《いつか見た夢》第113章
凍える手をりながらクラスノヤスク郊外にやってきたのは、もうとっくに日も暮れた午後の二一時になる頃だった。
時期としては、そろそろ紅葉という頃合だがそれは日本に限った話で、ここは中央シベリアという人が住むにはあまりに過酷な環境の土地である。その過酷さたるや、秋などという季節の良い時期はほとんどないに等しく、短い夏の時期が過ぎると途端に空気が冷え始め、一凪の北風が吹いたかと思うとあっという間に雪がちらつきだすほどの過酷なものだ。
過酷な環境下では文明社會の製品はとても重寶するものであるとともに、それは多大な貧富の差を生み出しやすい要因にもなる。このため、シベリアは一部の都市や街を除けば、ほとんどが二一世紀にった今でも未開拓のままである。したくても、よほどの事と気がなければ、無理に過酷な環境にをおきたがる人間など皆無に等しく、このためにシベリアは舊制ロシア帝國の時代から流刑地として広く周知されている。
その過酷さたるや、シベリア送りという言葉に表されるように、想像を絶するものであるという。夏とはいうが、最高気溫は真夏の時期でも外気溫が二〇度に達するかどうかな上、その比較的過ごしやすい時期すらわずか三ヶ月足らずという環境では作など育つはずもなく、安定した食料の供給もできず、あるのは過酷な冬に堪えうる針葉樹の森だけとあれば、住むにもまずその木々を倒してからということになる。つまり、一から全てを作らなければならないという、ただでさえ大変な労働を強いられるというのに、夏らしい夏もなく、まともな食料も手にらないでは當然人々も痩せ細っていき、寒さに凍えないようなんとか建屋を建てることが関の山という悪循環が、人々を畏怖させるには余りあるほどの荒涼地獄を形する。
そのためシベリアは、ロシア人から古くから流刑の地にして生き地獄とも言われる土地で、ロシア帝國時代末期からロシア革命後の舊ソビエト連邦時代には、ロシア正教會が説く人の命の大切さを盾に、罪人であっても死刑にしない代わりに、シベリア流しの刑というのが大いに流行ったという。命の大切さなどと聞こえはいいが、罪人の命を保障する代わりに労働者として荒涼地獄で鉄道の建設と、そのための町造りを強要されたわけだ。
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當然、流刑者たちはそんな過酷な環境下では五年と持つことなく、全員が人知れず息絶えた。つまり、シベリア送りは事実上の死刑宣告ということなのだ。中には帝國時代から舊ソ連時代を含めて、とりわけ舊ソ連時代は、人の命を大切にという教會の教えと社會主義の全ての民が平等にという理念の基、失腳した、もしくはさせられたような権力者もいたことだろう。
そんな暗黒の歴史を持つシベリア地區の都市や街のほとんどは、大抵がそうした事から発展していったところばかりだ。そうでない街もあるが、そういった街は教會や舊ソ連の権力者たちによるなんらかの支援があったからによる。冬期はよほどのことがない限り、地元の人間すら限られた時間と天候に恵まれた時にしか出歩かないともいわれる荒涼の大地は、人の居住を拒むため流刑地としてうってつけだったのだろう。
しかし、こんなシベリアにも文明の恩恵は差し込んでいないわけでもなく、北極圏に住むイヌイットなどは一昔前までは未だ、自分たちがロシアに屬した人間という事実を知る人間もいるというほどに外界から隔離された場所であったが、さすがに二一世紀にった現在は彼らの生活文化にも人工的な手のったものは見けられる。イヌイットすら、スノーモービルに乗る時代なのだ。
そんな中、俺はどんなわけか、こんな人類最後の境といってもいいようなシベリアの大地に、なんとも言えない懐かしさをじていた。もしかしたら自分に多の偏屈さがあるのかもしれないが、文明社會で生きておきながら、どうしても文明社會そのものへのアンチテーゼを抱えているようにじられるのだ。高度に発達しすぎた文明は、時に人類そのものの弊害になっているような気がして仕方ない。人間が文明を発達させていくにつれ、人間は人間でない何かに変貌していっているのでは。そんな覚にとらわれるのである。
だからからだろうか、中央シベリアに広がる針葉樹の森を抜けて人里に出たとき、妙な安心とともに後ろ髪引かれる気持ちになった。人類が築き上げてきた文明社會に対する親近と郷愁、なのに人類が否定し忌諱した自然への畏敬の念と哀愁の念がりじり、複雑な気持ちを抱いたままクラスノヤスクに到著した俺は、沙彌佳の催眠を使って街外れに住んでいた老夫婦の家で世話になることにしたのだ。
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列車を途中下車したあと、途中に街へ向かう小さな道路を見つけ、その道路に沿って、ひたすらに薄暗く鬱蒼とした森の中を歩く羽目になった。追手をかけられた様子もなく森を抜けることができたのが幸いであったが、道を走る車は一臺もなく、おかげで足が棒のようになってしまった。そうしてようやく森を抜けてこの老夫婦の家にやってきたのけども、人の家というのはどこか落ち著かない。
「それにしても、あなたの催眠って本當なのね」
間借りできた部屋のベッドに腰掛けた遠藤が沙彌佳にそういった。
「信じてなかったの」
「今でも信じがたいけどね。もしかして、私にもかけてるんじゃないでしょうね」
「催眠も何も、あなたは自分の意思でついてきてるんでしょ」
ま、そうだけど、といいながら遠藤は會話を切り上げてベッドに四肢を投げ出して寢転がる。どうにも張のないだ。始めからこんな調子ではあったが、やはりこれが素の格なのかもしれない。そう思うと、よほどのポーカーフェイスなのだなと、妙に心してしまう。
「とにかく、今晩はここで休ませてもらおう。多分、街の方はFSBのスパイどもが網を張ってるはずだからな」
「そうね。……あーあ、あんたを追ってたらとんでもないことになっちゃったわ」
「別に今すぐ別れてもらってもいいんだぜ? むしろそっちのほうが俺としては助かるね」
「そうしたいのは山々だけど、本當にそうしたら彼が許しちゃくれないでしょ」
沙彌佳の方を目を細めながらいう遠藤は全てお見通しよとでもいわんばかりに、薄く笑みを浮かべている。そうなのだ。俺としては遠藤がさっさと別れてくれたほうが気持ちとしては楽だった。もしかしたら遠藤の養父を殺してしまったことが、無意識のに罪悪を生み出しているからそう思っているからかもしれないが、たとえ別れた手前、ロシアのスパイどもに俺の報を売ろうが、そのときはいつでも相手になるというスタンスでいるからだ。
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だが、こと沙彌佳にとってはそうではないらしい。もちろん、もし遠藤を逃がしてしまえばこちらのが危うくなるからという理由はあるだろうが、どうにもそれだけでないように思われるのだ。元々、飛行機の墜落の際に放っておこうとしていた沙彌佳だけに、その遠藤が足枷になっているという事実が気にらないのかもしれない。
もっとも、遠藤がいてくれたほうがある意味で俺も心のをセーブできているので、その點はありがたい。今沙彌佳と二人だけになっていたら、心の中にある全てをぶちまけてしまいそうになるのではと思う時がある。俺に対して沙彌佳は今、この數ヶ月の間ではもっとも心中穏やかにいるように思える。それが嬉しい反面、どうして今なのかとも勘ぐってしまっている自分がいるのだ。俺の求めていた沙彌佳像に近づいたというのに、どうしてか今の沙彌佳は無表でいるほうが本當なのだと、勝手に思っているだけだと思い込んでいるからだろう。
……いや、そうじゃない。きっと怖いのだ。けない話なのは承知だが、俺は今、沙彌佳ののを明かされるのがどうにも怖かった。自分が今の沙彌佳は多なりとも気を許してくれているに違いないと勝手にそう思い込んでいるだけで、もしそれが違っていたらと考えるのが怖いのだ。俺の知る妹が、全て幻想に消えていきそうで怖いからだ。
「なに」
「いいや、なんでもない」
沙彌佳のことを考えると、いつの間にか沙彌佳自のほうへと視線を向けてしまう癖がついてしまっているのか、互いの視線が差する。気づくとなんとも恥ずかしいもので、俺はそれを悟られないよう肩をすくめてみせた。
「ところであんた、列車で何かあったの」
寢転がったままの遠藤が不意に聞いてきた。
「ああ、列車が止まる前に俺たちを監視していた男を見つけたんで、ちょいと締め上げてやった」
「そんなことあったの? ふーん。だけど、私が聞いてるのはそういうことじゃなくて、列車から出てからの話」
「ん、ああ、そのことか。いや、俺の見間違いだった。見知った顔を見つけたと思ったが、そうじゃなかったらしい」
遠藤がいっているのは、森の中に消えようとした直前に見つけた、田神のことをいっているのだろう。特に何かあったわけでもないのに、あの場からかなかったのを見て、怪訝にじたようだ。もっとも、それは無表を裝っているが、沙彌佳も同じようでこちらに目を向けている。だが、こういう以外に今の俺にいえることはない。俺自、田神自に會って問わなくては真意は得られないからだ。
(とはいうものの)
改めて指摘されて思い返してみると、やはり合點のいかないことばかりだ。日本に戻ってきてからというもの、こっちも時間を取れたわけではなくとも一応はバドウィンを通じて足取りを追わせてはみたが、そのプロをもってしても消息がつかめなかった男がどうしてロシアなどにいるのか。これがもっと別の形であればまた話は違ったろうが、どうにも今は違うと言い切るには分が悪すぎる。あの男がいつからロシアに來ているのか判りようもないが、なくとも利の話を聞いた限り、大分前に日本を離れてロシアりしていたろうから、何か俺の知らないところでロシア側と手を組んだ可能は否定できない。
普段頼れる男なだけに、やつの裏の生活や行を知らないというのが大きく影を落としてしまっている。おまけに、あの男と初めて出會ったのも、このロシアでのことだったと思うとなおのことで、田神のどこまでを信じていいのか頭を悩ませずにはいられない。それでも、田神なら何か目的があってのことだと思いたい。単純にロシアのスパイどもといたからという理由だけで、連中の仲間だとは斷定したくなかった。そう疑わなくてはならない証拠もないのだから。
はた、と二人が凝視しているのに気づいて俺はかぶりを振って、すでに用意されているというシャワーを浴びることにした。どうも俺の悪癖がまたも出ていたらしい。どうも俺という人間は一度考え出すと、そのために行が止まってしまうのがいけない。このときが今という狀況だからまだいいが、これがもし戦場なら、もうとっくにあの世行きになっていてもおかしくない。
部屋を出た俺は、頭をリセットするためにバスルームへと向かった。とにかく、今は考えてわからないことにとらわれている暇はない。明日はどうにかして警戒網の布かれているはずのクラスノヤスクの街を突破し、目的地であるツングースカにまで行かなくてはならない。現場工作員のボスであるアレクセイ・ガルーキンが死の間際に口にした、隕石とツングースカという言葉。今のところ、日本に帰る手立てがない上、沙彌佳のこともある。そう考えると一度は立ち寄らなくてはならないだろう。
バスルームで著ていた服をいで籠に放り込むと、蛇口を捻ってバスタブの壁の上に據え置かれているシャワーノズルから勢いよく飛び出してきた湯を頭からかぶった。俺の好みで浴びる熱めの湯水は、妙に頭をすっきりさせてくれる。この熱さにもあっという間にじんじんとしてきはじめ、全が灼けるようにじられてくる。
中のいたるところを泡立てた石鹸で洗い、最後に髪を洗いあげると、再び浴びるには熱い湯を頭からかぶる。石鹸の泡がたちどころにをって流れ落ちていき、排水口へと吸い込まれていく。泡が洗い流された後も、しばらくは湯を浴び続け完全に泡とその石鹸の分が落としきったと思えるくらいになって、ようやく湯水を止めた。
バスルームの壁に両手をついて、何を考えるでもなく、ただ浴槽の底と自分の足元を眺める。足の親指の付が心なしかヒリヒリしている。進むべき場所も方向も決まっていたとはいえ、深い森の中を何時間もほとんど休むことなく歩き続けた結果、足にタコができていた。それが何度もれて軽い炎癥を起こしているのだろう。
頭を上げて髪から滴り落ちる水を落とすために、手で髪を掻くように薙ぎ払い水滴を落としていく。用意されているバスタオルで髪を拭き、の水滴を適當に拭き取ったところで下著とスラックスを履くと、まだ湯水の熱さも冷めやまぬうちにバスルームを出た。
バスタオルはもうしばらく肩にかけておいたままでも、特にここの住人も何もいわないので問題ないだろう。住人である老夫婦には、俺たちの姿が完全に見えなくなるまでは、ここで俺たちが一晩過ごしたという事実さえ記憶から抜けるよう、沙彌佳が暗示をかけてくれたらしい。
バスルームを出たところで、俺はそっと一階のリビングにいるはずの老夫婦の様子を覗いみると、そこにはいるはずの老夫婦はおらず、代わりに沙彌佳が一人部屋の中心で佇んでいた。部屋の中で一人佇む沙彌佳は後ろ姿しか見えないため、あいつが何を考え、何を思っているのか窺うことはできない。しかし、どことなく過去を思い出しているのか、リビングの様子を眺めている。老夫婦はすでにリビングを離れ、自分たちの寢室で寢ているのか、そこに姿は見えない。
そんな沙彌佳に聲をかけようとして躊躇われた。俺はリビングを仕切るための廊下の壁にを隠すようにしてもたれかける。何をどういえばいいのか、今になって言葉が出てこなかったのだ。沙彌佳をこんな目に遭わせてしまったという負い目が、気安く聲をかけていいものかと思えてならなかった。
どう考えても今沙彌佳に話しかけるのは得策でないと判斷した俺は、そっと足音や気配をじさせないよう忍び足でその場を立ち去ろうとした。すると、リビングからそれを制止するように聲がした。
「そんなところにいないでってきたら」
思わず足を止めて、どうしたものかと考えるよりも前にため息が出ていた。こうなっては取るべきは一つで、俺はバツが悪いながらもそれをじさせないよう平靜を保ち、今しがたここに現れたかのような態度でリビングへとっていった。
「気づいてたのか」
「なんとなく、だけど」
「遠藤は」
「もう寢てる。山歩きで疲れたんでしょう」
「そうか」
他もない會話もそれだけで、二人の間を重い沈黙が降りた。
(気が重い)
飛行機の件以來どこからかな雰囲気になっていたのであまり気に留めていなかったが、いざ二人きりとなると、えらく張するものだ。なんというか、會話が続かない。昔はそんなことはなかったはずだが、どうしても互いに壁を作ってしまっているようにじられて仕方ない。もっとも、その原因が自分にあるのは間違いなく、それが余計にそうさせてしまうのは當たり前であるが……。
確か、昔はこんな風に會話がなくなっても互いにそれを自然とけれ、格段気にすることはなかったものだった。會話が途切れたとしても、それを破ってくるのはいつも沙彌佳だったのではないだろうか。今思えば俺は、俺自から積極的に沙彌佳のほうへ話題を振っていたような記憶があまりない。いつも話題を提供してくれたのは沙彌佳だった。
その積極の無さのツケが今こうして回ってきているのかもしれないなどと思った。こうしてみると、いかに沙彌佳が明るく努めてくれていたのかということを否応なく考えさせられる。それを未さ故に中途半端にけれた挙句、ただの自己保に走った自分があまりにけない。過去のことではあるが、今それがようやく現実の問題としてまざまざと巡ってきていることだけは実できた。
それを察してかはわからないが、やはり沙彌佳がこの沈黙の壁を破ってきた。
「それで? 私に何か聞きたいことがあるんじゃないの」
「ああ、そうだな」
そう問われて俺はけなくも半ば慌てて、大して考えもせず切り出していた。
「ツングースカには何があるんだろう」
そういって俺は心で何をいってるのかと叱責したが沙彌佳は短的に、さぁ、とだけ答えた後さらに続けた。
「だけど、私はいずれそこには行かなきゃって思ってた。今の自分がいるのも、あそこが発端の一つだから」
「発端の一つ、か。それはつまり、俺のことも含まれてるわけだな」
「どういうこと」
俺に背を向けたままでいた沙彌佳が振り向いてそういった。その表は、やや不機嫌そうな印象をける。何かまずいことでもいったのだろうか。
「つまり、俺のせいでおまえをそんな目に遭わせてしまったんだから、俺にもその一端があるっていったんだ」
「別にそうじゃない」
ますます険しくなっていく表に、俺は心揺していた。その顔は不機嫌さを如実に表しており、なぜ本當のことを告げてそんな風にいうのか疑問だった。あるいは、今まであまり気にしないでいた記憶が掘り起こされ、そのために不機嫌になったのかとも思われたがそうではないらしい。
「じゃぁ、なんでそんな顔するんだ。俺があのとき、あんな行をとればおまえを今こんな目に遭わせることはなかったはずだ。そうだろう? 違うか」
そういうと、沙彌佳は半ば憐れむように目を細めていった。
「あなた、本気でそう思ってるの。だとしたら、そんなの馬鹿にしてる。私がそれだけでいつまでも恨んでるとでも思ってるの」
「じゃぁ、どういうことなんだ。はっきりとわかるように説明してくれ。そんな風にはぐらされてばかりじゃ、俺にはわからない」
いつまでも、ということはつまり、それもいくらかは恨まれる材料になっていたということだろうが、沙彌佳自にとっては他にも理由があるらしい。だというのなら、なぜ沙彌佳はこんなにも俺のことを嫌いしているというのだ。この押し問答が、半ばいつかの再現であるとはこの時の俺に気づけるはずもなかった。ただ、沙彌佳のとる態度の原因はなんなのか、それだけが知りたいだけなのに、なぜまたこんなことになるのか俺に気づけるはずがなかった。
「確かに、あの子の、綾子の家の前で別れることになった時、あの時のあなたを呪ったことも確かにあったわ。だけど、それだけが単純に全ての引き金になったわけじゃない。
あなたの言う通り、あの時はとても怖かった。別れた後、見ず知らずの人に口を塞がれて無理矢理知らない場所に連れて行かれたとき、なんで自分がこんな目に遭うのって思った。こんなことになったのも、きっとあなたのせいだって言い聞かせたこともあった。あったけど……」
あんなにも無表に冷めた目で俺を見つめていたはずの沙彌佳が、今は自然とを表に出していた。それがどこか不思議に思いながら俺は沙彌佳の獨白にも似たそれを聞き続ける。
「……あったけど、いつの間にか恨みなんて無くなってたのよ。なんでか判らない。だけど、辛い時にいつも思い出したのは、楽しかった時の思い出ばかり。それがなんでかいつも、あなたのことばかりだった」
「俺の……」
そういって沙彌佳はうつむき気味になった。そこには先程までの不機嫌さなどなく、もっと別の、哀しみというがそうだというのなら、きっとこんなをいうのだと思った。それほど、沙彌佳の見せる顔はこれまで一度も見たことのないものだった。こいつに心配かけさせたこともあり、その時は今にも泣き出しそうな、そんな顔をしていたのが不意に思い起こされる。あれは確か、俺が今井に刺されて重になった時だった。
「あなたって、本當に昔からそこらへん変わってない。自分で突っ走ってばかりで、周りのことなんて考えてない。待つ人のことなんて考えたことないでしょ?」
そこまで言われては、俺は返す言葉がない。沙彌佳の言う通り、考えたら即行という自分の格に噓偽りはなく、俺はただ図星を指されたことに沙彌佳から視線を外した。だが沙彌佳の言葉を返せば、行に結果が伴っていないといえるわけで、それが無謀だと責めているのということでもあるのだ。
「だけど……あんな目に遭っても私……お兄ちゃんがきっと助けに來てくれるって思ってた。それにすがるしかなかった」
「沙彌佳」
そう聞いて思わず抱きしめたくなる衝に駆られた。だが沙彌佳の告白にはまだ先があり、そうするわけにもいかなかった俺はぐっと堪えて、眉間に皺をよせて妹を見つめる。
「結局、私はあなたを憎み切れることなんてできなかったのよ。今思えば、なんでそんなにも強く思えたのか不思議だけど……なくともあの時の私にはそうだった。けど、それが一つの過ちだったと気づけたのはすぐのことだった。あの連中が私のを使って実験をし始めた時から、ちょっとずつ変化があったの」
沙彌佳はぼかすように詳しくはいわなかったが、それが坂上による実験のことだと気づくのに訳なかった。俺自もまた、坂上の手記を見てそれを確認している。奴の研究果を頭に暗記させられるほど頭の許容量がないので概要くらいなものだが、それでもあの男が行った數々の所業は決して許されるものではない。
「その変化が起こり始めたときよ、あなたを本當に憎いと思ったのは」
「それは……」
どういう意味だと続けるよりも早く、沙彌佳は再びこちらに鋭い視線を向ける。
「私、妊娠してたらしいわ」
「……なに」
短くいった沙彌佳の言葉に俺は瞬時に理解できず、頭の中でそれを何度も反芻させ固まった。妊娠? 誰が? 沙彌佳がか? ゴクリと固唾を飲んだ音が妙にクリアに聞こえる。それをどちらがしたのか、俺にはわからなかった。
「信じられないでしょう? それは私もよ。でも急激なストレスのせいで流れたわ、幸か不幸かね。當然、父親は一人しかいない。あのとき関係を持ってたのは一人だけだったから」
まさか、とは言えなかった。俺の記憶にも沙彌佳と関係を結んだ時のことが、昨日のことかのようにある。その翌日に沙彌佳が消えたということもあって、忘れたくても忘れられるはずがない。沙彌佳の中に俺のもの自を突きれ、放出したことまではっきりと覚えているのだ。それがこの人生においての一つの分岐點になったに違いないのだ。
「関係を持ったことが、罪だったといいたいのか」
「そうね、そのせいで私はあの男の実験臺にされたのだから」
沙彌佳の言葉の一つ一つが突き刺さる。改めて二人が関係を持つということの業を知った俺ではあるが、俺と沙彌佳が関係を結んだことで、どうして実験臺にならなくてはならなかったのか、それが分からない。そこに何か大きな意味があるというのか。まさか、それが沙彌佳がNEAB-2を投與され続けながらも助かることができた要因になったとでもいうのか。
「あのとき、もし私があなたと関係を持たなければと考えたこともあるけれど、あの男は、私の中にあった何かにえらく興味を持ってたみたいだった。それがなんなのか私には分からなかったけれど、一度だけ私に誰か関係を持った人はいないかと聞いてきたことがあった。恐怖に怯えてた私は、そのときあなたとのことを告白せざるを得なかった。それを聞いたあの男は、すぐにも次の実験に取りかかる準備を始めるといって、どこかに姿を消した。それからすぐよ、私があそこを抜け出すことができたのは。
それに妊娠してたっていっても、実のところそんな実はほとんどなかった。私自はそれどころじゃなかったし、過度のストレスから流れたから、後になって知らされたのよ。私を逃がしてくれた人からね」
「そうか、出の手引きをしてくれた人がいたのか」
「そう。彼が、あの男が出張で一時的にいなくなるこの日以外に出できる日はないっていってね。あの男は年に一度か二度、研究果の報告なんかを兼ねて研究所を空けることがあったのね、その日を見計らって彼が出を手伝ってくれた。なぜ彼が出させてくれたのか理由はわからないけれど、このおかげで私はあの忌まわしい研究所から出することができた」
そんな経緯があったのか。俺は思わず納得がいって、自分でも気づかないに首を縦にしていた。俺が見た限り、あの研究所の鉄壁さはなかなかのもので、なくとも出の訓練をけた者やその手の心得のない人間が逃げ出すのはかなり難しそうに思われた。それをどうやって逃げ出したのかとしばかり気になっていたが、そうした事があったというのなら納得だ。
沙彌佳はどこか懐かしげに、やや目を細めてそばにある一人がけのソファーの背もたれにそっと手をやった。研究所の中にもそんな人間がいたのかと思うと、ちょっとは救いもあったのかと思えるものだ。なくとも俺が研究所に潛したときは、研究員が武裝していたので、沙彌佳が出して以降、研究所でも何かしたらの対応がなされたのなのだろう。それで連中が皆やけに素人くさかったのにも頷ける。
「だが、わからないな。坂上の手記には、おまえが三週間ごとにNEAB-2を投與しなければならないとあったが、出まではいいとして、これに関してはどうなんだ」
「正直にいって、私にもよくわからないの。確かに三週間という期間はあの男からも聞かされていたから、あそこを抜け出した後も、それが切れたらどうなるか……とても気が気じゃなかった。出したときにはすでに一週間が経っていたし、出を手伝ってくれた彼も坂上がNEAB-2がどこにあるのか、その在り処は知らないようだったから。
それでも、あれしさに研究所に戻るのだけは嫌だった。危険もあったし、それこそもう二度と出られないような気がして。自分のの中の薬の効果が切れるまでが殘りの命だと改めて考えると、そこで怖くなって、またあなたを恨んだりもしたけれど……結局それも無理だった。恨んでも恨んでもどこかで楽しかった頃の記憶が蘇ってくるもの。それが一番恨めしかった。なんであなたなのってね。
そうして、深い山の中を歩き続けたわ。空腹で木の実はもちろん、中には毒キノコみたいなものでも食べた。正直、もう二度と口にしたくないようなものだって……そんなことが數日、何度か朝日と夕日を見たから、多分三日か四日くらい経ったと思う。あの研究所で行わされた訓練のおかげで力だけはそれなりについていたから、たとえ薄暗い山中でも歩き回れるだけの力を保てることだけはできた」
「いくら山の中といっても、あそこはそうめちゃくちゃ高い山というわけじゃなかった。三日も四日もあったんなら、人里に出れなかったのか」
「無理よ。確かに時折開けた場所から民家を見つけることもできたけど、もし人を頼ればそこから連中に見つかってしまうかもしれなかったから。今ならなんとかできるけれど、その時の私には考えうる手段なんてたかが知れてた。何より、仮に空腹を満たすために人里に降りたところで、あともう何日と生きられないかもしれないのなら、このままひっそりと山の中で死んでもいいかなって本気で思ってた。
けれど、できなかった。死に方すらどうすればいいのか分からなくて、それからまた一日が過ぎようとしてた時、突然発作が起きたの。一度起きた発作を鎮める方法なんて當時の私は知らなかったし、ああ、これで死んじゃうのって思ったら泣けてきて、こんなところで死にたくないって、こんなので死にたくないって心の底から願った。とにかく全の隅から隅まで、締め付けるような痛みと燃え上がるような高熱にうなされながらね。
けれど、発作に苦しむにいつの間にか気を失っていた。目が覚めたときは、いつまた発作が起きるのかな、なんて考えたっけ……」
言葉につまる。沙彌佳は半ば自嘲気味に淡々というが、その悲痛さはもちろん、想像を絶する苦しみを味わったというのが今の沙彌佳を通じて窺えるからだった。自惚れかもしれないが、俺など想像もつかないような苦痛を何度も味わい、それでも懸命に生きようとしたの魂のびが、俺を見てそうさせているのかもしれないと思えてならなかった。沙彌佳にいわせれば、また馬鹿にしているのかとでもいうだろうが。
「目を覚ました後、私はまた行く宛てなんてないのに山の中を歩き出してた。発作が収まると痛みから解放された分きやすくなるだけじゃなく、どこかが軽くなったようなじがするから。だけどその反面、頭がぼんやりとしてもいたわ。それでいてはっきりと事を覚えているの。まるで自分が、の中から自分のを作しているような、そんな変なじがしてた。そうしてるに、私は山中を通っていた車道に出てた。そこで私は彼と出會ったのよ」
沙彌佳がいう彼というのが武田ということはすぐに理解できた。武田という名前以外、全く素の知れないあの男。今でこそ田神についていったエリナも、かつてはあの男に半ば忠義を示すようについていた。あの男が存在自が曖昧だったコミュニティをまとめあげ、亡霊のような軍隊を築きあげたとも聞く。かつては灣岸戦爭などにも姿を見せていたといい、それなりの年齢なのだろうが、當時の寫真と比較するに、どう見てもそんな何十年も前から活し続けている人間とは到底思えなかった。
これまで幾度か素の知れない人間と出會ってきたと自負してはいるが、あそこまで得の知れないというのは未だかつてない。いや、それをいうならば田神も大概なものだが、それでも武田という人間の放つカリスマは明らかに田神のそれとは異質だ。初めて出會った時、俺の直があの野郎を気をつけろと告げていたのを決して忘れることはないだろう。
「その彼ってのが武田なんだな」
「そう、彼と出會って私は救われたの。彼は世界中を回っているから、私についてこないかといってきたわ。私ののことも知ってる。ううん、自分から彼にいったのよ、あの男の実験臺にされたことでもう長くは生きていられないって。
だけど彼は発作を乗り越えることができたのなら、きっと大丈夫だっていって、仮にもし次に発作が起きたら、必ず治療をけさせるという約束でね。今思えば、子供相手の適當な口約束みたいなものだったんでしょうけど、彼とともに行するようになってからは、不思議と発作は起きなくなってた。あんなに苦しかった、あの薬から完全に解放されたのよ。
でもなんで治ったのか判らない。あの人は私の治癒力のせいだといっていたけど、私にそんなのないわ。確かに、発作が起きなくなってからというもの、知っての通り、催眠や他にも様々な力が備わったのは確かだけど、それら以外には至って普通。だから、理由は判らない」
催眠や……飛行機での一件を考えれば、とても普通とは思えないそれらを普通と強調してみせる沙彌佳に、俺は小さく頷いた。考えて見れば、沙彌佳とてそんなことができるようになりたいなどと思っていたわけでもないはずで、だからこそ自分に言い聞かせる如くそういっているのかもしれない。
「そうか、この六年もの間、奴と一緒にいたのか」
「いつも一緒だったわけじゃない。中には妙な勘繰りをれる人たちもいたようだけど、私と彼は特別な関係だったわけじゃないわ。むしろ保護者みたいなじ。けど、その代わりに々なことを教えてくれたわ」
「保護者だという人間が殺人技まで教えたってのか」
相変わらず無表に近い沙彌佳の顔がらかにじられて、意識的か無意識的か、吐き捨てた。本當に保護者だというなら、そんな人間に事細かな殺人技など教え込むはずがない。それを生業にしなくてはならないよう仕向けたようにもじられる。いや、そうとしか思えない。
沙彌佳やエリナはどうも奴の肩を持つようなことをいうが、どうにも俺にはあの男を信用できない。多分、本的な部分で相対的存在なのだ。あの男の一挙一足が俺の癪にって仕方ない。田神も得が知れないという點では同様だが、あの男も目的のためならなんでもするというのを信條にしてはいても人をけれようとしている部分がじられる。
だが、武田にそれはない。俺には、人間という皮を被った何か別の存在にしか思えない。人はそれを天使だ悪魔だ何だというのだろうが、ともかくとして奴は異質、その一言に盡きる。
「仕方ないじゃない、この世界で生きていくにはそういうことも覚えていかなきゃいけない。それはあなたも分かっているでしょ」
俺は答えない。沙彌佳のいうことはごもっともだからだ。こんな薄汚い世界で綱渡りしていかなきゃならないということは、そうした訓練は元より、必然も出てくるからである。理屈では間違いないはずなのに、俺はどうにも納得できずにいる。沙彌佳にそんな真似をさせたという親へのからなのか、それすらも俺には理解できるはずもなかったが。
「まぁいい。それでどうしたんだ」
「五年の間は海外を転々としてた。それが一年近く前に、次の計畫のために日本に戻ることになったの。最初の二、三ケ月くらいの間は潛伏期間として久しぶりの日本を満喫してた。そして計畫がき出したとき、そこであなたと再會したの。覚えてる? あの廃工場で……」
「そうか、やはりあそこにいたのはお前だったんだな。最後に俺の背中に弾をぶち込みやがったのが武田というわけだ」
沙彌佳が肯定し、俺は話から記憶を呼び戻しつつ、頷き返した。やはり、あそこで出會ったやつは沙彌佳だったのだ。今改めて考えると、あの時の素早いきにも納得がいく。沙彌佳は普通だというが、なくともああいった驚異的な瞬発力は、単に運神経がいいというわけではなく、やはりNEAB-2を克服したことによる副作用によるものだと考えるのが自然だろう。あの後俺を治療した利もまた、沙彌佳の持つ能力の高さを非常に高く評価していたのが思い出される。
「あの人はあなたを試すために必要だから本気でいけといってた。だから、攻撃を二度もよけられたのは驚いた。それとまさか、あなただっていうことにも」
「待て、相手が俺とは知らなかったのか」
「ええ。スコープをつけてたから」
もちろん、沙彌佳の表からは噓をついているとは思えない。もっとも、無表に近いその顔からそれを読み取るのは至難の業かもしれないが、こうして話してくれているところを信じないはずもなく、やはり真実だとするほうが妥當だと思われる。となると、武田の野郎は試すだなんだとかいいながら、俺の始末をつけようとしていたと考えるのが自然で、なおかつそれを実の妹の手にかけさせようとしたというわけだから、とんでもないクズではないか。
俺の心の奧底で、チリチリと燻っていた怒りの火が燃え盛りだしていた。改めて武田が俺の敵であり、排除しなければならない存在であることを再認識させるのに十分な理由ではないか。もちろん、これまでだってあの野郎を許すつもりもなかったが、それが大火となって再燃してきたのをじていた。
「計畫のためだといったな、概要は」
「私も詳しくは知らないわ。だけど、彼はあなたのこと知ってるみたいだった。數年前、イギリスで出會ったといってたわ」
「俺と武田がイギリスで……」
「私の治療に必要だというものをイギリスでけ取りに行って、そこで出會ったらしいけど覚えはないの?」
訊ねてくる沙彌佳の言葉を半ば無視するように、俺はイギリスにいた時のことを思い出していた。沙彌佳のいうイギリスに必要なものを取りに行ったときとは何のことを指しているのか。奴と俺が出會ったというなら、その接點は一どこにあるのか。いつ出會ったのか……。
押し寄せてくる記憶の波をいくつも掻き分けていくに、ふと思い出した。イギリスにいた頃耳にした、ヘヴンズ・エクスタシーというドラッグを製するのに必要な、不思議な赤いのったサンプルケース――ひょんなことからあれを手にしたことで、イギリスで一騒になり、このこともあって再び日本に戻ることになったが、まさかあれのことなのか……。
いや、どう考えてもあれしかない。あれを追って、チャールズ・メイヤーという伝子工學者の権威を通じて黒づくめの男と出會ったときのことだ。売り捨てられた倉庫でその男とやり合った結果、男が最期に倉庫を破させるという形で決著がつき、その間際に俺に向かって必ず殺すと言い殘して抜けた倉庫の床の下に落ちていった。まさか、あの男が武田だったというのか。
だが有り得ない話ではない。あの黒づくめは澱みのない流暢な日本語を喋っていただけでなく、チャールズ・メイヤーに偽を渡そうとしていたのも、沙彌佳の言う通りだとしたら納得がいく。そして日本に戻った俺に対してもどこで報を仕れてきたのか、俺について知っていたようなので、試すなどといって廃工場でそうした環境を作り出していた。
通りで、妙に突っかかってくるわけだ。野郎は殺すといったら必ずやる男だと自分でいっていた手前、何がなんでもそうするつもりだろう。だが、殺すといっても確実に自分の手で行うと限らない。いつ何時俺が死んでもおかしくないような狀況を作り出すのは目的の一環だと見ていい。だからこそ、突然敵だった俺を雇うなどと都合のいいことをいい、東南アジアにまで飛ばさせたのだ。これまで微妙に納得のいかなかった奴の行理念の一端が、ようやく理解できた。
それでもまだ全てが分かったわけではない。確かに俺をつけ狙う理由にはなるが、記憶の綱をたどっていくと、どうも奴は初めからこちらのことを知っている様子だった。ロンドン郊外でのことだって、俺が九鬼だと知った途端に、殺す必要がないとか言っておきながら突然手の平を返したことを忘れてはいない。
沙彌佳の説明からでは、その辺りのことが全く説明できていない。確かに沙彌佳から俺のことを聞いて知っていたとしても、それだけの理由で俺を消さなくてはならない理由にはなっていない。やはり、奴にとって俺という人間が鼻持ちならない存在だということなのだろう。あの時までは邪魔さえしなければ據え置くつもりだったのかもしれないが、結局そうはいかなくなったという合か。あるいは、沙彌佳との繋がりからそうせざるを得ない部分があったのか。考えうる可能はそれくらいだった。
「何か思い出した」
再び沙彌佳が問いかけてくる。
「ああ、思い出したぜ、はっきりとな。あの野郎が俺とイギリスで出會ったというなら、あの時以外にそれはない。だが、奴は初めから俺を知っているようだったが、あれはお前という妹がいたからか」
「……分からないの。ただ彼は妙に達観してる時があって、私のことはほとんど話していないのに、どこからかあなたの存在に気づいていたようだった。調べることだってできたとは思うから、もしかしてそれでなのかもしれないけれど」
やはり奴が初めから俺を知っているという理由に、沙彌佳が絡んではいるらしい。だが、それが俺を狙う正確な理由になっているわけではなさそうだ。こう、言葉にするのは難しいが奴にとって、沙彌佳が云々とは別に、初めから俺の始末をつけなくてはならない、もっと源的なものがあるようにじられる。
「武田が俺を狙う理由は一先ず置いておこう。弾丸をぶち込まれて意識不明になった俺を利の醫院に連れて行ったのは、奴の指示なのか」
俺がそう聞いたとき、沙彌佳はるように語っていたその口を初めて止めた。思いもかけない言葉に、なんと答えようか考えているのがよく分かる仕草だった。
「私は……ただこれから試す人に本気でかかるよういわれただけよ。そこを彼が突然背中から……」
「答えになってないな。あそこに連れて行ったのはお前の意志なのか、それとも武田の指示なのか、どっちなんだ」
はぐらかそうとする沙彌佳を制するように、半ば命令口調に捲し立てる。突然俺が捲し立てたためか沙彌佳はし驚いたようで、はっとしてうつむき加減だった顔をあげた。切れ長の瞳が真正面にこちらを見つめている。もうこれ以上、沙彌佳の言葉遊びに付き合うのはうんざりだった。イエスなのかノーなのか、明確な答えがしいのだ。
強気な俺の発言に、さすがに答えざるを得ないとじ取ったようで、沙彌佳はやや躊躇いがちになりながらも、こちらに反抗するように続けた。
「私よ。あの人は気を失ってしまったあなたをそのまま放っておく気だった。私が利のところに連れて行ったのよ」
明確な答えが聞けて納得した俺に、沙彌佳はそういって數日間利の醫院に預け、その間はことあるごとに通っては様子を窺いにきていたのだという。これこそ俺のんだ答えそのものだった。
「やはりな。利のところで意識を失っていた俺だがな、朧げながら記憶がないわけじゃない。誰かがそばにいて看病してくれていたような気がしてたからな。あれはお前だったんだ」
あの朧げな記憶の中に、の手が俺のにれている覚があった。まさかあれが利のものだと思えなかったし、思いたくもなかった。だが、あそこにいたのは利以外はいないことを考えると、どうにもそんな人は利以外にいないと考えてしまい、聞けずじまいだった。記憶の中にあるのは、ベッドに寢たままの俺を隨分と獻的に世話してくれていたというくらいのものだが、それが沙彌佳であったなら、それだけで沙彌佳自の中の答えも明らかになるようなものだ。
だとしても、明確な答えというのは必要だ。これまでのような自分の中にある疑問についてや、これからの二人の関係を構築する上でもだ。
「それで武田がわざわざ日本にやってきてやろうとした計畫ってのは」
「先にいったように詳しくは知らないの。あの人はいつもはぐらかすようにしか言わないから」
「あいつの取り巻き連中もそうだが、よくぞそんなんであんな奴と一緒にいれるもんだ。俺にはとてもじゃないが無理だね」
無に気に食わない俺は、思い切り皮を込めてそういい、強引に先を続けさせる。自分がなぜこんなにも腹立たしくなってくるのか俺自にもわからなかったが、とにかく無に気にらない。
「彼がいうには、手にれたものをイギリスのある人に渡すといってたわ。その誰かは教えてくれなかったから判らない。けど、彼はその代わりにある人に関する資料を條件にしてた。ミスター・ベーアという人らしいわ。彼についてのレポートを取引の條件にしてたのは、その現場にいたから間違いない」
何気なく出てきた人の名前に驚いた。ミスター・ベーアといえば、組織のトップと目される人ではないか。そういえば、俺が數ヶ月に渡って々と自分のことに掛かりきりだった頃、水面下で二つの組織が爭うようになったと聞いた。武田とミスター・ベーアの組織が互いにスパイ合戦を始めただけでなく、各國に人員を送りこみそこでいざこざが増えたという話だ。やはり俺の睨んだ通り、武田とミスター・ベーアは反目し合っていたのだ。
「ミスター・ベーアという人は、日本はおろか、世界中の権力を掌握している人の一人らしいわ。あの人は、彼らを打倒するために必要なので、その中でも最も高い経済力を誇るこの人に目をつけたっていってた」
なんともキナ臭い話ではないか。世界中の権力を掌握している人間など、本當にこの世にいるというのか。しかしこれまでのところ、そういわれると頷かざるを得ないことも多くあったのも事実で、実際殺し屋として様々な権力者を見てきたが、そいつらの大半が表向きの肩書きとは別に、なんらかの組織に加盟していることが多く、それらを端はなから否定するわけにもいかない。
間違ってはいけないのが、この世は一人の人間によって回されているわけでなく、それぞれが分業制になっていて、かつそれぞれがその分野における最高の執行者ということである。このため、一人を片付けたところで次から次へと似たような連中が顔を表しだすのだ。當然、その中で互いに反目し合う奴らもおり、こいつらが時に俺たちのような殺し屋を雇い敵を消していくというわけだ。
沙彌佳がいっている彼らというのは、おそらくミスター・ベーアのような、そういった人間たち全員を指しているのだろう。武田がどういうわけでそんな連中を狙っているのか、その辺りに理由があると見た。いくら得が知れないとはいえ、必ずあの男をかす行原理があるはずだ。つまり、ミスター・ベーアの目的さえ分かれば、必然的に武田の目的もわかるというわけだ。
「それで、武裝ヘリを使ってホテルを狙い撃ちにしたんだな」
こくりと頷く沙彌佳に、俺は続けて問いかける。あのホテルでヘリに摑まろうとした俺を助けたのは、お前なのかと。
「そう、あれは私。まさかあんな無謀なことするなんて思わなかった。ううん、まさかあの場にいただなんて、そっちのほうが信じられなかった。だから、あらかじめ罠だと通告させるようにしておいたのに」
「なるほどな、あの時報収集をしていた俺が罠だと言われてどういうことかと思ったが、あれはお前が報屋を通じて俺に通告してたのか。せめてそれに気づけてればな。殘念ながら、その報をくれた報屋が死んでしまった以上、逆に罠だっていうのが罠という可能も考えたんでね。
それにしても、あの時、砲を摑んだ俺をなんだって投げ戻したりしたんだ。せめて引っ張ってくれればよかったってのに」
「仕方ないじゃない。あのときは、あなたを仲間だということにするわけにもいかなかったの」
「どういうことだよ」
どうも、あの頃のし前からコミュニティで急激な軍事化が進んでいたようで、中には俺のことを付け狙っている人もいたという。まぁ、コミュニティとはいっても々な人間がいるはずで、中には俺に対して恨みを持っている人間の一人は二人、いてもおかしくはない。俺自がそうなのだから、可能は大いに有り得る。
そんな中、あの時はヘリの中でも俺を振り落とそうというきがあり、このせいもあってあのような結果になったそうで、それこそあのヘリの乗組員の中にもそういう輩がいたという。このため、俺を安易にヘリに乗せるわけにもいかなかったらしい。
「まぁいい。結果としちゃ助かったから良かったものの、今度もし同じようなことがあれば引き上げてもらいたいね。
だが、わからないな。なんで武裝ヘリを員させてまでホテルを襲撃した。いくら急激に軍事化が進んでいたとしても、もっと別のやり方があったはずだ。それこそ、弾を仕掛けたりなんて手もあったはずだ。下手に武裝ヘリなんか使うより、こっちのほうがよっぽど確実で面倒もないはずだ。場合によっては、テロ組織か何かのせいにすることもできたろうに」
「そういうわけにはいかないわ。弾なんか使ったら、それこそあなた死んでたかもしれないわ。私はあそこにあなたが訪れる可能に気づいてたから」
「気づいてたって……?」
「ええ、あの頃、もうバドウィンたちと手を組んでいたから」
唖然とした。すでに沙彌佳は、あの時點でバドウィンと手を組んでいたというのだ。やつのチームが持つ特を生かし、こちらのきを摑んでいたらしい。以前バドウィンが日本に予めチームを送り込んでいたといっていたが、どうやらこのことがあってのことだったようだ。
それにしても急激な軍事組織化のは、よほど大きかったと見える。やはり武田についていけないという者もおり、利などはその典型的なパターンで、そのためにコミュニティからの離反者もいたようだ。沙彌佳もそうした流れの中で、獨自にいていたということになる。バドウィンは明らかに武田とは繋がりを持っていなかった上、そもそもが武田のためではなく、沙彌佳のために行をしていたほどだ。
沙彌佳によれば、ヘリを員させたのはミスター・ベーアに対して、それだけの軍事的組織になっているんだという意味合いがあり、それを見せつける必要があったという。また、ここまで大膽な行を起こせば、いつでもお前を襲撃できるんだという意思表示にもなる。権力者というのは、権力という傘を著ている分、それを脅かされることを最も恐れているため、こうした行がいかに驚異であるかをよく知った行だといえる。
「まさか俺のことを監視してただなんて、気づかなかった」
そういうと沙彌佳は小さく肩をすくめた。だって仕方ないでしょとでも言わんばかりのものだが、不思議とあまり悪い気はしない。だが、どうにも解せないのは、それだけの行をしておきながら、沙彌佳自は俺のことを気に食わないといった様子でいることだった。なぜそんな気持ちでいるのか尋ねてみたが、途端に表を曇らせる。
「今さらこんなこといっても信じないかもしれないだろうけど……自分でもよくわからないの。気持ちの上ではやっぱりあなたのこと許しきれてない。けど……気づいたら、いつの間にかそんな行をとってたの。憎んだこともあったけど……なんであなたまでこんな世界にいるのって」
それ以上は俺も口にすることはなかった。態度で示すほど、こちらに対しての嫌悪はないのかもしれない。俺とはまた違う意味になるかもしれないが、沙彌佳の中にもまた、揺れる心があるのだ。沙彌佳の中にある楽しかった頃の思い出がそれをかろうじてつなぎとめているのかもしれないし、あるいは過去への決著をつけたいためなのかそれは判らない。だが、今は前者だと信じたい。
なくとも俺が思っているほど、沙彌佳は敵意や嫌悪のを持ってないことだけは確かだ。それだけは間違いなく信じていい。それはもちろん、ここまでの行にも出ているので、後は時間が解決してくれる部分もあるはずだ。
もっとも、あの時、綾子ちゃんの家の前で決裂したことについてはまた別問題だ。こればかりは、また別の時に解決しなくてはならない問題である。俺は今だけはそのことをのにしまいこみ、その時までは口にしないでおくことにした。
「わかった。ところで、そろそろ寢ないか。明日からツングースカへ向かわなくちゃならない」
「……うん、そうね。なんだかこの家、昔を思い出しちゃった」
「そうだな」
本當にその通りだ。リビングには暖爐があり、壁には夫婦の趣味なのか刺繍が施された編みのインテリアがかけられ、窓際には寂しく思わせない配慮のため、両脇にはこの時期にしては珍しい花の刺さった花瓶が置かれている。裝のいたる部分がそれぞれロシア風ではあるが、間違いなく仲の良い家族像を想像させるに良い空間になっていた。
それがどうしたことか、かつて日本にある俺たちの家を呼び起こさせて仕方なかった。大きな暖爐の上は、ちょっとした小置きになっていて、そこには中のった寫真立てがいくつか置かれている。その全てが老夫婦の若い頃、結婚式の時に撮ったものだろうと思われるタキシードにドレス姿で寫ったもの、二人の子供らしいい兄妹が寫っているものばかりで、それらが余計にあの頃の記憶を呼び起こしてくるのだ。
「なあ」
「うん」
「もし……もし全てが片付いたら、また俺たちの家に帰ろう。また俺たちであの家に住むんだ」
きっと傷的になっていたに違いない俺は、そんな夢語をこぼしていた。こんな俺が今さらあのだまりに帰れるというのか。何年もこんな生活をしてきた俺には、もうかつてのような生活を取り戻せるはずがないとじているのに、こんなことをいってしまっていた。
「ええ、そうね。もし全てが終わったら――」
沙彌佳もその後に続く言葉を口にはしなかった。だが、噓でもそれが妙に現実を持たせた気がした。沙彌佳がいなくなり倒れた母はすでに帰らぬ人となっており、父は健在のはずだが今はどうしているのか知れたものではなかった。それでも、あそこに戻りたいと思うのは俺の夢だろう。
『私たちだけで』。先の言葉のあとに、きっとこういったのだと思う。こんなことを言った俺の葉わぬ夢を思って――。
二人してリビングを眺めていたところ、俺はため息を大きくついて先に二階へと上がるべく踵を返した。し遅れて、沙彌佳もシャワーを浴びにバスルームへと向かっていく。俺も明日から、またFSB相手の日が続くことに考えを馳せながら、二階の寢室へと階段を上がっていった。
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