《いつか見た夢》第98章

ふわふわ浮かぶ覚にがたゆたっている。これまでも何度となく験してきたこの覚に、どうしたわけか懐かしく安らぎすらじるようになっていた。

(またいつものあれだ)

ぼうっとした頭の中でそう思う。流れにを任せた俺の意識は、遠くから聞こえてくるだろう聲に耳を澄ます。

……が、いつもなら聞こえてくるはずの聲はいつまで経っても響いてくることはない。あの懐かしくも、どこか怨嗟を含んでいるかのような責める聲が。

いつもとの違和を覚えながら流されていく俺の意識に、突如として音が響き渡る。

なんなんだ、これは……。

意識の中に混沌として響く音は何かを訴えているようにも、怒りのをぶつけてくるかのようでもある。それとも、それら以外の別のものも含んだ、とても一言二言では言い表わせることなどできない、激しいの波だ。

それが一誰のものなのか俺に知る由はない。けれど、ただ耳を塞ごうにもその波は意識に広がる波紋であることを理解している俺に、そんなことができるはずがない。

『……いけ』

なんだ。今なんといった?

『行け。行くんだ』

行けとは、どこに行けばいいというんだ……。

『ここはまだお前のくるところではない。行け。お前にはまだやることがあるはずだ』

意識に音が響いては高速ですり抜けていく混沌とした中、その言葉だけがはっきりと聞こえ瞬く間に通り過ぎていった。そして俺の意識はその言葉の通り、現実へと続く暗い闇のへ向かって引き延ばされていった。

ずくずくと疼く鈍い痛みにも似たものに意識が呼び戻される。全がひどく打ちつけられたような気にさえなるが、よくよく意識を強引にはっきりさせるとそうではないらしい。

自分の置かれている狀況を確認するために首を回してみれば、なぜ疼痛とうつうが起きているのかも理解できた。俺の四肢は手首足首のところでがっちりと拘束されていたのだ。その隙間は一ミリどころか、ほんの數ミクロンとなく、俺一人の力ではこの太く頑丈そうな手足の拘束を外すことなど不可能だろう。

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しかも、この拘束臺は橫ではなく縦、もっといえば斜めになっていて上が斜め四五度に傾いている。このおかげで手足が圧迫されてしまい、全はむくんで果てには痺れすらも通り過ぎて痛みすらなくなったようだ。結果、これが全の筋にも変調を及ぼしているのだろう。

この狀況を知るだけでもまどろんだ意識は簡単にぶっ飛ぶものだが、周囲の環境はこちらの予想を超えたものだった。

「……ちっ、なんだというんだここは。この狀態じゃぁ、まるで実験そのものじゃないか」

そう、周りは思わず近未來的なラボを連想させる場所で、つるつるに磨かれた床と壁は白く、質な壁の板をり付けるための処置なのだろうか、所々に青く長い出っ張りが縁取られてある。真正面には唯一の出り口らしいドアが見られるが、それも果たして本當にドアとしての機能があるのか見當もつかない。

がらんとして音すら聞こえないこの空間には俺以外の人間はおろか、この拘束臺以外の裝置や道は見けられない。この世にある雑音の一切を遮斷したかのような空間は、あまりに非日常すぎてこちらの五を狂わせる。誰かがいったものか、人は音があるからを認知できるらしいが、確かにそれもあながち間違いではないかもしれない。

「くっ、ぁあ」

俺はなんとかきしようと四肢をかしてみるが案の定手足の痛みがひどく、まともにかすことなどできなかった代わりに、の奧から軋むような掠れるき聲がもれるだけだった。寢ているわけでもなく、かといって立っているわけでもない中途半端な姿勢は予想以上にを責めてくるものらしく、手足の指先すら自由に曲げることが葉わない。なんとも不自由で厳しい狀態だ。

気にらないがここは一旦落ち著いて、どうしてこうなったのかを整理することにする。確か俺は真紀にいわれた萬屋から報を買って、ジョン・マクソンの屋敷に潛することにした。たまたまマクソンが後援する連中の催しに出席するため、その日は屋敷が手薄になるためだ。

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確かにマクソンはいなかった。実際にマクソンが屋敷から出て行くのをこの目で確認したし、予想通り屋敷にボディガードらしい連中の姿もなかった。しかしそこで出會ったのは、ライアン・トーマスというなんとも醜い矮人だった。奴は人格から何から全てが歪んでいて、とてもまともな本とはいい難い奴だ。

ライアンは日本で行われていたタイムワープの実験を引き継いで、シンガポールにそのための研究施設を建造するためにやってきた。このために様々な裏工作を行っているが、奴にとってそれは決してタイムワープのためなどではなく、自の研究……といっていいのか定かではないが目的のため、それを引き継いだ変り種でもある。

俺はそのライアンと話している最中に……。

「そうか、思い出したぜ。俺は奴に麻酔を打たれてこんなところにきたのか」

事前の経過を思い出し、苦々しい気分になって舌打ちする。奴は黒盡くめのSPをつけていた。當然この連中が侵者の俺に対して何も講じていないはずがない。だというのに、そんなことを完全に意識の外にやっていた自分の間抜けさを呪った。

これまで幾度と危険な目に遭ってきた俺がいうのもなんだが、今回は明らかにやばい。いや、これまで幾度もの危険に出會ってきたからこそわかる。今回だけは非常に危険であると、直が本能が告げてきているのだ。ここには生きた人間ですら単なる設備か何かにしか思わせない、何かがある。ライアンのちび野郎も、明らかに興味はもうないといった合のニュアンスでその場を去ろうとしたことからも、それは間違いないとみていいだろう。

そうはわかっているというのに、この様だ。逃げようにも、手足の指をかすことすらままならないこの狀況では、余計に焦燥を煽り、逃走手段を考えさせる気すら起こさせなくさせる。それがわかっているからこそ、拘束した奴もこんな稽な代に俺をり付けたのだろうが。

それでもどうするべきか、なんとか知恵を振り絞ってみせるがどうシミュレーションしようとも、この手足の狀態では結局は同じであると結論づいてしまう。どうにかしてこの狀況を打破しなくては……そう思ったところ、真正面にあったドアらしき壁が上に開いて、向こうからあの気にらない矮人が姿を現した。

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「やぁ、目覚めたようだねクキ」

「ああ。最悪な目覚めだがな。それで今何時なんだ」

俺は努めて冷靜にそういった。こんな狀況ではなんともおかしなやり取りかもしれないが、至って真剣だった。危険な狀況だが、とにかくそれをしでも先延ばしにすることが、今のところ俺が思いついたせいぜいのことだ。

「君はおよそ六時間ほど眠っていたよ。今は夜の、そろそろ日付が変わろうとする頃だ」

「そうかい。あんたが俺を眠らせてこんなところにまで連れてきたってわけだ。悪いが俺にはこんなところは興味ないんだ、さっさと解放してくれないか」

「くくっ、殘念ながら君を解放することはできないな。”あれ”を見た者を生かすことはできないんだ。つまり、君は今ここで死ななければならないということです」

勝手な言い分だ。々といいたいことはあるが黙っておく。そして予想通り、この狀況から導き出されるのはそういうことなのだということがはっきりした。

「俺を解放しないとお前も痛い目に遭うぜ? そうなりたくないなら、さっさと解放しておいたほうがのためだ」

もちろん、そんなのはったりだがしでも生き延びる可能が広がるのなら、やるべきことはやっておくべきだ。俺は本気でそうなるという意思を見せ付けるために、ニヤリとの端を吊り上げていう。

「やれやれ、そんな見えいた噓をいっても無駄ですよ、クキ。君に仲間らしい仲間などいないことは、始めからわかっていますから。せいぜいあの狐一人がいるくらいだ。その彼も我々を見つけることなどできはしないでしょうがね。もっとも彼、マキといいましたか。マキに君を助ける道理もないでしょうがね」

狐……ライアンの発した言葉に、俺は吹き出してしまいそうになった。まさか奴の口から會ったこともないのことを狐と呼ぶとは思わなかったうえ、おまけにあの狐と呼ぶそのが一致してしまったことが、なんとも稽で仕方なかったのだ。

「なにがおかしいんです?」

「いいや、気にしないでくれ。ところで解せないことがある。あんた、なんで真紀のことを知ってるんだ」

「ふふっ、私が何も知らないとでも? 先ほどは適當に君の気を引いておくために他もない會話をしていましたが、君がある組織の工作員であることくらいはとっくにこちらの報網に引っかかってます。もっとも、組織も巧妙にカムフラージュされているようで、実態はなかなかに摑めていないのが実ですがね。

それでも何人かの工作員の顔が割れているのは間違いない。もちろん、君もその例外ではないというわけです。だってそうでしょう? 君が數年前までロンドンの地下世界に生きていたことくらいのことは、我が同胞たちの調査によってわかっています。裏ルートを使って、ロンドン出後は日本へ逃げ延びたことも」

やはり向こうでの向はとっくにバレていたわけだ。別にライアンがどう告げたところで別に驚くことはない。思い出されるのはベケットやボネットのことで、それにあのヘヴンズ・エクスタシーのことだ。あのおかげで俺は再び日本に戻ることになる一つの要因にもなったわけだから。

「我が同胞たちは優秀ですからね。君がデニスを経由して出することくらいはわかっていました。なんせ、君の國を手引きしたのは彼なわけですから」

「判っていたならなんでそのときに俺を逮捕しなかったんだ。あんたのいう同胞っていうのはMI6のことだ、そうだろう。確かにあの連中なら俺一人くらいの行を監視することもできるだろうさ。行がわかっていたなら當然、出ルートもわかっていたわけなのにどうしてなんだ」

「勘違いしてもらっては困るのでいっておきますが、君は今まで何者にも屈せず、なにもかも一人でやってこれたのは自分の力だと思っているがそれは違う。君は単に泳がされていただけに過ぎません。

君は覚えていませんか? どうしてフランスはパリを離れ、ドーバー海峽を渡ったのか」

いきなり意味深なことをいい出したライアンの言葉に戸いを覚えながらも、その経緯を思い出す。あれは確かパリで、ある依頼をけて実行しようとしたところ、いざその日になって突然奇襲されたことが発端だった。

「思い出したようですね。あのとき君がその手にかけた者が実は偵だとしたらどうしましょう」

「なんだと」

まさか、あのとき奇襲した奴がそうだというのか。いや、あれは別の……。

「あなたがパリで行おうとした依頼は、そもそも私たちが行わなくてはならないものだった。直接であれなんであれ、ね。だというに君はそれを土足で踏み込み、話をややこしくしようとしたんです。そこで同胞がフランス當局にその事実を流したというわけです。

そして君は襲撃者を見事に撃退したが、フランス當局から追われるにもなった。それでフランスを出しロンドンに流れてきたわけですよね? しかし、このとき當然君の行は現地の協力員や工作員たちに監視されていたわけですよ。デニスに接を図れば、彼の潛伏先もわかるかもしれない、そんな理由もあって。

案の定君はデニスの潛伏先を行で教えてくれることになったのですけれど、やはり向こうはそれすら読んでいたのか、君と接した直後に再び行方をくらましましたがね。あと一歩だったのに殘念ですよ。君という組織の工作員、なかばテロリストとしても指名手配されかねない行を起こしているにも関わらずそうされなかったのは、それ以上の大を釣り上げるためだったというわけですね。

同時に君にはこれ以上王陛下の國で好き勝手にされては困るのでご退場願おうかとおもっていたのですが……まさか、デニスが君を逃がすための算段を取り付けていたとはさすがに思わなかったですがねぇ」

ライアンの話を聞いて納得した。確かにロンドン出の直前にデニスと會った際、彼が日本に戻るべきだと進言したのは、そういう理由があったからなのだ。それも自分の知らないところで、すぐ後ろにまでそれが迫っていただなんて知らなかった。なかばいわれるがままな部分もあったことは否めないが、結果としては正解だったというわけだ。

しかし、まさか俺がロンドンにいたとき、そんなにも早い段階から目をつけられていたなんて思いもしなかった。思えば、ロンドン出の前後に幾度か尾行されていたことがあったが、あれはこいつらの差し金だったのだ。全く、普段真紀がいうようにもっと考えて行しなければ、この先本當に命取りになりかねない話ではないか。もっとも、今がその狀況なのだが……。

「なるほど。俺はあんたらの監視下で生かされていたというわけか。それは痛みるね。ところで話は変わるが、あんた”あれ”のこと、本気で信じているのか」

これ以上俺の生き死にの話をしていたら、この野郎はすぐにでも死刑執行の宣言をしかねない。そこで時間稼ぎということも含めて話の流れを変えるべく、疑問だったことを聞いてみることにした。こいつがなにかに取り憑かれた狂信者であることは確実なんだろうが、どうにもそれが本當なのか気にならなくはない。

「”彼”のことですか。ええ、もちろん本気ですよ。だからこそ、幾人もの人間を犠牲にしなくてはならなかった。これも”彼”を蘇らせるためのことですから、仕方ありません。”彼”が世に顕現すれば、彼ら彼らもきっとそうなって良かったと思うことでしょう」

うっとりとした気の悪い笑みを浮かべるライアンの表を見て俺は、心底こいつが狂っていることを再確認した。鬼畜、外道、気違い、狂人……こんな程度の言葉では、こいつの本を言い表すことなどできはしない。この腐った世の中、唾棄すべき人間がいることは事実だが、こいつはその中でも際立っている。別に俺は善人などではないがそれでもこの野郎を前にして、怒りのが沸き立たせない奴はどうかしている。

今すぐにもこいつの首を思い切り摑んで締め上げてやりたい衝に駆られる。じわじわと力を加え気道を潰していき、真っ赤になった顔でひゅうひゅうと音を立てて、慘めな命乞いをしたってその力を緩めることはない。最後は頚骨の砕ける音をこいつ自に聞かせてやり、ゴミ屑のように打ち捨ててやる。

いいや、それだけじゃない。それこそ両方の目玉をくり貫いて、舌も元から千切りとってやってもいい。そして生きたまま切りにしてやって何度悲鳴をあげようが止めてやるものか。俺は、こいつの存在をこの世から消し去ることになんら罪悪はない。こんな奴は死んで地獄に墮ちてもなお、地獄の底で永遠に苦しみ続けるべきなのだ。

なのにこの忌々しい拘束のせいで、それが行えないなど屈辱というほか言葉が見當たらない。

「おや? どうしたんです、そんなに顔を赤らめて。そんなに”彼”を取られるのが悔しいのですか」

引き笑いに近い聲で笑う矮人の言葉がさらに、俺の怒りのボルテージを上げていく。”あれ”をどう思おうと勝手だが、そんな下らない狂気じみた猟奇的自己満足のものに、自分がそれと同じ目線で見られていることに俺はなんともいえない不快と嫌悪がこみ上げたからだ。

「さて、お喋りはこれまでです。今から君がけるべき実験の容について説明しておきましょうかね」

「実験だと。ふざけるなっ。俺はお前の下らない実験になど付き合ってる時間はない。さっさと解放しろっ」

今すぐにも死刑を始めそうな雰囲気に焦り、腹の底から聲を大にして喚き立てる。しかし、目の前のライアンは人を小ばかにしたような癪に障る笑みを浮かべながら、首を振って肩をすくめる。

「やれやれ、往生際が悪いですよ、クキ。いくら”彼”が私の獨斷によるもので、かつ國益にならないものだとしても知りすぎた君を放っておけるはずがないでしょう? 君を始末するのにどんな理由がいるか、當然だ。さすがに私といえど、私一人の研究のためにこのようなことが本國に知られようものなら、逮捕されないとはいえません。

なに、君は栄なことにただ始末するわけではありません。ちょうどよい機會ですから、君には私の研究の実験臺になってもらおうと思います」

「ふざけるなっ。お前の実験臺になどされてたまるかっ。さもなけりゃお前を殺すぜ、いいな、絶対だ」

「くくっ、大変元気でいいことです。そうでなくては君を実験に使う意味がない。実をいうと、君には新しい薬の被験者になってもらいたいんですよ。構いませんね? まぁ、たとえ拒否したところで結果は同じですけれど」

ライアンの野郎は頭にくる下卑た引き笑いで、背後に扉に向かってってくるよう言い放つ。するとライアンのときと同じように扉は上に向かって音もなく開き、四人の男ってくる。男三人にが一人という組み合わせで、男たちは先ほど屋敷にいた黒盡くめと同じ黒いスーツにを包んでサングラスをかけている。

問題はのほうで、まるで囚人といった合の裝を纏っていた。クリームのその服を著たしい黒髪をボブカットにしていて、囚人服のような裝から出た生足は足だ。そのはきめ細かそうで、その太ももに思わず目がいってしまうのが仕方のない気を漂わせていた。

頭から被るだけという簡素な服を著せられて、その橫と後ろについた黒盡くめの男たちに連れてこられたように思われた。しかも両目は皮製の目隠しがされている。

「君には、今から自分がどうなるかを見てもらおうと思います。彼にはその見本になってもらおうと思いましてね。さぁ、始めなさい」

そういうライアンが告げると黒盡くめの男たちはの腕を摑んで袖を捲し上げ、背後にいた男が手にしていたアタッシェケースから一本の注を取り出しておもむろに曝け出されたの腕に打った。

「ひぃ」

の小さな悲鳴が上がると、幾ばくとしないうちに打たれた薬の効果によって、が徐々に悸の激しい呼吸をするようになりだした。

「ふふふ、これで彼も、私の可いお人形さんだ」

お人形……その響きはどうにも禍々しい響きを孕んでいて、この矮人の狂気が滲み出ている。

「ぁっ、ぐうぅっ……がはぁっ」

激しい悸を繰り返していたが不意にから何かを吐き出すような、とても呼吸とは思えない嫌な吐き出し方をすると、一気に容態が急変する。がくがくと腳が他人の目にみても笑ってくるのがわかると、それはあっという間に腰へと肩や腕、さらには首へと伝染していく。

「かっ、かっかっ……」

もはや息すらできないのか、の口からはどこから出ているのか判斷のつきようもない音をらし、地べたにへたり込み四つん這いになった。それでも全を歪ませるような痺れは納まる気配はなく、四つん這いになることすら許さないようだった。

(いや、そうじゃない)

激しく痺れていた作は、もはや狂ってしまったようにも見えるほど震え、激しく、小刻みに、それでいて高速に全のいたる部位が上下左右、橫も縦も関係なしに震え続けている。その様は、人間というよりも誤作を起こした人形のようにも思えるほどだ。いいや、人形であってもこんな奇妙な作など起こすはずがない。これは明らかに異常だった。

「おいライアン、このに何をしたんだ」

「なに、それはできてからのお楽しみです」

さらにおかしなことに、黒盡くめの男の一人がを記録にするためなのか、その様子を映像として記録している。肝心のライアンはといえば、の様子に上気した表で見つめていて、明らかにしていた。羽織った白の下から覗かせる下半に、小さくテントが張っているのもはっきりと見てとれる。

四つん這いの姿勢になっていたは、かろうじて支えていた腕から力が抜けてしまい、ついには顔やを床に這いつくばらせる。を高く突き出し激しく震えている様は、エロチックなのに妙に稽でもあった。しかも拘束から覗かせた腰には何もつけておらず、から門まで丸見えだった。拘束の下は何もつけていようだ。

「くくくっ、そろそろでしょうかね」

ライアンがいうが早いか、それは突如として起こった。

「かっ……あっ、がぁぁああっ」

の様子が突然変化する。両の腳が投げだされ、無間がわになったは腳を蛙かなにかのように、ばたばたと床を何度も掻いてはその場を転げ回りだした。もがき苦しむうちに、は苦痛から逃れるため床に頭をこすりつけるうちに、つけていた目隠しがずれ現れた素顔に俺は驚愕する。

「松下……薫、なのか? ライアン、こいつは一どういうことなんだ」

「ああ、目隠しが外れてしまいましたか。くくくっ、まぁいい。

そう、彼は松下薫ですよ。松下薫には罰として、私の実験に協力してもらうことにしたんです。なに、しばかし危険もあるが、私の理論が正しければ彼が死ぬことはありません」

「そういうことを聞いてるんじゃない。なんで松下がここにいるんだと聞いてるんだ」

俺がわめくとライアンはやれやれといったように肩をすくめて説明し始める。

「だからいってるではないですか、罰をけてもらうんですよ彼にね。もう気付いてるでしょう? 君と彼を引き合わせたのは私なんですよ。君がO市で松下と出會うことができたのは、私の計らいなんです。思いもしない再會を裝って、君をシンガポールに連れてくるよう彼に任務を與えたというわけです」

してやったりと顔に出ているライアンの説明を聞きながら、最悪だと舌打ちしてみせる。自分でもけないが、計略にはまるのはこれまでも幾度とあったことなので別に驚きもしないけども、まさか、そんなことまでが計算されていただなんて思いつきもしなかった。……全く俺という奴は、一度は何かあるんじゃないかと疑っておきながら、忘卻のかなたにそれを置いてくるなんて淺はかにもほどがある。

「しかし、結果として俺はこうしてシンガポールにまできたんだ。罰をけるようなことじゃぁないはずだぜ、違うか? お前はなにかと理由をつけて、自分の猟奇趣味を満たしたいだけなんだろう」

「いいえ、そういうわけにもいきません。それに私は猟奇趣味など持ち合わせてはいませんよ。必要だったからそうした行為に及んだに過ぎない。

確かに君はここにやってきましたが、それは私の意図した経緯とは違う。全く別の要因でここへやってきた。それだけでもこちらには予想外のことがいくらも起きているんです。これを看過するわけにもいかないんですよ。立場もある。君を連れてくるという単純な任務すら遂行できないような人員は、必要もないというのもありますねぇ」

ニヤリとを歪めて笑うライアンの顔からは、いっていることも確かではあるがその裏には、明らかに俺の言い當てたそれも含まれているようにしか見えない。こんな野郎は脳漿をぶちまけさせたって構わないが、今はやろうにもそいつが許されない。

「彼はね、島津研究所での一件以來、君の計らいで日本出をしたところ、このシンガポールに、私の研究所に就職してきたんです」

「そう、だったのか」

なんという皮だ。島津を辭めたがっていた松下を日本から出するよう図ったのは、確かに俺と田神……というより実質、田神がその下準備を整えたのだ。結果としては島津研究所を瓦礫の山に変え、さらには怪ゴメルとの死闘に辛うじて勝利したことで生死の境をさまよった俺は、九死に一生を得るわけだ。その間に田神が松下とその母親を海外に逃がしてやった。もっとも、それを知ったのはずいぶんと後になってからではあるが。

だというのに、まさか亡命先となったシンガポールでこんなサイコ野郎のもとに就職してしまうだなんて、これを皮といわずなんという。結局松下は、その呪われた運命から逃れられることはなかった。ライアンによれば、松下を一目見たときから彼を今回のために利用することを思いついたらしい。

「松下薫の素や日本からやってくる前後の行を調べた結果、私は彼を日本に再び送り込むことにしました。もちろん、正が知れれば、その利用価値も変わってきますからね。

松下はあの島津にいたということだけで、日本に戻ろうものなら、向こうからなんらかのアクションを取られかねない。そこで私は松下に監視をつけることにしたわけです。それが」

「ドッグ……ドッグだな」

ライアンが言い切る前に、俺は思わず口をついていた。松下は、ある人から伝子の配列を研究機関に分析してもらうよう頼まれて依頼といっていたが、そこに関わっていたのがドッグという二人組のスパイだった。まさかライアンの差し金だったとは思いもよらない。けれどそれは、このサイコが俺に並々ならぬ興味を抱いていたという言葉を、確かに肯定している事実でもある。

「お前といい、武田といい、なんだってそんなに俺に執著するんだ。俺はそんな執著されるような人間じゃぁないぜ。々一般の人間とは違うことをやっちゃぁいるが、それ以外は他の同業者と全く変わらないんだ。

自分でいうのもなんだがな、俺は業界の中では確かに優秀かもしれない。だが、かといって俺がナンバーワンだとも思っちゃぁないんだ。自分よりも優秀な奴がいることは紛れもない事実だぜ」

そう、それこそ田神のようなやつこそ、真にナンバーワンともいっていい優秀な人材なのだ。いくらも先を見越して行しているあの男の持つ、先見の明にはほとほと服する思いだ。そもそもあの男に関していえば、こんなみどろの世界にいるにはあまりに相応しくない。もっとやるべき道があるはずなのに、田神はそれを良しとしていないところがある。

ともかく、俺は決して人に執著されるような類の人間ではない。あるとすればせいぜい、いらぬ憎しみを持った人間くらいなものだ。どう考えてもこいつや武田、さらには會いたがっているらしい謎のたちといった、會ってもない人間から興味を示されるような人間でないことだけは間違いないはずなのだ。

「ええ、確かに君のいう通りでしょう。私も調べてみたところ、君は優秀だが、どうも事を大きくしてしまう傾向にある。もっとスマートに仕事をこなしている人間はいることは間違いないですよ。ですが、私が君に興味をもったのはそんなことではない。どうも君は不思議な魅力を持った人らしい。いや、魔力と言い換えたほうが正確かもしれませんね」

魔力なんて言葉に、本気で呆れそうになった。俺みたいな人間のどこのそんな魔力があるというのだ。こいつは猟奇趣味に嵌ったがゆえ、オカルトにまで走った挙句に、頭までおかしくなっているらしい。もっとも頭がおかしいのは最初からだから、こいつの言を全て真にける必要などないのだろうが。

「いっておきますが、私のいったことは本當です。君には人にはいい得ぬ力、無意識に発しているものですが、確かに持っている。それはこの一年に出會ってきた危険の數々を思い出してみるといい。まずはジャパニーズ・マフィアのビルで起こった破事件、N市Tビルでの破事件、さらにもう一つホテルでのヘリ襲撃もありますね。そして、海賊船での桜井義人救出と逃走劇は見事でしたし、シンガポールにってからのバドウィンたちによる襲撃にも、君は一度は捕らえられながらも逃げ出すことができた。

それどころか君のことですから、これら以外にも表沙汰になっていないだけで、幾度と命の危機に曬されたことがあるはずです。この一年で君は他の人間の一生では験できないほどの危機を乗り越えた。この事実を照らし合わせ君がここまで生き殘ってこれた確率を數字で表すと君、これはもはや天文學的數字なんですよ。

文字通り、これほどまでの可能を手繰り寄せたのは他ならぬ君自だ。つまり、君には生きるということについて他を圧倒する生命力と運を持ち合わせていることになる。そうそう、それこそ島津研究所でのゴメルの件についてもね」

ニヤリと嫌な笑みを浮かべるライアンを目に、俺は今海賊船という言葉に引っかかった。どうしてこいつが海賊船のことまで知っているのだ。あれは元々、武田に半ばいわれるがままに行った任務で、おまけにその容は俺すら現地を訪れるまで知ることすらなかったことなのだ。なのに、どうしてこいつがそれを知っているのだ。

「なぜだ、なぜお前が桜井義人のことを知っている。あれは、俺ですら直前まで知らなかったはずなのに、なぜなんだ」

「それについては私が説明しよう」

突然、扉が開いて男が現れそういった。

「なんであんたが……」

「驚いたかな。無理もない。カラクリをいえば、私こそ君の探していた人だといえばわかるかな」

「俺の探していた人

突然目の前の現れた男は紛れもなく、俺が海賊船から救出した人の桜井義人だったのだ。俺はわけがわからず言葉を失い、桜井の話を聞いた。その事実は、まるで俺が糸でられたマリオネットのようで、心の底から稽に思えて笑いたくなるほどだった。

結論からいえば桜井義人はスパイだった。俺の探していた人というのは、武田が口にしていたミスター・ベーアが東南アジアに差し向けたというエージェントのことだったのだ。そしてその正が、目の前に現れた桜井義人、それだったというのだ。桜井はとんでもない策略を練っていたようで、今回のために三年に及ぶ時間を費やしているらしい。

その計畫とはもちろん、今度の施設の建造であることは間違いないだろう。となるとミスター・ベーアは、海外にも施設の建造を計畫していたと見ていい。あの男は、國での施設建造推進派だった真田のことをあまり快く思っていなかったといい、サブのプロジェクトとしてこちらにも建造を試みたというわけだ。

そしてその予想は大當たりし、真田は計畫の進捗合をミスター・ベーアに伝えるのを拒み、結果として消されたことになったのだ。だが皮にも真田の研究そのものはメインだっただけに、計畫は順調に進んでいたらしい。だからこそ、あのTビルに俺と田神、真紀の三人が潛り込むことになったわけだから、これは疑いの余地はない。

かくして奪取計畫は功し、マウスというコードネームで呼ばれたデータをもとに今回の研究に引継ぎ、功させるつもりだという。このためにライアンが研究の責任者、裏方にはエージェントであるこの桜井が召集されることになる。ライアンに計畫を進めさせ、その妨害になりうる要因は全てこの桜井が排除する算段になっているのだ。

「東南アジアで活していたエージェントが、まさか桜井だったとはな」

俺は苦々しい気持ちで、くようにつぶやいた。しかし、それもわずかなことで、すぐに疑問が浮かぶ。

「待て。俺はあんたを助けるために海賊船に乗ったんだ。それがなんでエージェントなんだ。工作員だというのなら、ならず者の二人や三人くらいなんとかできたはずだぜ」

「そう、私が捕えられたのは間違いないさ。だがね、一つ勘違いしていることがある。私は海賊どもに拉致されたのではない。拉致させただけに過ぎない。

私はまずはじめに、海賊がき出したという噂をまことしやかに流すことにした。海賊がき出したとなれば、裏世界の住人ならば大なり小なりなんらかのアクションを見せる。そこから一人の男を見つけることに功した。その男こそ、君が取り逃がした、あの船長だったのさ」

そう、だったのか。やはり俺の予想は當たっていたのだ。船で船長らしい男がなぜ一目散に逃げることができたのか、ずっと心に引っかかっていたがまさしくその通りだったというわけだ。桜井によれば、いくら海の荒くれ者たちにとっても、現在の世界的な不況ではコストやなんかも考えなくては、大っぴらきに活はできないということらしい。荒くれ者だというのに、全くおかしな話ではないか。

桜井は手順よく今回の件を説明していった。最初に海賊がき出したという噂を流し、次に共同責任者であるライアンとともに高等弁務であるジョン・マクソンをけしかけて、右翼連中を掻き立たせることにした。こうすれば、行部隊がなんらかの行を起こすに決まっているからだ。

問題は行を起こすのは誰か、だった。一言で行部隊とはいっても、一概にはいえない。そこでもっとも武闘派と呼ばれる連中を一掃することで、そうした右翼連中への意思表示をして見せることにし、あの晩、右翼の武闘派一味は全員蜂の巣にされて地獄に墮としたのだ。そして、そのために軍の腕利きたちをどうやってか口説き落とし、それを実行させた。

そして桜井自はそのアリバイ工作も含め、海賊に拉致されたと見せかけて連中に匿ってもらった。下準備した桜井に代わって、最後のボタンはライアンが押した。こうすれば桜井は策略を巡らせた當事者からは外され、あとは何かあったときのためにも海賊船から救出してもらうことで、被害者になったと説明すればいい。これで大の話は説明がつく。

「なるほどな。ライアンとあんたが手を組んでたってこと、それにあんたが始めから俺を裏切っていたこともわかった。話の流れから、政志との繋がりも単なる書っていう肩書きだけではないってことも、推測だがわかる。あんたが右翼の実行部隊に襲われることで、連中の顔や個人報を知るきっかけにすらなったかも知れん。だが、それは俺が今知りたいことの説明にはならない。

ライアンがあんたの仲間だというのなら、それは間違いないだろうさ。しかしだ。だとすれば、バドウィンたちを使ってやはり仲間である俺や真紀を襲うというのは、どう考えたって矛盾しているぜ」

俺は二人を睨みつけるようにいって、さらなる説明を求める。そうなのだ、この二人が仲間であることはいいとして、それではどうにもそこらへんの説明がつかないのだ。桜井に代わり、再びライアンが口を開く。

「ふふ、そこのところは私が説明しましょうか。実はある人が君を試したいといってね、そこで今回の計畫に君という駒を投してみようという流れになったんですよ」

「どういうことだ」

「さぁ? 私も詳しくは。ただ先ほども私がいったように、君という人間はどうにも説明しがたい強力な運と生命力を持っているらしい。それはとても単なる偶然というには考えられないほどの、私自もそのことに興味を持ったので、どこまでこられるかを試してみようという気になったので、彼の意図は知りませんよ」

ここでライアンのいうところの”彼”とは意味合いが違うことはそうとしても、またも彼ときた。ニュアンスとしては、生きた人間のことを指すことくらいはすぐに判った。そして、それがバドウィンのいっていた俺に會いたがっているというのことではないのかという、漠然としながらもそう思われた。

「彼が君の生命力、生きる意志が本當だというのなら例え今命を落とすことになろうとも、また生き殘ることができるだろうといっていたのでね。だというなら私としても一つ、それを試してみたいと思ったわけです。つまるところ、君はの良い生贄にされたというわけですね。ま、君の生き殘ろうとする意思と力が本だとしても、この狀況をすることは不可能でしょうがね」

絶対に無理だと斷言するライアンの言葉など気にすることなどできなかった。問いただそうとしても、視界に映りこんだ景を目にして、それどころではなくなったのだ。

「あが……がぁぁぁ」

桜井の登場でそっちのけだった松下薫の様子が、それまでとは明らかに変わっていたのだ。いや、松下薫という一人の人間がまるで別の……そう、それまでとは全く違う何かに変貌しようとしているように見えたからだ。

「うが、がぁ、げあぁぁぁっ」

もはや人の聲とも知れない低く、野獣の唸り聲にも似た異様な聲質へと変わっていくと同時に、松下の抜けるような白いもそれに呼応するかのように変化し始めていた。皮の表面はそれまでの白い素に、これでもかと図太く赤黒さを帯びた管が浮き上がり、それらが一気に弾け飛んだかと思えば、白かった素が正反対の真っ黒なをしたへと変わっていった。

しかった手足とその指も同様で、醜く爛れるように皮が黒く変したところで膨張し始めると、それに合わせてく凝固していく。あの長くらかだった指はもはや見る影もなく、関節部分が一つの巨大なピンボールのようにすら思えるほどになっていった。

年齢をじさせなかった肢もやはりラグビーボール、あるいはパンパンに張り詰めて萬力で潰そうとしてたわんだバスケットボールでもり付けたみたいに、全の筋という筋が盛り上がっていき積はもはや人智を超えたものへと変貌していった。

これらに伴い、それまで苦痛にき聲は低く野太い野獣のそれと同じものへと変化していた。いいや、自然に住まう各食獣たちを代表する王者であろうと、これほどまでの聲を上げることなどできはしないだろう。男の本能を刺激してくる、ぞくぞくとさせたあの落ち著いた聲はこの世のものとも思えない醜い咆哮を発する獣のものへとなっている。

「くっ、くっくっく、しいものがこの世のものとは思えない醜く変化する様は、いつ見ても最高のエンターテイメントであり、最高に男の本能を刺激してくるとは思いませんか、クキ?」

それこそ親指程度にしか膨張しないライアンのそれは、こちらから見ても重力に逆らってズボン越しであっても垂直にテントを張っているのがよく見える。このサイコ野郎はがまるで化けへと変化していく様子を見て、心の底から愉しんでいるらしい。それどころか、そこにこれまでじたことのないほどのエクスタシーをじているようだった。

桜井のほうはといえばライアンとは正反対に、目を細めて変貌する松下を眺めている。桜井は組織のエージェントとして時には人殺しすら厭わないだろうが、かといってこの様子を愉しむような趣向はないらしい。その桜井がなかばうんざりしたようにいった。

「もう慣れはしたが、こんなことに興するなんて普通ではないな、お前は」

「くくっ、そういわないでくださいよ。これも人類進化のための多大なる犠牲になってもらってるんですよ」

変貌する松下を目に、ライアンが発した言葉の意味にどういうことなのかと喚く。

「言葉の通りですよ。”彼”こそ、私の目にした進化の先にある姿だった。それを再現することができれば、人類はきっと爭いのない幸福な未來が約束されていることでしょう」

悅のったライアンのいう彼とは、もちろん例の”彼”のことだろう。それにしても、またも人類進化だとか、わけのわからない世迷言が飛び出したものだ。この矮人のいう進化とは、かつて坂上も目指した、不死を持つ人間のことであるらしい。一なんだってそんなにまで不老不死にこだわるのか、俺には全く理解できない。しかし、そんな疑問も次に飛び出した言葉によって、跡形もなく吹き飛ぶ。

「サカガミは後一歩というところで、この研究の果に屆くことはできませんでしたが私は違う。この理論が間違いなければ、必ずや功するでしょう」

「サカガミ……それは、島津研究所の坂上のことか」

「おや、そういえば君はサカガミと知り合いでしたっけね。そうですよ、君の言う通り、まさしくあのサカガミのことです。元々私とサカガミは知り合いでしてね、一九八〇年代にアメリカで知り合ったんですよ」

ライアンと坂上は八〇年代のアメリカで行われた実験を通して知り合ったという。そう聞いたとき、それがアメリカで行われた例のタイムワープの実験であったことを瞬時に思い出す。ライアンも坂上も互いにライバル視すると同時に、理論や研究果の意見を議論しあう中だったらしい。俺からすればどうしようもない屑といってもいい二人だが、類は友を呼ぶとはよくぞいったものだと半ば心した。

ここで意外な事実であるとともに、すんなりと納得できる解答がぞくぞくと語られだした。坂上が創りだしたNEAB-2は海を越え、大陸をも越えてイギリスにいたライアンの手に渡った。同時にもう一つ、それは坂上が伝子ならびにタンパク質に作用する薬を三週間おきに投與され続けた、沙彌佳のや髪の、皮といったサンプル群だった。

「元を辿れば私が手にれたものを、サカガミの研究にも役立てることができるよう渡したものが発端となったわけですけれど、それがまさかここまでの進化を遂げることになるとはさすがの私も思いもしませんでしたよ」

ライアンの手にれたものとは、それこそ以前に田神が話していた、隕石から採取した分のことではないのかと思ったところ、俺が口を挾む前にライアンがそうであると告げた。田神の話によればあれは確かアメリカCIAとロシアFSBとの抗爭だったと記憶しているけども、ライアンがいうにはそうではなく、CIAとイギリスMI6との共同戦線だったらしい。

「あまり口にはできませんが正直にいうと、CIAが我が大英帝國とロシアの問題に首を突っ込んできたというのが正確なところです。もう一三……いや一四も前の話ですが當時のロシアは、舊ソビエト崩壊によって民主主義國家へと変わった。もちろんながらそれは表向きで、実はあまり変わっていません。けれどもロシアは、アメリカと対抗するために裏にフランスやイギリスと手を結ぶことにしたのです。ヨーロッパの貴族階級も米帝についてはあまり快く思ってはいませんから、互いに利害関係が一致したということでしょう。

ともあれロシアは民主主義になったわけで、そこには當然國民をかにしなければならない、資本主義の制を表向きであろうととらなくてはならなくなった。だからこそ裏で手を組んだフランスとイギリス、とりわけ我が大英帝國と親になることで経済発展をし、米帝をも凌ぐ大國の建造が大儀となった。まぁ、基本的にそれは今も同じですがね。

このため、ロシア領で起きたある諍いさかいに我が大英帝國も関わっていたわけです。もちろん、ロシア領でのことだからロシアに手柄を渡さないわけにもいかないので、そこに政治的なやり取りがあったようですけれど。

まぁ、どういう政治的取引がされたのかはさておき、結果としてはCIAがFSBからその隕石から採取したというものを取り返し、それを我が國の優秀なエージェントが奪取したことになったわけだ。始めからCIAが勝手に首を突っ込んできたわけだから、それが當然なわけですが」

そうか。この話をしたとき田神がこの辺の裏事をどことなく曖昧に答えていたのが思い出されるが、なるほど、そうした経緯があったからなのだ。確かこのときCIA側のエージェントは死んだといっていた。どうもこの辺にMI6が大きく関わっていたと見るべきだろう。それも、これらの隕石からサンプルを採取した人間が、イギリスへ亡命した直後であったということが引き金になったからだとすれば、それも納得のいく話だ。

ともあれ、こうしてライアンの元に流れたサンプルがかつての盟友である坂上にも渡ったことで、坂上は自の研究を前に進めることができたのだ。このために、沙彌佳は坂上のもたらしたサンプルから製された薬がもとでになんらかの変調をきたすようになり、さらに採られたなどからNEAB-2やヘヴンズ・エクスタシーが生み出されることになったというのだから、俺としてはなんとも忌々しい話だ。

「お前のもとに渡ったという代は、特殊な分を含んだ石だろう。それも普通の石じゃない。隕石だ」

「ふむ、知っていましたか。そうですよ、私が手にしたのは隕石の欠片です。ここから含有分を出し、私の、あるいはサカガミの研究に大いに役立ったというわけですね。あれは本當に驚きの連続でした。まず出自がうまくいかない。普通であれば、欠片から出した部分を採取するだけでいいはずなのに、あれはそれすら簡単にさせてはくれなかったのですから。

これは決して公表できるようなことではありませんけども、実はね、あれの分はとても不思議でして、一つの原子核で一つの元素として立するものだったのです。これはつまり、粒子ともいい換えることができる。

さらにだ。これはたった一つの個であるにも関わらず、この世に存在する全ての鉱度を上回っているという點も挙げざるを得ないでしょう。長年、天然の質で最もいとされていたのはダイヤモンドとされていましたが、近年ではロンズデーライトと呼ばれる炭素結晶が最もい天然質となっています。

しかし、このロンズデーライトすらも上回る度を持っているとすればこれだけでも驚きの事実ですけれど、なんせ粒子単一でこれを上回っているというのが驚異なのです。粒子それ一つで原子を、元素すらも表現したこの質にまだ名前はありませんけれど、仮稱として、ニューアミノとすることにした。君が知るNEABというのは、New Amino acid Braneの頭文字をとった略なのです。NEAB-2とは、NEABを培養してできた第二世代という意味でしょう」

ニューアミノアシッドブレーン……直訳すれば、確かにニューアミノとなる。これまでも知らされてきた通り、NEAB-2がタンパク質、つまりこれを構するアミノ酸に強く作用するということから付けられたのだろう。だが、ブレーンというのはなんなのだ。

とは、NEABが単一ではそこに留まることができないため、他のアミノ酸に結びついて結合することからとりました。まだ研究段階ですけれど、NEABはアミノ酸と結合すると、それらを保護しようとを張るという特があるんです。厳には、アミノ酸と結合するためにを張るんです。

この特上、これを理解し保存するのにはしばかし手間取りましたよ。なんせアミノ酸と結合していなければ、まともに顕微鏡にいれることすらままならない。分を出しようにも、採ったそばからだんだんと蒸発していくんですから。この特を理解してからというもの研究しようにも、まずは蒸発してなくならないように保存することが優先されました。そこで私は、まず始めにアミノ酸の培養に漬けた。ところが、三日としなかったでしょう、培養がくすみ出し、まるで廃油のようにどす黒く変していくじゃないですか。これに驚いた私は、すぐに単純にアミノ酸だけでなく他の要因も重なって保存が可能となると閃いた。結果はまさしくその通り、実験用のマウスに注してみたところ、NEABが安定し始めたのです。

ですが、これも完璧ではなかった。注して一週間ともたずに、そのマウスはぐずぐずに崩れだし、粘っこい油とも水ともいえないとまるで土と泥で固めたような醜い殘骸になってしまった」

「それで人実験を試みたってわけか」

「その通り。始めは我が大英帝國にちょっかいを出したCIAのエージェントに試した。これはもちろん、全く意味のないものでした。彼はやはり一週間もするとネズミと同じ末路を辿ったので、私は仕方なく知り合いに頼んで、兇悪犯罪者を連れてこさせ同様にNEABの注を試みましたが、結局これも結果は同じだった。私が頭を悩ますあいだにも、空気中にれているNEABはしずつ蒸発し減っていっている事実に、これまで味わうことのなかった焦燥を覚えたものです。

そんなときです。私のもとにサカガミが訪れた。どうするべきかと助言を求めたところ、彼も似たような狀態に陥っていることを知り、互いに議論をわし合い解決に乗り出すことにしたのです」

狂人二人のし合う議論の容というのが結局のところ、のいい殺人刑だというのだからとんでもない議論だ。こうして、二人は議論の末に人間の子供を使ってみようという結論に達したという。これを聞いた俺は、思わず納得してしまった。坂上は自の研究のために、ライアンの持つ鉱石を半分ほど譲りけ、これを島津研究所にて長期治療中という名目のもと訪れていた今井夏樹というに、これを投與することにしたのだ。

これが功を奏じ偶然にも、NEABにとってはこれまでにない恰好の依り代となった。こうして今井夏樹はNEABのキャリアとなり、そこから出された卵からNEAB-2が生まれた。そしてこれを投與された沙彌佳が、それまで以上の依り代となってしまったのだ。

おまけにNEABの採取が一四年前で、坂上の野郎が島津研究所で人実験を行ったのがそれこそこの時期に當て嵌まる。思えばこのとき今井夏樹の屋敷を襲ったのが、はじめから坂上の実験のデータ取りのためだったと考えるとどうだろう。たちどころに當時の諸問題が解決されていくのだ。

シナリオとしてはこうだ。今井夏樹にNEABを投與した坂上は、うまくNEABの依り代として適合することができた今井夏樹に、試練を與えることにした。あの野郎は沙彌佳にもNEAB-2を投與した際、様々な訓練を行っていたというから、それを観るためにこうした舞臺を用意することになんのためらいなどないだろう。

さらに坂上は、ここで當時のヤクザどもが人売買にまで手をつけようとするきを知った。どういうやり取りがあったのかは知らないがこの連中を利用することで、実験とそいつをネタに今後の人売買のための口実を作ることに功したのだ。この今井夏樹の屋敷を襲った際の実隊となったのが、佐竹の件で出くわした豚共の若かりし頃だったことを考えても間違いはない。

「だが人ったNEABがなぜ大人と子供でそんな差がでるんだ。結合に必要なアミノ酸だったら同じ人間同士、大人も子供も大した差はないはずだ」

「NEABにはアミノ酸にを張ることで結合する特以外にも、もう一つ別の特を持っています。いや、むしろ結合することは単にそのための前段階といったほうが正確かもしれません。を張ることで結合したNEABはアミノ酸を蝕み、結果アミノ酸を全く別のものへと変容させる特があるのですよ」

「別のもの、だと」

「そう。別のもの……つまり、NEABと同じものになるんですよ。実験の結果から、なぜ投與された人間がぐずぐずに崩れるかの答えといっていいでしょう。ったNEABによって、まず側から侵食され始め、最後に皮表面へと侵食が進むことで死ぬということです。

NEABは空気にれるとその形を保つことができない。隕石の中に閉じ込められていたときは無機質なに周りを囲まれていたため、蒸発を免れていたんでしょう」

そうか。島津の研究所に潛した際、あそこには実験にされた子供たちの死がこれっぽっちも見つからなかったのを思い出した俺は、今の説明を聞いて理解した。側から侵食され死に至った子供たちは、皆ぐずぐずになって蒸発するように死んだために死が一切見當たらなかったのだ。

「この特から一つの結論に達することができる。子供というのは、的な長が止まってしまった大人と比べ代謝が激しく、しかも大人になるために日々長、つまり細胞分裂を繰り返しています。これがNEABの保持には好都合だったというわけです。

だが子供の長とはいえ、それには限界もあるうえ個人差もある。要するに保持するにしても、キャパシティが決まっているのです。これを無視しては、結局は子供であっても大人と同じ結果になるわけですよ」

つまり投與された子供が長く生きるには、極々量しかれることはできないということだろう。しかし、だとすれば沙彌佳の場合はどうなのだ。坂上の手記によれば、三週間に一度、NEAB-2の投與が繰り返されていたらしいが、これではどう考えてもライアンのいうキャパシティの限界を上回ってしまうのではないか。ましてや沙彌佳は當時、すでに一五になっていたのだから長するにしても、五歳一〇歳の子供とは比較にはならないはずだ。

「子供とはいっても、長が止まりかけという子供もいたはずだぜ。なぜそんな子供まで実験臺にしていたんだ。今の理屈ならせいぜい一〇歳前後ぐらいまでが被験者としては適當だろうが。だが以前見たファイルじゃぁ、一五歳前後の子どもも混じっていた。あれはどういうことなんだ。まさか、単なる嗜趣味の生贄というわけでもないだろう」

「私も気になっているところなんですがね。これは一つの仮説に過ぎませんが、NEABには的な干渉とは別に、もっと違う部分にも干渉があるのかもしれない」

「違う部分?」

「そう。例えば、それこそまだ未知なる領域の一つである脳や、あるいは神……」

ライアンはそういうと腕組みをして顎をさすりながら思考の波へ自をさらい、何かぶつぶつとつぶやきだした。最後に口にした脳や神とは一どういうことなのだ。

そんな、どこか納得のいかない俺の視界の隅で、なにかがのそりといた。いうまでもなく、それは変わり果てた松下薫だった。瞳に映るその姿は、まるで超ヘビー級のプロレスラーさながらだが、サイズはとてもプロレスラーとはいえない。それどころか、人間のサイズではなかったのだ。

「おっと、どうやら変態が終わったようですね。くくっ、しいがこうも醜く変貌するのはいつ見ても愉快だ。さて、クキ。これから私と桜井はここを出て高みの見とさせていただきます」

「待て」

「まぁ安心してください。私たちが出たらその枷を外しますので、五満足のまま戦えるはずですよ。もちろん、武も用意しましょう。それでは健闘を祈りますよ」

「おい待てっ。待つんだライアン」

ライアンの野郎は、俺と変貌した松下薫を戦わせるつもりらしい。そんなのごめんだとわめく俺に、ライアンは黒盡くめの男に顎でしゃくって見せる。すると男が手に松下に投與したらしい薬を満たした注を手にとって、靜かにこちらへ近づいてくる。

「おい、やめろ、やめるんだ。こっちへ來るな」

四肢に深いな軋む音が聞こえる中、俺は必死になって逃げ出そうと全に力を込めた。だがそれも意味などなく、強引に摑れた左腕に注の針がわずかな痛みを伴って管に差込まれる。

それを見屆けたライアンと桜井、松下を連れてきた男たちはこちらに背中を向けて、ってきたドアを出ていく。去り際に、真っ黒な醜い筋の塊と化した松下と二人だけにされる俺をみた矮人は、ただ気に食わない嘲笑をあげるだけだった。

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