《いつか見た夢》第112章
暗い部屋の中を、カチャカチャとキーボートを叩く音が響いている。外界からのなどり込む余地のない暗い部屋には、ディスプレイから発するだけが唯一の明かりだった。ほとんど留まることなくタイプする音が鳴り続いていたが、それもほどなくして止んだ。最後に一際大きな音が鳴り、文を打ち終えたのだ。
けれどそれも束の間、この人はすぐに次の作業へと進んだ。畫面上は幾重にも重なったウィンドウがディスプレイ上に表示され、畫面に所狹しと並ぶ。ウィンドウには短い映像が止まることなく延々とループしているもの、また別の映像から切り出したと思われる畫像が表示されているもの、何列何十列ではきかないアルファベットの文字列だけのもの、ネット畫面のものもあった。その人はこれらの表示ウィンドウを眺めてはすぐに次のウィンドウへと切り替えていく。
そんな作をいくらか繰り返しているに、作するパソコン上に一通のメールがってくる。適當な名詞のローマ字力されたアドレスのメールだった。しかし、それは送信者が他者のパソコンをハッキングして手にれたアドレスに過ぎず、執拗にアドレスから足がつきにくいよう配慮がなされたものであるため、この人もさほど気にすることなくそのメールの容を見るべく表示畫面をクリックする。
容はどうでも良い會話の羅列だったが、この人はその文字列から巧妙に仕掛けられたロジックを読み取り、それを完了するとメールを消して再び作業畫面に戻ってパスワード畫面を呼び出した。読み取った文字をパスワードキーとして打ち込むと、また新たなウィンドウが開かれ、ある報告書らしきものが表示される。
それをすっ飛ばし気味にスクロールし読み進めていくその人は、あるところで読み飛ばす手を止めた。お目當てのものがあったようだった。靜かにそのレポートを読んでいく人があるところで、きしりと歯噛みする。よほど気に食わないことが書かれてあったらしいレポートの全容を明らかにすることなく、その人はウィンドウを消した。全容など明らかにせずとも、その人にとって重要な部分はそうではなかったのだろう。ただ、読み進めていくうちに痛くなるほどに拳を握りしめていた。
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「……絶対に許すものか」
暗い部屋の中で靜かに呪詛の言葉が、暗闇に吸い込まれていく。しかし、それは見つめる畫面上を通じて、響き続けているような深い響きだ。
この人は、小さくひと呼吸終えると、畫面上にメールを呼び出してすぐに文を書き出し始めた。送信先は今しがたこの報告書を送ってきた人で、何かを指示する容のものだ。
「くそっ……誰かが、誰かが必ず」
彼は一縷のみをかけて容を書き出したメールの送信ボタンをクリックした。もう彼には時間がない。もはや自分だけでこれらを完遂することはほとんど不可能といって過言ではなかった。かといってこれを見つけた人間がこれを信じて行するとも限らない。だが、どうしても彼には自分の仇を、復讐を行わせるべき人間を必要だった。それも、自分よりも若く、それでいて行力のある人が相応しい。そして何よりも、危険な世界を渡ることができるだけの度と実行力、目的のためならたとえ全てを失っても構わないと思えるだけの強い意思を持った人間が。
だからこそ、このメールは自分の目的が果たせなかった時のための保険だ。これをその筋の人間にそれとなく知らせ、見極めてもらう必要がある。適正であれば、すぐにもそのための訓練をけさせる。もしそれが葉わなくとも、好奇心でそれが繋がるよういくつかのヒントを散りばめておく必要もあった。報化社會としてここまで発達した現代ならば、何かしらこれに気づく人も出てくるに違いない。
だからこそ今ここで下地を作っておくことが不可欠だ。このメールはそのための第一歩だった。メールを送信し終えた彼は、使っていたノートパソコンのディスプレイを閉じ、おもむろに立ち上がる。ノートパソコンを持ったまま、暗い部屋に唯一のドアから外に出る。辺りはすでにとっぷりと暮れ、夜の時間となっていた。遠くには天樓の赤い明かりが所々に點滅を繰り返している。
時刻にしてまだ一九時にもなっていないだろうが、ここら一帯は靜まり返り、冬の海からはまだまだ厚著せずにはいられないほどの寒い風が吹き付けてくる。ここら一帯は都市再生計畫のため、この一帯は立ち退きや企業の移転が相次いでいて、そのためこの一帯は吹きざらしになっていた。しかし彼にとっては、逆にそれがを隠すのにちょうど良い場所だった。
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彼はそんな冬の風など気にすることもなく、建家すぐ橫に停めていた車のそばに行くと、ドアを開けて持っていたパソコンを無造作に放り込む。次にエンジンをかけると窓を全開にし、ハンドルやアクセルなどを固定した。すぐ目と鼻の先は海だ。この車は証拠隠滅のため海に沈めるつもりなのだ。
いくらとしないうちにエンジンが空吹きし始めて、それを後押しするように運転席のドアを開けたまま海に向かって車を押し出すと、徐々に車が走り出して真っ直ぐに海へと向かっていく。ハンドルなどは固定してはいたが、やはり人が作していない以上、どこか頼りなげな走行だったけれども、それもついには走る地をなくして腹を見せながら海へと消えていった。
それを見屆けると、彼は城にしていたプレハブ作りのアジトから街へ向かって歩き出した。どこへ行くべきか見當などない。どこかでいい獲がいないか、するのもいいかもしれない。とにかく今の自分はほとんどと言っていいほど孤立無援だった。なんとか繋いだ希も、送信先の人がそれを見てどうけ取るか、それを先に繋ぐという保証はない。
送信先の人もまたこの世界に恨み辛みを持つ人だということは間違いなかったのでなんとかなるかもしれないが、それも確たる保証などない。ただ今は雲を摑むような可能に賭けるしかなかった。だが、その狀況にしでも持っていける努力くらいはするつもりだった。もはや、今はそれくらいしか彼に思いつく手段はなかったのだ。
じきに組織の連中がこちらの向にも気づくだろう。あるいはもう気づいて行を起こしていることも十分に考えられる。彼に時間はなかった。引き摺り込む相手も決まってはいないが、ここのところ妙なガキが一人噛み付いてきたのを彼は思い出していた。気になって一度だけその彼の辺を洗ってみたことがあるが、なんとも裕福そうで、とても幸福な人生を歩んでいるガキだった。
以前、生という人間の始末を終えたところで、生の家を城にしていたのをどういうわけか、數人の仲間を連れて訪れてきた。何度か危ない目に遭わせてやったというのに、それでも相変わらずのガキを見て、あるいはこいつなら、とも思わせるには十分ではあった。怪我を負いながらも、それでも闘爭心を失わない姿勢は中々に見どころのある奴だ。
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だったら、こいつをけしかけてみるのもいいかもしれない。そういえばこのガキには一人、組織の人間がついているのも気にかかった。生意気なやつで、確か藤原真紀とかいう雌ガキだ。もしかすると、なんらかの事があるのかもしれない。だとすれば、あのガキを引き摺り込むのも単なる當てずっぽうにはならない。とんでもない當りを引いたともいえないのだ。
そう考えると、彼は頭の中でおおよその筋書きを思い浮かべ、まずはあの生意気なガキと會ってみることにした。中々冷靜さを保っているが、側には今にも噴出してきそうなマグマのようなを持ち合わせていることは確実だ。まるで昔の自分の生き寫しみたいなガキなのだ。調べてみると、あのガキには隨分と仲の良さげな妹もいる。その辺りを突っついてみれば、簡単に釣れそうだ。
自分と似た人間だからこそ分かる直だった。だからか、なんとなくうまくいきそうに思えてくる。こんな保証のない雲を摑むような話なのに、なぜかあのガキにかつての自分を重ねている自分に呆れてくる。あるいは、自の愚かさゆえに妹を見捨ててしまった自分への贖罪をあのガキに背負わせたいのかとも思うが、もはやそれしか今の自分には手段がない。連中の罠にかかってしまい袋小路に迷い込み、ついには袋の鼠となった自分にはこれが一杯だ。
彼は再開発地區を出てそれとなく歩くうちに、いつしか大都市の中心へと続くメインストリートへと出ていた。小さく息をついた。全く、自分はどうかしている。冷靜に理を保てるというのなら、他人をこんな簡単に巻き込んでいい道理はないことくらいはわかっていたが、もはや形振りかまっている時間は彼には殘されていない。たとえこの復讐の果てに、世界がかつてない混沌に包まれることになろうとも――。
遠いようですぐ近く聞こえる勢いよく風を切る音が耳障りで、閉じていた目を開けた。目を開けた先には背の高い針葉樹の木々が幾本も高速で消えていっている。とうに見飽きた針葉樹の森の中を列車は走っていた。
それをどこか夢見ごちたままぼんやり眺めていると、耳のすぐ近くから生意気ながこちらに聲をかけてきた。
「よく眠れるわね、あんた」
「別に構わんだろう? どうせあんたに何かできるわけでもない。それに連中も」
「本當のことだから仕方ないけど、むかつくわ。それにこの狀況もね。なんで皆私たちのこと気づかないの」
「だからいったろ? トリックだってな。一種の催眠みたいなもんさ」
不機嫌なのと怪訝なのと両方がないまぜになったような表をしながらぼやく遠藤に、俺はもう何度となくしてきた説明を繰り返した。ここまでのところ、何度目かのことでそろそろこの不可解な場の雰囲気に居心地が悪くなっているのだろう。誰だろうと、今この場に展開される不気味な狀況を経験すれば、きっと今の遠藤のようになるに違いないと、半ば確信めいたものがある。こんな、自分でもおかしいと思っている事象に対し、噓だと分かっていてもトリックだなんだと誤魔化し誤魔化しいっているなんて稽でしかない。
かといってそれを素直に告げるには俺がいうに及ばず、素知らぬ顔で淡々と俺と遠藤のやりとりに耳を傾ける沙彌佳がこんな狀況を作っている張本人だなんて口が裂けてもいえなかった。いや、いえるはずがない。どういう原理でなのかまるで説明はできないが、俺たちが今こうしてこうも簡単にシベリア鉄道に乗り込んでいられるのも、ひとえに沙彌佳のおかげといっても過言ではないからだった。
事は數日前に遡る。ロシア極東地區の玄関口にあたるウラジオストク沖に墜落した飛行機から出した俺たちは、沙彌佳の手引きによって墜落場所からほど近い海岸沿いの小さな集落にを寄せていた。集落は人口わずか數十人という部落だったが、地図にすらまともに載っていないような集落にウラジオストクから制服組――即ち、FSBの捜査員が墜落した飛行機の現場検証に訪れていたため、當初は思うように報収集もいかないと思われた。
しかし、結果としてはそれが逆にいい結果を招いたと言えるかもしれない。集落の家々の隙間をうように隠れ々々の移中、鍵の刺さったまま運転できそうな車を見つけたところ、それを移手段に用いることを提案した。だというのにそれを否定したのが沙彌佳だった。沙彌佳はあろうことか、そろそろ頃合かも、などと呟きながら現場検証にあたっていた連中の一人に向かって聲をかけたのだ。
予想だにしなかった沙彌佳の次の行はさらに驚くもので、肩を叩かれた現場責任者らしい人に一言二言なにか語りかけただけで、まるで何もなかったかのように連中が振る舞いだしたことだった。こちらの予測できる範疇を超えた行だけにこちらも戸ったが、どうしたことか、俺はこれも例の能力によるものなのだと頭の片隅で考えていたのだ。さすがに遠藤は怪訝にじていただろうし、事実、今も疑っている様子だ。
このおかげで、俺たちはロシアに到著してからというもの、ほとんど問題なく過ごすことができている。これからどうなるか予測はつかないが、無用な爭いは避けるに越したことはない。敵地で暴れれば當然向こうもこちらの方に気づくはずで、そうなれば折角無難に事を進めていたとしても水の泡だ。目的にに著くまでは、極力問題は避けて通りたい。
こうして俺たちはシベリア鉄道を使い、目的地であるツングースカの最寄駅まで行くことにしていた。ウラジオストクでまず一通り旅行用アイテムを揃え、もっとも早く最寄駅のクラスノヤスク駅に到著する列車に乗ることができたが、文無しの俺たちがそんな買いをできたのだって、完全に沙彌佳の能力のおかげだ。防犯カメラがあったので、商品をけ取るだけで一切支払わなかった俺たちの行が記録されたことになるが仕方ない。
ともあれ、実際のところ沙彌佳が連中に一何を施したのか、本人が真実を語らない限り知りようもないことではあるけども、俺が催眠だといって特に否定しないところをみると、あながち間違いでもないということなのだろう。あるいは、沙彌佳本人にもそれが実際にはどんな能力なのかも判らないのかもしれない。ただ、それができるというだけで理屈や知識としての意味付はないとしても、なんらおかしなことでもない。
とにかく今の俺にとって、沙彌佳以上に頼れる人間がいないのも事実で、そうと理解している以上は沙彌佳がどんな能力を持ち合わせていようと、沙彌佳を信じるしかない。戸いがないわけではないが、それが最上だと直が告げているので、だったらそれに従うというのが俺の流儀なのだ。第一、妹を目的として生きてきた俺が、今更以前と違うからといって突き放すのもどうかというものだ。
それにだ。今の沙彌佳はどこか違って見える。再會したときはまるで他人を寄せ付けない雰囲気を保っていたのに、いや、それは今もだが、心なしからかくなったように思えるのだ。気のせいだと言われればそれまでだし、自分でもそう思わないわけでもないが、それを完全に否定できるほどの自信もなかった。
だが、ちょっと前まではこちらから話しかけようものなら背骨に氷柱を突っ込まれたような気分にさせられたものだったのに、今現在はさほどでもないようにじられるのである。なくともあの飛行機での一件以來、沙彌佳が俺に対して、それまでのような態度を見せてはいないことだけは事実だった。
「にしても、何日もかけた列車の移ってのもいい加減飽きるもんだな。最寄りの駅までは今日の午後に到著らしいが、新幹線の偉大さってのがに染みてわかるというものだ」
「そうね。だけど、こういうゆっくりした移というのもたまにはいいわ」
これまでのところ、こうした些細な戯言や呟きには全くといっていいほど関心を見せていなかった沙彌佳が、珍しく反応した。朝に目が覚めてからというもの、もう何時間も続いている針葉樹だらけの景を眺めている沙彌佳が何を思っているのか想像もつかないが、こういう反応を示したことに俺は心嬉しくも、なんともこそばゆい気持ちになる。
そんな気持ちの表れが出たのか、じろぎしたのを隠すために俺は席を立ち上がり背びしてみせる。
「し外の空気でも吸ってくる」
そういって通路に出た俺に、沙彌佳が小さく首を縦にした。遠藤はただこちらを見つめているだけで、特に何かしようという思はないらしい。まぁ、何かできるとも思ってはいないだろう。下手に俺についてくれば必然的に沙彌佳もついてくることになることは、このも十分にわかっているはずであり、今のように殘しておいたとしても沙彌佳がいる限りは問題ない。もし殺す気であれば、先ほど眠っていた俺をとうに殺していたに違いないからだ。
この點で遠藤はさほど問題ない。問題はもっと別にある。
車両を後方へ向かって歩き車両連結部へと出る。特急ということもあり、車両連結部における揺れは中々のもので通常なら問題ないが、大きく揺れると振と橫揺れがかなりひどい。膝抜きの応用で振をうまく吸収しながら歩いていくと、すぐに次の車両に出た。その調子の繰り返しで、俺は自分のいた車両より三両後ろの車両まで來たところで、車両のドアの橫に移してを隠した。そっと、中の様子を窺ってみる。
(いた。あの男だ)
車両後方の客席に見つけた男は、こげ茶のハンチングベレー帽をかぶり、よれよれのチェック柄のシャツを著ている。年齢は三〇代後半から四〇代半ばといったところだろうか、窮屈そうに座席に座る軀はやや小太り気味で、みっともないビール腹で二重あごになっている。新聞を広げているが、何度も同じ紙面を見ているのではないかと思わせるほど紙面はくたくたになっていて、実にわざとらしい。
覗いていた俺は、ドアガラスから窺っていた頭を再び隠して思案する。沙彌佳の使う催眠らしい能力は、今の俺たちにとってはとても優秀といっていいものだが、かといってそれだけを全面的に信用するわけにもいかなかった。催眠のそれは確かに有効であっても、萬能というわけではないらしいからである。
説明によれば、がうまく機能するのはあくまで沙彌佳自が接した人間にのみ限られており、相手の簡単な記憶作などはできても、その景を目にした他の人間にとっては沙彌佳がとった行と結果をそのまま認識してしまうという。結局は全員にをかけ、全員に記憶作をしなければどんな行も記録や記憶として殘ってしまうのだ。
だから、防犯カメラに俺たちの行が記録されたとすれば、その場の人間をごまかしても後で記録として殘ってしまうということだ。おまけにこの手のはあくまで人間の記憶をごまかす程度ということなので、記憶が曖昧になったりするくらいでは、後でよくよく思い出せばその時の行やこちらの顔を思い出されることもあるというから、元々こちらのことを認識しつつ、姿を見せていないような人間にはまるで効かないということでもある。
そう沙彌佳に告げられたからこそ、俺はある一人の男のことが気になった。昨日停まった駅で列車に乗ってきた男で、どうにも俺の気に食わない行をしていたのだ。単にこちらの気のせいだといえばそうでないとはいわないが、念には念を押しておきたい。それにこの手の直というのは大抵の場合、その真実のままだったりするものだ。
FSBの現場工作のボスだったアレクセイ・ガルーキンがこちらのことを知っていたということは、本部にもそのことが伝わっている可能が高い。飛行機の墜落により、確実に消息を摑めているとはいいきれないが絶対とはいえない。蛇のようにしつこい連中のことだから、近隣の海域から俺たちの死をあげない限り、捜索をやめない可能だって大いに有り得る。もしかすると、すでにこちらのきに勘づいているかもしれないのだ。
となれば、連中は確実に俺たちのところに殺し屋を差し向けてくるのは火を見るより明らかで、そうなったことまで考えて行するというのがベターだろう。そんな中で昨日乗車してきた男のどことなく不自然な行は、目に余って見えるのだ。殺し屋とて、そうそう人目のある中で事を起こす奴はいない。俺も同じ職につく人間として、ターゲットとなる人間の行を把握することはとても重要なことなのだ。
ましてや今俺たちは矢継ぎ早に行しているので、正確な位置を摑むには幾ばくか時間が必要になる。となれば、より確実にターゲットを仕留めるためには本部と現場を仲介するような立場の人間がいるほうが、殺し屋としても無駄な手間をかけずに事を行える。そこであの男だ。沙彌佳の催眠は直接出會い、接した人間にしかその効力を発揮できないので、ウラジオストクなどの主要駅を通過してきた俺たちの顔報が映像などを通じて本部に知られていたとしても、それは仕方ないことだ。
しかし、移し続ける俺たちの行を逐一監視し、現場に到著した殺し屋にそれを伝える監視員の役目が非常に重要なポジションということになる。昨日は沙彌佳や遠藤がすぐそばにいた手前、気にはなっていてもあまり表立って行することもないと踏んでいたが、こちらが一人になったところを襲われないという保証はないので、早めにこちらから打って出ようというわけだ。
俺は男の姿を確認すると、再び元きた通路へ踵を返し座席の車両へと戻る。戻ってきた俺に、沙彌佳と遠藤が二人してこちらのほうをしばかし驚くように見上げていた。
「結構長かったわね」
「ああ、いい釣はないかと考えてた」
「釣?」
遠藤からのけ答えに、沙彌佳が反問した。俺は一度だけ頷いて口元をニヤリと歪める。
「それよりもそろそろ食事にでも行こうぜ。腹が減った」
「ちょっとさっき起きたばかりじゃない。大していてないのにもう?」
「なに、戦の前の腹ごしらえさ。腹が減っては戦はできぬっていうだろう」
大して腹など減ってないのだろう、遠藤はどこかうんざりした表でため息をらした。あるいは言葉の通り本當に納得のいかないだけなのかもしれないが、沙彌佳は何も言わずに席を立ち上がってくれた。どことなく解せないといった面持ちではあったが、何かしらこちらの思う意図に勘づいたのかもしれない。もちろん、こうなってくると遠藤にとっては二対一となり、必然的に賛同しなくてはならなくなるので再びため息をついて立ち上がった。
食事を終えた俺たちは、食後のドリンクを楽しみながら目の前を流れていく景を眺めていた。もっとも、それを本當に楽しんでいるものなどこの三人の中にいるはずもない。それでも先ほどいった戦の前の腹ごしらえというのは本當だった。俺たちが食事を始めてから一〇分としないうちに、例の男が食堂車に現れたのだ。
しかし、俺たちの陣取ったテーブルは向かって進行方向一番端のテーブルで、その壁側の席に座った俺からは食堂車にってきた全員の顔が拝める恰好の場所だ。男も俺たちを監視しやすいよう、しでもいい席を確保しようと考えたのだろうが、そんな程度の心得など、監視員の人間よりも現場である俺のほうが一枚も二枚も上である。そのせいもあってどこか居心地の悪そうな男は、どこか恨めしそうな表を滲ませながら仕方なくといった合に、あまりいい席とはいえないテーブルにのっそりと腰かけた。
そんな男はこれもまたわざとらしく給仕にコーヒーを頼み、また紙面を開いている。そのまま何も注文することなくいるところを見ると、わざとらしさが余計におかしく見えて仕方ない。俺は心、ほくそ笑むどころか吹いてしまいそうだった。見かねた俺は耐え切れず、席を立って小聲でいった。
「悪いが用を足してくる」
さすがに二人は、あからさまに表を曇らせるがここは我慢してもらおう。二人を目につかつかと食堂車を出て、後方車両へと抜ける。男のすぐ近くを通り抜ける際も、ほとんど意識することはなかったので、男に悟られてはいないはずだ。
再び客室車両へとった俺は、そのまま通路を進み連結部へと出る。連結部のすぐ近くには喫煙者のための喫煙ルームが設けてあり、その橫に乗車口があるといった造りになっている。そのため、喫煙ルームの壁にそって乗車口のほうへ歩くと食堂車はもちろん、客室車両からはこちらの姿が見えなくなる。敵を待ち構えるには恰好の死角というわけだ。
男の目的は十中八九俺だろう。連中がクキという人間を知らぬはずがなく、追手を差し向けないわけがない。それに遠藤は別として、沙彌佳が連中に知られているというのはあまり考えにくい。もちろん、そうと言い切れるわけでもないが、せいぜい俺と共に行することになったどこかのというくらいの認識でしかないはずだ。遠藤と共にいるのだから、調筋の人間と思うかもしれない。なんにしても、沙彌佳の素を調べるにはまだ時間が必要だろう。
となれば俺がターゲットになっていることは消去法から導き出されることになり、男を待ち伏せて吐かせてやろうという算段になるわけだ。すぐそばを通った際も、まさか俺が気づいているとは思っていない様子だったので、それを逆手にとってやろうというのは當然のり行きである。
そう思案しつつ二分と経っていないだろう、乗車扉の窓から外の景を眺めているうちに進行方向前方のほうからドアの開かれる音がした。平常心のままじっとその場に留まると、すぐ橫を男が姿を見せた。まさか俺がそこにいるとは思ってもいないというのは驚きの表から見て取れ、驚きに小さく悲鳴をあげようとした口をすかさず塞ぐ。必死に抵抗し喚こうとする男を強引に喫煙ルームへと押し込める。
「や、やめろ、いきいなり何を」
「とぼけるのはやめな。昨日から俺の周りをちょろちょろとしやがって、一なんの用だ」
喚こうと必死の男の口から手を離すと、やはりぼうとしたのですぐに水月のあたりに拳を深く押し當てた。すると途端に男が喚くのを止め、うっといた。心臓部に最も近い水月に深く押し當てられると、人間はの危険をじてをこませる。それをうまく利用して、相手が無駄にんだり抵抗しようとするのを止めさせるといった効果がある。
「俺に用があるんだろう、違うのか。後どれくらいで殺し屋がくる? それ以外の目的もあるだろう。さっさと吐いちまった方がのためだぜ」
相手が逃げられないよう、押し當てた拳をさらに強く押し付ける。男はをこまらせるどころか、しばかし震えだしていた。これだけで、男が監視役以上の役目を負わされていないことは明白だが、それでも殺し屋に報を與えるための仲介役を務めている可能は十二分にあった。敵は一人なのか、複數なのか。複數だとすれば何人いるのか、どこで待ち伏せるつもりなのか……敵の報をあぶり出すことは極めて重要なことなのだ。ましてや、直接會うかもしれない人間となれば、なおのこと重要になってくる。
監視役以上の任務を負わされていない男にとって、今のこの狀況は突然の上に降りかかってきた危険以外のなにものでもないだろう。はじめは黙しようとしていた男も、だんだん頭が回らなくなってきたのか、徐々に口を割り始めた。もしかしたら、まさか監視役であるはずの自分がこんな目に遭うだなんて想像もしていなかったのかもしれない。だが、それは甘いというものだ。
完全にみ上がっている男も、口を割ることでしは自分の置かれた狀況の改善が図れると思っているのか、話始めると徐々に張さを帯びた表が解かれていくのがわかった。男は昨日の朝に一人の男から、この列車に乗っているはずの俺を監視し、向こうの準備ができるまで逐一報告するよう指示されたのだという。やはり、すでに向こうも俺が生きているということに気づいているようだ。
経緯を語り終えたところで、次に俺は男の服をまさぐり、報告のために持っているはずであろう端末を探したところ、案の定、それはすぐに見つかった。著ているジャケットの裏ポケットにあった音楽プレイヤーだ。マイクロソフト社の出しているipodに似ているが、裏に印字されているロシア語の文字からは良く似た類似品であることがすぐに分かった。近年の急激な経済発展を遂げつつあるロシアにとって、こうした個人消費向けの趣向品が普及してきいることが、それが目覚しいということを如実に窺える一端だろう。
もっとも、これはそれをうまく利用した集音機を搭載しているため、単なる趣向品とはいえない。趣向品の普及を通じた、工作活の一端と見たほうが自然である。隨分前のことだが、一時日本でも一部で話題になった中國製の蛸足配線問題に似たようなものだ。一部のメーカーが下請けのある中國で組み立てられた際に、悪ながら盜聴が仕込まれ日本に流通するという、前代未聞の例があった。コンセントを介しているため、家庭用であれ電気は配給され続ける限り無盡蔵で、コンセントの中となればたとえこちらが意図的に電化製品からコンセントを抜こうとも中に仕込まれている以上、盜聴そのものが電気で焼き切れるまでは集音し続けることが可能という簡素ながら侮れないもので、備え付けタイプや蛸足配線などの簡易取付タイプのものを含め、実に數百萬個も日本の市場に出回り売れたというから、効率が良いとはいえないがではなく民から、という良くも悪くも中國古式の習わしに則ったものだと思った記憶がある。
ただし、今に限っていえば、それを外ではなくで利用しているというのが違いだろうか。なんにしろ、索敵のための報収集機能という目的をもって作られたものである事実に変わりはない。おまけに男が所持していたこのプレイヤーの形狀や機能、手のひらサイズに収まる小型化が実現しているのも、間違いなく産業スパイの活の賜であるといっても過言ではあるまい。
俺は上下重なるように取り付けられているプレイヤーの隙間に爪を割り込ませて、強引に両側へ引っ張った。思い切り力を込めたためこちらの指先も鈍い痛みがあるがその甲斐あって、睨んだ通り、中から丸いチップ狀の集音機が飛び出すようにこぼれる。こちらが考えている以上にチップ集音機は小さく、ロシアの最先端を知ることができる代だった。
「俺を狙って、殺し屋がやってくるってことはわかってたんだ。どこで待ち伏せてるんだ、言え」
「そ、それは……」
戸うように口を開こうとしてやめる男に俺はぐらを大きく摑み直す。男もその苦しさに耐えかねて、再び怯えるように口を割り出した。
「よ、よくは知らない。だが、クラスノヤスクで他の監視員と代する予定なんだ」
クラスノヤスクといえばシベリア第三の都市で、次の停車駅でかつ降車駅だ。定刻通りに著くとすれば、あと一時間とない。また、俺の知識ではクラスノヤスクにはFSBの支局があったはずだ。この駅で降りようとしていただけに、最も警戒しなければならない都市でもある。多のことなら沙彌佳を頼りにもできるが、相手が何人いるかも知れない上、おまけにこんな監視役程度の男から向こうの作戦など知らされているはずもないので、どうにも手立てがない。
男のぐらを摑む手は緩めることなく考えを巡らせるために視線を外した時だった。突然、列車が不快な金屬による音を立てながら停車し始めた。その反は大きく、とても耐え切れるようなものではない。俺と男は喫煙ルームの中で、反に負けて互いに壁や床にのあちこちを打ち付けられる。俺はといえば壁を転がるように肩と腰、それに背中を打っただけで済んだが、男は俺同様に壁に打ち付けられた反で今度は喫煙ルーム中央に備え付けられている吸殻れにまで當たりさせている有様だった。
「く、なんなんだ」
突然のことに驚いた俺も、それが急ブレーキによる急停車だということに気づいて頭を抱えながら毒つく。
床に思い切り叩きつけられた吸殻れからは茶にくすんだ汚水と何十本ともいえない汚水に漬かった吸殻がぶちまけられ、おかげで、ただでさえ煙の殘臭のする部屋の中でさらに濃い煙臭が立ち込める。のあちこちを打ち付けただけで済んだ俺と違い、男はその汚水の上に両腕をついて腹ばいに倒れてしまい、これ以上の災難はないといった合に痛みと不快に顔を歪めている。
「おい、連中の仕業だな、これは」
ようやく列車が停車したところで、俺は痛みに耐えたをしばかしかばうようにのろのろと男の方へと歩み寄り、まだ倒れたままけずにいる男の後ろ襟を摑むと怒聲を上げながら思い切りつかみあげた。今度は自の重が襟元にかかり、瞬時に呼吸が困難になった男はただでさえ紅させていた顔を耳まで真っ赤にさせてがくがくとを震わせる。
それを肯定とするか、ただの苦しみによるものなのか定かではなく、ただ男が気を失ってしまったという事実だけが殘った。どうやら床に倒れたときに、頭も打ったらしい。俺は忌々しく舌打ちし男を放り出すと、すぐに喫煙ルームを出て真っ直ぐに食堂車へと向かう。食堂車にろうとしたところで、やはりロシア側の策略なのかと思ったらしい二人が食堂車から出でてきていて、出くわした。
「今のなに」
「わからん。ただ単なる列車の不合による急停車というわけではなさそうだ」
二人とも表に差はあったが驚いた様子で、普段は無表で反応らしい反応をあまり見せない沙彌佳も、切れ長の瞳をしばかし大きくしている。それでも、驚いている遠藤とは比較的落ち著いているとことろを見ると、どこかで何かあるのではないのかと思っていたのかもしれない。ただ、まさか突然こんなことになるとは思っていなかったのだろう。
それにしてもクラスノヤスクまで一時間足らずのところで突然の急停車だなんて、とてもじゃないが列車の點検のための停車とは思えない。監視員がいたこと、その人が本部に報を逐一報告していたことを踏まえると、これは俺を狙ってFSBがき出したと考える方が自然だ。奴らなら、たとえ列車の急停車で中の人間に危険が及んだとしても、にも気に留めない。それどころか、人命よりもとにかく目標が乗っているという列車を止めることのほうが遙かに重要に違いない。
「どうするのよ」
遠藤が早口にいう。
「沙彌佳」
「なに」
「おまえの催眠、何人までなら使える」
「わからないわ。ただの兵士くらいなら五、六人ってところ。だけど、強い意思を持ってる人間にはたとえ一人であっても効かないと思う」
「それは例えば、俺を捕えようとしている明確な任務と意思を持っているような奴には効かないってことか」
「明確な意思を持っている人間には相乗効果を上げることくらいはできるけど、その反対にはできないと思う。何度か試してみたこともあるけれど」
なるほど、これが萬能ではないというもう一つの側面か。明確な意思をもっている人間にはそれを増長させることはできても、無視しろなどといった丸きり正反対の暗示をかけることはできないらしい。強いプラス側の意思をより増長させて行させるというのは、一種のプラシーボ効果のようなものなのかもしれない。自が、そうだと強く念じ続け當たり前のようにじ続ければそれが実現するとかいうあれだ。
「ともかく列車を出よう。クラスノヤスクまで一時間ないが、ここから先は列車で行くわけにもいかない」
原因がなんであれ、列車に乗ったままというのは懸命な判斷とは思えない。周りでも、この急停車に驚きと怪訝さを隠せない乗客たちがうろちょろし始めていて、アナウンスでも突然の急停車に落ち著いて自分の席に戻るよう呼びかけている。しかし突然のことで混している今なら、人間三人くらい列車を出たところで大した騒ぎにはならない。むしろ出するなら停車した今しかない。
「列車を降りてどうするの」
後方車両へと移し始めた俺に遠藤が喚くようにいった。
「列車でいけない以上、どこかで車を調達するしかない。もし列車を降りて連中と出くわしても、沙彌佳の催眠もある。もし、連中のボスが出てきたらどうしようもないが、兵士の一人や二人くらいならなんとかなるはずだ。そうだな?」
沙彌佳のほうを振り向きながらいう俺に、沙彌佳が力強く頷く。それに頷き返した俺は、再び列車後方へと向けて歩き出した。それに二人が続く。
(やれやれ、催眠とはな)
そんなことを考えながら、時折ざわめいて席を立って通路を歩く乗客をかきわけ列車後方へと足早に進んでいく。全く、馬鹿げた話ではないか。つい一年か半年位前までなら、催眠だとかいわれたところでそんなのは鼻で笑ってやるものなのに、今は素直にそれが當たり前としてけれてしまっているのだから。もちろん、すでに自分が想像する以上のことに何度も遭遇してきたというのも大きな要因だ。いや、それが一番といっていいかもしれない。
ましてや、自分の妹がそうだとあればなおのことだ。沙彌佳をどこまで信じればいいのか、もはや俺に判斷すべきものはない。あるいは、単に思考停止なだけだと言われればそれもまた然りかもしれないけども、かといって俺にもこれまでの信條である、自分で見て経験したものこそが真実である、ということに基づくと、やはりそれを信じないわけもいかなくなり信じるしかないということになる。混がないわけといえば噓になるが、それでも沙彌佳自が何かそれについて知っていそうなので、今はそれを信じてやろうという気持ちに従うつもりだ。
飛行機での一件以來これまでのところ、沙彌佳もどこか俺をけれてくれている様子なので、それを無下にする気もなかった。今俺がまたあれやこれやといって混を招くのは得策ではない。聞こえは悪いが、今沙彌佳のそれが効果があるというのなら、まずはそれに頼ってみるのも悪くないという気になることで、こちらの無駄な力を使わないでいたいというのもあった。今この地は敵のお膝元なのだ。たとえ沙彌佳の力が無価値になったとしても、その時は自分でなんとかすればいいだけの話で、やはりそれだけが沙彌佳の信用を失うに値しないはずだと考えてのことでもある。
何両もある車両を通り過ぎていき、ようやく末端車両にまでたどり著く。途中、ざわめいていた乗客たちも、繰り返されるアナウンスに徐々に落ち著きを取り戻してきており、そんな中を足早に後方へと向かう日本人男三人という図は々目立ったかもしれない。勝手に意識しているだけなのだろうが、早かった足取りがいくらか早くなったようにも思える。だが、その甲斐もあってか、思ったよりも早く末端車両までたどり著けた。
「ここから降りるの」
「ああ、以前ここから降りたことがある。まずは沙彌佳からだ」
前にも経験があるということに、二人とも意外そうな顔を覗かせた。それもそうだろう、普通に考えればこんな降車の仕方などしないのだから。あのときは確かサンクトペテルブルグからモスクワまでの旅の途中だった。なんだかんだで、あの時の経験が今活きているわけだから、人生何があるか判らないものだ。
末端車両の向こうは來た線路と線路のために切り分けられた林が延々と続いている。ここから目的地へ向かって歩くなど、よほどの土地勘とサバイバル心がなければ無理だろう。やはり、一度街近くまで行き車を手にれなければ、とても目的地にまでたどり著けそうにない。
俺は車両のドアを開け沙彌佳を先に通すと、続けて遠藤を行かせた。今更遠藤が何かしようとは思ってないだろうが、それでも念には念を押しておく必要がある。このは好奇心旺盛ではあるが、それでもかなりのポーカーフェイスだ。用心しておかねば、いつ寢首をかかれることになるかわかったものじゃない。
「あれは」
俺たちは何事もなかったように列車を出ると、列車がなぜ急停車することになったのか、その原因を見つけることができた。緩やかにカーブしているため、前方車両のほうが良く見える。また、近く橋を渡ることになっていたようで、先頭車両は橋を渡ったところで止まっているのが見える。どうやら、検問所を敷いているらしい。途中の車両部分においても、ウラジオストク沖に程近い集落でも見かけた制服連中が強引に止めさせた列車に次々と乗り込んでいっている。
「停車前に不審な男を締め上げたからな、ここに來るのも時間の問題だろう。今は一端森の中に逃げ込もう」
俺たちは線路脇の森の茂みにを隠すと、地を這いつくばって橋方面へ向かってほふく前進する。おそらく三〇メートルといっていないだろうが、ふと列車のほうに目をやると、窓から車の様子がおぼろげながらに窺えた。制服連中が二人一組になって乗客たちを確認している。乗客たちは連中の行に目を奪われており、こちらに視線を向ける者はいないみたいだ。
どうせ見つかっていないならこのまま立って走りたいところだが、やはりそういうわけにもいかない。立って走ろうものなら、すぐにも連中の目に止まってしまう。それにざっと數えてみたところ、なくとも二〇名以上もいて、連中がもし銃を攜帯していれば最悪蜂の巣にされかねない。それだけは絶対に避けたいので、このまま行けるところまで行って検問を抜けるしかない。
だが、どうしたものか。列車に俺たちがいないというのを連中が気づくのにそう時間はかからないだろうし、何より食堂車のすぐ後ろの車両では、端役ではあっても連中のスパイが倒れているのだ。つまり、こうしていられるのも時間の問題ということになるので、だったらさっさと遠くに行くべきかとも考えるわけである。
そうこう考えているに列車の中から、一人の制服が出てきてたまたまやって來た將校らしい男に何やら報告している。確信は持てないが、早速監視役の男が見つかったのだろう。そして、その男が車両前方に向かって手で大きく合図した。どうやら、そちらのほうから誰かを呼んだようだった。
その人が來るまでに列車からは、列車の急停車で倒れた監視の男がぐったりとした様子で出てきていた。やはり、男が見つかったのだ。こうなってくると、連中が広域探査に展開するのは目に見えているので、二人に列車を離れて森の中に逃げ込もうと提案した。俺同様に連中のやり取りを見ていた二人は、同様に同じ想定をしたのか頷いて、近くにあった巨木まで這っていきそこから徐々に森の中へとを隠した。
俺も二人が木々に隠れて見えなくなったのを確認すると、それに習おうとした。列車で一時間としないところにまで來たのに、中途半端なところで途中下車しなくてはならなくなったことに無念さを思いながら列車のほうを確認したところ、列車では將校の男が呼びつけていた人がそこにまでやってきていたところだった。
(そんな、まさか……)
制服連中の呼ばれてそばにやってきたのは、あまりに思いもかけない人であった。どうしてやつがこんなところにいるのか。ブラウンや金髪のロシア人に混じっているとその人はとても目立つ黒髪の東洋人で、そのあまり、そいつを凝視してしまい、その場からくのをやめてしまう。それを見咎めた遠藤が早くするようにせっついてきたため、気のない返事で仕方なくその場を離れながら俺は、再びその人のほうへと視線を向けた。
その人がなぜこんなところにいて、なぜFSBの連中と共にいるのか。その目的は。いつロシアりしたのか……考えは盡きないが、ともかく日本にいる間に全く消息がつかめずにいた人がそこにいるという事実だけがあった。通りで消息がつかめないはずだ。ロシアにまでやってきいたのなら、そうそう足取りを追えるはずもない。あるいは、やつのことだから何かもっと違う目的があってのことだとは思うが、なんせ付き合いのある俺から見ても謎の多い人間なので、真意は本人に聞かねば決して判りはしないというのが本音だ。
それだけに、疑問が盡きないのも仕方のないことだった。敵なのか味方なのか。一度疑いだすと考えがループしてしまい、まともな思考ができなくなってしまう俺の悪い癖が出てきたところで、とにかくここを離れることが最重要だと判斷し、茂みから森の中へとを潛めていき、わずかに下り坂になった斜面を転がるように落ちていったところで立ち上がり、先に行っている二人の後を追った。
これまでにも、幾度となく手を組んだことのあるあんたのことだ、きっと何か別の目的があって奴らといるのを信じることしか今の俺にできない。
なぁ、そうなんだろう、田神――。
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