《いつか見た夢》第122章

かつて聞いたことのない轟音を上げながら降り続ける大雨は、一向に降り止む気配がなかった。目に確認できるほどの異常な大きな雨粒によって、そのうちに鉄筋りコンクリートの天井すら突き破ってれてきそうな、そんな勢いで降り注ぐ雨がすでに一週間以上に渡って続いている。

窓際に佇む男は紙巻たばこを片手にそれを見つめ、紫煙に鼻孔をくすぐられながらも一人思いに耽っていた。男の見つめる先は豪雨により視界が遮られ、數メートル先すら視認することができない。その代わり窓に映る自分の姿が窓に叩きつけるような雨水によって、揺たゆたう様に微妙な変化を見せていた。男の概算では、この異常気象は今日ですでに一〇日目に突しようしているのではなかったろうか。

こんな大粒の雨が降り続ける嵐の中では始めからの予定などもはや、文字通り本來窓から見える海の彼方に霧散しきっており、男の泊まる安宿に何日も拘束される羽目になっていた。ようやく九鬼という人の素が摑めた矢先にこの異常気象である。普段なら運命だとかそんなものを信じない男であったが、今回ばかりは、天は何らかの形でこちらを妨害しているんではないかと勘ぐってしまう。

男はため息をついて窓のそばを離れると、窓際すぐそばの小さな丸テーブルに放り出したままになっている資料に目を落とした。レポート用紙にしてなくとも數十枚、下手をしたら一〇〇數十枚に及ぶであろうそのレポートは、全てある一人の人について報告されたものだった。

「まさかあの時のガキだったなんてな」

資料の一番上にはこの數か月の間、ずっと追っている人――九鬼の姿の映った寫真が三枚、無造作に置かれていた。その寫真を見つめながら男は一人呟いた。寫真の一枚は以前逮捕しておきながら取り逃がしてしまった際に撮られた顔寫真だが、もう一枚はそれとはまるで違う、どこかに忍び込もうとしている際に撮られたらしいもの。

そして最後の一枚は高校生だった頃、どこかさを殘した九鬼の寫真だった。それは男の知る今の様相からはとても比較にならないほどで、確かに同一人であることを語っていはしたが、それは今と過去を比べられるからこそのものだ。それほどまでにこの九鬼という人の雰囲気はまるで変わっていたのだ。これはつまり、この男がよほどの修羅場をくぐってきたということでもあるだろう。

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しばし見つめていた男は、何気なくその寫真を取り上げる。これまで何度となく、それこそが開くほどに見てきた寫真だったが、それでも男は飽きずにそれらを見つめる。男にとって、最も尊敬すべき人を殺した人間。しかし、その人間がかつて、自分が擔當しながら未解決のままで終わった事件の被害者家族の一人だとは思いもよらないことだった。

寫真を見つめてその時のことをしばしの間思いを巡らせていた時、部屋のドアをノックする音に寫真から顔を上げてそちらに向かって短く聲をかけた。

「開いてる」

いうが早いか、ドアが開かれて部屋に一人の人ってくる。細の男で、いかにもらしいインテリであることを思わせる小灑落たメガネをかけ、ややシックに決めたスーツの似合う人だった。しかしそのスーツもずっと著たままなのかくたびれており、良さそうなスーツも今はどこか古著めかしてしまっていた。

「まだ寢てなかったのか南部」

「そういう佐々木こそ寢ないのか」

部屋にってきた細の男、佐々木に呼ばれて部屋の主――南部はそう返した。南部がチラリと部屋に據え置かれた安のデジタル時計がすでに深夜の一時半であることを告げている。

「いや、なんとなく寢付けなくてな。いるか」

南部の返しに佐々木は持ってきていたビールの缶を二本見せる。最近は酒など飲みたい気分になれない南部だったが、ここのところ気の滅ることの連続だったためか、差し出されたそれを遠慮なくけ取った。け取ったビール缶はとても冷たく、今が飲みごろであることを主張している。部屋に常備されていたもので、自の好きな銘柄ではかったが今はお構いなしにこのビールを飲み干したいという気分であった。

引っ掛けたプルを開けると、飲み口から中に圧された空気と炭酸がプシュッという小気味良く旨そうな音を立てて南部の飲を刺激する。できた飲み口を口に運ぶと、一気にそれを飲み干さんばかりに勢い良くへと流し込んだ。炭酸とアルコールによるのど越しが南部の乾いたを潤していく。

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「ビールなんて久しぶりだ」

「そうだな、俺もだよ。……ここのところ南部はずっと働き詰めだからな、こういうのもたまにはいいだろう」

「自分じゃ働いてる気になんてまるでならねえがな。時間なんていくらあっても足りゃしないんだ」

飲み口から口を離して南部は、吐き捨てるように言った。勢い良く流れ出ていったビールは、たった一口で半分以上もなくなっていた。

「かもな。けれど、そういうとき畠さんならきっとこういうよ、ちったぁ落ち著け、たまには酒でもれてよって」

「むぅ……」

そう言われては南部には返す言葉がなかった。佐々木の言う通りだったからである。佐々木や南部にとって最も尊敬すべき人で、刑事の鑑といっても過言ではなかった老刑事の畠という人がこの夏に亡くなって以來、二人ともただの一口もアルコールを口にしたことはなかった。

しかし、畠は上手くいく時もあればいかない時もある、という左右の銘を持っており、そんな時には必ず二人を飲みに連れ出していたのだ。こんな時には酒を飲んで気持ちを落ち著かせろという、昔ながらのやり方に佐々木はその昔今時古いと思ったものだったが、いつの間にかそれが當たり前になっていた。もちろんそれは隣の南部もまた同じだ。

「その寫真、九鬼か」

「ん、ああ……。だが、なんだか複雑な気分になるってのが今の正直な気持ちだ。野郎のことはいけ好かねえし絶対に逮捕するが……どうにも、今までみてえにすきっとはしねえのが、なおのこといけ好かねえんだ」

「確か以前、南部と畠さんが擔當した事件の被害者家族だったな九鬼は」

佐々木も一足遅れてビール缶を開けて一口、多めに中のアルコール飲料をへと流し込む。その心地よい刺激にしの間をおいてテーブル上の資料に手をばして言った。九鬼を追っていた彼らは、九鬼という人の素を知って何とも言えない気持ちにさせられていたのは事実だった。

「一七歳まではごく一般的な中流家庭で育つが、翌年三月に二歳年下の妹、九鬼沙彌佳の失蹤を機に不登校。妹は中學卒業後、九鬼年の通う金城高校に學するはずだった。しかし、友人の助けなどもあって徐々に回復、秋頃までは學校へ通いだしている。この友人というのが、かの渡辺産業の一人娘だったとか。

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また二人の母親である九鬼遙子はクリスチャンで、あまりが丈夫だったわけではないため一〇代の頃から病院通いをしており、娘の失蹤がきっかけの心労が祟って院、娘失蹤約一年後の二月末に死亡。それを看取ったのが九鬼年だったという。

父親の九鬼真太郎は仕事熱心で大変家族思いだったそうだが、やはり娘の失蹤を機に殘された家族を省みることなく、塞ぎ込むように仕事に打ち込むようになった。また、そんな中で上げた業績が評価されたためか、失蹤の一年後にO市にある本社への異。他には特に目立つような履歴はなく一般的なサラリーマン。

一方九鬼年は、院した母、遙子の容態が秋頃に悪化したため再び不登校になり、翌年の二月に母が亡くなった後、學校へは行かず、毎日のように街を徘徊するようになった。學校も留年し、もう一度一年間やり直すことに決まったものの、父の本社出向が決まったのと同時に行方不明。それからの彼の向は一切不明。この夏にテロリストとして指名手配されるまでは、か。なんとも劇的な人生だ」

「お前、だからといって九鬼を許そうっていうんじゃないだろうな」

「まさか。確かに同はするが犯罪者は犯罪者だ。逮捕しない理由にはならない」

れず即答した佐々木に南部はニヤリと口元を吊り上げて、もう一口ビールを飲んだ。それにつられて佐々木もビール缶に口をつけた。

「だが、この母親の死というのが気になるな。母の容態が悪化した後、結局助かる手立てがなかったから亡くなったということだが、なんだか不自然だ。普通なら何らかの癥名や病名くらいはあるもんだが、これを見る限りそれらしい記述がない。まるで、それを知られたくないかのような……何者かの作為的なものをじる」

「殺されたとでも言いたいのか」

「そこまでは斷定できないな。できないが、あるいは事故なのか……ともかく、ただの衰弱死というにはし不自然だと思わないか」

「言われてみりゃ確かにな。だが事故だとしたら、それはつまり醫療事故ってことか」

佐々木のふとした疑問に南部が眉をひそめながら反問する。一度考え始めたら、口數が極端に減る癖のある佐々木の様子を知っている南部は肩を軽くすくめ、佐々木が語りだすのを待った。

「母親が院してた病院はなんといった?」

「資料を見る限りじゃ、都の國立病院だとあるだけで名稱までは書いてないな。だが都の國立となるとかなり限定される」

「その時點で、しばかり怪しいものだな。限定的なものになるのに、なぜ正確な病院名を書かなかったのだろう。その資料を提供した人がそこまでは気にかけなかっただけなのか」

「まるで誰かがそこまではれてしくないってのを隠してるみたいだな」

「ああ。そもそも治療と書いてあるのに、一向に容態が安定していなかったというのも気にかかる。いくらが弱かったからといって、彼もまだ當時は四〇代も前半、ほとんど抵抗できなかったのかという疑問もある」

「治療と稱して、何らかの実験をしてたかもしれない、と言いてえのかよ」

「この資料を見る限りでは、そこまでは斷定できない。が、その線は十分に有り得るな。おまけに、彼の死をきっかけに九鬼が行方知れずになったことを考えると、母の死が彼に何らかの影響を與えるだけに十分な出來事になったのも間違いないだろう。母親の死に何らかの疑問をもったのかもしれない。

そもそも、それ以前の九鬼年はごく一般的な高校生に過ぎなかったのに、行方をくらました六年も後に突如テロリストとして世間の表舞臺に姿を見せることになったのも、この辺りがきっかけだと思う。妹の失蹤から一年で今度は母親がとなると、そう考えても不思議ではないな」

佐々木の言葉に南部が頷く。その上で疑問を投げかける。

「おまけに妹の方の行方は一切分からずじまいときた。目撃談らしい目撃談もなく、あれは本當にお手上げだった。だからこそ、その可能についちゃ俺も考えてたぜ。だが佐々木よ、母親の死がきっかけだとして、なんだって奴は裏世界にを置いたんだ」

「もちろん確かなことは九鬼本人の口から聞かなければ分からないだろう。あくまで推測の話だ。九鬼はそれまでも幾度か妹の行方を知りたいと警察に電話していたことも確かだ。もしかしたら、母親の死がきっかけで、自らの意思で裏世界にを投じたのかもしれない。九鬼にとって、そうしなくてはならない理由があったと見ていいだろう。そしてこの家族がそうなったそもそもの原因が……」

「九鬼沙彌佳だな」

言葉を強引に引き継いだ南部に、今度は佐々木が頷き返した。その上で、手にしていたビール缶をテーブルに置いて、両手で何か関連深かそうな項目の資料がないかを目をすべらせ始めた。

「それと妹の九鬼沙彌佳が失蹤する數ヶ月ほど前、九鬼自がやはり腹部を刺されて院したという記録も気にかかる。調書を見る限りでは取っ組み合いの喧嘩から発展し刺されたとあるが、このとき院した病院名が書かれていないのはおかしいな。しかも、その相手が誰なのかということすら書かれていない。

妹の失蹤と九鬼が消えたこととが何らかの形でリンクしているのなら、その數ヶ月前にあったというこの事件も何か関係があるかもしれない。それに、かつての住所近くで暴力団の抗爭と思しき事件が數度起こっているのも、どういうことだろう。住所からし離れた神社の近くで暴力団の組長が事故死したという記録もあったのは、どこかでリンクしていると考えた方がよさそうだ。

とにかく奴は暴力的な側面を持ち合わせてはいるが、限りなく冷靜だった。數ない行などからは殘なやり方はあまり好まない質のようだ。恐らくこれは、殘な方法ほど手間と時間がかかるためだと思う。奴はもっと打算的で狡猾だ。行の一つ一つに、何らかの目的があって行していると考えないといけないだろう。

行方をくらましていた數年の間に、世界をにかける殺し屋に長したのもそうした目的意識からくるものだと考えていい。だが同時に、奴をバックアップする組織ないしチームが存在することも視野にれておかなければならないぞ南部。もしかするとこのヤマ、すでに一國家の警察などにはとてもじゃないが手に余りすぎる」

確信を持っていった佐々木に、南部は頷いて重々しい口調で言った。

「かもしれねえ。シドニーを経由して日本りした奴がその後にあるヤクザどもと一悶著起こして空港に行ったのも、とても奴一人だけで全てを行えたとは思っちゃないさ。そりゃぁ世界をにかけるようになったってことはだ、奴が個人的な國際ネットワークを持ってても不思議じゃねえ。

それに、この資料についても同じさ。お前の言う通り、この資料は所々に抜けがある。その抜けってのが意図的なのか、それともただ単に知らなかっただけなのかはわからねえが、その裏を読まなけりゃならねえってことだけは間違いねえ、そうだろう」

半ばまくし立てて言った南部は殘っていたビールを全て飲み干すと、すぐさま佐々木の手から資料を奪い取るようにテーブルにそれらを広げた。

「とにかく、もう一度資料の見直しだ。それと、気になった所は全て他の部署の連中に頼んで調べてもらおう。どの道この雨だ、しばらくここをけないならやれることをやっておく。とにかく奴が空港にまで行っておきながら、そこで行方が途絶えたってのが気に食わねえ。絶対に尾を摑んでやる」

最後は自分に言い聞かせるかのように強くそう言った南部が広げた資料を、佐々木もならって資料を手に取った。ふと、窓に映った自分たちの姿が佐々木の目には、まるで急き立てられながら必死に資料との格闘を迫られていた若い頃とかぶって見えた。

ずきんずきんと鼓が脈打つ音が、頭蓋にまで響き渡る。目の前の男に魅られたようにくことができない俺は、ただ黙って男の言葉に耳を傾けることしかできずにいた。

「君は言ったな、ヴァンパイヤなのかと。ヴァンパイヤは噛むことで人を自の眷屬に変えるが、これは言えば自分の持つ伝子を他の者に移すことでそれが起こりうると考えられる。知っての通り、ヴァンパイヤという存在は噛んだ者を同眷屬に変える質を持っているが、これにはいくつかの條件が必要になる」

「條件?」

「そうだ。一口に自の眷屬に変えるとはいっても、それを立させるには條件があって當然だろう。考えてみるといい。もし、ヴァンパイヤがいたとして彼らが他のと同様に毎日か、あるいは數日ごとに人間の生きするとなれば、一月あまりから數ヶ月もあれば現在地球上に存在する全人類がヴァンパイヤになっていなくてはおかしいという計算だ。

つまりこの説を検証づけるとすれば、彼らヴァンパイヤはごく量の生きだけで活でき、求める生きにもある程度の條件が必要ということだ。もっとも、処貞のでなければならないとか、仮にそうであっても若さが必要だとか様々のようだがね。それら條件が合致しても、必ずしもヴァンパイヤになるというわけではないと考えたほうがいいだろう。

ヴァンパイヤに変貌するには、相手もまたその素質がなくてはならんということでもある。そして毒牙によって相手を変貌させるということは、宿主には特殊な分をに持ち合わせているということに他ならない。あたかも、毒素を持ったのようにな。

これらのことから、ヴァンパイヤには特異な質を始めからに有していることが考えられるが、同時にこれはある種の依存癥とも考えられる。依存質を有していることで、その質の毒が噛まれた者の傷口からに侵していき、結果、噛まれた者もまたヴァンパイヤになるという構造だろう」

武田は直視していた目を閉じ、靜かに言い終える。そのためなのか、俺は金縛りにでもあっていたかのようなに、ようやく自由を得ることができた。

「……まさか、冗談でいったヴァンパイヤの話がまさかここまで広がるとは思いもしなかったぜ。あんたの話も個人的には興味深いがな、そんなのはあくまでそこいらの三流記事にでも乗せとけばいいような容で、全く現実味がない話だ。そもそもヴァンパイヤなんていう、いるかいないか分からないようなものを取り上げたところで無意味だろうよ」

俺は魅られたかの如く全くけなかったけない自分を薙ぎ払うように、強くそういった。ヴァンパイヤなど、キリスト教が信者と資金集めのために作り出された妄想上の産、フィクションの存在ではないか。その原型となるようなもの、あるいはモデルとなったものは存在したかもしれないだろうが、それも決して今日云われるような類のものではない。

なのにこの男はまるで、あたかも存在するかのように話すのでこれを馬鹿馬鹿しいと思って何がおかしいというのだ。第一、それと俺の力だとかいうのに何が関係あるというのだ。俺はヴァンパイヤでもなんでもない普通の人間だというのに、それを仰々しく説明だてようなど、逆に頭がおかしいとしか思えないではないか。

「君がそこまで否定したくなる気持ちも分からないでもないが、全てを全くれないという姿勢も問題がある。なくともここまで話せば、君なら私の言いたいことの裏が読めると思ったのだがな。どうやら見當違いだったようだ」

「なに」

「君のその力、いや正確には質といったほうがいいかもしれない。ヴァンパイヤと同じ、自の持つ特殊な質とそれらに混じった分、質を相手に移すことで君もそれを可能としている。ただし君の場合、ヴァンパイヤのように噛むという行為ではなく、行為によってそれを可能としているようだがね」

行為によって――武田の顔にうっすらと笑みが浮かぶ。その時、ようやくこの男が言わんとする意味が理解できた。つまり、セックスすることで俺のの中にある何かが、に混じって相手に移ってしまうということを言っているらしい。これでは俺がまるで生きた病原ではないか。行為によって染する主な病気の一つとしてはエイズなどもあげられるので、それそのものは否定する気はないがそれと同系列として語られるのは無に癪にる。

しかし、あの時……沙彌佳が失蹤する前日にあった事に、それが行われたというのか。確かに、俺はあいつの中に自を放った記憶も間違いなくある。おまけに、あいつがそのたった一回で籠ってしまったということも後々聞かされた。だからこそ、武田の説明がつかないわけではなかった。なかったが、前提としてそれが行われたとして、武田のいうような俺に特殊なものが備わっていたという証拠そのものにはならない。

だというのに、なぜこうも鼓を打つ音が聞こえ、全張に包まれているのだ。これではまるで俺が奴の言い分を完全に認めているようなものではないか。こんなことがあっていいはずがない。俺は奴のいうような存在じゃない。しかも、そんなあったところで大して嬉しくない力など、それこそ持っていたところで無意味だ。

「ヴァンパイヤが噛んだ者を同質のものに変えるというメカニズムは実例を挙げられない以上推測に過ぎないが、恐らく、彼らの持つに持つ質、質が他者に移ったため起こる伝子レベルか細胞レベルで起こる変化だ」

「とにかく俺がセックスで相手を染させたと言いたいわけだな」

染か。まあ、君がそう呼びたいのならそう呼ぶといい。手段が違うだけで、結局相手を染、あるいは変質させるという點ではどちらも同じだからな。ウィルスの染者との渉、唾などから他者にウィルスが移って染するのと同じ原理だ。

そう、エイズにかかった者の経緯を考えてみると良く理解できるだろう。もちろんエイズだけではない。この世にあるありとあらゆるウィルスや細菌が引き起こす病狀全てがそれに當てはまるといっていい。人々が同種の狀態に陥り死んでいくのと同じように、君の力もまた行為によって相手を自分と同じような特異質に変えることができるのだ。

しかし、ただのウィルスや細菌などと違うのは、本來染癥ではないはずの伝子や細胞単位に、影響を及ぼすという點だ。ウィルスなどの染により伝子などが変わるなど、本來は有り得ないのだ。伝子の異常として有名なのは癌細胞などが挙げられるがね。癌細胞もまた、元々人間の持つ伝子に組み込まれた一つのシステムといってもいいだろう。だからこそ、癌による死亡者がいる場合は同で癌による死亡者が多くなる。

だが君の力が特異なのは渉によって相手を染させ細胞、あるいは伝子レベルで変えていくことが可能という點だ。渉によって他者をウィルスか何かのように染させ、その者の伝子を変貌させるなど特異中の特異だといっても過言ではあるまいよ。々勝手は違うが、君はさしずめ現代のヴァンパイヤといったところなのだ。

このことから、君は君自の手でマリアを変えたと結論づけることができる。君のその力が彼を変えたのだ。君の持つ、細胞、伝子レベルで相手を変質させることのできる、その力でね」

有無を言わせぬ迫力を持って武田は言い切った。その言葉は完全に場を支配しきっていた。向けられている俺だけでなく、周りにいる連中全てが武田の方を一斉に注視していた。

「だが、俺はこれまで何人ものとセックスしてる。その相手全員が変わっちまったわけじゃない」

俺は喚くように強い口調で返した。そうだ、これまで娼婦からそうでない者まで何人ものとベッドを共にした俺が、そんな力を持っていたら全員が沙彌佳のようになっていなくてはおかしいではないか。

「だからこそ、條件が必要なのだ。有りにいえば、相手にもまた君の力をれ変化することのできる素質が必要なのだろう。これまで見てきたが、君と渉に及んだは、君の力に何の反応も見せない者、キャリアになれるだけの素質を持ちながらそれを維持することができない者、あるいはマリアのようなキャリアから素質を開花させた者まで様々なようだ。

中でもマリアの場合はとりわけ特別だろう。やはりが近いと、本來マイナス面にれやすいものが大きく振り切ってしまうのかもしれない。いや、君たちの場合は近いというよりも非常に濃いといったほうがいいかな」

気に食わない笑みを浮かべていう武田に、俺は舌打ちしながら目を橫に流した。同時に、完全に場を支配している武田にこの場にいる全員が注視している今こそ、これ以上の隙はない。そう頭が理解していても、殘念ながら両腕を背中で拘束されている今、この狀況を打破し切ることは難しいというのが歯くて、二度舌打ちした。

どうする……なんとかこの忌々しい両腕の拘束を解きたかった俺は、もがいて見せるがやはり簡単に拘束が外れそうな気配はなかった。それでもなんとかしたい気持ちで周囲を目で見回したところ、奧から先ほど消えた男が一人のを連れ立って戻ってくる。こちらと同様拘束された姿ので、違うのは頭部を麻袋のようなもので口元近くまで被らされており、引き摺るように片足を庇いながらの歩みは、足に被弾しているためだった。太ももの辺りから、鮮が流れ出て服に滲んだ痕が痛々しい。

「遠藤」

そのが誰かすぐに判斷できた俺はぶ。突然ここまで連れてこられたのか、遠藤の様子は今自分がどこにいるかすら理解できていないだろう。もちろん、それは當然だろうがまさか俺がいるとは思わなかったのか、自の名をんだ聲に大きくじろぎして応える。

「武田、そのを解放しろ。そのは俺たちとは元々関係ないんだ」

「そういうわけにもいかない。ロシアに潛してからというもの、ここまでずっと行してきた者を無関係というにはし無理があるというものではないか、クキ。それだけではない。君は彼にとって仇だそうだな。そのためにずっとここまで旅をしてきたのだから、それでも無関係といいたいのか」

「それはそうだが……だとしても、今ここにそのは関係ないはずだ」

だが武田の野郎は、そんな俺を否定するように小さく、しかし力強く首を振ってみせた。

「だからいったろう? そういうわけにもいかないと。彼には実験に付き合ってもらおうと思ってね」

「実験? 遠藤を使って何をしようっていうんだ」

「君の持つ力を見せてやろうと思ってな」

「なに」

「あれを」

武田は控えたいた別の男に短く命じると、その男は予め用意していたのか、近くにあったアタッシェケースを持ち出してきた。俺にも良く分かるようにこちらに向かって蓋が開放される。ケースの中には、何らかの薬品らしいったスプリング狀のサンプルケースと、それを裝填して、おそらくは人に打ち込むための小型の裝填銃がっている。

これまで幾度か、あるいはフィクションでもお目にかかってきたそれを見て、これからそれらを遠藤に打ち込もうとしていることだけは否が応にも予想できた。いや、予想というよりも行われる事実という方が正しいだろう。

「やめろ武田」

「黙って見ているがいい、クキ。君は自の持つ力がどんなものなのか知らなくてはならない。それに安心するといい。別に彼を殺そうというわけではない。もっとも、何かしらの後癥、あるいは拒絶反応が出る可能は大いにあるが」

それを聞いていた遠藤は、痛むだろう足もお構いなしに摑む男の手から逃げ出そうと必死の抵抗を試みた。だが、の弱點を思い切り突かれて、悲鳴を上げながら頭を垂れた。

「彼は君との関係を持ってはいないが、これをに打ち込めば結果として同じことが起きうるはずだ。それを見せてあげよう。そして君は知るだろう。君の持つ力がどんなものであるか。あるいは、私が君を追った理由もまた」

「それとこれとが関係あるっていうのか」

俺のくような訴えなど無視して武田はサンプルケースを銃に裝填すると、針から薬品らしいそのをわずかに出し、それを曬された遠藤の首筋に近づけた。それとともに被せていた袋を取った。勝気な遠藤の瞳は今や見る影もなく、弱々しく、これから起こる何かに恐怖を滲ませたものだった。

(遠藤……)

それをすぐに止めさせようとして飛び出すが、背後に控えている連中に肩と腰をがっちりと摑まれ、完全にきを封じられる。

「くそっ、放せ、放しやがれ」

喚く俺のび聲も虛しく、武田は遠藤の首筋に針を打つと、引き金を引いて裝填されたサンプルケースの中を徐々に注していった。

「やめろ、やめるんだ……」

その景を目の當たりにしながらも、俺はうわごとのようにそう呟いていた。こんな景を目の當たりにされて黙ってられるような人間ではない俺だから、をがっちりとホールドする連中の足や脛を、後ろ蹴りでもって毆打する。固いブーツの踵によって一人は思い切り脛を毆打されて痛みに摑む手を離した。

もう一人にも同様に足を打ち付け離させようとするが、すぐに別の者が來て俺の、今度は足もしっかりと摑んで確実に暴れられないようにした。これで完全に俺はきを封じられ、もはやもがくだけで一杯となってしまった。

「遠藤、遠藤」

「うぁ……ぁぁ……ああ、ああああ」

くような言葉を立て続けに発したかと思うと、その聲は次第に大きくなっていき遠藤はを弓なりにし絶した。苦しげなその様子に、俺はたった今の今まで暴れていたのを止め、その様子に顔をしかめながら食いるように見つめていた。

の続く中、ガクガクとを震わせだし遠藤が摑んでいた男の手を離れ床に両膝をついた。その表は自分のに起こっている何かに苦しんでいる様子が見て取れた。

「武田、お前だけは絶対に許さない」

「落ち著くのだ。まだ彼が死んだと決まったわけではない。場合によっては、君を助けてくれる救世主になる可能もある。そう、それこそマリアのように」

睨む俺とは対照的に、武田の野郎は余裕の薄笑いを浮かべながらこちらを流し見る。そしてすぐに今はこんな俺には興味がないといった風に、苦しむ遠藤の方に視線を戻した。いけ好かない野郎の態度にも、今はただ睨みつけることしかできない自分が歯くて仕方なかった。

「今回の被験者はかなり反応が早いようだが……適合者でないということか」

徐々に絶が苦しみもがくき聲に変わっていく様子を見つめながら、武田の野郎は冷たい瞳でそう呟いていた。

(適合者?)

誰にも聞こえるようなものではなかったはずだが、どうしてか俺には良くその発した言葉の容が澄んで聞こえた。適合者ということは、もちろんそうではない不適合者もいるということか。もちろん、これまでの話の流れから、それらしい者とそうでない者とがいるというのも、これが説明のために引き合いに出されたヴァンパイヤの話とも繋がることだというのは良く理解しているつもりだった。だが、だからといってそれを行って良いという理由にはならない。

第一、あのサンプルケースにっていたはなんなのだ。俺にあるらしい力だかなんだかを見せつけようということはつまり、あの薬品らしいには俺に関連する何らかのものが使われているということではないのか。しかし武田はもちろん、それ以外にも俺の中にある何かのために小賢しい小細工や採取をされたような覚えはまるでない。俺の意識がない間に、そのようなことをされていたとなると全く自信のないことではあるが……。

「今、彼に投與したものの正を考えているだろう」

こちらに背を向けたままの武田が、突然そういった。まるでこちらの心を読んでいたかのように。

「想像通りさ。これは君の細胞から採取されたものを培養し造ったものだ。なんせ、これまでの実験からは幾重にも実験を繰り返された挙句、模造品程度ものしか作り出せなかったものだ。今回はなんといってもオリジナルだ。オリジナルの持つ効力がどれほどのものなのか、我々とて予想はつかない」

武田の突然語りだしたのは、俺に言い聞かせているようで、他の誰でもない獨白のようにも思えるものだった。それによれば、N市での真田銃撃事件の際、あの廃倉庫で武田に背中を撃ち抜かれて瀕死の狀態だった俺からを採取したのだという。その時に得たを元に今回培養に功したというのだ。

「それともう一つ、君らが誤解していることがある。NEAB-2はマリア自の細胞から採取された伝子を用いて作られたわけではない」

武田は芝居ぶって、わざわざこちらを見つめ返しながら告げた。NEAB-2が沙彌佳から生されたものではないだって? そんな馬鹿な。NEABを大きく進歩させたあの坂上の手記にもそう記されていたのに、そうではないとはどういうことだ。

「そこが皆が大いに勘違いしているところだろうな。正確にはマリアの中から出されたものだというのは間違いない。しかし、細胞それそのものはマリアのものではない。もっと違う別のものから得たものだ」

「沙彌佳から取り出したのに、あいつのものじゃないだって」

どういう意味なのだと自問すると、すぐにもその回答がこれまで沙彌佳の語ってきたいくつかの事柄を生々しく脳裏に再生され始めた。NEABの特、人の細胞に絡みつくという特異な質は長した大人には効果はなく、長と代謝の激しい子供にのみそれが持続することができるという特質。そして、沙彌佳が妊娠していたという事実。それが指し示す意味は一つしかない。

「そうか……沙彌佳にではなく、沙彌佳の中にいた子供、胎児から採取したということか。そうなんだな」

「ようやく理解してくれたな。その通り。あれらはマリアの中から採取したものではあるが、彼のものではなく腹の中にいた胎児のものだ」

完全に言葉を失ってしまっていた。いや、そもそも沙彌佳がまさか妊娠していたということさえ、俺の中では今ひとつ現実味のない話なのだ。だが、これが本當ならこれまでの疑問が解けるのもまた確かであった。NEABの特を知ったとき、どうしても理解できなかったことの一つだった。

長と代謝の著しい子供ならばNEABにとってこれ以上ない苗床であるならば、すでにほとんど長の止まっていたはずの沙彌佳にどうしてそれが可能であったのか、ずっと疑問だった。しかし沙彌佳にではなく、沙彌佳の中に宿っていた胎児となれば話は別だ。胎児ならば、すでに生まれている子供に宿る以上にもっと大きな効果が得られても不思議ではない。ただの報を持った集合のものから、徐々に一つの生命へと変化していく過程は、ともすれば一つの小宇宙と呼ぶに等しい。

本當に皮な話ではないか。これはつまり、あの時俺と沙彌佳がを重ねていなければ、最悪あいつは死んでいたかもしれないということでもある。親とわることが罪だと人はいう。それどころか、自然界においても近親配はそれぞれの種が本能的、伝的に忌諱するという話も聞いたことがある。にも関わらず、その忌諱すべき近親相の結果にあいつの命を救ったかもしれないだなんて、これほど皮な話はない。

けれども、これで全ての疑問が解けたわけでもなかった。NEABによって異常をきたしてしまった胎児はどうなったのか。その胎児の効果がどうあれ、本來の宿主である胎児にではなく母である沙彌佳にそれが発現しているのか。この疑問にはまだ答えていない。そう疑問を投げかけようとしたとき、遠藤に変化が起こった。苦悶の聲をらす遠藤から、その苦悶が途絶えたのだ。

「遠藤」

「クキ、よく見ておくがいい。君の持つその力をな。NEABとは比べにならない、オリジナルの力がどれほどのものか」

オリジナル――武田は確かにそういった。それを問いただそうとする俺だったが、遠藤のに起き始めた変化に口から言葉が発されることはなかった。

最初の変化は、これまで痛々しく思えた撃たれた太ももからの出が完全に止まったことだ。服の上からでも良く分かる白くきめ細かい遠藤の素に、不自然にできたぽっかりと空いた。そのと周囲に、飼っている何かがき出したかのようにもこもこと気の悪い脈を繰り返しだしたのだ。脈はどんどん激しく速いものとなっていくと、ついにはを作った銃弾を押し返し始め、ついには弾丸をの外へと押し出した。

「こ、こいつは……おい武田、これは何なんだ。一何が起きようとしているんだ」

「君の持つ人並み外れた回復力の高さ、それを利用して作ったものを投與した。採取した君の製し、そこへ新たにNEAB-3と融合して作り上げたのだ。まさしく、君とマリア、そしてその子供と、君たち家族の結晶といってもいいだろう」

「そんなことを聞いてるんじゃない。遠藤はどうなるっていってるんだ」

その質問には答えず、武田は相変わらず遠藤の方を見つめたままだ。武田の方に目を向けていた俺も遠藤に再び目がいった。食い込ませていた銃弾を外へと押し出した傷口はその後も脈したまま、ピンクと赤をした筋がてらてらと濡れり、できていた傷口を徐々に小さくい合わせるかのように小さくしていったかと思うと、ついにはその傷口を完全に塞いで元のしい白いに戻していった。

「どうやら功したようだ。これで彼は助かるよ、クキ」

遠藤の様子を見つつ武田は呟く。ぽっかりと空いた一センチ大のが瞬く間に消えていったのだ。人間には、いや人間だけに限らず、この世の生は自で治癒能力を持つが、この治癒力はとてもじゃないが普通ではなかった。NEAB-3と混ぜて製したというものを投與されて、わずかに數分で深い傷が立ちどころに修復されるなど、この世のどんな生にも不可能だ。そう、この自然界に生まれたものであれば。

できるとすればそれは、確実に自然界では存在し得ないものだけだ。それはあの坂上の研究所で出會ったゴメルや、シンガポール沖で出會った怪などといった、非自然界の産でなければ絶対にできるわけがない。

しかし、今回はこれまでとはまるで勝手が違う。今までそんな異様な非現実的なことを可能としたのは、醜い化たちだからこそだったが今回は人間だ。人間のものとは思えない猛スピードで傷を治癒させたのだ。しかも、その被験者となったのが俺の顔見知りというから、気分のいいものであるはずがなかった。

傷口を治癒し終えた遠藤は、がくりと大きくうな垂れた。荒い呼吸を繰り返している様子からは、自分のに起きた異常な現象が一端は収まったように思われた。けれどまだ油斷はできそうにない。あのNEABを投與されたというのだから、このままで終わるはずがないという漠然とした考えが頭をめぐっていた。

荒い呼吸のままの遠藤の背後に控えていた男が、彼の髪を摑んで顔を上げさせる。一端は収まったようでも、まだの中を巡る暑い熱が彼をそうさせようとはさせないようだ。遠藤は髪を思い切り摑まれているというのに、為すがままで一向に虛狀態から抜け出す気配がない。

「ひとまずは功というところかな。見たかクキ、これが君の能力の一端だ。これで君の力を持ってすれば、人の持つ治癒力を大幅に増幅させることが証明された。これでNEABにとって、最高の相を持つものと出會うことができたという証明にもなった。ようやく次の段階に進める」

武田は遠藤の様子を見ても特に何かじることはなかったようで、至って冷靜にそう告げる。始めからこうした事態になることを予見していたかのようだ。

「まさか人型のまま治癒させることができるとはな、やはりオリジナルの力は凄まじい」

「オリジナルっていうのは俺の持つ力とやらのことか。それのどこが凄いっていうんだ」

「これまで、NEABを使ってそのままの姿を保てた者はいなかったということだ。君も見てきただろう? 坂上の研究所で、シンガポール沖の海底で、あるいはツングースカの地下にもいたか」

「おまえ、なんでそんなことまで」

武田が最後に口走ったことに疑問を思った俺は、訝しみながらそういった。ゴメルやシンガポール沖の話は分からないでもない。だがしかし、ツングースカでのことはまだ誰も知らないはずだ。あの魔と、いやそもそもレオンの奴とこの男は顔見知りだから知らないはずもないかもしれない。それでも、俺があそこでそれを見たというのをなぜこの男は知っているというのだ。

「いったはずだ。私は君の行を把握しているさ。そんなことよりも、あれらを見たことがあるなら話は早い。あれらは全て元を正せば人間なのだ。NEABによって姿かたちを変えているが」

「ちょっと待てよ。あのゴメルも元は人間だっていうのか。あれは……類人猿の仲間じゃなかったのか」

「ほう。君はあれをゴリラか何かのれの果てだと思ったのか」

今更なにを言っているんだといわんばかりに、武田は無表にこちらを向いた。そこからは、あのゴメルが紛れもなく人間であったことを示唆していることがれるかのようなほどの覚で読み取ることができる。俺に瀕死の重傷を負わせた怪が、まさか人間だったなんて考えたこともない。てっきりゴリラか何かのれの果てだとばかり思っていた。

となれば、坂上の研究所地下で見つけた異様なあの生たちもまたそうということだろうか。いや、話を聞く限りでは真実は推して知るべしというべきか。なぜあんな奇妙な姿かたちになったのか、あまりにも悍ましい想像が俺の頭を支配する。あの異形の者たち全てが元は人間だったなんてあまりに考えたくないことだった。

そんな俺の考えやが現れていたのだろうか、武田はそれを見越していたように語りだした。

「坂上が何の研究をしていたのか、それを今更いう必要はないだろう。だが、あの男はただの一度として人間以外を実験の対象としたことはない。この點、君があの男を嫌悪していたのは分からないこともない。ただ君が思い違いをしているのは、あの異形の者たちは全て人間と別の種を融合させた結果なのだ。

ある者は虎と融合させられ、ある者は狼、またある者は鷲や鷹といった猛禽類といった合に。あの男は思いつく限り、ありとあらゆる生と人間を組み合わせ実験を繰り返してきた。その結果生まれたのがあの研究所地下にいた生たちだ。彼の研究は、採取したNEABを使って他の生と生を組み合わせて別の種に作り変えることだった。

もちろん、それは過程に過ぎない。あくまで最終的な目標は人間が全く違う、別の人間という種にするということだ。別の種というのは、人間の姿かたちをしているが全く違う者……そう、特異な質、あるいは能力を持つ人間たちのことだ。この過程の先には君も知っての通り、不老不死というのが最終的な目標だったが。

あの男はそのためなら何でもした。その偉大なる果のためなら、はもちろん、子供だろうと全てを実験対象にした。そこであの男は偶然にも、ある男から二つのを手にれた。一つはイギリスにいたライアン・トーマスから借りけたNEAB、そしてもう一つがそのNEABを保存するのに最も適した人間の子供だ。それはある一人の男から仕れていた」

凰館のオーナーだった伊達総一朗だろう。坂上の野郎は、伊達の行っていた人売買のルートを使って大量に子供を囲っていたからな」

武田に言われるまでもなくそう継ぎ足した。島津製薬の行う臨床実験のため、それを隠れ蓑にするために作られたのが伊達総一朗という男が運営する凰館と呼ばれる會員制の高級クラブだ。伊達総一朗はそれまでしがないサラリーマンなどをしていたが、何の縁があってかそんな如何わしいクラブのオーナーを任されることになった。

隠れ蓑に作られたとはいうが、実態は事実上完全に坂上の実験のために建てられたものだといっても過言ではない。あそこに流された子供たちは皆、殘酷なショーの見世にされた挙句に衰弱死あるいは暴力の末に殺されてしまうかのどちらかで、殘りの者は全員が坂上の研究所に流されるという、どちらに転んでも救われない結果が待っていた。幸か不幸か、沙彌佳があそこに連行された結果、俺が乗り込んで凰館はもちろん、伊達とその配下の男たち全員を壊滅してやったのはまだ記憶に新しい。

「そうだ。こうしてやってきた子供の中にマリアがいたのだ。あの男はこの発見に、人類の新しい歴史の一ページになるに違いないと踏んでEVEなどと呼んだようだ。マリア、あるいはEVEと呼ばれたにもNEABが投與されたが、彼はこれまでの被検と違ってNEABの強い特に耐え抜き、生きながらえることができた。

この発見に驚いたあの男は、彼からなどの伝子サンプルを採取し、それを製することで進化したNEABを第二世代、NEAB-2と名付けた。そこであの男は気づいたのだ。これまでの被検だった子供たちよりも年長だった彼が何故生きながらえたのかを。効果は彼にではなく、腹の中の胎児に影響していたから彼は助かったということだ。

だからこそ、あの男は何度もNEABをマリアに投與した。もちろん、母にもどのように影響が出るかなども。結果はすでに見ただろう。長くNEABをに保持し続けると、人の持つ力を飛躍的に上げることができるようになる」

それは研究所で見つけた坂上の手記にも書かれていたのを思い起こしていた。あの野郎がなぜ沙彌佳に過度な運をさせていたのか、その意味がようやく理解できた。おそらく、そうなる過程で明らかにその前兆になるようなことが沙彌佳のに起きていたに違いない。こうして元々高かった沙彌佳の能力は、さらに高まったということだろう。

能力の向上ってのはまぁ分からんでもない。もっとも、俺の見た沙彌佳はそんなものが生易しいくらいのことをやってのけたぜ。催眠なんてのもあれば、呼吸ができなくなるくらい周囲の溫度をあげたり、あるいはどういう理屈か數千メートルも上空からパラシュートもなしにダイブして生き殘れることができたりとかだ。これもNEABのおかげだっていうんだな」

まくし立てた俺に、武田は短く首を振った。

「半分は正解、というところかな。そこに君の持っていた力と大いに関係がある。NEABそのものはマリアの中の胎児に憑依し、結果彼にも先述の効果をもたらした。細胞分裂の際に生み出される膨大なエネルギーを利用してNEABは細胞に取り込んでいくが、胎児はこの際にこの未知の質に取り込まれた形で融解し、母に程よく中和してマリアを死から防いだと考えていいだろう。

だが、中和できるだけのものが彼の中にあったわけではない。彼には君からの伝子をけ取ったからこそ、それが可能になったといえる。今彼が示した、驚異的な回復能力、これがマリアので起こっているのだ。NEABの元の細胞を変質させようとする作用に、その急激な変質作用を食い止める役割を持った君の治癒力。この二つがあったからこそマリアは特別になった。

それらが極めて巧に純度の高い狀態にまでで高められた時、彼で一つの変化が起きた。彼の特異な力の數々はその現れだといっていい。そう、マリアは瞬時に伝子レベルで自を変質させることができるということさ。しかも、それをコントロールするにつけている。

通常の人では、これほどまでの発的な細胞の変化に耐えられるはずはない。それこそ、その人の持つ許容量を超えた場合どうなるかはもう理解できるだろう。もう一つ幸いなことがあったとすれば、彼が君とのつながりを持っていたことが大きいかもしれない。これは推測でしかないが、君と同じを持つ彼だからこそそうした急激な変化に耐えうることができたのかもしれん」

伝子レベルで変質させることができるだって? あの沙彌佳が? 俺は眉をひそめながら黙って男の言葉に耳を傾けていた。沙彌佳という人間の存在自がどこか人並み外れたものにじるようになったのは、それが原因だったということだろうか。武田の語ったことを全て鵜呑みするのはいけないと思いつつも、半ばそれをれている自分がいるのだ。そうでなければ、普通であった沙彌佳があんなことができるようになるはずがないからだった。

思えば沙彌佳はそう頷けるだけのことを実証してきたが、それがまさか伝子を、それも自分の意思で変えるなどできるというのは突飛しすぎだと思えないこともない。けれども、やはりそんな理由でもなければ俺の見てきたことへの説明にはならなかった。

「だが、一つ問題がある。これは君の力というには限らず、この世のほとんどのことに言えることだが、オリジナルというものはどうしてもそれ単一だけではあまりに効力が強すぎて、思うように効果を上げることができないというのが常なのだ。その効果を維持し、それでいてきちんと発揮できる環境になっていなければならない。

正しくマリアは、NEABと共存するために必要だった君の伝子を保持し、最高の環境を持ったとなったことになる。次の段階に進めるため、マリア以外にこれが適応されるかを実験しなくてはならなかったというわけさ。その実験は今終了したがね」

武田のいう実験とは遠藤に施したものを試すという意味だ。その遠藤は未だ力しきったまま、うな垂れている。荒かった呼吸が収まっているのを見ると、奇しくも実験は功したということだろう。

「遠藤はどうなる」

「彼にマリアのような力が顕現するか試す。安心するといい、別に殺そうというわけではない」

「貴重なサンプルだからか」

「そういうことだ。いくら彼の治癒力が飛躍的に上がっていようとも、マリアのような力が目覚めるとは限らない。それこそ、私が君を狙う一番の理由といってもいいだろう。

君の力が人の持つ力を飛躍的に高める効果があることはすでに告げた通りだ。しかし、授かった君の力を維持し高めるには誰でもいいというわけではなく、宿主となった人間の持つ的な相が必要になる。噛み砕いて言えば、輸のよなものさ。君の力を授かろうとも、それを維持し続けるだけのものがなければが拒絶反応を起こす。

あるいは臓移植と同じともいえる。全く違う人間から違う人間へとの一部を譲渡するというのは、それだけ危険が伴う。その危険度は互いの持つ伝子が近ければ近いほど、限りなくゼロに近づいていく。クローン技も目指すところはこういった意味合いが強いだろう。あれも自の臓移植をしやすくするためには非常に有効な手段だ。

だが人間のクローンというのは非常に難しい。技的にも論理的にもだ。こうした意味合い以外にも、クローン技は制約も多すぎるのもデメリットだ。同じ人間から作られたということは、同じ細胞、同じ伝子を持つということだ。オリジナルにとって拒絶反応がなくなるとはいえ、ウィルスや伝的な病である癌などの本的な解決に至るわけではないのだ。萬能細胞の効果はこうした反応を覆すことができる可能めているが、それもやはり完璧とはいえない。

人類は、さらに一歩を踏み出し完璧に近づかなければならないのだ。種というのは、例え種の絶滅の危険に陥っても、その環境下でも生き抜かなければならない。絶滅しそうになった時、種というのはその環境下に応じた変化を起こす。でなければ、種が絶滅してしまうからだ。

それが生の進化である。しかし、人類は殘念ながらもう隨分と進化の過程が止まってしまっているのだ。いや、それどころか退化してしまっているといってもいいだろう。人類は、いや人類の持つ伝子は強力な個、すなわち完璧な人類を生み出すために無意識に多くの配を、無自覚に行ってきた。かつての完璧な人類を目指すために、戻るために進化してきたのにそれが止まってしまった結果退化しているのだ。

一なるものへと戻るには、あまりに時間がかかりすぎた。そして失ってしまった。だからこそ、私は大いなるものへと戻り近づくためににこの計畫を立てた。そこで私は完璧な人間を作るためには、それに相応しいだけの母が必要になると考えた。完璧に近づくには、やはり完璧に近い者が必要なのだ」

「まるで伽噺だな。人間の進化だの退化だのと……そんなのあまりに驕った話だろうぜ。人間なんてものは、良くも悪くも人間さ。どうしようもなく狡賢く、生きてるだけで橫柄なのが人間というものだ。それを上からものを見て、自分が全ての頂點に立っていると勘違いした種が人間というだけの話だろう。

だがあんたの話を聞いてると、それどころかまるで自分自が完璧だと言わんばかりの言いだ。あんたが完璧だって? そんなのは自分が救世主だとかヒーローだとか自分で吹聴するような勘違い野郎と同じじゃないか。それに完璧になるために相応しい母が必要? つまり、沙彌佳を自分の連合いに選んだってわけだ。

だがな、それは々無理というものだ。仮に、仮にだぜ? たとえあんたが他の人間とは違って特別製だとしよう。だとしても、俺にとってあんたが敵だという認識が変わることはないんだ。つまり、沙彌佳とあんたが一緒になることは永遠にないってことになる。殘念だったな」

この男のいっていることはもはや妄言といっても良かった。妄言が過ぎる男に、俺は半ば呆れるようにまくし立てた。自分に酔い、言い方こそだが他者を蔑むその言には、どうにもれられるようなものではなかった。しかも、ただの酔狂者ではなく理的に自覚しているというのがより質が悪い。俺はそんな妄言に取り憑かれた男を蔑むように続ける。

「まぁいい。そんな完璧だって男がなんだって俺みたいな、ちょいと変わった一面があるらしい男を狙う理由はなんだ。これまでのところ、あんたの話に俺を狙う理由そのものはあるように思えない。実験にでもしたいという意図が見え隠れしてるってだけでな」

「そう、私にとってそんな力を持った者がいてもらっては困るのだ。どういうわけか人類というものは、いつの世にもとりわけ不可思議な力を兼ね備えた人間というのが現れる。それらの多くは無自覚で、自分にとって當たり前であるが故にその力が磨かれる前に一生を終える。だが、ある者はなんらかの出來事がきっかけでそれに目覚めることがあるのだ。大抵の場合、自の命の危険に曬された時、それが最も大きく目覚めやすくなるとされる。

君の場合、その最も典型的なタイプだといえる。これまで何度も命のやり取りをし、修羅場をくぐってきた君にはもはやその素質は十分に示されている。だが十分にそれが目覚めきってもらっては困るのだ。目覚めた者は時に人類の救罪者になることもあれば、あるいは人類の存続にも関わる脅威となることもある。

よって、君の力が目覚めきっては困るので、目覚めきる前にその芽を摘むことでしか対処法がない。だから私は君を何度も窮地に追いやった。だが……」

「窮地に追いやられようともこの通りってわけだ。なるほどな、あんたが俺のことが気にらない理由ってのが一応理解できたよ。この際、その妄想のような思い込みも理由としてけ止めてやるさ。俺の背中を撃ったのも、あのロンドンでの倉庫のことも、あるいはシンガポールに追いやったのだって何重にも仕掛けを張っておいたってことも今となっちゃぁ理解できる話だ。

だがな、だとしたらなんだって俺が警察に捕まった時助けたりしたんだ。あの時の俺はテロリストって扱いだった。放っておけばそれこそ死刑になっていてもおかしくなかったはずだ。それだけじゃない。俺を始末しようと見せながら、あんたはどういうわけか矛盾した行を取ってる。

それにあんたが俺を狙う理由が語った通りとしよう。なら俺の力とやらを始めから目覚めさせないほうが、より安全に事が進めたはずじゃないか。だってのにあんたは俺の力を目覚めさせようとしたってのは、どう考えたっておかしな行だろう」

俺がそういうと、奴はしだけ考えるような素振りを見せた。その仕草からは、どう言うべきなのか、考えあぐねているようなじだった。

「……反質論。これに盡きるかもしれない」

「なに?」

「殘念ながら、質問の直接的な回答にはならないかもしれないが。あえていうならば、反質論といえるだろう」

妙なことを口走りだした武田に、俺は眉をひそめて反問した。反質論とは確か、中子クォークを持つ質が存在するこの世の中において、なぜ反中子クォークを持つ反質が存在しないのかというのを定義するためのものではなかったろうか。そこまで學のある俺ではないが、なんとなくそんなようなものだったとうろ覚えながら、記憶の底にそんな言葉が思い浮かんで消えた。

「私がなら君は。私たちは表裏一の存在なのかもしれない。こればかりはまだ私も確信が持てないので、推測でしかないが。全く正反対の二人は互いに反発し合い、それでいながら我々は互いを意識せざるを得ない関係だ。常に表裏一の関係といってもいいだろう。

この宇宙に存在するものは全て質によって構されている。にも関わらず、反質というものが同時に存在するのだ。しかし、反質と質の量は同等というわけではない。ほんの僅かにだが、質の方が反質よりも多いといえるだろう。それは今この世界が存在していることが証明している。

ならば、反質の存在とは何なのか。単なる質の両極ならば、それは無きに等しい。だが確かに存在する反質の存在意義とは何なのか。私は考える。質と反質が互いに衝突し合い、互いが打ち消し合うことで僅かに多い質に生まれ変わっているのではないのかと。反質とぶつかり合って殘った質は新たな質に生まれ変わり、それがこの世界を構すべく構築されるためのものに生まれ変わったのではないか、とな。

だとするなら私と君という、まるで正反対の存在同士が邂逅するのも必然であり、運命であるといっても過言ではないだろう。そして運命という以上、私と君は互いに打ち消し合うべき存在ということだ。質が反質と衝突し殘った質が新たに生まれ変わるならば、私と君のどちらかが死ぬことにより、何らかの変化が起こるはずだ。完璧に近い私にとって、それこそ最後の行程といってもいい。

そのために、この舞臺を用意した。地下から無盡蔵に湧いてくるこのエネルギーに満たされたこの場こそ、それに相応しい場所もあるまいよ。

である私の存在を確かなものにするには、それに限りなく近いだけのの存在が必要になる。そうでなければ、質と反質がぶつかり合い新たな質に生まれ変わることができない。私はそう確信したからだ」

「全く言いたい意味がわからんね。あんたの話は理論的であるようで、哲學的なじがするぜ。一つだけ言えることは、あんたと俺はやはり敵同士ってことだけだ。どこまで行っても平行線でしかない、それだけは間違いない」

突然、反質だとか抜かすこの男の神も中々にどうかしているようだが、反りが合わないという點では間違いないだろう。俺は言い捨てる。

「構わん。すぐに分かってもらおうとも思っていないのでな。だが、ここで私が一つ見せて上げようと思ってな」

「何をだ」

「君の力の一端が分かったところで、私の力を見せてやろうというのだ。すでに君も知ってるだろうが、私はほんのしだが他人の知覚意識を変えることができる。もっとも、それはほんの一端に過ぎない。私が君とは正反対だといったのは決して比喩ではない。君が他者の治癒力を激的に増幅させ高めるのならば私はその逆、他者の治癒力を、免疫力を無効化する」

武田の突然の告白に俺は訝しんで目を細めた。免疫力の無効化とは一どういうことだ。もちろんこの男が今更冗談を言っているわけでもないのは理解できるので、言葉の通りならば他人の免疫力を低下させ、病気などを引き起こさせるということだろう。だが、それをすぐにできるというのか。

「遠藤、といったか。彼にはもうし付き合ってもらおう」

そういうと武田は不意にうな垂れ遅緩させた表を見せる遠藤の髪を摑んで顔を上げさせると、今度は自の腰に差しているナイフを手に取りその刃を彼の頬にひたりと押し付けた。俺の制止の聲が発されるよりも前に、武田はそのナイフを引いて遠藤の顔を傷つける。その貌に一筋の赤い線がり、そこからはほんのわずかに遅れて鮮が溢れてくる。

遠藤は自の顔に突然走った痛みに、発狂したかのようにび聲を上げた。予期せぬことだっただけあって、彼じる痛みは想像以上に違いない。だくだくと溢れる鮮は、思いの他傷口が深いことを意味しており、もしかしたら口手前の所にまで刃が食い込んでいたのかもしれない。

「まだ君の力の効果があるはずだ」

め、固く閉じる瞼からうっすらと涙が流れるのが見えた。その遠藤のことなど全く気にかける様子もなく、冷たく事務的に言い放ちこちらを流し見る。

「見るがいい。君の力の効果が現れたぞ」

遠藤の顔に大きくった刃傷から流れ出ていたはすぐに止まり、次第にが固まりだすとあっと言う間に瘡蓋かさぶたへと変わり、それがぽろぽろと剝がれ落ちていった。瘡蓋が剝がれ落ちた後は、一生モノになっていてもおかしくないほどの大きな傷口の痕はまるで消えてなくなっていた。

どうやら、NEABと共に注された俺のの持つ効果が強く作用しているようだった。まさか、そんなにも力があるのかと目を疑ったがそれは、確かに目の前で起きたことだった。

さらに武田は遠藤ののあちこちをナイフで突き刺し、あるいは切り傷をつけてはその効果を確かめる。いや、それは俺に向けられたものであるに違いなかった。まだにわかに信じがたい俺に、それを認識させるために何度も何度も彼を傷付けているのだ。

「やめろ。もう十分だろう」

発的に治癒力を高められているため傷つけられてもすぐに傷を治癒させてしまうため、傷つけられるたびに絶をあげ続ける遠藤の聲は次第に痛みに大きくを仰け反らせるだけで聲なき絶へと変わっていっていた。その姿に居た堪れなくなった俺は、怒聲を上げながら武田をやめさせる。その制止の聲にも武田はやはり無言でこちらをちらりと見ただけで、ナイフをる手を止めることはなかった。

「武田やめろ、やめろ」

いつしか、俺はぎりぎりと痛くなるくらいに歯を食いしばって怒聲を上げていた。必死の抵抗に俺を押さえている男たちの摑む手に力がこれでもかといわんばかりに込められている。治癒を完了させた後も遠藤の力がすぐに回復されるわけではないのだろう、彼はもはや蟲の息という狀態であった。このままではショック死してしまいかねない……そう脳裏に考えが浮かぶと同時に、武田の殘な行為がようやく終わりを告げた。

「これくらいでいいだろう。十分に君も自の力のことが理解できたと思う」

「武田、お前は……お前だけは絶対に許さない」

「許してもらわなくても結構だ。次は私の力を見せてやる」

そういって武田は顎を使って、控えていた男に指示した。するとその男は、持っていたケースからもう一つの裝填銃を取り出して武田に手渡す。

「これは私の製したものとNEABを混ぜたものだ。これを彼に投與する」

有無を言わせず、武田は自とNEABとが混じり合い製されたというそれが裝填された銃の針を、先ほどと同じように遠藤の首筋に當て銃の引き金を引いた。

「く……あぁ……」

再びモルモットにされる遠藤に同が否応なく押し寄せてくる。免疫力を無効化するということは即ち、その者の持つ防衛システムを崩壊させるという意味にほかならない。ならば、まさかこの男はそうすることで遠藤を切り刻み、始末しようというのか……瞬時にそう思った俺は再び怒りを込めて武田の名を張り上げていた。

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