人だったことだった。俺がそのことに訝しみながら眉をよせてテーブルから降りたところで、ドアが開かれる。

「ふふふ、予想通り、出するための算段をつけようとしていたところだったらしい」

窓際にかしたテーブルを見て、リーダーの男がニヤリとをゆがめた。ドアの前にいたらしい二人の男が、きちんと部屋のドアを開けながら銃口を向けてきていたのが流石にプロといったところか。こちらにしも隙を與えさせない徹底した、いいチームのようだ。

「ああ。こんなところに押し込まれておくのは趣味じゃぁないんでね」

「まぁいい。君に客人だ」

「客人?」

いうが早いか、男たちの後ろから、一人の小柄なやつが音もなく現れ、俺の前に姿を見せた。こんな作一つから見てもこいつがプロであることは考えるまでもなく、それ以上に気になったことがあった。プロであることは間違いないが、どことなく華奢で、線の細い印象を與える目の前の人には、見覚えがあったのだ。

「あんたは……」

そうだ。廃工場でナイフ一本でやり合い、その後、島津の研究所で出會った、あのだ。こんな薄暗いオフィスの中だというのに、相変わらず顔が見えないように黒いフードとマスクをつけている。らしい人は、顔を橫に背後の男たちに頷くと、男たちがやけに機敏な作で頷き返し、部屋の外へ出ていった。それも、全員が部屋の前から遠ざかっていく。

「もしかして、あんたが俺を尾行するよういったのか」

「……」

「あんたの目的は」

なにも答えようとしないに、怪訝さと苛立ちさを覚えながらさらにまくし立てるように問いかける。やはり反応は同じで、俺としてもこれ以上は何かいうつもりもなかった。

こちらの質問には何一つ答えずじまいのがようやくきを見せ、につけているフードとマスクに手をやったのだ。それらが順番に取り払われていったあとに現れた顔は、逆になっていてよく見えない。

「……沙彌佳」

それでも俺は、そうつぶやかずにはいられなかった。長いストレートの髪がはらりと顔のあたりに落ち、それを頭を振って背中のほうへと流す。ふわりと甘い香りが漂ってきて、俺の鼻腔をくすぐった。

「久しぶりね」

ややかすれ気味になっているけれども、はっきりとした口調。そして、聞き間違えることなどない、その聲。

を窺えなくとも、たったこれだけでも十分理解させられるものだった。そこに俺の求めてやまない妹の姿があるということを。今こうして、妹が確かに俺の前に現れたのだということを……。

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