《いつか見た夢》第91章

砂埃にまみれた道が照り付ける太の熱をじりじりと照り返し、往來をいく人々の足取りを重くさせている。いくら慣れているとはいえ、淺黒いをした現地の人々にとってもこの暑さが平気というわけではないのだろう。

しかし、こちらからしてみれば、うだるような暑さもいいところで、まるで灼熱地獄の中に放りこまれた気になるほどの暑さだった。いや、この表現は適切とはいえない。灼熱地獄ならば、こんなにまで気をじることなど有り得ない。

いい加減、大して面白みもない周辺の景に飽きてきた俺は、顔をあげて店の様子を眺めた。特別なにかあるというわけでもないが、先進國家にはない、これでも十分綺麗にしてるんだと暗に自己主張している雰囲気をじられる薄汚い店は、いくらか珍しさを覚えるのだ。

は、日本の都市部なんかでは今どき見ることができないほどの古さを誇っていて、剝き出しのコンクリートの壁と床になんとなく無造作っぽくもあるが等間隔に置かれたテーブルと椅子。當然それらも年代で、あちこちにガタがきているものばかりだ。

今座るこの椅子にしても例外ではなく、上かすだけでギシギシと今にも壊れそうな錆び付いた音を響かせて、座る人間を落ち著かせることはない。

もしかしたらこれらの椅子やテーブルも、何十年前にはそれこそ日本の大衆食堂なんかで活躍していたのかもしれない。この國には、先進國家、地域的にとりわけ日本から送られてきた、お古の輸品なんかが當たり前として庶民の間では流用されているためだ。

俺は目の前に出されているウイスキーコークを取り、けだるげにそいつを口にした。普段ならストレートで飲むところをカクテルで飲まなければ、どうかなってしまうほどに暑苦しい。

「それにしても暑いな」

向かって右斜め前のカウンターに居座った男が、誰にでもなくそう口にした。

「全くだ。だが、これがこの國の普通らしい」

相槌を打って俺がいうと、男は顔をしかめて見せながら肩をすくめる。このうだるような暑さが普通であれ異常であれどうにもできないのだから、そんなリアクションをとる以外にない。

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けれども男のいう通り、頭がどうにかなってしまうほどクソ暑いこの國の夏をしてみると、そんなぼやきの一つや二つ出るのも當然というものだ。男の前では口にしてはいないが、俺も何度といわずつぶやいている。それほどまでに、ここは暑かった。この暑さは日本の暑さと同質のタイプだが、度は日本のそれとは比べにならない。

そろそろ時間的にスコールがきてもおかしくないが、開放されたテラスから空を様子を見る限りではそれらしい雰囲気はしない。スコールがきたときは涼しいけれども、終わると強い気が殘るせいで、べたつく強烈な暑さがあとを引くので一概に嬉しいものともいえないが。もっとも、旅行者である俺の意識と地元民の意識との差はある。彼らにとってはやはり、この暑さは普通なのだろう。

「以前、日本に住んでいたことがあったからあの國の暑さも知っているが、ここらの暑さはそれ以上だな。アメリカが戦爭に負けたのも頷ける」

くつくつと、額にじんわりと汗をにじませ皮気に笑う青年に、かもな、との端を吊り上げながら肩をすくめ返した。青年のいう戦爭とは、ベトナム戦爭のことだろう。あの戦爭に勝ち負けもあったものではないのだろうが、勝ちにこどわるアメリカが勝てなかったという歴史的事実は間違いなく、撤退せざるをえなくなったことは向こうの歴史書にすら敗北という二文字が記されているのだ。

同じ國と戦爭をしたにも関わらず、本土決戦をびながら、いざ上陸されるや、たった一発の銃弾だって浴びせることなく敗北した日本と、國際世論の批難という追い風があったこともあるが、撤退を余儀なくさせるだけでなく民間人も総出となって戦い、事実上の勝利を得たベトナム。

しかし戦後、大きな経済発展で世界の経済大國にまでのし上がった日本と、アメリカを退けたけれども、いまだ発展途上國であるベトナム。俺は青年と會話をしながら、そんな國の人々を尊敬と畏敬の念を抱きつつ、どこか複雑な気持ちで眺めていた。

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「ところで、君はいつもここでだらだらと過ごしているけど、仕事はいいのかい?」

「ああ、別に構わないんだ。仕事とはいったが、別になにかするわけでもない……のいい左遷みたいなものかな」

自嘲気味に笑う俺に、再び青年が肩をすくめた。當然だろう。どこの國でも、左遷されるなどよほどのことに違いなく、彼も心中で察したのだ。もっとも、左遷など噓っぱちもいいところで、実際には違う。仕事をしようにも下地がそろわない中では、きたいにもけないというのが本當のところだった。けれども、いい加減なんらかのアクションがあってもいいはずなのだが……。

「しかし考えようによっては、このベトナムという國は多くの可能めている。もしかすると、なにかビジネスチャンスがあるかもしれない」

青年の言葉をけ流すように頷く。確かに発展途上國というのは先進國にはないものをもっているので、そいつをうまく見極めることができれば大きなビジネスに繋がらないともいえない。だが殘念なことに、俺にはどうしても一生かけても使い切れないほどの金になど、これっぽっちも興味が持てない。金なんてものは必要な分だけ稼ぎ、必要な分を使う……これで十分なのだ。

ましてや、自分の職業がどうしようもない糞みたいなものであれば、なおのことだ。なにより、たかだか紙でできた印刷なんかのためだけに生きるなんて、どうにも我慢ならなかった。それだけが人生の取柄になるだなんて、人間としての価値がないように思えて仕方ない。俺には名聲や名譽、富だとかといった類のものには、なんら価値を見いだせない。

まぁ、これは俺の持論なんであって、金を稼ぎまくりたいという奴は好きにすればいい。どう理屈をこねようが今現在、この世界で金というものは生きていく上で必需品であることは疑いえないものなのだから、ビジネスをものにするという奴は、今の世の法則的には正しいこととも言い換えることができる。

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「そういう君こそ仕事はいいのか」

「うーん、そうしたいのは山々なんだが渉の余地がなくてね、なかなか渉がうまくいかない。なにかうまい渉の手段はないかと探してはいるんだが……」

俺に反問され、目の前のカナダ人青年は言葉を濁した。言う通り、昨日も俺がこのカフェでだらだらと過ごしているときも、街の中をさ迷っていたのを見かけた。このジョージ・ルイスと名乗ったカナダ人青年は、フリーのカメラマンを生業としていて取材のため、カナダからわざわざこんな糞暑い時期に東南アジアはベトナムまでやってきたという。

それだけならまだしも、このジョージは飛び級で院にまでいき、おまけに博士號まで取得しておきながらフリーのカメラマンなどという、決してりの良くない職業を選んだ変わり種だった。暇つぶしに取材というのがどんなものなのか好奇心からそれとなく訊ねてはみたものの、適當にはぐらかされてしまった。まぁ、こちらとしてもそれらしい噓を並べ立てているのでお互い様であるが、いまひとつ釈然としない。

あるいは、フリーのカメラマンということでつい騙されやすいが、中にはそれを適當な理由に、実際には冒険することを生きがいにするようなタイプがいると聞いたことがあるので、ジョージはもしかするとこういったタイプのカメラマンなのかもしれない。人にいってしまうと、頭のおかしいやつだと思われることもあるようなことを追っている連中だったりもして、あまり口外にはしたくないという可能もある。

まだ三〇にもなっていないジョージとは、ほんの二日前に知り合ったばかりだがどこかウマが合うのか、お互い程良い距離を保てるのも好がもてる。けれども、この街……村といったほうが正確な表現であろうここに、なんの目的があって訪れているのか気にならないわけでもなかった。

特に目を引くような建造などないし、都市部には必ずといっていいほどにある繁華街や歓楽街があるわけでもない。先進國の人間のを満たしてくれそうな娯楽など、この村には存在していないのだ。

まず遊ぶための店を開設するための資金、なんていう考えがまずなく、電気自がまだ高級な”商品”なのだ。近年になってようやく電気を村中に通すことができたらしいが、それもあくまで生活のためといったじで、テレビなんて高価なはここらにはほとんど流通していない。日本ではボロもいいところのテレビも、ここでは何百萬もする高級車と同等の価値がするほどで、住民のほとんどが一日一ドル未満の生活を強いられているのでは、それも致し方ない。

住民の収も海に面しているというだけあって、家族を支える父親の職業は漁師らしい。漁師ともなると當然朝は早く、夜遅くまでテレビなど見ることの必要はもちろん、遊ぶという通念がないのは當たり前ということになっても驚くことはないだろう。なんせ、遊ぶことを斷ち切って働いているにも関わらず、家族みんなが一日一ドル未満の生活をしているというのだから。

こんな古めかしく、寂れたのする南ベトナムの田舎町にやってきたのは、一〇日ほど前のことだった。はじめは南シナ海に面したベトナムの田舎町ということで、しは何か気を紛らわすことができそうなものもあるかと思ったのに、期待は見事に裏切られた。それどころか夜も九時を過ぎる頃には人通りがほとんどなくなってしまうのだ。當然街燈なんてものはほとんど未整備で、集落があつまっている場所に電球の街燈が數本備え付けられている程度だ。

俺は小さなため息をついて、手にしたグラスにったウィスキーコークを一気にの奧に流し込む。暑さに氷は溶けてしまい、味は薄っぺらくなっている。そのせいか、後味も中途半端に味気なくなっていた。

グラスをカウンターテーブルに置き、考える。いい加減、こんな片田舎にこもるのも飽きている。今晩まで待ってなんのアクションもないようであれば、さすがに自分からくつもりだった。いくら仕事で相手の反応を待つといえど、限度があるというものだ。こうしている間にも、事態は刻一刻と変化しているかもしれない。

二週間ほど前のことだ。ドッグと名づけられた二人組のスパイの片割れと出會いから、自を取り巻く狀況が急激に変化した。もっといえば、武田を追うべく行していたところ、結果としてそうなったにすぎないが。

中でも一番の変化は俺を驚愕させるにふさわしいもので、スパイのというのがあろうことか、俺が捜し続けていた妹である沙彌佳だったのだ。それも、とても俺の知る沙彌佳とは同一人と思えないほどの変化をしていたという、おまけつきでだ。

俺は話すことがなくなり黙り込んだ青年を目に、この二週間ばかしのことを苦々しく思い出していた。

「まぁいい。それであんたが俺を、わざわざこんなところに連れてきた理由ってのをいい加減教えてもらいたいね。あんたのことだ、単にそれだけの理由でこんなところに連れてきたわけじゃぁないだろう」

俺はぶっきらぼうに言いそうになるのを抑え、なるべく冷靜にそういった。武田は俺にとって敵といって間違いないが、だからといって、ここで敵意丸出しで噛み付くわけにもいかない。こいつの目的がなんなのか、それくらいは知っておくべきだ。

「本來なら君に任せるべきではない仕事だ。この點では不本意だが……君の今の立場は、ミスター・ベーアとその組織の一員であると同時に、私が雇った殺し屋でもある。そんな君だからこそ、今回は話をするつもりはなかったんだがね」

託はいいから、さっさといいな」

俺に話はあるがしたくはない。そんな心を強調する武田の言葉を、これ以上聞きたくはないと制しつつ先を促した。俺の態度にため息をつきながら、武田は仕方なくといった合に語りだした。

「ここのところ、ミスター・ベーアの尖兵が東南アジアに出沒しているという報をキャッチした」

「東南アジア?」

「そうだ。東南アジアといったのは、國家も関係なしに活しているらしいという意味合いだ。どこが拠點なのか、私には今のところ見當はついていない。

しかしだ。これに伴って、すでに現地の報員にそれとなく探らせてある。そこでわかったのは、今現在その尖兵はシンガポールと南ベトナムを中心に活しているということだった。この報員は部下の一人が現地での活のために雇った人員であるため、さほどの実戦訓練をけていない。本格的な諜報活を行うためには、その筋の人間でなくては駄目なのだ。

それで今回白羽の矢が立ったのが、再び君だったというわけだな」

「なるほどな。だが、諜報活のプロがしいんであれば、わざわざ俺をこんなところにまで連れてくる必要はないはずだぜ。あんたのところには、そんな連中がごろごろいるだろう。なんだって俺なんだ」

「もちろん、君がミスター・ベーアの組織の一員であるというのが理由だよ。そして、組織というものにあまり捉われることなく、き続けているような君がね」

含みのある口調で、ニヤリと気にらない笑みを浮かべる武田。つまり俺に、雇われの殺し屋ではなく本格的なスパイになれということらしい。

全く、本當に気に食わない野郎だ。筋書きから、まずミスター・ベーアの報員にうまく接し、そいつから活の理由をを聞き出せということなのだ。もしこれがミスター・ベーアの耳にろうものなら、やっこさんは目のを変えて俺に殺し屋を差し向けるに違いない。武田はどうしたって、俺を窮地に追い込もうとしていることが見え見えではないか。

俺は遠慮することなくそういうと、そんなことはお見通しだといわんばかりに続ける。

「ふふ、君ならそういうと思ったよ。ところで、君は渡邉綾子というを知っているね」

武田の口から、予想だにしない人の名が飛び出した。もちろん知っている。むしろ知り過ぎているともいっていい。俺の周りの人間をどういう理由か始末をつけていった武田のことだから、最悪、彼のことを知らないとはいえないにしても、どうして今ここで彼の名前が出るのか……。とんでもなく嫌な予がする。

「彼の父、渡邉政志という人も知っているはずだ。この渡邉政志が現在、シンガポールにいる」

武田の説明によれば、相も変わらず仕事で世界中を駆け巡っているようだが今回の仕事は、しばかし特別な事があるという。

渡辺産業株式會社の社長で綾子ちゃんの父親でもある渡邉政志は、昔綾子ちゃんがいっていたように渡邉の家に婿という形で、綾子ちゃんの母親にあたる麻里子と結婚、自の興した渡辺産業を麻里子の父を大株主として迎えれた。麻里子の父は當時、すでに財界では黒幕の一人といっていいほどの人で、まだ若く野心をもった政志に対して優秀なビジネスパートナーとして見ており、政志もまた、義父のことを同じように見ていたという。

もともとは工作機やその部品を作る一メーカーにすぎなかった渡辺産業は、二人の結婚の前からかなりの長を示していたがこの頃から急激な長を遂げ、ついには海外進出を果たせるほどの企業となった。當然バックには、義父の存在があったことは確実で、この頃から新しい事業としてエネルギー産業界への參も果たし、今となっては主な取引先は世界に名だたる企業や機関もあるというのだから、政志の手腕は確かなものといっていいだろう。

エネルギー産業界は石油に代わる次世代のエネルギーの開発と供給を主な事業として行っているわけで、赴くということは、その土地に何かしらのエネルギー資源があるのは疑いない。問題はそれがなんなのかだ。武田が続ける。

「シンガポールという國にとって一番の死活問題は、常に水だ。これはシンガポールに限ったことではないが、高低差のない地域ではよほど大きな河川でもない限り、水の確保は難しい。生活用であればまだなんとかできるにしても、飲用水ともなると、時にそれをめぐって小競り合いが起きることすらあるほどだ。

マレーシアとの國境にあるジョホール海峽には、マレーシアから原水を引くことのできる超大型のパイプを建設し、國の水を確保している。もちろん、これだけでは足りないから他國からも水を輸しているわけだな。あの國が世界でも有數の港街であることが、それを可能にしてるのだ」

「……つまりあんたは、渡邉政志がシンガポールでは枯渇問題である、水という必要不可欠の資源をどうやって獨占しようとしているのかを探らせようってわけか。そして、なぜそこにミスター・ベーアの組織が絡んでくるのか……あんたはそいつを探らせたいんだ。そうだろう」

「話が早くて助かるよ。ただ、しばかり違う。彼がやろうとしていることはわかっているのだ。君にはそれを阻止してもらいたいんだ」

「阻止だって」

「そうだ。そのためにまず、桜井義人さくらい よしとという人に會え。今回の任務の是非に関わってくる人だ。詳しくは現地の報員から聞いた方がいいだろう」

どうやらこの桜井義人は仕事で世界中を飛び回っている人だということと、その中でなにか重要なものを摑んでいるらしいことしか今のところはわかっていない。

重々しく頷いた武田はさらなる説明を続けた。どうもミスター・ベーアはシンガポールを経由して、ある実験の下準備をしているという。実験というのは考えるまでもなく、例のタイムワープの実験だ。

真田によって行われていたTビルでの実験を引き継ぎ、さらなる飛躍をさせつつあるミスター・ベーアは実験場として、どういうわけかシンガポールに定めたらしい。つまり今回俺が選ばれた理由は、Tビルでの実験を阻止したことのある俺の仕事を評価しつの抜擢といったところか。たとえそいつが、意図したものであったわけではなくとも。

だが俺は、ただそんな理由だけで武田の作戦に手を貸したわけではない。というのも今回の作戦に參加するのが、なんの因果か、マリア……妹である沙彌佳だというのだ。俺としては、これだけで今回の作戦に手を貸すには十分な理由だ。つい何時間か前に顔を合わせて以來あっていないし、おまけにまともな會話すらしていない。自分の中に、どうしようもないわだかまりがあって仕方なかったのだ。

もう一度、きちんとあいつと會って話をしたい。ただ一つ、こんな理由だけが俺をつきかした。漠然としているけども、この機を逃してしまえば、もう二度とあいつとは會えなくなるような、そんな予もあった。昔から変に予が當たってきたように思う俺にとって、そうじたのであればそれに従わざるを得ない。そんな理由だけで俺はこのベトナムにまでやってきたのである。

作戦には、現地にいる報員からの指示でけという武田の言葉を鵜呑みにしてからというもの、早二週間日ほどが過ぎていた。日本から香港、香港からハノイを経由する形でベトナムに潛した。そこからは若いビジネスマンを裝い、この南ベトナムの田舎町まで陸路で三日かけてここまでたどり著いたのである。それから一週間以上も無駄に滯在している計算になる。

「そういえば、今日は村の漁業祭らしい」

なんとなく重い空気になったのを察してか、ジョージがそう切り出した。よほど暇を持て余しているのかもしれない。

「漁業祭」

「ああ。大漁を願って、海の神に祈りを捧げる土著の信仰みたいなものだろう。君の國は當然、僕の國やヨーロッパにも、そうした儀式はどこにでもある」

いわれてみれば、住民たちの活も夏祭りかなにかを前にした、なんともいいえぬワクワクさせる躍に似たものをじなくもない。こんな娯楽もない寂れた漁村であれば、なおさらだろう。

「あんたにはうってつけのお祭りじゃぁないのか」

「それはそうなんだが……」

再び言葉を濁した青年から視線を外すと、遠く海のかなたに太が沈もうとしているところだった。今日も夕立のくる気配がないことを悟ると、ジョージはおもむろに椅子から立ち上がり、軽く背びし語りかける。

「ここにこうして蹲っているのにももう飽きたから、なんだったらどうだい。しいってみないか」

そう促された俺はし考えたあとに頷き、立ち上がる。現地の報員とやらも日本人の工作員が訪れるということは知らされているはずだ。こんな小さな田舎街にある宿はここ一軒しかないうえ、日本人も俺一人だけとあれば見間違うこともあるまい。もし何かあったとしても、すぐに見つけることが可能だろう。俺はこう考えて、青年の提案にのることにした。

「いいぜ。確かにこんなとこに何日もいたら気が狂っちまいそうだ」

「決まりだな」

ジョージの提案で街に繰り出した俺は、大して何かあるというわけでもない小さな村の目抜き通りを案されるままに移していった。

「なにかあるわけでもないが、この手の雰囲気は悪くないだろ」

「ああ。祭りなんていつ以來かな」

ジョージの説明では、祭りは前夜祭となる今日から明日、明後日の真夜中まで行われ、日の出をもって終了ということになるらしい。お世辭に洗練されているとは言い難い文化圏では、祭りとは一日もしくは長くて二日といったところが普通だというが、その點では丸二日、足掛け三日になる祭というのはやや特異な例だという。

いわれてみれば、日本の祭りも大半が一日か二日で終わることを考えれば、なるほど、確かに長丁場といってもおかしくはない。特にヨーロッパでは、キリスト教という宗教に合わせていることから、日本ほど盛んに祭りは行われないため、そうした観點からも、ジョージにとってはこういった祭りは興味の対象なのかもしれない。

「見ろよ、櫓やぐらが建ってる。昨日まではなかったんだが」

村の中央にあたる広場には、日本の祭りでもよく見る櫓とおぼしきものが建てられていた。高さは一○メートル近くになるだろう櫓は、四方四隅から太い丸太が組まれ、その上には音頭をとるためのものなのか、民族楽が置かれてある。もしあの民族楽が太鼓であれば、まさしく日本の祭りそのものといってもいいほどだ。

しかし日本における祭りの文化は遡れば、中國は當然、古代インドから古代東南アジアのそれから影響けているといわれているらしいので、似ているのも當たり前といえば當たり前だ。日本が奈良や京都に都だなんだとやっていた頃、この東南アジアにはすでにきちんとした王権制による國家が存在しており、國力という點においても當時の日本、大和の國よりも強大だった。

むしろ、そういった文化が中國を経由して日本列島にもってきたといったほうが正確だろう。當然、こうした祭りの文化が似通っていたとしても、なんら不自然なことはない。

するとはいいながらジョージは、早速、自國では拝めることのできない櫓を寫真に収め始め、だんだんと熱がってきたのか俺のことはお構いなしに人込みの中へ、シャッターを切りながら紛れ込んでいった。

俺も特に気にすることなく、祭り特有の雰囲気にあてられて集まってくる住民たちと雑踏の中を適當に進んだ。地元の小売店の店主なんかが店から引っ張りだしてきたテントを雑に張り、臨時の天幕を作って商売にをだしている。なるほど。ますます祭りという雰囲気が強いというものだ。

あまり広いとはいえない広場は、一○分とかからずに一巡りすることができた。ジョージはそんな広場の中でも見つけることはできなかったが、代わりにおかしな屋臺を見つけた。

「これ、日本製か」

「そうだよ」

発展途上國の田舎や裏通りなんかでも見られる、どこから集めてきたのか定かでない中古の輸雑貨屋といってもいい趣のある屋臺で、日本製らしい壊れかけのオーディオ機や攜帯、誰が買うのか、まともに電気すら通ってない村には似つかわしくないノートパソコンすら陳列されてある。

「これ安いよ」

そういって店主が差し出してきたのは、ボロボロの攜帯電話だった。いらないという俺の意思など知ったことではないといわんばかりの勢いで、店主が攜帯の電池は最新だというニュアンスのジェスチャーで早口にまくし立てる。

それでも買わない俺に業を煮やしたのか、ついにはタダでもいいといっておんぼろの攜帯を押し付けてきた。そこまでされては仕方なく攜帯をけ取る。

見るものもなくなったところで、俺は一人、宿に戻って部屋の木編み椅子に腰かける。勢い良く腰かけたため、先ほどもらってズボンに押し込めていたおんぼろ攜帯が、床に落ちて乾いた音を立てた。

落ちたことで電池を保護するカバーが外れ、同時に電池も外れて落ちていた。全く、どこから拾ってきたのか知らないが、よくこんなものを商品として売る気になったものだと、つくづく心してしまう。

どうせ使わないのだから、そのままにしておいても良かったのだけども、なんとなく手持ち無沙汰になっていたこともあり、攜帯と電池をけだるげに取り上げたときだった。

「……気づかなかったぜ」

電池の裏側には、小さく折り畳まれた白い紙切れが挾まっていたのだ。先ほど店主がわざわざ電池を見せてくれた際にはこんな紙はなかったことから、はめ直すときに紙を仕込んだということだろう。つまり、あの店主こそが武田のいっていた現地の報員ということになる。

俺は紙を広げ、中に書かれてある文章を読んだ。それは、間違いなく武田の野郎が紛れ込ませた報員からの指令書だった。

『午前零時、漁港外れの廃屋にて』

紙には短く、そう書かれていた。どうにも武田の野郎は、俺にたいして警戒心を抱いており、詳しくはその場になるまで知らせたくないような、そんな気がしてならない。それほどにこの文面からは簡潔にしか書かれておらず、これではまるで學生同士の集合をかけるメールのそれと同じではないか。

それはともかく、漁港の廃屋といえば村の西はずれにあたる場所に、朽ちかけた船著き小屋があったのを確認している。初見で、なんとなくの隠れ家にはもってこいといったじの建屋だったので覚えがあった。

俺は、部屋に置かれたいてはいるが正確に時を刻んでいるのかわからない時計に目をやり、時刻を確認する。午後の八時になろうという頃で、指定された時刻まで、あと四時間といったところだ。

そうなると話は早い。時間までのあいだ、しばし睡眠をとることにする。それと食事もとっておいたほうがいいだろう。大味で雑味な料理は、お世辭にうまいとは言い難く、普段なら無理に食べる気にもならないが今後きちんと食事をできるとはいえない。力の溫存は絶対に必要だ。

俺は頷くとすぐに椅子を立ち、むっすり顔をしたバーテン兼シェフの待つカウンターへ下りていった。

遠くで悲鳴のような聲があがった気がして目が覚める。寢起きにぼんやりと古ぼけた時計に目をやると時刻は二三時半、指定された時刻まで殘り三○分だ。なんとなく外から気ぜわしい気配をじて窓のほうへ顔を向けた俺は、怪訝に眉をひそめた。

(なにかおかしい)

した俺は寢そべるベッドから跳ね起き、窓を押し開ける。

「なんだ、あれは」

東の村はずれの辺りが濛々と煙をあげ、赤く不気味に森の木々が燃え盛っているのだ。困気味に下の土と砂だらけの目抜き通りを向くと、何人もの村人たちが恐怖に満ちた顔でび聲をあげながら、村の西のほうへと逃げるように走り去っていく。表や悲鳴のあがる聲、それに指差す方向から、恐慌の原因が森の火災であることは明白だ。

しかし、それだけなら俺もさほど気にはしなかった。妙だと思ったのは、彼らが舞い上がる炎を放って反対方向へ逃げているということだ。普通、自分の村で火災が起きたならば、自分たちでなんとかしようとするものではないのか……ここから見ても森全に拡がりつつある火の手を恐れ逃げうのも理解できるが、誰ひとりとして森のほうへは行かないのが気になった。

すると部屋のドアが突然、勢いよく開け放たれる。

「九鬼っ、やばいぞ、海賊だ」

勢いよく部屋にってきたジョージが、蒼白な表ぶ。

「海賊」

俺は瞬時に現狀と村人たちの行や表の意味を理解した。どう考えても普段、まるで火の気のない場所から火があがるのは不自然だった。となると當然、人為的それらが行われたと考える。村人が故意に危険なことをするはずもないので、別の第三者がなんらかの理由で火を放ったのが妥當だ。

そしてそれが海賊だというなら、すぐにそれらの答えが導き出される。東南アジアは海賊がいまだに現役で存在する地域の一つで、東南アジアの國々にとっては、慢的な問題として度々取り上げられている。近年は別ルートを確保されたという理由で鳴りを潛めてはいたそうだが、こんな時に限って連中は活を始めたらしい。

それにしても、カンボジアにもほど近いこんな場所に、よくもまあ姿を見せられたものだ。大抵はシンガポールやマレーシア、それにインドネシアの國境付近の海峽を主な活域にしているはずの海賊なのに、どうしてこんなところまできたのか。しかも今夜、俺が活を起こそうという日に限ってだ。

これはなにか仕組まれているのではないか……そんな気になってくる。武田の先兵が重要な任務を知らせることなく接を図ってきたことからも、そう思っても仕方ないというものだろう。偶然にしたって、これからの行に面倒な存在になることは目に見えている。

俺は必要最低限の道を摑んでにつけると、早くしろと急かすジョージの背中を追って部屋を飛び出た。階段を駆け下り、人気のないカフェテラスを抜けて表に出る。人家に遮られてはいるが、東の空が黒い夜空に濃い橙が溶け込んでいっている。想像以上に火の回りが速いのかもしれない。

逃げまどう人々に混じって俺たちも村の西のほうへ向かって駆ける。ジョージの話では西にちょっとした丘があり、住民たちはそこへ逃げているはずだという。俺の前をいくジョージも、そこへ行くつもりなのだ。西へ向かうという點は、むしろ好都合だ。このまま連中に紛れて途中まで逃げつつ、誤った判斷をしたふりをして廃屋まで向かえばいい。

そう頭で思い浮かべて走る俺の前方から、悲鳴があがる。ジョージが聲を聞いてすぐに立ち止まった。その視線の先に、なにやら不穏な人影を見つけたのだ。

「なんてこった」

舌打ちするジョージのつぶやきはごもっともで、俺たちの前を走っていた村人の前には前時代的なサーベルや槍、それにもう製造されていない何十年も前に生産中止になった骨董銃なんかを手にした男たちが現れたのだ。闇夜に紛れ込みやすい工夫をするつもりがあってしているわけでもないのだろうが、汚いなりをしている三人の男は、黒ずんだボロを何枚もにつけて耳障りな下卑た笑い聲をあげている。間違いない。連中は海賊だ。

三人がじりじりと前方の村人たちへにじみ寄ると、一気に飛びかかるように村人たちへと襲いかかる。振り下ろされる兇に、逃げようとした村人が短い悲鳴とき聲をらしながら崩れ落ちる。よくよく見ると、その何メートルか先にも村人らしい人間が転がっていた。當然、もう息はしていないだろう。

「なんだぁ? こんなところに外國人がいるぜ」

「白人と……もう一人は日本人か」

「こいつは運がいい。殺すなよ、こいつらはいい金になる」

勝手なことをいってくれる。品のない會話で、からてっきり東南アジア現地の人間で、民族の言葉しか喋れないかと思ったが英語をしゃべった。どうやら、俺たちを捕えて金づるにするつもりらしい。捕まえて脅せば、もしかしたらそれぞれの國に代金を要求できるかもしれないと踏んだのだろう。國がたとえ脅しに乗らなかったとしても、被害者の家族が要求を飲まないともいえない。海賊やなんかにとっては、おいしい思いをすることができる算段である。

「どうするんだ九鬼」

ジョージがやや不安げにこちらに振った。もっと脅えていると思いきや、表を見る限りではさほどでもない。世界を渡り歩くフリーのカメラマンという職業も伊達ではないということなのか、なかなかにが座っているようで逆にこちらも冷靜にさせられる。

「力づくで切り抜けるしかないな」

連中はマフィアなんかと違って、決して理論なんかではかない。全ては自分ののおもむくままに行している輩なのだ。これが船長クラスになればまたしは事が違ってくるものだが、こんな下っ端連中にこちらの道理が通用するはずがない。努めて冷靜にいう俺の態度を察したからでもないのだろうが、ジョージもそれを理解して小さく頷く。

こちらのそんな態度が伝わって、連中から品のない笑みが消えた。両者のあいだを一発発の空気が流れる。

俺の二歩ほど前方に位置するジョージがかすかに足を後ろにかした。海賊の一人がそれを合図に一気にジョージへと襲いかかる。しかし合図にしたのは奴だけでなく、俺にしても同じだった。向こうが飛びかかろうとしてきた瞬間とほぼ同時に、俺のもそれに反応したのだ。

襲いかかる海賊がジョージの目前にやってきたとき、俺はすでに奴めがけて蹴りを放っていた。足の裏に鈍くめり込むがあった。

「げっ」

當たったのは敵の脇腹で、蹴られた男はをくの字に曲げながら橫に吹っ飛ぶ。すかさず、目の前に迫っていた次の男の振り下ろされるサーベルからをかわし、ついでに相手の太ももへ掌底を喰らわした。痛みに一瞬ひるんだのを見逃さず、二撃目を顔面に思い切り叩き込む。鼻の骨と前歯の折れる覚がなんともいえないの悪さを掌に伝える。

仲間二人がほんのわずかな時間のうちにやられるのを見た最後の男は、奇聲を発しながら襲いかかる。突き出してくる前時代的な銃の先に小剣が取り付けられているのを見て、本能的にを橫の投げだしていた。いくら夜目がきくからといっても、まさか小剣が取り付けられているなどとは思わなかった。もしかしたら仲間がやられていくのを目に、素早く取り付けたとも限らない。

転げた俺はすぐに立ちあがろうとするも、立ちあがろうとした目と鼻の先には小剣の穂先が向けられていた。あまりにも無駄のない相手の行は、転げた先を見計らっていたのかもしれない。だとすれば、この最後の男はなかなかに戦い慣れているとみて間違いない。

危険を察知して橫に転げたのはいいが、それを計算してか、目の前に突き付けられた小剣の穂先を前にした俺にはどうしようもなかった。男のきを見れば、とても隙をついて小剣銃を蹴りあげるなどの行を取ることはできそうにない。銃にこちらのつま先が當たる前に、小剣が俺の顔面につきたてられているのは目に見えている。

「なかなかにいいきをする奴だが、こっちのほうが上手だったな。覚悟しな」

そういった男が突然妙なき聲をあげて、その場に崩れ落ちそうになった。前のめりに崩れそうになった男の腹を蹴りつける。これがとどめになったことは確実だった。

だが一どうして前のめりに崩れたのかと見上げた先には、ジョージが背後から男めがけて思い切り叩きのめしたためだというのが判った。その手には最初の男が持っていた槍があり、柄でもって男の後頭部あたりをぶつけたのだろう。こうした暴力に慣れているのかはわからないけれども、どさくさに紛れてよくぞまぁやってくれたものだ。

「悪いな。助かった」

「いや……それにしても、たった一瞬で荒くれ者二人を叩きのめすなんて……。なにか武道をやってるのか。いや、今のは武道というよりもっと……実戦武に近い、のか」

他人のとった行のほうに意識がいっていて、自分のとった行もなかなかできないものなのに冷靜になりきれてないらしい。俺は立ちあがり、茫然気味に尋ねるジョージに肩をすくめて見せた。基本的なものとそれに付隨する形で応用的なものをいくつかやっている程度だが、鬼教からは筋がよく見込みがあるといわれたものだ。

適當にけ答えながら連中がやってきた道の方向に目をやり、襲ってくる敵はいないか確認する。走ってきた村のほうからは時折悲鳴や罵聲が風にのって聞こえてくるが、目的の漁港からはそれらしい聲や音はしてこない。今のところは大丈夫なようだ。多分、この連中は村を襲う本とは別に住民たちを挾みうちにする形でいた別隊といったところだろう。たった三人しかいないところをみると、本の數もそう多くはないかもしれない。

「とりあえず、あんたはひとまず村の住民たちと一緒に逃げて避難した方がいい」

「君はどうするんだ」

「逃げたいのはやまやまなんだが、仕事の都合もあってね。一度確認だけはしておきたいんだ。なに、目的の場所はそこだから、すぐに追いつくさ」

海沿いの暗い雑木林の中をつっきるようにできた道の先に視線をやりながら答えると、ジョージはそれを渋って一緒に逃げようといってきた。しかし、そんなわけにもいかない。海賊の急襲なんて思いもよらないアクシデントがあったとしても、工作員が予定を狂わせるはずがない。可能がある限り、やるだけのことはやっておかないと余計に危険なことに巻き込まれかねないともいえないのだ。

まだなにか言いたげにしているジョージを目に俺は、海賊の男が持っていた小剣銃を手に漁港へ向かって走り出した。走る背中にジョージの視線をじながら雑木林の中へと踏みり、あっという間に雑木林の抜けた先にある漁港の外れにまで躍り出る。件の廃屋は抜けたところより左手にあり、暗い中であっても木材で組まれた屋や壁が朽ちて、ところどころが開いているのがわかる、みすぼらしい建屋だった。

素早く廃屋の戸口に背をつけるようやってくると、中の様子を窺う。すでに中では二人、こちらに背を向けてなにか作業している様が見えた。闇夜に紛れるために黒い服をにつけている。廃屋に行くよう指示されたのだから、當然連中がその関係者で間違いない。俺は音を立てないよう靜かに中へとる。

「きたぜ」

突然背後から話しかけられたにも関わらず、二人組はあまり驚く様子もなくこちらを振り向いた。一人はご丁寧に片手に銃をつきつけている。これだけで二人組がこの手の道のプロであることは疑いえない。影しか見えない連中だが、浮かび上がったシルエットからは二人が男だということくらいはわかる。

「きたところ早速だが、あんたには今からこいつに乗って海にでてもらう」

そういって銃を持った男が銃口をはずしながら、今しがたまで用意していたらしい木製の舟のほうと、さらには戸口の反対側の壁が吹き抜けてそのまま海になっている、そちらも同時に促した。今、地元の漁師が乗るような小さな舟に乗って海に出るなど自殺行為も甚だしいのに、こいつらはそれを任務だからと急かした。

「あんたはこれから海に出て、海賊船に潛してもらう。そこで、桜井義人さくらい よしとに會うんだ」

「桜井義人……一どういう意味だ」

手短に説明されたことを整理すると、この桜井義人という人は綾子ちゃんの父親である、渡邉政志の側近中の側近という人らしい。確か武田の野郎はこの桜井が世界中を巡っているといっていたが、政志の側近だというのならそれも頷ける。そして二週間前、なぜ唐突に政志のことを口にしたのかもだ。

また、なぜこうも連絡が遅れたのかも同時に判明した。本來なら南ベトナムから報員からの報を経由し、そこからすぐにシンガポールに渡るはずだったのに、どうも渡邉政志の仕事に付き添ってシンガポールにいた桜井はそこで海賊に襲われたという。

これだけなら組織や武田の配下たちが気にも留めるようなことではないのだが、桜井は政志の仕事について管理しているというのだ。重要なデータかなにかも同時に奪われたからこそ、こんなにも連絡が遅れたわけだ。

政志は今現在、側近が急襲されたこともあってシンガポールの大使館にすがるように逃げ、そこで滯在しているという。大使館を通じて、事件を明るみにしないよう指示を出し、桜井の救出をミスター・ベーアに要請したわけだ。あのホテルでの関係から、政志がミスター・ベーア側の人間であることは間違いないだろう。そうでもなければ、日本人の拉致に世間に一切報がないというのはおかしい。

「桜井の持つ資料を手にれるためってわけだな」

「もう一つ。ミスター・ベーア側からのエージェントがもう一人、現地に向かったという報がある。だが、すでに送られたエージェントとは面識がない可能が高い」

みなまで言わせることなく頷いた。つまり、送られたエージェントよりも早く桜井義人を救出し、ミスター・ベーア側のエージェントになりすませということなのだ。渡邉政志とは一度顔を合わせてはいるが真紀との関係から、俺が目の前に現れたとしてもなんの疑問も抱かないはずだ。エージェント同士の面識がないのであれば、もってこいではないか。

なるほど、だからこそ武田は俺に任務を與えたというわけか。と仕事はきっちりと使い分けているのかもしれない。だからといって俺が奴に気を許すこともないが。

説明をけているうちに、村のほうから聞こえてくる音が大きくなってきていた。海賊の奴らは、大したものがあるわけでもないこの村から、こそぎ品を奪っていくつもりなのだ。

「準備は整ってる。さあ」

促されるまでもなく素早く舟にをおろし準備してあったオールを手にすると、遠くから音が響く。林や壁に遮られて衝撃こそないが、かなり大きい。連中、こんな田舎の村めがけて砲撃したのではあるまいか……そう考えたところで男二人が舟を蹴って海へと押し流す。この勢いを利用して、オールを持って靜かにこぎ出した。全く、こんな狀態で海のチンピラどもの巣窟に潛させようだなんて、大した作戦ではないか。

第一、沙彌佳がこの作戦に參加すると聞いてけることになったはずなのに、その肝心の沙彌佳とはなんの音沙汰もない。一どういうことなんだ。

ぼやきたくて仕方ないところだけども仕方ない。とにかく俺は、上手く海賊船に潛し、そこで桜井義人を救出したうえで重要なデータか資料だかを手にれる。そしてシンガポールにいる政志と會うまでに、組織から新たに送られたというエージェントを始末する。それが今回、當面の任務ということになる。

ミスター・ベーアの実験だとか武田の思だとかは実際のところどうでもいいが、こちらの將來のためには二人ともご退場願わなくてはならない。両者の思がぶつかるであろう今回の任務は、そんな両者を出し抜くにはもってこいといってもいい。

大小の疑問渦巻く中、俺は一人、小舟を夜の海原へ大きく漕ぎ出した。この任務に沙彌佳が參加するという武田の発言が本當なら、どこかで必ず出會えるに違いない。とにかく、そのためにも海賊に拉致されたという桜井義人とうまく接することを最優先するとしよう。

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