《いつか見た夢》第92章

朽ちかけた船著き小屋を出て海原に漕ぎ出してからというもの、何十分経ったろう。二○分か三○分か……あるいは張の最中でアドレナリンが分泌されたことで、勝手にそうじるだけで実際には一○分と経っていないかもしれない。なんにしても、水をはねる音しかしない真っ暗な世界は不気味で、自分がむしろ異様に思えるほどだった。

先ほどまで聞こえた村を襲った悲劇を伝える悲鳴や襲撃音も、今は聞こえてこない。まだ村の東側で起きた森林の火災による煙が、遠く陸を靄でかすませている。地元には醫者は當然、消防などの組織だったものはないため、あれほどの火を消し止めるには一日や二日では不可能かもしれない。

遠くの靄を眺めながら、オールで水面を叩く。一どれだけ進めば目的の海賊船に突き當たるのか見當もつかない中、必死に漕ぐ必要もない。

なにより俺をが鬱にさせたのが霧だった。この辺りは気候がり気を帯びた溫暖な地域なため、海面の低い溫度との溫度さによって空気中の水分が溫められて一帯に霧を発生させる。このため日が沈むと水面が一気に冷やされ、結果、水上の溫暖でった空気との溫度により、すぐに霧が発生することになる。

これがこの辺りの海域を海賊がいまだに現役で活させるに至る、一つの要因になっている。さらに、東南アジアというのは地域柄、まともに名前すらついていない島や無人島も數多く存在していることも、大きな理由に挙げられる。そのうちのどれかに、連中のアジトになる島があるだろうと推測されているのが現狀だ。

いくらも進まないうちに、さらに深い霧があたりを覆うように出てきた。もはやこんな貧弱な小舟での航行は不能といって間違いなく、地元の漁師ならば絶対に海に出ることはないレベルの濃さだ。こんな霧の中を航行できるのは、最新鋭のGPSをつけた船でもない限り不可能だろう。

けれども、そのGPSを持ってはいるがまともに海へ漕ぎ出したことのない人間では、無理な航行はやはり不可能だ。海上というのは陸と違い、想像以上に危険なものだと思って行しなければ、進むのは當然、戻ることすら不可能になってしまうことすらあるのだ。それだけは絶対に勘弁願いたいので、ここはしばらくのあいだ様子見で、そこから進む方向を決めようというのが俺の思だった。

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そうか。だから連中はこれに乗じて、あんな片田舎の村を襲ったのか。連中としても、わざわざ得るもののない村よりも、もうちょっと大きな漁港のある街を襲ったほうがいいに決まっている。しかし連中も、船を襲うにしろ街を襲うにしろ、急襲するタイミングというのはある。それがこの霧なのだ。

連中にも當然、航海士はいる。そいつが空気や風の狀態を読み、そのうえでターゲットを決める。考えるまでもなく決めるのは船長だが。

こうなってくると、あまりかないほうがいいという判斷は間違っていないかもしれない。波の、風のきに任せたほうが連中の船にぶち當たる確率が高い。奴らも、こんな霧深い夜の海を一人小舟に乗った外國人を目の當たりにすれば、好奇心で引き揚げようとするに違いない。どうすれば連中の船に乗り込めることができるか定かでない今、とにかくこれに賭けてみる以外に手はなさそうだ。

そう考えてオールを置いたところ、突如背後からゴンゴンと不気味な音をあげながらなにかが近づいてくるものがあった。こんな海上を今いているものなど、前後の事から考えても海賊どもの船くらいしかない。

「ようやくおでまし、というわけか」

霧のカーテンを切り裂くように現れたのは、俺の予想した船とはまるで違う鉄製の船で、矮小な小舟にそのでかい図を誇示するかのような巨大船だった。ここからでは甲板の上を見通すことはできず、連中が陸にあがるため、ないしは出用のボートが何隻か船の橫っ腹にくくりつけてある。

こちらは波に流されるままにいているだけにすぎないが、見たところ向こうもいているようには見えず、また、く気配もなさそうだ。捕まることを想定していたがもしかすると、うまく船れるかもしれない。

とはいうものの、タラップは降りていないので船に気付かれることなく潛するのは至難の業だ。いや、そもそも潛することそのものが難しい。なんとかならないものかと思案していると、向かって陸の方角からやかましい馬鹿騒ぎのする聲が響いてくる。どうやら得をしたがえ、海賊たちが戻ってきたらしい。

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俺は手探りに、舟の中になにか使えそうなものはないかと探った。先ほどの二人がプロなら潛するにいたって、最低限必要な道を揃えていても不思議はない。むしろ、それらを揃えていないほうがおかしな話だ。

案の定、舟の中には鉤縄がおかれており、こいつを使えばなんとか船への潛ができそうだ。鉤縄など忍者でもない俺は使ったことないけども、似たよう道は使ったことがあるのでなんとかなりそうではある。が、わざわざこいつをセレクトした理由は俺が日本人だからなのかと、思わず苦笑せざるをえなかった。

しかし鉤縄の長さはざっと七、八メートルといったところか、こいつが長いのか短いのかわからないけれども、どうやっても海上からでは甲板にまでは屆きそうにない。どう見ても甲板までは一二、三メートルの高さはある。おまけに舟に乗っているとはいえ、こんな足場の悪い場所ではどれほどの長さがあったにしても、うまくかかるかわからない。

せめて、あと五、六メートル稼げれば……そう考えたとき、陸から戻ってきた連中が甲板のほうに向かって、舟を引き上げるようぶ。俺はこいつがチャンスだと思い、舟に転がっている防水袋を背負い鉤縄を肩にかけると、ひっそりと海の中へとを沈めた。海の水は思っているよりも冷たさがあるが夏の海とあって、どこか生溫さもあった。

平泳ぎで連中の舟に近づいていき、あと數メートルというところでを完全に海中に浸して進んだ。水の中は想像以上に真っ暗で、水を掻きわける自分の腕すらまともに見ることはできない。しかし、すぐに連中の早くしろという悲鳴にもにた怒聲がして、真上に連中の乗る舟があるのだと気づいた。

水面から、そっと目の下まで頭を出すと案の定、すぐ目の前に舟の中腹があった。聲から男が四人乗っていることが確認できる。真上に気がいっていて、誰一人としてこちらのほうに気づいている様子はない。俺は左肩にかけた鉤縄の先端を靜かに舟の左右の中腹にかけると、直後に、舟が真上に引き上げられ始めた。

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俺は舟底のでっぱりに右手で摑み、左手で縄をしっかりと持って海賊どもの乗った舟が引き上げられていくのと一緒に、真上へとあがっていった。舟の真下に宙ぶらりんのままという苦しい態勢だが、今はしでも早く連中が船に上がるのを祈るしかない。舟の前と後ろの両方にかけられたロープが甲高く軋む音をさせるのを耳にすると、連中に変な重みに気づかれるのではないかと焦りはしたものの、男たちは今日の戦利品の話題にそんな様子は一切じられない。

ようやく頭上に甲板の縁が見え始めた。思わず舟にかかった鉤縄をもつ左手に力をこめてを安定させようとしてしまいたいところを必死に抑え、あとしだといい聞かれながら目線の位置まで縁がくるのを待って右手を船の縁にかけた。すぐに、左肩にかかった縄の先端を橫にある手すりの支柱に絡みつけ、縄に摑まる。足を船の橫っ腹にやって態勢を安定させるとようやく一息つくことができた。

引き上げられていく舟にかかった鉤縄をうまく取り外し、そのまま下に放り投げる。これでいい。重労働にはなったが、まさか自分たちが引き上げられたのに混じって、俺が一緒に引き上げられたとは気付く奴はいまい。あとは、連中が船の中にっていったのを見計らって上にあがればいい。

しかし、こちらに気づくことがなかったのはよかったが、連中はいつまで経っても甲板の上で奪った戦利品の講釈を垂れているばかりで、一向に船にはいる気配がない。いくら力に自信のある俺でも、このままロープにぶら下がったままではあっという間に力を消耗してしまう。早く消えろ……忌々しげにそう思ったところ、ようやく現場のリーダーらしき男の怒聲が響いて、連中が船へと引き揚げていった。

もう聲がしなくなったのを確認してから、俺はロープを伝い甲板に出た。戦利品も全て船に持っていったのが一目瞭然で、甲板にはそれらしいものは一切転がっていない。海の荒くれ者たちの船とあって、もっと汚いものだという先観があったのだが、あがってみるとどうだ。それどころかほとんど汚れてはおらず、思っている以上に小奇麗にされているのが窺える。

想像とは違う船上の様子になにか疑わしい気持ちになりつつも、辺りを見て探る。聲は當然、人の気配などこれっぽちもしない。俺は素早く船への出口へ移すると、風にやられてからだろう、所々錆び付いて黒っぽくなった鉄扉のノブに手をかけゆっくりと開けた。

ギシギシと嫌な音を立てて開いた鉄扉の中は薄暗く、下に向かって階段がびている、ぼんやりとしてはいるが照明があり、それらが黒い配線のチューブで繋げられる形で等間隔に取り付けられてある。俺はするりと中にをやりこめ鉄扉を閉めると、音を立てないよう階段を降り始めた。面倒なことに、階段は金屬製なのだ。

二〇段ほどの階段を下ったところで、一階フロアの廊下にぶちあたる。海賊船とは思えない白い壁に、左右にびる緑をした廊下の先には、それぞれ出口と同じ鉄扉があることが確認できた。意外な構造をした船は、もしかしたら船そのものが強奪品であるかもしれない。

はっきりといえるのは、この船がかつて日本出國の際に乗り合わせたときの船なんかより、はるかに新しいということだ。そのうえ、あのときの船は世界でも最大級の巨大なタンカーであったけども、今回の船はそのときと比べるほどの大きさもなく探索はしやすい。

さて……とりあえず、どちらからいくか。構造上、おそらくはどちらにいっても先になにかしら部屋ないし、それに繋がる通路かなにかがあるのは間違いない。問題は、どこに桜井義人が囚われているかだ。それ次第で、今回の難易度は大きく変わるといっていい。

多分、一番下の階に囚われているはずだ。ここは海賊船、連中の現場におけるアジトといっても過言じゃない。日本人で自分たちよりも裕福であるのが確実そうな見なりをした桜井に対し、連中が抱くのはただの金づる程度の認識しかないだろう。

となると、自分たちよりの居住スペースよりも待遇のいい部屋に押し込めるだろうか。よほどの賓客であり、それを認識することのできる程度の教養があるならまだしも、そんなものはそこらの畜生にすら劣るような連中にあるはずがなく、桜井にそんな待遇を用意するはずもないだろう。

経緯がどうあれ、ここにきた以上は自分たちより下の分である桜井を、同等の場所に押し込めることはしないに違いない。もっと劣悪な環境にをおかせ、心理的に劣等を満足させようとするのではないか。俺はこうした結論から、連中のいる場所よりも劣悪ないしは下の層にいると踏んだ。

俺はそう結論づけると向かって左、船の後方へと走り出した。後方部分には船の力部となる機械や裝置が置かれている。行が限られる船において劣悪な環境に該當するエリアといえば、これくらいしかない。力部は推進力を與えるために取り付けられるスクリューの力をしでも伝えやすくするよう、後方の下部にあるのが普通だ。

船後方へ通じる鉄扉を靜かに開けると、扉の向こうは再び同じような構造になった通路が続いていた。もし事故があったときのことを想定してしでも水の侵を防ぐため、フロアをいくつかのブロックに分けてある。出にはしばかし面倒ではあるが裏を返せば、連中の足止めにもなるかもしれないのだ。

ブロック分けされた通路を二つ三つと進んだところで、それまでとは違うブロックに出た。通路の半分あたりで、下のフロアへおりた階段が確認できたのである。その階段を降りた下のフロアは、どこかざわめきさをじさせるフロアだった。間違いない。連中の簡易居住スペースとなるフロアだ。

金屬製の吹き抜け式の階段では、同じフロアにいれば確実に音が響くのは確実だろうから、俺はここぞとばかりに慎重になって階段をおりる。ここで連中の居住スペースがあるとすれば、おそらく桜井が囚われているのはここの一つ下のフロアになるだろう。船の大きさからいっても、さらにそこから二つも三つもフロアがあるとは思えない。

細心の注意を払い階段を降り切ったとき、向こうから奴らが數人、馬鹿でかい聲に下卑た言葉を口にして近づいてきている人影が確認できた。手近なに隠れたところを、連中が気付かずに通り過ぎていく。の隙間から、奴らの手に誰かが食べたあとの食らしいをもっているのを見逃さない。

そいつを見た瞬間、思わずを吊り上げていた。連中の休むスペースは上の階なので、わざわざこんな薄暗く小汚い場所で食事をとることはないだろう。では、誰の食べたあとなのか。考えるまでもない。こんなところにわざわざ食事をもっていかなければならない人は、桜井義人以外にはいない。このことから俺の進んできたルートは、ほとんど間違っていないかったということになる。

連中が降りてきた階段をあがっていったのを見計らい、即座に奴らのやってきたほうへ向かって移する。通路は大小の細々としたものが多く置かれてあるせいで、今のようにいざとなれば隠れる場所に困らないのはいいが移には々手がかかる。雑に置かれてあるため、場合によっては通路を半ば塞ぐように置かれてあったりするのだ。

真っすぐにびた通路の先に、薄く汚れた白い鉄扉が見えた。中心線上に人の目線の高さに合わせた、丸い覗きもある。扉の向こうが部屋だとすれば、これほどに人を閉じ込めておくのに相応しい場所もあるまい。鉄扉の前にきて俺は、そっと覗きから向こうの様子を覗き見ると、思った通り一人の男が壁を背もたれに蹲って、うなだれている様子が見えた。何日も著替えていない薄汚れたYシャツの男、桜井義人に違いない。

一刻も早く、救出し船から出したい俺は、鉄扉をどうすれば開くかざっと確認する。メッキが剝がれ下地の灰が見えるノブの上に、ゴツゴツとしたロックがあった。決められた數字を設定して解錠できるダイヤル式で、おまけにその數は六桁と、とても簡単には開けることはできそうにない。それだけならまだしも、忌々しいことにロックには専用の鍵が橫についていて、ダイヤルの數字を合わせて初めてキーを差し込める仕様になっているのだ。

単純な解錠ならお手のものな俺だけども、ここまでのものはさすがに対応できない。専用の道でもあれば別だが、武田の部下の二人が用意した道にはそんな大層なものなどなく、連中の持つ鍵を手する以外に方法はないだろう。他にもなにかないかと鉄扉とその周辺を探っていたところ、扉の向こうから聲がした。

「誰だ……誰かいるのか」

思わぬ聲に扉の下のあたりに視線をやれば、完全に閉されていると思っていた鉄扉が、床からほんの二センチと満たない隙間を作っていた。この隙間から、鉄扉を探るこちらの気配をじたのだろう。ここだけがどうしてこんな作りになっているのかはわからないが、これは好都合だ。

「あんたが桜井義人だな」

「日本人……なのか? お願いだ、ここから出してくれ」

扉に手をやりながら屈みこんでいった俺の言葉に驚いたのか、桜井はを這いつくばせて懇願した。どうして自分の名前が知られているのか疑問に思わなかったのか、それこそ疑問にすべきところだけども、それほど必死だということだ。

「いわれなくても助けてやるさ。依頼主の頼みだしな」

「依頼主だって? もしかして、社長……渡邉さんが……?」

そういう桜井の言葉じりには極まったのか、涙ぐむ様子がうかがえる。

「ま、そういうことだ。彼からの依頼で助けにきたってわけさ。さて、ここから助けてやるのはいいとして、問題はここをどうやって開けるかだ。つい今しがた、ここを海賊どもがきたはずだ。連中はあんたの食事係なのか」

「あ、ああ。毎回運んでくる人間は違うが、一応一日三食だしてくれてる。食を取りにくる係と、運んでくる係と分業しているのかはわからないけど食を取りにきたから、多分あと十五分か二〇分もすればまた食事を運んでくると思う……」

最後は自信なさげにいう桜井には、もはや時間の覚などないのだろう。閉じ込められて時間の覚を失っている人間にとって、唯一そいつをなんとか確認できそうなことといえば、連中の運んでくる三度の飯だけ。神的に參ってきている男の口から、政志にとって必要らしい重要な報を得ることはさほど難しいことではない。

鉄扉の閉じている狀態からでは、とても食を桜井にけ渡すことはできない。狀況と桜井の言葉とを當てはめて考えれば、連中がここのロックを解錠して桜井に手渡していることは明白だ。いや連中のことだから手渡すというよりも、桜井の前に雑に突き出すか置いているかのどちらかだろう。

ともかく、ここらで網を張っておきさえすれば、あとは自的に連中がここにやってきてこの煩わしい鉄扉を開けてくれるというのだ。こいつを利用しない手はない。俺は桜井に黙っておくよういい、その場を離れて隠れることのできそうなを見つけて隠れた。桜井の言葉が真実ならば、そう長い時間待つ必要はないのだ。

さあ、早くこい……そう心ので何度もつぶやいていると、鉄扉を離れ時間にして七、八分といったところで桜井の証言通り、男が三人、ざわめき立てる足音を立てながら鉄扉のほうへ向かってきた。狹い通路を海の荒れくれ者三人が一列に並んで歩いているのは、どこか稽なじがする。

「おら、今日の晩飯だ」

に潛む俺という侵者に気付くこともなく、先頭の男がダイヤル式のロックを開け、真ん中の男が嘲りながら中へると、最後の男が暴に桜井の前に投げ捨てるように食を置く。同時に、金屬の耳障りな音が狹い通路に響いた。最初の男はここでは見張り役になるという、中々に徹底した役割分擔を行なっているように見える。

だが、所詮は付け焼き刃程度の行でしかないことは一目瞭然で、こんな狀況で見張りなど必要ないと信じきっているからだろう、その役など大して果たしてはいなかった。むしろ、あとの二人とともに鉄扉の前から桜井を蔑んで愉しんでいる様子だ。

俺は、今がチャンスだと踏んで素早く行に出る。まずは最初にロックを開け、今は見張り役になっている男が標的だ。あらかじめサイレンサーを取り付けておいたため、銃聲が響くことはない。俺は通路に出たと同時に銃口を向け、躊躇うことなく引き金を引く。

著弾のショックで一瞬上を揺らし、壁にをぶつけながら最初の男が倒れる。後頭部からは量のが辺りに飛び散る。中にった男の一人が、外の様子がおかしいと顔をのぞかせた瞬間に、その顔面めがけてさらにもう一度引き金を引き二人目の男がをのけぞらせた。

勢い良く開け放たれた鉄扉を押して中へとなだれ込むと、待ち構えていたのか三人目の男がタメの効いた聲をらしながら襲いかかってくる。

しかし奇襲も虛しく、次の瞬間には俺の鉄拳が男の鼻っ面にめり込んでいた。男が激しく倒れ込み、き聲をあげる。拳が叩き込まれる直前に男のきが一瞬止まったように思われた結果だ。

男が倒れ込んだところを見ると、それも氷解した。どうやら、桜井が男の足を引っ張っていたらしい。足を摑んだ手が震えながら開かれる。

「なかなかにがあるじゃないか」

男の奇襲など予想していた俺に手助けなど必要はなかったが、まぁ悪い働きではあるまい。そういって俺は驚く引き笑いを浮かべている桜井に手を差し延べ、震えさせながらも、のろのろと摑んできた手を引いて立ち上がらせる。

「あ、ありがとう」

「こいつも仕事だ」

おもむろに、床に転がっている男をつま先で小突いて正面を向けさせる。その表は鼻の骨が叩き折られた痛みに苦しみ、ダラダラと大量の鼻が溢れている。この男だけ始末しなかったのは、こいつに桜井の代わりになってもらうつもりでいたからだ。

俺は桜井に男のぐるみを剝いで、著るように命じた。明らかに、汚らしい服を著込むことに嫌悪を滲ませる表を見せたが、俺が率先して服の上から始末した男の服を被っていく様子をみて、仕方なしにそれをれる。助けにきた俺がそういうのだから、従うべきだと判斷したのだろう。もっとも、嫌でも強制的に著込ませることになんの躊躇いもないが。

饐えた臭いのする小汚いボロを著た俺たちは三人を狹い部屋にほうり込み、ダイヤルの數字を適當にいじくり回して閉じ込めた。連中の持ってきていたキーでもってロックをかければ、合鍵でもない限り外には出られない。鍵がなければ、一生この部屋に閉じ込められっぱなしということになるが、そんなのは知ったことではない。

桜井を連れて來た道を戻り、階段を駆け上がる。とりあえず、連中の行き先ぐらいは知っておきたい。今ここがどこに向かっているのか知っておくのと知らないのとでは、これから先の行に大きく影響する。なんせ、そいつを知る前に海原に放り出されたのだ。

途中、幾度か船をうろつく海賊どもに出くわしそうになっては、に隠れてやり過ごす。幸いなことに、連中は村の襲撃に功したからか祝杯をあげているらしく、かなり泥酔している様子だった。実際、船のいたるところで騒がしい聲が聞こえ、先ほどの三人もどことなく酒臭かった。もしかすると日がなアルコール漬けなためにそう思ったけども、今回に限っていえばそうではなかったらしい。

もっとも、一応連中の仲間のお古を著込んでいるので、遠目からならパッと見は見分けることはできないと思われる。実際に一度は通路の反対側から酔っ払いに聲をかけられたけれども、適當に相槌を打つだけでなんなく切り抜けられたということも俺たちに自信をつけさせるという結果もあったためだ。

「さっきからどこに向かってるんだい? 逃げるんじゃないのか」

桜井が不安そうに聞いてきた。救出にきたといわれた手前、さっさとこんな場所から逃げ出したいと思うのも仕方ないかもしれない。ましてや拉致されたとなれば、なおのことだろう。

「いや、その前に會っておかなきゃぁならない奴がいる」

俺はそう告げ、村に訪れていた武田の部下二人のいっていた行をとるべく、船長を探して階段を駆け上がる。船長ともなれば行き先くらい知っているはずだ。決めていないにしても、脅して手玉に取れば自分の都合のいい狀況にまで持ち込めるかもしれないのだ。

嫌そうな顔を見せつつも素直についてくる桜井は、駆け上がる階段に息をあがらせ、休憩を求める。連中に見つかれば、ただではおかない狀況で休憩などとてもできるものではないが、まともに力やスタミナを作ったことのない桜井を相手にしては仕方ない。俺は三分だけを條件に、階段を昇りきった先にある通路の壁に背をつけて小休止することにした。

「はあ、はあ……あ、あんた、一なにものなんだ。社長が助けに出したといってたが」

桜井の疑問はもっともといっても差し支えないが、かといっていちいち自分の立場を明かす必要もない。俺は黙って肩をすくめると、あんたが気にする必要はないとだけ告げて先を促した。

「ま、待ってくれ」

慌ててついてこようとする桜井をなかば無視して、さらに階段をあがる。取り付けられた丸い小窓からは真っ暗な海と空しか見ることはできないけれど、以前の経験から、そろそろ舵室のある階層にきていてもおかしくない。

そう思っていた矢先、階段をのぼりきった床を踏みしめたところでそれまでとは違う構造になったフロアに出た。目と鼻の先には、立派な鉄扉が薄汚れて、俺たちを迎える。

桜井に、人差し指を口元に立てるしぐさをして見せた俺は、そっと扉の前にまでやってきて聞き耳を立てた。中からは男が三人、なにか話し合っている囁き聲が聞こえてくる。無論、こんな今までとは明らかに違う階にいる海賊となれば、船長と幹部連中くらいなものだろう。

俺はボロの裾にしのばせておいたワルサーを取り、張で乾いたを舐めた。この扉を勢いよく開けて奇襲をかけるのはさほど難しいことではないが、連中の親玉の額をぶち抜くのはよろしくない。判斷を誤れば、ここまでの行が全て水の泡になってしまう。

「いいか。今から俺がここを突破するが、あんたは俺がいいというまで扉の影に隠れておくんだ」

俺にならって、背後にやってきていた桜井に顔を向け小聲でいうと、桜井は張した面持ちで弱々しく頷いた。ごくりとが上下したのも、それを裏付けている。俺がかすかな張をほぐすために一呼吸するのを見計らって、桜井は扉の端によってを細める。

目で頷いた直後、俺は一気に扉を蹴り上げて開く。何事かと思わせる間もなく手前にいた男のあたりに弾丸をぶちこむ。向かって奧に位置した男が、すぐにその場を立ち上がって近くのらせる。

素早いきをみせた男こそ、連中の親玉である船長だろう。どことなく他の連中よりは上等に思える恰好をしているのを、一瞬目の端で追っていた。

同時に右側にいる人きにも気を配っていた俺は、躊躇うことなく銃口を向けて引き金を引いていた。殘念ながらその弾道はずれ、相手の太ももにぶち當たる。だがこれで相手のきを封じた。そして立て続けにそいつの腕と肩に弾を食い込ませ黙らせる。

これら一連の行を一呼吸足らずですませた俺に対して、き聲すららすこともなく倒れこんだ男は、自分のに起きたことがまだ把握できずにいるに違いない。問題は最後の男、船長らしいなりをした男に絞られる。

「さぁ、そこから出てきな。抵抗しないというなら命までは取らない」

俺はあえて無言を貫き相手の出方を待つが、しかし相手の反応はない。

馬鹿な野郎だ。見たところ舵室は、置いてあるのか放っただけなのかわからないが、ごちゃごちゃと所狹しにある。そんな中を用に、一瞬で事態を判斷し素早くいた野郎の行はなかなかに侮れないものはある。ここは野郎にとってテリトリーといっても過言ではないが、それを差し引いても、かなり危機の予測能力に長けたやつであることに変わりはない。

いくら待っても逃げ込んだから出てくる気配のない男を訝しんだ俺は、意を決してゆっくりと移する。

「糞が。してやられた」

するとどうだ。奴が飛び込んだ先は、あろうことか抜け道が出來ていたのだ。一人が通り抜けられるかどうかの小さなもので、暗がりの中階段が下に向かってびているのが見える。

俺は思わず舌打ちしていた。馬鹿は俺のほうだ。ここは奴にとってのテリトリーなのだから、こうしたものがあったってなんの不思議もない。阿呆なことにそんな初歩的なことを考えもせず、勝手に相手は袋のネズミだと思い込んでいたのだ。

しかし幸か不幸か、思わぬ保険もいる。俺は足早に弾丸をぶち込まれてけずに倒れている男のところまで歩み寄ると、強引に倉をつかみ問い詰める。

「お前らの次の行き先はどこだ」

「し、知らねえよ、俺は、俺は知らねえ」

「あの抜け道はどこに繋がってる」

「し、知らない」

言い切る前に、摑んでいる倉を締め上げてやるとすぐに口を開いた。

「本當だ。し、知らないが……」

「知らないが、なんだ」

「多分、ド、ドッグに繋がってると思う……」

まだ何かいおうとした男が聲を発する前に、今までなりを潛めていた桜井が顔をのぞかせてんだ。その表は青ざめている。

「大変だ。下から連中が騒ぎながらこっちに向かってきてる」

思わずそちらのほうに目をやると、確かに騒がしくなっている。きっと捕虜である桜井の姿がないことが発覚したのだ。それを聞いて目の前の男が気にらない薄笑いをあげた。

「これでお前たちは終わりだ。この船には一〇〇人からの船員がいるんだ。どう考えたってお前らに逃げ道なんてあるわけねえぜ」

思わぬ増援に気が強くなったのか、男が憎たらしい嘲りを含んだ口調でいった。俺は舌打ちする代わりに、男の鼻っ面を思い切り毆りつける。

男はき聲すらあげることなく、潰れた鼻から大量のを流しながらぐったりとなって頭を垂れる。摑んでいた倉を放り出し、桜井に早く來るよういいつけ、男の逃走経路となった抜け道を使って男を追う。

いや追うというよりも、追わされるといったほうが近いかもしれない。忌々しいが男のいうとおり、確かに今この戦力ではとてもではないが一〇〇人からの海賊を相手になどできない。一刻も早く船から出しなくては、こちらが危ないのだ。

桜井を引き連れ、を細めるように暗い階段を降りていく。階段は足元がよく見えないうえ、思っている以上に勾配がきつくなっているほか、一段一段が高い。しかも、その高さは均等になっていないようにじる。これでは、もし踏み外そうものなら冗談抜きに階段を転げ落ちてしまわないともいい切れないほど、いい加減な作りになっていた。

野郎はその中をいとも簡単に潛り抜けていったということになるが、となるとこちらとしても音を上げるわけにはいかないというものだ。

そんな階段を慎重かつ急いで降りつつも、俺は頭をフル回転させていた。男の話を信じるならこの先はドッグになっているということだけども、なぜ野郎が侵者である俺のことを何も知ろうとせずに一目散に逃げ出したのか、それだけが妙に気がかりだったのだ。

考えすぎといわれればそれまでかもしれないが奴のきはまるで、こちらの襲來を予め知っていたかのように思えるのだ。……まさか。そんなことはありえない。そう言い聞かせはするのに、どうしても疑念が晴れずにいる。

なにか俺の知らないところで、別の思いている気がしてならなかった。理由はわからないが、もしそうだとすれば、この纏わりつくような嫌な覚の理由にも頷ける。ましてや、元はといえば武田からの任務ということを思えば、それを前提に行したほうがいざというときのためにもなるだろう。

暗く狹苦しい場所の移というのは、割合息苦しさをじるもので、大した時間は経っていないはずでも時間の経過が遅くじる。実際にこの階段を移していたのは時間にして、ほんの二、三分といったところがせいぜいだろう。あるいは、もっと短いかもしれない。しかし、追いながら追われるという焦燥から、その何倍もの時間が経過したように思えてならなかった。

果たして本當にドッグになど繋がっているのか疑問に思い始めたところ、開けた場所にでた。開けたといっても、実際にはただの通路だが、これまでの道のりを考えれば、はるかに広くじられる通路だ。通路のずっと先、おそらく出口と思われるドッグから、うっすらと燈りがれている。

俺の後ろを桜井が聲を出すこともなく、黙って著いてきている気配と音をじながら通路の向こうへと出た。締め上げてやった男の証言通り、確かにそこはドッグになっているのが薄暗い中でもすぐにわかった。

「一足、遅かったか」

ドッグはもぬけの殻だった。目の前は大口をあけて開け放たれた先は、真っ暗なのに白ずんで見える大海原が広がり、生暖かさを持ったの風と香りがをくすぐっていく。野郎は俺の追跡を逃れ、すでに船から出していた後だったのだ。

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