《いつか見た夢》第101章
下を覗く俺の顔を見つけたのか、悪鬼が咆哮し場の雰囲気は異様なものに包まれる。
その場を支配した悪鬼の姿は、つい先ほどまでと比べても変異していることが明らかだったのだ。まずおかしかったのは腕だ。先ほどまでは人間と同じ左右に一本ずつだったのに、今はどういうわけか背中側の腕の付けあたりから左右にそれぞれもう一本腕が生えていた。人間で言えば尾てい骨のあたりから、やはり先ほどまではなかった尾鰭のついた長い尾もびている。
しかもだ。これまでは変化していようと人間の名殘りを殘してか二本の足で立っていたのに、今は本來の腕と足の四本で底の床を這って移している。むしろ、前からの腕を足にすることで機力を重視したかのような姿だ。だとすれば新たに生えたらしい二本の腕は、こうした機力をなんら阻害せずに目標をとらえるためだと見ていいだろう。なんにしても俺の知りうる限り、あんな形をした生は存在していない。
まさしく悪鬼だった。いや、それはまるで神話やお伽話に出てくる怪を連想させるものだ。きっと神話であれば、今のこの狀況は英雄が怪と対決し、勝利を収めるというお馴染みの展開になるのだろうが、殘念ながら俺は神話や伝説の英雄などではない。ここまでは縦に距離があるため大丈夫だろうとは思っていても、眼下に現れたあれを目にしてとてもそんな風には思えなかった。
それに気のせいではないだろうが、上からは格が一回り、いや二回りくらいは大きくなっているように見える。そのため気持ち悪いほどに隆起していた筋もそれにあわせて大きく膨らんでいるため、ざっと見積もって車三臺か四臺分は優にありそうな巨軀へと変化している。もはや悪鬼といった風貌からもかけ離れた姿へ変貌してしまっていた。
「ほほぉぅ。これはまたなかなかに素晴らしい姿になりましたね、彼も。これまで今の彼のような変貌を遂げた者が、さらなる進化を遂げた例はありません。これは、かなり期待の持てる果ですよ」
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狂喜に甲高い聲を張り上げながら、ライアンの野郎はデッキを離れ奧へと消える。
「待て」
んだ直後、下から怪の咆哮があがり、それ以上の言葉を紡がすことはできなかった。
「どうやらお前とはここまでのようだな、クキ。私は今まで狙った獲は全員始末してきたが、二度三度とそれを阻んだのはお前だけだ。この手で貴様を消すことができないことは殘念なことこの上ないがそれもここまで。萬に一つもないだろうが、もし生き殘ろうものなら、そのときこそ本當に私がお前の息のを止める」
「それは俺の臺詞だぜ。今度會ったときは俺がお前を地獄に突き落とす。必ずだ」
減らず口を。そう抜かした奴の言葉は真下からの咆哮に遮られた。この咆哮を合図に、怪は底にある機材をそこらかしこに摑んでは破壊する行為を繰り返し、その一つがこちらめがけて飛んでくる。瞬間なにが飛んできたのかよく見えなかった俺だが、危険にが反応しすぐに床を転げるように飛んでいた。
俺が隠れていた柱にそれはぶち當たり、柱はおろか、柱の土臺となる周辺の床にも衝撃によってひび割れがおき、一部は底へと落ちていく。飛んできたのは數百キロはあるだろう太い鉄製のパイプで、柱と床に當たった瞬間にひしゃげたように突き刺さった。
とんでもない怪力の持ち主であることはこのことからも明らかだった。數百キロのものを何十メートルか、あるいは一〇〇メートルはあるかもしれないここまで投げ飛ばすだけでなく、ましてや突き刺さるほどの破壊力を持っているのだから、それはあのゴメルすらも容易に上回る力を持っていることは想像に難くない。
床に投げ出されるように伏せていた俺の背中に、じんわりと冷たい汗が滲んでいるのがわかる。けないが、本能はさらなる変貌を遂げた松下のれの果てに、どうしようもない恐怖をじていたのだ。それは、今の俺にはどうしようもできないことも意味しているということも否応なしに理解させられ、余計だったのだ。
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ぐるぐると唸る聲が底から響いてくる。鉄柱がぶち當たってできたからは、怪が俺のいることを認識したのか、ここめがけて鋭い爪を壁にめり込ませては四本ある腕を縦に橫に縦橫無盡に広げ、蛇行するようによじのぼり始めた。巨軀のせいもあってもっと鈍行にも思えたその行は、こちらの予想以上に機敏なきを見せあっという間に三分の一ほどの距離までやってきていた。
俺はその様子を逃げもせずただじっと見つめていた。自分が全く見知らぬ場所に連れてこられ、そこで思わぬ知人との出會いとその変貌。自分では冷靜でいるつもりでも、実際にはあまりそうでない部分があるのかもしれない。次々と起こった出來事や語られた事実に、頭の処理能力が追いついていないのかもしれない。今こうしている間にも、本気で白晝夢を見ているような覚があった。
どうしようもなかった。自分にとって初めての覚に捉われた俺には、これ以上をかすことが困難であるようにじられたのだ。
(いや、この覚は初めてじゃない)
確実に迫りくる怪を目の當たりにしながら、俺はぼんやりとそれがいつだったかなどと考える。初めてのようにも思えたが、確かにこの覚は覚えている気がした。あれはいつ、どこで味わったものだったか――。
なんとかいたは、のろのろと起き上がるだけで一杯で、あとは一歩二歩、後ろに足をかすことだけだった。
ついに怪がぱらぱらと壁の破片を底に落としていきながら、俺の目の前に姿を現した。真っ白になった頭で、でかい、本當にでかい……そう思って怪をどこか遠くを見る気分で眺める。青白くっていた眼はそのままだったが、眼窩はもはや人間のそれはなく、細く鋭くつり上がっている。口から覗いていた牙も、まだ人間の形狀をしていたときとは違い、大小何十本も生えていた。その牙をおさめるための口も、かつて人間だったと思わせるものではなく左右に大きく裂けて鼻と同化するように長くびているのだ。
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それはいうならば、古代中國で知られた空想上の生である龍を思わせた。絵などで知るその姿とは違い、腕も四本あり、足もあるうえに鱗などはないが、確かにこの怪は龍と思えるような姿をしていた。目の前で唸る聲などは、龍のそれとは違うかもしれないが、所詮は空想上の生だからどんな聲なのかわかりはしない。もしかするとこいつのような唸り聲と咆哮をするのかもしれないと、全くどうでもいいことに思考を追いやっていた。
前の腕がのそりとこちらのほうへと出して後ろの腕が逃げ出せないように、俺を囲めるよう広げている。そして片方の前の腕で前進させるとその巨が一気に俺の目と鼻の先にまで迫る。
俺はもはや冷や汗の冷たさすらじていなかった。あるのはばくばくとやかましい心臓の鼓だけで、頭は真っ白のままそこからくことができないでいる。蛇に睨まれた蛙の気持ちが、今なら理解できる気がした。
怪が最後の一本の腕をゆっくりと俺にばす。俺はこのまま死ぬのか……。浮かぶのはそんなどうしようもない言葉ばかりで、抗う意思など浮かんではこない。他に浮かぶとすれば、それはあのゴメルとの最後の瞬間のことで、あのときの恐怖と味わった激痛の覚だった。
(この覚は前に一度……)
そのときだった。
「待ちなさい」
頭蓋の奧でそんな音が響いた。確かに聞こえた誰かが制止する聲。この聲に俺だけでなく、目の前の怪すらその腕のきを止める。
どうやら頭蓋の奧で響いたと思ったのは違ったようで、この巨大な施設の中で響き渡ったものらしい。どうやら頭が真っ白になりすぎて、現実との境界線すら曖昧になっていたのかもしれない。
「そこをいては駄目」
もう一度聲が響いて、怪訝に眉をよせつつもその聲に従う。すると直後に目の前の怪が衝撃に大きく揺れる。
なんなのだと喚いた俺のは、今の今まで金縛りにあったみたいにかなかったのに、そんなことなどなかったかのように衝撃から逃れるために反応していた。向かって左に流れたのほうへ、時を同じくして怪の巨が衝撃によって前のめりに倒れる。
跳んでいたところを巨が倒れた衝撃により損壊した床面のコンクリートやなんかが、ぱらぱらと飛散してはあたりに沈む。
「なんだってんだ」
辺りに飛散し舞い上がった塵に左腕で口や鼻を押さえて突然の衝撃に倒れた怪のほうを見やれば、その巨の上にのそりと起き上がる影があった。人間だ――どこかスラリとした印象をけたその人の影を見つめつつ、俺は手探りで周りになにか武になるものはないかと膝をついた。
起き上がった影がゆっくりとこちらを振り向く。
「早くきて。逃げるわ」
簡潔にそう告げた主の聲を聞いて、ひどく揺した。わけのかわらないままの狀況の連続ではあったが、それでもその聲はこれまで以上に俺を困させるのだ。
「おまえ、は」
はっきりと脳髄に響く聲。どんなに忘れようとしても忘れることなどできなどしない、その聲。
「沙彌佳、なのか」
「早く」
二の句を告げさせない口調に俺はただ力なく頷くだけで、のろのろと立ち上がると聲の主のもとへと歩みだした。息をするのすら忘れて倒れた怪の近くにまで寄ると、その怪の背に乗っていた沙彌佳が軽快に跳んで俺の前にやってくる。
「おまえ……なんでこんなところに」
「話は後。それよりこれをつけて」
言うが早いか、どこに隠し持っていたのかロープに安全帯の繋がったカラビナを取り付けると、その合を素早く確かめ、怪が作ったできた床の大の縁にまで俺の手を引っ張った。
「上から一気にロープが引きあがるから注意して」
その言葉の通り、沙彌佳にもカラビナのついたロープがかかっていた。そしてこちらの心の準備もできないうちに、腰を摑んで大から底へ向かって飛び出したのだ。
「お、おい!?」
地から足が離れた瞬間、全からの気が引く不快をもたらす浮遊が襲う。このまま地の底まで真っ逆さまになるのかと思った次の瞬間には、俺たちのは強い反をもって宙吊りになる。腰に巻いた安全帯に重がかかり息がつまる。すると、次はピンと張ったロープが上へとを引き上げだし、その引き上げるスピードは一気に高まった。
「振り落とされないように気をつけて」
耳のすぐ近くで沙彌佳がぶ。俺を摑む手に力がこもり、俺も沙彌佳のをしっかりと摑んで互いを堅く結びつける。だが沙彌佳は俺を摑む手とは逆の手に小型のマシンガンが握られており、それを桜井のいるらしいほうへ向けて引き金を引いた。
何発もの弾丸が飛び出しては俺のいた対岸の柱や手すりにぶち當たって、反響音が重なる。突然のことに首をひねってみれば、ライフルを構えながら口惜しそうにしている桜井の姿があった。どうやら野郎は混に乗じて、狙撃のチャンスを窺っていたらしい。負けだなんだと口走っておきながら、とんだ食わせ者だ。
引き上げられていく際その視界の脇に、タイムワープのための裝置だという橫にびた大が通り過ぎる。そしてその裝置の上部に據え付けられたデッキと繋がった通路の奧に、ライアンの野郎が気に食わない笑みとも喜びともつかない表を浮かべてこちらを見ていた。
ぐんぐんと引き上げられていった俺は、照明のない暗い最上部へと上げられると周りに數人の影が蠢いているのに気がついた。この連中が俺と沙彌佳の二人を引き上げたのは間違いないだろう。もっとも、ロープを吊るしているのは機械なので、二人は上がってきた俺たちを引き寄せるためだ。沙彌佳を摑んでいた手をその影の中の一人が摑み、脇へと寄せる。
「また會ったな」
手を摑んだ影が、引き上げるなりそういった。俺としてもその聲には聞き覚えがあり、それが誰のものだったのかと考えるまでもなく影がつけていた黒いマスクを上げて中の顔を覗かせる。
「あんた、バドウィンか」
「そうだ、その様子だともう自己紹介の必要はないな。早速だがここから逃げるとしよう。急ぐんだ」
わけのわからないうちに、周りにいた影はバドウィンの命令に従ってすぐに準備を始め、逃走ルートを行き始める。それにバドウィンが、沙彌佳が続き、俺は戸いながらその後ろに続いた。
「おい、逃げるっていったってどうするんだ」
「これから君をシンガポールから出させる」
走りながらバドウィンがぶ。
「出させるだって」
「知らないだろうが、君がシンガポールにいるあいだに我々と対組織の水面下での爭いが表面化したのだ。ミスター・ベーアと武田と名乗る人がそれぞれに部隊をぶつけ合ったらしい」
ミスター・ベーアと武田が……。確かにそんな話はここのところ、一切馴染みのない話だった。俺が現場でてんやわんやしているうちに、たちどころに狀況は変わったというのか。バドウィンによれば、今回の地下戦爭が発したのは、どうやら俺が関わっているらしいとのことだった。
「君が日本を発った直後、日本で一人の産業スパイが捕縛された。時系列としては君がちょうどベトナムりした前後だろう。そのスパイというのが日本人であったというくらいしか流れなかったが、これを拿捕したのが我々の組織だ。彼を拿捕するのにたまたま居合わせた我々のエージェントと一戦えることになったようで、結果エージェントは死に、このスパイが我々の仲間に捕まったというわけさ。
このスパイは尋問中に、我々とミスター・ベーアの組織が互いに目的が共通であることを告げたらしい。そして、この報はすでに他の機関にも一部売っているとも。これはつまり他の諜報機関に、それぞれの大義名分を掲げて地下戦爭に參加するための口実を與えてしまったということにもなる。
そしてだ。彼は拘束する隙をついて逃亡したわけだが、この際にこの男は、クキという男が全てを知っていると告げていったという」
「おい、待てよ。そのクキってのがまさか俺のことだといいたいのか」
「そう考えるしかあるまいよ。世にエージェントが何人もいることくらいは君とて知っているだろう。だがフリーであろうがなんであろうが、クキという名のエージェントがそう何人もいるとは思えない。名前の響きからしても、日系であることは間違いない。となると必然的に、的も絞れる」
バドウィンの言葉を聞いて唖然とした。この數週間のあいだに、それも俺の全く知らないところでそんな話になっていたなんて、とても信じられるものでもない。けれども、この男だって仮にもプロなのだから、そうした報にわざわざ噓をつく必要もないのだから、それが本當だということだろう。
それにしても、そのスパイだという男は一何者なのか。なぜ走の置き土産に俺の名を出したのか。これまでのところ、幾人かの工作員とは出會ってきたけども、取り逃がすほどの人など記憶にはない。あるいは、俺が気付かなかっただけでどこかで喧嘩を売ることになったのかもしれないが、どちらにしろその野郎と俺に直接の面識があるとは思えない。
「この報はすでに我々、両機関にはすでに広がっている。君がシンガポールに到著した頃には、すでに我々もその報は手に知れていたので、君をそれとなく監視していたのさ」
「なるほどな。それがあの日、この國の武闘派一味のアジトに侵した、あの日に繋がるというわけか。あんたら、街のいたるところで遊んでいたって話があったがあれは、俺をおびき寄せるための罠だったんだろう。あえて捕まえやすい報を散りばめておいて、どこに俺が行くことになるのか読んでたんだ」
バドウィンはこちらを見ながら、ニヤリと口を吊り上げる。
「さぁ、そろそろだ」
そういうバドウィンたちは見えてきた扉を前に、先頭を走るやつがケーブルの差込まれているノートパソコンを取り出し、扉橫についている小さな読み込み晶畫面の前にパソコンの畫面をやる。そして下のケーブル差込口カバーを強引に取り外すと、中のケーブル差込口へUSBケーブルの端子を差してパソコンを作し始めた。
キーを叩くスピードはなかなかのもので、心するあいだに認証パスを見つけ出したようで、あっという間に扉が真上に開く。見たところ連中はリーダーであるバドウィン以下、報員が一人と俺の後ろをいく殿しんがりを任せられた男が一人、それに前衛を努める男が二人、それに沙彌佳を含めた六名が実隊としていているようだ。沙彌佳も含め、全員が無駄なくいているところを見ると、やはり相當の訓練をけていることを改めて窺わせる。
「ここから先は運搬用のエレベーターで海上へ出る」
「海上……やはり、ここは海の底だったみたいだな」
「ああ。以前から海上に建設されるという噂だった施設の下にこそ、この研究施設があるんではないかと予測されてはいたが。ただ決定的な証拠もなかった」
「そこでまたも俺をダシに使ったというわけか。ふん、まぁいい。俺があんたらの立場でも同じことをしたに決まってるだろうからな」
開かれた扉を抜けるとそこはデッキになっていて、斜めに上へと向かってトンネルが延びている。出口が全く見當のつかないほど長いトンネルで、先は一つ見えない真っ暗闇だ。エレベーターとはいうが、それはどちらかというとデッキそのものが移していくタイプのもので、巨大な運搬用デッキといったものだった。大きさも軽くテニスコート一面分以上の広さはあるだろう。
「さぁ、こいつに」
バドウィンたちは四方を手すりで囲んだ柵をこえてデッキへと移すると、沙彌佳がそれに続き俺もそれに倣う。ちょうど手すりの中央手前に運搬のためのスイッチがあり、それを先ほどの報員の男が作し巨大なデッキエレベーターをかした。床面から伝わる駆音のあと、ガクンと小さく揺れてエレベーターが上昇し始める。
「おそらく連中もここまでは追ってはこないだろう。問題なく地上に出れるはずだ」
「それは俺としてもありがたいね。それで、俺を逃がすというのは」
男たちが俺と沙彌佳を囲むようにして散る。問題はないというバドウィンの言葉に反しているが、それでも油斷はだということなのだろう。連中の行を見送ったところで、バドウィンがこちらに向き直り頷いた。
「いったように、そのスパイによってクキという男が知られることになり、我々としてもクキという男のことを知る必要が出てきたというわけさ。するとどうだ、そのクキはここ數カ月のあいだで、多くの事件に関わっている重要人であることが浮かびあがってきた。それはもういわなくとも、君が一番よくわかっているだろう。
だが我々と敵対するミスター・ベーア側の工作員にして殺し屋である君が、どういうわけか我々組織とも行をともにしているという矛盾。これはもしかすると、クキはどこか別の機関から送り込まれたスパイなんではないかという可能も出てきたのだ。その真偽を確かめるために、まずは我々が実隊としてくことになったというのが大筋の流れだ」
「はっ、俺が別の機関からの回し者ね。そいつはなんとも笑えない冗談だ。で、あんたらは我々というだけあって、このあと武田の奴に俺を差し出すってわけか」
「無論、始めはそのつもりだったさ。君を間近にするまではな。だが君は、どうにもそれだけでいていないように思える。組織に屬してはいるが、組織の思とも我々とも明らかに違う行をとっていることがある。これがどうにも解せない。だってそうだろう? MI6と繋がりをもっているライアンのことを何一つ知っている様子はなかったし、それどころか君は奴に殺されるところだった。全てが今一つ、把握できないのだ」
言い切ったバドウィンに俺は肩をすくめる。
「あんたのいってることはつまり、疑いのある俺をどうすべきなのか迷ってるってことだな。あんたのいう通り、客観的に見てみれば俺の行についてそう思われるのも仕方ないかもしれない。俺からいわせてもらえりゃ、ミスター・ベーアといい武田といい連中が単に俺を良いように利用してるに過ぎないんだがな。
しかしだ。だってのにあんたらは、俺の出の手伝いをするという。このあたりの事がどうにも腑に落ちないぜ。話を聞く限り、あんたらは武田側の人間だろう? そんなあんたらが俺の出を手助けする理由がわからない」
そういった途端、バドウィンは表をくする。ため息をついて、ほんのわずかなあいだ保った沈黙を破る。
「君は一つ勘違いをしているようだが、私たちは別に武田のためにいているわけではない。私たちにも私たちなりの理由というものがあって、それがたまたま武田側に與することになったに過ぎないんだ。前にもいったはずだが、私たちが君を追う理由は今のところ一つしかない」
こういわれた俺は、バドウィンが以前告げたというそのときの言葉を思い返していた。あれは確か……。
「俺に會わせたいがいる、だったな」
瞬き一つしないバドウィンの眼差しが、その返答だった。そしてそのというのが……。結論にたどり著いた俺は、後方に一歩下がったところに立って何一つ口を開くことのなかった沙彌佳のほうへ向いた。
「そうだったのか。あれは、あのときバドウィンがいっていたのは、おまえのことだったのか」
切れ長の瞳が無言のまま俺を見つめていた。面影は俺の知る沙彌佳を殘しているけども、どこか冷たさを持ったその表。俺が知るうる限り、そのような表をした沙彌佳など未だかつて見たことがなかった。
「だからいっただろう? 君の知りたいと願う人間と、君に會いたいというお姫様のところに連れていくと。私たちは彼の意思のもと、こうして行しているのだ」
エレベーターデッキを降りて向かった先で、ようやく施設の表部分である建設計畫の真っ最中という更地に出る。時間は深夜ということもあり辺りは真っ暗で、波音すら聞こえてこない広大な更地には、ただ頬をなでていく海からの風だけが吹いているだけだった。俺たち以外に人の影など見えなず風だけが吹く広大な更地はどこか不気味にも見えるが、不思議と海の底にいたために心理的にも閉塞を伴っていた先ほどまでと比べ、開放がそれを上回っている。
向かって左に、シンガポールの高層ビル群の明かりが空気の屈折によって、ちらちらと點滅しているように見えるのが窺える。日本の淡路島程度の広さしか持たないこの國では高い山など存在しないため、対岸にあっても天気が良ければビル群の明かりが見える。ざっと見回してみると、ここは街から対岸というわけでもはなさそうなので、ビル群が余計に見えやすい位置にあるということらしい。
バドウィンや沙彌佳に率いられる形で更地を駆け足で抜け、建設作業中と書かれた看板を掲げた巨大なフェンスまでたどり著くと、そこには一臺の車が待機していた。黒く大きなバンで、近づくまでそこに車があるなんて気付かない學迷彩機能を持ったバンだ。さすがに走兵、いや公式の兵隊であろうとも公に軍用車に乗るわけにもいくまい。その配慮としてこの學迷彩機能を持ったバンの登場なのだろうが、だとしても走兵たちがまさかこんな高機能な車を所持しているなんて思いつきもしなかった。
「まずこいつで移してもらう。はすでに他のメンバーがそれぞれの場所で待機しているので、後はそれに従ってもらうだけでいい」
バンに乗りんだ俺に続いたバドウィンが早口に告げる。
「おい待てよ。出するのはいいが、俺にだって仕事があるんだ、そいつを放棄するわけにもいかんぜ」
「気にするな。君の仕事というのは、例のエージェント捜しだろう。それに、今回の騒の原因追究も含まれる、といったところか」
まるで見てきたみたいにいわれた俺はそれが妙に気にらず眉をひそめて見せるが、目の前に座った男は気にする風でもなく続ける。
「前もいったはずだが、それに関しても我々は君に教えることができるはずだ。もっとも、我々というより彼が、というのが正解だが」
「彼……」
いうまでもなく、その彼というのが沙彌佳を指しているのは明らかだった。兵隊たちの中でも選りすぐりのエリートたちが、なぜ沙彌佳の前に集まるのか、俺にはどうにも気にならないわけではなかった。俺の前に素顔を曬している沙彌佳は俺の記憶の中にある妹と確かに同じだけども大人びていて、そこには確かな時間の経過をじさせる。
しかし、これがいけない。俺の知る沙彌佳は、こんなにも冷たい表を持ってなどいなかった。切れ長なのは同じだがより鋭くじさせるようになった瞳と、突き刺すような視線。無関心とは違うけども、明らかに良いを持っていないことがわかる、そんな表。これら全てが俺の知る沙彌佳とは違い、なんとも居心地の悪い気分で仕方なかった。もっとも、それは最後に見た走り去っていく沙彌佳の姿が脳裏に焼きついているためにじさせる、罪悪からくるもののせいでないともいえなかったが。
「……あなたの捜していた工作員というのが、桜井だというのは本當。いいえ、違うわ。桜井という名前そのものすら、あの男に與えられたコードネームの一つでしかない。どこで生まれてどこで育ったのか、出生は謎なの。だからこそ工作員という特殊なことをするには打ってつけだったのかもしれない。
私たちはある事から、今桜井と名乗る男の行方を追っていた。そうした中で、彼が一人の人間と接點を持っていることに気がついた。接點とはいうけれど、的には特別な接點を持っているわけじゃなかった。ただ、彼の訪れる場所には、どういうわけかその人がよく出沒していたというだけのことなんだけど」
淡々と語る沙彌佳。桜井というのがまさか偽名だったとは思わなかったが、それは考えればこの世界ではなくはあっても、特別に珍しいことではない。それよりも俺は、沙彌佳の落ち著いた聲に懐かしさを呼び起こさせながらも、まるで俺の知らない誰かとなってしまったように語る様子に、心でひどく困させる。
「それで、その人というのが、まさか俺だと」
「……そうにらんでいる」
沙彌佳の代わりにバドウィンが頷いた。
「正確に誰かというのはわからないのだ。私たちには、そして彼にも本當に君であるのかはわからない。だが、日本でも、そしてこのシンガポールでも、あの男のいる前に君は現れた」
「おいおい、待ってくれよ。俺が桜井と接點があるっていうのか」
「おそらくは」
なかば斷定的にいわれてますます困する。確かにあの男、この際桜井と呼ぶとしよう。桜井がこの何ヶ月ものあいだに俺を狙撃しようとしたことがあったのは事実だった。だからといって、それだけのことで接點と呼ばれるほどのなにかがあったわけじゃない。むしろ、俺だってついさっきその事実を知ったばかりなのだ。
それ以外には全く桜井との繋がりを見出せない。奴が一度の狙撃に失敗し、そこから俺に対してなんらかの念をもったとしよう。だからことあるごとに俺をつけ回し、隙あらば再度狙撃したというのならば納得はできる。実際にライアンや桜井自がそう告げていたことから、到底これが噓とは考えられない。
「ある事で追っているといったな。その事ってのは」
俺が接點の人であるという以上、気になったことを口にするのは當然のことなのに二人は途端に口をつぐみ、いい澱んだ。それでも納得できないというこちらの態度に、バドウィンが沙彌佳と互いに確認しあうように言葉をつむぎ出した。
「君は、ロシアにいったことがあるな」
「なんだ、唐突だな。いったことはあるぜ、もう四年、いや五年くらい前だ」
「四、五年前か。時期的には合うな」
そういってバドウィンは沙彌佳のほうをちらりと流し見る。その仕草が勘ぐられているような気になって気に食わない。俺はなにがいいたいんだと、早口にまくし立てる。
「聞いたことはないか? 今現在、実験的にではあるが世界各地の紛爭地域において、生兵が投されているかもしれないということを」
「生兵」
バドウィンの言葉に俺は記憶の中から、最近どこかで生兵という言葉が飛び出してきたことを引き出した。あれは確かO市にて潛伏していた田神から飛び出た言葉ではなかったろうか。田神は自の目的を口にしたがらなかったため正確なバックグラウンドは謎だが、何の目的かある人を捜しているうちに、こうした事実に辿り著いた節があった。
その場で語られた隕石の衝突跡地における生態系異常や、それらに踏まえて語られたNEABの所在を巡っての各國諜報機関による爭いで、あながち俺にも無関係ではないということで聞いた話だった。しかし、かといってそれがどうしてここで出てくるのか。
「その様子では聞いたことくらいはあるようだな。この生兵が君がロシアを訪れたその時期、ある地域の紛爭に員されたらしいのだ。各國の報部は知っているが、この事実を知っているが當然公表されてはいない。もっとも、公表などできようもないだろうがね」
「そうだろうさ」
「もちろんこれには理由がある。知っているだろうが実際のところ、歐米先進各國は常にどこかで武力衝突の機會を窺っているのが現狀だ。近年で最も大きなものは先の9.11なんかがこれにあたるだろう」
「當時のアメリカ大統領ブッシュの謀説ってやつだな」
曖昧ではあるが、當時の記憶ではこの事件が起こる前から、ブッシュ大統領はテロの可能があることを多くの知識人たちから再三けていたにも関わらず、これを無視して対テロ防衛を怠ったことによる悲劇だといわれたことがあったはずだ。しかし、これには裏があり、ブッシュはそうした指摘や批判をけることは始めから知っていた。あえて、大規模なテロを起こしやすい環境を作り出したというのだ。
そもそもこうした指摘など、世界でも三本の指にるだろう報機関であるCIAを有しているアメリカが、中東のテロ集団と目される組織の報を持たないはずがない。歴史的といわれるあの悲劇が引き起こされたというのは、半ば當然のことなのだ。戦爭をしなければ儲けのない軍や武商人たちにとって、いくら儲けたいからといって公然として自分たちから仕掛けるわけにもいかないので、こうして窓口を開けてやることでおびき出し、戦爭を仕掛ける口実を作ってやったというわけだ。
俺がいえたものではないが、戦爭以上に儲けのある”産業”などおそらく存在しない。後で知ったことだが、ブッシュ親子とそのバックに控えるカーライル社は、9.11後に間を空けて引き起こされたイラク戦爭中、戦後にイラク油田のいくつかを遠まわしにいくつか買い取り、さらに自社の株を吊り上げることに功しているのだ。確たる証拠などなくとも、これだけの狀況証拠があればいくらそのような事実はないと白を切ろうとも、この先ずっと疑われたままであることに変わりはないというものだ。そうでもなければ、戦爭のたびに最新鋭の武やシステムが出てくるはずもない。
こういった例はイラク戦爭に限らずいくつもあるが、共通しているのはどれもそれぞれの國が経済的に危機的な狀況に転換しようとする節目に起こりやすい。
「しかしだ。こうした口実作りが必ずしもうまくいくわけではないこともわかるだろう。こうでもして口実を作れるならばいいが、その國の事によってはそういうわけにもいかない。ましてや近代兵とは呼べない生兵の投ともなると、さらに事が複雑になってくる。世界各國からの非難はもちろん、様々な方面からも非難の嵐だ。
また、それとは別の意味でも衝撃だろう。核とは違う局地的な破壊は次世代兵の威力を目の當たりにし、戦地の兵士や敵國民へ心理的に圧倒的な恐怖を與えられる。それが敵國への牽制と武力的権威を誇示することもできる。しかも、核ほど目立つわけではないうえ、場合によってはそれらを隠蔽することも可能になるとなれば、こうした次世代兵の開発と投は非常に効率的で有効であるかもしれないわけだ。さらに自軍の兵を不必要に投しなくてすむというのは、戦爭屋にとっては余計な経費の削減にも繋がって一石二鳥、いや一石三鳥にも四鳥にもなるだろう。
だがここで一つ問題がある。確かに非常に有効的な手段だが、こうした次世代兵の投は大規模な戦爭で世界的な不安や張、戦爭というものを多くの人間に近にじさせ、武力というものに覚を麻痺させなければ公然に投はできない。もし強引にもそんなことをやろうものなら、それこそ別國からの核兵投下になるかもしれないからな。こうすれば、次世代兵がいくら有効であろうと意味はない。全くの本末転倒だ。
そこで彼らは考えた。いかにして新技の投が可能になるかを」
「新技、つまり生兵の投を可能にするために、連中は紛爭地域、それも歐米先進國がそれぞれ支配した舊植民地支配の國家でなら、政治の裏でそうした事実上の支配が可能だ。これを利用して舊植民地への依然とした支配力と、自が開発した生兵の実験投することを思いついたんだな。こうすれば、曲がりなりにも紛爭地域ということで、正式な軍隊と戦が可能になる。
こうすることで、生兵の有効を確認するとともに他國への権威を誇示して見せることができる。だからこそこれらが投されている、あるいは戦爭に使えるという事実を公式にすることができないんだ。もし公表してしまったら、これらの新技はあんたのいうとおり、各國からの非難は火を見るより明らかだろうからな。
それだけじゃない。紛爭地域でこうした新兵の投となれば、人目につかないはずがない。いくら紛爭地域で軍隊を相手にしようとしたって、もし全滅させることができなければそこから報がれることもある。だから戦場から目立たないところで連中を相手にしなくてはならない。こうすれば、紛爭があったという事実が浮き彫りになったところで、こうした細かいところまで報が世界に伝わるわけじゃない。
しかし、いくらこの新兵を戦場にに送り込んだとて、そう何度も投できるわけでもない。他國に知られることなくそれらを行える場が必要不可欠となり、そうした場の提供こそ工作員たちの出番になるってわけだ。連中なら、そこでのちょっとした諍いさかいが発展、あるいは結果としてどこかで戦場を作ることになるかもしれないからな。もっともアメリカやロシア、當然イギリスもだろうが、特殊諜報機関を持った連中がこうした報を知らないはずがないな。おそらくはフランスも」
そうだ。前に田神がO市に作ったアジトで見せたあの寫真。あそこにうつっていたのはゴメルにも似た、異様な容姿をした化だった。確かあれも、ロシアかどこかで起こっていた紛爭地域で撮られたといっていたのではなかったか。とすれば、バドウィンの話もつじつまは合う。しかも俺自、島津研究所でその一端を目の當たりにし、奇しくもそいつと戦することにもなったなのだ。
「しかし、疑問はまだあるぜ。あんたのいったことは確かに本當だろう。だがなぜアメリカやロシア、イギリスもだが黙ったままなんだ。やっこさんたちはそうした狀況があるというのなら、すぐに正義なんてご大層なもんを大義名分にき出すはずだ。もちろん、軍は軍でも手始めは特殊チームがくはずだが」
「その通りだ。そこで君が関係してくるんだ」
「なんだって俺が」
素っ頓狂な聲で、もしかするとし裏返っていたかもしれない。全くに覚えがないことをいわれては、誰だってそうなったとして不思議はないだろう。バドウィンはそんな俺に小さく頷いて続ける。
「さっきいったろう。あるスパイが出の際に君の名を出したと。その男は君がある組織と関わっているということを告げ逃走した。そしてこの男は、どうもロシア側のスパイであったらしいのだ」
「ロシア側、ということはFSBか。いや、國外になるからこの場合はSVRの管轄だな」
「この男は、君がかつてロシアに國し、國境警備隊と一戦えたことを公安當局に話したというのだ。この事実から、君はFSB、SVRから狙われることになった。しかし、そうは問屋が卸さないもので、今度はイギリスが君の柄を拘束しようと躍起になりだしたらしい」
「イギリスまでもか。やれやれ、冗談じゃないぜ。だが確かに俺はどちらの國でも、スパイ容疑で捕まったっておかしくないことを何度もやらかしたからな、特にイギリスでは。そして、今度はイギリス連邦のシンガポールにその張本人が現れたとなると、イギリスがかないはずがないというわけだな。
……全く、俺もいつの間にか有名人になったもんだな。俺みたいなしがない人間が、世界をにかけるほど名の知れ渡る人間になるだなんて思いもしなかったね」
「ところがそれだけじゃない。君を狙うのはこの二つだけじゃないのだ。どうもCIAも君をマークしているらしいのだ」
「おいおい、待ってくれ。確かにイギリスやロシアなら理解はできるが、なんだってアメリカにまで狙われなきゃならない」
バドウィンに問いかけたものだったが彼は何も語らず、代わりに沙彌佳が口を開く番だった。
「わからない? ここにあなたが來た理由。それを考えて」
「俺がここに來た理由」
そんなの考えるまでもなく目の前にいる、お前のために決まってるではないか。そう告げたかったがのあたりでそれを呑み込む。脳裏に過去のことが過ぎり、おまけにこの流れで考えた答えであるはずがないだろう。もし言おうものなら、それこそ何をいってるんだと軽蔑されるかもしれない。もっとも、そんなの今さらかもしれないが。
「理由……」
沙彌佳を追い求めてきた過程で、俺が出會ってきた様々な出來事を思い起こしてはそれらを彼方へとおいやった。そのどれもがこの場に相応しいものではなかった。そんな中で俺の記憶の琴線に引っかかったのは、結局タイムワープや不老不死といった、一蹴に足りうるようなことしかなかった。
「タイムワープ、なのか」
「もちろんそう。だけどもう一つ」
「不老不死、か」
切れ長の瞳が瞬きすることなく、俺を見據えたまま無言の肯定を告げていた。どこか吸い込まれそうな瞳には、なにか有無を言わせぬ力強さがあった。
「そう。この二つを繋ぐ線上にいるから」
「確かにそうかもしれないが、だからといってそれは俺だけじゃない。他にもそういう奴はいるはずだ」
「半年ほど前、島津の研究所である一つの実験が倒されたわ。このニュースをアメリカのCIAが嗅ぎつけたの。話にあったように、アメリカも生兵の研究をしている。アメリカは兵としてのバイオ研究に関して、他國に一歩遅れをとってるの。だから、この島津のことを知った彼らはこのとき関わった人間をリストアップした。そこにはもちろん、あなたの名前もあるわ」
沙彌佳の言葉に耳を疑いながらも、話を聞き進めていくとどうやらCIAもまた、あの島津研究所に現地のスパイを放っていたらしい。しかしあの日、島津に特攻をかけた俺と田神たちによって、そのスパイとやらも巻き込まれて死んだというものだろう。もしかすると研究所破の前の、所員殲滅の際に同時に片付けられてしまったのかもしれないが。どちらにしろ、そのスパイとやらは重要な研究データを手することなく死んだわけで、だとするならあの日研究所に乗り込んだのは幸いだったといってもいいだろう。
「いや、待てよ。あの日の人間をリストアップされたといったな、そいつはどういうことだ。リストアップされようにも研究所は壊滅したんだぜ。しかもだ、研究所に乗り込んだのはあの日が最初で最後だったんだ。俺という人間をどうやって知ったんだ」
「あなたはそのときから、一人のスパイとずっと一緒にいたはず。あのと」
「あの?」
あのとき研究所にいたのは沙彌佳を除けば、エリナのやつと松下だけだがあの二人のどちらかがまさかスパイだったというのか……。
「そのというのは、まさか松下のことか」
「そう。彼は元々CIAの報員なのよ。ううん、もっといえば、松下薫という人間はもう當の昔に死んでる。あなたの知ってる松下薫は別人。顔を整形して、松下本人に似せていたのよ」
「あの松下が偽者……」
どうもきな臭い話になってきた。俺の知るあの松下が偽者だったというのか。
「ことの起こりは、もちろん今いったバイオ兵研究においてロシアやヨーロッパに一歩遅れをとっていたからだけど、日本でそれを裏に研究していたのが島津製薬であると知ったアメリカはスパイを放つことにした。そこで彼はまず、周辺の事を洗い始めたの。島津に坂上という、かつてアメリカが行っていたタイムワープの実験に加擔していた日本人研究者がいたこと。その実験のために子供を輸し、それを凰館というクラブに卸させていたこと。
そして、彼はあなたがしたように凰館のオーナーである伊達総一郎に近付く目的で、松下薫を手にかけた。このとき、本の松下薫はすでにいなくなっていたのよ。松下薫が狙われた理由は二つ。伊達総一郎と顔見知りだったということと、會社に母親の病気の治療費を出させていたため、そうは會社を辭めるわけにはいかなかったということ。準備し終えた彼は、後は松下薫が伊達総一郎と定期的に會う日を狙って、あの日K市のホテルに忍び込んだ」
俺は息を呑んだ。その日というのは、それこそ俺が田神になかば頼む形で島津のことを調べさせ、どうにかして島津に乗り込むための算段をしていたときのことではないか。松下に會うためにホテルへいき、そしてあの松下薫と名乗ったと……。
「彼もまさか、あの日を狙ってあなたがくるとは思わなかったみたい。そこで演技して見せたのね。まんまと騙されちゃったみたいだけど、彼は何食わぬ顔で行を共にして島津研究へ乗り込むことができたの。さらに彼には、誰かさんが出の手助けをしてあげるというおまけ付き」
「その話が本當だとしたら、俺はとんだ大間抜けだ。まさか共に行していたのがCIAのスパイだったなんてな……命を狙われていないだけマシだったのかもしれないが、結果として俺のことが知られたんなら、結局は元の木阿彌だ」
「けれど彼にとっては、それこそこれが命取りになった。出はできたけれど、そこで今度はライアンに、MI6に捕われることになったわけだから。それ以降の経緯はライアンから聞いたはず」
どことなく苦々しい気分になって頷く。俺とて騙されたくて騙されたわけではないが、こういうとき改めて自分が殺人機械には向いちゃいるが、報戦には向いていないのだと痛させられる。ライアンではないが、本當によくぞまぁこれまで生き殘ってこれたものだと自分で心する。
「そうか。だからライアンの奴はあんなにまで、あののことを捨て駒みたいにしたのか。いくら手駒だからといって、あんなにまであっさりと捨てるなんて思わなかったんでし気になっちゃいたんだが」
「いや、それについてはおそらく関係ないだろう。あのライアンという男は、自の研究のために悪魔に魂を売り渡している男だ。もっとも、あの男こそ生まれついての悪魔なのかもしれないがね」
吐き捨てていうバドウィンに同だと頷いてみせる。それもそうだ。あの館で見た切り刻まれ、全く違う人間のパーツ同士を繋ぎ合わせて、そこに魂だなんだと抜かしていたような奴がまともなはずがない。俺は滅多と嫌悪することはないが、あの矮人には本気で嫌悪というものをじたくらいなのだ。
「それで俺がCIAの連中に知られることになったのか」
「ええ。けれど、いくらアメリカとて日本でならいざ知らず、シンガポールとなると勝手が違ってくる。シンガポールには、荒事に関してはMI6の管理下にある。まさかアメリカであっても、この管理下で好き勝手にしようものなら本國が黙ってるはずがないから。
でもシンガポールを出した後なら話は別。シンガポール領域外になれば、アメリカはどうにでもなると考えているわ。シンガポール領域はイギリスの管轄だというのなら、アメリカにとって柄を拘束するにはシンガポール國外にした後でなくてはならない。だからこそ、向こうはこの一週間くらいはなにもきがないわけよ。もちろん、國外では準備を進めているでしょうけど」
なるほど。それでわざわざ俺を國外出のための手助けをしようとしているというのか。この事実を知らなかったら、俺は間抜けにもシンガポールを出た途端にアメリカに捕われていたかもしれない。
「アメリカは破によって失われた島津の研究データを、出したあなたが握っていると思ってる。それだけじゃない。あなたは、アメリカにとって何か別の重要なものを握っている可能があると思ってる節があるわ。ちょっと前にアメリカは國で特殊部隊を編し、これをロシアの國境付近へ裏に送り込んだ可能があるの」
「ロシアの國境付近」
そういえば、シンガポールにくる前ジュリオに會った際、ジュリオもそのようなことを口走っていた気がする。確か、國境付近で火災があったという話ではなかったか。俺が曖昧な記憶を頼りにそうつぶやくと、沙彌佳とバドウィンは靜かに頷いた。
「今からおよそ三ヶ月ほど前のことだ。アメリカはCIAの工作員を中心に、特殊チームを編している。これは私の部下が手にれた確かな報だ。さらにそのし前に、アメリカは數億ドルをロシア國境付近の國へ援助金を送っているのだ。確かにロシア國境付近の國は一部を除けば、ほとんどが貧しい國々ばかりだ。もしアメリカのドルがそこへ資金投されるというのであれば、それこそ國にとってこれ以上のおいしい話はない」
「なぜそんな大金を」
「これらの國々は元々、國連へ援助金を求めていた。そこへアメリカが條件付で援助金を出したということだ。その條件というのが、ロシア國境付近の森に潛む魔の殺害というものだった」
魔なんて時代錯誤も甚だしいが、聞けばこれまで幾度も死んだという報告をされてきながら、その度にどこかの街に姿を見せては姿を消すという、なんとも信じがたいもので、これにより魔と名稱付けられた原因らしい。この魔は、これまでヨーロッパに出沒していたそうだが、その昔アメリカにも姿を見せたという。
「そのとき潛んでいたのが一九八〇年代、アメリカが例のタイムワープ実験を行っていた施設、そこだったというのだ。しかしロシア側からすると、いくら援助金をつぎ込んだ結果とはいえ自分の手の屆きそうな場所で、アメリカの行為を許すわけがない。だからこそアメリカも、極力穏便に進めるつもりだったわけさ。
ところがだ。魔の死を輸送中のことだ。どこかで作戦概要がれたのか、特殊チームは輸送中に何者かの襲撃をけ、壊滅したらしいのだ。唯一、隊の報員が一人生き殘りヘリの輸送地點にまでやってきたそうだが、彼も病院へ搬送するヘリの中で息を引き取った」
「結局は作戦失敗だったってわけだ。おまけにCIAのエージェントもろとも死んだとなると、向こうもそう諦めるわけにはいかなということだな」
「そうなる。しかしその報員は死の間際、彼が誰かと奇妙なことを話していたという言を殘して逝った。それと、クキという言葉を口にしていたのも」
「クキ……まさか、それも俺だといいたいんじゃないだろうな」
「さあ。このとき話されたクキというのが人の名前なのか、あるいは別の何かを指すものなのか、今のところはっきりはしない。ただ、これまでの経緯から君である可能がないとはいえん。そんな中で例の走したスパイが口にしたクキと名乗る男の存在……アメリカとしては何が何でも魔が発したというクキという言葉の意味を探ろうとするだろう。そうすれば、あとは自然な流れというわけだ」
頭が痛くなる話だった。なんだって自分の知らないところで俺の名前が一人歩きしているのか。どう考えてもはた迷な話ではないか。ただ仮にその魔と呼ばれるが口にしたクキというのが、本當に人の名前であることを指しているのであれば、々厄介なことになる。
俺は伏目がちに沙彌佳のほうを流し見た。そうではないか。沙彌佳だって俺の妹、九鬼の姓を持っているのだ。もしこれまでの経緯から俺が関係しているとアメリカが考えているなら、俺が今ここで沙彌佳と一緒にいるのはどうにも分が悪過ぎやしないだろうか。
(だが)
かといって今目の前にいる沙彌佳を突き放していいものか。理屈ではいけないとわかっていても、ようやくこうして顔を突き合わせて話することができる距離にいるのに、そいつをわかっていながらまた手放せるものだろうか。
できるわけがない。事が事なだけに、最悪、二度と會えなくなるかもしれない可能がますます高くなる。これまでだって雲を摑むような可能の中を手繰り寄せ、こうして辿り著いたのだ。そいつを理屈で手放せるほど、俺という人間はできてはいない。これを至上としてきた人間が、今それを仕方ないからという理由で手放せるはずがないだろう。
バドウィンは沙彌佳の本名を知らないかもしれないが、沙彌佳は何もいわないだけで自分でもそのことに気付いているはずだ。あるいは、俺のことを気にして姿を現したんだとすれば、それはそれでありがたい話ではあるが……。
「そのが話していた奴のことは」
「これに関してはなにも」
「奇妙なことを口走っていたといったな。容は」
「殘念ながらヘリの中、死に際の言葉だからな、正確なことはわからない。後にまとめられた報告書がデータとして殘されているのでそこに書かれたことを信じるならば、どうも研究や開発といった、おおよそ人気のない森の中でされるようなものではなかったらしい」
「研究と開発」
それはもしかして、それこそ今回のタイムワープや不老不死のことを指しているのではないか。あまりに斷片過ぎるが、ここまできてそれらに全くかすりもしないというほうがおかしいだろう。もちろん別の可能がないわけではない。それでも、CIAが送り込んだというスパイが俺の名を口にし、島津研究所に送り込まれたから俺のことを調べたらしいCIAが、俺を追わないわけもない。となれば、この辺の線から二つの実験が関係していると見るのは、當然のことだろう。
「まぁいい。桜井のやつは、こうした一連の出來事に関わっていたということだな」
「そうだ。君がロシアにいた時期、桜井という人もまたロシアにいたというわけさ。ここまでこうも符合していることが多くなると、さすがに私たちも関係を疑う必要も出てくる」
バドウィンのいうことはもっともだ。俺とて客観的に見て、こうも一致することが多くなればそう疑うのも當然だろう。もしかしたら、本當にそのとき桜井と出會っていなかったという確たることもいえなくなってくるというものだ。
ともかくだ。知らないうちに俺の周りを取り囲んでいるのは敵ばかりになっているとは気が気でなくなる思いだが、なくともこの連中は俺をシンガポールを出させ、どこかへ連れ出そうとしてくれているらしい。まだ安心はできないものの話の流れから判斷すれば、おそらくそう思って問題ないだろう。
どんな超一流の専門家であろうと、MI6にSVR、それにCIAまで相手にできるはずがない。この連中を掻い潛れるような奴がいるとすれば、それこそそいつは人間ではあるまい。おまけに俺にはミスター・ベーアや武田といった敵も存在する。それに、日本の公安が逃がしてしまったらしいスパイの話もある。これでは俺も日本に戻れそうにない。なんとかして二人を出し抜くつもりでいたが、こうなっては予定変更だ。
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