《いつか見た夢》第105章

黒い窓ガラスの向こうで、累々と見えるネオンの輝きが流れては消えていく。いつもなら気にも留めないその景を、どことなく慨深げに眺めていた。

しかしそれは、単に乗り込んだ車の空気に耐えられなくなった逃げ道でしかなかった。橫目で運転席へ視線を移せば、肩幅の合わないシャツをきた男がこちらなど一切気にすることなく車を運転させている。そして隣の助手席には、つい先ほどホテルで窮地を救ってくれた妹である沙彌佳が座っていた。

それがなんとなく居心地を悪くさせていた。そう思っているのは、あるいは俺だけなのかもしれないが、とにかく居心地が悪くて仕方なかった。考えてみると、沙彌佳と再會できたというのに、どういうわけか俺はあまり的な気持ちになれないでいるのだ。もちろん、初めこそようやく出會えたという嬉しさこそあったものの、今ではそれが本當に良かったのかという疑問が、気持ちのどこかにあるようでならないのだ。

もしかするとそれは単に失った事実によってそれ以前の記憶の化と、その頃のまま時間が止まったことで沙彌佳という、自が持つイメージを求め続けていたことによる現実とのギャップがそれを増長させているのかもしれない。失われた六年という時間は、あいつを変えるには充分過ぎる時間だというのに。

(……いや、それはお互い様か)

思わず自的に口元を歪めた。俺とてこの六年のあいだにどれだけ変わったというのか。それは沙彌佳の変貌ぶりと全く同質といえる変貌ぶりではないか。今の俺にあいつが変わったといえるほどの資格はない。ただ、おそらく俺とあいつの決定的な差を挙げるとすれば、自分自の意思で変貌をんだか否か、この一點に盡きるだろう。

的に苦笑していた俺は、おもむろに後部座席の首もたれに思い切り後頭部をもたげた。自分がいくら過去のあいつに対して幻想を持とうが、今のあいつも過去のあいつも同一の人間であることに変わりはない。なのに、それを認めようともせずにいつまでも過去に縛られているのは、あまりにけない話だ。

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第一、俺自だって変わったというのに、あいつの変貌ぶりを認めないというのはあまりに不公平というもので、フェアじゃない。そう思い至ると、あいつにどう思われていようが途端にどうでも良くなった。たとえそれが、後味の悪い別れ方をした結果だとしても。

「それで、俺たちは今どこに向かってるんだ」

「おいおい、俺たちは必死にあんたを探し出したってのに、禮の一言もないのか」

「そういうあんたは禮がしくて俺を助けたのか」

運転手の男の軽口に早々と返し、沙彌佳に向かって続ける。

「お前たちが俺を探したってことは、なにかあったってことだろう。何があったんだ」

「これ見て。多分、見覚えがあるはず」

相変わらずの短い問答のあとに、黙って前を向いていた沙彌佳がこちらを振り向いて數枚の寫真を差し出してきた。無言のまま俺は寫真をけ取り、そこに寫し出されている畫を目にして思わず眉をひそめる。

「なんだこいつは。いや、確かにこれは見覚えがあるが……」

「それが撮影されたのが今から六日前。その翌日、撮影した者は命からがら逃げ延びて、私たちのところにまでこの寫真を屆けてくれたわ。それが四日前のことよ」

四日前といえば、ちょうどバドウィンたちからの定期連絡が途絶えた頃ではないだろうか。つまり、命からがらということもあり、何かしら作戦の続行に不備が出た、もしくは不可能になった可能もあると見ていいかもしれない。

(それにしても)

俺は沙彌佳から渡された寫真を一枚一枚味しながら収められている絵に目を奪われた。そこにあったのは、とても自然が創りだしたものとは思えない異形のものたちの姿が克明に映し出されていたのだ。

ある一は、緑とも茶とも紫ともとれない不思議な合いをしていて、丸々と太ったトカゲのから何本もの蛇頭の首を持ち合わせている。また、ある一は寫真からでもはっきりと窺えるほど質そうな表面で、それらがと思われるそれぞれの部位を覆う鎧のように見えた。その鎧らしきものは鋭角的で、そのどれもが日本刀の切先よろしく尖って人間の皮や筋などれただけで簡単に裂けてしまいそうだ。

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さらに次の寫真にはどこかで見覚えのある姿をした異形の生が映っていた。ややピンぼけしまっているが、四本の手足で地面を這い、面長の顔は鼻と口がびてまるで犬……いや、狼に近いかもしれない。しかし、四肢は狼や犬とは全く違う人間のもつそれで、背中からは剣山にも似た逆立ったが特徴的だ。

「こいつは……見覚えがある」

それを見た俺は思わずつぶやいていた。あれは確か……そう、ミスター・ベーアの屋敷に真紀と綾子ちゃんとを連れ立っていったとき、ミスター・ベーアから見せられた某國の基地の映像ではなかっただろうか。あの映像に、異様な雰囲気を醸し出した男二人と最後にこの寫真に寫った異形のものの姿が確かに映っていた。

「今から、あなたにはその寫真を撮った人に會ってもらうつもり。あなたの報提供者だというから」

「俺の?」

報提供者というのはそれはまさか遠藤のことだろうか。いや、あのにこんな寫真を撮るほどの撮影技などないだろうし、あったとしてもこんな危険を冒せともいってはいない。なにより、仮にそうだとして、先ほど會ったときになぜこれらを渡さなかったのか、というこにもなる。つまり、俺の報提供者とやらは別の誰かということになるが、果たして問題はその誰かというのがいかんせん全く浮かんでこないのだ。

「どうも、以前あんたに助けられたって話だぜ。妙に口の堅い奴で、あんたと話をするまでは誰にも口を割らないといってきかないんで、こっちとしても早急にあんたを連れてくる必要が出てきたってわけさ」

運転手の男の言葉を聞いて、なおのこと頭が混してくる。その報提供者というのは一誰なのだ。今までバックグラウンドの摑めない連中が俺の周囲を見え隠れしていたことは何度もあったことなので今さらではあるが、今度は一転して、謎の報提供者というのはどうにも勝手に違うというか、変な気になって仕方ない。不名譽ながら自分がそれだけ危険にを曬してきたということにもなるのだろうが、だとしても逆に俺を狙った暗殺者か何かではないのかと疑っているのが正直なところだった。

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俺は小さくため息をつき、肩をすくめるとシートに淺く腰かけ、ぐっとを沈めた。いつしか車は、都心を抜けて小灑落た街の一畫を進んでいた。

目的地に著いたらしい車を降りて沙彌佳と男二人に連れられてやってきたのは、どこか古めかしく、それでいて懐かしさをじさせる街の一畫にあるビルの中だった。古びたビルはバブルの頃に建てられたようだが、よほど経営が上手くいかなかったのか今は無人のまま放置されていたのを、バドウィンたちが地権者から一時的に借りけしてアジトの一つとして使っているらしい。

しかし、案がてら俺の先をいく男に連れ立って進んでいくうちに、なるほど、なぜこんな古びたビルをアジトにしたのか頷けた。階段を昇っている際、遠くに都心のビルが見えただけでなく、裏路地への抜け道やそれらに連なって大通りへと抜けやすいという、アジトにはうってつけの好立地であったのだ。なんとも実務的なバドウィンらしい件だと、思わず苦笑した。

「ここだぜ」

男が連れてきたのは、そんなビルの三階にある部屋で、中には四人の人が俺を待っていた。

「きたな」

部屋にった俺を見て、連中のリーダーであるバドウィンがこちらを振り向きながらそういった。

「あんたが報提供者なはずはないな。となると」

挨拶代わりにそう返し、バドウィン以外のメンバーを見渡してみると、その中に意外な顔があるのが視界に映って目を見開いた。見間違いか……いや、そんなはずはない。報提供者というのはまさか、この男だというのか。

「ジョージ、ジョージ・ルイスだったな。なんであんたがここに……いや、そもそも報提供者があんただってのか」

「やぁ、久しぶりだな、九鬼」

そうなのだ。そこにいたのは、シンガポールに渡る前にベトナムで別れたはずのカナダ人、大學院にまでいっておきながらフリーカメラマンになったという変わり者のジョージ・ルイスだったのだ。強持て三人に囲まれていながら、ジョージのやつは気軽にそういって座っていた椅子から立ち上がり、抱擁をわしてきた。

「待てよ、あんた一どうやって日本にきたんだ」

「そりゃもちろん、きちんとした手続きを踏んできたに決まってる」

「俺がいいたいのはそういうことじゃない。なんであんたが俺の報提供者になってるのかって意味だ。それに、俺があのあと日本に戻るなんてことは一言もいってないはずだ」

そうだ。俺はあくまで仕事上のり行きで日本に戻ることになったに過ぎないわけで、決して日本に戻るなどといった記憶はない。なのにどういうわけか、このカメラマンはこうして今日本にいて、今俺の目の前にいる。おまけに頼んでもいないのに報提供者として日本にやってきているというのだから、これが驚かないはずがない。

「きちんと話すよ。まぁ僕も々と驚いている部分もあって、全てを信じ切れているわけでもないんだが。

僕は君と別れたあの晩、村人たちとともに火の手の回らない丘にまで逃げた。地元の人々はそこにまで海賊がやってくるんではないかと思っていたようだったが、結局夜明けになってもその様子がなかったので事なきを得たところ落ち著いたので村に戻ったんだ。それはもう酷いものだったよ。

連中、なにもない村からありったけの食料やなんかを持ち去ったあげく、火を放ったんだ。だけどあの村があんなにまで寂れていたのは、數年前にも海賊からの襲撃をけたためらしい」

なるほど。いくら発展途上國とはいえ、アフリカの國家ほどの経済的國難に陥っているという話は聞いてはいなかったのに、あそこだけは異様なまでに寂れていたのは、そういう理由からだったのか。俺が納得いったのを察してジョージが続ける。

「さすがにいたたまれなくなって僕は村の復興のために手伝いやなんかをしつつ寫真を撮っていたときだ、僕に話があるといって一人の人が話しかけてきた。その人が……」

ジョージは言葉を區切って、俺を今しがたここまで連れてきた車の運転手の男のほうに目をやった。

「なるほどな、この男になんらかの報提供者になってくれと頼まれたってことか」

「彼に君のことを尋ねられたのは間違いないさ。しかし報提供者には僕自ら志願したんだ。君の、あの荒れくれ者二人を瞬時に薙ぎ倒した技や、有事にも関わらず、仕事だからといって危険の潛んでいるかもしれない村はずれの港にまでいった行がどうにも引っかかっていたんで、興味がわいた。

志願したばかりのとき、あまり快く思われていなかったのは彼らの態度からすぐに判ったが、そんな中でどうしてもというのなら、すぐにでも調べてもらいたいことがあるからと、君に渡ったはずの寫真を撮りにわざわざアフリカにまでいってきたんだぜ」

「この寫真を撮るためにアフリカまでいったのか」

つい先ほど車の中で手渡された寫真の束を手に、ジョージと寫真を互に見比べてのろのろと首を振った。変わり者だとは思っちゃいたが、ただそれだけの理由でこんな危険を冒すなんて、やはりジョージという男は相當の変わった奴だとなかば呆れ気味にため息をついた。

「まぁいい。撮ったこの寫真を俺に渡すために、バドウィンたちと連絡を取り合って日本にまでやってきた、こういうことだな」

「そういうこと。自分でもその寫真を撮るまで、この世がいつの間にかこんなファンタジーに満ち溢れているとは思いもしなかった。いや、ファンタジーというにはあまりにリアル過ぎるかな。むしろ、人類の進むべき未來の一片を垣間見たような気がするよ」

この寫真の中に収められている異形のものたちを目の當たりにしながら、ジョージは何かを悟ったように表を曇らせる。しかし、そうはいいつつもその眼には明らかに好奇心を滲ませてもいるのが窺えた。もっとも、ジョージがぼやくのも當然というもので、俺とてあの島津研究所で、あるいはシンガポールの海底で実を目の當たりにしなければ、とても信じる気にはなれないような話なのだ。

「しかし……アフリカにいったってことだが、どこでこんな寫真が撮れたんだ。確かにアフリカはいつもどこかで國外に関わらず紛爭や部族間闘爭が起きているのは知ってるが……こんなのが撮れるほどの紛爭というのは聞いたことがない」

思わずそう口にした直後に、はっと気付いて口をつぐんだ。それをジョージが引き取って続ける。

「もちろん、そうだろう。しかし僕が見た事実とバドウィンの話したことが本當だとするなら、これが撮れたのも當然だぜ。今、各國は水面下でとんでもない狀況になっているらしい。ある一人の人がなにやらとんでもないものを盜み出したことが発端らしいんだ。

そいつの名前も國籍も今のところわかっちゃいないけど、どうやら日本人であるらしいということだけは數ない目撃証言からわかっている。日本語を喋ったそうだからな。あるいは、日本を貶めるための中韓の工作員という線もあるかもしれないが。

まぁ、この人の國籍は置いておくとして、もしかしたら君も聞いたことがあるかもしれないが、そいつはある組織に捕まっておきながら見事に出した人だという。こいつがおそらくはパンドラの箱を開けてしまったんだ」

ジョージの言葉に冥土の土産にクキの名を発したというスパイのことを思い出す。俺がこれまでのところ最も謎に思っていることの一つなのだ。桜井との一件もあってか、奴のことをその人ではないのかと疑ってはみたものの、どう考えてもそれはありえないことなので結局は振り出しに戻ってしまう。奴はミスター・ベーアや武田側の人間とは違って、ライアン、つまりはMI6側の人間だ。聞いた話によればそいつはロシア側のスパイだったという話なので、そもそも桜井がそうであるはずがないのだ。

しかしながら、そいつが俺に対し何かしらの怨み辛みを持っている節がじられるのはどういうことなんだろう。出の狀況が今ひとつわからないので推測の域を出ないが、仮に咄嗟だったとして、俺と出會い、何かしらのアクションをとったことのある奴でなければ、名前を出すことはなかったはずだ。つまり俺に出會ったことのある人であるに違いないことになるが、どう頭をフル回転させようともそんな人間は一向に浮かんでこない。

それに、今ジョージが口にしたパンドラの箱、というのも気にかかる。産業スパイだというが、だとすれば一なにを盜み出そうとしていたのか。その野郎が拿捕されるきっかけになったのは、まさしくそれが原因なのだから、こいつがなんなのかはっきりさせなければならない気がする。

もっとも、ある程度のことはこれまでの狀況からわからないでもない。こいつがロシア側の人間だというなら、ロシアの思をある程度知ることができれば、そいつが何を盜もうとしたのか、自ずと判明してくる。俺がそう口にすると、ジョージやバドウィンは二人して頷いて見せ、バドウィンが口を開く。

「実のところ、ある程度のことは判ってきてはいる。君の言う通り、あくまで推測でしかないし狀況証拠しかないが、なくとも今後のヒントくらいにはなると思う。

アメリカが四ヶ月ほど前に、ロシアに接している國に対して巨額の資金を出したことは君も知っての通りさ。ここで考えてみよう。そもそもなんでアメリカが金を出したのか。もちろん例の魔の討伐作戦のためだが、ロシアに接している國のことをロシアが本當に何も知らなかったと思うか。

答えは否だ。FSBやSVRを有する國がそんな水面下のきを察知していないはずがない。ではなぜロシアがそれを許したのか。ロシアはすでに魔と呼ばれたの存在をすでに知っていた。そして彼が、実質的にロシア側の人間だとすればどうだろう。

ところで話は変わるが、そもそもロシアという國そのものは正教という、一応はキリスト教圏に屬する國家だ。そんなロシアではあるが南方に接している國々がイスラム教圏とあって、南方領は大半がイスラム教徒であることが珍しくない。つまり、ロシアはそんな國々については一応の措置ではあるが庇護下においているのが現狀だ。こうした事もあってロシアは、アメリカが中心となって展開している中東、アフガン侵攻について靜観を決め込んでいる」

頷く俺に、今度はジョージが続ける。

「靜観とはいうが実際にはロシアもイスラムについては頭を悩ませているのは事実のようでね、イスラム圏にってくる地域では宗教を大義名分とした諍いが起きていないわけじゃない。ロシアもなるべくそうした事実が知れ渡らないよう作しているようだが、こうした事から、公にアメリカの侵攻作戦についてあまり聲を大きくしないようにしているみたいだな。

アメリカはそうした思と裏事から、某國に資金援助をすることにしたんだ。つまり、ロシアは周辺國を庇護下に置いてはいるが、そうした國々はやはり國民という観念からロシアについてあまり良いように思ってはいない。だからこそ、國連、引いてはアメリカに頼ることにしたってわけだな。正不明の一人を差し出すだけで、それ以上に大きな見返りがあるとすれば國家の財政狀況を見て乗らないでいられない、破格の條件だ。

こうした理由があれば、アメリカは資金援助という大儀の元、自軍を遠征に出すことが事実上可能となる。しかし、この魔はすでにロシア側についている人間で、対アメリカの策を講じていたとしたらどうだろう。アメリカが獨自の編部隊を送り込んだものの返り討ちにされたのは、こうした理由があるみたいなんだ」

「つまりはその魔とやらは、ロシア側と綿な策を張り巡らせることができるほどのルートを持っているわけか。魔はすでにロシアの部隊とともにアメリカ部隊を待ち伏せしてたっということだな」

「そういうこと。そしてここで例の産業スパイが絡んでくるんだ。まずはこいつを見てほしい」

ジョージは脇に置いてあった薄型のノートパソコンを持って、畫面に映っているのはどこかの深い森の中のようだった。深緑の葉が鬱蒼と多い茂り、それらの木々に絡みつく蔦がところどころでを垂らしているのが見える。ジョージの説明によればそれらは、アフリカ取材中にたまたま知り合った人から貰いけたUSBメモリーに収まっていたデータだという。

このデータ寫真をボタンで次々にクリックしていき寫真を飛ばしていくと、あるところでそのきが止まって映し出された寫真に目が釘付けになった。

「こいつはロシア側の部隊を指揮していたと思われる人さ。名前は……」

「ボーリン。ドミトリー・ボーリンだ」

「知っているのか」

「……ああ、昔ちょいとな」

そこに映っていたのは、かつて俺がロシアに渡った際、ミッション中に俺へ指令を伝えにきた組織のメンバー、ドミトリー・ボーリンだった。確か出會ったのはサンクトペテルブルグの街ではなかったか。もう何年も前の話であるうえに、実際に會話らしい會話もほとんどしたことがあるわけではないが、今なお、はっきりと覚えている。問題は、なぜあのボーリンがこんな辺境の國の森の中で魔と呼ばれる人の周辺にいるのかだ。

「まさか、この男が例の産業スパイだってのか」

俺が思わず口をついた言葉にバドウィンが首を振った。

「いや、この男は違う。が、君も知っているかもしれないがこの男は別の組織の報員だったが、ここのところ正式にロシア側のスパイになったらしい。もっとも、始めからその組織にスパイとしてロシアが送り込んでいたのかもしれないがね。

ロシア人であるボーリンは、元ロシア軍人だ。どういう経緯からかは殘念ながら詳細は不明だが突然軍を離れ、一時は傭兵として戦地へ赴いた経歴がある。傭兵だった期間はわずかに三年程度で、すぐにロシアに戻ってサンクトペテルブルグでコンサルタント業に就き、これまではこの會社で働いていた。だが二年ほど前に突然會社を辭め、姿を消している」

「そして再び世に現れた彼は、ロシア辺境國の森の中で軍服を著ていたというわけさ。

だが僕らが一番気がかりだったのは、彼はロシアの人間ではあるがどういうわけか、このときはアメリカ側についていたということなんだ」

「アメリカ側? つまりアメリカ軍が編した部隊にいたということか」

「そういうこと。なんだかおかしな話だろう? ロシアに戻って會社員として働いていながら組織の報員として活もしていた人間が、なんだって突然アメリカに行く必要がある」

確かにジョージの言う通りだった。しかし、それもすぐに氷解した。いわくつきのロシア人が一般企業を辭職してわざわざアメリカにいった理由が、これまでの経緯からなんとなく理解できたのだ。

「そうか、例の実験だな。アメリカ軍がかつて主導したという」

「さすがに察しがいいな。我々の考えでは、ボーリンは二つの工作を行っていた可能が高い。一つは説明の通り、ロシア側のスパイであったボーリンは別の組織へのスパイとして潛り込み、その中で組織を知ることだった。おそらく、傭兵時代にロシア側からなんらかの接があったということだろう。傭兵から突然の転はこうした事があったためなら、それも頷ける。

もう一つは、二年前に會社を辭めてアメリカ國籍を手にれ潛したことで、そこで何を摑んだのかだ。ボーリンはアメリカでの生活を手にれアメリカ各地を観客として渡り歩き、その中でアメリカ軍が行っていた実験施設のある土地を訪れている。その潛旅行中に、パンドラの箱を手にれることになった、そう見ている」

「そして、それがこいつだよ」

ジョージがノートパソコンを作して畫面に表示したそれを見て、俺は驚愕した。それはなんと、かつてロンドンで見た赤いを詰め込んだ銀の、あのサンプルケースが映っているではないか。

「これがパンドラの箱だって? そんなの何かの冗談だろう。こいつはそんな代じゃぁないぜ。ある意味じゃパンドラの名に恥じないという見方もできるが、だとしてもこんなのがパンドラの箱だなんて冗談が過ぎる」

「そうでもないぞ。私もそれなりにこれの経緯を調べさせてもらったがね、君もロンドンで出會ったようじゃないか。君がロンドンで起こした騒にこれが絡んでいることはすでに調べ上げた。

……まぁいい。君もその後の行く先々で、この存在と何度か出會ったろうからこれがどんなものであるのか、ここで説明する必要はないな」

そうまでいわれると、こちらとしてはただ肩をすくめるしかない。バドウィンの言う通り、ほんの偶然の出來事だったとはいえ、こいつに関わったことは間違いないのだ。

「君の知るように、これは製されることにより、様々な効果を引き起こすことのできるものだ。製方法はいくつかあるが、そのいくつかある製法の一つを使って、あのヘヴンズ・エクスタシーが作られることになったわけだ。あれが人間のから作られたものだなんて、誰も想像しないだろう。まぁ今は便宜上、パンドラとでも呼ぼうか」

「呼び方はなんだっていいさ。しかし、製方法がいくつもあるっていうのは初耳だぜ。前後の事を考えれば、やり方の一つってのがどうもきな臭さそうだな」

その通りだった。待ってましたといわんばかりにバドウィンは説明を続け、それによるとパンドラの製方法が新たに見つかったことが事の発端になったらしい。新たな製法を見つけたのはロシアの伝子工學の研究機関で、ここはロシア國はもちろん、世界中に重要取引先を抱える巨大な研究機関だという。

こうした質上、主な取引先はやはり製薬や他にも醫療用の商品を取り扱う會社が多い。これらの理由から、機関の持つデータは様々な企業から、ありとあらゆる果や効果の是非を依頼されている。そして、そこに問題となったパンドラが預けられたことで、當局に発覚したわけだ。

連中はパンドラの持つ未知なる含有分と効果に驚愕し、それを隠蔽しようとした。以前から、こいつに関わってきた人間たちの誰もその効果に異口同音の驚きの聲をあげていたのが思い出されるが、連中にしてもそれは同じだったようで、報告をけた機関の上層部は、即座にパンドラを施設の最重要機として研究に攜わる極一部の人間以外には一切その存在を隠し、トップシークレットとして扱うことに決定した。

「元はといえば第三者から転がり込んできたものを、簡単に我がにしちまうあたりがなんともロシアらしいやり方だな。しかし、上層部に報告がいっただけですぐに機扱いになるものかな。そういった方面は詳しくないから當たり前なのかどうかも判斷しかねるが」

「君の疑問も最もだが単純な話で、上層部に當局、すなわちFSBと繋がりを持つ者がいたということだ。FSBは裏に、何年も前から失ったあるものを探しているんだ。そして、こうも躍起になったのはロシアにとって過去の教訓があってのことだ。

ロシア……當時の舊ソ連は、二次大戦中にアメリカの行ったトリニティ実験の功直後の実戦投された二発の原子弾に発される形で、対戦終結後すぐに核開発と実験を行い一九四九年には、初の核実験を功させた。こうした事実は世界、つまりは最大の敵國であるアメリカに知られることがないよう極裏に進められていた。

もっとも、アメリカやイギリスといった西側諸國はすでに察知していた。トリニティや二発の原子弾、リトルボーイとファットマンなどからとられたデータからその驚異と威力を知っていたアメリカは、それを世間に公表するよう政治的な圧力をかけていたものの、ロシアはそんな事実はないの一點張りだ。事実、ソ連初の核実験が公に発表されたのは三〇年以上も経った後だ。

こうして自分以外の國が人智を超えた兵を所持することを恐れたアメリカと、そのアメリカや賛同し協調する西側諸國に対し警戒するソ連は互いにスパイを放ち、表面では政治的に、裏では熾烈な報戦とならびに地下戦爭を繰り返し、所謂、冷戦と呼ばれるものが発した。これによって両者は互いの主張を押し通すため、資本と民主主義、共産と社會主義の國々を抱え込み、それぞれのリーダーとして一大勢力圏を築き上げることになる。

こういった背景を機にソ連は、一九五〇年代から七〇年代にかけ様々な兵開発と平行して、何百回もの核実験を行っていった。しかしそれも七〇年代末に一応の締結がされ、長年続いた冷戦は終わった……かに見えた。ロシアは表面上には冷戦の終了を宣言しておきながら、その後も極裏に兵開発が行っていたのだ。

理由は様々なので一言では片付けられないが、なくとも核弾については、ひとまずいつでも実戦投できると同時に、もし実戦投すれば、もはや対アメリカ、西側諸國という単純な図式で終わるものではないと考えたともいわれる。あまりに強力すぎた兵がゆえ、その後のリスクも大きいためと考えたわけさ。

そんなソ連は、核開発に変わって以前から行われていた兵開発をさらに推し進めることになる。その中に、もはや馴染みとなった生もあった。彼らは舊日本軍、ならびにナチス・ドイツがかに行っていたという細菌兵開発のレポートを極裏に手しているんだ。當時のソ連は急激に勢力をばし始めている頃で、大國として長を始めた頃でもあったからな。

しかし殘念なことに舊ソ連という國には、どうにも技開発という點では當時の列強國と呼ばれる國々と比較しても決して高いものとはいえなかった。當時アメリカが原子弾という兵功させたことで、世界の軍事バランスが急激に崩れだした。これをけてマンハッタン計畫に攜わっていた研究者の一部がその圧倒的な新兵の威力を前に、一國が世界を掌握するのは良くないとしロシアやイギリスに亡命して核開発に助力し、軍事バランスの均衡を保とうと奔走したわけだが、これがなければソ連はもしかしたら核開発競爭の敗者になっていたかもしれんな」

「今のロシアがどうかは知らないが、ソ連の技開発がてんでお末なものだったってのは俺も知ってる。日本やアメリカでならちょいと工夫すれば作れるようなものですら、奴さんはどういうわけか國費で賄ってなお、二流品しか作れなかったって話しだろう。ま、代わりといっちゃぁなんだが、奴らの殺人機械を作り上げることに関してのノウハウだけは超一流だったがな」

「そしてソ連は一九九一年に解され獨立國家共同、CISとして資本主義の民主主義國家として新たにロシア連邦として歩み始めたわけだが、もちろんながらそれは表向きだけで裏では舊ソ連時代となんら変わらない制を保っている。これはいわずもながら、君も知っているだろうが」

バドウィンの流し目に苦笑しながら肩をすくめた。バドウィンがいうのはもっともで、そもそも俺に様々な殺人を仕込んだあの服部が、まさしくその殺人機械といって差し支えない舊KGBの現場工作員だったのだ。どういう経緯で服部がミスター・ベーアの組織にったかは知らないが、あの男一人のことを考えるだけでも舊ソ連が殺戮兵や暗殺者養といった生臭い方面には長けていたことは間違いないといっていい。事実、服部に限らずKGBのイリーガルス、非合法員たちはこれまでにCIAやMI6といった連中を何人も祭りにあげており、連中の手にかかった奴の數は計り知れない。

「しかし――ソ連の技力は確かに決して高いものではなかったが、反面、國庫から捻出される兵開発への資金は富だった。當然だ、全ては稅金だったからな。特に核開発以外でもっとも盛んだったのは後のハイテク兵部門と仮名された開発部門だった。なぜなら、先ほども述べたようにソ連はハイテク部門は國全で決して質の高いシステムを作れていなかったことにある。つまり、こうした開発の功こそロシアをより発展させるための重要な布石になると信じられていたのだ。なくとも、上層部の人間たちにとっては。

ソ連時代では芽の出なかったそうした部門の開発が、ロシアになるとともに徐々に芽が出始め、近年はそれらを応用した最新の化學兵が試験的に開発されつつある。そしてもう一つ、生部門も同じだ。もう想像もつくだろうが、この寫真の化たちもそうした結果の産だな。

これらを踏まえて、ロシアがなぜこの化どもを創りあげることができたのか、その理由になる。九一年にロシア連邦へと解、改名した舊ソ連はそれまでの共産主義から資本主義へと大幅な路線改革をとっていった。特にそれが強くなっていったのが九〇年代半ば頃からで、この頃のロシアはそれまでの共産圏特有の主義を払拭しオープンになることで外部の資本を取り込み経済に繋げるという、これまでとは違う路線を世界にアピールするようになった。

この新改革路線のために、ロシアは積極的に周辺國は當然、さらにアジアや西側諸國からも大膽にれ、それまで忌とされていた部分にも外國人が踏みれることができるようになった。その中にロシアにとっても、またその諸外國にとっても予想外のものが発見されることになる。それがある局地的事象変異を起こしていた土地で見つかった、隕石の欠片だった」

「ツングースカ……」

バドウィンの説明を聞いて俺は、半ば無意識にその言葉を口にしていた。ラドゥ・メチニコフという男が発見したらしいそれは、未知の含有分があるとかいう話で、それが當時ロシアが経済発展のためにイギリス側に傾いていたことと重なって、この発見がロシアとイギリスが仲をこじらせるきっかけになったと狂気の研究者ライアン・トーマスが語っていたのを思い出す。そこにつけ込んで、アメリカが両者を目に掻っ攫おうとしたと聞いたのが記憶に新しい。

表向きは冷戦も終結し、資本主義へと大きく改革を進めたロシアではあるが、それでいて裏では當時も含め今なお舊ソ連制を保っている。つまり、生の開発は今なお続いていることを意味することになる。メチニコフが発見した隕石の欠片が持っていた分は、兵への転用が可能と考えられたことが結果として冷戦とは違う形で、熾烈な兵開発競爭への先鞭をつけることになったわけだ。

ロシアは、舊ソ連時代に軍事費を巨額投資していたこともあり、富な研究果や理論が生まれた。これらがロシアの新兵開発の下地を作ることになったといっても過言ではなく、それらから生み出された様々な兵は使うほうにとっても恐ろしいものばかりだ。単一の水として最強であるツァーリ・ボンバを保有しているのがロシア、そしてかつての舊ソ連であることを考えると、ロシアでもよだつ恐ろしい兵開発を行っているとしても、そこに疑問の余地などあるはずがない。

だが、そんな兵開発に燃えるロシアも新発見の未知のものを手にれることができなかった。メチニコフを捕らえたにも関わらず、件の欠片はすでにMI6の手に渡ってしまっていたのだ。早いか遅いかは別として結局のところメチニコフは死に、MI6が手した隕石の欠片、すなわちNEABと名付けられたものは、そこからあの忌々しいライアン・トーマスのもとに渡った。そしてさらに、知り合いだという坂上の実験にNEABが使われたことが、研究を飛躍させる結果になった。

坂上によってNEAB-2と進化したNEABは、坂上から離れ再びライアンのところに戻っていった。そこではNEAB-2はさらに磨きがかけられ、狂気の実験に使用されることになる。これは今手渡された寫真に収められている化たちを見れば、一目瞭然だ。それにライアンは、松下薫――本名をなんというのか知らないが、あのにあれを投與した際に、それ以前にも何度となく同様の実験を行っているような口ぶりだった。

もしかしたら、この化たちはそのほとんどがライアンが行った狂気の実験の被験者たちなのかもしれない。もっとも、あの嗜の強い狂人の行う実験なのだから、被験者というより被害者といったほうがより近いだろう。なんにしても、これらが実戦で投されているという事実に間違いはない。

「こうした経緯から、我々はこのパンドラを持ち出したという産業スパイを追って、ロシアの思を知ることができたわけだ。おそらくロシアは実験的に戦地へと化たちを送り込み、新たな戦略兵の有効、他様々なデータをとっているといった合だろう。こうした事態を巡って、アメリカは當然、西側ヨーロッパは熾烈な生開発競爭を繰り広げているのが現狀だ」

「なるほどな。つまりあんたらがいいたいのは、熾烈な新兵開発競爭を食い止めたい。これ以上、新兵が投され続ければ戦火は拡大し、放っておけば全面戦爭になりうる可能があるからだ。そのために元兇となったNEAB-2の所在を突き止めたい、こういうことだな」

「その通り。バドウィンたちの導き出した答えが本當だとすれば、これはかつての冷戦……いや、第二次世界冷戦といってもいいかもしれない事態に陥りかねない。それどころか、冗談抜きに第三次世界大戦の引き金になったとしても、なんら不思議はないぞ。三次大戦が起こりようものなら、どう考えたって最後には核弾頭が使われることは目に見えてる。

そうならないためにも、どうしても元兇であるNEAB-2とやらを確保する必要がある。これを巡って各國がき出している以上は、食い止めるにはそれしかないよ」

ジョージが興気味にまくし立てる。順を追ってみれば確かにそれは判るし、その通りなのだろう。だが、突然に熾烈な兵開発競爭だとか第三次世界大戦だとかいわれても、今ひとつ実が沸かないというのが本音で、だから俺がそれに參加しなくてはならない理由にはならない気がしてならない。

そもそも俺の第一の目的は戦爭うんぬんなどではなく、沙彌佳なのだ。……関係がうまくいっているとはいいがたいが、だとしても俺の止まっていた時間がようやくき出すまでに至ったわけだから、當初の目的は果たしたといってもいい。後の問題はこれから考えればいいだけのことなのだ。つまり、もはやこれ以上はこの連中に付き合う腹積もりはないのだ。

この連中が俺のサポートに回ってくれるということらしいので、多面倒くさくはあっても、せいぜい利用してやるつもりではある。しかし、それまでだ。サポートしてくれるのならサポートしてくれても構わないが、こちらが頼んだ覚えもないことの見返りにまた面倒なことに巻き込まれるというなら、そんなのはこちらから願い下げだ。

そういおうと口を開きかけたときだった。そんな俺の考えを察していたのか、これまで一度も口を開かなかった沙彌佳がこちらより早く口を割ってきた。

「あなたが嫌ならそれはそれでいい。でも私はやるから」

ただ一言、短くそう告げた。いつ振りになるのか、自分の意思は絶対に曲げないという、言霊のごとく、はっきりとした言いだ。出鼻を挫かれたとはまさしくこのことで、まるで俺を試しているかのような、そんな風にも聞こえるのは俺の気のせいか……。

「……そうかよ。だったら、勝手にすればいい。これ以上の面倒ごとはごめんだぜ。大俺はこんな糞みたいな世界に好き好んで踏みったわけじゃぁない」

沙彌佳の言いに一瞬我を忘れたのか、俺は無意識的にまくし立てていた。的になっていたともいえるが、どうにも沙彌佳の心理を読めずにいる。こいつとて俺と同様に、決してんでこんな世界で生きることになったわけではないはずだ。だというのに、なぜ自分から突き進もうとするのだ。

別に過去のような関係まで、とまではいわない。もちろん、そんな願がないわけでもないがそれでも、今なら生き方を変えることだって可能ではないか。なのに、なぜ……これでは、沙彌佳自が戦いにを投じることをんでいるかのようではないか。考えたくないが、あるいは本気でそう思っているのか……。

「逃げるの? またあのときみたいに」

「なに」

「逃げたっていったの。あなたはいつも大事なときに逃げる」

誰が逃げただって? 逃げなかったからこそ今こうしているというのに、なにをいっているのだ沙彌佳は。

「俺がいつ逃げ出したって? 俺は逃げたりしない」

どうしたというのだ。いつもならもっと冷靜に対応できる程度のことなのに、どういうわけか的に、喧嘩ごしになってしまっていた。自分の中の蟠わだかまりがそうさせているのか。

「だったら一緒にきて」

れず告げる沙彌佳に眉をしかめ、思わず舌打ちしていた。

(しまった)

今、このやりとりではっきりと判った。こいつは……沙彌佳は、間違いなく俺に対して嫌悪のを持って接している。だからこそ、俺に選択肢など與えるつもりはないのだ。もしかしたら、自らその手でこちらの首を絞めてやりたいとすら思っていないとも限らない。

だがしかし、同時にやはりまないは別として、平凡な世界にを置いていたはずのが、今ではプロフェッショナルとしてのにつけていることも確かだった。こちらには選択の余地のない立場であることを利用して、自分の、自分たちの都合のいい駒として使おうというのだ。おまけに、厄介にも俺という人間の格を把握しているからこそ、考える時間すら與えない。

自分でいった以上、俺は絶対に有言実行する。しようとする。そう考えたからこその判斷なのだ。

「ちっ」

思い切り舌打ちして見せた俺に、ジョージはもちろん、バドウィンすらやや困げに二人の様子を見ていた。

「これで立ね。あなたには早速、いてもらうわ」

立ね」

隨分と勝手な言い分だと、せめてもの抵抗に話の腰を折ってやったが沙彌佳は全く気にすることなく続けた。

「二日前にアメリカから外団が來日したのは知ってる」

「ああ。北との協議のために日本にも手伝ってもらおうっていう話だったな。それがどうかしたのか」

こんなに癪に障るというのに、沙彌佳は全く気にすることなく問いかける。俺はささやかな反抗として、ぶっきら棒に返した。

「この時期にアメリカがそれだけのために外団を來日させるはずがない、きっと何かあるに違いない。そう踏んで私たちは外団のメンバーの素を追い始めた。この人を知ってる?」

沙彌佳はジャケットのポケットにしまってあった寫真を取り出し、俺の前に広げる。寫真の人はほっそりとした細を協調するような、かっちりとしたダークグレーのスーツにを包みにこやかな表をしていた。年齢は四〇歳くらいだろうか。だとしてもまだ茂みのある髪と系からは、もっと若々しい印象をうける。

「こいつは……どこかで見た顔だ」

「名はノーマン・ガルーキン。今回のメンバーの中で一番グレーな人といっていい」

「ガルーキン」

その姓を聞いた俺はつい反的に言葉を繰り返していた。確かガルーキンといえば、ほんの小一時間ほど前にブランドンから同じ姓を持つ人間の名を聞いたばかりだ。

「アレクセイ・ガルーキン……ロシア移民の子孫で、アメリカ國稅庁の元ナンバー2だったな。何かの偶然か」

「いいや、偶然ではない。ノーマン・ガルーキンはそのアレクセイの実弟なのだ。僚になった兄と違い、弟は元軍人、それもSEALsのメンバーでもあった」

沙彌佳の言葉を引き取ってバドウィンが続けた。

「兵士としては超一級品というわけか。おまけにアレクセイ・ガルーキンとの繋がりを考えれば……こいつがいる理由はブランドンと何か関係があるんだな」

「ご名答。ガルーキンは政治家でもないのに外メンバーの中にいることを疑問視した私たちは、兄のアレクセイに辿り著き、そこからアレクセイの友関係から、やはりメンバーとしては不自然なブランドンに辿り著いた。さらにガルーキン兄弟のバックグラウンドになにがあるのかまでな」

「なにかあったわけだ」

頷くバドウィンに、今度はジョージが割ってきた。真相を知って、とにかく誰かに喋りたくて仕方ないといったじだ。

「今話したろう。兄弟がロシア系移民の出ということと、ロシアで何が起こっているのか……それを統合的に考えてみると」

「ガルーキンは、この兄弟はスパイかもしれないってこと、なのか?」

「そういうこと。ガルーキン兄弟の両親は、舊ソ連科學アカデミーの研究員だった。父は伝工學と生學を修め、母親もまた理學の分野において博士號を取得している、まさにサラブレッドってわけさ。ガルーキン家族がアメリカに移住したのは、冷戦が終結を見せ始めた一九七〇年代の後半頃で、記録上はアメリカへの亡命を希したことによるものだが、ガルーキン兄弟がロシア側のスパイ疑がある以上、もしかしたら実際にはそれこそが何かの工作であった可能は拭えない。

アメリカ移住後、ガルーキン兄弟の両親はある研究施設にて働き始めた。亡命のためには、亡命する以上なにか亡命國へ有益な報を持たなければ、亡命民として保護を保障されることはない。ましてやソ連の科學アカデミーの出となれば、舊ソ連高との繋がりもないとはいえないからね。

そして両親が働き出したという研究施設が……」

「タイムワープの実験施設、か」

二人が頷く。これで繋がった。兄、アレクセイは、ブランドンになぜ奇妙な代を商社に卸させようとしたのか。もしロシアとの繋がりが生きているとすれば、ロシアに有益な報を送ろうとするのは目に見えている。バドウィンとジョージ二人の話から、ロシアも例外なくタイムワープの実験を行っていて不思議はないので、実験で得られたデータはクレムリンの連中だってしがるに違いない。

このため、兄のアレクセイはブランドンを脅して実験に必要な裝置を卸させ、気が変わらないよう弟のノーマンを監視役につけた。こうすることで、表向きはアメリカへの國心を、裏ではスパイとしてそれを最大限に利用してみせているのだ、この兄弟は。なんとも巧妙なものだと心する。

「待てよ、こいつの顔思い出したぜ。さっき、ブランドンのホテルにいたボディガードだった奴だ。まさか、あの野郎がロシアのスパイだってのか」

「そう、ノーマンはCIAのエージェントとしての訓練をけたが、それでいて実のところ、ロシアのスパイだったというわけだ」

唖然とした。CIAのエージェントになっておきながら、ロシアの、それもおそらくSEALsに隊していた経歴から考えて、SVRの殺し屋に違いない。ホテルの部屋に侵した俺を冷靜に対応した行から、腕利きであることは疑いない。この野郎は口ではアメリカへの服従をいっておきながら、ロシアに忠誠を誓っている二重スパイだったというのだ。

「だが、ランディ・ブランドンが実験のために必要としていたのは、加速冷卻裝置とかいうものらしいがこれで納得がいったぜ。話の容からブランドンが噓をついているとは思えない。多分、ガルーキンとブランドンの両者にとって、この裝置は必要不可欠だったんだ。

アレクセイはスパイとして必要なものと、ブランドンが必要としているものが同じだということに気付いて近付いたんだな。足がつきにくいように、わざわざ日本の商社を通してまでな。もちろんスパイである以上、ブランドンには手にれた裝置が実際にロシア側に渡る可能があることを知らせてはいなかっただろう」

「その通りだろうな。そこで私たちは、ブランドンが會うという日本の商社マンをつけることにしてみたのだ」

自然な會話だったために、そのままけ流してしまいそうだったが、バドウィンの言葉を聞いて眉をひそませる。日本の商社マンをつけるだって? それはつまり俺が遠藤に任せておいた、あの商社の男のことだろうか。俺は思わず言葉を強めてバドウィンに問い詰める。

「この商社マンという男がまた曲者で、確かに一般には普通ではあるが反面、裏とも繋がりを持っているようなのだ。O市に本社を置くこの商社の一社員がどういうわけか、わざわざ東京にまで出てくるのはしばかし気にかかる」

何か、嫌な予が背筋を走る。これまでも幾度か似たような経験をしてきたことがある俺だからこそわかる、このなんともいえない粘っこい覚。多分、これは何かを知れば信じていたものがまた一つ崩れていくような、そんな予をさせるいやな覚。

「……なにかわかったのか」

「今のところはまだ何も。だが私とてプロ、だからこそ判る。この男には何かある」

バドウィンと全く同意見だった。もちろん、遠藤をいかせたという負い目もないわけではないが、それ以上にもっと大きながこの男にはあるに違いない。そんな漠然とした思いが錯する俺は、つぶやくように問うた。

「その商社マンの名前は」

「馬場隆弘」

俺は小さく男の名を復唱し、ぐっと力強く頷いてみせた。

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