《いつか見た夢》第93章

大海原へと開かれたドッグの扉がかすかな風にさらされ、ぎしぎしと軋ませている。霧の白ずんだにドッグの空気もなじみ、明かりなど一つもないのに妙に明るくじて見えた。

しかし、おかげでドッグの全の様子をおぼろげながらに確認することもできた。この點、夜目の利く俺としては十分すぎるというものではあるが、ドッグというわりに中に船や潛水艇などといった乗りは一切なかった。開け放たれているドッグの大扉を見れば、船長と思しき男がこれを開けて、自分専用の出艇でここから逃げた……狀況としてそんなところだろう。

「ど、どういうことだ。船なんて全然ないじゃないか」

暗さに慣れたらしい桜井が、ドッグの様子を見て聲を震わせる。奴としてはここからの出を考えていたのかもしれない。もっとも、そいつは俺も同じだ。だが桜井と違うのは、男が出用の乗りを男そのものの拘束と一緒に奪うことである。似たようなものだと思えるかもしれないが、全くの別だ。男から々と聞きたいことができた以上、やすやすと出だけ、というのはこちらの沽券にかかわる問題なのだ。

けれども桜井の言うとおり、この狀況はまずい。乗りがないだけでなく、それに乗って男そのものも逃げたというこの狀況は、今回の作戦について、失敗という二文字がどうにも脳裏にちらついて仕方なかった。もちろん、ただでは失敗しないというのがプロだから、俺も決して最後まで諦めるつもりはないが……。

俺はまだ連中がまだ追ってこないことを幸いとして、一度冷靜になって頭を再びフル回転させる。

まず今回の任務について、武田の部下を名乗る二人の男から突然、こんな半ばお末といってもいい作戦を伝えられた。政志の報を管理しているらしい右腕的存在である、桜井義人に接を図るためだ。ここまではいい。問題は次だ。俺が作戦のためにベトナムに向かう前後に、都合よく桜井が、都合よく活を始めた海賊に、都合よく捕まった、ということだ。

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もちろん普通に考えれば、俺のような現場工作員に言い渡された任務なのだから、こうした事態が起きないとはいわない。だが今回にいたっては、どうにも不自然な點があるのだ。指定されたベトナムの田舎にまでやってきたところで、何日もの間足止めを食らわされたことからが、まず気になる。

あの二人は桜井が予期せぬ海賊の拉致によって、大幅に予定が変わったというニュアンスの説明をしたが、それがもし狂言だったらどうだ。桜井の拉致は、もしかしたら始めから今回の任務のためにあしらえられた、計畫の一部だったのではないのか……そんな考えが浮かんできた。

馬鹿げた話でもあるがこう考えると、これまでの不自然な點がたちどころに解けていくのだ。ベトナムの片田舎で何日も足止めを食らった理由、そんな片田舎の村を急襲した海賊、さらに直前になって接を図ってきた組織の現地報員。そう、まるで俺をこの海賊船におびき寄せ、この船に乗せたいがために思えるのだ。

それだけじゃない。先ほどの船長と思しき男の行にすら納得ができてしまうのだ。もしかしたら、あの男にだけは始めから今回の任務に俺という侵者が訪れるということを、事前に知らされている可能すらある。そして、その可能は大いにある。

これまでの海賊たちは皆、反逆する俺に向かってきたというのに奴だけは、そんな気概すら見せることなく逃げ出した。けないともとれる行ではあるが奴が知らされていたなら、この行の裏づけになるのではないか。証拠も何もあったものではないが。

しかし、この抜本的なところに武田の野郎が絡んでいる以上、むしろこの考えのほうがしっくりくる。理由は知らないが、奴は俺のことを目の敵にしている節がある。もしかすると単に気に食わないだけなのかもしれないが、ともかく俺に冷戦をしかけてきていることだけは理解している。

(だが……)

それでも解けない點があるのだ。任務自はこれで納得がいくが、だとすればどうしてわざわざこんな手の込んだ舞臺を用意する必要があったのか、この點は決して納得いくものではない。そもそも、ミスター・ベーアとの確執と競爭のために俺という駒を用意したはずの武田が、こんな舞臺をあつらえる必要などこれっぽっちも必要ないではないのか。

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奴はミスター・ベーアの思報として握っているといってはいたので、単純に俺を始末したいからなどという理由が選択肢から消えたわけではないが、だとしても筋の通っていないことが多すぎる。日本で俺を消すのが面倒だとも考えたがそれはないだろう。警察になんらかの圧力をかけて無罪放免にした奴の権力は確かで、そんな野郎が面倒だからなんて理由で海外で始末をつけようなどと、それこそ面倒なことを実行に移すはずがない。

あるいは、ミスター・ベーアの狙いなんて本當はわからないなんて間抜けでもないだろう。だとすれば狙いを知るために、ますます俺の始末をつけるには時期尚早というもので、今度のようなことを考えるはずがない。

何も知らない一般人なら、証拠がないとこんな謀説など鼻で笑うところなのかもしれない。だが、ほんのわずかな違和を証拠がないなどと馬鹿なことをいっていれば、こんな業界では生き殘れない。俺の考えは狀況証拠しかなかろうと、ほぼ間違いはないと見るべきだろう。これまでも、狀況証拠からもかぬ証拠が出てきた例などいくらもある。

武田の野郎は俺からしてもなかなかにポーカーフェイスのうまい奴なので、裏を全て読み取ることまではできないかもしれない。それでも、奴が全てを把握しきれているわけでもないというのも、また確かなことだ。つまり、武田とは違う、別の誰かの思が見え隠れしているように思えなくもないのだ。

武田ともミスター・ベーアとも違う、全く別の誰か。これまでのところ、その人の正を摑むことはできない。だが、これは一応頭の片隅に留めておいたほうがいい。もしそうだとすれば、これまで武田の仕業ともとれなかった、いくつかの點への理由になるかもしれない。となると……。

「何がなんでも、今ここで死ぬわけにはいかなくなったな」

自然とそう口をついていた。どうにかして今、ここを切り抜けなくてはならなくなった。もちろん、これまでだってただでは死ぬつもりもなければ、そもそも死ぬ気すらなかった俺だ。どうしてこんな場所で死ななくてはならないのか、理由などないだろう。俺は一人力強く頷く。

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「言葉の通り、乗りかかった船だ。あんたは必ず助けよう。だが、あらためて俺のいうことには従ってもらうぜ、いいな」

「助かる方法があるのか。ここには船なんて一隻だってないんだぞ」

必死な桜井とは対照的に俺は冷靜で、なにもいうことなくニヤリと口を歪める。

「まぁ、出用の乗りについてはあとで考えよう。とりあえず今は俺たちのことを探しているだろう、連中から姿をくらますことだ」

そう告げた俺に桜井は揺を隠しきれていない様子だ。できることなら俺もここをすぐにでも出したいが殘念ながら、その手段がない以上、ひとまず姿を消すことが最優先だ。そこでまずドッグを改めて見回し、何か使えそうなものがないかを探った。仮にもドッグということで、それらしい道の一つや二つあるはずだ。

薄暗くはあるが、幸いにも白ずんでいることで目さえ慣れれば、どこに何があるのかくらいはすぐに見分けることができる。そんな折に見つけたのは、おそらくドッグに収められていたと思われる船を固定するためか何かで使われていたらしいロープだった。こいつで何かできることはないか、考えをめぐらしつつ、背負ってきた袋からこのロープに見合った道はないかどうかも確認する。

袋から出てきたのはおなじみのGPSに、明なプラスチックのケースにった鉤が一つ、それにいざというときのためなのかボウガンなんかも出てきた。それらに加え出用の予備か、ロープとナイフが三本。これらの道を見て、すぐにひらめいた。むしろ、これくらいしか使い道がないといってもいい。

ドッグで見つけたロープはざっと見て二〇メートルかそこらの長さがある。まずロープの三分の一あたりで切り、長いほうのロープを鉤の先端とは反対側にあるになった部分に通して結んだ。それから切り口から一・五メートルほどのあたりに切り落としたロープを力の限り結びつけ、さらに袋にっていたロープも同様に結んだ。

次にボウガンを手に取ると、セットされてある矢の鏃を取り外し、代わりに今しがた作った簡易の鉤縄を取り付けて固定する。余っているロープはボウガンに絡まないよう流しておく。これで準備はいいだろう。あとは袋からぶちまけた道につけて、結んでおいたロープを手にする。

「こいつはあんたのだ。こうしてに結ぶんだ」

俺の行をなにもいわずに黙って見ていた桜井に、持っていたロープのうちの一本を投げてよこす。怪訝に表をひそめる桜井は、こいつでどうするんだというの聲が聞こえてきそうな顔つきだ。いや、実際にはおおよその予想はついているのだろう。そして、それは當たっていて、俺はボウガンを使って開け放たれた大扉から船の甲板に向かって打ち込むつもりでいるのだ。

桜井に肩をすくめて見せた俺は、もう一本のロープを自分の腹に巻きつけて結んだ。桜井も俺に倣ってロープをに巻いて結ぶ。実際のところ、これだけでは々不安にはなるが贅沢なことはいっていられない。それに桜井に渡したロープは細めではあるが、仮にも船を繋ぐためのものとして機能していたものなのだから、人間の一人や二人くらいの重さには耐えられるはずだ。俺の持ってきていたロープに関しては、すでに実証済みなので問題ない。

さすがに俺たちの通ってきた抜け道に気づいて、海賊どもも後を追ってきたらしい。ぐずぐずはしていられない。俺は素早く外へと繋がる扉のほうへと移し、頭を外へ出して真上を向いた。真夜中だというのに、白い霧のせいでやけにづいて見える空へ向かって手にしているボウガンを向ける。

ボウガンなど訓練のときに使用したとき以來のことなので、まともに扱えるかは神のみぞ知るといった合だが大丈夫だろう。それに今はそんなことをいっていられる狀況でもない。

「やるぜ」

鉤は四になったもので、うまくいけば甲板の手すりあたりに引っかかるはずだ。そうではなくとも、それなりの場所に引っかかるはず……自分でも行き當たりばったりもいいところだと思うところだが、なんとかなるはずだ。

「ま、待ってくれ。まだ心の――」

準備ができてない。そういおうとした桜井の訴えなど意にせず、ボウガンの引き金を引いた。拳銃などと違い、考えていた以上に重い引き金は、さと強さをもった衝撃音を響かせて甲板に向かって飛ぶ。

鉤縄の鏃が甲板に落ちる手応えをじて、すぐにもロープを大急ぎで引っ張る。すると、あるところでロープがピンと張った。それもグラつきもしないから思うに、うまい合に手すりに引っかかったらしい。

「あんたが先に行け」

「なにを……」

いい終える前に、桜井を引っ張って外へ投げる。けない悲鳴をあげて桜井が結んでおいたロープにすがるように抱え込むのを見屆け、俺も外へ飛び出した。

ロープを巻いてある腹の辺りに引っ張られるような、締めつけられるような強烈な衝撃が襲う。一瞬息が止まったのをこらえ、あらかじめ摑んでおいたロープに力をこめて揺れを和らげていく。

まだ揺れていても、ある程度揺れが収まったところでロープをじりじりと昇っていく。しかし、俺一人だけならまだいいが今回は一本のロープに、二本のロープとそれぞれに人間が一人ずつ繋がっている。構造上、二人が息を合わせて昇っていかなければ、巻きつけてあるロープの長さの分までしか昇ることができない。

桜井に著いて昇ってくるよう命じ、甲板を目指してロープを引っ張るようにあがる。細めのロープは摑みやすいというメリットがあるものの、不安定なこの狀況では、たったそれだけではにかかる負擔はとんでもなく大きい。

確実に甲板にのぼっていた俺のが、不意に下に向かって引っ張られる覚があって下に視線をやった。心配していたことに、桜井が途中でロープを摑んだまま宙を蓑蟲よろしく揺れているのが見える。ここから判斷するに真下を見てしまい、途端に足がすくんでしまってけなくなったのかもしれない。高所にいる人間が陥りがちな現象だ。

「下を見るんじゃないっ。上を見るんだっ、上を見ろっ」

檄を飛ばす俺にも反応しないところを見ると、やはりそうだった。耳にってきてはいても、それを脳がうまく処理できていないのだ。俺は激しく舌打ちし、せっかく昇ったロープをるように降りる。素人には、しばかしきつい洗禮だったのかもしれない。

桜井のところにまで降りた俺は、こちらがそばまでやってきたというのに放心し気付いてもいない桜井の頬を二度三度はたいて気を保たせた。

「しっかりしろ。下を見るんじゃない。上だけを見るんだ」

「ぇ、あ……」

しは意識を戻しつつある桜井に、もう一度頬を張って完全に意識を戻してやる。ようやく完全に意識を取り戻した桜井を先にいかせ、俺は後から再度ロープをよじ登っていく。すると、ようやく下を男どもが騒がしくドッグに押し寄せてきた聲が聞こえた。

その聲に反応して一瞬下を見た桜井に、顔を歪めて早く昇れとジェスチャーして見せる。小さく何度も頷く桜井が昇っていくと、桜井の手が甲板についた。あとしだ。そう安堵しかけたとき、下から小汚い怒聲が響いてきた。最悪なことに連中に見つかってしまったのだ。

「早くあがれっ」

のろのろと甲板の手すりに手をかけて上がろうとしている桜井にび、スパートをかけてロープをあがる。先に甲板にあがった桜井は、俺が甲板に手をやったところで引っ張り上げようと腕を摑んで持ち上げる。それに呼応して俺は、全に渾の力を籠めてを甲板まで押し上げた。

「さぁ、後はここから出するんだ」

甲板に腰を落ち著ける間もなく、男を促し結び付けてあるロープをナイフで切ると、船にのぼったところを目指して駆け出した。ここにはほどなくして海賊どもが大挙して押し寄せてくるに決まっているのだ。

出艇には、一仕事終えて戻ってきた連中が使っていた小船を使うことに、甲板へ逃げようとしたときに決めていた。こんな海賊船で追ってこられようものなら一たまりもないが幸いにして、今夜は濃霧が出ている。どこまで可能かは知る由もないが、多の時間稼ぎくらいはできるはずだ。

「こいつだ。こいつに乗って逃げるぞ」

船に上船したときと同じ場所にやってきた俺たちは、奴らが村の襲撃の際に海岸までやってくるのに使ったボートの一つを、機械を使って外へとせり出す。それなりの裝備をもっているこの船のことだから、舟を降ろすのに完全に手というわけではないと踏んでいた俺の予想通り、すぐ脇にクレーンの上下降させるためのボタンがあった。

考える必要もなくそのボタンを押すと、甲板の外へせり出しているボートが徐々に下降し始めた。素早く手すりを乗り越えて、ボートへと飛び移る。俺に続いて桜井も悲鳴を噛み殺しながら飛び移り、ボートが大きく揺れる。続けてボートの後方へと移し、すぐにでもエンジンをかけられるようにしておく。

確実に下降するボートは、上船の際には助かったその下降スピードは心憎いくらいに遅く、水面まであと三、四メートルというところで痺れを切らした俺はモーターのエンジンをつけた。辺りにエンジンがかかって空回りするスクリューの音が響く。同時に、またもや上からその音に気付いたらしい連中の怒聲が聞こえた。

まずい。このまま上昇ボタンを押されようものなら、後一歩というところにまできたのに全てが水の泡になってしまう。俺は瞬時に思いついたことに躊躇いを覚えたものの、ここで奴らに捕まってしまうことほどあってはならないことだと判斷し、攜帯していたワルサーを抜いてボートの前方と後方にかかっているクレーンのロープに銃口を向ける。

橫にいる桜井はそれこそ何をしているのかと眉をひそめたが俺は、振り落とされないようしっかりとボートを摑んでおけとんだ直後、クレーンの吊り縄目がけて弾丸をぶちこむ。

ボート前方の吊り縄が弾け、真下に向かって船が九〇度に傾こうとする瞬間に、続けざまに後方の吊り縄を吹き飛ばした。急激に傾いた船理法則に従って大きく揺れながらも、水面へ斜めに落下する。その運によっても同時に落ちて、著水した舟の床に打ちつけてしまう。

打ちつけた痛みに苦悶のき聲を噛み殺し、すぐにボートを縦すべくモーターのところにらせる。桜井は強くを打ちつけたのか、背中を押さえて悶えしている。

しかし危険を冒した甲斐があったというもので、舟はうまく著水したらしい。低いうねりをあげて水面を進みだしていた。俺はポケットにしまいこんでいたGPSを取り出して、南南西がどちらかを素早く確認する。武田の部下二人は、出後は南南西を目指して進めという話をしていたのでそれに従うつもりだ。

おそらくは、仲間が救出しにくるという算段なのだ。そうでもなければ、こんな海のど真ん中で進むべき方向すらもわからずにさ迷うことになってしまう。それでは本末転倒というものだろう。

をかがめつつ船のほうを伺う。數人の怒聲が響いた直後、ボートの橫に鋭く水面を著弾した音がして焦る。どうやら、事態を早くに察した奴が銃をぶっ放してきたのだ。できることなら、こちらからも応戦したいところだがそれは無理な話で、なんの裝備もなしにこんな真夜中の濃霧の中から索敵し倒すことなど不可能だ。

それよりも今はしでも早くこの水域から離れ、連中から行方をくらますことが先決だろう。逃げ切るチャンスなど、この濃霧が出ている間に限られているのだ。

俺はそう思い、GPSを頼りにエンジンを橫目で流し見る。このモーターでは決して早く進むことはできない。それがどうにも恨めしい気持ちになったのだ。けれども、こちらの有利な點といえば小回りが利くということがあるので、なんとかできないともいえないというのが俺の考えだった。

かすかな期待に応えてくれと心で念じ、再び後ろを振り返ってまだ船がいていないかを確認する。よし。まだいていない。そんなこちらの気持ちに応えたわけでもないのだろうが、ボートはだんだんとスピードをあげ始め、ついには視界から連中の船の姿が消えた。うっすらと、船の影が見える程度でしかない。

連中も統率がきちんと執れていれば、もっと早く船をかすこともできたろうが今は、その統率を執るべき人間が不在なのだ。これもしは時間稼ぎになる。一分一秒でも長く連中をかさず自分たちが早く移すること。それに全てがかかっているのである。

背後からしていた海賊たちのざわめく聲は、もう聞こえなくなっていた。しでも時間を稼げればという思がかなったのなら、これ以上の功績はまない。桜井を救出し、船から出した後は南南西へ向かって逃れること。たったこれだけの任務を確かに遂行したのだから、ひとまずは良しとすべきだろう。

それに焦燥に仰がれつつも反面で、俺はなんとかなるような気もしていたのだ。アバウトなメッセージの裏を返せば、この出劇の片棒を擔うべく任務を帯びた奴がいてもおかしくはない。船に潛するために用意された小船などでは、とても連中からの追撃をかわすなどできないことくらい、武田のエージェントたちにだってわかるはずだ。

武田にしても、今回の渡邉政志の背後関係にしても何かを知りたがっている様子だった。となれば、救出に関してあまりにおざなりといわざるを得ない今回の任務に、なんの保険をかけていないはずがない。政志の重要な何かを握っているらしい桜井に死なれては困るはずだから、別の出経路があって然るべきだというのが俺の目論見だった。

濃霧の海原にトントンと頼りなげなモーター音が響く。桜井はをどんもり打ってからというもの、船底に仰向けになったまま両の目元を左手で覆っている。騒がれないだけマシだとは思うが、ここまでただの一言も口を開いていないことを考えると死んでいないだろうかと、つい聲をかけていた。

「おい。生きてるかい、桜井」

「ああ、なんとか」

互いに顔を向けることもなくそう口にしていた。桜井の聲は、やけに無気力といっていい弱々しいもので、どこか苦しげだった。もしかしたら、先ほどの強制著水でを打ったとき、どこか打撲ないし骨折したのかもしれない。しかしながら、こちらには今それを心配するつもりなどなく、むしろ好都合だった。

「ところであんた、なぜ海賊なんぞに捕まったんだ」

「知るもんか。シンガポールの港で社長を待っていたら、突然連中に羽おい締めにされて、ボートに乗せられたかと思えば、海の上であんな船の中に閉じ込められたんだ。私のほうこそ理由が知りたいよ」

のままに言葉をぶつける桜井の様子からは、狀況に噓をついているようには思えない。つまり、桜井は意図せずそれらを知ることになったと考えるべきなのかもしれない。だとすれば、こちらもやりやすい。

「あんたが社長に間違われたという可能は」

「ない……と、思う」

「なぜそう思う」

「私を拐したのは三人だったんだが、ボートには一人、他にも乗っていて流暢な日本語で連れて行くよう命じた人がいた。だからそいつに訴えたよ。私は社長じゃないって。それも何度もね」

しかし結果はもうご存知の通りだ。他の連中はスラングがひどくはあったが、確かに英語を喋っていた。流暢な日本語を喋ったというその人が、取り逃した例の船長である可能が高い。當然、桜井のんだ意味もわかるだろう。

はじめは単なる拐かとも思っていた今回の拉致事件だけども、これでますますそれだけではないという疑が強くなり、もはや疑は確信になりつつある。十中八九、連中は桜井を狙っていたと見ていいだろう。俺が続けた。

「連中は、はじめからあんたを狙っていた、こう考えるのが筋というわけだ」

「はじめからって……私がなにをしたっていうんだよ」

桜井がそうんだのを聞き、ついの端が吊りあがるのを我慢できなかった。

「単純な話だよ。連中は、社長がシンガポールでなにをしたのか、なにをするためにシンガポールを訪れたのかが知りたいのさ」

俺がそう告げると、同時に桜井はどういう意味だとを起こした。

「その通りの意味さ。はじめから狙われていたというのなら、それくらいしか理由はないだろうよ、違うか。あんたの社長が行った契約に理由があり、容を知った連中がそいつしさに狙いやすそうな書であるあんたを狙った、どこにでもあるような話じゃぁないか」

くつくつと皮げに笑って俺はさらに続けようとしたところ、薄暗い夜の景に浮かぶ桜井の訝しむ表に、聲を止め、見つめる先へと視線を向ける。視線の先には、ここにあってはおかしいものがあったのだ。俺はそれを見て、つい言葉を発していた。

「一どういうことなんだ」

「わ、わからないよ、私に……」

どういうことなのだ。前方に濃霧にうっすらとそのシルエットを浮かばせている船があるのだ。進むにつれ、その全容がわかると、それが嫌な予のした通り、先ほど出したはずの海賊船であることが否応なしに理解することができた。この事実がますます俺を混させる。つい、それもほんの一〇分も経っていない時間で、俺たちの後ろにいたはずの船がどうしたって今目の前にいるのか。

を噛みしめる。きっと連中は俺たちが見えなくなった直後に、この海域に先回りした。考えられにくいがそれしか考えられない。考えてみれば不可能な話でもないのだ。この辺りは奴らにとってみれば庭も同然、テリトリーなのだ。こんな濃霧の夜だって、なんらもの珍しいでもない。

急いでモーターを作し進行方向を変えようと試みるも、無駄だった。さすがの連中も馬鹿ではない。こちらのきを監視している役の人間がそれを的確に指示し、徐々に船が旋回し始めて進むのを遮ってくる。

(これでは打つ手がない)

こうなってしまえば後はもう海に飛び込むしか手はない。

しかし、それは躊躇われた。俺一人なら問題ないが、桜井も一緒というのがどうにもその気を削いで仕方ない。こいつが真夜中の海で遠泳ができるのか、仮にできたとして海賊連中にとっ捕まりはしないか……そうした様々な思考をめぐらせるだけで、海に飛び込むという選択はすぐに消えた。

かといって、このまま連中に捕まるのも癪だった。どうするか……俺は、ここまで思いの外散発していたワルサーのグリップを握り、最後の手に出るつもりだった。もはや、それくらいしか手は浮かばなかった。

今回の任務は失敗……そんな考えたくない言葉が脳裏をよぎる。いや、違う。はじめからこれは仕組まれたものなのだ。武田の奴は俺を危険視していることから、沙彌佳が絡んでいるなどとのいい餌で釣って、俺を始末しようとしたのだ。きっとそうだ。そうに違いない。

そのためにわざわざこんな大掛かりな舞臺を作ったのも、俺を怪しませないため。格のひん曲がったあの野郎ならそうしたシナリオもなんのそのだろう。俺を嵌めるためなら、そんなことなどお安い用なのかもしれない。

「こうなったらもう奴らとやり合うしかないが、ぎりぎりまでは逃げ込めるだけ逃げ込むことにする。あんたはボートの縦を頼むぜ」

「私は舟の縦なんてしたことないぞ」

「だったら連中に蜂の巣にされて死ねばいい。俺はそんなのごめんだ。したことあるかないかの問題じゃぁない。やるかやらないかの問題だ」

顔をぐっと寄せて強くいった俺に、桜井はごくりと生唾を嚥下させ何度も弱々しく頷くと、いそいそと俺から縦を引き継ぐ。

近づいた船の上から、先ほども憎たらしい罵聲をあげていた奴が再び顔を覗かせていた。うっすらとだがその雰囲気から、勝ち誇った笑みを浮かべているような気がしてならない。

まずは奴からだと、握ったグリップを今一度握り直して覚を摑む。銃の飛距離と能を考えると、ここから上への撃は、奴の薄汚い面への被弾はせいぜい五分五分といったところだろう。それでも失敗は許されない。

見たところやつが連中の一応のリーダーとなっているようだから、ここで奴を片付けることができれば、再び逃走の時間がかせげるかもしれない。それだけでも、やってみる価値はあるのだ。

両者の船がぶつかる。當然、向こうの船はびくともしない。こちらが橫に大きく傾き、いていたモーターが一瞬中空に持ち上がって空回りする音がしてすぐにまた水中へ沈む。これにより舟の縦は困難になり、その場をいたらぬ方向へ進行しようとし始め、それをなんとか制しようとした桜井が縦幹を摑むが、努力も虛しく結局その場を一回転しただけだ。

奴がこちらの様子を見て嘲りを含んだ口調で周りにいる他の連中にも指示し、捕獲するようぶ。奴がこちらから視線を外した瞬間、奴の頭部めがけて引き金を引いた。

奴の顔が甲板の向こうに引っ込む。やったか……手応えも今ひとつであることから、奴が頭に風をあけて倒れたのか覚では判斷できない。この間にも桜井は舟を立て直そうと必死だ。しかし、その都度、船のどこかが連中の船にぶち當たり大きく揺れる。

當たっていてくれ。この俺が神頼みにも近い祈りをこめたにも関わらず、野郎は薄汚い面をこちらに現した。なんということだ。弾は奴の頬を掠めただけで、息のを止めることはかなわなかったらしい。

こうなったらもう自棄だ。再び銃口を向けようとした時、にわかに連中のきが慌しくなった。野郎もそれに気付いて覗かせていた顔を引っ込める。どうやら、巨大な船を挾んだ反対側で何か起きたようだった。

すると、再び連中がこちらに顔を出して今度は、卑怯だなんだと騒ぎ出した。なんの話だとぶ前に、俺は反的に銃口を奴の顔面にぴたりと向けて、次の瞬間には引き金を引いていた。薄暗い闇夜の中でも、ぱっと黒いものが散ったのが見えた。今度こそ、確実に奴の息のを止めることができたはずだ。

それはそれとして、やつらが突然騒ぎ出したのはなんなのか。不思議に思って甲板のほうを見上げたところ、一瞬の靜けさの直後に船上が発したのだ。

「ひぃ」

俺に釣られて上を見上げていた桜井が反的に頭を守ろうと、両手を真上にかざす。俺も似たようなものだが、それでもは正直で、すでに桜井を押しのけて縦幹を握ろうといていた。発によって連中の船が揺れている。その振がこちらにも伝わってくる。

とにかくこれはチャンスだ。俺はなかなか言うことを聞かない縦幹に喚きちらすと、意をけてか、ボートはようやく思うように水面をり出した。まだ連中はき出していない。

先端へ向かって船底を沿うようにボートはき、先端を過ぎたところで一気に旋回させ反対側へと出る。一なにがあったのか、どうしても知っておきたかったのだ。袋小路になっていた狀況を破った”それ”を見ずにはいられない、野次馬もあったかもしれないが。

目測で、およそ四、五〇メートルといったところだろうか。そこに、なにか水中作業船らしい影があり、そこから火花を散らして何かが発される。

されたものが巨大な船の橫っ面にぶち當たって弾け、黃や橙の炎を巻き上げる。ロケットランチャーだ。そう思ってその様子を見つめていたところ、再び作業船からランチャーの弾が発され、今度は連中の舵室の辺りにぶち當たり、再び音をあげる。

何者かは知らないが、間違いなく俺たちを助けてくれている。それだけは信じてもよさそうだ。急ぎボートを作業船へ向かわせる。頼りないエンジン音が馬力いっぱいいっぱいに、しでも俺たちを屆けようと踏ん張る。その間も、二発三発とロケットランチャーの弾が発され、次々に音をあげながら炸裂し船を炎上させていく。

これではもう連中も反撃のしようもないだろう。見れば、船の橫っ面に開いたから海水が流れていっているのも確認できた。生き延びることができるとすれば、連中も反対側の海へ逃げ出すしかない。もう俺たちを追うことなどできないだろう。

ようやく作業船の橫にボートをつけることができた。すると、そこで発され炸裂していた発音も消え、すぐに中から思いがけもしない人の顔が現れる。俺は現れた人の顔を見て、思わず凝視した。だ。しかし薄暗かろうが、そのの顔を間違うはずがない。

「お、お前……なんでここに」

「それよりも早くこっちにきなさい。逃げるわ」

――藤原真紀。窮地を救ってくれたのは、相も変わらず憎たらしい口の利き方をした小生意気な、あの藤原真紀だったのだ。

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