《いつか見た夢》第99章

まるで全が燃えるような熱さだった。ずくずくと手足を拘束する痛みは烈火のごとく、大火傷したかのような熱さと痛みで、痛みのない箇所も今にも側から火を噴出してきてしまいそうな、そんな熱さを帯びていた。普段ならどきどきと打つ鼓も、どこんどこんと聞いたことのない激しい音を響かせていて、鼓が一つ打つたびに中から圧迫される膨張があった。

(熱い……苦しい……早く終われ)

頭の中を巡るのはそんな呪詛のような言葉ばかりで、とても自分のが自分のものとは思えないほどだ。

「ぐっ、ぁあ」

らすき聲とともに流れ出る呼吸からも、同様の熱さをもった熱風がじ取れる。燃え盛る火の中で焼かれて死んでいく人間というのは、あるいはこういうものなのかと脳裏を巡るもそれはすぐに熱さと痛みによってかき消されていく。ライアンの部下らしい男に打ち込まれた薬の影響なのは、考えるまでもなく明らかだった。

それだけに、苦痛の裏側にある、ほんのわずか未來である自分の姿がちらつく。全真っ黒の皮に、ぼこぼこに隆起し人した男の回りにはなっているだろう手足の筋、おまけに綺麗に切り揃えられた髪は長く逆立ち、しなやかな剣山にも似たものに変化した、おどろおどろしい姿が。

苦痛にを焦がしながら俺は、両目を閉じることなく虛空を見つめていた。視界には先ほどまで白が映っていたはずなのに、今は赤や黃、橙といった合のが點滅して眼窩の奧底からも火が噴いてくるような覚があり、松下もこんな覚を味わったのかと頭の中ではどうでもいい冷めたことが浮かんだりもした。

「安心なさい。今君に打ったのは、松下に打ったものとは違います。単なる治療薬ですよ。そうでなければ、君を生かす必要がないですからね」

どこからその聲がするのか、四方八方が白い無機質な壁に包まれた部屋に響き渡り、もがき苦しむ俺にライアンの野郎は嘲笑するような含みのある気に食わない聲で説明する。いっていることが本當だとしても、ここまでの奧から熱くなるものなのか……そう頭の中でつぶやいたところで、灼熱のがわずかながら落ち著きを見せつつあるようにじられた。どうやら治療薬というのは本當のことらしいが、狂人のいう治療薬というのが一どこまで信用できるものなのか知れたものではない。

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それでも多の熱が引き始めたところで、俺は蹲りながらも周囲の壁を再度確認するために睨むように顔をのろのろとかす。やはり部屋は白い壁しかない。つまりどこかは一見壁に見えるだけで、こちらを覗けるようマジックミラーになっているのだ。

「松下と闘ってもらうために、君には武を用意しましょう」

すると蹲っている俺からし離れた場所の床が音もなく開き、できたから新たにそのを塞ぐようにして同じの床がせり上がってくる。せり上がった床部分の上には、いくつかの銃火があった。言葉の通り、ここで松下と闘わせるのが本気だという意思がありありと伝わってくる。

「がっ、ぐぁるる……」

これまで耳にしたことのない唸り聲をらしながら、目の前にいる巨大な黒いの塊がのそりとき出す。たったそれだけのことだというのに背筋に氷柱を突っ込まれたような気分になり、前にもこれと似た覚を味わったのを思い出す。

脳裏によぎる”それ”がなんであったか、その答えはすぐに出てきた。

「ゴメル……」

これだった。目の前の巨が放つ気配は、島津研究所で出會った怪、ゴメルのそれと同質のものだ。あれを思い出すと、途端に脇や背中から嫌な汗が噴き出てくるのがわかった。

「ああ、そうそう。彼に打ったのはNEAB-2をさらに進化させた第三世代――NEAB-3とでも銘打っておきましょうか、それによる影響です。サカガミの研究果と私の研究が一となることで、NEABをより高みに押し上げたわけですね。

とはいっても、基本的な特は全くといっていいほど変わってはいませんがね。NEAB-2と変わった點は、これまでは子供にしか耐を持ち合わせることができなかったのに対し、この第三世代は大人の人間にも流用することが可能になったという點でしょう。

細胞分裂を行う際に発生するエネルギーをNEABが代わりに取り持つことで、そこに本來の伝子にはない新たな報を形することができる。こうして新たに生まれた報を含んだ細胞に、これまでの報を持った細胞がり込み、これまでとは違う新しい形態を持つ細胞になるわけです。

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本來であればそんなことは不可能でしょうけれど、NEABの持つ、アミノ酸にを覆って結合し取り込む特が、それを可能にしたというわけだ。NEABの効果によって発的な細胞分裂とならびにその発生するエネルギーを與えられた細胞は、張られたの中で互いを食い潰しながら、食い潰して取り込んだ自の細胞を再びNEABの質を持つ細胞を生む。こうすることで、常に発的な細胞分裂の繰り返しを行う生が生まれるということです。

まぁ、さほどデータが取れていないので大仰にいうことはできませんけれど、これも一つの不老不死の形態といってもいいでしょう」

「不老不死、だって」

熱弁を振るうライアンのおかげで、燃えて灰になるんではないかと思わせた熱もだいぶ引いた。熱の冷めた頭で、坂上も似た臺詞を吐いていたのを思い出す。本當に不老不死などあるものか……俺は聲に出すことなくつぶやいた。

そうだ、不老不死などあってたまるものか。あのゴメルもそういわれながらも近代兵の前では側から破裂させ、自を散らしながらくたばったのだ。つまり、今目の前で唸りながら立ち上がろうとしている巨の怪も同じであるはずだ。

「松下……」

まだ悸のする心臓のある左のあたりを摑むように立ち上がり、険しい表で醜い変貌を遂げた主の名を口にした。するとどうだ、松下だったそれは俺の聲に反応したのか、ぎりぎりとでも擬音をつけたくなる作を見せてこちらを振り向き、鋭い眼が俺を抜く。

決して比喩などではなかった。そいつの眼はもはや人間のものとは思えない、全く別のものに変化してしまっていたのだ。優にかつての三倍はあろう巨大になった頭に、眼窩は髑髏のごとく窪んでしまい闇に染まっていて、そこから覗く眼はどことなく青白く、淡い緑にも思わせる小さなを放っている。

鼻は顔の大きさに合わせて巨大に隆起し、赤ん坊の拳がそのまますっぽり納まりそうなほどに鼻腔は広がっており、口は両頬の端まで大きく裂け、何本もの鋭く尖った牙が見える。そして超ヘビー級のプロレスラー數人分はあるだろう積を持った軀に、真っ黒でありながらつやつやとした沢のある皮は、とても人間のとは言い難い。

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呼吸はシュウシュウと目に見えそうなほど激しく、そのつど発達しすぎた肩の筋が上下しているのが見える。角こそ生えていないが、その容姿はまさしく日本人なら誰もが思い浮かべる鬼の姿そのものだった。

悪鬼――。

頭の中で、ふとそんな言葉が浮かんだ。この世のものとは思えない醜く変貌してしまった松下の今の姿は、そう呼ぶに相応しい気がしてならなかった。

息を呑みながら目を剝いていた俺に、悪鬼となった松下がその青白くる眼をぶつけてきた。本當にこちらを認識して見ているのか定かではないが俺にはそう見え、怨嗟の念を込めているようにもじられる気がした。

ぐるぐると、どこから出しているのかわからない唸り聲をさせていた悪鬼となった松下は、行き場のない激しいを表現するようにを天にのけ反らせて咆哮をあげる。

ほとばしる咆哮は、とてもあのしく俺の本能を刺激してきた聲の持ち主が発するものではなかった。あるのは、ただ本能が危険であると告げる聲だけだ。

「くくく、どうです、クキ。一度はを重ねた相手がこうも醜くなるのは、最高のエンターテイメントでしょう。ああ、だが安心していい。もう今の彼に君が誰であるかなど判斷はできない。これで心置きなく彼との死闘を演じることが可能でしょう? あのゴメルという怪を相手に生き殘った君ならばね」

いってくれる。言うは易しなんて諺があるが、まさにそうだ。とてもではないがこんな怪とやり合う気などさらさらない。

(だがどうする)

俺の頭にあるのは、こんな怪とやり合うことは避け、すぐにもこの場から逃れることしかない。以前、それこそ島津研究所の際にもあのゴメルと死闘を繰り広げたのは記憶に新しいけども、ここであれを再現できるほど用に立ち回ることはほとんど不可能に思われるのだ。

あの時はまだよかった。田神やエリナという仲間がいたおかげで、なんとか奴を砕することができたわけだから。しかし今回はたった一人でこの怪と対峙しなければならないというのは、あまりに條件がよくないというものではないか。

こうなった以上気にしてもいられないが目の前の怪は、り行き上のこととはいえ、かつて一度は共に行した仲だ。いくら俺のことがわからなくなってしまったとはいえ、だからといって、はいそうですかというわけにもいかない。

それにこの怪は本當に俺のことがわからないのだろうか。そんな疑問もあった。

無意識のうちに、視線は連中が出ていったどこがり口なのか今ひとつわからない扉のほうへ向いていた。とにかく逃げるにはそこから出ていく以外にない。

俺は何度も咆哮を繰り返す怪を注視しつつ、じりじりと床からせり上がってきた銃類へと近づいていく。ゆっくりとした作でそっと転がっている機関銃を取り上げる。普通であれば、そのずっしりとした重さが心強いところなのに、今はこれだけでは頼りなくて仕方ない。

銃口を怪に向けて出口へと足を一歩踏み出したときだ。それが咆哮をやめ、こちらを向いた。醜い表はさらに歪んでいて、肩頬を吊り上げている。まるで、いたぶる獲を見つけて悅ぶ食獣のごとく、その顔は暗い喜悅を表現しているようだった。

それだけ、たったそれだけのことなのに俺は背筋は凍りつかせ、全直させる。気付けば全のいたるところから冷たい汗が噴き出ていた。それは先ほどまでの熱によるものでは、決してない。

一歩……いや、指一本かしただけでも、次の瞬間に怪は俺を襲うに違いない。直めいたものが俺にくなと警鐘を鳴らして、まともな思考をすることは葉いそうになかった。

決して長い時間ではなかったろうが、顎の先からポタリと汗の雫が滴っていき、真っ白な床に小さな染みをつくる。

これが合図だった。怪は堰を切ったようにこちらに向かって突進してくる。それを知ってか知らずか、は條件反で橫に飛びのく。

ところが怪はこちらのきを読んでいたのか、飛びのいたほうへ腕を向けた。腕がいたまでは転がる俺にも認知することができたものの、それを防ぐ手立てなどあるはずもなく、突然が宙に浮く。

何が起こったのか――それだけのことを頭の中で言い終える前に、背中に衝撃があって床にを打ち付ける。

「かはっ」

肺から空気が抜ける。そもそも息すらできていなかったのかもしれない。肺に溜まっていた最後の空気が抜けたようで、途端に過呼吸になって頭が真っ白になる。

(今、なにが)

ずん、と転がった床に地響きがしてそちらに目をやる。それだけなのに、ひどく緩慢なきだった。そうか、俺は……。

世界が斜めに傾いた視界は、俺が床に投げ出されたものだとようやく理解した。同時に、今頃になって全に走る軋みが痛みであることも理解する。とりわけ、橫腹の辺りに痛みが集中しているようで、その原因が怪の打撃によるものだということにもだ。一瞬が宙に浮いたとじたのは、奴の打撃にが吹っ飛ばされたことによるものだったのだ。

「見え、なかった……奴の、きが……」

自分でも聞こえるかどうかの聲でついたのがそんな言葉だった。ゴメルもそうではあったが、悪鬼へと変貌した松下のきは、とてもじゃないが人が認知できるような速さではなかった。

奴に突進された壁は歪に灣曲し、その中心から何本ものひび割れが幾重に重なっており、その衝撃がどれほどのものだったかを語っている。確かに、大の大人の回りよりも二倍三倍はある腕や肩を見れば、それくらいの力があったとしてもなんの不思議もない。

つくづく、よく助かったものだと思う。あの初撃を避けることができたのは、かすかにだが頭より先にが、腳が先にいたことに他ならないだろう。だからこそ俺は床に打ち付けられる程度ですんだのだ。

だが同時にその事実は、とても太刀打ちできるような相手ではないということも示唆していた。それは掠めただけの橫腹の走る痛みだけで、十二分に伝わるというものだ。あれがもし直撃だったなら、俺は今頃ひび割れた壁と一緒に押しつぶされ、五を飛び散らせて挽になっていたのは間違いなかったろう。

だからこそ、迫りくる悪鬼に対してどう手段を講じればいいのか何一つ思い浮かんでこないのだ。それでも頭の中の誰かは、すぐにでも起き上がれ、手をかせと急かす。

うるさい、黙ってろ……そんなことは百も承知だ。だが、どう念じようとも全くがいうことを聞かない。痛みに遅れて、手足が痺れだしてきたのだ。これではこうにもくことはままならない。

なんとか、なんとかかして見せた右手に今しがた拾いあげた機関銃が握られているのに気付くが、銃がひしゃげてしまっていて、本來の能を発揮することができなくなっているのが一目瞭然だった。

かすんだ……け、くんだ)

さすがに俺のといったところか、に鞭打つように叱咤し続けることでなんとか腕がかすことができた。ぶるぶると自分でも滅多と経験しない震えに力がらないが、それでもき出した。

ずん、と再び悪鬼が一歩こちらに足を踏み出す。そのたびに床に地響きがして倒れている俺に振を伝える。おそらくは地を踏みしめるその一歩一歩が、人間一人のなど飛び散って砕けるに違いないだろうと、否応なしに思わせる。

「おやおや、もうけないのですかクキ。ゴメルとの一戦では君は驚異的な働きをしたと聞いていましたが、単なる噂に過ぎなかったということでしょうかね。だとしたら、あまりにつまらない。もうし粘ってもらわないと」

言いたい放題の糞野郎に黙れと悪づくものの、まだ呼吸が整っていない狀態ではそれもただむせる要因にしかならない。とはいっても起き上がらなければ無慘な最期を迎えることは避けられないため、ライアンを愉しませることはこの際目をつむるとして、なんとしてもを起こすことに神経を集中させる。

びきびきというで嫌な音がすることなどお構いなしに俺はうつ伏せになり、震えの止まらない四肢に思い切り力を込めて上を起こしだした。

「あっ、がぁ」

もうしだ、け、くんだ……そう念じ続けるうちに、いつしか顔にも力がって悪鬼を憎むような表を作っていた。憤怒の表を作るとすれば、それはきっと今のような顔になっているだろう。悪鬼はそんな俺に再び咆哮し、ニヤリとでもいった合に裂けた大口のの端を吊り上げる。

「ほう、これは興味深い。今回は今までと違って、なにか自分の意思を持っているようですね。こうも変わると、これまでの人格や格、記憶といった人間を人間たらしめる要素はほとんど見られなかったのですが。もしかすると、被験者が互いに知り合い同士だったことに、何かしら影響を及ぼしているのか……。なんであれ、やはり松下と君を被験者に選んだのは収穫があったようだ」

勝手なことをいってくれる。俺とて好きで貴様の実験になったわけではない。そもそも俺はお前の実験になったなどという意識などないのだ。今は一刻も早くここを出て、ライアンの野郎に弾丸をぶち込むことだけを目的にして、近づいてくる悪鬼に睨みをかける。

のろのろと立ち上がったのは、あと二歩ほど歩めば奴の手が屆くといった距離にまで迫っていたところだった。奴にり口と反対の壁に投げ飛ばされていたらしく、袋小路に追い詰められた気分になりそうになるが、気を強く持ってどうやって悪鬼をかいくぐり、り口にまで行くかを考える。

あの上に開く仕様になっているドアは完全に電子キーになっているだろうから、簡単に開けることはままならないだろう。となれば、やはり銃類も必要になる。ライアンの脳みそをぶちまけるにも、あの桜井も控えているわけだからどう考えても丸腰でいるわけにはいかない。

俺は強制的に整えた呼吸に、今一度深呼吸して悪鬼を窺う。おそらく奴は手負いの小をいたぶる巨獣の如く、俺を嬲る、ないしは息のを止めることができることになんの疑いを持ってはいないだろう。もっとも、そんな神経を持ち合わせているかどうかは別だが。

橫に飛べば今のようになることは目に見えている。こうなれば飛び込むのは一箇所しかない。

あと一歩というところで、悪鬼は唐突に歩みを止め俺を嘗め回すように凝視した。青白くる眼がなんとも不気味で、背骨に氷柱を突っ込まれたような気分だ。

「がぁ」

唸る聲に混じり、なんとなく聲をかけてくるような、そんな雰囲気のある聲だった。俺はてっきり再び攻撃してくるだろうと警戒していただけに、突然のことにこちらも思わず悪鬼を凝視する。すると向こうはゆっくりとこちらに手を差し出す。どこか遠いものを摑むような、懐かしむような、そんな作に思える。

「……ある、のか? まさか、松下の意識が」

息を呑みながら口にした俺に、悪鬼は沈黙を通す。そうだという意味なのか、違うという意味なのか今は判斷のしようもないが、なくともライアンのいったような人間を人間たらしめる何かが、この悪鬼にはあるように思われた。もしそうであるなら、島津研究所のときよりはいくらかみがあるかもしれない。

「松下、聞こえるか、松下っ」

藁にも縋る思いでぶ。しかし悪鬼と化した松下は反応することなく、これにも沈黙したままだ。

やはり俺の思い違いなのか。そう考えたところ、悪鬼に反応があった。どこから出しているのかわからなかった唸り聲と咆哮以外になかった口が、ぶるぶると何かを訴えかけるようにいたのだ。その様は死に行く者が最後の力を振り絞って、何かを口にしようとしている様にも思える。

この場にいる誰もが松下が何を口にしようとしているのか、固唾を飲んで待つ。

「……て」

小さくも低く野太い、それでいて唸り聲も混じったなんともいえない濁った聲でそう口にした。

「助けて」

おそらく、その小さな聲は前にした俺にしか聞こえなかったかもしれない。だからこそ、その短い言葉には強い訴えをじた。俺は顔をしかめて、その言葉を噛みしめる。どうすればいいのか、なんてのは二の次だ。

「早く……」

そう告げた途端、松下は再び咆哮をあげながら腕を振りかざす。先ほどと比べればそのスピードはいくらか制限してあるのか俺にもその瞬間が判斷でき、反的には松下の腳の間を潛り抜け、スライディングした勢いをそのまま利用して起き上がる。

直後に俺のいた辺りの床が砕ける音がして一瞬だけ松下のほうを流し見る。かすかに頷くと床に散らばっている武を拾うために駆け出し、素早く銃を取り上げて松下のほうへ構える。橫目で青白くる眼を向ける松下の様子は、獲を逃して癪に障った巨獣の苛立ちを思わせる。そうではないとわかっていても、そう見えてしまうのが得の知れないものへの畏怖ゆえかもしれない。

「さすがだ、さすがですよクキ、こうでなくてはね。それでこそ私が見込んだ人間だ」

ライアンの野郎は俺が立ち上がり、逃げうようき出したことに歓喜の聲でわめく。さながら、古代ローマ市民が拳奴の命を賭けた闘いをエンターテイメントとしていたように、あの男は今ここで、俺と悪鬼の闘いにそれをじているらしい。

そんな狂人の悅び狂う様に呼応したわけではないだろうが、悪鬼はきを一瞬だけ止めると、すぐに巨らしかぬ素早いきでもってあっという間にこちらとの距離をつめてくる。そのスピードには目を見張るものがあったがどんな速さであろうと、あの巨が足音を立てずにくことはほとんど不可能に近いといってよく、その音を頼りに悪鬼より先に拾った銃で反撃を試みる。

激しい連音は、當たれば人間であれば簡単に塊に変えるだけの能力を持っていることが容易に行えることが推測できる。だが奴はそんな弾丸に一発と當たることはなく俺の目の前に現れる。

俺もそれを知ってか知らずか、目の前に現れた悪鬼に対しすでに銃口を向けていた。ただ闇雲に連していたわけではなく、なんとなくい込めればという期待が自然とかしていたのだ。

悪鬼もまさかこれを狙っていたとは思わなかったのだろう、目の前に現れたところでわずかな沈黙の間を作った。それを見逃す道理もなく、俺は指をかけていたトリガーを引いて、目の前の悪鬼に容赦なくぶち込んでいく。

「う゛ァ゛ァ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛」

目の前ということもあり、機関銃から発される弾丸はほとんどが奴のというに食い込み、弾けさせていく。

だがこの悪鬼はあのゴメルと同じ、弾き飛んでなくなった部分をみるみるうちに再生させていき、ものの數秒で元の狀態に戻っていく。俺は悪態をつきつつも、じりじりと出り口付近にまで後退する。

さすがに怪となったところで、痛みをじていないわけではない。弾けとんだを無盡蔵に再生しようとも、痛みが松下の歩みを遅らせることは可能だ。

後退するうちに後ろに引いた踵になにかが當たるがあった。見るまでもなく、それは白い壁でライアンどもが出ていった出口だ。ここまではいい。あとは松下がこちらの意図を読んでくれているかどうかが鍵になるが……。

松下と背後の壁を素早く互に見ながら、左手で壁が開かないかどうかを探りをれてみたが案の定、壁に開閉するための裝置らしいものは一切ついていない。どこか別の場所から作しなければ、ここは開けられない仕組みになっているのだ。

これを確認したところで松下に向き直る。今さっき、はっきりと松下自の意思で助けてといった以上はどうにかしてやろうという気持ちはある。だからこそ、是が非でもここから出しなければならない。しかし俺一人の力ではここを出することはできそうになく、そこで松下の持つ怪力でもってこの扉を開けさせようというのが狙いだ。

出の手伝いをさせた挙句に、とるべき結末も決していいとはいえないだろう選択に、なからずの嫌悪がないわけでもないが仕方がない。どのみちここにいれば、互いに救われることなどないことだけは確実だ。だとすれば、例えそうなることがわかっていたとしてもそうせざるを得ないのだ。

撃ち続けた機関銃から、ガチンと鈍い音が響いて連が止まる。弾切れになったらしい。俺は銃をかなぐり捨て、真っ向から松下と対峙する恰好になる。やることはやった。後はもう賭けだ。

どくんどくんと悸が激しく波打ちだし、脳髄にまでうるさく響きだす。さっきまでの尋常ではない熱さのもった悸とは違い、今度はいつもの同じアドレナリンが噴出して起こるあれだと、変に冷靜になっている自分がいた。ここまでくれば、いつも通り自分の反神経を信じるだけだった。

最後の再生を終え松下が咆える。直後に一歩踏み出すとその速度はスピードを上げ、瞬時に限界ぎりぎりにまで押し上げられる。

このスピードを見切れることなど、ほとんど不可能に近い。なのに俺は、松下のスピードが限界にまで達するほんのわずかに直前、自然にが橫に流れたのをじた。

に力がこもり速さが増す瞬間にをじ取っていたのか、流れにを任せたはずのはすぐに次にどうすべきかを行っており、こちらが認識する間もなくが腳が低姿勢のまま橫にいて、さらに跳躍した。逃がれたところで奴の長い腕がこっちのきを読んで、攻撃することをが知っているかのようなそんなきにじられる。

足が地に著いたとき、頭の奧でカチリとスイッチがる音がする。すると俺のは自分でも予想だにしなかったきをして見せた。はまるで全が強力なバネになったかのように次の一歩は、とんでもない力を生み出し、到底跳ぶことのできない距離の跳躍になったのだ。

同時にそのときの流れる景は全てがスローモーションになっていき、俺以外がかなくなってしまったようにすら見える。そんな靜止した覚の中では松下の背後に回った瞬間まで、はっきりと見ていたのである。

松下の背後に回ったところで、靜止した世界が途端にいつもと同じ流れになった。こちらに向かっていたはずの巨が、全を出り口にぶち當てて突き破り、発したような轟音を響かせて崩れる。やはり扉になっている限り、他の壁と比べればその部分は脆かったというわけだ。

それにしても、今の覚は一なんだったのか。悸がしてきたと思えば、次の瞬間自分の普段出せる範囲を超えた瞬発力と跳躍を見せたのだ。は低姿勢のままではあれだけの瞬発力ときなどできないはずで、それだけではなく、最後の一歩に至ってはまるで自分の、いや人間の出せる力の範囲を遙かに上回る力と跳躍をし、ありえないことに今こうして壁に突っ込む松下の背中を見たのだ。

時折、自分のに説明しようにも説明しようのない、とんでもない瞬間が起こることを何度か験したことはあった。俺の持つ淺い知恵からは、そういった狀況が過剰にアドレナリンが分泌されたことによって突然世界がスローモーションに見えるとかいう、あれだと思っていた。たまたまそれが起こりやすい環境とそういう質なのかもしれないと、そんな風に片付けていた。

しかし、今起きたことはこれまでとはまるで違う。はっきりとが、脳が覚えている。世界がスローモーションに見えたのは確かだがそんなのは初めだけで、そのあとからは完全に世界が靜止していたとしか思えないほどだった。あるいはスローモーションがさらに遅くじただけといえるかもしれないけども、だとすればあの跳躍と力はなんだったのだ。あれは決して、単なるスローモーションになった世界と瞬発力だけで説明がつくものではない。ましてや、今の松下の出せる腳力と速さは、人間の出せるそれを遙かに上回っている。

自分すら納得のできない不可分な領域に達した出來事を整理できない俺に、ふと一つの考えが浮かんだ。

(もしかして……いや、まさか)

これまでの験とは明らかに違う験をしたことにより、釈然としないことが考えたくないことを思いつかせることに至ったのかもしれない。これまでと決定的に違ったのは、俺が直前に治療薬と稱じて、ライアンから得の知れない薬を投與されていたことだった。もしかすると予想通り、あれにはなんらかの、別の要素を含んだものが混じっていなかったとは言い切れない。

いや、きっとそうに決まっている。そうでなければ、今のようなことなど起きようはずがないではないか。それでもどこかで違う気がするという自分の聲を振り切って、現狀に気を集中させるよう頭の中からこれらの疑問を振り払う。

ぱらぱらと、崩れた壁からは中のコンクリートが破片となって落ち、辺りに散していた。壁の厚さは、いうに一メートルを超えていて、研究施設か何かとはいえ、とても普通でないように思われるほどに厚い。さすがに出り口だった壁はそういうわけではなさそうだが、それでも普通からは考えられないほど厳重にセキュリティを考えられてあるのが手に取るようにわかるほど厚いものだった。

壁を突き破った松下にしても、壁の破壊の突進に功したらしいがその力は想像を絶するものだったようで、通路の先の壁にまで突進していて頭を壁に突き刺した狀態だった。ぴくぴくと剛直さながらの指が痙攣しているのをみれば、まだ息はあるんだろう。あのゴメルと同じようになってしまったというのなら、おそらくこれくらいでは死なない。衝撃で気を失ったのだ。

「これは……これは素晴らしい! ほんのわずかな時間ですが、まさかここまでの一大スペクタクルをお目にかかれようとは思いもしませんでしたよ! 怪と化した人間は確かに発的な力をにつけますが、まさかここまでの破壊力になるとは々予想外でした。見ているこちらにまで振が伝わってきましたし、あの壁をぶち破るとは破壊力は坂上の生み出したゴメルを上回っているようですね。

それにしてもだ。さらに驚愕させるのは君だ、クキ。確かに私は怪と化した松下とどれほどのあいだ闘えるか期待はしていましたけれど、今の君のきは一なんなのです? 松下のきはオリンピックの金メダリストはおろか、陸上最速といわれるチーターすら上回る。だというのに今君が見せたきは速い遅いの問題ではない。いつの間に彼の背後に移したというのですか? まさか瞬間移とでもいうのか」

瞬間移だって? なにを馬鹿な……。俺はライアンの狂喜にわめく言葉に眉をひそめ、自分の手のひらを見つめる。どうやら、傍から見れば今しがた見せた俺のきは、消えた俺が瞬時に松下の背後に現れたように見えたらしい。

……そうらしいが、今ひとつ実にかける。いや、まだ何十秒かそこら前に験したことを、確かにも脳も記憶し覚えてはいるが、それにどう返せばいいのか返答に困るのだ。自分だってまさかこんなことが起こりえようとは、思いもしなかったのだからそれも仕方のないことではあるが。

ともかく、予想もしなかったことがあったとえいえ、これでみ通りに道は開かれたのだ。これからライアンのところにいって、奴を徹底して締め上げてやることができる。薬の効果でああなったのなら、逆にいえばその治療薬もあるかもしれない。あるいはそうでないかもしれずとも、あの野郎に苦痛を與えることもできるというものだろう。

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