《いつか見た夢》第111章
――ここは、どこだ。
ふわふわとした浮遊。それは落下していくような覚とはまるで違う、ただ緩やかに漂うだけの覚。
ああ、またあれか――。
まるで俺を戒めるかの如く度々見せつけられていた夢の続きだ。いつ頃からかこいつを見ることはなくなっていたけれど、実に久しぶりな気がする。今度は何を見せようというのか……
しかし、いつまで経ってもあるのはただの漂い続ける浮遊のみで、お馴染みの聲はまるで聞こえてこない。
どうしたのか……そう思った時だ。
……ちゃん。……いちゃん。
どこか憂いさを滲ませる聲。それが懐かしくも甘い、遠い記憶の片鱗を蘇らせる。
「お兄ちゃん」
突然現実味を帯びた聲が俺の意識に投げかけられる。
「っ」
驚いたように跳ね起きた俺は、素早く辺りを見回してそれがなんなのかを確かめる。無意識のうちに手は隠し持っていたはずの銃を探していた。だが、いつも忍ばせておくところに銃などなく、それが不自然にじられて思わず全の至る箇所に手をやって探した。
「起きた」
跳ね起きた俺に、まだ今いち聞きなれない口調でが問いかけてくる。しばかし気が転していたのかもしれない。やや慌てるように銃を探す手を止めて発せられた方向に振り向くと、そこには妹である沙彌佳がこちらに視線を向けていた。
「沙彌佳……か? 沙彌佳、だよな」
目を向けた先にいた妹に、自分でもおかしなことを口走っていた。なぜかは知らないが、自分の思っている以上に気が転し混しているらしい。目の前の沙彌佳は、そんな俺の質問とも言い難い言葉にも何事もないかのように沈黙を保ったまますっと立ち上がると、こちらのそばにやってきてその手を俺の額にやった。
「大丈夫、熱はないみたい」
「熱?」
額に手をやられた俺が呆けたようにいうと、その手を離して再び元いた場所に戻っていく。その様子を黙って見ていた俺は、れられた額に手をやりながら改めて周囲を見回した。周囲は鬱蒼とした森の中で、まるで人の気配などじられず、それこそ何か人でないものが現れそうな、妖しい雰囲気がそこらかしこに漂っていた。
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俺が寢かされていたのは、大きな木のが二に盛り上がってできた窪みの中で、そこには何十年何百年ともいえるだろう年月を経てできた落ち葉の絨毯の上だった。その木のの元には火が起こしてあり、その火を囲むように俺と沙彌佳がいるという狀況だ。そしてもう一人、火のそばで橫になっている人がいた。俺のいる場所からはもう一人、眠りこけているの姿が見えた。すうすうと小さな寢息が聞こえてきそうな寢顔を見せるは、遠藤佳その人だ。
まだ気を失ったままらしい遠藤の寢顔を見ていると、徐々に混していた頭もおさまり、なぜこんな場所にいるのかという疑問が湧いてきた。確か、俺は墜落しかけていた飛行機から出しようと沙彌佳とともに飛行機を移中、気を失っていた遠藤も連れ立って――そこで俺の記憶から突如抜け落ちたものが蘇った。
「……そうだ。だんだん思い出してきたぞ。確か俺は墜落する飛行機から出するために飛行機から落ちて、それから……それからどうなったんだ」
記憶がはっきりと思い出されると、再び背筋を変な汗が伝う覚にとらわれながらも、俺はこちらを無言で見つめる妹へと向いた。飛行機から出するといって連れて行かれたのは、こともあろうか飛行機の車格納庫で、そこから落ちる飛行機からのスカイダイビングを行うことになったのだ。それも出用の救出裝置など一切なしのスカイダイビングだ。
もちろん、そのあとに待っているのは高い場所から真下に落下させたトマトだってまだ原型を留めたに違いないほど、數千メートルもの上空だった。そこから落ちて助かっているなど、どう考えたっておかしいではないか。絶対助からない高さから落下し命拾いしたのだから良かったことは良かったのだが、どうにも解せないというのが正直な気持ちだった。
「……どういう理屈かはわからんが、俺はおまえに助けられたってことだけは間違いないみたいだな。遠藤も。だが、どうやってあんな狀況から俺や遠藤を助けることができた? もちろん、おまえ自もそうだが……それにあの飛行機の中で起きた急激な溫度上昇にしたってそうだ。あまりに突飛すぎて頭がついていかなかいことが多すぎる。いい加減話してくれてもいいんじゃないか」
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目覚めた早々にまくし立てる俺に、沙彌佳は相変わらず無表のままだ。しかし、今度ばかりは俺も黙ってはいられない。再會してからの沙彌佳はどこか違って思えることがあったが、それでも行方をくらまして以降、壯絶な人生を歩まざるを得なかったに違いない、そんな人間が放つ特有の空気によるものかとも思えた。これに関してはこちらにしても同様のことがいえるのでそれも仕方ない、そんな風に捉えていた。
けれども、なくとも飛行機で起きたことに関してはとてもそんな程度のことだけでは説明がつかない。もっと深い部分、言葉にするにもどう表現していいものか頭を悩ませるが、端的にいえば人間とそうでないものといってもいいのか、とにかくそんな合に決定的な部分で何かが違ってしまっていることだけは間違いないだろう。
「そうね。今は誰もいないし言ってもいいかもね」
沙彌佳はさも當たり前のようにそういうと、一つ小さくため息をついた。その表はどこか覚悟を決めたような、あるいは諦めの境地にでも達したかのような、どちらとでも取れるもので、どのみち避けては通れないならばさっさと済ませてしまおうというニュアンスにもじられるものだった。
「それで、どこから話せばいいの」
「どこからって、そりゃぁ……」
最初からだろう。そういおうとして言い淀んだ。ここにきて俺は突然過去の出來事を思い出したのだ。沙彌佳を最後に見たのは、俺と綾子ちゃんの関係に亀裂がったあの時、彼の家の前で俺の手を振りほどき走り去っていく後ろ姿だった。こうなってしまった原因とはそれこそ、あの時に遡るといってもいいだろう。
だというのに俺と沙彌佳の、そして再會した綾子ちゃんとの関係は依然としてあの時のまま、未だ問題は解決していない。そこを起點とするなら、そこまで掘り下げて話さなくてはならないわけだから、沙彌佳としてもそう言い示しているというわけだ。
普段ならとっくに昔のことを何引き摺っているんだと叱咤するところだが、どうにも居心地の悪い雰囲気になって仕方ない。ましてや、あの原因を作った張本人が自分だというのだから、なおさらだ。
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それでも、あの時のことを含めて未だ前進しないというのも良くはないということも心得ているつもりだ。いい加減話してくれといった手前、ここはそれを含めて喋ってもらおう。もし沙彌佳が拒むなら、それはそれでも構わない。結局は沙彌佳の心次第だ。
「俺は……俺はあの後、俺の前から走り去っていったおまえがあの後、どうなってそれが今に至るのか……そいつが知りたい。おまえを傷つけたことはわかってるつもりだ。だとしても知りたい。知りたいんだ。
おまえがいなくなっちまった後、俺も俺なりに行方のわからなくなったおまえの足跡を辿ってきた。それがようやく、凰館とかいう高級クラブを通じて坂上研究所に連れてかれたってことまでは突き止めた。だけど、それからの足跡はまるでわからなくなっちまった。奇しくも坂上の研究所で出會うまでは……。あそこにジープに乗って現れたのはお前なんだろ? そして、あの化にを摑まれて死にかけてた俺に、手榴弾を手渡してくれたのも」
ゴメルにを握られたあの時、肋骨はもちろん、蔵のいたる箇所に損傷を負って意識を途絶えさせようとしていた俺の最後に見たもの――それが沙彌佳の顔だった。一瞬だけ、それも意識も朧げな中で見えただけに過ぎなかったが、だとしても決して見間違えることはなかった。あそこに現れたのがは間違いなく沙彌佳だった。
沙彌佳は、事実の確認を求める俺にやや伏せ見がちになりながらもかすかに頷いた。様子から、沙彌佳はあまり多くを語るつもりはないのかもしれない。沙彌佳に意思がないというなら、こちらからの質問形式で進めてみるつもりだった。それなら詳しくは分からなくとも、ある程度までのことまでは俺にも知ることができるだろう。話すうちにだんだんと詳細を語ってくれるかもしれない。
「坂上の研究所に潛った俺はそこで様々なことを見つけることができた。おまえが名前ではなく番號で呼ばれたこと、実験のために訓練をけさせられたこと、それにあのNEAB-2のこと。NEAB-2が人に甚大な影響を及ぼすというのもだ。そのせいで、あれを投與された人間はそのほとんどが息絶えてるってことも知った。そんなものを坂上はお前にも投與した。
しかし、どういうわけか、おまえだけは生き延びることができたんだ。だが生き延びたといっても三週間だ。坂上の手記には三週間に一度、あれを投與することになったと記されてた。このせいでおまえは三週間に一度、NEAB-2を投與されなければならなくなった。坂上はそんな狀態になったおまえからやなんかのDNAのサンプルを採取した。俺はこの事実を知ったとき、どうしようもない怒りのが芽生えたよ。いや、今だってそれを思い出しただけで同じように怒りに頭がどうかしちまいそうになる。あのお前がそんな苛酷な狀態に置かれたのかと考えると、俺はとても気が気じゃなかった。
呪ったよ、自分の全てに。こうなっちまったのも、俺がどうしようもない間抜けで馬鹿だったせいだ。”あのとき”俺がもっと考えて行していれば、なくともおまえをこんな危険な目に遭わせることもなかったんじゃないかってね。
……だが、お前はどういう手段かは知らないがあそこを出することができた。坂上とかいう研究者の手記には、逃げだしたお前が危険な狀態であるとも書かれてた。あそこにあったものは、拷問のほうがまだ幾分優しく思えてきそうなほどの、夥しい數の殺人裝置があった。なのにおまえはどうやってそれらをくぐり抜け生き殘ることができたのか、それが判らない。
それだけじゃない。NEAB-2を三週間に一度投與しなくてはならなくなったはずなのに、なぜこうして今も生きていられたんだ。あの手記からは、三週間くらいが限度とかいう風にも取れる書き方がされてた。もしかして、それが今度のおまえを中心に起きてる不可思議な現象にも繋がってるんじゃないのか」
俺は視線を外したままの沙彌佳に対比するように、一度も視線を外すことなく自の見てきたこと、考えをぶちまけた。特に結論に至ったNEAB-2に関しては、理屈はわからないが半ば確信めいたものがあった。昔と違い、人の一切を寄せ付けようとしない冷たさを持ち合わせた沙彌佳が、どのようにして今に至るのか。やはり、それしか俺には考えられなかったのだ。
図星なのか、はたまた全くの的外れがゆえなのか定かではないが、沙彌佳は切れ長の瞳を細め、にわかに表を曇らせる。言い終えた俺と表を曇らせた沙彌佳の間に沈黙だけがあった。
「……なにも言わないってことは、やはりそうなんだな。あのとき、都合よく坂上の研究所に現れたのは、おまえなりにあそこを調べようとしたんじゃないか。理由は……俺にはわからないが、とにかく何か理由があったはずだ。そこにたまたま俺が居合わせちまったってことになるのか。理由はなんだったんだ」
聲を荒げることもなく靜かにいった俺の言葉には、けれども強いがこもっていたことだろう。再び沈黙が降りて間が悪くなりそうなときだった。沙彌佳は、ようやく堅く閉ざしていた口からまるで他人のに、それでいながらどこか責めるような口ぶりで語り始めた。
「あのとき研究所に行ったのは、元々そういう計畫だったからよ。そこにたまたまあなたがいただけ。だけど、あなたの言う通り、計畫が持ち上がって行くことになっただけで、どのみちあそこには行くつもりだった。どうしても調べたいことがあったから」
「調べたいことってのは、もちろん自分のことか」
「それもある。だけど、あそこでは私がけた実験とは別に様々な研究が進められてた。その全貌を明かしたかったのよ」
淡々とした口調とは裏腹に、思いもかけない言葉が飛び出した。全貌を明かしたかっただって? 明かしたところで、それを一どこの誰にその報を明かそうというのだ。月並みなことをいえば當然國民ということになるがどうだろう。それをし遂げたところで、この問題は本から解決できるわけではない。なんせ計畫は海を、大陸をも超えたイギリスやロシア、アメリカにも連なっているのだ。
つまり、全貌が明かされるのを快く思ってない連中だということになる。となると、その矛先は……。
「権力者や計畫に參加した連中全員か」
沙彌佳が頷く。
「もちろんそう。だけどそれだけじゃないの。もう一人、いるの」
「もう一人? 誰だ」
そう反問した俺への返答はなく、ただ一度首を振るだけだった。苦蟲でも噛んだような渋い表をしてみせた沙彌佳の様子は、決してただごとではない。そのもう一人というのがよほど大切な人間だということだけはすぐにわかったが。
「……ねえ、魔の話を知ってる?」
「魔ってのはどの魔だ」
「數ヶ月前、ロシア國境付近で起こった大規模な森林火災の話よ。あれにはアメリカ側が編した部隊が作戦に加わっていたわ。作戦を終えた部隊が目標地點に向かっている途中、定時連絡のために連絡をし終えようとした直後だった。突然部隊からの連絡が途絶えたのよ。連絡をけていたのは出のためにポイントに向かっていたヘリコプターのパイロットよ。
彼は突然連絡が途絶えたことに違和を覚えながらも目標地點にまで向かった。彼に與えられた作戦は、ポイントに到著後一〇分後までに部隊が到著しなければその場を出するよう指示されていて、部隊とその目的だったものの収容後、ただちに基地へと向かえというものだったらしいわ。部隊の到著予定時刻より二分ほど早く到著した彼は部隊の到著を待ったけれど、時間になっても現れない部隊と突如途絶えた連絡に言いえぬ不安をじながら幾度も部隊への連絡を取ったにも関わらず、一向に連絡がとれなかった。
到著から一〇分をとうに過ぎてもなお待っていたパイロットは、彼らが見せないことにしびれを切らしてついに作戦通り、彼らを収容することなくその場を離れることにした。そのとき、森から一人の殘存兵が現れて彼を収容したの」
黙って沙彌佳の話に耳を傾けていた俺にも、話の容は記憶にあった。作戦に參加した部隊の一人だけが命からがらに搬送され、結局その兵士も搬送途中に命を落としたとかいう話ではなかったか。
「そこで話された容は確か……魔、それと……クキ、だったな。唯一生き殘った兵士はそんな言葉を聞いて伝えた直後に死んだんだった」
自分で呟くと、そこではっとなった。クキ……これまでのところ、自分が他の機関に狙われているということを思い出したと同時に、沙彌佳もまた同じ九鬼姓を持つ人間だったことも今更ながら思い出した。それほどに、俺という人間は一人で過ごしてきていたということの表れなのかもしれない。
「その後の話は聞いている?」
「兵士が死んだ後の話ってことか。聞いたことないぜ。それに部隊の目的だったものの収容ってのも気になる」
そういうと、沙彌佳は小さく一度頷くと再び語りだした。
「部隊が編されたそもそもの理由は、この魔と呼ばれた人にあるの。彼はアメリカに追われていて、アメリカにとってとても重要な鍵となる人なのよ。あなたは信じないかもしれないけど……彼は死んでも死なないから」
とても重要なことだと真剣に聞いていた俺の耳に、違和というには余りある聞きなれない言葉が聞こえた。いや、聞いたことはあるが、それは映畫や漫畫、あるいは冗談か何かで使われるような言葉で、真剣に耳を傾けるには余りに違和があったのだ。それどころか、もはや違和というものすら通り過ぎていたかもいれない。
「死んでも死なない?」
「そう。彼は死なないのよ。なくとも、普通の人間の殺し方などでは死なない。言ってみれば、不老不死、そう言い換えることができるかも」
「不老不死……馬鹿な」
やっぱり信じないでしょう? 沙彌佳の言葉を反芻させ口にしていた俺を見る妹の目は、どこかからかうようなものをじさせながらも、明らかにそう告げていた。それも仕方ないだろう。不老不死だなどといわれて、はいそうですかとなるわけがない。あまりに突拍子もなく、あまりに非現実的で、あまりに馬鹿々々しすぎるというものだろう。
しかし、頭ではそう思っていても、心のどこかでその當たり前を否定する気持ちもあったのも確かだった。この一年足らずの間に、あまりに現実離れした現象に出會ってきていたためだろう。それこそ、坂上の研究所で出會ったゴメルや、つい最近もシンガポール沖の海底施設でも同様の化とも出くわしている。
シンガポールのあれはどうであったか分からないけども、なくともゴメルだけはこちらの持つ外界からの攻撃は一切け付けず、側からの破によりかろうじて倒すことができた程度でしかない。それは現代に蘇ったファンタジーであり、あるいは混沌でもある。となると、沙彌佳のいう不老不死というのが全くないと斷言できるものなのかなどと考えていたのだ。ましてや、本気で不老不死を信じ研究していた人間とも出會っているのだ。
「なにか思いつくことがあったって顔ね」
「ないということはなかったが……だとしても、にわかに信じがたいのも事実だな。本當のことだとして、俺の出會ってきたことと、その不老不死ってのがうまく結びつかないというか、な」
どう考えたって不老不死なんてものは存在しない、”俺の”理屈ではそうだ。そしてこれは決して俺だけじゃない、この世に生きる生けとし生けるもの全ての理屈だ。どう考えたって理屈に合わないではないか。そいつが生き続けたとしても、待ちけているのは慘めな生き方でしかないだろう。安住というものが得られない人生に、一なんの意味があるというのか。考えただけでもぞっとしない。
しかし、沙彌佳はさも當然のようにそれを肯定してみせた。沙彌佳という人となりを知っているとしては、まさか変な宗教にでも一杯盛られたかと勘ぐるところだ。傍から見れば、ここでの會話はさしずめ、妄想に取り憑かれた者への対話を試みる家族の図といったところだろうか。それほどに沙彌佳の話の容は突飛もいいところなのだ。
「部隊は始め、森の中で一人生きていた彼の住処に一斉掃をもって全を細切れにしたの。そのうえで家に火を放ったそうよ。大規模な森林火災が起きたのはこれが原因。生き殘った兵士によれば、彼らは彼への一斉掃の後、を回収し八時間以に基地へ搬送すること、これが作戦だったそうよ。そして、彼を回収した彼らは、そこから五〇〇キロ以上も離れた基地への搬送途中、それが起きた」
「回収といったな、それはしおかしくないか。細切れになったというなら、わざわざ回収するというのもおかしいんじゃないのか。第一、そもそも回収したいというのなら細切れにする意味もないと思うんだが。それに、八時間という時間制限も何か意味があるのか」
「そこが彼が不死の魔と呼ばれた所以。そうでもしないと彼を連れて行くことはできなかったんだと思う。死んでも蘇るんだから、編した部隊側もそれくらいは構わないとでも思ったかもしれないけれど。
以前、彼が死の淵から蘇ったとき、八時間前後かかったといわれてる。だから、なんとしても不死の魔を蘇らせる前に基地へと搬し、抵抗される前になんとかしたかったんでしょ。けれど、それはあくまで過去の知識とデータから予測されたものに過ぎなかった。彼の能力は、すでに當時を遙かに上回るものだったの。作戦決行から三〇分と経たないうちに、結局部隊は蘇った彼に襲撃されて全滅した」
「三〇分と経たないうちに……森の中を部隊が移したということは、移手段はもちろん車だよな。五〇〇キロとなると、車でどこか別の場所に向かってそこから出するつもりだったのか」
「そう。ロシアの國境に程近い場所に、出用のヘリが向かえに來る手はずになっていたらしいの。もちろん、襲撃されたときもヘリと定時連絡を行っていたわ。アメリカであろうとも、ロシアからの出は決して容易じゃない。ましてや、そこからヘリを使うとなれば、當然周辺國への賄賂も必要になる。だからアメリカは作戦のために援助と稱して莫大な資金を周辺國へと流したの。
ロシア周辺國家は、大抵反ロシア勢力であることが多いから、アメリカとしては逆にやりやすかったんだと思う。けれど、それも途中で頓挫した。彼の回復力はすでにアメリカの持っていたデータの予想を大幅に上回っていただけでなく、彼は獨自にロシア側との約で手を出させないようにしていたから、彼に関してロシアも大事にできなかった。
けれど、いくらアメリカがこの作戦のために周辺國へ資金流させて作戦については一切の黙と要請があれば協力することがわされたとはいえ、アメリカも簡単にロシアへ部隊を派遣することはかなわない。だからアメリカも手を打った」
「……そうか、思い出してきたぜ。ドミトリー・ボーリンだな。元ロシア軍人で、最近になって突如としてスパイとしての本を現したんだ。確かこのときは、アメリカ側についているといっていたな、それはアメリカの送った部隊を殲滅させるための手引きをしたに過ぎないってことか。
これで、なぜあの男がわざわざアメリカに行っていたのかという理由も頷けるな。このための布石だったってことだろう。以前、魔がロシア側と結託して防衛線を敷いてたと聞いたが、これのことだったんだな。ロシアのも知るボーリンに手引きさせたアメリカも、まさかすでに魔の罠に引っかかっていたとは思わないだろう。
だが、なんでだ。部隊も魔に襲撃されて殲滅させられたのは、わずかに住処に火を放って三〇分かそこらだったんだろう? 移手段は車だったはずだから、そこから出用ヘリの待つポイントまでそれなりに離れてたんじゃないのか。しかも、この手の作戦に時間ってのはかなり厳に設定されてるはずだ。なのに、生き殘ったっていう兵士はどうやってそこまでたどり著けることができたんだ」
當然の疑問だった。細切れにされたというがたった三〇分かそこらで復活し、そのまま自を襲った部隊を逆に襲撃したというだけで、正直なところ眉唾もいいところだが本當だとしてもそれほどの力があるというのなら、兵士一人を逃がすなど有り得るだろうか。絶対にないとはいわないが、どうにもきな臭い話だ。あえてダメージを負わせて逃がしたというほうが、むしろしっくりくる。
それに、襲撃され生き殘った兵士の最期に語った話には、魔とやらが別の人と喋っていたといったことも語られていたはずだ。つまり、その現場にはそのとは別に誰かもう一人いたということだ。ならば、その人とは一誰なのか。人里離れた森の奧深くに一人で住んでいたというにとって、森は自分の庭のようなものだったかもしれないが、その人にとってはどうだったのかという疑問はある。
だが、こうして浮かんだ疑問はすぐに氷解した。なんて間抜けなのだ俺は。こんなことにも気づかないなんて、とんだ馬鹿者だ。前後の流れから考えて、どう考えたってと話していたという人は一人しか考えられないではないか。
「ボーリンの奴が魔と接した奴なんだな。兵士が聞いた會話の人は、ボーリンだったのか。となると、當然ボーリンはまだ生きていて、この話をどこかで流したってことになる。それをバドウィンがキャッチしたってことになるのか。だが、そこまで知っていながらなぜそれをバドウィンに言わない? あの男ならお前に従って他の報まで摑もうとしたに違いないはずだ」
なかば獨り言のように言い放った俺の言葉に、今度は沙彌佳が頷いた。すると沙彌佳は左手の人差し指で口元の前に立てると、まだ気を失ったままの遠藤を見やる。言葉を発するなというジェスチャーだ。そして矢継ぎ早にジャケットのポケットからメモ用紙とペンを取り出して、そこに文を書き出してそれを俺の前につきつけた。
『ここからは一切言葉は喋らないで』
どういうつもりだと口を割ろうとした俺に、沙彌佳が咄嗟に前へと躍り出て俺の口に人差し指でもっと口止めした。真剣な表をした沙彌佳の顔が目の前に迫る。靜かに、と語るその表はどこか困り顔のニュアンスが含まれている。その表にしだけドキリとさせられる。一瞬だけではあったが、どういうわけかの高鳴りをじたのだ。今までほとんど意識したことはなかったが、ふわりと甘い香りが鼻腔をかすめる。
俺は妙なを押さえつけながら、一度だけ頷きながら口元に當てられた沙彌佳の手をそっと摑んで離した。それに従おうという意味を含めて、こちらの表を読んだ沙彌佳が頷き返しペンに文章を書き出していく。
『これからのことは決して他の人には言わないで』
そう書かれた文章を見て今度は俺が頷く。すると、沙彌佳はそのページを破り捨て火にくべた。どうやら俺からの質問は一切なしの、ただ自分の知ることだけを俺の頭の中に叩き込もうというつもりらしい。それも、一度読んだメモはすぐその場で火にくべていくつもりのようなので、ことさら集中しないわけにもいかない。
『本當はもうそれらのことは大予測もついていたからわかっていたの。だけど、彼のチームの中に裏切り者がいたかもしれないの』
裏切り者――。つまるところスパイということになるが、確か空港に向かう車の中でバドウィンもオフレコでそのようなことを口にしていたのを思い出す。チームの中に不穏因子があると。思えば、バドウィンは重要なことは俺にだけ向けて語っていたことを今更ながら思い出していた。あの空港で、何か面白いことが起きるかもしれないという言い回しもしていたのは、半ばそう確信していたからだろう。
『バドウィンではないの。彼はとても優秀よ。もちろん、他の人たちも。一方でバドウィンは多くの事柄に関して懐疑的でもあった。チームが日本に來て以來、度々電波に障害があったり、定時連絡が途絶え気味になっていたことに疑念を抱いてた。もしかしたらチームにスパイが紛れ込んでいる可能を、早くから口にしていたわ。
そんな時に、突然のアメリカからの外団が來日するとなって半ば確信したみたいなのね。だからこそ、外団のメンバーの経歴を調べた。そこで罠を張ったの。スパイがいるとして、それがどちら側なのか』
どちら側のスパイなのか、か。改めて自分の周りには敵だらけなのだと痛させられる話だ。沙彌佳はもちろん、バドウィンも同様に示唆し二人の意見が差したということは即ち、殘念ながらバドウィンのチームにスパイが紛れていたということは間違いないだろう。とはいっても、二人とも同じチームの人間なので、二人して間違った結論に達したという可能もなくはない。だが、この場合それはないと見ていいだろう。バドウィンがわざわざ先回りする形でアメリカからの外団メンバーの詳細まで追っておくような人である以上、そこには何らかの理由があっておかしくない。
それに罠を張ったということは、車の中でバドウィンのいっていたことだと考えて間違いない。沙彌佳とバドウィンはどういう仕組みでやり取りしていたのか判らないが、互いに意見や報換をしていて半ば共謀する形でスパイを炙りだそうとしたのだ。
『結果は?』
俺は適當なところに落ちていた木の棒で地面にそう書いて、すぐに足でその文字を消した。
『特定できたと思う。多分、ロシア側』
ロシア側か。その拠としては、アメリカの使節団に紛れてかに送り込まれたチームが空港で同士討ちにも見える銃撃戦を行ったことがその拠であるらしい。その現場に居合わせたため、目撃した俺もロシア側だとして全く異論はなかった。むしろ、あの狀況でアメリカ側となると連中は逆スパイだということになる。それだけでなく、沙彌佳たちが報を制していたにも関わらずある人だけは、それをロシア側にらすことができたという。
『誰だ』
再び地面にそう書いた俺への返答にはしだけ躊躇いがあったようで、走らせていたペンを止めた。けれども、すぐにペンのきが再開し、メモを俺の目の前につきつけた。
『スパイはアレンだと思う』
その短い文章に俺は眉をひそませていた。まさか、アレンがスパイだって? 馬鹿な……どちらかといえば人懐っこく、むしろこの業界にを置いていることのほうがよほど不自然に思えてならないあの男が……。おまけに報収集のプロで、誰しもそのハッキングテクニックには認めるところだろう。そのアレンがまさかスパイだというのか。
見間違いかとそのメモを再度目を通そうとする前に、沙彌佳はそこにペンを走らせてさらに文章を付け加えた。
『どう考えてもアレンしかいない。思い出して。私たちが馬場と繋がりのあったヤクザたちが作業していた倉庫に向かった際、先回りしていたはずの班が人知れずに襲われていた』
そう突きつけられたのでは思い出さざるを得ないだろう。確かにあの時、不穏にじて待機していたバンに近づいたところ、中がすでにの海になっていたことを。俺は否定しようと口を大きく開こうとしたが、思い當たることがあってやめた。沙彌佳の言う通りアレンが本當にスパイだとするなら、それも頷ける部分があるのも頷けることだったからだ。
アレンは報収集のプロフェッショナルなのだから、こうした一連の報作や報えいなど、いとも容易く行えるはずだ。そうなってくると當然俺たちが空港に向かうとなったところで、ロシア側にそうした報を送って先回りさせていたとしても不思議はない。むしろ、俺たちの中にあった暗黙の疑念には全てつじつまが合ってくる。
それにロシアが俺という餌を與えて、調の人間である遠藤を尖兵として送っていたということも簡単だ。遠藤の口から語られた事実がどうあれ、このが俺を狙っている事実に変わりはなく、そう報を流せば俺を陥れやすくなると踏んだのかもしれない。だからこそ、空港では作業員たちが拘束され、遠藤が空港にやってきていたのだ。
沙彌佳が日本に戻ってからおかしくじたというのもアレンがスパイならこれもまた頷ける。俺とアレンが合流したのも日本に戻ってきてからのことなので、シンガポールでは俺とわることなかったためだろう。さらに沙彌佳の書いた文章からは、バドウィンのチームが來日後の移手段として車を手配したのもアレンだという。
つまり、アレンは始めからスパイとしてチームに潛り込み、そこから様々な工作を行っていたことになる。考えてみれば、アレンの手渡した遠距離からでも通信可能であるイヤーモニターにしても、あれの技を介せばとっくに死んだ連中のバンから適當な會話を傍して會話を録音して流すことくらい訳はないはずだ。了解、異常なしといった程度の言葉の一つや二つ、アレンの技うんぬん関係なしにしそういった技や知識があればに付けば、そういう方面に疎い俺ですら簡単に録音可能なのだ。
俺はひどく困しつつも、反面で妙に納得いってもいた。考えてみれば、もしアレンがそうだとすれば、空港へ向かうトラックの中でバドウィンが裝置を耳から外してわざわざ俺にそういってきたのも、アレンならそれくらいのことはやりかねないと判斷してのことだったのだろう。そして、それくらいのことも容易いと。
同時にアレンがロシア側のスパイだとすれば、始めから俺のきも読まれていたということになる。連中は來日後の俺の行を監視していたに違いない。そしてある程度目処がついたところで一芝居うって遠藤を差し向けた。より監視しやすくするためと、俺がどんな報を摑もうとしているのか向をつかむためだ。これならアレンが日本で初めて會い、まるでスパイでないという演出にもなる。
だが、これでは一つ疑問が殘る。アレンが始めからスパイであるとしよう。アレンはチームにおいて、予め日本に配置されていたメンバーだったがなくとも俺が日本にやってきた時點でこちらの存在に気づいた。だというのに、ロシア側のスパイ、つまりガルーキン兄弟になんの報も送っていなかったというのは気にかかる。
ブランドンを追ってホテルの中で初めてガルーキンと出會ったが、奴もこちらのことはあまり知らない様子で、それどころか、本當にそうなのかと疑っていた節すらあった。つまり、アレンは潛しているチームに合流してきていた俺の存在を、工作員のボスに全くといっていいほど知らせることなく何食わぬ顔でいたということになる。これについて沙彌佳は、別の作戦がいていることが関係しているのだという。
それはなんだ。地面に短く書くと、沙彌佳がメモ帳にさらさらと書いていく。互いに口があるというのに筆談をしなくてはならないなんて、なんだか妙な気分だ。
『ロシアは世界中の粒子加速裝置を使って、空間と空間をつなぐ実験をしてる』
空間と空間をつなぐ実験とはまた、SF顔負けの大仰なものではないか。タイムワープに不老不死、お次は空間と空間をつなぐ……全く、この世界は一どうしてしまったのだ。あるいは元からこうなのか。馬鹿らしくて鼻で笑ってやるところなのに、それすら億劫に思えるほどの與太話。今はそれをどこか遠い世界のものだと言い聞かせながら頷いていた。今度は宇宙人か? それとも失われた超古代文明か? 何が來てももう驚くことはないだろう。
『瞬間移裝置は世界のありとあらゆる場所につなげることができる。この実験には、特殊な人間が必要だとされてる』
誰なんだ。そう地面に書こうとして棒の先を地面に押し當てたとき、俺と沙彌佳の黙でやり取りしていた雰囲気をにじたのか、遠藤がじろぎして長い眠りから目を覚ました。
「ぅ……ここは」
「眠り姫のお目覚めだな」
遠藤が目覚めたところで俺はやり取りを打ち切り、そう遠藤に投げた。
「あ、あなた」
寢ぼけ気味だった遠藤は、俺の言葉に一気に意識を覚醒させて素早く腰に手をやった。しかし、自の裝備がことごとく外されていることに違和を覚えてすぐに自分の狀態を確認する。しの隙も見せないという意識の表れだろう、目線はこちらに向けたままだが、それでいて多の焦りも表に出ている。きっと先ほどの俺の作も、遠藤と似たようなものだったのかもしれないと思うと、心で苦笑した。
「あなたの裝備は全て外させてもらったから」
そんな遠藤を眺めたまま、沙彌佳が靜かにいった。その手には遠藤がにつけていた銃は元より、その銃を吊り下げるためのベルトやナイフなど一式全てが握られている。それを見た遠藤が悔しそうな表を浮かべるが、それもすぐに無駄だと悟ってその場に腰を下ろして両手をあげた。どうやら降參ということらしい。
「抵抗なんて無駄ってことね。だったら煮るなり焼くなり好きにすれば」
「別に俺はあんたを殺そうなんてつもりはないがな。あんたを殺すつもりなら始めからあの飛行機の中に置き去りにしてたさ」
「飛行機……そうよ、確か私は飛行機であんたに襲われて、ガルーキンに報告して……そして突然空気が熱くなって……。そうよ、あれからどうなったの。それにここは……?」
やはり目を覚ましたときの俺と同様、遠藤も混していた。しかし、その様子からはあの熱波をけて気を失っただけで、飛行機がどうなったかなどの様子はまるで覚えていないらしい。
俺はただ口を一文字につぐんでいる沙彌佳のほうを一瞥し、遠藤のほうへと向き直る。もっとも、かくいう俺自、飛行機での験はとても説明できるものではない。その説明をけている最中に筆談が打ち切られたので真相は未だ不明のままだ。
「飛行機は墜落した。助かったのは私たちの三人だけ」
混した様子の遠藤に、沙彌佳が結果だけを告げる。全くもって當り障りのない答えに遠藤はオウム返しになった。飛行機の空調が故障し、電気系統の故障から空調を伝わって熱がれてきたこと、結果墜落することになったこと、たまたま自分が俺を助けるために飛行機に潛していたこと、そしてそのついでに遠藤を助けたこと。次から次へと口からでまかせをいう沙彌佳は全くもっと真実を伝えているような口ぶりで、逆に心してしまうほどだった。俺も適當に口裏合わせをかねてそれに強く頷いたり、相槌を打っておく。
「そんなことが……それじゃ、やっぱりガルーキンたちも……」
「死んだろうな。やっこさんども、隨分慌てて見ものだったぜ。たまたまあったパラシュートのおかげで助かったってとこさ」
「私たちはあなたに危害を加えるつもりはないし、縛り付けておくこともしない。けれど、これは預かっておく。もし、ほんのしでもおかしな素振りを見せたら……」
その言葉に、沙彌佳は目を細めた。鋭く貫く視線に遠藤も悔しながらに俯く。沙彌佳も本気なのだろう、遠藤に向ける視線と表は極寒の大地に吹く風だってまだいくらかはマシに思えるほどに冷たく、それはこれまで俺に向けられていたものと同質のものだった。これまでこの業界にいたおかげで何度となく見てきた表。それを遠藤も悟ったのだ。
「それで、今ここはどこなんだろう。隨分と寒々しい場所だが」
「多分ロシア」
「ロシア……待てよ、ここがロシアだって。冗談だろう」
俺は思わず立ち上がり、それまで大木のになっていて見えなかった裏手に向かってその場をいた。俺たちのいる場所は大木のになり、周囲からはやや盛り下がった位置になっている。おかげで火を起していても、それが悟られることはほとんどないだろう。大木のをつたって盛土の頂上にいくと、遠くに小さな集落が見える。しかし、その集落の様子は俺の知るものとは明らかに違った印象をけた。
「本當にロシアなのか。あそこにいる連中はどう見ても日本人じゃない」
集落の人間らしい者が數人、集落のメインストリートなのだろうがまるでそうとは言えないような小さな道を雪かきしている様子が見えた。しかし、その人間は全員が日本人らしい雰囲気を持っておらず、ある者は背が高く、またある者は作業中にも関わらず酒瓶を口に作業している。何より、家の作りが日本の田舎らしい見窄らしさを窺わせることはなく、寒さはもちろん、それを運んでくる風を防ぐために石造りになった家屋の建裝は日本ではまず見られない。
俺のつぶやきに、今度は遠藤が驚きのつぶやきを聞かせる。いくら自分がロシアに向かっていたとはいえ、まさかこんな形でロシアの地を訪れることになるだなんて思いもしなかったのだ。考えてみれば、窪みにいるだけでは気づくことはないのは當然で、周囲にはうっすらと雪が積もっている。ここがもし日本なら今、この最中にも雨が降り続いているはずだ。
沙彌佳の言う通り、どうやらここは日本ではないことは明らかだった。俺はのろのろとかぶりを振ると小さく肩で息をした。なんということだ。ロシアになど足を踏みれたくなかったのになんの因果か、こうしてロシアの地を踏んでいた。これを嘆かずにいられるものか。
(だが)
そうもいっていられない。ここは僻地とはいえ敵の本拠地なのだ。こうしている間にも連中がき出している可能が十二分に考えられる。すぐにもここを移し、どうすべきか報収集をすべきだった。
そう考え至ると、半ば反的に沙彌佳と遠藤の方を振り向く。沙彌佳はといえばすでにそう考えていたのだろう、目で小さく頷いた。それに頷き返すと這い上がった窪みへと降り、ここを移するよう提案した。もっともこれは提案というよりも決定事項といったほうがいいだろうが。
「私も一緒にこいっていいたいんでしょ? 仕方ないからいったげるわ。どうせこんなところにいたってどうしようもないしね」
「話が早くて助かるぜ」
こちらの提案に遠藤は腕を組みながら肩をすくめ、ついでといわんばかりにため息をらす。俺と沙彌佳のやり取りに耳を傾けて今後の向を探っていた遠藤にとって、自分の意見などあってないようなものだと悟ったのだろう。もっとも、それは當然というもので俺はともかく、沙彌佳がどうにも遠藤のことをあまり気にってない様子なのだ。多分俺のいる手前、必要以上に手荒な真似はしないだけであって、俺という枷がなくなれば遠藤など平気で見捨てるに違いない。あるいは見捨てるだけで済めばいいかもしれない。
考えてみれば、墜落しかけていた飛行機の中からの救出を提案していなければ、遠藤は飛行機とともに海の藻屑となっていたのは確かなことなのだ。遠藤もその辺を察しているからこそ靜かにしているのかもしれない。そんなことに思いを馳せながら、俺たちは移を開始した。先頭は俺、遠藤、殿しんがりに沙彌佳という順だった。
別に決めてこうなったわけではなく、半ば自然発生的にこの順番になった。俺が殿でも構わないのだが遠藤という、なくとも味方とは言い難い人間を監視する意味も含めてこうなったというじだ。顔見知りの俺が殿を務めるより、こちら以上に敵意を持っている沙彌佳が殿を務めたほうがより安全といえる。遠藤にとっても、そんな人間が自分の背後にいるとすれば、迂闊なことはできないからだ。
大木の窪みから這い出てそのになったところから徐々に道のない道を降りていく。ここはどうやら集落から見て裏手にある小高い丘山の中の森であるようだった。今いる位置から集落を挾んで対岸にも小高い山があり、向かって左手にも険しそうな森が見える。その反対には広い海が広がっており、三方を自然の砦に囲まれた、まさしく陸の孤島というに相応しい、外界からの一切を拒絶しているかのようにすらじられる場所だ。
今いるこの丘山も決して標高があるわけではなかったが、下ってみると想像以上の急勾配になっており、下手に足の踏み場を失おうものなら瞬く間に山裾まで転がり落ちてしまいかねないほどだ。だが、その心配はおそらくないだろう。至るところに生えた木々のおかげで、山裾までの転落は免れるはずだ。その代わり、木々も朽ち始めているものも多く、最悪その朽ちて倒れた木の枝やなんかにをぶつけたり、あるいは突き刺さることだって考えられるほどの鋭利な折れ口をもった木々もなくないので、やはり気を抜くわけにもいかない。
地を踏みしめる足場も決して狀態がいいわけではなかった。おそらく一日か二日ほど前に積雪があったのだろうと思われるが、多溶けて進める足の踏み場も見える反面、所々妙に深く積もった部分もあって、そんな場所に間違えて足をやってしまい、いきなり足が抜けてしまいそうになることもあった。俺は細心の注意をもって次の足場を見つけては後続二人の足場を確保していく。遠藤は時に愚癡を聞かせていたが、沙彌佳はきちんとついてきているのか不安になるくらい無言のまま、目の前にいる遠藤に気を遣いながらもついてきていた。
こうしてなんとか急勾配を抜けて山裾にまで辿り著いたところ、すぐ近くに人の話し聲が聞こえた俺は二人にジェスチャーし、かがむよう指示を出した。それなりの大きさを持った木の幹にを忍ばせると、會話の主たちのほうへ耳を傾ける。二人は集落の若者のようで、突然の降雪により早い冬支度として道の確保のために除雪作業をしていたところらしい。
「おい聞いたか、昨日落ちた飛行機、誰も助からなかったって話らしいぜ」
「まぁそおだろうな。普通に考えりゃ飛行機が落ちて助かるなんて奇跡に近いんだ、誰も助からないほうがむしろ當然だろうぜ」
「だが、不思議なのはなんだって警察じゃなくてあの制服連中が來てるんだ」
「不気味だよな。おれっちんとこの爺さんが現場を見たんだが、警察も制服連中のいうことを黙って聞いてたらしい。あの連中が出てくるときってのは決まって何かと不都合なことがあるときだけだ」
「違いねえ。でも、連中がきたってことはわざわざ街から出てきたってことだよな。これねえ距離でもねえが、こんな片田舎にまでよくぞまぁきたもんだ。連中のせいでで居心地が悪くて仕方ねえ」
全くだと相槌を打つ相方の言葉で一旦會話が途切れる。集落でそれとなく報収集する算段だったが、二人のおかげでかなり多くの報を集めることができた。しかし、二人はロシアも極東という地域にあたるこの辺り特有の酷い訛りがあり、全てを理解できたとも思えないがおおよそこんなじだろう。俺のいる木に、をかがませていた二人がやってきていた。俺は二人に今の會話の容を小聲で伝える。
「どうやらこの集落に今制服さんらがいるらしい。こんな辺境の村にを寄せてるってことは、利地的にここが墜落現場から一番近いってことだろう。まぁ、それは俺たちがを忍ばせてたことからも當然か」
「街から來たというけれど、彼らはどこからきたの」
沙彌佳がいう。
「おそらくウラジオストクだろう。死の間際に、ガルーキンの奴がウラジオストクに向かっているといっていたから、飛行機の行き先は當然ウラジオストク空港だ。そこらへんは俺よりあんたのほうが詳しいんじゃないのか」
そういって遠藤へ振った。遠藤は仕方なしに頷き、その詳細を口にした。
「その通りよ。飛行機はウラジオストク空港に向かってた。ウラジオストクで彼らが荷をけ取る算段になってたのよ。荷を降ろした後は、あんたを連中に引き渡す……あっ」
そこまで口にした遠藤が思わず大きな聲を上げて口を塞いだ。俺は黙ったままニヤリと口を歪める。やはり思った通りだ。遠藤は俺を日本に引き渡す気など頭なかったのだ。どういうつもりだったのか知らないが、大方そのままどこかの処刑場にでも送り込むつもりだったのだろう。もしくはシベリア送りにする気だったのか。
「連中がこんな村に留まっている理由ももちろん例の裝置のためなのは確実だな。海に墜落したとなれば裝置も海水に浸かってもう使いにならんだろう。り行きだが、一先ずは連中の計畫を狂わせてやれたのはこっちにとっても悪い狀況じゃなくなったってわけだ。連中もどれがわかってるから、こんな場所で途方に暮れてるってわけだ」
「そうかしらね」
ロシア側の計畫を遅らせることができて一先ずは安堵していた俺に、遠藤が口を割ってくる。
「ロシアは確かに計畫が遅れるかもしれないけど、決して日本だけから裝置を取り寄せようとしてたわけじゃないわ。それに裝置そのものがダメになった時のために、別の作戦があるらしいわ」
「別の作戦だと」
やはり調の工作員だけあり、遠藤もロシア側のきは察知していたらしく、ロシアは日本とは別に、もう一方の作戦を発させたに違いないという。しかも驚くことに、その調達先が奇しくもシンガポールだというのだ。シンガポールといえば、つい何週間か前までいたところで、エネルギー産業の裏側に蠢いていた巨大な計畫の一端にれたばかりだ。
「本気でいっているのか。あそこはイギリスの管轄下なんだぜ? ロシアとはいえ、いくらなんでもそいつは無理がある。東と西とはいっても仮にも同盟國同士なんだ、もしこれが公になればイギリス対ロシアなんていう単純な図式に留まるわけじゃないことぐらいわかってるはずだ」
「表面的には、でしょ? 何年か前、ロシアとイギリスは水面下で一戦えてるのよ、ロシアにとってその恨みが消えたわけじゃない。だったら完に近づいたところから強奪することだって惜しまないでしょうね」
そこまでいわれるとぐうの音も出ない。ロシアのやり方は俺自も痛いというくらいにわかっているからだ。あの絶対的な僚世界において、失敗は絶対に許されない。もし失敗したときのための代替え案など、始めから用意されていたとしても不思議はない。むしろその方が自然だ。
しかし、その反面であそこの研究責任者がライアンだということがどうにも俺を納得させないでいる。人実験の末、あの化を生み出したライアンが黙ってロシアの言いなりになるとは思えない。むしろ、これ幸いと連中を捕らえて人実験に使うことすら厭わないはずだ。
「それに、多分……連中の、いいえロシアの目的は今裝置ではなく、別のものよ」
「他にもあるっていうのか」
「ええ、今目の前にいるわ」
そういって遠藤は俺のほうを見て薄ら笑いを浮かべた。含みのある妖艶な笑みに、俺は眉をひそめ沙彌佳のほうを一瞥した。沙彌佳は特に興味はないといった風に見つめ、すぐにその視線を遠藤へと返した。
「勿ぶらずにいいなさい」
「だから、あんたなのよ、連中の目的っていうのは」
遠藤が俺に向かって指差した。遠藤によると、ロシアは俺がシンガポールを訪れていたこと、そこで例の裝置のある施設に踏み込んでいたことなど、すでに把握しているということらしい。もちろん、何年も前にFSBの國境警備隊と一戦えたことも尾を引いているに違いない。だが、それでも裝置と打って変わって俺だというのはしばかし納得できない。國家規模のプロジェクトに俺のような一匹狼の工作員と、どう考えても釣り合わないのだ。
となると、遠藤の言う通りだとすれば、ロシアは何らかの思があって俺の行方を追っているということだろう。だからこそ、収拾がつくまではそう簡単に諦めるわけにもいかないということだろうか。全く、本人の知らないところで俺への評価が鰻昇りになっているとは、とんだいい迷だ。それもこれも、パンドラを開けた産業スパイのせいだ。もし會うことがあれば、ただではすまさせない。
「ロシアはあるとき、クキって名の人が今回の一件に深く関わっていることに気づいた。ロシアにとってこの先重要な報を持ってるってね」
「俺が?」
思わず素頓狂な聲を上げてしまった。それを快く思わなかった沙彌佳がやや慌てるように俺の口を手で塞ぐ。そのにはもう一方の手で人差し指を當てている。肩をすくめて小さく頷くと、その手をそっと離して続けた。
「そんなの買いかぶりだ。俺はなんで自分がこんなことになったのかわからないでいるんだ。そうこうしているに、次から次へと厄介事が舞い込んできて、結局大して調べることができずにいるんだぜ?」
「だけど、あんたがどう思っていようと、ロシアはそう考えてる。もちろん、あんたが一九の時にロシアでやらかしたことも含めてだろうけどね」
遠藤がいっているのは俺が初めてロシアを訪れたときのことをいっているのだろう。國境警備隊との一戦は、事実上、俺にとっては初任務だった。名目は訓練の最終試験ということだったが、実際にはその道中でロシアの高を暗殺せよというものだった。
「いいえ、むしろそのことがあったからこそ狙われてるのよ、あんた」
「なに」
「あんた、サンクトペテルブルグからモスクワ行きの列車でロシア高を始末したでしょ? あの高は當時……今もか、進めてたプロジェクトの責任者だったらしいのよ。そこであんたは何かを手にれたとロシアは思ってるのよ」
遠藤が小聲でまくし立てる。一方の俺はなんでそんなことになったのかと脳みそをフル回転させてはいるが、どう考えても遠藤やロシアが考えているようなことはなかった。確かあの時は走り始めていた列車に飛び乗り、徐々に加速する列車から振り落とされないよう必死の中でようやく列車にったものだった。その後、例の高を始末すると共に――。
「……そうか、田神だ。あのとき一緒にいたのは」
俺の小さな呟きは、沙彌佳や遠藤には聞き取れないほど小さなもので、二人ともその顔に疑問符が浮かんでいるのがわかった。沙彌佳はそうだろうという程度のものだが。
ともかく、あの高について遠藤のいっていることが本當だというのなら、高が握っていたというものを手にれたとしたならそれは間違いなく田神だ。初めて田神と會ったのがあの列車だったが、考えてみれば高度な政治的要素を含んだ任務を新人にやらせるほど組織が困窮していたとは思わない。あの潤沢な資金の流れを思えば、工作員に困っているとはとてもじゃないが考えられない。
新人の卒業試験というのは間違いないだろうが、それに対して絶対に失敗を許されない工作員の立場を考えれば、予備のプランや人員が待機していたとしてなんら不思議はない。ポーカーフェイスの上手い田神のことだから新人も新人、まだ駆け出しだった俺に一芝居うっていたとしてもそれはなんらおかしなことではないではないか。俺はあのときの事の裏にあった思を知って、悪態をつきながらぶっきらぼうに続けた。
「ちっ、全く。で、その高がなんだっていうんだ」
「トルーマン・クワィチェクという人よ。彼は大學、大學院と進んでエネルギーの分野で主な活を行っていたわ。反粒子などの論文もいくつか発表していた時期もあったみたいでね。大學の頃から付き合いのある人の影響で、後に政界に進出した。家系では隨分な保守派だという話もあるけど、彼と付き合いを持っていたのは明らかに保守派とは違う層の人間ばかり。
そのせいもあってか、クワィチェクは舊ソ連解後、大幅な路線改革に踏み切った新生ロシアの中核を擔ってた。要は、西側のブレーンたちと組んでたのよ。彼は権力者ではあったけど、黨ではまださほど大きな権限を持つほどには至ってなかったそうよ」
「だが、過去のコネを使って新しいプロジェクトを計畫していたってわけか。それが軌道に乗れば、自分の評価は立ちどころに鰻昇りだからな」
「そういうこと」
初任務で始末をつけなくてはならなかった人のバックグラウンドを初めて聞かされた俺は、周囲に気を配りながらも遠藤の話す容に耳を傾けていた。
「プロジェクトには自國の學者や研究者を大量に投した反面、監督者には全く違う國のメンバーが集められてる。そのほとんどが機扱いになっていてまともに名前すら挙げられてないわ。その中に、クキ、この名前があった」
突然挙げられたクキという名。これで話が繋がった。どうやらパンドラなるものも、このロシアのプロジェクトが深く関わっているらしい。
そう気づくと、はた、として閃くものがあった。このクキというのは、俺や沙彌佳のことではなく、まさか別の人のことではないのか。俺が知る限り、他にクキ姓を名乗る人は今のところ一人しかいない。
「まさか……」
それに気づいて俺は沙彌佳のほうへと視線を向けていた。沙彌佳もそれに応えるように目で頷く。
(そうか。そういうことだったのか)
以前、利のところに預けていた親父が忽然と姿を消したことを知ったとき、沙彌佳だけはその親父の行方を予想していたような節だった。もしかして、沙彌佳もこのクキというのが自分や俺ではなく、親父のことを指しているのだと分かっていたのではないのか。だとすれば、あのときの冷靜な態度にも納得がいく。
「おまえ、もしかして知ってたのか」
「いいえ、知らない。だけど、予測はできてた。やっぱりねってくらい」
沙彌佳の真意がどれほどのものなのか俺にはわからないが、多分噓はついてないだろう。事実、そう言い當てたときもそうではないかという程度のけ答えしかしなかった。
俺は周囲を確認するため二人に背を向け、狀況を整理した。もし本當に親父がこのプロジェクトに関わっているとしたなら、それはもう隨分と前からロシアとの関係が続いてたと考えていいだろう。そこでその推進派のトップが死んだとなれば、そこで湧いて出てきたクキという名の人に白羽の矢が立ったとしたら。ロシアとて馬鹿ではない。そうしたルートから俺や沙彌佳にも調査の手が及んでいても、なんらおかしいことではない。
となると本當に親父が危険を顧みず単ロシアにまできたのかという疑問もないわけではない。何か重要なことを摑んでいるかもしれない可能がある以上、ロシアも無茶な真似はしないだろうがそれでも危険な目に合ってないとはいいきれない。そして、それを行うのがこのロシアという國なのだ。
「その報、どこまで信じていいんだ」
俺は遠藤に背を向けたままいった。そんな俺の様子に何かをじたのか、遠藤はし畏まったように続けた。
「調だって、このためにすでに二人が死んでる。確かだと見ていいわ。クワィチェクがどういう人間関係を結んでいたのか、ロシアのプロジェクト研究所がどこなのかまで把握してるわよ」
「良し。ならあんたにそこまで案してもらうとするぜ、いいな」
有無を言わせず俺はその場を立ち上がって、歩を進め始めた。このままずっとこの場に留まっていても意味はない。先ほどまでいた集落の若者二人も作業が一段落していつの間にか姿を消している。とにかく、今進むべき方向が決まっただけでも良しとしよう。ロシアが進めているというプロジェクトの全容も、遠藤が知っているようだし、それは長い移時間に十分聞くことができる。
集落の中心辺りから森を抜けようと移し始めた車が見えた俺は、一先ず連中から移手段を調達することに神経を集中させ、林から抜け出して雪に覆われた農道に出た。まだ連中も昨日の今日で飛行機で起きた慘狀までは摑めていないに違いない。それにどうにも奇妙なものだが、今はどこか得の知れない沙彌佳がいたく心強く思われてならなかった。
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