《いつか見た夢》第102章
乗り込んでいるバンは対向車のない道を二〇分ほど走ったところで、速度を落とし始める。じゃりじゃりとタイヤが砂利を踏みしめる音がし、どうやら目的の場所についたを告げていた。
「さあ、ここからは歩きだ」
そう告げたバドウィンはバンのドアをスライドさせ開く。促される形でバンから降り立った目の前には鬱蒼と覆い茂る藪が、行く手をさえぎっている。
バドウィンたちは荷を擔ぎ出し終えると、バンを後ろから藪の中へと押しやる。重そうにしているバンが藪へり込みいくらもしないうちに、大きな音を立てながら進みだし一気にそれが進んだと思った直後、下へ向かって落ちていった。何トンもあるバンは落葉や枯木の絨毯の上を無人のまま落ち進み、そのうち何かにぶち當たった鈍い金屬音を周囲に響かせて停車したようだった。
「ここらは周辺の人々もほとんど踏みれない管理地だ。バンがすぐに気づかれることはない」
バドウィンはこちらを見ながらそういう。肩をすくめ、行こうぜと返した俺にバドウィンが頷き返すと、一行は無言を貫いたまま背の高い藪の中を進みだした。夜目が利くらしい男が先頭に立ち、そこから他の男たち、そしてバドウィン、俺、最後尾を沙彌佳がいくという形で藪をいく。
「しかし、出するといったからてっきり港のほうへいくかとばかり思ってたが、本當に大丈夫なのか」
「もちろんだ。出させるのに敵が待ち構えているかもしれない正面をいく奴などいないだろう」
「ごもっとも」
その通りだ。俺だってそんな危険はなるべく冒したくない。それしかないというなら喜んでやってやるが、別の可能があるのならそっちを採るのが當たり前の選択というものだ。
「ここを先にいった海は流が島にもろにぶち當たり、辺りの地形を形するに至っている。普通であれば流を生の人間がいくのは無謀だが、逆にいえばだからこそ狙い目でもあるわけだ」
流がぶち當たるということは、その付近の海中では波を超えてちょっとした渦を巻くこともあるので、もし渦に巻き込まれたりでもすれば、それこそ一巻の終わりだ。しかも真夜中の海ともなると、その海にもぐるというだけでどうにも背筋に変なものが突き抜ける。
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やや勾配のある藪の中を抜けると、そこからはさらに勾配のきつい崖となっていた。もとはここらに覆い茂っていた藪の一つだったろう草々が枯れて、崖の石に覆い被さっている。崖自はあまり高くないうえ、勾配もきつくはあるが気をつければどうにかなるほどなのだが、問題はこの枯れた草たちだった。気をつけなければすぐにって足をとられてしまうのだ。
慎重に進む俺たちではあるが、この枯れ草に足をとられてり落ちそうになる。
「うっ」
一瞬にして全を嫌な張が包む。それは突然上から手をつかまれて、真上を見上げた。
「気をつけて。ここはとてもりやすいから」
沙彌佳だった。沙彌佳が転落しそうになった俺の手を摑んでくれたらしい。
「あ、ああ」
先行するバドウィンたちも進むのをやめ、落ちそうになった俺のほうを見上げている。皆が皆、落ちまいとする張の糸を切らさないようにしている中で、俺の押し殺したき聲を聞いてはっとしたのかもしれない。そう察して、ただ口元を吊り上げて笑うしかできなかった。ただこの嫌な覚を前に、上手く笑えているとは思えなかったが。
そんなアクシデントはあったものの、なんとか崖の下にまでたどり著くことができた。ここまでくると先ほどのあれはなんだったのかと思わず苦笑してしまう。
「なるほど、確かにこいつは波しぶきが凄いな」
「ああ。この近くの海にを捨てると大抵ここに流れ著く」
暗い闇から押し寄せてくる海の波は、まるで冬の日本海さながらの激しさだった。地形的にしり組んでいるので、その影響だろう。それにしても今からここを潛って泳ぐというのは、いささか無謀というものではないのか……口にはしないが、心の中でつぶやく。ここを渡ろうだなんて、ここにいる全員がそう思っているに違いないのだ。そうだとわかって、わざわざ不安を口にする必要はない。
それにだ。今隣には沙彌佳だっているのだ。まさか沙彌佳の前でそんな弱音を吐くわけにもいかない。今も転落しかけた俺の手を摑んでくれたばかりなのだ。これ以上、沙彌佳の前で醜態を曬したくはなかった。
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(はっ、何を考えてるんだ、俺は)
そんなことを考えた俺は、思わず苦笑しながら小さくかぶりを振った。沙彌佳の前で醜態だなんだと、なんだってまるで惚れたの手前でするようなを覚えなくてはならないのだ。あいつは妹、それだけではないか。こう思わせたのは俺のプライドのせいで、それ以外のなにものでもない。もしプライド以外にあるとすれば、それはおそらく過去のやりきれない後悔がそうさせているだけに違いない。
「そういえば、前に海から死が流されてきたって話を聞いたが、これだけの波ならそいつも當然だな」
俺は今しがた思い浮かべたことをかき消すように、ふと、そうつぶやいた。するとその言葉を捉まえて、ダイビングのため準備をしていたバドウィンが繋げる。
「ホームレス事件の話だな、それは。そういえばあれも今回の事件に大いに関わっている。半年ほど前にこの近くの浜に打ち揚げられていたところを近隣の住人が見つけた。元は判らずじまいだったが、私たちはこのホームレスこそ本の桜井だったんではないかと思っている」
「まさか」
思わぬ発言にすかさずそう返す。桜井の存在自が偽者だったわけではなく、桜井義人が偽者だったということか。それではあの松下薫と同じではないか。
「君の驚きも當然だろうが、桜井義人という人は実際にいるのだ。しかし、この桜井義人こそホームレスに仕立てられて殺されたのだ。君は聞かなかっただろうか、あの桜井と名乗った男がどういう経緯でシンガポールにくることになったのか」
「確か、渡邉政志が以前から行っていたプロジェクトチームのプロジェクトが破綻したことを機に、こっちにわざわざ計畫移転するためだったな。それが半年ほど前……半年……なるほど、そういうことか」
理解した俺にバドウィンが重々しく頷く。そういうことだったのか。半年前近く前といえば俺が島津研究所に乗り込み、完なきほどに壊滅させてやったときと時期が重なる。つまり、その直後から今回の話はいていたのだ。あの桜井は俺に政志から聞いて今回の施設建造計畫の話を知ったといっていたが実際には、本當の桜井義人もこの話を知っていたのかもしれない。あのの上話は俺の気をそらし、混させるための狂言だったのだろう。
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政志と本の桜井義人は、島津研究所の事件を知った直後から行を起こし、桜井が単シンガポールに訪れたということだろう。さすがに政志が桜井と同行していれば、さすがの政志とはいえ生き殘れたはずはない。あるいは、政志とそういった裏取引でもしたというのなら話は別だが。
だが、考えて見れば俺はあの桜井と政志が共にいるところを一度だって見たことがないのだから、偽者の桜井がいくらでも話を歪曲させることが可能だ。そのために海賊だってけしかけるような奴にとって、この程度のことは造作もないだろう。
「そりゃぁ自國民はもちろん、外國人登録者たちにだって該當者がいないはずだ。おまけに、當の本人にそのプロがなりすましたってんなら余計にだ」
本の桜井がどこまで政志の計畫を知り、どこまで関わっていたのか知る由もないが、どちらにしろ奴がどうしようもない計畫に加擔したという事実は間違いなさそうだ。
「となると渡邉政志はどうなんだ」
「もちろん知らないはずがない。未確認ではあるが渡邉政志は、おそらく桜井義人が今回この計畫に加擔するということを、あまり心地よく思ってはいなかっただろう。桜井義人の生前の行記録を簡単に洗ってみたが、一人で日本を離れてシンガポールにやってきたという事実は本當のことらしい」
「そこで始末されたというわけだな」
「そうなるな。政志にとっていくら専屬書という肩書きを持ち盡くしてきた者であろうとも、この計畫にそう簡単には加擔させる腹積もりはなかったようだ。どれほどの利権が絡んでいるのか想像もつかないが、ともかく渡邉政志にとって桜井義人は多くを知りすぎてしまったのかもしれない。あるいはそうでなくとも……」
「桜井がうろちょろすることを快く思っていない奴がいたか……」
「おそらく」
だとすれば、どの道桜井義人には生き殘る手立てなどなかったのではないか。話を聞く限りではそのようにしか思えない。もちろん、もっとうまく立ち回ることができればその限りでもなかったのかもしれないが、それも後の祭りというものだ。桜井義人が権力云々に興味があったかどうかは別として、下手に権力に近付けばこういうことになるという教訓にはなったろう。
このタイムワープの実験に関しては俺自も一〇〇%概要を把握しているわけでもないうえ、おそらくはそれを完全に把握することはできないほど多くの人員と時間、資金、利権が絡み合っているはずだ。となると、多かれなかれ甘いをすすろうとする輩は存在するわけで、こういった人間からすると桜井義人のような人間は切り捨てられることが前提になるだろう。利権に絡む人間は、決して他人に甘くはない。
「ま、だからこそ俺たちがいるわけだがな」
「どうした」
「ああ、いや気にしないでくれ。それよりもそろそろ行こうぜ」
思わずつぶやいたところを返され、俺は肩をすくめながら準備を終えた。どうやら他の連中はすでに準備を終えており、俺が一番最後だったらしい。
「君はダイビングの経験はあるか」
「今さら過ぎるぜ、その臺詞は。どの道あろうとなかろうと、海を行くしかないんなら行くしかないだろう」
なかば投げやりにそういうと男が首を縦に振った。それを皮切りとして俺たちは暗黒の海へとっていき、オクトパスを口に咥えてゆっくりと海水にを浸していく。どれほどの遠泳になるのか知れたものではないがアメリカが領海域を出たところで倣っている可能がある以上、一〇キロもあるわけではないだろう。その手前で仲間が待機しているに違いない。
だんだんと深くなってきた海水が、の手前辺りにきたところで水の底を蹴って泳ぎだした。荒波にまれるため、その勢いはあまり良いとはいえなかったが、海中にを沈めて泳ぐことができそうだ。周りの連中も皆似たり寄ったりで海中を泳ぎだす。しかしそれもすぐのことだった。連中は頭ごと海中に沈めた。どうやら海の中を泳いでいくつもりらしい。
俺もそれに倣って、軽くに反をつけて潛る。海上は高い波によって大いに荒ぶっているが、海中であればそれもいくらか穏やかになる。むしろ波にまれ続けていると、あっという間に力が消耗していき遠泳などできなくなる。もちろん、このあたりはまだ淺いので波の影響を大いにけるので、どうしても力を奪われるのでそれは仕方ない。
海に潛るとすぐに、背中に背負ったボンベから延びている耐防水のチューブの先にあるスイッチをひねる。ボンベ上部に取り付けられてある強力なライトが海中を照らした。もっとも、見えてもそこにあるのはライトによって白ずんだ黒一で、これ以外には、あとは同じよう他の連中がつけたライトの源が見えるだけだ。
暗い――第一印象もなにも、延々と続く闇の中はどうしようもなく暗く、どうしようもなく人に孤獨をじさせる。人間というのは足が地に著いていないとどうしようもなく落ち著かせなくするものだが、この黒一の海の中はそれ以上に、孤獨と得も言わせぬ恐怖を否応なしに與えられる。
それでもこの中を行くしかない。直前にバドウィンへいったことだからではないが、とにかく無理をせず慎重に進むしかない。ボンベの酸素は限りがある。力にも限りがある。そのどちらかが切れた時點で、待っているのは避けようのない死が待ち構えているのだ。
手をかき足をかき、確実に水の中を前進していく。張で全がどこか強張っているのがわかる。この張も自をうまく制すれば、それが大いに推進力を與えてくれる。俺はリラックスさせるために丹田呼吸で、より全に新鮮な空気を巡らせるイメージを浮かべた。
丹田呼吸は妙にリラックスさせることができる呼吸法だ。訓練生時代に鬼教の服部に、丹田呼吸は武の基本中の基本だと教わって以來、極力この丹田呼吸を行っているが慣れてくるとそれが當たり前になり、むしろこの呼吸法でないと逆に全が強張ってじるようになったというのもある。これをマスターしてからというもの、どこか集中力が強くなったような気がするのは、決して気のせいではないのだろう。
雑念を意識の外に追いやった狀態で進んでいる、そのうちに周りの連中が源を上に向け浮上し始めた。そろそろポイントに著いたらしい。俺も連中のように浮くイメージでを浮上させていく。しかし今日は雲が出ているらしく、どこまでが海でどこからが空気になっているのか、判斷のつけようがないほど周りは暗いようだった。
あとし、あとしだ。自分にそういい聞かせながら焦らないようゆっくりと足を使い続けると、途端に全にかかる圧力が抜けてが軽くなる。海の上に出たのだ。ようやく暗い海の中から顔を出すと咥えているオクトパスを外し、肺に新鮮な空気を取り込むために深呼吸した。
「よくやった。あそこだ」
バドウィンが指差す方向に、一艇のボートが浮かんでいた。今俺たちがそこに乗り込めば、あっという間に定員になってしまうんではないかというほどの小さなボートだ。その船の上から突然、こちらに向かって強い照明裝置のが俺たちのいるあたりを照らした。眩しさに思わず手をかざして目を細め、そこから早くしろという急かす言葉を頼りにボートへ向かって泳いだ。
「君が先に」
バドウィンは隊全員を先にボートにあげ、沙彌佳をあげたあとに俺にそういった。頷きながら梯子狀のタラップをのぼり船の縁に摑まって乗り込もうとしたとき、目の前に手が差し出される。
「つかまって」
「沙彌佳」
目の前に手を差し出した沙彌佳はいうが早いか、俺の手を摑みあげた。なされるがままに船にあがった俺は、手を摑んだ沙彌佳を見つめる。ダイビングスーツに頭の先まで包んでいる沙彌佳は、そんな俺のことなど気にした様子もなく、摑んでいた手を離しフードを下げて頭を空気に曬す。強いを発している船上の照明は、直接當たらずとも沙彌佳の顔を薄ぼんやりと照らしている。
「なに」
その様子を見つめていた俺に、沙彌佳は表一つ変えずに短くいう。そうにべもなくいわれると俺としても、なんでもない、としかいいようがなかった。そういわれてもおかしくないことをやっただけに、仕方ないとは思いつつも、無視されないだけはマシだと心の中でそういい聞かせ、俺もスーツをぎ捨てた。
すでにき出しているボートで北西へ三〇分ほどいき、そのポイントで出艇に拾ってもらう算段らしい。スーツをぎ捨て縦室にった俺が何気なく計を見つめていたところ、船に待機していた男がそう告げた。
「邪魔さえしなければ、ここにいてもいいぜ」
縦している男がそう得意げにいい、俺は苦笑しながら肩をすくめた。別に見るものなど特にないが、舵室からなんとなく真っ暗闇の海を見つめると、なんだかどっと疲れが出てくるじがしてため息をついた。結局この國にきたのは、ほとんど骨折り損に近い気分になったというのもある。
なかば勢いだけで日本を出て東南アジアに乗り込んだ俺だが、ここまでのところ、ほとんどといっていいほど果はあがっていない狀況だとすれば、そういう気分になるのも當然だろう。尖兵がいるという話も結局はそいつにいいように翻弄され、挙句にそいつが実は何度となく俺をつけ狙っていたハンターだったという、なんとも笑えないおまけ付だった。
その都度うまく逃れることができたけども、そんなのは偶然が重なって起きたことに過ぎない。この次また狙われることがあれば、それこそ本當に次はないだろう。ライアンにしてもそうだ。俺の知らないところで勝手に戦爭を始めた各國の諜報機関にしても同じ。
どいつもこいつも俺の行く手を阻み、しもこちらの思い通りに運ばない。連中にいいようにされるのは気に食わないが、正直どうすればいいのか迷う気持ちが大きかった。それにだ。奴らなど、もうどうでもいいと思う気持ちも強かった。ミスター・ベーアも武田も、もうこちらから関わらずにひっそりと姿を消しさえすれば、それでいいのではないのか。
しかし、それが許されないことも判っているつもりだった。連中は當然、今ここにいる奴らにしてもそうだ。プロの世界において、途中離などしようものなら、これまで何度も見てきたように瞬く間に連中がこぞって襲いかかってくることになる。不本意ながら、こうなると四の五の言える狀況ではなくなってくるため、この連中と行するほうがまだいい。
(それだけじゃないか)
そう、それだけじゃない。任された仕事の果などなくとも、こいつらと行を共にすれば、俺の目的であった沙彌佳といることができるのだ。これだけで十分ではないのか……もちろん、沙彌佳といるということはすなわち、これから先ずっと、あの気に食わない武田の野郎にいいように使われるということでもある。
奴への落とし前はどうなるのか。あの野郎はどうも俺のことが気にらない節がある。ずっと野郎の手先でいるとすれば、ことあるごとに俺への無理難題を押し付けてくるに違いないのだ。今回の件だって奴からすれば、篩いにかける意味合いがあり、俺を貶めるための工作であった部分が確かにあったわけで、奴の手先になるということはそれらを容認しなくてはならなくなる。
やはり、容認できるものではないだろう。ならば沙彌佳を連れて、ミスター・ベーアに頼み込むというのはどうだろう。やはりこれも無理だ。ミスター・ベーアも俺のことを疑っているようだし、今さら蟲の良いことをいったところで今後もそういう目で見られるのは間違いない。かといって他の諜報機関ではますます困難になる。
いや待てよ……。
「ところで、シンガポールを出た後はどこに行くつもりなんだ」
「マラッカ海峽へ出て、そこからジャカルタを経由して一旦オーストラリアへ抜ける。その後、日本だ」
「マラッカ海峽だと」
この連中は本気でいっているのか。マラッカ海峽といえば、それこそ東南アジアに出沒する海賊どものホーム、城ともいえる海域ではないか。まぁ、こちらは訓練された本業者ばかりなので多のことで連中に遅れをとるとも思えないが、だとしてもそれは々無謀というものではなかろうか。出くわして諍いが起これば、それこそアメリカが好機と襲い掛かってこない保証もない。
怪訝に眉をひそめる俺の視界の先に、暗闇の中を一隻の船がぼうっと波間を漂っているのが見えた。おそらくあの船がこれから俺たちが乗り換える船だろう。時間的にも、そろそろ連中のいう三〇分ほどにさしかかろうとしてる。
「マラッカの海賊たちのことを気にしているのかもしれないが、なに、そこは安心してくれていい。そんな手落ちはしない」
ニヤリと口元を吊り上げながらバドウィンが俺の肩に手を置いた。お見通し、というよりもそうした事に多なりとも詳しければ誰でもそう考え付くのは當然のはずだが、バドウィンたちは冷靜に落ち著いている様子で、丸きりじている様子はない。仕方ない。こうなればどうにでもなれだ。
「著くぞ。乗り換えの準備を」
縦幹を握っていた男がうまく停泊していた船に寄り付け、俺たちにそう促した。しかしバドウィンたちはすでに準備を終えており、すぐにも上船できる狀態だった。俺も持っていくものはないので、特に問題はない。ボートの甲板に出ると船からはすでにタラップが下りていて、向こうも出迎えの準備はできているようだった。
バドウィンらは沙彌佳も含めリラックスしているようで、かすかな張を漂わせていた。なんというか、その空気はいつでも銃を抜けるような気持ちでいる、狙撃手がターゲットを狙うためにいい狙撃ポイントを探しているときのような、あの獨特な雰囲気に似ている。
そんなどこかおかしな空気を漂わせながら、俺たちはタラップを上がり船の甲板にあがる。今まで乗っていたボートとは比べにならないほどこの船は大きく、ざっと一萬トンクラスの船だ。形としてはベトナム沖で出會った、例の海賊船よりも一回りほど大きいように思える。
タラップに出た俺たちを男が一人、三人の手下を従えて待っていた。その全員がいつ船から振り落とされてもいいようにか、浮きのったベストに良く見慣れた軍用のブーツを履いているのがはっきりと見え、そのただならぬ雰囲気から連中が普通の船乗りでないことが一目瞭然だ。見えないよう後ろに回してあったが、背中にかかっているのは明らかにマシンガンであるのが暗い影の中でもすぐに見てとれた。
「待っていてもらえて栄だ。おい」
連中のリーダーらしい男に向かって簡単な禮を述べたバドウィンは、これまで船を縦していた男を呼びつけ、持っているアタッシェケースを連中に差し出した。
「前金で半分。殘りは無事にジャカルタに著いたときに渡す」
「いいだろう。そういう約束だから、今回はそいつに従おう。おれたちの大事なお客様だ、手荒な真似をすることがないよう、他のもんにはいってある」
「そうしてもらえると、こちらとしても々と助かる」
そうした短いやり取りの後、連中が俺たちについてくるよう顎をしゃくり、後ろに控える三人が前に二人後ろに一人という形で船の中へと案する。いかつい連中に前後を挾まれた狀態というのはなんとも落ち著かないもので、最後尾をいく俺の後ろにいる野郎にどう対処すべきかと、つい思案してしまう。
「ここだ。お前たちには一番広い場所を用意した。不必要にこの中から出るな。なにかあっても俺達は責任は取らない」
それだけ告げた三人は扉を開け、顎で中にるようしゃくる。全員が中にったところで扉が閉じられた。鍵は閉めないようなので、一応は客人として扱われているらしい。が、どうにも連中のいかつい雰囲気には納得がいかない。明らかにバドウィンたちとは仲間というわけではなさそうだが、かといって好意的というわけでもないのだ。
「おいバドウィン。連中は一何者なんだ。ただの船乗りってじではないぜ、あれは」
「なに、連中は単なる海賊さ」
「海賊だって。連中が?」
再びニヤリとするバドウィンに呆気をとられた俺は間抜けな聲をあげて、思わず閉まった扉のほうを振り返っていた。まさか、あの連中が海賊だなんて……いや、むしろ海賊だというほうが逆にしっくりくるかもしれない。事実、そういわれると連中の醸し出す雰囲気は、まさしく海の荒れくれ者といったじはする。
けども、俺の知る海賊のイメージとは々乖離しすぎているがするのも間違いではなく、ベトナム沖で出會った海賊連中はもっとこう汚らしく、脛に傷を持つイメージを地でいっているじだったが、ここの連中はきちんとした規律があるのか、汚らしい言葉の吐く軍隊といった雰囲気なのだ。これを単なる先観で片付けられればそれまでのことだが。
「実際のところ、海賊なんてのはこんなもんさ。金のあるところは船も裝備も充実してくるうえに、海賊自の質、というのかな、そういったものも上がる。逆に金がなければ連中の質も落ちるというわけだ」
「なるほどな、つまりこの船は割合大きな場所というわけか」
「まぁ、そう考えて良いだろうな。しかし単にそれだけというわけではない。連中は本業こそ海賊なんてやってはいるが、それとは別に副業で稼いでいる者もいるのだ。もちろん、その副業も決して公にできるようなものでもないが」
説明を聞いた俺は、思わず肩をすくめた。それではまるで日本の経済ヤクザの姿と同じではないか。いや、今現在のヤクザと違い、金目當てだとしてもきちんと本業で稼ぐだめに他に副業をするという連中のほうがまだマシか。今のヤクザは結局のところ金だけで、自の利権にしか興味のない連中ばかりで、容は別ではあるが実態としてはそこらの民間會社となんら変わらなくなっているのだ。
こう考えると、改めて世界が金だ金だと質的にしかがり立たなくなってしまっていることを痛する。俺にはそこが今ひとつ実の沸かないところだ。金は確かに必要だが、必要最低限さえあればいいという俺のような考えは、この世界ではまかり通らなくなっているじがして、どうにも気持ち悪く思えるのだ。
「ま、いいさ。あとは連中がジャカルタまで送ってくれるんだろう? 俺はそのあいだ寢かせてもらう」
「ああ、しばらくは私たちも特にすることはない。君も眠れるときに眠っておいたほうがいい」
みなまで聞かず、俺はさっさと殺風景な部屋の奧にある扉の向こうにあるベッドへと向かった。バドウィンたちも各々で好き勝手にし始めた。そんな中、バドウィンと沙彌佳だけはその場を離れず、二人で何か話し合いを始めていた。その様子を見て俺も後ろ髪引かれる思いになって足を止める。しかし寢るといっておきながら突然そこに加わるというのもおかしいし、なんだか癪に障るのでやめておいた。
もし俺に重要なことであれば、バドウィンも引き止めてでも俺をその場に留めたはずだ。小さくかぶりを振ってため息をつくと、再びベッドへ足を向けた。あの男のいうとおり、今は眠れるときに眠っておいたほうがいい。今さらながらこの數時間分の疲れがを襲い始めていた。
ざわざわと誰かが囁く聲に、まどろみの中から意識が覚醒を始めた。うっすらと見えるそこには二人の男が対面し合い、なにか言い合っている景が見えた。
何者だ……。
そう口をつくものの、二人の男にその聲は屆かなかった。その聲は不思議とどんどん遠ざかり始め、逆にそれまで不鮮明だった視界がはっきりとづき始め、二人の男のうち一人の顔が必死に何かを訴えているように見え、聲はなくとも早口にまくし立てている様子がわかる。
この顔は……。
男の顔は俺の良く知る男の顔で、その必死の訴えにも関わらず次の瞬間、ぎょっとした表を見せて弱々しくかぶりを振った。
やめろ、やめてくれ――音が聞こえなくとも、その口のきは間違いなくそういっていた。こちらに背を向けているもう一人の男が、おもむろにその男に銃口を向けていたのだ。
それを見て俺は、思わず必死の形相をした男の言葉そのままにんでいた。
やめろ、やめるんだ――しかし、その訴えが聞きられることなく、無慈悲にも一回、二回、三回と引き金が引かれてその銃口から発された弾丸が見知った男に放たれる。
何が起こったのかわからない、あるいは味わったことのない痛みに言葉を失ったからなのか、その男の表は複雑に何度となく変わり、撃たれたを抱え込むようにその場にへたり込んだ。
その景に思わずんでいた俺は、急激な重力のうねりに巻き込まれ流されだした。
このとき俺は初めて、今自分が見ていたものが夢であることに気付いた。あまりに非現実的すぎて、逆に現実に思えるような不思議な覚。これまでとは違った覚にどうしようもない違和を覚えながら、流れにを任せ、あるべきに向かっていった。
近くに誰か人の気配をじて、俺は目が覚めた。しかし瞼はうっすらと開けるのみで、まだ意識はまどろんでいる。
「そろそろ著くから準備して」
その聲に反応してか意識は一気に覚醒し、上を起こすと聲の主のほうを見上げる。
「起きたみたいね。そろそろ著くわ」
「もうか、早いな。船に何日もいると昔を思い出す」
俺を起こしにきていたのは沙彌佳だった。ほとんど無表に見下ろしており、無駄口をたたく俺が覚醒したのを見屆けると何もいわず、すぐにその場を離れていった。沙彌佳が部屋を出ていったあと、意識せずため息がれる。やはり慣れないもので、妙に張している自分がいたからだった。
數日前にこの船に乗って以來、沙彌佳は時折今のようにして俺の傍に寄ってきては、簡潔に言葉をわしてすぐにその場を離れるといった行を見せていた。それとなく遠巻きに沙彌佳や他の連中の行を見ていて気付いたが、どうやらバドウィンたちは沙彌佳に対して本気で、なにか崇めるような敬意をもって接していることが判った。隊のリーダーであるはずのバドウィンだけが沙彌佳と対等に話をしているが、それでもどこか遠慮しているがする。他のやつらにいたっては、沙彌佳から話しかける時以外は、ほとんど自分から話しかけることがないのだ。
かといって沙彌佳のほうはといえば、別にそれを気にしている風でもない。というよりも、沙彌佳は話しかけるとしてもほとんど二言三言で會話を終えてしまうので、極力他の連中とコミュニケーションを取らないことを意識しているようにも思える。
そんな中で俺にはというと、さらにおかしなものでこちらからのけ答えには、ほとんど返さないというのが常だった。今の會話と同じ、會話の種を撒いたところで、その言葉をつかまえることはしなかった。返すとすれば、せいぜい仕事について、今後どのような方針をとるかのミーティングをする際にのみ、というなんとも笑えない狀態だ。
過去に俺がやらかしたことを思えば、無視されないだけまだマシなのかもしれない。が、それでもあまりに俺の知るあいつとのギャップの差が激しくて、こちらとしてもどこか込みしてしまっているのだ。再度ため息をついた俺は、かぶりを振って支給された半袖のジャケットをはおると、部屋を出て隅にあるテーブルに集まっている連中のところまで足早に寄っていく。
「起きたか。そろそろ著くぞ」
「見たところまだ海上のようだが、ここからまた泳ぐってわけか」
「その通り。さすがに堂々と港にっていける道理はないからな。だが、ここらは船で航行するには々難しい淺瀬になっている。泳いだとしても、この前ほどじゃない」
バドウィンに肩をすくめて見せ頷き返した。どうやら、ここから先はまた泳ぎになるらしい。ジャカルタからはオーストラリアへ向かう予定らしいが、そこからもやはり船になるだろう。空港に行こうものなら、他の諜報機関に気付いてくれといっているようなものだ。
オーストラリアから日本へは飛行機になる。聞けば空港の重役に現地の報員がいるらしく、その人の好意で日本行きの手配をしてくれたという。どっちにしろ予期せぬ形で再び日本に戻ることになった俺だけども、おそらく今後日本の地を踏める機會はそう多くはないだろう。留まるかどうかは別問題として、それは間違いない。
だとすれば、向こうで清算すべきことは全て清算すべきかもしれない。ふと、バドウィンと簡潔に今後の打ち合わせをしている沙彌佳を眺めつつ、どこか傷的な気分に浸っていた。親父やお袋といった家族とのこと、日本にいるであろうミスター・ベーアのこと、それに綾子ちゃんとのことだってそうだ。
特に彼とのことは、々な意味で俺の分岐點になっていることもあって、特にナイーヴな問題ではあるが、もう日本の地に留まれる回數がないとなっては、しのごのいってはいられない。罵詈雑言も覚悟で彼に顔を合わせなくてはならないだろうが、それも最後だ。むしろ、それだけ責められるというのなら謝すべきことだろう。あれだけのことをいっておきながら、とんだ大馬鹿野郎とも思うけども、自分なりのけじめをつける意味で避けては通れない。
そう考えると、自然とこれまでのもやもやとしたものが一気に晴れ、やる気が沸いてくる。なくとも、これまでのように求めているものがあるのかないのか、それすら希的観測の範疇であったことを思えば、さほどのことでもないのだ。沙彌佳との関係は、そのあとに決めればいい……うまくいくかどうかはまた別問題だけども、今度こそ自分の中で答えを出せそうな気がする。
それにだ。気になることもある。おそらく、これについてはあの男、田神の知恵を借りる必要も出てくる。松下を名乗っていたに打たれたあの薬。推測の域を出ないが、これまでの経緯とライアンの語っていたところを當てはめて考えれば、あれがNEAB-2に関するものであることは間違いないように思われるのだ。
だとすれば、必然的に沙彌佳とは無関係ではなくなる。それがなんであるのか、もっと詳しく知ることができれば武田への対抗策も摑めてくるかもしれない。なんせ、どういう理由かはしらないがあの野郎は沙彌佳とずっと一緒にいたことになるのだ。沙彌佳はほとんど口を利かないため詳しい事はわからない。だとしても、この辺りの事によって奴が沙彌佳をずっとそばに置いていた理由やなんかもわかるだろうし、沙彌佳が俺の前から走り去ってからここまでの期間どうしていたのかも必然的に判明するに違いない。
それさえ達できれば、もはや今の俺に必要なものはほとんどないといっていい。確かに腹の底からむかつく連中というのもいるわけで、俺の考えや信條からいえば到底そんな連中を放っておくわけにもいかないのだが、こうして目の前にした事柄をそのままにしておくことのほうがやはり寢付きも悪いというものだ。
もちろん理由はそれだけではない。日本に戻れば、俺の周りは敵だらけになる。今現在も遠いか近いかの差だけで、狀況的にはなんら変わりはないので、しばらくは同行することになるというバドウィンたちと行を共にしているほうがメリットはある。なにより、この連中といさえいれば沙彌佳とも一緒にいることができるのだ。これ以上のメリットがどこにあるというのか、そんなのは考えるまでもない。
ともかくだ。日本に戻ったら、すぐにでも田神と合流することにしよう。田神もプロだから心配することはないが、やつのことだから何かしら有益な報を摑んでいるに違いない。どこからともなく俺に必要なことをらしてはまたどこかへと去っていく、あの男はそういう男なのだ。だからこそ、あの男とは會っておく必要があり、また會っておかなくてはならない。
とんだとばっちりをけるはめになったが、田神もなんらかの形で同様の狀態になっていないとはいえない。俺のことが知られているならば、そんな俺に関わった田神のに何もないということはないだろう。とはいえ田神のことだから、俺よりもスマートにこなしているのは想像に難くないので、そこは問題ない。あの男にとって問題があるとすれば、おそらく自の求めるものへ障害そのものだ。そこに立ち塞がる者が障害にならないわけではないだろうが、そんなことはあの男にとって瑣末なことのような気がする。
なによりも、沙彌佳ののことが一番の気がかりだった。もちろん俺自、周辺が慌しくなっているので問題がないわけではないが、俺にとってはどういうわけかそんなことよりも、あいつのに起こったことのほうが気になって仕方なかったのだ。
つい昨夜、夜明けも近い深夜のことだった。メンバーの全員が寢靜まり、ジャカルタへ向けて航行していた船のごんごんと不気味に鳴り響く音に目が覚めたあの夜、たまたま風をじたいと思って部屋を抜け出し甲板へとあがったあの日。そこには寢ているはずだと思った沙彌佳が一人、遠い北の海を眺めていたのだ。
思わず甲板へ続く扉の影に隠れた自分がけなく思いながらも、すでに扉の開く音に向こうも気付いているはずだと思って、ため息一つ、そっとあいつの近くにまで靜かによっていった。記憶にあるままの腰の辺りまである長い髪は、風にさらされ靡なびいている。
「沙彌佳」
「……なに」
沈黙まじりの応答に、やはり言葉が続かない。昔は俺が呼べば沙彌佳がすぐに話を始め、話題に事欠くことなどなかったはずなのに、今ではそうしたことがまるで噓だったかのように、く冷たい空気が二人のあいだに隔たっていた。この空気をもたらしているのが、かつて俺がどっちつかずでいてしまった結果なのだと思うと、無意識に表が歪む。
あれだけ毎日べたべたと鬱陶しく思うこともしばしばながら、なんだかんだでそれをたっぷりと甘していた俺と沙彌佳。いつだったか綾子ちゃんが、二人の間にる隙間もないくらい、と比喩していたのを思い出すけども、今となってはそんなのはもはや夢語だ。だからこそ、この機會を逃すわけにはいかなかった。これまでは當然、今後も二人きりになれる機會などそうそうあるようには思えない。いつまでも逃げているわけにもいかないのだ。
そう頭の中ではわかっているはずなのに、どうしても言葉が思い浮かばない。なんと聲をかければいいのか。今までどうしていたんだ。島津の研究所から抜け出した後、一どうやって……聞きたいことは山ほどある。すぐにも沙彌佳を抱きしめて、またあの髪にれたい。そんな気持ちとが呼び起こされては、泡のように消えてなくなっていく。その都度、あの走り去っていく沙彌佳の後ろ姿が思い起こされてくるためだった。
「なに? なにか聞きたいことがあるんじゃないの」
「あ、ああ」
「……島津から抜け出すことからできたのは、ほんの偶然だった」
なにを口にすべきか迷う俺に不意に沙彌佳のほうから切り出してくる。今まで無のままだった言葉に、どこか責めるようながあった。
「抜け出すことができたあの日、たまたま研究主任だった坂上という男に來客があった。他の研究員がしていた會話の斷片から、イギリスからある研究者が坂上を訪ねるっていっていたわ。私は見ていないからその人がどんな人だったのかは知らない。だけど、その人が坂上の研究に使ってみたいからしの間だけ、貸してくれないかってね。
坂上は私に施した研究果をその人に取られたくないからか、自分の見ているところでならというのと、あくまでこれは自分の研究果であることを條件にそれを許可した。車に輸送して一時的に海外へいく手続きをすることになったわ。どこにいくかなんて私にはなにも知らされなかったけどね。
そしてあの日、車に輸送され空港に向かうことになったあの日、彼が現れた」
「彼」
沙彌佳の口から”彼”という言葉が飛び出たとき、どういうわけか心臓が飛び跳ね、思わずオウム返しになっていた。
「そう。輸送車に乗せられて空港に向かう途中、車が突然つぶれるようなすごい衝撃と音を響かせて急停止した。私は簡易ベッドの上に拘束や拘束をつけられていたから、車の中で転がるようなことはなかった。ベッドが床に固定することができるタイプだったからだけど、坂上や他の研究員たちは皆床になぎ倒されてた。
もちろん窓ガラスも割れたわ。固定されていた私の上に、割れたガラスの破片が散らばってきたもの。だけど、その割れた窓からなんで車が突然停止したのかもわかった。そこには、全丸でぼろぼろになった人が蹲るようにして佇んでいたのよ。なんであの人がだったのか私にはわからない。けれど、決して人通りの多くない道にで、それもがくすんでぼろぼろになっているなんて、とても普通じゃない。ただ、この人はなにか、とてつもないことに巻き込まれてるんじゃないかって思った」
話からそのボロ雑巾のようにずたぼろだった奴が、車を襲い、中にいた沙彌佳を救出したということになるらしい。けれど、俺はその話を聞いただけなのに、どうしてか心がざわめき立ち、怒りにも嫉妬にも似た暗いものがたゆたいだしたことを、わずかながらに自覚した。
「坂上はそのまま気を失って事なきを得たみたいだけど、他の研究員は不幸なことに意識を取り戻したために、彼に殺された。目の前で何が起きたのかわからなかった。けれど、彼は私も手にかけようとしたのにその手を止めて、拘束を外してくれた。私の手をとって、逃げるぞといってくれたわ」
考えすぎかもしれないが、最後の手を取ったというのはまるで、俺への當てつけのような気がした。おそらく、沙彌佳もまた俺が手を取ろうとしてその手を振り払ったことを思い出したのかもしれない。
「その男というのはまさか、武田、だっていうのか」
「……」
沙彌佳は遠くを見つめたまま答えない。しかし、それが暗黙の答えとして俺にのしかかる。なんということだ。どういうつもりで武田が沙彌佳を運ぶ車を止め、沙彌佳を連れ出したのかはまるでわからないが、島津を出した後、ずっと武田と行を共にし、挙句にその武田の手先として今はいているというこの事実が、俺をどうしようもなく困させる。
「それからというもの私、んな場所を巡った。東西南北のヨーロッパからアメリカ、それにインドなんかにも。どこか一箇所に留まり続けることはなかったけど、なにか安らぎにも似たものをじていたのは確か。あなたと別れてからというもの、あの島津やその前の凰館でのことは、本當に苦痛でしかなかったけれど、そのときのことが頭から消し去ることができたくらい。そして一年半くらい前に日本に戻ってきた」
「つまりそれは、仕事を請け負って、ということか」
「そう。日本ではしばらくの間しなきゃならないことがあるっていっていたから、一番長く留まっていたかもしれない。もちろん、気持ちとしては複雑な思いもあったけど、それでもどこか落ち著くじもした。あのときまでは」
淡々と語る沙彌佳の口調がここにきて変わる。怨嗟の念が込められているような、そんな負のをじさせる口調だった。
「ある日、武田さんが私にいったのよ。とても、とても貴重な人材がいるって。だから私と一度手合わせしてみないかと」
再び心臓が跳ねあがり、記憶の渦から沙彌佳のいったことがなんであるのか、頭がフル回転しそれを引き出した。
「……あの廃工場か」
「そういうこと。私も驚いたわ。まさか、私を”こんな風”にしてしまった元兇が目の前に現れたんだから」
元兇……。そうか、そういわれたって仕方のないことだから、俺としてはそれ以上語る口は持つことなどあり得ない。あの日、嫌われようが沙彌佳のあとを追ってさえいれば、こんなことになどなることはなかったのかもしれないのだろうから。
「じゃぁ、やっぱりあそこでは本気で?」
「そうなるね」
簡潔ながら、これ以上ない重い言葉だった。あまりに、あまりに俺と沙彌佳との溫度差には激しく、それはマグマと絶対零度を比較しているかの如く、互いの中に見出したそれはまるで正反対のもので、盾と矛を突きつけ合っているかの如く、あまりに馬鹿らしくなってしまった。
「なに、なにがおかしいの」
「いいや。なんでもないさ。それがお前の答えだっていうんなら、もう何もいわない」
突然笑い出した俺に、沙彌佳は整った眉をわずかにひそめて憎たらしげにいった。自分だって何がおかしくて笑い出したのか、明確な答えも意味もない。ただ、全てが馬鹿らしくなった、ただそれだけだった。沙彌佳は斷片的に大まかなことを口にしたに過ぎないが、その中であの武田と何年もの間ずっと行を共にしていたというその意味に、なんの想像もできないほど子供じゃない。
結局は俺のやっていたことは、単なる獨りよがりでしかなかった。頭のどこかでそれを理解できないわけでもなかったが、いざそれが他人の口から遠まわしに突きつけられると、やはり自分のやってきたこと全てが茶番にしか思えなくなる。良かれと思ってきた全てのことが、なにもかもだ。
「そうそう、最後に一つだけ聞かせてくれよ。坂上は日記に書いてたぜ、お前に打った薬は三週間に一度投與しなければならないものだってな。だけどどうだ、その張本人はこうして生きてる。それについてはどうなんだ」
笑いすぎで涙混じりになった瞳をぬぐいながらいった俺に、沙彌佳は答えない。
「なあ、どうなんだ」
「……わからない」
「わからない? じゃぁなんだ、おまえは三週間に一度打たなくてはならなかった薬に対して、抗ができたとでもいいたいわけか」
「そう、なのかも」
曖昧にいう沙彌佳に、ようやく笑いが収まってくる。そうなのだ。いくらこれまでのことについて辻褄が合おうと、こればかりはまだ謎のままなのだ。あのNEAB-2によってもたらされる効果は人に限りなく危険なものだ。それをただ一人、三週間とはいえ持ちこたえさせたというこの事実の説明について、いまだ俺の前に掲示されてはいない。
「まぁいいさ。だったら日本に戻ったときにでも、暇つぶしに捜してみるとしよう」
「……嫌なひと」
「ああ、そうさ。俺はもう過去の俺じゃない。おまえもそうだったように、俺もまた変わっちまったんだ。もう何もかも馬鹿らしく思えるほど」
吐き捨てるようにそういった俺は、これ以上の言葉は意味を持たないとして扉のほうへと向かった。背後で、わずかにじろぎするような気配をじながらも、俺は振り向くことなく階段を降りていき部屋に戻ると、を投げ出すようにベッドへと倒れこむ。
(……ちくしょうが)
再びもんもんとしたものが込み上げてくるものを覚えながら、それを振り払うようにく目をつぶった。そうさ、もう俺の役目はとうの昔に終わっていたのだ。それを勝手に塞ぎこみ、取り戻してやるんだと息をまいていた俺が本當に馬鹿らしく、唾棄すべきものにすら思えてくる。
けれども昔からの癖なのだろう、沙彌佳がなぜ三週間もNEAB-2の効果に耐えられたのか、これについてはどうしても気がかりになった。結局、俺は田神は當然、あの気に食わない武田の野郎ともまた會い、その辺りについて詳しく聞く必要が出てきてしまったのだ。
同時に、今の俺なら武田と會ってもさほど飲み込まれるようなことはない気がした。あの得の知れない雰囲気を醸し出す武田と、ようやく対等になれる、そんな漠然としたものをじながら遠くに見えるジャカルタの街の燈りを見つめていた。
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